第53話 今度は、私が見せたい場所
桜華学園の文化祭が終わった翌日、彩花はいつもより少し遅い時間に目を覚ました。
昨日は朝から出かけ、広い校内を歩き回った。悠真に案内してもらった時間だけでなく、琴葉や玲奈、凛花ともいくつもの場所を回ったため、家に帰った頃には思っていた以上に身体が疲れていたらしい。
それでも目覚めたときの気分は悪くなかった。
カーテンの隙間から入る朝の光を眺めながら、彩花は布団の中で昨日のことを思い返す。
桜華の正門を初めてくぐったこと。
受付の向こうで悠真が待っていたこと。
学校の友人たちと話す姿や、生徒会の仕事をする姿を見たこと。
図書室で一緒に本を眺めたこと。
そして、悠真が昔から好きだという渡り廊下へ連れていってもらったこと。
昼間と夕方、二度見た並木の景色は、目を閉じれば今でも思い出せる。
(楽しかったな)
言葉にすると、それだけだった。
けれど、その一言の中に思い浮かぶものが多すぎる。
彩花は枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。
昨夜、悠真と最後に交わしたメッセージが残っている。
『次は彩花さんの好きな場所、楽しみにしてる。』
『ちゃんと考えとく。』
『悠真君には当日まで内緒。』
『仕返しされた。』
『今日の分。』
『分かった。楽しみに待ってる。』
読み返したところで、彩花は小さく息を吐いた。
「……どうしよう」
昨夜は勢いで秘密にした。
問題は、まだどこへ連れていくか決めていないことである。
中央図書館は違う。
そこは自分だけの好きな場所というより、すでに二人にとって当たり前の場所になっている。
青葉高校も文化祭で悠真が来ている。
文芸部の部室や教室を見せることはできたが、悠真が渡り廊下を見せてくれたときに感じたものとは少し違う気がした。
(私が好きで、悠真君にはまだ見せてない場所……)
思い浮かべようとすると、意外に難しい。
好きな場所はある。
けれど、それを誰かへ「見せたい場所」として考えたことがなかった。
彩花は布団から出ると、着替える前に机へ向かった。
昨夜書いたノートを開く。
『知らないことがあるから、もっと知りたいと思える。』
その下には、まだ何も書かれていない。
ペンを持ち、思いつく場所をいくつか書き出してみる。
『中央図書館』
これは違う。
横に小さく線を引く。
『青葉高校』
これも悠真はすでに来ている。
『駅前の本屋』
何度か一緒に行った。
『家の近くの公園』
候補ではある。
『川沿いの道』
ここでペンが止まった。
家から少し歩いたところに、小さな川が流れている。
有名な観光地ではない。
遊歩道が整備され、近所の人が散歩やジョギングに使っている程度の場所だ。
けれど彩花は、昔からそこを歩くのが好きだった。
春は桜。
夏は濃い緑。
秋になると川沿いの木々が色づき、夕方には水面へ空の色が映る。
家族で歩いたこともあるし、一人で本屋へ行った帰りに遠回りして通ることもある。
気持ちが落ち着かないとき、理由もなく歩いたこともあった。
(……ここなら)
悠真が見せてくれた渡り廊下とは違う。
学校でもない。
けれど、自分が長く見てきた景色という意味では少し似ている。
彩花は候補の横に、小さな丸をつけた。
まだ決定ではない。
実際にもう一度歩いてから決めよう。
そう思ったところで、階下から母の声が聞こえた。
「彩花ー、起きてるなら朝ご飯食べちゃいなさい」
「はーい」
彩花はノートを閉じ、ようやく部屋を出た。
◇
リビングへ下りると、凛花はすでに朝食を終えかけていた。
「おはよう」
「おはよう。遅かったね」
「昨日いっぱい歩いたから」
「でしょうね。桜華広いし」
紗月が彩花の前へ朝食を置きながら笑う。
「昨日、楽しかった?」
「うん。すごく」
「帰ってきたときから分かりやすかったけどね」
「そんなに?」
「ずっと機嫌よかったもの」
彩花は少し恥ずかしくなり、味噌汁へ視線を落とした。
凛花がそれを見ていたが、昨日の悠真とのことを細かく聞き出そうとはしなかった。
「文化祭、どこが一番よかった?」
紗月が尋ねる。
「一番?」
「図書室とか、お姉ちゃんの剣道部とか、いろいろ見たんでしょう?」
「うん……」
彩花は箸を止めて考えた。
図書室も楽しかった。
琴葉や玲奈と回った展示も面白かった。
凛花の学校での姿を見ることもできた。
それでも最初に浮かんだ場所は一つだった。
「渡り廊下かな」
「渡り廊下?」
紗月が不思議そうに聞き返す。
「普通の渡り廊下なんだけど、窓から並木が見えるの。悠真君が昔から好きな場所なんだって」
凛花の箸がほんの少しだけ止まった。
彩花は気づかず続ける。
「昼と夕方で景色が違って、二回見に行った」
「二回?」
「最初は悠真君が連れていってくれて、夕方は私がもう一回行きたいって言ったの」
「へえ」
紗月は娘の表情を見ながら、穏やかに笑った。
「そんなに気に入ったのね」
「うん。景色も綺麗だったし……」
彩花は少し迷ってから、もう今さら隠すことでもないと思い直す。
「悠真君が好きな場所だって知ったから、余計に好きだったのかも」
紗月は一瞬だけ目を細めたものの、からかうようなことは言わなかった。
「いいところを教えてもらったのね」
「うん」
それだけで会話を受け止めてくれたことに、彩花は少し安心した。
向かいでは凛花が静かに朝食を続けている。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「また何か考えてる?」
「考えてない」
「本当に?」
「……少しだけ」
「何を?」
凛花は箸を置き、妹を見る。
「九条が、自分の好きな場所を彩花に見せたんだなって」
「うん」
「それで彩花も、そこを好きになったんだなって」
「……うん」
凛花はそれ以上何も言わず、飲み物へ口をつけた。
妹の関係に名前を付けるつもりはない。
ただ、昨日より一つだけ分かったことがある。
悠真は彩花へ、単に桜華学園を案内したかったのではない。
自分が長く見てきた景色を共有したかったのだ。
そして彩花も、それを大切に受け取っている。
「私もね」
彩花が続ける。
「今度は、私が好きな場所を見せるって言った」
凛花が再び止まる。
「九条に?」
「うん」
「どこ?」
「まだ秘密」
「私にも?」
「悠真君にもまだ教えてないから」
「決まってるの?」
「候補はある」
「どこ?」
「だから秘密」
凛花は納得していない顔をした。
紗月が笑う。
「いいじゃない。彩花が自分で決めるんだから」
「別に止めてないよ」
「顔が止めたそうなのよ」
「そんな顔してない」
「してる」
母娘のやり取りを見て、彩花も笑った。
以前なら、家族へ悠真との予定をここまで自然に話すこと自体、少し躊躇したかもしれない。
今はもう、隠す理由がなかった。
◇
同じ朝、九条家でも文化祭の話題が出ていた。
悠真が朝食の席へ着くと、すでに琴葉が紅茶を飲んでいる。麗華と正樹も席におり、俊治は新聞から顔を上げて孫を見た。
「昨日は随分楽しそうだったそうだな」
「文化祭?」
「それ以外に何がある」
俊治が笑う。
悠真は席へ座りながら、琴葉を見る。
「何か言った?」
「私は何も」
「では誰から聞いたんだろう」
「お前の顔を見れば分かる」
「そんなに?」
「分かりやすいぞ」
正樹まで笑っている。
悠真は自分では普段通りのつもりだったが、家族全員から同じ反応をされると少し自信がなくなった。
「水瀬さんは楽しんでくださったの?」
麗華が尋ねる。
「うん。かなり」
「それはよかったわね」
「図書室も見たし、俺の教室と生徒会室の近くも見た。琴葉たちとも回ってたし、水瀬先輩の剣道部にも行ったみたい」
「兄様のお好きな場所にもお連れしたのでしょう?」
琴葉が付け加える。
麗華が興味を示す。
「悠真の好きな場所?」
「渡り廊下。並木が見えるところ」
「あそこね」
麗華はすぐに分かったらしい。
「昔からよく窓の外を見ていたものね」
「母さん知ってたの?」
「授業参観や学校行事で何度か見たことがあるわ。あなた、幼い頃から景色を見るのは好きだったでしょう?」
悠真自身は、家族にわざわざ話した覚えがない。
それでも母親は知っていたらしい。
「彩花さん、気に入ってくれた」
「それならよかったわね」
「夕方にもう一回行きたいって言ってくれて」
言いながら、悠真の表情が自然に緩む。
正樹がそれを見て、何も言わずにコーヒーを飲んだ。
俊治は楽しそうに笑っている。
「それは嬉しかっただろう」
「うん」
悠真は否定しない。
「俺が好きだから、その場所も好きって言ってくれた」
琴葉は昨日すでに聞いている。
しかし麗華と正樹は初耳だった。
麗華は息子の表情を見ながら、穏やかに目を細める。
「素敵なことを言ってくださるのね」
「うん」
「兄様、昨日から何度そのお話をなさるおつもりですか?」
琴葉が少し呆れたように言う。
「そんなにしてないだろ」
「私には二度目です」
「二回なら多くない」
「普段の兄様でしたら、一度で終わる話題です」
「……そうかな」
悠真は本気で考えている。
琴葉は小さく息を吐いた。
「それほど嬉しかったということなのでしょう」
「うん。それはそう」
結局そこは即答する。
家族の間に笑いが広がった。
「そういえば」
悠真は思い出したように続ける。
「彩花さんに、そろそろ家へ来てもらう日を決めたいんだけど」
話題が変わり、麗華が姿勢を少し正した。
「もちろん。以前からお招きする話はしていたものね」
「文化祭終わったら予定考えようって話した」
「水瀬さんのご都合を一番にしてちょうだい。こちらは合わせられる日を確認しておくわ」
「ありがとう」
正樹も頷く。
「私たちが全員揃う必要があるなら調整するが、あまり大げさに迎えると水瀬さんが緊張するんじゃないか?」
「俺もそれは思ってる」
「なら普段通りが一番だろう」
「うん」
俊治が新聞を畳む。
「わしは会ってみたいがな」
「お祖父様、張り切りすぎないでください」
「分かっておる」
「そのお返事が一番不安です」
琴葉の言葉に、また笑いが起こる。
悠真も笑いながら、少しだけ考えた。
彩花が九条家へ来る。
ハクに会い、自分が育った家を見る。
昨日とは逆ではない。
昨日に続いて、もう少し自分の側を知ってもらうことになる。
けれど今度は、それだけではない。
(彩花さんの好きな場所も、いつか見せてもらえる)
まだどこなのか知らない。
だから楽しみだった。
◇
翌日の青葉高校では、文化祭を終えた桜華とは違い、普段通りの授業が行われていた。
昼休み、彩花は教室で昼食を取りながら、昨夜から考えている場所についてまだ迷っていた。
川沿いの遊歩道。
候補としてはかなりいい。
ただ、自分が本当に悠真へ見せたい場所なのかは、実際に歩いて確かめたかった。
「水瀬、何か考え事?」
向かいから声をかけられ、彩花は顔を上げる。
大地が購買で買ったパンを食べながらこちらを見ていた。
「そんな顔してた?」
「さっきから卵焼き持ったまま止まってた」
「え」
彩花は箸を確認し、慌てて卵焼きを口へ運ぶ。
「ちょっと考えてただけ」
「文化祭?」
「桜華の?」
「昨日だったんだろ?」
「うん。行ってきた」
「どうだった?」
「楽しかったよ」
彩花は昨日の景色を思い出しながら答える。
「青葉とは全然違った。でも、教室とか入るとちゃんと普通の学校だった」
「当たり前だろ」
「分かってるけど、桜華って名前だけ聞くとちょっとすごそうじゃない?」
「まあ、それは分かる」
大地はパンの袋を畳みながら頷く。
「九条もいた?」
「いたよ。案内してくれた」
「やっぱり」
「何、その『やっぱり』」
「前に言ってたじゃん。九条が案内するって」
「ああ、そういうこと」
大地は特別な意味を持たせず話を続ける。
「何が一番よかった?」
今度は家でも聞かれた質問だった。
彩花はもう迷わない。
「渡り廊下」
「文化祭で?」
「うん」
「何か展示あったの?」
「何もないよ」
「じゃあ何で?」
「悠真君が好きな場所だったから」
大地の手が一瞬止まる。
「……悠真君?」
彩花もそこで気づいた。
教室で、大地の前で、あまりにも自然に名前を呼んでいた。
「最近、そう呼ぶこともあるの」
「へえ」
大地は少し驚いたものの、それ以上深く追及しなかった。
「仲良くなったんだな」
「うん」
彩花も自然に答える。
もう、その言葉を否定する理由はない。
「それで、その渡り廊下がよかったの?」
「並木が見えて綺麗だった。それに、悠真君が昔から好きな場所なんだって」
「なるほど」
大地は納得したように頷く。
「じゃあ観光名所じゃなくて、九条のおすすめだったからよかった感じか」
「たぶん、それが大きい」
彩花は自分の弁当箱へ視線を落とす。
「私も今度、自分が好きな場所を見せるって言ったんだけど、どこにするか考えてるところ」
「それで卵焼き持ったまま止まってたのか」
「そこはもういいでしょ」
「普通に好きな場所でいいんじゃない?」
「普通すぎてもつまらなくない?」
「九条が普通の渡り廊下見せてきたんだろ?」
「……そうだけど」
「なら同じじゃん」
大地は何でもないことのように言う。
「水瀬が好きなら、相手はそれ見たいんじゃないの?」
彩花は少しだけ目を見開いた。
昨日、悠真にも似たことを言われた。
『彩花さんが好きなところなら見たい。』
大地はその会話を知らない。
それでも、外から見れば答えは簡単らしい。
「そっか」
「何?」
「ううん。ありがとう」
「俺、何かいいこと言った?」
「ちょっとだけ」
「じゃあパン一個くれ」
「何でそうなるの」
「いい助言料」
「自分のあるでしょ」
彩花が笑い、大地も笑う。
昼休みの教室には、いつも通りのざわめきが流れていた。
◇
放課後、彩花は文芸部の部室へ向かった。
文化祭が終わってから、部室には以前の落ち着きが戻っている。机の上には新しい本や部誌の資料が置かれ、窓の外から入る午後の光が床へ長く伸びていた。
佐々木先輩は机で何かを書いていたが、彩花が入ると顔を上げた。
「お疲れさま、水瀬さん」
「お疲れさまです」
「桜華の文化祭、行ったんだっけ?」
「はい。昨日行ってきました」
「どうだった?」
「楽しかったです」
彩花は鞄を置き、いつもの席へ座る。
「図書室がすごく広くて、展示も面白かったです。それから、写真部とか美術部の展示も見ました」
「文芸系は?」
「図書室の展示をかなり見ました。あと、文化部の合同展示も」
「勉強熱心だね」
「そういうつもりじゃないですけど」
彩花は笑いながらノートを取り出した。
佐々木先輩の視線がそのノートへ向く。
「何か増えた?」
「一つだけ」
「見せてもらってもいい?」
「はい」
彩花は昨夜書いたページを開く。
『知らないことがあるから、もっと知りたいと思える。』
佐々木先輩はその一文を読み、少しだけ考えた。
「前の名前の話と、つながってる?」
「たぶん。でも、それだけじゃない気がします」
「じゃあ別の話になるかもしれないね」
「はい」
以前の彩花なら、ここで「まだ何も決まってません」と先に否定していたかもしれない。
今日は違う。
「まだ形は分からないです。でも、書いてみたいものが少し増えました」
「いいね」
佐々木先輩はそれ以上答えを求めない。
「冬の校内文芸誌の話、まだ正式決定じゃないけど、先生も前向きみたい。もし決まったら、締切までは余裕あると思うよ」
「分かりました」
「書けそう?」
彩花はノートへ視線を落とした。
書けると断言できるほど形にはなっていない。
けれど、以前のような怖さはなかった。
「書きたいです」
その答えだけは、すぐに出た。
「じゃあ、それで十分」
佐々木先輩は自分の作業へ戻る。
彩花もノートを開いたまま、ペンを手に取った。
名前。
知らないこと。
誰かが見ている景色。
自分が見せたい場所。
まだ一本の物語にはならない。
それでも、書き留めておきたいものは確実に増えている。
◇
文芸部を終えたあと、彩花はいつもの帰り道から少し外れた。
家へまっすぐ帰るなら通らない道へ入り、住宅街を十分ほど歩く。
やがて視界が開け、小さな川が見えてきた。
川幅はそれほど広くない。
両岸には遊歩道があり、ところどころにベンチが置かれている。夕方なので犬を散歩させる人や、ジョギングをする人、買い物帰りらしい自転車が行き交っていた。
彩花は遊歩道へ降りる。
川沿いの木々は少しずつ秋の色へ変わり始めている。
桜華の渡り廊下から見た並木ほど整然とはしていない。
木の種類も高さもばらばらで、ところどころ枝が遊歩道側へ伸びている。
それでも彩花は、この景色が好きだった。
(久しぶりかも)
最近は図書館へ寄ったり、文芸部の活動が増えたりして、以前ほどこの道を通っていなかった。
ゆっくり歩きながら、昔のことを思い出す。
小学生の頃、家族で散歩した。
凛花と二人で歩いたこともある。
中学生になってからは、一人で歩くことが増えた。
何となく家へ帰りたくない日。
凛花と自分を比べて落ち込んだ日。
学校でうまく話せなかった日。
そんなとき、遠回りになると分かっていても、この道を歩いた。
川の流れを見ていると、少しだけ頭の中が静かになった。
別に問題が解決するわけではない。
自信がつくわけでもない。
それでも、家へ帰る頃には少しだけ呼吸が楽になっていた。
(……ここ、見せたいかも)
彩花は足を止め、川面を見る。
夕方の空が水面へ薄く映っている。
悠真が見せてくれた場所は、彼にとって穏やかな日常の一部だった。
自分にとって、この道もそうだ。
ただし、少し違う。
ここには、昔の自分の弱さも残っている。
誰かと比べて、自分なんてと思っていた頃。
そういう気持ちを全部悠真へ話したわけではない。
家族との関係が悪いわけではないことも、今は自分自身が分かっている。
凛花を嫌っていたわけでもない。
ただ、姉が何でもできるように見えて、その隣にいる自分が小さく感じていた。
その詳しい話を、悠真はまだ知らない。
(ここに連れてきたら、話すのかな)
彩花は考える。
見せたい場所を見せることと、そこで起きたことを全部話すことは同じではない。
悠真もそうだった。
渡り廊下へ連れていってくれたからといって、そこで過ごした年月のすべてを説明したわけではない。
自分も、話せるところだけでいい。
それなら怖くなかった。
彩花は再び歩き始める。
少し先に、小さな橋がある。
橋の手前には一本の大きな木があり、その近くに古いベンチが置かれている。昔からあるものだが、何度か修繕されているので座ることに問題はない。
彩花はそのベンチへ腰を下ろした。
ここからだと、川が緩やかに曲がるところまで見える。
夕方の光が水面を照らし、ときどき風が吹くたび細かな波が広がった。
「……うん」
声に出してみる。
ここがいい。
派手ではない。
有名でもない。
悠真が来たからといって、驚くようなものは何もない。
それでも、自分が長く見てきた景色だ。
彩花はスマートフォンを取り出した。
悠真へ連絡しようとして、指を止める。
(場所は内緒なんだった)
昨日、自分からそう言った。
なら今は教えない。
代わりに別のメッセージを打つ。
『見せたい場所、決めたよ。』
送信する。
数分もしないうちに返信が来た。
『本当?』
『うん。』
『どこ?』
彩花は思わず笑った。
『内緒って言ったでしょ。』
『やっぱり駄目か。』
『駄目です。』
『じゃあ当日まで待つ。』
その文章を読んで、彩花は少し考えた。
『普通の場所だよ。』
送る。
すぐに返ってきた。
『それも前に聞いた気がする。』
彩花は吹き出しそうになった。
確かに、悠真も同じことを言っていた。
『でも、本当に普通。』
『彩花さんが好きな場所なら、それでいいよ。』
昨日と同じ答え。
彩花は川の向こうを見た。
胸の奥が温かくなる。
『じゃあ、今度一緒に行こう。』
少し間を置いて返事が来た。
『うん。行きたい。』
予定の日はまだ決めていない。
けれど場所は決まった。
今度は彩花が、悠真を自分の景色へ連れていく。
◇
その日の夜、悠真は自室の机でスマートフォンを見ながら、少し考えていた。
彩花が見せたい場所を決めた。
普通の場所だと言っている。
それ以外は何も分からない。
(どこだろう)
中央図書館ではないだろう。
青葉高校もすでに行った。
駅前の書店も何度か一緒に見ている。
だから、自分がまだ知らない場所なのだと思う。
予想しようとしたところで、悠真はやめた。
彩花が当日まで秘密にしたいと言っている。
なら、知らないまま行く方がいい。
昨日、渡り廊下へ連れていったときのことを思い出す。
最初に彩花が窓の外を見て「綺麗」と言ったこと。
夕方にもう一度行きたいと言ってくれたこと。
そして、自分が好きな場所だから好きだと言ってくれたこと。
今度は、自分が彩花の好きな景色を見る。
(楽しみだな)
素直にそう思う。
スマートフォンへ新しいメッセージが届いた。
彩花からだった。
『そういえば、九条家の予定も決めないとだよね。』
悠真はすぐに返信する。
『うん。家族にも話した。』
少し間が空く。
『もう話したの?』
『前から来てもらう話は知ってるから。』
『そっか。』
『母さんたちも歓迎してる。』
また少し間が空いた。
『ちょっと緊張してきた。』
悠真は画面を見て笑う。
『普通に来てくれれば大丈夫。』
『九条家で普通って難しくない?』
『家の中は普通だよ。』
『悠真君の普通、たまに信用できない。』
『ひどい。』
『だって桜華の図書室も普通みたいに言ってたし。』
『学校の図書室としては広いかも。』
『やっぱり。』
文字だけのやり取りなのに、彩花がどんな顔をしているのか少し想像できる。
たぶん笑っている。
悠真はそのまま返信を続けた。
『ハクは普通じゃないくらい大きい。』
『そこは知ってる。』
『でも可愛い。』
『それも何回も聞いた。』
『会ったら分かる。』
『楽しみにしてる。』
その一文を見て、悠真の表情が緩む。
自分の家へ来ることを、彩花が楽しみにしてくれている。
以前から決まっていた予定なのに、文化祭を終えた今は少し意味が違って感じられた。
桜華で、自分の学校生活を見てもらった。
次は九条家で、もっと日常に近い自分を知ってもらう。
そして別の日には、彩花が好きな場所へ連れていってもらう。
どちらが先になるかは、まだ決まっていない。
悠真は無理に順番を決めず、予定を合わせるための候補日をいくつか確認することにした。
◇
翌日の昼休み。
桜華学園では文化祭の片づけもほぼ終わり、校内はいつもの雰囲気へ戻っていた。
悠真が昼食を持って席を立つと、湊が近づいてくる。
「九条、今日生徒会ない?」
「昼はないよ」
「じゃあ一緒に食おうぜ」
「うん」
二人は教室を出て、比較的人の少ない場所へ移動した。
文化祭の話をいくつかしたあと、湊が思い出したように尋ねる。
「そういえば、水瀬さん楽しんでた?」
「うん。かなり」
「よかったじゃん」
「渡り廊下も気に入ってくれた」
「あそこ連れていったんだろ?」
「うん。夕方にもう一回行きたいって言ってくれて」
悠真の声が少し嬉しそうになる。
湊はそれを聞きながら昼食を口へ運ぶ。
「で?」
「何が?」
「それで終わり?」
「終わりって?」
「お前、昨日あれだけ楽しみにしてたから、今日はもっとぼーっとしてるかと思った」
「何でぼーっとするんだよ」
「知らんけど」
湊は笑う。
悠真も苦笑した。
「普通だよ。ただ、今度は彩花さんの好きな場所に連れていってもらう」
「へえ」
「場所は秘密らしい」
「楽しそうだな」
「うん。楽しみ」
悠真は即答する。
湊は少しだけ目を細めた。
以前なら、悠真はここまで迷わず自分の気持ちを言っただろうか。
水瀬彩花と会うのが楽しみ。
彼女の好きな場所を知りたい。
彼女だから案内したい。
今の悠真は、それを特別なことだと理解しながらも否定しない。
「九条」
「何?」
「お前、最近分かりやすくなったな」
「またそれ?」
「みんな言う?」
「かなり」
「じゃあ俺だけじゃないな」
「何が分かりやすいのかは、いまいち分からないけど」
「そこはそのうち自分で考えろ」
「何で誰も教えてくれないんだよ」
悠真が少し不満そうに言う。
湊は笑いながら飲み物を口にした。
「自分で分かった方がいいこともあるだろ」
それ以上は言わない。
湊自身、二人の関係を勝手に決めるつもりはなかった。
ただ、悠真が以前より自分の気持ちへ素直になっていることだけは分かる。
それが何という名前になるのかは、本人が気づくまで待てばいい。
◇
数日後。
彩花は中央図書館のいつもの席で、本を開いていた。
向かいには悠真がいる。
文化祭以来、初めて二人でここへ来た。
特別なことをしているわけではない。
それぞれ自分の本を読み、ときどき気になったことを話す。
以前から続いている時間だ。
けれど呼び方だけは、以前とは少し変わっている。
「悠真君」
彩花が小さな声で呼ぶ。
悠真が本から顔を上げる。
「何?」
「この前、桜華の図書室で見つけた本、覚えてる?」
「映画館の話?」
「うん。中央図書館にもあった」
彩花が机の端に置いていた一冊を見せる。
「借りるの?」
「そのつもり」
「俺も読もうかな」
「同時に?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
彩花は少し考える。
「じゃあ、先に読み終わった方は感想言うの待つ?」
「それがいいかも。相手の感想聞いてから読むと、そこ気にしそうだし」
「分かる」
二人は自然にルールを決める。
以前の本の交換とは違う。
今度は同じ本を、それぞれ自分で借りたり探したりして読む。
それでも、読み終えたら話したい相手は決まっている。
「それと」
悠真がスマートフォンを取り出す。
「家の予定、候補日分かった」
「本当?」
「うん。今月なら、この辺り」
画面を彩花へ向ける。
いくつかの日が示されている。
彩花は自分の予定を思い出しながら確認した。
「文芸部の予定も見ないと分からないけど、たぶんここなら大丈夫」
「じゃあ一回確認して、また連絡して」
「うん」
「無理に早い日にしなくていいからね」
「分かってる」
彩花は頷き、少しだけ笑った。
「でも、私もハクに会いたいから」
「ハクだけ?」
悠真が尋ねる。
彩花は一瞬意味が分からず、首を傾げる。
「え?」
「いや……家に来る理由」
「ハクだけじゃないよ」
「そっか」
「琴葉ちゃんもいるし、悠真君の家も見てみたいし」
そこまで言ってから、彩花は少し考える。
「悠真君が普段いるところ、もっと知りたいから」
悠真が黙った。
彩花はすぐに気づく。
「また嬉しい?」
「うん」
「分かるようになってきた」
「そんなに顔に出てる?」
「私にはね」
文化祭でも言った言葉だった。
今度は、悠真も少し照れたように笑う。
「じゃあ隠せないな」
「隠すつもりあったの?」
「ないけど」
二人の間に、静かな笑いが落ちる。
図書館にはページをめくる音が響き、窓から午後の光が差し込んでいる。
出会った頃と同じ場所。
同じように向かい合って本を読んでいる。
それなのに、あの頃とはずいぶん違う。
名前を呼ぶこと。
会いたいと言うこと。
自分が好きなものを見せたいと思うこと。
相手の好きなものを知りたいと思うこと。
どれも突然始まったわけではない。
少しずつ積み重なって、今では自然なことになり始めている。
彩花は本を開き直す前に、ノートの端へ書いておこうと思った言葉を頭の中で確かめた。
(好きな場所を見せるのは、自分のことを少しだけ渡すのに似てるのかもしれない)
まだ物語に使えるかは分からない。
それでも、あとで書いておこうと思う。
「彩花さん」
「何?」
「今度の場所、まだ教えてくれない?」
「教えないよ」
「少しだけヒント」
「駄目」
「何系?」
「何系って何?」
「本があるとか、景色がいいとか」
「それ言ったら分かるかもしれないから駄目」
「そんなに俺、当てられそう?」
「分からないけど、秘密にするって決めたから」
彩花が楽しそうに笑う。
悠真は諦めたように本へ視線を戻した。
「じゃあ待つ」
「うん。待ってて」
今度は自分が案内する。
その日を想像すると、少し緊張する。
それ以上に楽しみだった。
誰かに自分の好きな場所を見せたいと思ったのは、彩花にとって初めてかもしれない。
そして、その相手が悠真であることを、もう不思議だとは思わなかった。




