第52話 同じ景色を、もう一度
図書室を出た彩花と悠真は、昼間にも通った廊下を並んで歩いていた。
文化祭は終わりへ向かい始めており、校内には昼頃とは違う空気が流れている。来場者の数はまだ多いものの、正門へ向かって歩く家族連れが目立つようになり、模擬店の前には「完売」の札も増えていた。遠くから聞こえてくる校内放送では一般公開の終了時間が案内され、その声に気づいた来場者たちがパンフレットを開いて残り時間を確認している。
彩花は午前中から何度も見てきた校舎を眺めながら、少し不思議な気持ちになっていた。
初めて来た場所なのに、もう知っているところがある。
悠真の教室。
生徒会室へ続く廊下。
大きな図書室。
踊り場に窓のある階段。
そして、これからもう一度向かう渡り廊下。
建物の配置を覚えたというだけではない。そこへ行くたび、今日交わした会話や、そのときの悠真の表情が一緒に思い浮かぶ。
「疲れてない?」
隣から声をかけられ、彩花は悠真を見た。
「ちょっとだけ。でも大丈夫」
「結構歩いたよね」
「桜華が広いんだよ」
「それは否定できない」
悠真は笑いながら、少しだけ歩く速度を落とした。
言葉にして「ゆっくり歩こう」と確認したわけではない。それでも彩花の歩調へ合わせるように速度が変わったことに気づき、彩花も何も言わずその隣を歩き続けた。
「悠真君は疲れてないの? 朝から仕事してたんでしょ?」
「少しは。でも、もう仕事終わったから気が楽」
「午前中も忙しかった?」
「それなりに。受付が始まってすぐは確認することが多かったし、昼前から人が増えたから」
「その間に私の案内までしてたんだよね」
「休憩中だったから」
「それは分かってるけど」
彩花は一度前へ視線を戻した。
昼間にも同じことを確認した。
他の人へ仕事を押しつけていないか。
無理をしていないか。
悠真はきちんと説明してくれたので、もう疑ってはいない。
「今日ね、琴葉ちゃんたちと回ってるときも考えたの」
「何を?」
「悠真君、結構ちゃんと考えて案内してくれてたんだなって」
「今さら?」
「だって、一人で歩いたら普通に迷いそうになったから」
「迷ったの?」
「迷ってはいないよ。案内冊子見たから」
「それは迷いかけたって言うんじゃない?」
「言わない」
彩花が少しむっとすると、悠真が楽しそうに笑う。
「でも、分かった」
「何が?」
「次はもっと分かりやすい地図作る」
「次?」
彩花が聞き返すと、悠真は自分の言葉に気づいたように瞬きをした。
「……次に彩花さんが桜華へ来ることがあったら」
「文化祭じゃないと入れないんじゃない?」
「行事とか、九条家に来るときに近く通るかもしれないし」
「ああ、そっか」
以前から話している九条家への訪問。
日程はまだ決まっていない。
けれど、いつか行くという話そのものは残っている。
「ハクにも会いたいし」
「うん。ハク、彩花さんのこと絶対好きだと思う」
「まだ会ってないのに?」
「人好きだから」
「それ、私じゃなくても好きなんじゃない?」
「……確かに」
二人で笑う。
未来の話をしたのに、不思議と重くならなかった。
いつか九条家へ行く。
ハクに会う。
それは遠い約束ではなく、都合が合えば実現する予定として二人の間に置かれている。
「日程、文化祭終わったら考えようか」
悠真が言う。
「いいの?」
「もちろん。前から来てほしいって言ってるし」
「じゃあ、また相談しよう」
「うん」
それだけ決めて、二人は歩き続けた。
◇
渡り廊下へ近づくにつれて、人の数が少なくなった。
文化祭の展示や企画が集中している区域から外れているため、昼間も静かだったが、一般公開の終了が近づいた今はさらに人通りが減っている。ときどき生徒や来場者が通り過ぎる程度で、遠くから届く文化祭の音も少し弱く感じられた。
悠真が先に渡り廊下へ入り、彩花もその隣へ並ぶ。
昼間と同じ場所。
けれど窓の向こうに広がる景色は、確かに違っていた。
「……わあ」
彩花は思わず窓へ近づいた。
傾き始めた陽の光が、並木を横から照らしている。緑の中へ混じり始めた黄色や橙色の葉は昼間より色濃く見え、風に揺れるたび光の当たり方を変えていた。石畳へ落ちる木々の影も長く伸び、文化祭のために立てられた案内板や装飾まで、昼間とは少し違った表情を見せている。
「本当に違う」
「でしょ?」
悠真の声が少し嬉しそうだった。
「昼はもっと明るかった」
「夕方は光が横から入るから、葉の色が分かりやすいんだよ。もう少し季節が進むと、もっと黄色くなる」
「その頃も綺麗そう」
「うん。俺はその時期が一番好きかも」
彩花は窓の向こうを見ながら、昼間に聞いた話を思い出す。
忙しい日にここを通り、いつの間にか季節が変わっていることに気づく。
それが悠真の日常だった。
「悠真君、ここで立ち止まることあるの?」
「たまに。ずっと見てるわけじゃないけど、急いでない日は少し」
「一人で?」
「だいたい一人」
「そっか」
彩花は少しだけ想像する。
今と同じ場所に、一人で立つ悠真。
制服姿で窓の外を見て、木々の変化に気づく。
図書館で本を読む悠真とも、生徒会室で仕事をする悠真とも違う。
今日まで知らなかった姿だった。
「今日、いっぱい見たよ」
彩花が言うと、悠真がこちらを向いた。
「何を?」
「私が知らなかった悠真君」
「そんなにあった?」
「あったよ。学校で友達と話してるところとか、生徒会の仕事してるところとか、昔から通ってる階段とか。ここが好きなことも知らなかった」
「仕事してるところはそんなに見てないだろ?」
「少し見たし、あと琴葉ちゃんたちからも聞いた」
「何を?」
「ちゃんと仕事してるって」
「そこ疑われてたの?」
「疑ってないよ」
彩花は笑いながら首を振った。
「でも、図書館で会ってるときの悠真君しか知らなかった頃に比べたら、すごく増えたなって思って」
悠真は少し考え、それから窓へ視線を戻した。
「俺もそうだよ」
「私も?」
「うん。最初は図書館で本取れなくて困ってる人だった」
「そこからなの?」
「そこからでしょ」
「もっと別の覚え方してよ」
「ちゃんと続きがあるから」
悠真は笑う。
「本取ったらすごく嬉しそうに笑った人。それから、よく同じ時間に図書館に来る人になって、話すようになって、本の好みを知って、料理できるの知って、裁縫もできるの知った」
「……結構覚えてるね」
「彩花さんのことなら覚えてるよ」
何気ない声だった。
それなのに、彩花の胸が少しだけ速くなる。
悠真はもう、こういうことを迷わず言う。
そして彩花も、そのたびに「どうして」とは聞かなくなった。
「私も覚えてるよ」
「俺のこと?」
「うん。最初は背が高くて本取ってくれた人」
「同じじゃん」
「そのあと何回も会うようになって、すごい家の人だって知ってびっくりして、それでも図書館では普通に本の話して」
彩花は一つずつ思い出す。
「意外と甘いもの好きだし、妹に弱いし、ハクの話するとちょっと楽しそうになるし、生徒会ではちゃんとしてるし」
「妹に弱い?」
「弱いでしょ」
「普通だと思うけど」
「琴葉ちゃんに聞いてみる?」
「……やめとく」
悠真の返事に、彩花は声を抑えて笑った。
笑いが落ち着いたあとも、二人はすぐには話を再開しなかった。
窓の外では葉が風に揺れ、傾いた光が石畳の上をゆっくり移動している。遠くから聞こえていた文化祭の音に、片づけを始めた生徒たちの声が少しずつ混じり始めていた。
「でも」
彩花が静かに口を開く。
「まだ知らないこと、いっぱいあるね」
「あると思う」
「今日それが分かった」
「知らないことがあるって?」
「うん。でも、前とちょっと違う」
悠真は急かさず、彩花の続きを待った。
「前は、知らないことがあると不安になることもあったの。悠真君の家のこととか、学校のこととか。私と全然違うところがいっぱいあるから」
彩花は窓の外を見たまま言葉を選ぶ。
九条家。
桜華学園。
生徒会。
自分が知らない世界。
以前なら、その違いを見つけるたび、自分から距離を置く理由にしていたかもしれない。
「でも今日は、知らないなら見てみたいって思った」
彩花は悠真へ顔を向ける。
「悠真君が見せてくれるなら、知りたい」
悠真の目がわずかに見開かれた。
彩花は言ったあとで照れたものの、視線は逸らさなかった。
「全部じゃなくていいよ。悠真君が見せたいところだけで」
「……うん」
「私も、見せたいものがあったら見せるから」
「それ、すごく嬉しい」
悠真はそう答えたあと、少しだけ考えた。
「俺、今日ここに彩花さん連れてきたの、正解だった」
「昼も同じこと言ってなかった?」
「昼より思ってる」
「また更新してる」
「今日は多いから仕方ない」
彩花は笑った。
悠真も笑う。
何か大きな約束をしたわけではない。
互いのすべてを知りたいと言ったわけでもない。
ただ、自分が大切にしているものを少しずつ見せる。
相手が見せてくれたものを大切に受け取る。
今の二人には、それくらいの速度がちょうどよかった。
◇
渡り廊下を離れる前、彩花はもう一度だけ窓の外を見た。
「次来たときも、ここ見たいな」
「本当?」
「うん。季節変わったら違うんでしょ?」
「かなり変わるよ」
「じゃあ見たい」
悠真は一瞬だけ何かを考えたあと、嬉しそうに頷いた。
「覚えとく」
「約束じゃなくてもいいよ?」
「俺が覚えてたいから」
その言葉に、彩花は返事をせず微笑んだ。
悠真が覚えていると言ったことは、本当に覚えている。
自分の好きな本も、食べ物も、何気なく話したことも。
だからきっと、今日の言葉も残るのだろう。
二人は渡り廊下を出て、正門へ向かうことにした。
一般公開の終了が近づき、校内では展示物を片づけ始める生徒も増えている。まだ来場者がいるため本格的な撤収ではないものの、昼間の高揚感から少しずつ日常へ戻ろうとする空気が漂っていた。
「文化祭って、終わる前くらいがちょっと寂しいね」
彩花が言う。
「青葉のときも思った?」
「うん。準備してる間は長いのに、始まるとすぐ終わる感じ」
「分かる」
「悠真君はまだ片づけあるの?」
「明日少し。今日は担当外だから、このまま帰って大丈夫」
「本当に?」
「本当に。今日は何回確認するの?」
「だって生徒会の人だから」
「彩花さん、俺の仕事の心配しすぎ」
「悠真君が私のこと気にしすぎるから、お返し」
彩花は冗談半分で言った。
悠真が少し黙る。
「……それなら、もっと気にしていい?」
「そういう意味じゃないよ」
「残念」
「残念なの?」
「うん」
悠真が笑う。
彩花は呆れたように見ながらも、口元には笑みが残っていた。
◇
校舎を出る前、彩花は凛花へ連絡を入れた。
『そろそろ帰るね。悠真君と駅まで行く。』
数十秒後、既読がつく。
返ってきたのは短い文章だった。
『分かった。気をつけて帰ってね。九条にもよろしく。』
彩花は少し意外に思った。
もっと何か言われるかと思ったのだ。
『ありがとう。お姉ちゃんも片づけ頑張って。』
そう返してスマートフォンをしまう。
「お姉さん?」
「うん。帰るって連絡した」
「何て?」
「気をつけて帰ってって。悠真君にもよろしくって」
「そっか」
「思ったより普通だった」
「何を期待してたの?」
「駅まで送るの? とか聞かれるかと思ってた」
「水瀬先輩なら言いそう」
「でしょ?」
二人で笑う。
◇
その頃、剣道場では凛花が片づけの準備をしていた。
彩花からのメッセージを読み終えたあと、スマートフォンを制服のポケットへ戻す。
「水瀬先輩、どうかしました?」
近くにいた後輩から尋ねられ、凛花は首を横に振った。
「妹が帰るって連絡」
「あ、今日来てた妹さん」
「うん」
「一緒に帰らなくて大丈夫なんですか?」
「九条が駅まで一緒だから」
口にしてから、凛花は自分でも少し複雑な気持ちになった。
心配ではある。
姉として、妹を誰かに任せることに完全に慣れたわけではない。
けれど相手が悠真なら、少なくとも帰り道の安全を心配する必要はない。
それ以上に、今日の彩花の顔を思い出す。
楽しそうだった。
自分が特別に扱われていることを、以前のように怖がっていなかった。
そして「私も会いたい」と自分の気持ちを言葉にしていた。
(私が間に入ることじゃないよね)
凛花はそう考え、片づけ用の箱を持ち上げた。
妹が自分で作っている関係だ。
心配だからといって、姉が先に答えを決める必要はない。
「先輩、顔ちょっと怖いですけど、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「九条君って、あの生徒会の九条君ですよね?」
「そう」
「妹さんと仲いいんですか?」
「……仲いいよ」
凛花は少しだけ間を置いて答えた。
それ以上の説明はしなかった。
自分にも、まだ二人の関係を何と呼べばいいのか分からない。
ただ、仲がいいという言葉だけでは少し足りなくなってきている気はした。
◇
正門を出ると、彩花は一度だけ振り返った。
朝に見たときは、これから入る学校だった。
今はもう、いくつもの場所を知っている。
「どうだった?」
隣に立った悠真が尋ねる。
「何が?」
「桜華」
彩花はすぐには答えず、正門の向こうを見た。
校舎。
文化祭の旗。
帰っていく人たち。
まだ仕事を続けている生徒たち。
「楽しかった」
「よかった」
「図書室もよかったし、琴葉ちゃんたちと回るのも楽しかった。お姉ちゃんが学校でもお姉ちゃんだったのはちょっと困ったけど」
「何かあったの?」
「私の写真を剣道部で見せてた」
「水瀬先輩らしいね」
「笑い事じゃないよ」
「ごめん」
悠真は謝りながらも笑っている。
彩花は少し頬を膨らませたが、やがて自分も笑った。
「あと、悠真君のこともいっぱい見られた」
悠真の笑みが少しだけ落ち着く。
「それはどうだった?」
「よかったよ」
「本当に?」
「うん」
彩花は今度は迷わなかった。
「もっと知りたくなった」
悠真が足を止めそうになった。
彩花も少し恥ずかしくなりながら、続ける。
「変な意味じゃなくてね。今日みたいに、学校でどうしてるとか、何が好きとか。まだ知らないこといっぱいあるから」
「……俺も知りたい」
「私のこと?」
「うん」
悠真の返事は早かった。
「今日、彩花さんが俺の学校に来てくれたから、今度はまた彩花さんの好きなところ見たい」
「青葉はもう来たでしょ?」
「文化祭だけじゃなくて。学校じゃなくてもいいし」
「私が好きなところ?」
「うん。本屋でも、公園でも、どこでも。彩花さんが好きなら見てみたい」
彩花は考える。
自分が好きな場所。
中央図書館は、もう二人にとって共通の場所になっている。
それ以外にもある。
家の近くの小さな公園。
昔から家族で行く店。
文具を見に行く店。
季節によって景色が変わる川沿いの道。
特別ではない場所ばかりだ。
だからこそ、悠真が見せてくれた渡り廊下を思い出した。
「あるよ」
「本当?」
「うん。でも、今日すぐには決めない」
「何で?」
「悠真君が秘密にしたから」
彩花が少し得意そうに言う。
悠真は数秒黙ったあと、納得したように笑った。
「仕返し?」
「そう」
「じゃあ楽しみにしてる」
「期待しすぎないでね。普通の場所だから」
「今日、俺にも同じこと言ったよね?」
「あ」
「だから大丈夫。彩花さんが好きなところなら見たい」
自分が昼間に感じたものを、そのまま返された気がした。
彩花は少し照れながらも頷く。
「じゃあ、いつかね」
「うん。いつか」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
◇
桜華学園から青凪駅までは、歩いて十五分ほどかかる。
朝は文化祭へ向かう人で埋まっていた道も、夕方になると帰る人の方が多い。家族連れや学生たちが同じ方向へ歩き、今日見た企画について話す声があちこちから聞こえていた。
彩花と悠真も、その流れの中を並んで歩く。
「そういえば」
彩花が思い出したように言う。
「九条家に行く話、文化祭終わったら考えるって言ったよね」
「うん」
「今日終わったよ」
「そうだね」
「本当に行っていいの?」
「もちろん」
悠真は少しも迷わなかった。
「家族も知ってるし、琴葉もいるし、ハクもいる」
「最後だけ本人の許可取ってないけど」
「ハクは大丈夫」
「自信すごいね」
「むしろ問題は、喜びすぎて最初に飛びつかないか」
「え」
彩花が足を止めかける。
「飛びつくの?」
「たまに」
「大きいよね?」
「大きい」
「私、受け止められるかな」
「俺が止める」
「そこはちゃんとお願い」
「任せて」
真剣な顔で答える悠真がおかしくて、彩花は笑った。
「じゃあ、予定見て決めよう」
「うん。今度連絡する」
これまで先送りになっていた九条家訪問が、少しだけ具体的になった。
まだ日付は決まっていない。
けれど文化祭が終わった今、次に二人が互いの世界を知る場所として自然に近づいている。
◇
青凪駅へ着く頃には、空の色もかなり夕方らしくなっていた。
駅前の人通りは多く、文化祭帰りらしい学生たちも目立つ。
二人は改札の少し手前で立ち止まった。
「今日はありがとう」
彩花が先に言う。
「俺が言おうと思ってた」
「じゃあ両方言えばいいよ」
「そうだね」
悠真は少し笑った。
「来てくれてありがとう、彩花さん」
「案内してくれてありがとう、悠真君」
名前を呼ぶことに、もう以前ほど大きな勇気はいらない。
それでも、呼ぶたびに少しだけ特別な感じは残っている。
「楽しかった?」
悠真が改めて尋ねる。
「すごく楽しかった」
「よかった」
「悠真君は?」
「俺も」
そこで一度言葉を切り、悠真は少し考えるように彩花を見る。
「文化祭そのものより、彩花さんが来てくれたことの方が嬉しかった」
「それ、前にも言ってたよ」
「実際に来たあとも同じだったから」
彩花は少しだけ視線を下げた。
頬が熱くなる。
それでも逃げるように話題を変えることはしなかった。
「私も」
彩花はゆっくり顔を上げる。
「桜華を見るのも楽しかったけど、悠真君に案内してもらえたから、もっと楽しかった」
悠真が何か言おうとして、少しだけ黙る。
嬉しいのだろう。
もう彩花にも分かる。
「今日一番?」
先に尋ねてみる。
悠真が驚き、それから笑った。
「たぶん今日一番」
「やっぱり」
「分かるようになった?」
「少しだけ」
彩花も笑う。
悠真の知らないところをたくさん見た一日だった。
それなのに、一日の終わりには、以前より悠真の表情が分かるようになっている。
知らないことが増えたのではない。
知りたいことが増えたのだ。
「じゃあ、また図書館で」
彩花が言う。
「うん。それと九条家の日も決めよう」
「忘れないでね」
「彩花さんのことだから忘れないよ」
「……そういう言い方、まだ慣れない」
「嫌?」
「嫌じゃない」
彩花はすぐに答えた。
「慣れてないだけ」
「じゃあ、そのうち慣れて」
「悠真君が言い続けるつもりなんだ」
「本当のことだから」
まただ。
けれど今度は困らなかった。
「じゃあ、少しずつ慣れる」
「うん」
二人は笑った。
電車の時間が近づき、彩花は改札へ向かう。
数歩進んでから一度だけ振り返ると、悠真はまだ同じ場所にいた。
「またね、悠真君」
「またね、彩花さん」
手を振り、今度こそ改札を通る。
悠真は彩花の姿が見えなくなるまで見送ってから、自分も帰路についた。
◇
帰宅した彩花は、自室へ入ると鞄を机の横へ置いた。
一日歩き回った疲れが、家に着いた途端に一気に出てくる。それでも嫌な疲れではなく、制服から着替えて椅子へ座ると、今日見た景色が次々に頭へ浮かんできた。
桜華の正門。
悠真の教室。
生徒会室。
図書室。
琴葉や玲奈と回った展示。
凛花の剣道部。
そして、二度見た渡り廊下。
机の上には、悠真から借りている古書店の小説が置いてある。
彩花は表紙へ目を向け、図書室で見つけた同じ作家の別作品を思い出した。
(また話したいこと増えたな)
スマートフォンを開く。
悠真からはまだ連絡がない。
きっと帰宅途中なのだろう。
彩花は先にメッセージを送ることにした。
『家着いたよ。今日はありがとう。』
少し考え、もう一文続ける。
『渡り廊下、二回行けてよかった。』
送信してから、彩花は文芸部で使っているノートを取り出した。
文化祭へ行く前まで、名前についての言葉がいくつか書かれていた。
『同じ呼び方でも、相手によって意味は違う。』
『呼ばれ方が変わったから近くなるのか、近くなったから呼び方が変わるのか。』
『名前を呼ぶだけなのに、今までと同じ声では言えない。』
『呼ばれた名前は、同じ自分の名前なのに少し違って聞こえた。』
彩花はその下に、新しい一文を書こうとしてペンを止める。
今日感じたことは、名前だけではなかった。
知らなかった場所。
知らなかった表情。
誰かがずっと見てきた景色。
それを見せてもらったことで、相手のことを全部分かったわけではない。
むしろ、まだ知らないことがたくさんあると気づいた。
けれど、それはもう不安ではなかった。
彩花は少し考えてから、ゆっくりとペンを動かした。
『知らないことがあるから、もっと知りたいと思える。』
書き終えた文字を眺める。
まだ物語ではない。
それでも、以前より少しだけ書きたいものの形が見えてきた気がした。
そのとき、机の上のスマートフォンが震える。
『俺も今着いた。今日は本当に楽しかった。』
悠真からだった。
続けてもう一通届く。
『次は彩花さんの好きな場所、楽しみにしてる。』
彩花はノートへ書いたばかりの一文と、スマートフォンの画面を交互に見た。
今日、悠真の世界を少し見せてもらった。
今度は、自分が見せる番になる。
どこにしよう。
何を見せよう。
以前の彩花なら、自分の好きな場所なんて見せても面白くないのではないかと考えていたかもしれない。
今は違った。
悠真が見たいと言ってくれた。
それなら、自分が本当に好きな場所を選びたい。
『ちゃんと考えとく。』
送ったあと、彩花は少しだけ笑いながら付け加えた。
『悠真君には当日まで内緒。』
返事はすぐに届いた。
『仕返しされた。』
『今日の分。』
『分かった。楽しみに待ってる。』
彩花はスマートフォンを置き、もう一度ノートを見る。
知らないことがある。
だから知りたい。
見せてもらったから、自分も見せたい。
名前を呼べるようになった先で、二人の間に増え始めたのは、もっと相手の日常へ近づいてみたいという気持ちだった。
その変化へ、まだ恋という名前を付ける必要はない。
彩花はノートを閉じると、今日二度見た並木の景色を思い出しながら、次に悠真へ見せたい場所をゆっくり考え始めた。




