第56話 今度は、私が招きたい
日曜日の夜、彩花は自室の机に向かいながら、開いたノートとスマートフォンを交互に見ていた。
九条家から帰ってきてしばらく経っているのに、今日見たものが次々と思い出される。駅から九条家へ続く道も、想像していた以上に大きかった家も、悠真の家族と囲んだテーブルも、壁際に並んだ家族写真も、本人が前日に整えたらしい本棚も、幼い頃の写真が収められたアルバムも、庭を歩きながら何度もこちらを振り返っていたハクも、どれもまだ記憶の中で新しかった。
けれど、一番強く残っているものを一つだけ選ぶなら、豪華な家でも広い庭でもない。
悠真があの家の中で見せていた表情だった。
(家にいる悠真君、やっぱりちょっと違ったな)
図書館では穏やかで、桜華では周囲から頼られていて、二人でいるときには時々驚くほど素直なことを言う。そのどれも悠真なのだが、家では琴葉にからかわれて言葉に詰まったり、ハクばかり褒める彩花へ少しだけ不満そうな顔をしたりしていた。
特に、幼い頃の写真を見ながら今の悠真を「格好いい」と言ったときの反応は、思い返すだけで少し恥ずかしい。
「……何で私、普通に言ったんだろ」
机へ頬杖をつきながら小さく呟くと、言った瞬間の悠真の顔まで鮮明に浮かんできた。いつも自分を照れさせるようなことを自然に言うくせに、あのときは本人の方が黙り込み、耳まで少し赤くしていた。
その様子がおかしくて笑ったはずなのに、今になって自分まで頬が熱くなる。
(でも、嘘じゃないし)
可愛いという言葉とは違うと思ったから、そう答えただけだった。
以前の彩花なら、たとえそう思っても本人へ言わなかったかもしれない。相手がどう受け取るかを考え、自分なんかが言っていいのかと余計なところまで考えて、結局は曖昧に笑って終わらせていただろう。
今は少し違う。
嬉しいなら嬉しいと言う。会いたいなら会いたいと言う。格好いいと思ったなら、恥ずかしくてもそう答えられる。
その変化を、自分でも悪くないと思えるようになっていた。
スマートフォンの画面には、少し前に悠真から送られてきたハクの写真が残っている。彩花はもう一度それを開き、大きな白い身体が床へ伏せている姿を眺めた。
「可愛い……」
思わず漏れた声に自分で笑ってしまう。
今日だけで何度言ったか分からない。それを悠真が妙に気にしていたことまで思い出し、また笑みが深くなった。
すると、廊下から足音が近づき、軽く扉が叩かれた。
「彩花、入っていい?」
「いいよ」
返事をすると、凛花が扉を開けて顔を覗かせた。
部屋着姿の姉は、彩花の机に置かれたノートとスマートフォンへ一度だけ目を向けたものの、勝手に画面を覗き込むことはしなかった。
「九条君の家、どうだった?」
「楽しかったよ」
「それは帰ってきた顔で分かった」
「そんなに?」
「玄関入ったときから機嫌よかったから」
凛花はベッドの端へ腰を下ろし、少しだけ口元を緩める。妹が出かける前は多少緊張していたことも知っていたので、楽しそうに帰ってきた時点で心配はほとんど消えていた。
「九条家の皆さんにも会ったの?」
「うん。琴葉ちゃんはもちろんだけど、お母さんとお父さんにも会ったし、お祖父さんとも話したよ。お祖父さんは前に図書館で会ってるけどね」
「そうだったわね」
「みんな優しかった。最初はすごく緊張したけど、途中から普通に話せたよ」
彩花はそこで少し考え、九条家の外観を思い出して苦笑した。
「家は全然普通じゃなかったけど」
「大きかった?」
「大きかった。悠真君、家の中は普通って言ってたんだけど、門のところで信用しちゃ駄目だと思った」
「九条君にとっては普通なんでしょうね」
「たぶんね。でも中に入ったら、言いたいことはちょっと分かったよ」
家そのものは水瀬家と比べれば明らかに違う。それでも家族が集まってお茶を飲み、兄妹が軽口を交わし、飼い犬が人の足元で眠る空気まで特別というわけではなかった。
彩花がそれを話すと、凛花は静かに頷いた。
「九条君は家でも九条君だった?」
「それがね、ちょっと違った」
「違う?」
「琴葉ちゃんに結構からかわれてた」
思い出しただけで笑いが込み上げる。
「昨日、本棚まで整えてたらしいよ。私が来るから」
「……九条君が?」
「うん。本人は少しだけって言ってたけど、琴葉ちゃんにばらされてた」
凛花は少しだけ目を細めた。
桜華で見る九条悠真は、年齢の割に落ち着いている。生徒会の仕事でも慌てることが少なく、必要なことを先に考えて動くタイプだという印象が強い。
そんな少年が、妹が遊びに来る前日に自室の本棚を整えていた。
(彩花が来るから、か)
文化祭でも、彼は彩花のために案内の時間を確保し、見せたい場所まで考えていた。そこへ今回の話を重ねれば、妹を特別に扱っていることはもう疑う余地がない。
ただし、凛花はそれを恋愛だと決めつけるつもりはなかった。
彩花自身が今の関係を楽しんでいる。そのことの方が、姉としては大切だった。
「ハクにも会ったんでしょ?」
「会った!」
彩花の声が一段明るくなる。
「すごかったよ。写真より大きいのに、毛が本当にふわふわで、最初に手の匂い嗅いでくれて、そのあとずっと近くにいてくれたの。庭でも案内するみたいに先に歩いて、途中で何回も振り返って――」
「彩花」
「何?」
「九条君の家の話より勢いあるわよ」
「……だってハク可愛かったから」
「九条君、かわいそう」
「本人にも似たようなこと言われた」
「言われたの?」
凛花が珍しく声を立てて笑う。
彩花は少し不満そうに唇を尖らせた。
「何かね、俺よりハクの方が褒められてるって気にしてた」
「本当に?」
「ちょっとだけって言ってた。だから私、悠真君も楽しいよってちゃんと言ったよ」
その言葉を聞き、凛花の笑みがわずかに変わった。
「そう」
「何?」
「別に」
「今、何か思ったでしょ」
「彩花が楽しそうでよかったと思っただけ」
「それならいいけど」
彩花は完全には納得していない顔をしたが、追及はしなかった。
代わりにスマートフォンを手に取り、悠真から送られてきたハクの写真を凛花へ見せる。
「見て。帰ったあとも玄関の方見てたんだって」
「本当に大きいわね」
「でしょ? でも大人しいの。今度また来てって言ってもらったから、そのときも会える」
「もう次の話してるのね」
「うん」
彩花は自然に答えた。
「また行きたいって言ったよ」
そこには遠慮も、自分が再び訪ねていいのかという過剰な迷いもなかった。
凛花はその変化を感じ取ったものの、言葉にはしない。ただ、少し前まで誰かに大切にされるたびに理由を探していた妹が、今は「また行きたい」と自分の望みを口にしていることが嬉しかった。
「今度はクッキー作るのも教えるんだ」
「九条君に?」
「うん。今日持っていった紅茶のクッキーを気に入ってくれて、作ってみたいって」
「九条君がお菓子作り……」
「想像できないでしょ?」
「できないことはないけど、エプロン姿は少し見てみたいわね」
「お姉ちゃんまで面白がらないでよ」
二人で笑ったあと、彩花は少しだけ間を置いた。
今日の出来事を話しているうちに、ずっと胸の隅にあったものが形になり始めていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「今度、悠真君がうちに来てもいいかな」
凛花はすぐには答えなかった。
驚いたからではない。むしろ、いつか彩花自身からそう言い出すのではないかと思っていた。
「私はいいわよ。お父さんとお母さんにも聞かないと駄目だけど」
「うん。それは分かってる」
「九条君にもう言ったの?」
「まだ」
彩花は膝の上で指を組む。
「今日、悠真君の家を見せてもらったから。今度は私の家も見てもらってもいいかなって思って」
川沿いを案内したときにも、自分が昔から知っている場所を悠真へ見せた。それでも家は、また少し違う。
自分が毎日暮らしている場所。
家族と食事をして、本を読み、文章を書き、姉と話す場所。
今日の彩花が悠真の家を見て、彼を少し知れたと感じたように、自分も同じものを返したいと思った。
「写真も見たいって言ってたし」
「写真?」
「今日、悠真君の小さい頃のアルバム見せてもらったの。だから今度は私のも見たいって」
「なるほど」
凛花の声が少しだけ楽しそうになる。
彩花はすぐに警戒した。
「変な写真出さないでよ」
「変な写真なんてないわよ」
「絶対ある」
「可愛い写真ならたくさんあるけど」
「それを勝手に選ばないでって言ってるの」
「九条君が見たいって言ったんでしょう?」
「だからって、お姉ちゃんが選ぶ必要ないでしょ」
「私の方が彩花のいい写真を知ってるもの」
「嫌な予感しかしない」
姉の表情を見ながら、彩花は早くも後悔しかけた。
それでも、悠真に見せたくないとは思わなかった。
姉と並んで写っている写真もある。
昔の彩花なら、そこに抵抗があっただろう。何でもできる姉の隣にいる自分を見れば、悠真まで比べるのではないかと、頭では否定しながらも心のどこかで怖がったかもしれない。
今は、その不安が完全になくなったわけではない。
けれど、悠真なら凛花と自分を並べて評価するような見方はしないと知っている。
(悠真君なら、私を見てくれる)
そう思えるようになったことが、自分の中では何より大きかった。
「とりあえず、お母さんたちに聞いてみる」
「そうしなさい。たぶん喜ぶと思うけど」
「何で?」
「彩花が友達を家に呼びたいって自分から言うの、珍しいから」
凛花の声にはからかいがなかった。
彩花は少しだけ目を伏せる。
「……そうかも」
「九条君だから?」
静かな問いだった。
以前なら、その言葉だけで必要以上に構えたかもしれない。
今の彩花は少し考え、それから頷いた。
「うん。悠真君だから、見てもらってもいいかなって思った」
凛花はそれ以上尋ねなかった。
「じゃあ、お母さんたちに相談してみましょう」
「うん」
◇
その頃、九条家では、悠真が自室の本棚の前に立っていた。
彩花が帰ったあと、部屋の中は当然ながら何も変わっていない。けれど、昼間に彩花が立っていた場所へ目を向けると、そこにいたときの姿を自然と思い出した。
彩花が最初に目を留めたのは本棚だった。
その中から、以前貸した冒険小説をすぐに見つけた。
『ここに戻ったんだね』
そう言った彩花の声まで思い出せる。
悠真は本棚からその一冊を取り出すことなく、背表紙を指先で軽くなぞった。
(確かに、前とは少し違うな)
俊治からもらった大切な本であることは変わらない。
そこへ、彩花に貸したという記憶が加わった。
彼女がどこを面白いと思ったのか、どの場面について長く話したのかまで覚えている。物語の内容だけではなく、その本を通して交わした会話まで含めて一冊の記憶になっていた。
「兄様」
開いたままにしていたドアから琴葉が声をかけた。
「まだ起きていたのですか?」
「うん。琴葉も?」
「本を返しに来ただけです」
琴葉は手にしていた一冊を悠真へ差し出した。以前借りていたものらしく、悠真は受け取って本棚の空いている場所へ戻す。
「彩花さんから連絡はありましたか?」
「家に着いたって」
「そうですか」
「ハクの写真も送った」
「兄様から?」
「うん」
琴葉は少しだけ笑った。
「彩花さん、喜ばれたでしょう」
「最初に『可愛い』って返ってきた」
「それはハクの写真なのですから当然では?」
「分かってるけど」
悠真がわずかに不満そうな顔をするので、琴葉は昼間の光景を思い出した。
「まだ張り合っているのですか?」
「もう張り合ってないよ」
「では、そのお顔は何でしょう」
「別に」
否定しながらも説得力がない。
琴葉は追及せず、本棚へ視線を向けた。
「彩花さん、兄様のお部屋をずいぶん楽しそうに見ていらっしゃいましたね」
「うん」
「兄様も嬉しそうでした」
「そう?」
「はい」
悠真は少し考え、机のそばの椅子へ腰を下ろした。
「自分の部屋見せるだけなのに、思ってたより楽しかった」
「なぜでしょうね」
「琴葉、分かってて聞いてる?」
「兄様がどう考えているかは、兄様にしか分かりませんから」
「そうだけど」
悠真は本棚へもう一度目を向ける。
「彩花さんが本を見て、これ知ってるとか、これ気になるとか言ってるのが楽しかった。アルバム見せるのも、最初は少し恥ずかしかったけど、見せてよかったと思う」
「それは何よりです」
「今度は彩花さんの小さい頃の写真も見せてもらえるかもしれない」
「そこまでお話しされたのですね」
「うん。彩花さんが『今度ね』って」
そのときの悠真の声がわずかに弾んでいたので、琴葉は何も言わずに微笑んだ。
兄は以前から彩花のことをよく見ていた。
けれど最近は、「知りたい」と思うことを隠さなくなっている。それは恋愛感情を自覚したという意味ではないのだろうが、少なくとも彩花が他の友人とは違うことを、本人自身がもう否定していない。
「兄様」
「何?」
「次に彩花さんがいらっしゃるときは、ハクのお土産だけではなく、兄様にも何かあるといいですね」
「琴葉まで言うの?」
「冗談です」
「今日みんな俺で遊びすぎじゃない?」
「兄様が分かりやすいからです」
「何が?」
「そこはご自分でお考えください」
琴葉はそれ以上説明せず、部屋を出ていった。
悠真は閉じられずに残ったドアを見ながら、少しだけ首を傾げる。
(分かりやすいって、何がだろう)
以前なら、その答えを必要以上に考えたかもしれない。
今は、すぐに結論を出す必要もないと思える。
彩花が家へ来てくれたことが嬉しかった。
また来たいと言ってくれたことも嬉しい。
自分も、もっと彩花のことを知りたい。
それだけは、考えるまでもなく分かっていた。
◇
翌朝、水瀬家の食卓には、いつもと同じように朝食が並んでいた。
耕助は新聞ではなくスマートフォンで天気予報を確認し、紗月は味噌汁をよそっている。凛花はすでに制服姿で座っており、彩花も自分の席についた。
昨日の九条家訪問については、帰宅したときに簡単な話だけしてある。手土産のクッキーを喜んでもらえたことや、家族に挨拶したこと、ハクがとても大きかったことは伝えていた。
彩花は味噌汁を一口飲んでから、話を切り出す機会を探した。
「お母さん」
「なあに?」
「ちょっと聞いていい?」
「いいわよ」
「今度、悠真君をうちに呼んでもいい?」
紗月の手が一瞬だけ止まった。
向かい側では耕助も顔を上げる。
凛花だけは昨夜聞いているため、平然と朝食を続けていた。
「九条君を?」
「うん。昨日、私が九条家に呼んでもらったからっていうだけじゃないんだけど……悠真君も、うちに来てもらえたらいいなって」
紗月は驚いた様子を見せたものの、すぐに柔らかく笑った。
「もちろんいいわよ」
「本当?」
「彩花の友達でしょう? 駄目な理由ないもの」
「お父さんも?」
彩花が尋ねると、耕助は少し考えてから頷いた。
「いいぞ。ただ、俺がいる日なら一応先に教えてくれ。急に知らない男の子が家にいたら驚くからな」
「お父さん、悠真君のこと知ってるでしょ」
「話は聞いてるけど、ちゃんと会ったことはほとんどないだろ」
「それはそうだけど」
「だから反対じゃない。挨拶くらいしたいだけだ」
耕助の口調は穏やかだった。
娘に男友達ができたと聞けば父親として多少思うところはある。それでも、彩花が以前より外へ出て、自分から誰かを家へ招きたいと言えるようになったことを否定する理由はなかった。
「九条君って、桜華の子だったわよね」
「うん」
「この前、彩花が文化祭へ行ったところの?」
「そう。お姉ちゃんと琴葉ちゃんもいる学校」
紗月は少し考え、何かを思い出したように彩花を見る。
「悠真君って呼ぶようになったのね」
「あ……」
彩花は一瞬だけ箸を止めた。
昨夜も家で普通に使っていたはずなのに、母から改めて言われると少しだけ意識してしまう。
「最近ね」
「そう」
紗月はそれ以上からかわなかった。
ただ、娘の表情を見て少しだけ嬉しそうに笑う。
「いつ来てもらうか決まったら教えて。お茶くらい用意するから」
「ありがとう」
「私もその日は家にいようかしら」
凛花が何気なく言う。
「何で?」
「別にいいでしょう」
「お姉ちゃん、絶対写真出すつもりでしょ」
「まだ何も言ってないけど」
「昨日言ってたじゃん」
「彩花の可愛い写真を知ってるとは言ったわね」
「やっぱり!」
姉妹のやり取りに、耕助と紗月が顔を見合わせて笑う。
彩花は恥ずかしそうにしながらも、九条家で感じたものと少し似た空気を覚えた。
家族にからかわれ、言い返し、それでも居心地が悪くない。
(悠真君が来たら、こういうところも見るのかな)
昨日、自分が九条家で見たように。
そう考えると少し緊張する一方で、それ以上に楽しみだった。
◇
学校へ着いてからも、彩花はすぐに悠真へ連絡しなかった。
授業が始まる前の教室でスマートフォンを鞄へしまい、まずは一日を過ごす。昨日のことを伝えたい気持ちはあるものの、急ぐ必要はないと思った。
昼休みになり、弁当を開いたところで大地が近くの席から声をかけてきた。
「水瀬、昨日どっか行ってた?」
「何で?」
「今日なんか機嫌よくない?」
「普通だけど」
「いや、悪いって意味じゃなくて。朝からちょっと楽しそう」
大地は深い意味なく言ったらしい。
彩花は自分ではそんなに分かりやすいだろうかと思いながら、卵焼きを一つ口へ運ぶ。
「友達の家に遊びに行ってた」
「へえ。いいじゃん」
「うん。楽しかった」
以前なら「誰の家?」と聞かれたときのことまで先回りして構えていたかもしれない。
けれど、大地はそれ以上詮索せず、自分の弁当に入っていた唐揚げへ意識を戻した。
「俺も昨日、従兄弟の家行ったけど、ゲームして終わったわ」
「それはそれで楽しそう」
「楽しかった。でも負けた」
「何しに行ったの」
「勝つために行って負けた」
あまりにも大地らしい答えに、彩花は笑った。
こういう日常の会話も心地いい。
悠真が特別だからといって、他の友達との時間が薄くなるわけではない。大地との気楽なやり取りも、文芸部で過ごす時間も、琴葉や玲奈と話すことも、凛花と姉妹で笑うことも、それぞれ違う形で大切だった。
その日の放課後、彩花は文芸部へ向かった。
部室では佐々木先輩が机へ資料を広げており、彩花が入ると軽く手を上げる。
「水瀬さん、お疲れさま」
「お疲れさまです」
「今日は書く?」
「はい。少し」
「じゃあ私はこっちやってるから、好きなところ使って」
「ありがとうございます」
彩花はいつもの席へ座り、ノートを開いた。
昨夜書いた言葉が目に入る。
『近くなるほど、知らないことは減るのではなく、知りたいことが増えていく。』
今読むと、少しだけ恥ずかしい。
それでも消そうとは思わなかった。
次に何を書くかはまだ決めていない。
冬に学校の文芸誌が出る可能性はあるが、正式に決まったわけでもない。だから今は、物語にする前の言葉を集めておけばいい。
彩花は新しいページを開く。
今日の朝、自分から家族へ悠真を呼びたいと言ったことを思い返した。
(昨日は、悠真君の家を見せてもらった)
そのことが嬉しかったから、自分も見せたいと思った。
以前の自分なら、自宅へ招くことに何を心配しただろう。
家が普通だから。
部屋が広くないから。
姉の写真があるから。
家族と比べられるかもしれないから。
いくつも理由を並べ、自分から言い出さなかったかもしれない。
けれど、悠真はそういうものを見て誰かの価値を決める人ではないと知っている。
それに、自分が九条家の広さより、家の中で笑っている悠真の方を覚えているように、悠真もきっと同じように見てくれる。
彩花はペンを動かした。
『見せてもらったから見せるのではなく、見せたいと思ったから招きたい。』
書いたところで、少し手を止める。
その違いは大きい。
借りを返すように招くのではない。
悠真に、自分が暮らしている場所を知ってほしいと思った。
「……うん」
小さく頷き、ノートを閉じる。
佐々木先輩は少し離れた席からその様子を見ていたが、何を書いたのかは尋ねなかった。以前より彩花がノートへ向かうときの表情が柔らかくなったことだけを感じ、自分の作業へ視線を戻した。
◇
文芸部を終えたあと、彩花は昇降口を出たところでスマートフォンを取り出した。
空はすでに夕方の色へ変わり始めている。校庭から運動部の声が聞こえ、冷たさを増した風が制服の袖を揺らした。
悠真へ送る文章を打つ。
『昨日のことで、ちょっと話したいことあるんだけど。』
送ってから数分もしないうちに返事が届いた。
『何?』
『今大丈夫?』
『大丈夫。今、生徒会終わって帰るところ。』
彩花は校門へ向かって歩きながら、続きを入力する。
『今日、お父さんとお母さんに聞いてみた。』
『何を?』
『今度、悠真君をうちに呼んでもいいか。』
送信したあと、なぜか自分まで緊張した。
昨日は九条家へ招いてもらったのだから、今度は自分が誘っても何も不自然ではない。それでも、画面に表示された文章を見ると、「悠真君をうちに呼ぶ」という事実が急に現実味を帯びた。
返事が少し遅い。
(忙しいのかな)
そう思った直後、メッセージが届く。
『行っていいの?』
彩花は思わず笑った。
昨日、自分も九条家の門の前で似たようなことを聞いた。
『いいから聞いたんだよ。』
『行きたい。』
ほとんど迷いのない返事だった。
彩花の足が自然に少し緩む。
『本当に?』
『うん。彩花さんが普段いる家、見てみたい。』
その文章を読んだ瞬間、昨日の自分と同じなのだと思った。
悠真も、家の大きさや珍しさを見たいわけではない。
自分が暮らしている場所だから見たいと言っている。
『うち、九条家みたいに広くないよ。』
少しだけ冗談のつもりで送る。
悠真からの返事は早かった。
『広さ見に行くわけじゃないよ。』
やはり、そう答えた。
彩花は校門を出たところで立ち止まり、画面を見ながら笑う。
『そう言うと思った。』
『じゃあ何で言ったの?』
『ちょっとだけ確認したくなったから。』
『俺は彩花さんの家だから行きたい。』
その一文に、指が止まる。
以前なら「私の家だから」という言葉をどう受け取ればいいのか迷っただろう。
今は、胸の奥が少し温かくなるだけだった。
『うん。分かった。』
そこで終えてもよかったが、彩花はもう一つ伝える。
『あと、小さい頃の写真も見せる。』
『本当?』
『ただし、お姉ちゃんが勝手に選んだ変な写真は禁止。』
『水瀬先輩が選んだのも見たい。』
『駄目。』
『一枚くらい。』
『駄目です。』
『じゃあ彩花さんが選んで。』
『それなら考える。』
メッセージを交わしながら歩いているうちに、彩花は駅へ向かう通りへ出た。
今度は悠真がこの道を歩くのだろうか。
水瀬家の玄関へ入り、リビングで家族と話し、自分の部屋を見るのかもしれない。
そこまで想像したところで、彩花は急に自室の状態を思い出した。
(……待って。私も片づけないと駄目じゃない?)
昨日、悠真が前日に本棚まで整えていたと聞いて笑った。
今なら、その気持ちが少し分かる。
別に散らかってはいない。
けれど、見せるとなれば気になる。
本棚の並び。
机の上。
文芸部のノート。
裁縫道具。
昔から持っている本。
そして、家族写真。
(私、悠真君のこと笑えないかも)
彩花は思わず足を止めそうになり、口元を押さえた。
スマートフォンがまた震える。
『日程は急がなくていいからね。』
悠真からだった。
『家の人の都合もあるだろうし。』
彩花は少し考えてから返す。
『うん。決まったら連絡する。』
『楽しみにしてる。』
その言葉を見て、彩花は昨日の悠真を思い出した。
自分が訪ねる前日に本棚を整えた少年。
あれを笑っていた自分が、今は帰ったら部屋を確認しようと思っている。
『私も。』
そう送ったあと、少し迷ってからもう一文加えた。
『でも部屋見るなら、先に言ってね。』
『昨日、俺にも同じこと言ってなかった?』
『今なら悠真君の気持ち分かる。』
『じゃあ本棚整える?』
『……ちょっとだけ。』
『同じだ。』
『笑わないで。』
『笑ってないよ。嬉しい。』
何が嬉しいのか尋ねようとして、彩花はやめた。
たぶん、自分が悠真を家へ迎えることを楽しみにしていると伝わったからだろう。
それなら、わざわざ確認しなくてもいい。
◇
数日後の昼休み、桜華学園の中庭では、文化祭の名残がほとんど消えていた。
仮設の案内板もなくなり、飾り付けが残っていた窓も元へ戻っている。普段の学校生活が戻った中で、悠真は湊と並んで昼食を取っていた。
「九条、日曜どうだった?」
湊が唐突に尋ねる。
「日曜?」
「水瀬さん来たんだろ」
悠真は箸を止めた。
「何で知ってるの?」
「お前が先週、自分で言ってた」
「ああ」
「忘れてたのかよ」
「来たことは覚えてるよ。湊に言ったの忘れてただけ」
「そっちの方がちょっとひどいな」
湊は苦笑しながら自分の弁当へ視線を戻した。
「で、どうだった?」
「楽しかった」
「感想が小学生なんだよ」
「じゃあ何て言えばいい?」
「知らんけど、もう少しあるだろ」
悠真は少し考える。
ハクと彩花が予想以上に早く仲良くなったこと。家族と普通に話していたこと。自室の本棚を楽しそうに見ていたこと。幼い頃の写真を見せたこと。
話そうと思えばいくらでも出てくる。
「ハクがすごく懐いた」
「まず犬か」
「彩花さんもハクのことすごく気に入ってた」
「九条より?」
「それ、琴葉にも言われた」
湊は吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。
「お前、犬相手に何やってんの?」
「別に何もしてないよ。ただ、彩花さんがずっとハク可愛いって言ってたから」
「へえ」
「何?」
「いや、九条がそこ気にするの珍しいなと思って」
「そう?」
「そうだろ。普段なら誰が何褒めてても気にしないじゃん」
悠真は少し考えた。
確かに、普段なら気にしない。
彩花がハクを可愛いと言うこと自体が嫌だったわけでもない。むしろ嬉しかった。それでも自分よりハクへ意識が向いていると、少しだけ気になった。
「でも最後は、俺にもまた会いたいって言ってくれたから」
湊の箸が止まった。
「……九条」
「何?」
「お前、それ普通に言うんだな」
「何が?」
「いや、もういい」
湊は何か言いかけたものの、結局やめた。
本人が今の関係を自然に受け入れているなら、わざわざ外側から名前を付ける必要もないだろう。
「それで、今度は俺が彩花さんの家に行く」
「展開早くない?」
「何が?」
「お互いの家」
「彩花さんが呼んでくれたから」
悠真の声には、隠す気のない嬉しさが混じっていた。
「小さい頃の写真も見せてくれるって」
「よかったな」
「うん」
「すげえ嬉しそう」
「楽しみだから」
悠真はあっさり認める。
湊はその横顔を見ながら、少し前までならもう少し本人が戸惑っていただろうと思った。
なぜ水瀬彩花のことだけ覚えているのか。
なぜ会えると嬉しいのか。
なぜ他の友人より時間を使いたくなるのか。
今の悠真は、そういう一つ一つへ理由を求めなくなっている。
彩花だから。
その答えで本人の中では自然に収まっているようだった。
「部屋も見るの?」
「たぶん」
「お前も見せたんだろ?」
「うん」
「じゃあ水瀬さんも片づけたりしてるんじゃない?」
「するって言ってた」
「……何か楽しそうだな、お前ら」
「楽しいよ」
また迷いのない返事が返ってくる。
湊はそれ以上何も言わず、残っていた昼食を食べ始めた。
◇
同じ日の夕方、彩花は自室の本棚の前で腕を組んでいた。
悠真を招く日はまだ決まっていない。
それなのに、気づけば本棚を眺めている。
「……別に今やらなくてもいいんだけど」
自分へ言い聞かせるように呟く。
散らかってはいない。
ただ、棚の一角には昔読んでいた児童文学や、文芸部へ入ってから増えた本、図書館で気に入って自分でも買った作品が混ざっている。
その中には、悠真へ貸したことのある大切な一冊も戻っていた。
彩花はその背表紙へ目を向ける。
昨日、悠真の部屋で彼の冒険小説を見たときと同じ感覚があった。
自分の本棚へ戻っている。
それなのに、貸す前とは少し違って見える。
(悠真君も読んだんだよね)
内容について話した時間まで一緒に思い出せる。
彩花はその本を動かさず、隣に傾いていた一冊だけをまっすぐに直した。
そのとき、開いた扉から凛花が顔を覗かせる。
「何してるの?」
「何でもない」
「本棚見てたじゃない」
「ちょっと整理しようかなって」
「九条君が来る日、決まったの?」
「まだ」
「まだなのに?」
凛花の口元が上がる。
彩花はすぐに姉を睨んだ。
「笑わないで」
「笑ってないわよ」
「顔が笑ってる」
「昨日、九条君が本棚まで整えてたって笑ってたの誰だったかしら」
「……私です」
「同じね」
「分かってるよ」
彩花は諦めたように息を吐き、本棚へ向き直った。
「でも、見せたい本とか考えると気になるの」
「見せたい本?」
「うん。悠真君、本棚見るの好きだと思うから」
「彩花も九条君の本棚を楽しそうに見てきたものね」
「そう」
凛花は妹の横へ並び、棚を眺める。
そこには彩花が小学生の頃から大切にしてきた本も、中学生の頃に買ったものも、高校へ入ってから増えたものもある。
姉である凛花にとっては、妹が過ごしてきた時間そのものにも見えた。
「写真も選ぶ?」
「それはまだ」
「私が選んであげようか?」
「絶対駄目」
「可愛いのに」
「お姉ちゃん基準は信用できない」
「九条君なら喜ぶと思うけど」
「だから余計に嫌なの」
彩花が即答したあと、自分の言葉に少しだけ引っかかった。
悠真なら喜ぶ。
それを否定しなかった。
むしろ、幼い自分の写真を見て悠真がどんな反応をするのか、少し気になっている。
凛花もその変化には気づいたが、何も言わなかった。
「じゃあ、自分で選びなさい」
「そうする」
「でも私と一緒に写ってるのも一枚くらい入れてね」
彩花の手が止まる。
以前なら、その一言だけで心が少し重くなったかもしれない。
凛花と並んだ写真。
姉の方が可愛い。
姉の方が目立つ。
そんな比較を、自分自身が誰より先に始めてしまっていた。
今も、完全に何も感じないわけではない。
それでも彩花は少し考え、ゆっくり頷いた。
「うん。いいよ」
凛花が目を瞬く。
「いいの?」
「お姉ちゃんが言ったんでしょ」
「そうだけど……」
「だって、私の小さい頃の写真って、お姉ちゃんと一緒のも多いし。それを全部避ける方が変でしょ」
彩花はそう言いながら、本棚の一冊へ指を添えた。
「それに、悠真君なら大丈夫だから」
声は静かだった。
無理に強がっている響きもない。
凛花はしばらく妹の横顔を見つめ、それから小さく笑った。
「そっか」
「うん」
それ以上の言葉は交わさなかった。
彩花自身も、今の答えが以前の自分とは違うことに気づいている。
悠真に凛花を見られることが怖くない。
姉の隣にいる自分を見られても、それで自分の価値が下がるわけではないと少しずつ思えるようになった。
何より、悠真が見たいと言ったのは「凛花の妹としての彩花」ではない。
自分がどんな子供だったのか。
自分が何を好きだったのか。
自分がどんな場所で育ったのか。
それを知りたいと言ってくれた。
(だったら、見せたい)
彩花は本棚から、悠真にも読んでもらった児童文学をそっと取り出した。
表紙を眺めていると、これを初めて読んだ頃のことを思い出す。
いつか悠真がこの部屋へ来たら、話したいことがいくつもある。
この本をどこで買ってもらったのか。
どの棚に置いていたのか。
子供の頃、どんなふうに読んでいたのか。
九条家で悠真が自分へアルバムを見せてくれたように、自分も少しずつ見せればいい。
「お姉ちゃん」
「何?」
「悠真君が来る日決まったら、教えるね」
「うん」
「でも本当に変な写真出さないでよ」
「考えておく」
「そこは約束して」
凛花が笑い、彩花もつられて笑った。
窓の外では、秋の日がゆっくり暮れ始めていた。机の上にはまだ何も書き込まれていないノートがあり、その隣には悠真とのメッセージが残るスマートフォンが置かれている。
九条家へ行く前は、自分が誰かの家へ入ることばかり考えていた。
今は、その逆を考えている。
悠真がこの部屋へ来たら、何を見るのだろう。
何を知るのだろう。
そして、自分は何を見せたいのだろう。
彩花は手の中の本を本棚へ戻し、背表紙が隣の本と揃うようにそっと整えた。
それから少しだけ可笑しくなって笑う。
(本当に、悠真君のこと笑えないな)
まだ訪問の日さえ決まっていない。
それでも、悠真を迎える準備を考えている時間まで、すでに楽しみになっていた。




