第54話 私の景色へ、君を連れて
土曜日の午後、彩花は青凪駅の改札近くでスマートフォンの時刻を確認した。
約束の時間までは、まだ七分ほどある。
待ち合わせ場所を駅にしたのは、これから向かう場所を悠真に知られないためだった。家の近くまで直接来てもらえば道順から察される可能性があるし、中央図書館では普段と変わらなさすぎる。そう考えた結果、二人がよく利用する青凪駅で合流して、そこから自分が案内することにした。
(私、こんなことまで考えてる)
少し前なら、自分から誰かを案内することにここまで時間を使っただろうか。
昨夜は天気予報まで確認した。
川沿いを歩くので雨なら別日にした方がいいかもしれないと思い、気温も確認した。今日の青凪市は穏やかな秋晴れで、日中は薄手の上着があれば十分な気温になるらしい。
まるで文化祭前の悠真みたいだ。
そこまで考えて、彩花は小さく笑った。
「彩花さん」
聞き慣れた声がして顔を上げる。
人の流れの向こうから悠真が歩いてくる。
「悠真君。こんにちは」
「こんにちは。待った?」
「七分前だから待ってない」
「俺も早く来たつもりだったんだけど」
「今日は私が先だったね」
「負けた」
「勝負だったの?」
「今決まった」
悠真が笑う。
学校帰りでも図書館へ行く日でもないので、二人とも私服だった。悠真は落ち着いた色のシャツに薄手の上着を合わせており、彩花も歩きやすい服装を選んできている。
何度も会っている相手なのに、学校でも図書館でもない場所で待ち合わせると少しだけ感覚が違った。
「それで」
悠真が駅の外を見てから、彩花へ視線を戻す。
「今日はどこ?」
「まだ教えない」
「ここまで来ても?」
「着くまで内緒」
「徹底してる」
「悠真君が文化祭でやったことだからね」
「俺、こんなに引っ張った?」
「引っ張ったよ」
「じゃあ何も言えないな」
悠真は素直に諦めた。
「案内お願いします」
「はい。今日は私についてきてください」
言ってから、彩花は少しだけ気恥ずかしくなる。
いつもなら、どちらかといえば悠真についていくことの方が多い。
桜華の文化祭では特にそうだった。
今日は逆だ。
「何か新鮮」
悠真も同じことを考えたらしい。
「何が?」
「彩花さんに案内されるの」
「私もそう思ってた」
「楽しみにしてる」
「期待しすぎないでね。本当に普通のところだから」
「それも何回目?」
「……もう言わない」
二人は笑いながら駅を出た。
◇
駅前の大通りから離れ、彩花は住宅街の方へ歩いていく。
悠真は場所を当てようとはせず、素直に隣を歩いていた。
「こっち、あまり来たことない?」
「ほとんどない。駅の反対側なら図書館とか市民交流センターがあるから行くけど」
「だよね」
「彩花さんの家はこの辺?」
「もう少し先。でも今日は家には行かないよ」
「分かってる」
「一応言っておこうと思って」
「急に水瀬家へ連れていかれたら、俺もびっくりする」
「お母さんは喜びそうだけどね」
「それはそれで緊張する」
「悠真君でも緊張するんだ」
「するよ」
即答され、彩花は少し意外に思う。
九条家のような家で育ち、学校では生徒会の仕事もこなし、大勢の前でも落ち着いて話せる悠真は、あまり緊張しない人に見えていた。
「何?」
「いや、悠真君ってあんまり緊張しなさそうだなって」
「普通にする。初めて水瀬先輩にちゃんと会ったときも緊張したし」
「お姉ちゃんに?」
「彩花さんのお姉さんだから」
「……そこ?」
「そこ」
悠真は何でもないことのように答える。
彩花は少しだけ頬が熱くなり、前へ視線を戻した。
こういうところは、文化祭が終わっても変わらない。
悠真は自分に関係することを特別だと思えば、そのまま口にする。
以前より慣れてきたとはいえ、全部を平然と受け止められるほどではなかった。
「そういえば、九条家に行く日なんだけど」
彩花は話題を少し変える。
「文芸部の予定、確認できたよ」
「本当?」
「うん。この前見せてもらった候補のうち、一日は空いてた」
「じゃあ家帰ったら確認する」
「急がなくていいよ」
「分かってる。でも早めに決めた方が彩花さんも予定立てやすいでしょ?」
「それはそうだけど」
「あと、家族が楽しみにしてる」
「……それ聞くと緊張する」
「普通にしてれば大丈夫」
「その普通が難しいんだって」
彩花は九条家の家族を何人か知っている。
琴葉とはすでに友人だ。
俊治とも図書館を通じて面識があり、悠真の両親についても話は聞いている。
それでも「九条家へ遊びに行く」と考えると、今までとは違う緊張があった。
「ハクだけ見てれば緊張しないかも」
「それだと俺が寂しい」
「悠真君の家に行くんだから、悠真君もいるでしょ」
「ちゃんと俺とも話して」
「話すよ」
彩花が笑うと、悠真も安心したように笑った。
◇
十分ほど歩いたところで、住宅街の向こうに川沿いの木々が見え始めた。
悠真がそちらへ視線を向ける。
「あそこ?」
「まだ答えない」
「もうかなり分かるけど」
「着いてから」
「はい」
彩花は少しだけ歩く速度を上げた。
細い道を抜け、遊歩道へ続く階段を下りる。
視界が開けた。
穏やかな川の流れ。
両岸に続く遊歩道。
ところどころ色づき始めた木々。
午後の陽光を受け、水面が細かくきらめいている。
犬を連れた人が歩き、自転車がゆっくり通り過ぎる。遠くでは小さな子どもが家族と一緒に川を覗き込んでおり、どこにでもありそうな休日の風景が広がっていた。
彩花は数歩進んでから振り返る。
「着きました」
悠真は川を見たあと、彩花へ視線を戻した。
「ここ?」
「うん」
「川沿いの道?」
「そう」
彩花は少しだけ緊張していた。
自分で選んだ。
自分が見せたいと思った。
それでも、実際に連れてくると急に心配になる。
「……本当に普通でしょ?」
また言ってしまった。
悠真は笑わなかった。
代わりに、ゆっくり周囲を見る。
「うん。普通だと思う」
「そこは否定してくれてもいいのに」
「でも、いいところだね」
悠真は川の向こうへ視線を向ける。
「静かだけど、人が全然いないわけじゃないし。木も多いし、歩くの気持ちよさそう」
「……うん」
「彩花さん、よく来るの?」
「昔はよく。最近は前より減ったけど」
「じゃあ、歩きながら教えて」
その言葉に、彩花の肩から少し力が抜けた。
「うん。こっち」
今度こそ、自分が先に歩き始める。
悠真はその隣へ並んだ。
◇
遊歩道を歩き始めてしばらくは、二人とも景色を眺めながら他愛のない話をしていた。
春には桜が咲くこと。
夏は木陰ができるので意外に涼しいこと。
雨が続いたあとは水量が増えるので、彩花はあまり近づかないこと。
近所の人が散歩に使う場所なので、朝と夕方では歩いている人の雰囲気も違うこと。
「春、綺麗そう」
「綺麗だよ。人も増えるけど」
「花見する人いる?」
「少しね。桜華みたいに整ってないけど」
「それは比べなくていいと思う」
「私も今言ってから思った」
彩花は苦笑する。
悠真が川沿いの木を見上げた。
「俺、こっちの方も好きかも」
「本当?」
「うん。桜華の並木は学校が管理してるから、かなり揃ってるでしょ。こっちは木の高さも種類も違うし」
「そうなんだよね」
「彩花さんは、そういうところが好き?」
聞かれ、彩花は少し考える。
「景色も好き。でも……それだけじゃないかな」
ここへ来ると決めたときから、いつかは話すことになると思っていた。
全部を話す必要はない。
ただ「景色が綺麗だから好き」とだけ言うなら、この場所を選んだ意味が少し違ってしまう。
彩花は歩く速度を緩めた。
「もう少し先にベンチがあるの」
「うん」
「そこまで行ってから話していい?」
「もちろん」
悠真は理由を聞かなかった。
それがありがたかった。
しばらく歩くと、小さな橋の手前に一本の大きな木が見えてくる。そのそばに、何度か修繕されながら長く置かれているベンチがあった。
「あそこ」
「ここもよく来た?」
「うん」
二人は並んで腰を下ろした。
目の前では川が緩やかに曲がり、その先まで遊歩道が続いている。少し離れたところを自転車が通り過ぎたが、ベンチの周囲には今のところ誰もいない。
彩花は膝の上で両手を重ねた。
「小学生の頃は、家族で来てたの」
「水瀬先輩とも?」
「うん。お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと私で。散歩したり、春は桜見たり」
「いいね」
「中学生くらいから、一人で来ることも増えた」
悠真は何も言わず、続きを待っている。
彩花は川面を見る。
「前に少し話したことあるでしょ。私、お姉ちゃんと比べちゃうことが多かったって」
「うん」
悠真が知っているのは、その程度だ。
凛花が優秀であること。
彩花自身が姉と比べ、自信をなくすことがあったこと。
家族仲が悪いわけではないこと。
詳しい時期や、具体的にどんな気持ちを抱えていたのかまでは話していない。
「お姉ちゃんが悪いわけじゃないんだよ」
「うん」
「お父さんとお母さんも、別に私を馬鹿にしたりしてないし。今なら分かるの」
彩花は指先を軽く組み直す。
「でも、昔はお姉ちゃんが何でもできるように見えた。勉強もできるし、運動もできるし、格好いいし。周りからもよく褒められてて」
悠真は黙って聞いている。
「私もお姉ちゃんのこと好きだったし、今も好き。でも、好きなのと比べちゃうのって別だったみたい」
彩花は少し笑った。
「変だよね。大好きなのに、隣にいると自分が足りない気がしてた」
「変じゃないと思う」
悠真の返事は静かだった。
彩花は横を見る。
「そう?」
「うん。好きな相手だから比較しない、とは限らないでしょ」
「……そっか」
「それに、水瀬先輩が悪くないってことと、彩花さんが苦しかったことも別だと思う」
彩花はしばらく何も言えなかった。
悠真は姉を悪者にしない。
だからといって、昔の彩花の気持ちまで「気にしすぎだった」と片づけることもしない。
「そういう日にね、ここ歩いてた」
彩花は再び川を見る。
「学校で嫌なことがあった日とか、お姉ちゃんと比べて落ち込んだ日とか。家に帰りたくないわけじゃないんだけど、そのまま帰ると気持ちがぐちゃぐちゃしてるから、少し遠回りして」
「ここで?」
「うん。このベンチに座ることもあった」
風が吹き、頭上の葉が擦れ合う。
「別に、ここに来たら急に元気になるわけじゃないよ。悩みが解決するわけでもないし」
「うん」
「でも川見て、少し歩いてから帰ると、ちょっとだけ落ち着いた」
彩花は自分の言葉を聞きながら、昔の自分を思い出していた。
制服姿で一人、このベンチへ座ったこと。
姉と比べられたわけでもないのに、勝手に比べて落ち込んだ日。
何をしても自分より姉の方が上手にできる気がして、自分の好きなものさえ小さく感じていた頃。
「だから、好きな場所なんだ」
最後まで言うと、胸の奥が少し軽くなった。
悠真はすぐには答えなかった。
川を見ながら、彩花が話したことを急いで言葉へ変えないようにしている。
「連れてきてくれてありがとう」
しばらくして、悠真が言った。
彩花は瞬きをする。
「……それだけ?」
「もっと言った方がいい?」
「いや、そうじゃないけど」
「じゃあ、今はそれが一番言いたい」
悠真は彩花を見る。
「俺が渡り廊下を見せたときより、彩花さんにとって大事な場所だと思うから」
「どっちが大事とかじゃないよ」
「うん。でも、ここで昔のことも話してくれたから」
悠真の声は変わらず穏やかだった。
「俺に見せてもいいって思ってくれたのが嬉しい」
彩花は少しだけ視線を下げる。
「……私も、そう思ったから連れてきた」
「うん」
「前だったら、たぶん話さなかったと思う」
「今は?」
「悠真君なら、話してもいいかなって」
言葉にすると、想像していたより恥ずかしい。
けれど後悔はなかった。
悠真が小さく息を吐く。
「それ、かなり嬉しい」
「分かってる」
「顔に出てた?」
「出てる」
「もう隠せないな」
「最初から隠してないでしょ」
「確かに」
二人の間に小さな笑いが生まれた。
重くなりすぎないことにも、彩花は安心した。
昔の自分について話した。
それを大切に受け取ってもらった。
それでも、この場所が「辛かった頃の場所」だけに変わることはない。
今日からは、悠真と一緒に座った場所でもある。
◇
「彩花さん」
「何?」
「今は、水瀬先輩と比べることって減った?」
悠真は慎重に尋ねた。
聞きたくないなら答えなくていい、と続けようとしたところで、彩花が頷く。
「減ったよ。なくなったわけじゃないけど」
「そっか」
「たまにある。お姉ちゃんすごいなって思ったあと、自分は何してるんだろうって思うこと」
彩花は苦笑する。
「でも前より、そこで終わらなくなった」
「どういうこと?」
「お姉ちゃんができることと、私ができることは違うって、少しずつ思えるようになったから」
以前なら、それを口にすることさえ難しかった。
料理。
裁縫。
本。
文章を書くこと。
誰かと話すこと。
姉と同じ尺度で比べる必要のないものが、自分にもある。
「文芸部で書いた話もそうだし」
「うん」
「悠真君が読んでくれたのも、結構大きかった」
「俺?」
「うん。だって、私が書いたものをちゃんと読んで、どこが好きだったか言ってくれたでしょ」
悠真は文化祭で読んだ彩花の作品を思い出す。
「本当に好きだったから」
「分かってる。だから嬉しかった」
彩花は笑う。
「前は、自分が作ったものとか好きなものを見せるの、結構怖かったんだと思う。相手にとっては大したことないかもしれないって」
「今も怖い?」
「少しは」
彩花は正直に答えた。
「今日も駅で待ってるとき、ここ連れてきて本当にいいのかなって思ってた」
「何で?」
「何もないから」
「川あるよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
悠真が笑う。
「でも、俺は来られてよかったよ」
「本当に?」
「うん。彩花さんが昔から見てた景色でしょ?」
「そう」
「だったら俺にとっては、今日初めて見た景色でも、彩花さんのことを一つ知れる場所だから」
悠真は川面へ目を向ける。
「俺、こういうの好きだと思う」
「川が?」
「それも。でも、彩花さんが『ここ好き』って教えてくれるのが」
彩花の胸が、また少しだけ速くなる。
悠真は気づいているのかいないのか、そのまま続ける。
「本でもそうだった。彩花さんが好きな本って聞くと、読んでみたくなるし。料理とか裁縫とかも、できるって知ったらもっと見てみたいと思った」
「……悠真君」
「何?」
「それ、誰にでもそうなの?」
聞いてから、彩花自身が少し驚いた。
以前なら聞かなかった。
聞いてはいけないような気がしていた。
けれど文化祭で、もう答えの一部はもらっている。
悠真は少し考えた。
「友達が好きなものなら興味持つことはあるよ」
「うん」
「でも、ここまで知りたいと思うのは彩花さんだからだと思う」
やはり、答えは変わらない。
彩花は膝の上の手を少しだけ握った。
「そっか」
「嫌だった?」
「それ、前にも聞いた」
「そうだった」
「答えも同じ」
彩花は悠真を見る。
「嫌じゃないよ。嬉しい」
今度は迷わず言えた。
悠真の表情が柔らかくなる。
「よかった」
「悠真君も、私がいろいろ知りたがるの嫌じゃない?」
「むしろ嬉しい」
「即答だね」
「だって本当だから」
彩花は笑った。
きっと、この人はこれからもこうなのだろう。
自分が嬉しいと思ったことを、以前よりずっと素直に言う。
そのたびに彩花も、自分の気持ちを隠さなくてよくなる。
◇
しばらくベンチで話したあと、二人は再び遊歩道を歩き始めた。
川沿いの道は緩やかに続いており、ところどころに小さな橋が架かっている。彩花は子どもの頃によく立ち止まった場所や、春になると桜が綺麗に見える場所を教えた。
「こっちから見る方が綺麗なの」
「何で?」
「川が曲がってるから、桜が奥まで続いて見えるの。春になると結構すごいよ」
「見てみたい」
「春?」
「うん」
彩花は一瞬、返事を忘れた。
今は秋。
春まではまだ何か月もある。
悠真は深い意味を込めて言ったわけではないのだろう。
それでも、春にも一緒にいることを自然に前提にされたようで、胸の奥がくすぐったくなる。
「……じゃあ、覚えてたら」
「覚えてると思う」
「悠真君は覚えてそう」
「彩花さんが言ったことだから」
「またそれ」
「本当だよ」
「分かってる」
もう否定はしない。
代わりに彩花も、少しだけ先のことを考える。
冬。
春。
その頃、自分たちはどんなふうに話しているのだろう。
今と同じように図書館へ行っているのかもしれない。
もっと別の場所へも行くようになっているかもしれない。
答えは分からない。
でも、想像することは嫌ではなかった。
◇
遊歩道の途中に、小さな休憩所がある。
自動販売機が置かれ、屋根の下にはいくつかのベンチが並んでいた。
「何か飲む?」
悠真が尋ねる。
「うん。ちょっと喉渇いた」
二人はそれぞれ飲み物を選ぶ。
彩花が財布を出そうとすると、悠真が先に硬貨を入れようとしたため、彩花はすぐに手を伸ばした。
「今日は私が案内する日だから、自分で買う」
「そこ関係ある?」
「ある」
「じゃあ俺のも?」
「そこまでは言ってない」
「残念」
「何で悠真君のまで私が買うの」
「案内される側だから?」
「文化祭のとき、私の飲み物全部悠真君が買ったわけじゃないでしょ」
「確かに」
結局それぞれ自分で購入し、並んでベンチへ座る。
彩花はペットボトルの蓋を開けながら、少し笑った。
「何か、普通だね」
「何が?」
「今日」
「普通じゃ駄目?」
「違う。いい意味」
彩花は周囲を見る。
川沿いを歩いて、話して、飲み物を買って休んでいる。
イベントがあるわけでもない。
文化祭のような特別な日でもない。
「図書館じゃないところで、こんなに普通に一緒にいるの、ちょっと不思議だなって」
「本屋とか古本市とか行ったけどね」
「本があるところばっかりじゃん」
「確かに」
「今日は本、一冊も見てない」
「珍しい」
「でも楽しい」
彩花が言う。
悠真も頷いた。
「俺も」
短い言葉だったが、それだけで十分だった。
◇
午後の時間が進み、陽が少し傾き始める。
二人は来た道を戻ることにした。
同じ遊歩道なのに、行きとは光の向きが変わっている。
「やっぱり夕方の方が好きかも」
彩花が言う。
「水面?」
「うん。空の色が映るから」
「渡り廊下も夕方もう一回行ったね」
「そうだね」
「彩花さん、夕方の景色好きなのかも」
「言われてみればそうかも」
今まで意識したことはなかった。
自分の好きなものを誰かに話すことで、自分でも知らなかった共通点に気づく。
「悠真君は?」
「俺?」
「時間なら、いつが好き?」
「難しいな」
悠真は少し考える。
「図書館は午後が好きかも。人が少ない日なら、窓から入る光がちょうどいいから」
「分かる」
「学校は朝も好き。まだ人が少ない時間」
「生徒会の仕事してそう」
「してる日もある」
「それ、好きな時間っていうより仕事の時間じゃない?」
「でも静かな校舎は好きだよ」
「じゃあ今度、朝の桜華も見せてもらわないと」
彩花は冗談のつもりで言った。
悠真がすぐに答える。
「見せたい」
「え?」
「文化祭じゃない普通の日は難しいけど、機会があったら」
「……本当に?」
「彩花さんが見たいなら」
また一つ、いつかの話が増える。
彩花は困ったように笑った。
「私たち、今日だけで先の予定増やしすぎじゃない?」
「そう?」
「九条家でしょ。春の桜でしょ。朝の桜華も」
「全部今日明日の話じゃないから大丈夫」
「そういう問題かな」
「俺は楽しみだけど」
「……私も」
結局、そう答える。
予定が増えることが嬉しい。
次があることを、以前ほど怖がらなくなっていた。
◇
駅へ戻る途中、彩花は家族の話を少しだけ続けた。
「お姉ちゃんね、昨日も今日のこと気にしてた」
「今日?」
「どこ行くのって聞かれた」
「水瀬先輩には秘密にした?」
「うん。悠真君にも言ってないのに、お姉ちゃんだけ知ってるの変でしょ」
「それはそうだね」
「ちょっと不満そうだった」
「想像できる」
悠真は笑う。
「でも、お姉さんと仲いいんだね」
「うん。昔から仲はいいよ」
彩花は少しだけ考えてから続ける。
「だから余計に、自分が勝手に比べてるのが嫌だったのかも」
「好きなのに苦しくなるから?」
「たぶん」
今なら、昔の自分を少し離れたところから見ることができる。
「お姉ちゃんに勝ちたかったわけじゃないんだと思う」
「うん」
「私も何か一つくらい、自分のことを好きになりたかったのかも」
悠真は歩きながら彩花を見る。
何か言おうとして、少し考える。
「今は?」
それだけを尋ねた。
彩花も考えた。
以前なら、答えに困っただろう。
今も自信満々ではない。
できないことは多い。
姉を見て羨ましくなることもある。
それでも。
「前よりは好きかも」
彩花は答えた。
「自分のこと」
口にしたあと、少しだけ照れた。
「何か自分で言うと変だけど」
「変じゃないよ」
「そう?」
「うん」
悠真の表情が柔らかくなる。
「俺は嬉しい」
「悠真君が?」
「だって、彩花さんが自分の好きなところ増えたなら嬉しいでしょ」
「……そういうもの?」
「俺はそう」
彩花は少し黙った。
悠真が自分を褒めてくれたことは何度もある。
でも今は、悠真の言葉を借りなくても「前より自分が好き」と言えた。
それを悠真が喜んでくれる。
胸の奥が温かくなる。
「ありがとう」
「うん」
「でも、まだいっぱいあるよ。直したいところ」
「それは俺もある」
「悠真君にも?」
「あるよ」
「例えば?」
「言わない」
「何で?」
「彩花さんが今日場所を秘密にしてたから」
「それ関係ないでしょ」
「仕返し」
「そこ仕返しするところ?」
彩花が笑い、悠真も笑った。
少し真面目になった空気が、自然にほどけていく。
◇
青凪駅へ戻った頃には、待ち合わせから二時間以上が経っていた。
特別な目的地をいくつも回ったわけではない。
川沿いを歩き、ベンチで話し、飲み物を買った。
それだけなのに、彩花には文化祭の日とは違う満足感があった。
「今日はありがとう」
駅前で悠真が言う。
「それ、私が言う方じゃない?」
「案内してもらったから俺が言う」
「じゃあ、どういたしまして」
「本当に来られてよかった」
「普通だったでしょ?」
「普通だった」
「そこはもう少し」
「でも、彩花さんにとって普通じゃない場所だった」
悠真の言葉に、彩花は口を閉じる。
「だからよかった」
「……うん」
その言い方なら、嬉しい。
「悠真君」
「何?」
「今日話したこと」
彩花は少しだけ迷う。
「お姉ちゃんと比べてたこととか、別に秘密ってわけじゃないんだけど……」
「他の人には話さないよ」
悠真は最後まで聞く前に答えた。
「彩花さんが俺に話してくれたことだから」
「ありがとう」
「琴葉にも言わない」
「うん」
安心する。
琴葉を信用していないわけではない。
自分から話すことと、誰かを通して伝わることは違う。
「じゃあ、次は九条家かな」
彩花が言う。
「予定が合えば」
「緊張する」
「ハクいるから大丈夫」
「またそれ?」
「ハク見てれば緊張しないって彩花さんが言った」
「言ったけど」
「俺もいる」
「それも知ってる」
「琴葉もいる」
「知ってるって」
「お祖父様もたぶんいる」
「……緊張増えた」
「あ」
「何で増やすの」
「ごめん」
二人で笑う。
彩花は改札の方へ向かう前に、もう一度悠真を見る。
「でも、楽しみにしてるよ」
「俺も」
「今度は悠真君の家だね」
「うん。今度は、もっと普段の俺がいるところ」
文化祭では学校。
今日は彩花の好きな場所。
次は悠真の家。
一度にすべてを知るのではなく、互いの世界を少しずつ見せ合っている。
彩花には、その速度が心地よかった。
「またね、悠真君」
「またね、彩花さん」
二人はそれぞれの帰路へ向かった。
◇
その夜。
彩花は机の前に座り、文芸部のノートを開いた。
昨日までの言葉の下へ、新しく一行を書く。
『好きな場所を見せることは、自分のことを少しだけ渡すのに似ている。』
そこで一度ペンを止める。
今日、悠真へ見せたのは川沿いの景色だけではなかった。
昔、自分がどんなことで悩んでいたのか。
姉を好きなのに、比べて苦しくなっていたこと。
自分を好きになれなかった時期があったこと。
それを全部ではないにしても、今までより深く話した。
怖くなかったわけではない。
けれど悠真は、必要以上に慰めることも、凛花を悪者にすることも、自分の悩みを小さなものとして扱うこともしなかった。
ただ聞いて、受け取ってくれた。
彩花は次の行へペンを進める。
『大切な人に見せたい景色は、その人に知ってほしい自分なのかもしれない。』
書き終えたところで、彩花の手が止まった。
(……大切な人)
自分で書いた言葉を見つめる。
友達。
仲のいい人。
特別な人。
これまで、いろいろな言葉を考えた。
けれど今、自然に出てきたのは「大切な人」だった。
恋という意味ではない。
少なくとも、彩花自身はまだそこまで考えていない。
ただ、悠真との関係を失いたくない。
これからも話したい。
もっと知りたい。
自分のことも知ってほしい。
そう思う相手を、大切な人と呼ぶことは間違っていない気がした。
(うん。これならいい)
彩花はその一文を消さなかった。
スマートフォンが震える。
悠真からメッセージだった。
『家の予定確認できた。』
続けて候補の日付が届く。
彩花は自分の予定と照らし合わせる。
先日確認した日と一致していた。
『その日なら大丈夫。』
送る。
『じゃあその日にしよう。』
『うん。』
少しだけ緊張する。
けれど、それ以上に楽しみだった。
『ハクに会える。』
彩花が送ると、すぐに返事が来た。
『やっぱり最初それなんだ。』
『楽しみにしてたから。』
『俺にも会えるよ。』
彩花は画面を見ながら笑った。
『今日も会ったでしょ。』
『でも家で会うのは初めて。』
『それはそうだけど。』
『俺も楽しみにしてる。』
彩花は少し考えてから返信する。
『私も楽しみにしてるよ。悠真君の家に行くの。』
送信したあと、先ほどノートへ書いた一文へ視線を戻す。
『大切な人に見せたい景色は、その人に知ってほしい自分なのかもしれない。』
今日、自分の景色を悠真へ見せた。
次は、悠真が暮らしている場所へ行く。
知らないことが減るたびに、もっと知りたいことが増えていく。
彩花はそれを不思議に思いながらも、もう怖いとは感じなかった。
机の上で再びスマートフォンが震える。
『ハク、たぶんすごく喜ぶと思う。』
その一文を見て、彩花はまだ会ったことのない白い大型犬を想像した。
(飛びつかれないようにしないと)
今度は、悠真が長く暮らしてきた場所へ。
そして、話を聞くたびに会いたいと思っていた家族の一員へ。
次の約束が、ようやく具体的な形になった。




