第55話 九条家へようこそ
約束の日曜日、彩花は青凪駅の改札を出たところで、スマートフォンの画面を確認した。
待ち合わせの時間までは、あと五分ほどある。
前に自分が悠真を川沿いへ案内したときと同じように、今日も少し早く着いた。もっとも、今回は案内する側ではない。これから向かうのは悠真が暮らしている九条家であり、彩花にとっては初めて足を踏み入れる場所だった。
(やっぱり緊張する……)
家を出る前から何度も思っていた。
琴葉とはすでに何度も会っているし、俊治とも中央図書館で話したことがある。悠真の両親についても本人や琴葉から聞いており、突然まったく知らない家族の中へ入っていくわけではない。
それでも、九条家へ招かれるという事実は別だった。
桜華学園の文化祭では悠真の学校生活を見た。川沿いでは、自分が昔から見てきた景色を悠真へ見せた。
そして今日は、悠真が普段暮らしている家へ行く。
知っている相手の、まだ知らない日常へ一歩入っていくような感覚がある。
彩花は肩に掛けた鞄へ一度触れた。
中には、昨日焼いたクッキーが入っている。
以前、悠真へ渡したものとは少し種類を変えた。今回は九条家の家族みんなで食べてもらえるように量も増やし、簡単な焼き菓子を二種類にしてある。
(大げさじゃないよね)
手ぶらで訪ねる方が落ち着かなかった。
だから作った。
そう自分へ言い聞かせたところで、改札から出てくる人の中に見慣れた姿を見つけた。
悠真もほぼ同時に彩花を見つける。
「彩花さん」
「悠真君。こんにちは」
「こんにちは。早いね」
「五分前だから普通だよ」
「俺が先に来るつもりだった」
「この前も言ってたね」
「今日は家に来てもらう側だから」
「じゃあ私の勝ち?」
「何の勝負か分からないけど、今日は負けた」
そんなやり取りをしているうちに、家を出るときから続いていた緊張が少しだけ薄れた。
悠真は彩花の鞄へ一瞬だけ視線を向けたものの、中身については尋ねなかった。
「じゃあ行こうか」
「うん」
「歩いて大丈夫?」
「大丈夫。どれくらい?」
「駅からなら二十分かからないくらい。急がなくていいよ」
「分かった」
二人は駅前を離れ、並んで歩き始めた。
◇
最初のうちは、彩花も知っている道だった。
中央図書館や市民交流センターへ向かうときに使う通りを途中まで進み、そこから悠真が住宅街の方へ曲がる。彩花はその道へ入ったことがほとんどなく、周囲の景色を眺めながら歩いた。
「この辺、全然来ないな」
「俺は駅まで歩くときによく通るけどね」
「桜華に行くときも?」
「普段は別の経路。駅へ寄るときはこっち」
「じゃあ、本屋とか図書館に行くときの道?」
「そう」
悠真にとっては日常の道なのだろう。
角を曲がる位置も、信号の変わる間隔も、考える様子なく進んでいく。
彩花は少し前を歩く悠真の背中を見てから、その横へ並び直した。
「何?」
「ううん。悠真君が普通に使ってる道なんだなって思って」
「そうだね。小さい頃から歩いてる」
「こういうのも面白いね」
「道が?」
「知ってる人の普段の道」
文化祭の日に感じたものと少し似ている。
いつも中央図書館で会う悠真は、彩花が知っている悠真の一面にすぎない。桜華で過ごす時間があり、家族と暮らす時間があり、その間をつなぐ道がある。
当たり前のことなのに、その当たり前を知るのが楽しい。
「彩花さん、そういうところ見るの好きだよね」
「そうかも」
「俺も好き」
「人の通学路?」
「彩花さんのなら」
「……またそういう言い方する」
「何か変だった?」
「変じゃないけど」
彩花は前を向く。
もう「どうして私だけ」と聞く必要はない。
悠真自身が、自分への興味は他の友人と少し違うと認めている。彩花も、それを嫌ではなく嬉しいと伝えた。
だから今は、ただ照れるだけだった。
「そういえば」
悠真が話題を変える。
「家に着いたら、たぶん最初にハクが来る」
「やっぱり?」
「玄関まで来ると思う。人が来ると気になるみたいだから」
「大丈夫かな」
「怖い?」
「怖くはないけど、大きいんでしょ?」
「大きい」
「写真だと、かなり大きかった」
「実物の方が大きく見えると思う」
「それ先に言う?」
「でも大人しいよ」
「悠真君、それ何回も言ってる」
「本当だから」
彩花は以前見せてもらった写真を思い出す。
白くて大きなサモエド。
悠真が家族の話をするとき、かなりの頻度で名前が出てきた。
話を聞いているうちに、いつの間にか会うことを楽しみにしていた相手でもある。
「触っても大丈夫?」
「もちろん。ハクの方から触ってほしがると思う」
「楽しみ」
「やっぱりハクが一番なんだ」
「まだ言ってるの?」
「家に来るって決まってから、ずっとハクの話してるから」
「だって会ったことないんだから楽しみでしょ」
「俺とは会ってるしね」
「そういうこと」
「納得したけど、ちょっと複雑」
悠真が冗談めかして言うので、彩花は笑った。
こうして話していると、九条家へ向かっている緊張がさらに薄れていく。
けれど、それも長くは続かなかった。
「もうすぐ着くよ」
「え?」
「次の角」
彩花の背筋が少しだけ伸びた。
「急に緊張してきた」
「大丈夫だって」
「悠真君は自分の家だからそう言えるんだよ」
「じゃあ、俺が水瀬家へ行くときは同じくらい緊張することにする」
「何で合わせるの」
「公平かなって」
「そんな公平いらないよ」
笑いながら角を曲がり、彩花は前方へ目を向けた。
そして、歩みが少しだけ遅くなった。
「……悠真君」
「何?」
「どれ?」
「正面のところ」
「……あれ?」
「うん」
彩花はもう一度、前を見る。
高い塀の向こうに、落ち着いた色合いの大きな建物が見えている。
豪華さを見せつけるような派手な外観ではない。それでも敷地の広さは周囲の住宅と明らかに違い、門から玄関までにも距離があることが分かった。
植栽は丁寧に整えられているが、庭園のように近寄りがたい雰囲気ではなく、秋らしく色づき始めた木々が穏やかな景色を作っていた。
彩花は隣の悠真を見る。
「……普通?」
「家の中は」
「外からもう普通じゃないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
本気で分かっていないらしい。
彩花は以前、自分が「悠真君の普通は信用できない」と言ったことを思い出した。
(やっぱり正しかった)
そんなことを考えているうちに門の前へ着く。
悠真が操作すると門が開き、彩花はほんの少し緊張しながら敷地へ入った。
「本当に入っていいんだよね?」
「招待したの俺なんだけど」
「分かってるけど、確認したくなるの」
「大丈夫。みんな待ってるから」
「それを言われると緊張するって」
「あ、ごめん」
悠真は本気で申し訳なさそうな顔をする。
彩花は思わず笑った。
「謝らなくていいよ」
二人で玄関へ向かう。
あと数歩というところで、家の中から低く響く音が聞こえた。
「……今の?」
「ハク」
悠真の答えとほぼ同時に、玄関の向こうから足音が近づいてくる。
大型犬らしい、しっかりとした足音だった。
彩花は思わず悠真を見る。
「もう分かったの?」
「たぶん俺の足音か匂い。あと、知らない人が一緒にいるのも気づいてるかも」
「犬ってすごい」
「ハク、賢いよ」
「また自慢してる」
「自慢だから」
悠真が玄関を開ける。
「ただいま」
その直後だった。
白い大きな影が、廊下の奥から現れた。
◇
写真で見たことはあった。
大きいとも聞いていた。
それでも実際に目の前へ現れたハクは、彩花の想像より一回り大きかった。
豊かな白い毛に包まれた身体が廊下を進み、悠真のところまで来る。勢いよく飛びつくことはなく、まず悠真の足元へ鼻先を寄せたあと、その向こうにいる彩花へ顔を向けた。
黒い瞳が、まっすぐこちらを見る。
「……大きい」
彩花が思わず漏らす。
「言ったでしょ」
「聞いてたけど、写真より大きい」
ハクは彩花を見つめたまま、尻尾をゆっくり振り始めた。
「ハク、この人が彩花さん」
悠真がそう言いながらハクの首元へ手を添える。
「前から話してた人」
「ちょっと待って」
彩花が悠真を見る。
「何?」
「ハクに私の話してたの?」
「してるよ」
「犬に?」
「ハクに」
「そこ言い直す必要ある?」
悠真は不思議そうな顔をしている。
彩花が返事に困っている間にも、ハクは少しずつ距離を縮めてきた。
「触って大丈夫?」
「うん。急に頭の上からじゃなくて、手の匂い嗅いでもらってからの方がいいかも」
「分かった」
彩花は少し屈み、手を差し出す。
ハクが鼻先を近づける。
冷たい鼻が指先の近くへ触れ、何度か匂いを確かめたあと、尻尾の動きが少し速くなった。
「……大丈夫そう?」
「かなり」
「本当?」
「うん。嫌だったらもう少し離れるから」
彩花はそっと首元の毛へ触れた。
想像していた以上に柔らかい。
「わ……」
指が沈むほど豊かな毛に、思わず両手を使いたくなる。
「ふわふわ」
「でしょ?」
「すごい。思ってたよりずっとふわふわ」
彩花が首の横を撫でると、ハクは逃げるどころか身体を寄せてきた。
「ちょっと、近い近い」
笑いながら受け止める。
ハクはさらに尻尾を振る。
その様子を見ていた悠真の表情が、明らかに緩んだ。
「よかった」
「何が?」
「ハク、彩花さんのこと好きみたい」
「もう分かるの?」
「分かる。かなり気に入ってる」
「私も好き」
彩花は迷わず答えた。
「ハク、可愛い」
その瞬間、悠真が少しだけ複雑そうな顔をした。
彩花は見逃さなかった。
「何、その顔」
「いや」
「ハクに嫉妬してる?」
「してない」
「今ちょっとしたでしょ」
「してないけど……」
悠真はハクと彩花を見比べる。
「会って一分くらいなのに、俺より褒められてるなと思っただけ」
「それを嫉妬って言うんじゃないの?」
「犬に?」
「私に聞かれても」
彩花が笑う。
悠真自身もおかしくなったらしく、最後には一緒に笑った。
「彩花さん、まだ玄関だから」
「あ」
ハクに夢中になっていた。
彩花は慌てて姿勢を戻す。
「ごめんなさい、お邪魔します」
「誰に謝ってるの?」
「分からない。家に」
「家には謝らなくていいよ」
そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。
「彩花さん、いらっしゃいませ」
「琴葉ちゃん」
現れた琴葉は、自宅だからか学校で見るときより少し柔らかな服装をしていた。
「お待ちしておりました」
「今日はお邪魔します」
「どうぞごゆっくりなさってください。兄様よりハクの方が先にお迎えしてしまいましたけれど」
「予想通りだった」
「ハク、彩花さんのこと気に入ったみたい」
悠真が言う。
「見れば分かります」
ハクは今も彩花のそばから離れていない。
琴葉はその様子を見て、ほんの少し笑みを深くした。
「兄様があれだけお話ししていれば、ハクもお名前くらい覚えているかもしれませんね」
「琴葉」
「何でしょう?」
「余計なこと言わなくていいから」
「事実です」
彩花は二人を交互に見る。
「……そんなに話してるの?」
「そんなにではないよ」
「兄様基準では、という意味です」
「琴葉」
「彩花さん、どうぞ中へ」
琴葉は兄の抗議を綺麗に流した。
彩花は笑いをこらえながら靴を脱いだ。
◇
玄関を上がったところで、彩花は持ってきた紙袋を思い出した。
「そうだ。これ」
「何?」
「手土産。大したものじゃないけど」
悠真へ渡そうとすると、琴葉が紙袋へ目を向ける。
「もしかして、彩花さんがお作りになったものですか?」
「うん。クッキーなんだけど」
悠真の反応が早かった。
「手作り?」
「そうだけど」
「俺、食べていい?」
「九条家のみんなに持ってきたんだから、悠真君も入ってるよ」
「よかった」
「そんなに?」
「前のクッキー美味しかったから」
以前渡したときのことを覚えているらしい。
琴葉も紙袋を受け取りながら中を覗き込む。
「二種類もあるのですか?」
「普通のバタークッキーと、紅茶のクッキー。みんなで食べられるくらいあると思う」
「ありがとうございます。母も喜びます」
「お口に合えばいいけど」
「大丈夫だと思う」
悠真が即答する。
「悠真君は前のしか食べてないでしょ」
「彩花さんが作ったなら大丈夫」
「根拠になってないよ」
「前が美味しかったから根拠あるよ」
そこまで真顔で言われると、彩花も反論しづらい。
琴葉は二人のやり取りを見ながら、文化祭の頃よりさらに自然になった呼び方へ気づいていた。
兄はもう迷わず「彩花さん」と呼ぶ。
彩花も、ほとんど意識せず「悠真君」と返している。
少し前まで、名前一つを口にするだけで二人とも妙に慎重になっていたのが嘘のようだった。
だからこそ琴葉は何も指摘しない。
本人たちにとって自然になったものを、周囲がわざわざ特別なものへ戻す必要はないと思った。
「母たちはリビングにおります」
「うん」
「彩花さん、こちらです」
琴葉に案内され、彩花は廊下を進む。
ハクも当然のようについてきた。
「ハクも来るんだ」
「たぶんしばらく彩花さんから離れないと思う」
「そんなに?」
「気に入った相手には結構ついていくから」
「嬉しい」
彩花が振り返って笑うと、ハクの尻尾がまた大きく動いた。
悠真はその光景を見ながら、先ほどと同じ少し複雑な気持ちになる。
(俺がずっと楽しみにしてたのに、最初に一番喜ばせてるのハクじゃないか?)
自分で考えてから、犬を相手に何を競っているのだろうと思う。
それでも、彩花が楽しそうなので嫌ではなかった。
むしろ、ずっと会わせたいと思っていた二人が予想以上に早く馴染んだことが嬉しい。
◇
リビングへ入ると、麗華と正樹が立ち上がった。
中央図書館で会ったことのある俊治も、ソファから穏やかな笑みを向ける。
「いらっしゃい、水瀬さん」
麗華に声をかけられ、彩花は少し緊張しながら頭を下げた。
「初めまして。水瀬彩花です。今日はお招きいただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくて大丈夫よ。九条麗華です。悠真と琴葉の母です」
「父の正樹です。悠真からよく話は聞いています」
「父さん」
悠真がすぐ反応する。
正樹は息子へ視線を向けた。
「何だ?」
「その言い方だと変に聞こえる」
「事実だろう」
「どんな話ですか?」
彩花が思わず尋ねる。
「本の話が多いかな。図書館でこんな本を見つけたとか、水瀬さんがこの本を好きだと言っていたとか」
「それなら普通……かな?」
「文化祭の話も聞いたよ」
「それは……」
彩花が悠真を見る。
悠真は少し気まずそうだった。
「渡り廊下のことは話した」
「それも聞いている」
「どこまで?」
「彩花さんが気に入ってくれたことまで」
「そこまでならいい」
彩花は自分が渡り廊下を気に入った理由まで話されているのではないかと一瞬心配したが、どうやら全部ではないらしい。
その隣で俊治が笑う。
「久しぶりだな、彩花さん」
「お久しぶりです」
「図書館では何度か会っているから、わしとは初対面ではないな」
「はい」
「悠真がようやく連れてきたか」
「お祖父様」
今度は琴葉が止める。
「その言い方も誤解を招きます」
「何がだ。以前から家へ招く話はあったのだろう?」
「そうですけれど」
俊治は楽しそうにしているだけで、彩花を困らせようとしているわけではない。
それが分かるので、彩花も少しずつ緊張が解けていく。
「これ、彩花さんが作ってきてくださったの」
琴葉が紙袋を麗華へ渡す。
「まあ、手作り?」
「はい。クッキーです。よかったら皆さんで」
「ありがとう。あとでお茶と一緒にいただきましょう」
麗華は自然に受け取り、それ以上大げさに褒めたりしなかった。
そのことにも彩花は少し安心した。
「さあ、座って。ハクもずっとそばにいるつもりみたいね」
言われて見ると、ハクは彩花の足元へ伏せていた。
「本当に離れない」
「珍しい?」
「初対面でここまで早いのは、少し珍しいかもしれないわ」
「そうなんですか?」
「ええ。人は好きだけれど、最初はもう少し様子を見ることもあるから」
麗華の言葉を聞き、彩花は嬉しくなる。
足元のハクをそっと撫でる。
「ハク、ありがとう」
白い耳がわずかに動いた。
「返事した」
「今のはたぶん名前に反応しただけ」
「悠真君、現実的」
「でも嬉しそうではあるよ」
「じゃあ返事ってことにする」
「それでいいと思う」
二人が話していると、正樹が少し笑った。
息子が家で同年代の友人と過ごす姿を見る機会は、それほど多くない。
学校の友人が訪ねてくることはあるし、湊も顔を見せる。しかし、今の悠真の表情はそのときとは少し違う。
彩花が何かに興味を示すたび、悠真は先にその反応を見ている。
ハクを撫でれば嬉しそうにし、家の中を見回せば説明しようとする。
相手が楽しんでいるかどうかを、本人が思っている以上に気にしている。
正樹はそのことを指摘しなかった。
今は、息子が大切にしている友人を家族として迎えれば十分だった。
◇
しばらくリビングで話したあと、麗華が彩花のクッキーと紅茶を用意してくれた。
「私が持ってきたものを出してもらうの、何か変な感じです」
「手土産はみんなでいただくものだもの。彩花さんも一緒に食べましょう」
「はい」
皿にはバタークッキーと紅茶のクッキーが並んでいる。
悠真が最初に紅茶の方へ手を伸ばした。
「いただきます」
「どう?」
彩花は無意識に反応を待ってしまう。
悠真は一口食べ、少しだけ目を見開いた。
「これ好き」
「本当?」
「うん。前のより香り強いね」
「茶葉変えたから」
「こっちも美味しい」
「よかった」
悠真の言葉だけで、家を出る前の心配が一つ消える。
琴葉も一枚食べる。
「とても美味しいです。甘さも控えめですね」
「紅茶と合わせるなら、その方がいいかなと思って」
「兄様がお菓子作りを教わりたがる理由が分かります」
「え?」
彩花が悠真を見る。
「俺、そんなこと言った?」
「以前、彩花さんがお菓子を作れると知ったとき、興味を持っていたでしょう」
「作ってみたいとは思う」
「悠真君が?」
「変?」
「変じゃないけど、想像してなかった」
「教えてくれる?」
あまりにも自然に尋ねられ、彩花は少し考える。
「いいけど、いきなり難しいのは無理だよ」
「簡単なのでいい」
「クッキーなら教えられると思う」
「じゃあ今度」
「また予定増えた」
「本当だ」
最近、二人の間では「今度」が増えている。
春の川沿い。
機会があれば見てみたい朝の桜華。
同じ本を読んで感想を話すこと。
そして今度は、一緒にクッキーを作ること。
どれも具体的な日付が決まっているわけではない。
それでも、いつか一緒にやることとして自然に会話へ残っていく。
俊治がバタークッキーを食べながら頷いた。
「これはうまいな」
「ありがとうございます」
「悠真、教わるならきちんと覚えろ」
「お祖父様まで」
「習うのだろう?」
「まだ日程も決めてないよ」
「なら決まったら教えてくれ」
「何で?」
「味見役が必要だろう」
「必要ないと思う」
俊治が笑い、麗華もつられて笑う。
彩花は九条家へ来る前に想像していたより、ずっと自然にその場へいられる自分に気づいた。
もちろん水瀬家とは違う。
家の広さも、家具も、置かれているものも違う。
けれど家族が集まって話している空気まで別世界というわけではなかった。
悠真が「家の中は普通」と言っていた意味が、少しだけ分かった気がした。
◇
お茶の時間が落ち着いたところで、琴葉が席を立った。
「彩花さん、よろしければ家の中をご案内しましょうか?」
「見てもいいの?」
「もちろんです。兄様もそのつもりでしょう?」
「うん」
悠真も立ち上がる。
「見せたくないところはないから」
「それもすごいね」
「そう?」
「私だったら急に部屋見せてって言われたら片づけ確認する」
「昨日確認した」
「確認してるじゃん」
彩花が笑う。
悠真は少しだけ視線を逸らした。
「散らかってはないけど、一応」
「兄様、昨日は本棚まで整えておりました」
「琴葉」
「何でしょう?」
「言わなくていい」
「彩花さんには正確な情報をお伝えした方がよろしいかと」
「何でそこだけ正確にするんだよ」
兄妹のやり取りに、彩花の笑いが止まらなくなる。
「そんなに準備してたの?」
「……少しだけ」
「楽しみにしてた?」
「してた」
結局、悠真は隠さない。
彩花の笑いが少し柔らかくなる。
「私も今日楽しみにしてたよ」
「うん」
「だから、案内お願いします」
「任せて」
三人でリビングを出る。
当然のようにハクもついてきた。
廊下を歩きながら、琴葉がいくつかの部屋を簡単に説明する。
家族が普段使う場所。
来客用の部屋。
庭へ続く窓。
彩花は何もかもを珍しがるわけではなかったが、ときどき足を止めては周囲を見る。
特に、廊下の途中に並んでいた家族写真の前では長く立ち止まった。
「これ、悠真君?」
彩花が指した写真には、小学生くらいの悠真と、それより幼い琴葉が写っている。
二人の間には、今より少し若い俊治がいた。
「そう。たぶん小学校低学年」
「顔あんまり変わってない」
「変わってるでしょ」
「今より幼いけど、悠真君って分かる」
「琴葉も分かる?」
「分かる。可愛い」
「ありがとうございます」
琴葉は素直に受け取る。
「兄様も可愛らしいでしょう?」
「うん」
「彩花さん?」
悠真が振り返る。
「何?」
「そこ即答なんだ」
「だって可愛いよ、この写真」
「今は?」
彩花は一瞬止まった。
琴葉も止まる。
悠真は自分で聞いてから、少しだけまずかったと思ったらしい。
「いや、今のは――」
「今は……」
彩花は写真から悠真本人へ視線を移す。
十六歳の悠真を「可愛い」と言うのは何か違う。
だからといって、別の言葉を探そうとすると妙に意識してしまう。
「格好いい、かな」
結局、それが一番自然だった。
悠真が黙る。
琴葉は兄を見る。
耳が少し赤い。
「……ありがとう」
いつもなら彩花を照れさせる側の悠真が、今日は明らかに言葉を失っている。
彩花自身も、言ったあとになって恥ずかしくなった。
「写真の話だからね」
「今はって聞いたの俺だけど」
「じゃあ何で聞いたの」
「分からない」
「兄様が自分で墓穴を掘るのは珍しいですね」
「琴葉、楽しんでない?」
「少しだけ」
三人の後ろで、ハクだけが何事もなかったようについてきていた。
◇
「次、兄様のお部屋へ行きますか?」
琴葉が尋ねた。
「え」
彩花は反射的に悠真を見る。
「嫌なら別にいいよ」
「嫌じゃないけど……入っていいの?」
「もちろん」
「本当に?」
「さっきも同じこと聞いてたね」
「だって、部屋はまた違うでしょ」
「俺が見せたいから大丈夫」
その言葉を聞き、彩花は少しだけ緊張しながら頷いた。
「じゃあ、見たい」
「うん」
階段を上がる。
途中で琴葉が立ち止まった。
「私は飲み物を持ってまいります」
「え?」
「兄様のお部屋でしたら、私がいなくても案内できるでしょう?」
「できるけど」
「では、あとで」
琴葉はそれだけ言うと階段を下りていく。
彩花はその背中を見送った。
「気を遣われた?」
「たぶん」
「二人で部屋って、ちょっと緊張するんだけど」
「じゃあドア開けとく?」
「……お願いします」
「分かった」
悠真は笑わず、普通に受け入れた。
そのことに彩花は安心する。
部屋の前へ着き、悠真がドアを開ける。
「どうぞ」
「お邪魔します」
彩花は一歩、中へ入った。
最初に目に入ったのは本だった。
壁際に置かれた大きな本棚。
机のそばにも本。
棚にも本。
ただし乱雑に積まれているわけではなく、どれも整理されている。
「……やっぱり」
「何?」
「本多い」
「そう?」
「多いよ」
「これでも全部じゃないよ」
「え?」
「別の部屋にもあるし、家族共用の本棚もある」
「やっぱり悠真君の普通、信用できない」
「また言われた」
彩花は笑いながら本棚へ近づく。
見覚えのある背表紙を見つけ、少しだけ表情が変わった。
「あ」
「見つけた?」
「うん」
そこには、以前悠真から借りた大切な冒険小説が収まっていた。
俊治から悠真へ贈られた本。
彩花が読み終え、感想を話したあと、きちんと返した一冊だ。
「ここに戻ったんだね」
「うん。元の場所」
彩花は手を伸ばさず、背表紙だけを見る。
「何か不思議」
「何が?」
「私、この本を借りたんだなって」
「借りたね」
「今見ると、前より特別に見える」
「俺も少し変わったかも」
「本が?」
「この本を見ると、彩花さんが読んだことも一緒に思い出すから」
彩花は本棚から悠真へ視線を移す。
「そういうの、あるね」
「彩花さんの本もそう?」
「うん。私の本棚に戻ってるけど、前と同じじゃない感じする」
物そのものは変わっていない。
けれど一度相手へ渡し、読んでもらい、言葉を交わしたことで、そこへ新しい記憶が重なった。
彩花は本棚を眺めながら、ふと気づく。
「そういえば、前に言ってたよね」
「何を?」
「本棚」
「本棚?」
「もっと大きいのが欲しいって」
「ああ」
悠真は思い出したように頷く。
「壁一面くらいの」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
「まだ欲しい?」
「欲しい。でもこの部屋だと難しいかな」
悠真は壁を見回す。
「配置変えればできるかもしれないけど」
「本当にやりそう」
「いつかね」
彩花は、壁一面に本が並んだ部屋を想像する。
「見てみたい」
「できたら最初に見せる」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ覚えておく」
「俺も覚えておく」
また一つ、先の約束が増えた。
彩花はそれを数えようとは思わなかった。
数えなくても、きっとどちらかが覚えている。
◇
部屋の奥には勉強机があり、その横に小さな棚が置かれていた。
彩花は勝手に触らないよう気をつけながら、視線だけを動かす。
「ここで勉強してるの?」
「うん。本読むときはベッドか椅子の方が多いけど」
「生徒会の資料もここ?」
「家でやる必要があるものはね」
「桜華の文化祭前も?」
「かなり」
「だから忙しかったんだ」
「でも彩花さんの案内時間は確保した」
「それは知ってる」
彩花は笑う。
「一時間半の予定表作ってた人だもんね」
「予定表までは作ってない」
「頭の中で作ってたでしょ」
「……だいたいは」
「同じだよ」
「違うと思う」
二人が話していると、開いたままのドアの向こうから白い顔が覗いた。
「あ、ハク」
ハクは室内へ入ってくると、迷わず彩花のところへ向かった。
「また来た」
「俺の部屋なのに」
「ハクも入っていいの?」
「普段から来るよ」
ハクは彩花の足元へ座る。
彩花が撫でると、満足そうに目を細めた。
「可愛い」
「今日何回目?」
「数えてない」
「俺より言われてる」
「まだ気にしてたの?」
「ちょっとだけ」
彩花は笑いながらハクを撫で続ける。
「じゃあ悠真君も撫でてあげようか?」
「それは違う」
「平等に」
「俺は犬じゃないから」
「分かってるよ」
珍しく悠真が完全に振り回されている。
彩花はそれが少し楽しかった。
図書館では落ち着いていて、学校では頼られている。
でも家では、妹にからかわれ、飼い犬に自分より注目されて少し不満そうな顔をする。
また一つ、知らなかった悠真を見つけた。
(こういう悠真君もいるんだ)
文化祭のときとは違う。
もっと力の抜けた、家の中だけの表情。
今日ここへ来なければ知らなかったものだった。
◇
「彩花さん」
「何?」
「一つ見せたいものある」
悠真が本棚の下段から、薄いアルバムのようなものを取り出した。
「写真?」
「小さい頃の。さっき廊下で見てたから、興味あるかなと思って」
「見たい」
「笑わないでね」
「それは見てから決める」
「先に約束してほしかった」
二人は机のそばにある小さなテーブルへ移る。
悠真がアルバムを開く。
幼い頃の悠真。
琴葉と並んだ写真。
俊治と本を読んでいる写真。
家族で出かけたときのもの。
その中には、まだ幼い悠真が大きな本を両手で抱えている写真もあった。
「これ、もしかして」
「たぶん初めて自分で選んで買ってもらった本」
「すごい顔してる」
「どんな?」
「嬉しそう」
「本買ってもらったからね」
「今と変わらない」
「そんなに?」
「うん。新しい本見つけたとき、今もこんな感じ」
「自分じゃ分からないな」
彩花はページをめくる。
そして、ある写真で手を止めた。
「ハク?」
「うん。家に来た頃」
「小さい!」
今の大きな身体からは想像しづらいほど、幼いハクが悠真の膝の上に乗っている。
「この頃は抱けたんだ」
「今も頑張れば……」
「無理しない方がいいよ」
「さすがに重い」
現在のハクは、二人の足元で伏せている。
彩花は写真と実物を見比べる。
「こんなに大きくなったんだ」
「毎日見てると気づきにくいけど、写真だとすごいね」
「悠真君もね」
「俺?」
「小さかったのに、こんなに大きくなった」
「それは普通じゃない?」
「さっき私の小さい頃知らないって言ってたでしょ」
「言ったっけ?」
「前に似た話した」
「じゃあ、今度彩花さんの写真も見たい」
「え」
「駄目?」
「駄目じゃないけど……」
彩花は少し迷う。
幼い頃の写真なら、水瀬家にもたくさんある。
凛花と一緒に写ったものも多い。
以前なら、それを悠真へ見せることには抵抗があったかもしれない。
姉の隣にいる自分を見られることが、何となく嫌だったから。
けれど今は、少し違う。
「今度ね」
「本当?」
「うん。でも変なの選んだら、お姉ちゃんに怒るから」
「水瀬先輩が選ぶ前提なんだ」
「私よりお姉ちゃんの方が、絶対変なの持ってきそう」
「見たい」
「そこ食いつかないで」
彩花が笑う。
そのとき、ドアの外から琴葉の声がした。
「失礼します。お飲み物をお持ちしました」
「ありがとう」
琴葉がトレーを持って入ってくる。
テーブルの上のアルバムを見ると、少し驚いた。
「兄様、それをお見せしていたのですか?」
「うん」
「私の写真も入っているのですが」
「駄目だった?」
「先に言ってください」
「琴葉ちゃん、可愛かったよ」
彩花が言うと、琴葉の動きが止まる。
「……どのお写真でしょう」
「悠真君と二人で庭にいるやつ」
「兄様」
「何?」
「あとで確認します」
「何を?」
「削除すべき写真がないかです」
「アルバムだから削除できないよ」
「では抜きます」
「琴葉ちゃん、そのままでいいよ。可愛かったから」
彩花が笑うと、琴葉は少しだけ頬を赤くしながらトレーを置いた。
「彩花さんがおっしゃるのでしたら……」
「俺が言っても残した?」
「兄様の場合は信用できません」
「何で?」
「妹の幼少期を無条件で可愛いと言う兄だからです」
「可愛いものは可愛いでしょ」
「そういうところです」
彩花は二人のやり取りを聞きながら、ふと笑みを深くした。
九条家での悠真は、やはり学校とも図書館とも違う。
そして、その違いを知れることが嬉しかった。
◇
琴葉も加わり、しばらく三人でアルバムを見たあと、彩花は廊下の窓から見えた庭へ興味を示した。
「外、出てもいい?」
「もちろん」
「ハクも?」
「たぶん先に行く」
悠真の予想通りだった。
庭へ続く扉を開けると、ハクは嬉しそうに外へ出ていく。
彩花も後を追った。
九条家の庭は、門から見たとき以上に広かった。
きちんと手入れされているが、鑑賞するだけの庭ではなく、人が歩ける場所やハクが動き回れる空間も十分にある。木々の一部は秋色に変わり始め、午後の日差しが枝の間から柔らかく落ちていた。
「広い……」
「ハクが走るから」
「犬のためだけの広さじゃないよね?」
「もちろん違うけど、ハクが来てから少し使い方変えたらしい」
「愛されてるね」
「うん」
ハクは少し先まで走ったあと、振り返って彩花を待っている。
「呼ばれてる?」
「たぶん」
「行っていい?」
「俺も行く」
二人で庭の奥へ向かう。
ハクは彩花が近づくと再び歩き始め、少し離れては振り返った。
「案内してくれてるみたい」
「自分の庭だからね」
「今日は案内されてばっかり」
「俺よりハクの案内の方が楽しそう」
「まだ気にしてる」
「少し」
「悠真君も楽しいよ」
「本当?」
「うん」
彩花は足を止めて悠真を見る。
「だって今日、いっぱい知らない悠真君見てるから」
「知らない俺?」
「家で琴葉ちゃんにからかわれてるところとか、ハクに張り合ってるところとか、小さい頃の写真とか」
「前半二つは見せたかったわけじゃないけど」
「でも面白い」
「面白いの?」
「うん。好き」
言ってから、彩花は一瞬だけ固まった。
何を好きと言ったのか、自分でも分かっている。
家で見せる悠真の一面。
その意味だ。
けれど言葉だけを切り取れば、別の意味にも聞こえる。
悠真も少し目を見開いている。
「……今のは」
彩花が説明しようとすると、悠真が先に笑った。
「分かってる。家にいる俺を見るのが楽しいってことだよね」
「そう。それ」
「でも嬉しい」
「……うん」
「俺も今日、彩花さんが家にいるの見てて楽しい」
「私、何も変わらなくない?」
「違うよ」
「どこが?」
悠真は少し考える。
「ハクに会ったとき、図書館で本見つけたときくらい嬉しそうだった」
「そんなに?」
「うん」
「だって可愛いし」
「またハク」
「本当なんだから仕方ないでしょ」
今度は二人とも笑った。
少し離れた場所から琴葉がその様子を見ていた。
兄が彩花を特別に扱っていることは、もうずっと前から分かっている。
けれど今日の二人を見ていると、それだけではないと思う。
彩花もまた、兄の新しい一面を見つけるたびに嬉しそうな顔をする。
どちらか一方が相手を追いかけている関係ではない。
互いに少しずつ、自分の世界へ相手を招いている。
それが何という関係なのか、琴葉は決めなかった。
本人たちがまだ決めていないのだから、妹である自分が先に名前を付ける必要はない。
「琴葉ちゃん?」
彩花が気づいて振り返る。
「どうしたの?」
「いいえ。ハクが兄様より上手に案内しているなと思いまして」
「琴葉まで」
「事実でしょう?」
「否定できないけど」
悠真が少し不満そうに言う。
琴葉は静かに笑った。
◇
庭を一周したあと、三人はテラス近くの椅子へ座った。
ハクは彩花の足元に伏せ、すっかりそこが自分の場所であるかのようにくつろいでいる。
「本当に懐いたね」
悠真が言う。
「嬉しい」
「次来たときも覚えてると思う」
彩花が顔を上げる。
「次?」
「来ない?」
「いや、そうじゃなくて」
あまりにも自然に「次」と言われたので驚いた。
悠真は少しだけ不安そうになる。
「今日だけのつもりだった?」
「違うよ」
彩花はすぐに否定する。
「また来ていいの?」
「もちろん」
「じゃあ来たい」
答えるまでに、ほとんど時間はかからなかった。
悠真の表情が明るくなる。
「よかった」
「今度は私も何かハクのお土産持ってこようかな」
「俺たちには?」
「クッキー持ってきたでしょ」
「次も欲しい」
「毎回作るの?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
「兄様」
琴葉が静かに口を挟む。
「彩花さんへ当然のようにお菓子を要求しないでください」
「要求したつもりじゃないんだけど」
「十分要求に聞こえます」
「じゃあ訂正する。無理じゃなければ、また食べたい」
「それならいい」
「琴葉が決めるの?」
「兄様よりは適切かと」
彩花は笑いながら二人を見ていた。
そこへ、足元のハクが身体を起こす。
大きな頭が彩花の膝近くへ寄ってきた。
「どうしたの?」
彩花が首元を撫でる。
ハクはそのまま身体を近づけ、しばらく動かなくなった。
「眠いのかな」
「たぶん」
「ここで?」
「安心すると近くで寝ることあるよ」
「……私のところで?」
「そうみたい」
彩花の声が少しだけ小さくなる。
嬉しさを隠しきれていない。
悠真はその顔を見て、先ほどまでの小さな対抗心がどうでもよくなった。
(こんなに喜んでくれるなら、ハクがいてよかった)
むしろ、もっと仲良くなってほしい。
自分が大切にしている存在を、彩花も好きになってくれる。
彩花が好きになった相手が、自分と同じように彩花へ懐く。
それは想像していた以上に嬉しいことだった。
「彩花さん」
「何?」
「ハクに会わせられてよかった」
彩花は足元の白い毛を撫でながら、悠真を見る。
「私も。ずっと会いたかったから」
「うん」
「それに、ハクだけじゃなくて」
彩花は庭の向こう、家の窓、その先にいる家族の気配へ視線を向けた。
「悠真君が普段いるところ、見られてよかった」
悠真は黙って聞いている。
「文化祭で学校を見たときも思ったけど、今日の方がもっと分かった気がする」
「何が?」
「悠真君のこと」
彩花は少し考えながら言葉を選ぶ。
「学校にいる悠真君も、図書館にいる悠真君も、家にいる悠真君も、全部同じなんだけど、少しずつ違うから」
「うん」
「それを知れるのが楽しい」
悠真は、すぐに返事をしなかった。
彩花が川沿いへ連れていってくれたとき、自分も似たようなことを感じた。
相手が長く見てきた景色を知ると、その人自身を少し知れたような気がする。
今日はその逆だ。
「俺も」
悠真はゆっくり答える。
「彩花さんのこと、もっと知りたい」
「うん」
「だから、今日俺の家に来てくれたのも嬉しい」
「私も来られて嬉しいよ」
それ以上の言葉は必要なかった。
すぐそばではハクが目を閉じ始めている。
庭を抜ける風は少し冷たくなっていたが、午後の日差しはまだ穏やかだった。
◇
夕方が近づき、彩花が帰る時間になった。
玄関には麗華と琴葉が見送りに来ている。正樹と俊治にもリビングで挨拶を済ませた。
「今日は本当にありがとうございました」
彩花が頭を下げる。
「こちらこそ。クッキーもとても美味しかったわ」
麗華が微笑む。
「またいつでも遊びに来てね」
「はい」
今度は、最初に家へ入ったときより自然に返事ができた。
「彩花さん、今度は私ともゆっくりお話ししましょう」
琴葉が言う。
「うん。今日は案内してくれてありがとう」
「兄様だけでは不安でしたので」
「琴葉」
「冗談です」
「絶対半分本気だろ」
彩花が笑う。
靴を履き、立ち上がったところで、後ろから白い大きな身体が近づいてきた。
「ハク」
ハクは玄関の内側まで来ると、彩花の前で止まった。
「帰るの分かるのかな」
「たぶん」
悠真が答える。
彩花は屈み、ハクの首元を撫でた。
「今日はありがとう。またね」
ハクの尻尾が床をゆっくり叩く。
「……連れて帰りたい」
「駄目」
「即答」
「ハクはうちの家族だから」
「分かってるよ」
「また会いに来て」
悠真は何気なく言った。
彩花はハクを撫でていた手を止め、顔を上げる。
「うん。また来る」
その返事を聞いた悠真が笑う。
「じゃあ送ってくる」
「兄様、暗くなる前に」
「分かってる」
悠真と彩花は家を出た。
門へ向かう途中、彩花は一度だけ振り返る。
玄関のガラス越しに、ハクの白い姿が見えた。
「まだ見てる」
「彩花さんのこと気に入ったから」
「私も」
「知ってる」
悠真が少し笑う。
「今日一日で何回可愛いって言ったか分からないくらい聞いた」
「悠真君、まだ数えてたの?」
「途中で諦めた」
「そんなに?」
「かなり」
彩花は笑いながら門を出た。
◇
駅へ向かう道は、来たときと同じだった。
けれど彩花には、少し違って見えた。
行きには「悠真がいつも歩いている道」として眺めていた。
帰りには、その先にある家の様子を知っている。
あの道を曲がれば門があり、その向こうに庭がある。
玄関を開ければハクが走ってきて、リビングには家族がいる。
二階には悠真の部屋があり、本棚には自分が一度借りた本が戻っている。
知っている景色が、少し増えた。
「彩花さん」
「何?」
「疲れた?」
「ちょっと。でも楽しかった」
「よかった」
「最初はすごく緊張したけどね」
「途中から全然そう見えなかった」
「ハクのおかげ」
「やっぱりハクなんだ」
「悠真君たちのおかげでもあるよ」
「それならいい」
彩花は横を歩く悠真を見る。
「家族、優しいね」
「うん」
「何か安心した」
「何に?」
「分からないけど」
彩花は少し考える。
「悠真君がどういう家で育ったのか、ちょっとだけ分かったからかも」
「家見ただけで?」
「家だけじゃないよ。家族と話してるところも見たし、琴葉ちゃんとのやり取りも見たし、写真も見たし」
「変なところ見られた気がする」
「そこも含めて」
「それなら仕方ないか」
悠真は笑う。
「俺も、川沿いに行ってから彩花さんのこと少し分かった気がしたから」
「同じ?」
「たぶん」
二人は歩き続ける。
駅へ着くまで、まだ少し時間がある。
その間に交わす話は、今日食べたクッキーのことや、ハクの毛が服についていないかというような小さなものだった。
けれど、彩花はその時間まで心地よかった。
◇
駅へ着き、改札の手前で足を止める。
「今日はありがとう、悠真君」
「俺の方こそ。来てくれてありがとう」
「クッキーも食べてもらえてよかった」
「紅茶の方、また食べたい」
「気が向いたらね」
「覚えておく」
「そこは忘れてもいいよ」
「無理だと思う」
「何で?」
「彩花さんが作ったものだから」
また自然に言う。
彩花は以前なら困っていたかもしれない。
今は少し照れながらも、その言葉をそのまま受け取れる。
「じゃあ、いつか」
「うん」
「それと、クッキー作るのもね」
「教えてくれる約束?」
「今日したでしょ」
「覚えてる」
「私も」
改札を通る前に、彩花はもう一度振り返る。
「またハクにも会いたい」
「俺にも?」
「会いたいよ」
答えてから、彩花自身が少しだけ驚いた。
けれど言い直さない。
悠真も一瞬だけ目を見開いたあと、嬉しそうに笑った。
「よかった」
「何で確認するの」
「ハクばっかりだったから」
「まだ言ってる」
「今日くらいは言わせて」
「じゃあ今日だけね」
「うん」
二人は笑った。
「またね、悠真君」
「またね、彩花さん」
彩花が改札の向こうへ消えるまで、悠真はその場に残っていた。
◇
九条家へ戻った悠真を最初に迎えたのは、やはりハクだった。
「ただいま」
悠真が頭を撫でる。
「彩花さん帰っちゃったな」
ハクが悠真を見上げる。
「寂しい?」
もちろん答えはない。
それでも玄関の方を一度見る仕草が、少しだけそう見えた。
「俺も楽しかったよ」
悠真はハクと一緒にリビングへ向かった。
そこでは琴葉が本を読んでいた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「駅まで?」
「うん」
琴葉は本を閉じる。
「彩花さん、楽しんでくださったようでよかったですね」
「うん」
「兄様も」
「俺も楽しかった」
悠真は素直に答える。
「家に友達を呼ぶこと自体は初めてじゃないけど、何か違った」
「何がですか?」
「分からない」
悠真は少し考える。
「彩花さんが俺の本棚見たり、家族と話したり、ハクと遊んだりしてるのを見るのが嬉しかった」
琴葉は兄の顔を見る。
「自分の好きなものを、彩花さんにも好きになっていただけるのが嬉しいのではありませんか?」
「……そうかも」
「渡り廊下のときもそうでしたから」
「うん」
悠真はソファへ座る。
自分が長く見てきた場所。
大切にしている本。
家族。
ハク。
それらを彩花へ見せることに、以前ほどためらいがない。
むしろ知ってほしいと思う。
「琴葉」
「はい」
「彩花さん、また来たいって」
「そうですか」
「うん」
悠真は笑う。
琴葉も小さく笑った。
「それはよかったですね」
「うん」
ハクが悠真の足元へ伏せる。
悠真はその白い頭を撫でながら、次に彩花が来たときのことを少しだけ考えた。
今日見せられなかった本もある。
庭も、季節が変われば違って見える。
クッキーを一緒に作る約束も増えた。
まだ何も決まっていないのに、自然と次を想像している。
それが嫌ではなかった。
◇
同じ頃、家へ帰った彩花も自室の机へ向かっていた。
鞄を置き、上着を脱ぐ。
その袖に白い毛が一本ついているのを見つけた。
「あ」
ハクの毛だ。
指先で摘まみ、少しだけ笑う。
「本当にふわふわだったな」
捨てようとして、なぜか一瞬だけ迷う。
さすがに犬の毛を取っておくのは変だと思い、結局ごみ箱へ入れた。
机へ座り、ノートを開く。
川沿いへ悠真を連れていった夜に書いた言葉が残っている。
『好きな場所を見せることは、自分のことを少しだけ渡すのに似ている。』
『大切な人に見せたい景色は、その人に知ってほしい自分なのかもしれない。』
彩花はその下へ、今日のことを書こうとする。
しかし、すぐには言葉が出なかった。
悠真の家。
家族。
写真。
本棚。
ハク。
どれか一つだけではない。
今日見たもの全部が、今まで知っていた悠真につながっていた。
しばらく考えたあと、彩花はゆっくりペンを動かす。
『誰かの大切な場所へ入れてもらうと、その人が少し近くなった気がする。』
そこで止める。
近くなった。
実際の距離ではない。
呼び方だけでもない。
知らなかったものを知って、その人が大切にしているものを自分も大切にしたいと思う。
それが今の自分にとって、近くなるということなのかもしれない。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『無事着いた?』
『今着いたよ。』
『よかった。』
『今日はありがとう。』
『こっちこそ。』
少しして、写真が一枚届く。
ハクだった。
リビングの床に伏せ、少し眠そうな顔をしている。
『彩花さん帰ったあと、ちょっと玄関見てた。』
彩花は思わず笑う。
『可愛い。』
すぐに返事が来た。
『やっぱり最初にそれなんだ。』
『だって可愛いから。』
『俺も今日は楽しかった。』
彩花は画面を見つめる。
さっき駅で聞かれた言葉を思い出した。
『俺にも?』
あのときは、考えるより先に答えていた。
『会いたいよ』
今思い返しても、訂正したいとは思わない。
彩花は返信を打つ。
『私も楽しかった。』
少し迷ってから、もう一文加える。
『悠真君のこと、また少し知れた気がする。』
送信する。
悠真からの返事は、少しだけ間を置いて届いた。
『俺も、彩花さんに知ってもらえるの嬉しい。』
彩花はその文章を何度か読み返した。
そしてノートへ視線を戻す。
文化祭で、悠真の学校を知った。
川沿いで、自分の過去を少し話した。
今日、悠真の家へ入り、家族やハクと過ごした。
一つ知るたび、終わるのではない。
次に知りたいことが増えていく。
彩花はノートの最後へ、もう一行だけ書き加えた。
『近くなるほど、知らないことは減るのではなく、知りたいことが増えていく。』
書き終えてから、その言葉をしばらく眺める。
悠真のことを全部知りたいわけではない。
何もかもを知る権利があるとも思わない。
ただ、悠真が見せたいと思ってくれたものを見たい。
自分も、見せたいと思ったものを少しずつ渡したい。
その繰り返しでいい。
スマートフォンへ、もう一件メッセージが届く。
『次は一緒にクッキー作る?』
彩花は笑った。
『まだ今日のクッキー残ってるでしょ。』
『残ってる。』
『じゃあ食べ終わってから考えます。』
『分かった。大事に食べる。』
『普通に食べて。』
『じゃあ明日食べる。』
『うん。』
そこで会話が一度途切れる。
彩花はノートを閉じようとして、ふと手を止めた。
次の約束が、また増えている。
けれど、それを数える必要はなかった。
今日が終わっても、次がある。
そのことを当たり前のように思える自分が、今は少し嬉しかった。




