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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第51話 私の知らない悠真君


 悠真と別れたあと、彩花は文化祭の案内冊子を開き、琴葉のクラスがある校舎へ向かって歩き始めた。


 先ほどまで隣には、この学校をよく知る案内役がいた。どの階段を使えば近いのか、どの廊下が混んでいるのかまで悠真が自然に教えてくれていたため、一人になった途端、桜華学園の広さを改めて実感する。


 文化祭の賑わいは午後に入っても衰えておらず、中央廊下ではパンフレットを片手に歩く来場者と、企画の呼び込みをする生徒が行き交っている。教室からは笑い声が聞こえ、開け放たれた窓から入る秋の風には、中庭の模擬店から漂ってくる甘い菓子や焼き物の匂いがわずかに混じっていた。


(さっきまで、ほとんど迷わなかったんだよね)


 もちろん悠真について歩いていたのだから当然ではある。


 それでも、一時間半近く一緒に校内を回っている間、悠真が何度も人の流れを見ながら進む方向を変えていたことを思い出した。彩花が図書室の展示に長く足を止めても急かさず、そのぶん後の順番を自然に調整していたらしい。


 本人は大したことではないように振る舞っていた。


 けれど一人で歩いてみると、どれだけ考えて案内してくれていたのかが分かる。


(特別待遇、か)


 中庭で自分から使った言葉を思い返し、彩花は少しだけ頬を緩めた。


 以前なら、悠真が他の友人と違う接し方をしてくれていると知れば、まず戸惑っていたかもしれない。


 どうして自分なのか。


 自分がそこまでしてもらっていいのか。


 そんなことを考え、嬉しいという感情を後ろへ追いやっていた。


 今は違う。


 悠真自身が「違う」と認めてくれたのだから、自分もそれを否定しなくていい。


(嬉しいって言えたし)


 それが一番嬉しかった。


 彩花は案内冊子へ視線を戻し、廊下の案内表示と見比べる。次の角を曲がれば琴葉の教室があるはずだった。


     ◇


「彩花さん!」


 教室の入口へ近づいたところで、先に琴葉が気づいた。


 午前中に生徒会室で会ったときとは違い、腕にクラス企画用の簡単な飾りを付けている。教室内では小規模な喫茶企画が行われており、机を組み合わせて作った客席では来場者たちが飲み物や菓子を楽しんでいた。


「琴葉ちゃん。来たよ」


「お待ちしておりました。兄様とはもう別行動ですか?」


「うん。悠真君は生徒会の仕事に戻ったところ」


 名前を口にしても、もう途中で止まらない。


 琴葉はそれに気づいたものの、呼び方について改めて触れることはしなかった。ただ、以前より自然に兄の名前を口にする彩花を見て、目元を少しだけ柔らかくする。


「では、今はお一人ですか?」


「そうだよ。玲奈さんにもさっき会ったけど、あとで琴葉ちゃんのところに来るって言ってた」


「玲奈でしたら、もうすぐ来ると思います。私もあと十分ほどで交代ですので、よろしければ中でお待ちになりますか?」


「いいの?」


「もちろんです。文化祭ですから」


 琴葉に案内され、彩花は空いている席へ座った。


 青葉高校の文化祭でもクラス企画には参加したが、桜華の教室に客として座るのは当然初めてだ。壁には生徒たちが作った装飾が並んでいるものの、窓際の棚や黒板、教卓などは普段の教室の姿を残しており、彩花は飲み物を待ちながら周囲へ視線を巡らせた。


「やっぱり学校によって違うんだね」


 注文を確認しに来た琴葉へそう言うと、彼女が首を傾げる。


「青葉とはかなり違いますか?」


「建物は全然違う。でも教室に入ると、ちゃんと高校なんだなって思う」


「ちゃんと高校、ですか?」


「桜華って聞くと、外からだともっと特別な場所に思えるから。お姉ちゃんもいるし、悠真君たちもいるけど、私は普段来ないでしょ?」


 彩花は教室の後方に置かれた鞄や、文化祭用の備品の隙間に残っている普段の掲示物を見る。


「でも、こういうところ見ると普通にみんな学校生活してるんだなって分かる」


「そうですね。私たちにとってはこちらが日常ですから」


「うん。それを見るのが楽しい」


 琴葉は注文票を手にしたまま、少しだけ笑った。


「兄様がお喜びになりそうです」


「それ、今日みんな言うんだけど」


「実際、お喜びになると思いますよ」


「もういっぱい喜んでたよ」


「そうなのですか?」


「何回『嬉しい』って言ったか分からないくらい」


 彩花が笑うと、琴葉もつられて微笑んだ。


「兄様は以前から感情を隠す方ではございませんが、彩花さんのことになりますと、本当に素直ですね」


「前から?」


「少なくとも、家族の前では比較的分かりやすい方です。ただ、誰に対してもあれほど何度も嬉しいと口にするわけではございません」


 琴葉はそこで言葉を止めた。


 彩花の反応を見ながら、必要以上のことを言わないようにしているらしい。


 彩花にもそれが分かった。


「私だから?」


「兄様は、そう仰ったのではありませんか?」


「……うん」


「でしたら、私から付け足すことはございません」


 琴葉は穏やかに答え、注文した紅茶を取りに戻っていった。


 彩花はその背中を見ながら、少しだけ息を吐く。


 琴葉は何かを決めつけない。


 悠真がどう思っているのか、二人がどういう関係なのか、外から勝手に名前を付けることもしない。


 だから話しやすかった。


 しばらくして運ばれてきた紅茶を飲んでいると、入口から聞き慣れた声がした。


「琴葉、交代まだ?」


「玲奈。ちょうど今からです」


 玲奈が教室へ入り、すぐに彩花を見つける。


「彩花ちゃん、本当に来てた」


「さっき会ったじゃないですか」


「そうだけど、九条に連れていかれたまま戻ってこない可能性もあるかなって」


「兄様を何だと思っているのですか」


「彩花ちゃん専属文化祭案内人」


 琴葉が小さくため息をつき、彩花は笑った。


「それは、ちょっと合ってたかも」


「ほら」


「彩花さんまで玲奈に同意なさらないでください」


 三人の間に笑いが広がる。


 文化祭の喧騒の中で、彩花はようやく肩から力が抜けたような気がした。


     ◇


 琴葉の担当が終わるのを待ち、三人で教室を出た。


 玲奈が見たいという展示へ向かう途中、彩花は先ほど悠真と回った場所の話をした。教室、生徒会室、図書室、そして渡り廊下の景色まで話したところで、玲奈が足を止めかける。


「渡り廊下?」


「うん。並木が見えるところ」


「あそこ?」


「玲奈、分かるのですか?」


「分かるけど……あそこ、九条が好きな場所だったんだ」


 玲奈は少し意外そうだった。


「知ってると思ってた」


「知らないよ。何度も通ったことはあるけど、九条と『ここいいよね』なんて話したことないし」


「私も、兄様がお好きなのは最近知りました」


 琴葉もそう答える。


 彩花は二人を交互に見た。


「琴葉ちゃんも知らなかったの?」


「はい。兄様が昔からあちらを好んでいたことは、先日初めて聞きました」


「……そっか」


 胸の奥へ、柔らかなものが広がる。


 悠真にとって昔から好きな場所なのに、妹の琴葉さえ最近まで知らなかった。


 そんな場所を自分には見せてくれた。


 それだけで意味を決めつけるつもりはない。


 けれど、嬉しい。


 彩花の表情を見た玲奈は、何か言いかけてからやめた。


 代わりに、少しだけ楽しそうに笑う。


「で、彩花ちゃんは気に入った?」


「うん。好きだった」


「景色が?」


 聞かれて、彩花は一瞬迷った。


 悠真にも同じことを言った。


 なら、隠すほどのことでもない。


「景色も。でも、悠真君が好きな場所だから、もっと好きになったのかも」


 玲奈が黙り、琴葉も一瞬だけ歩みを緩めた。


「……何?」


「いや、彩花ちゃんも結構変わったなと思って」


「そう?」


「前だったら、それ口に出した?」


 彩花は考える。


 たぶん出さなかった。


 思ったとしても、自分の中だけにしまっていた。


「言わなかったかも」


「だよね」


「でも今は、言ってもいいかなって思うから」


 彩花は歩きながら、自分の言葉を確かめる。


「悠真君も、最近ちゃんと言ってくれるし。嬉しいとか、会いたかったとか、私だからって。だったら私も、嬉しかったことくらい言っていいのかなって」


 玲奈は隣を歩く彩花を見た。


 以前から柔らかな雰囲気の少女だった。


 相手を否定せず、話をよく聞く。


 ただ、ときどき自分自身を一歩後ろへ置いてしまうところがあった。


 今は、その一歩を少しずつ取り戻しているように見える。


「いいと思うよ」


 玲奈はそれだけ答えた。


 恋愛だと決めつける必要はない。


 けれど、嬉しいなら嬉しいと言える今の彩花を、友人として玲奈は好きだった。


     ◇


 三人が向かったのは、文化部が合同で使用している展示区域だった。


 写真部、美術部、書道部などの作品が廊下から複数の教室にかけて並び、賑やかな模擬店区域とは違った落ち着いた空気が流れている。


 彩花は写真部の展示前で足を止めた。


 一枚の写真に、放課後の桜華学園の廊下が写っている。


 窓から橙色の光が差し込み、誰もいない床へ長い影を落としていた。


「これ、綺麗」


「彩花さん、やはりこういう写真がお好きなのですね」


「やっぱり?」


「先ほどのお話を聞いていると、賑やかな場所より、普段の学校が見えるものに惹かれているようでしたから」


 琴葉に言われ、彩花はもう一度写真を見る。


 確かにそうかもしれない。


 文化祭の華やかな装飾も楽しい。


 模擬店も面白い。


 けれど今日一番印象に残っているのは、悠真が昔から見てきた渡り廊下の景色だった。


「この廊下、どこ?」


「中等部との連絡棟ですね。今日は一般公開区域ではありません」


「そっか」


「普段ですと夕方が綺麗ですよ。私も何度か通ったことがあります」


「琴葉ちゃんも好き?」


「嫌いではありませんが、私はもう少し明るい場所の方が好みですね」


「私は中庭かな」


 玲奈が別の写真を指さす。


「昼休みにみんなで座れるし」


「玲奈は景色より使い勝手を優先しますから」


「大事でしょ、それも」


 三人で話しながら展示を見て回る。


 同じ学校へ通っている琴葉と玲奈でも、好きな場所は違う。


 当たり前のことなのに、彩花にはそれが面白かった。


 学校は建物だけではない。


 そこに通う人の数だけ、見えている景色が違う。


 悠真には悠真の桜華がある。


 琴葉には琴葉の桜華があり、玲奈にもある。


(お姉ちゃんにもあるんだよね)


 そう思ったところで、彩花は凛花から届いていたメッセージを思い出した。


 スマートフォンを確認すると、少し前に連絡が来ている。


『剣道部の方、落ち着いたよ。今どこ?』


「あ、お姉ちゃん」


「水瀬先輩ですか?」


「うん。今から会えそう」


 彩花が現在地を送ると、ほどなくして返事が来た。


『そこなら近い。行くね。』


「こっち来るって」


「では少し待ちましょうか」


 三人は展示区域の出口近くへ移動した。


     ◇


 数分後、人の流れの向こうから凛花が現れた。


 制服姿ではあるものの、午前中まで剣道部の手伝いをしていたためか、いつもより髪をきっちりとまとめている。彩花を見つけた瞬間、それまでの落ち着いた表情が少しだけ柔らかくなった。


「彩花」


「お姉ちゃん」


「ちゃんと来られたんだね」


「来られたよ。子どもじゃないんだから」


「分かってるけど」


 凛花は妹の姿を上から下まで確認し、特に困っていないことを確かめてから琴葉と玲奈へ挨拶した。


「二人とも、彩花と一緒にいてくれてありがとう」


「こちらこそ、彩花さんと楽しく回らせていただいております」


「水瀬先輩、九条がかなりちゃんと案内したみたいですよ」


「玲奈さん」


「何ですか?」


「その話、あとで聞く」


「お姉ちゃん?」


 彩花が訝しげに見ると、凛花は何でもないように首を振った。


「九条はもう仕事?」


「うん。さっき戻ったよ」


「そっか」


 凛花は少し安心した。


 悠真が彩花との時間を優先しすぎて仕事を疎かにしていないか、ほんの少しだけ心配していたからだ。


「お姉ちゃんはもう部活終わり?」


「手伝いは一段落。夕方に片づけがあるから、それまでは少し自由」


「じゃあ一緒に回れる?」


「もちろん。そのために来た」


 凛花は当然のように答える。


 玲奈が横から小さく笑った。


「水瀬先輩、妹相手だと本当に分かりやすいですね」


「何が?」


「九条と似てるなと思って」


「どこが?」


「そこは自分で考えてください」


 凛花が少し眉を寄せる。


 彩花と琴葉は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。


     ◇


 四人で中庭へ移動したあと、少し遅めの昼食を取ることになった。


 彩花は悠真と回っている途中に焼き菓子を食べていたものの、それだけでは昼食として足りない。模擬店で軽食を買い、空いていたベンチを見つけて四人で座った。


 秋の日差しは穏やかで、風が吹くたび校庭側の木々が揺れる。


 凛花は飲み物の蓋を開けながら、彩花を見る。


「午前中からずっと九条と回ってたの?」


「午前中っていうより、私が来たのはお昼前くらいだよ。受付を通ったところで待っててくれた」


「待ってた?」


「うん。十分くらい早く来たって」


「……そう」


「お姉ちゃん、その顔やめて」


「何も言ってない」


「言ってないけど分かる」


 姉妹のやり取りを見て、玲奈が楽しそうに笑う。


 琴葉は食事をしながら静かにしていたが、兄について誤解されそうな部分だけ補足した。


「兄様の休憩時間は正式に確保されておりますので、その点はご心配なく。午前の担当も予定通り終えております」


「琴葉ちゃん、そこは私も確認したよ」


「彩花さんもですか?」


「だって忙しそうだったから」


 凛花が妹を見る。


「九条に無理させてないか心配したんだ?」


「するでしょ。私の案内のために仕事増えたら嫌だし」


「九条は何て?」


「大丈夫って。午前中に仕事も終わらせたし、他の人に押しつけてないって」


 彩花はそこで飲み物へ口をつけ、少しだけ笑った。


「だから途中からは、ちゃんと楽しむことにした」


 凛花は何も言わず妹を見た。


 以前なら、最後まで申し訳なさを抱えていたかもしれない。


 相手が「大丈夫」と言っても、自分のために時間を使わせていることを気にして、早く切り上げようとしていたかもしれない。


 今日は違った。


 相手が自分のために用意してくれた時間を、ちゃんと受け取っている。


「それでいいと思う」


 凛花は穏やかに言った。


「九条が自分で時間作ったなら、彩花が気にしすぎることじゃないよ」


「うん。今はそう思ってる」


 彩花も頷いた。


 玲奈が軽食を食べながら尋ねる。


「水瀬先輩は、彩花ちゃんにどこ見せたいですか?」


「私?」


「九条は自分が好きな場所まで連れていったじゃないですか。お姉さんとしては?」


 凛花は少し考えた。


「剣道場」


「お姉ちゃんらしい」


「でも今日は混んでるから、見せるなら別の日の方がいいかも。普段の練習してるところの方が私らしいし」


「……それ、悠真君と似てるね」


 彩花が言う。


「九条と?」


「うん。悠真君も、文化祭ですごい場所じゃなくて、普段自分が見てるところを見せてくれたから」


 凛花は一瞬黙った。


 玲奈と琴葉は口を挟まない。


「そっか」


 凛花はそれだけ返した。


 妹が悠真の名前を呼ぶことにも、朝より少し慣れてきた。


 それでも、彩花の口から自然に「悠真君」と出るたび、姉として胸のどこかが落ち着かないのは仕方がない。


 けれど、その落ち着かなさよりも、今の彩花が楽しそうであることの方が大きかった。


     ◇


 昼食のあと、四人は凛花の案内で剣道部の展示へ向かった。


 試合中ではなかったため、道場の入口付近では部員たちが活動紹介や過去の大会写真を展示している。凛花が近づくと、部員たちが次々に声をかけてきた。


「水瀬先輩、お疲れさまです」


「お疲れさま。今は休憩中だから、見に来ただけ」


 凛花が答えると、一人の後輩女子が彩花へ視線を向けた。


「あの、もしかして妹さんですか?」


「そう。妹の彩花」


「やっぱり! 前に写真見せてもらったことあります」


「お姉ちゃん?」


 彩花がゆっくり凛花を見る。


 凛花の視線がわずかに逸れた。


「一回だけ」


「何の写真?」


「家族で出かけたときの」


「なんで部活で見せるの?」


「話の流れで」


「どんな流れ?」


「……妹が可愛いって話」


「お姉ちゃん」


 彩花の声に呆れが混じる。


 周囲の部員たちが笑いを堪えており、玲奈は完全に面白がっていた。


「水瀬先輩、全然隠せてないじゃないですか」


「別に隠してない」


「お姉ちゃん、学校ではもうちょっと格好いい感じだと思ってた」


「格好いいよ?」


「自分で言う?」


 彩花は呆れながらも笑っている。


 その表情を見た凛花も、結局つられて笑った。


 少し離れた場所でその姉妹を見ていた琴葉は、兄とは違う種類の特別扱いだと思った。


 凛花にとって彩花は大切な妹であり、それは誰が見ても分かりやすい。


 悠真の彩花への接し方も、外から見ればかなり分かりやすくなっている。


 けれど二つは同じではない。


 兄の方は、まだ本人たちさえ名前を付けていない。


(急ぐ必要はありませんね)


 琴葉はそう思う。


 今の二人は、今の距離だからこそ楽しめるものを少しずつ増やしている。


     ◇


 剣道部を出たあと、凛花は片づけ前の確認があるため、いったん三人と別れることになった。


「夕方には終わると思う。彩花、帰る時間決まったら連絡して」


「うん。でも悠真君も仕事終わったら、もう一回会う予定だから」


 凛花が一瞬だけ止まる。


「……もう一回?」


「帰る前に会いたいって言ってくれたから。私も会いたいって言った」


 あまりにも普通に報告され、凛花は言葉を探した。


 以前の妹なら、自分から「会いたい」と言えただろうか。


 少なくとも、こんなに自然には言わなかった気がする。


「そっか。じゃあ、帰るとき連絡だけして」


「分かった」


「暗くなる前には帰ってね」


「分かってるって」


「駅まで一人なら――」


「お姉ちゃん」


「……はい」


 彩花が笑う。


「大丈夫。ありがとう」


 凛花も少しだけ笑い返した。


「じゃあ、またあとで」


 姉が道場の方へ戻っていくのを見送ってから、玲奈が彩花へ近づく。


「水瀬先輩、よく耐えたね」


「何を?」


「『九条ともう一回会う』のところ」


「お姉ちゃん、そんなに変な顔してた?」


「してた」


「玲奈、あまり水瀬先輩をからかってはいけませんよ」


「琴葉も気づいたでしょ?」


「それは……はい」


「琴葉ちゃんまで」


 三人で笑いながら歩き出す。


 午後の文化祭は、まだ続いている。


     ◇


 同じ頃、生徒会室では悠真が来場者数の中間集計を確認していた。


 午前から大きな問題は起きていないものの、午後に入って一部の企画へ人が集中し、廊下が混雑する時間が増えている。悠真は担当者から報告を受けると、案内係を一人増やせるか確認し、実行委員と短く相談して対応を決めた。


 彩花と一緒にいたときの柔らかな雰囲気とは違い、今は必要な情報を整理しながら次の判断へ進んでいる。


「九条君、東階段の方は落ち着いたみたい」


「ありがとうございます。じゃあ追加の案内係は三十分で戻して大丈夫です。次の交代にも影響出ないようにしてください」


「了解」


 やり取りを終え、悠真は手元の資料へ書き込む。


 その様子を近くで見ていた宮原颯太が、別の係へ資料を届けに来たついでに声をかけた。


「完全に仕事の顔に戻ってるな」


「宮原。どうした?」


「クラスからこれ。来場者数の途中集計」


「ありがとう。そこ置いて」


 颯太は資料を机へ置いたあと、すぐには戻らなかった。


「水瀬さんは?」


「今は琴葉たちと回ってると思う」


「へえ。ちゃんと離れられたんだな」


「仕事あるから当たり前だろ」


「いや、さっきのお前見てたら、休憩延長したいとか言い出すかと思った」


「そんなことしないよ」


 悠真は苦笑する。


「彩花さんにも、仕事優先してって言われてるし」


「言われたんだ」


「うん」


 颯太は悠真の顔を見る。


 名前を口にしただけで、ほんの少し表情が柔らかくなった。


「九条ってさ」


「何?」


「水瀬さんといるとき、かなり違うな」


 悠真は手元の資料から顔を上げる。


「今日それ、何人にも言われた」


「だろうな」


「自分でも違うとは思うよ」


 予想外にあっさり認められ、颯太が少し驚く。


「分かってるんだ」


「他の友達に一時間半の案内予定作ったりしないから」


「それ、自分で言うと結構すごいぞ」


「でも事実だし」


 悠真は少しだけ考え、机の端へ置いていたペンを持ち直した。


「彩花さんには、見てほしかったんだよ。学校も、俺が好きな場所も」


 それ以上の説明はしなかった。


 悠真自身、それ以上の名前をまだ持っていない。


 ただ、彩花に対して自分が他の人と同じではないことは、もう否定する必要がないと思っている。


 颯太も、無理に答えを求めなかった。


「じゃあ、仕事終わったらまた会うの?」


「会いたいって言った」


「お前から?」


「うん」


「水瀬さんは?」


「会いたいって言ってくれた」


 その瞬間だけ、悠真の声に隠しきれない嬉しさが混じった。


 颯太は笑いそうになったが、仕事中なので堪える。


「じゃあ、早く終わらせないとな」


「だからって雑にはしないよ」


「分かってるって」


 颯太は片手を上げて生徒会室を出ていった。


 悠真は再び資料へ視線を戻す。


 早く彩花に会いたい。


 それは本当だ。


 けれど、そのために仕事を急いで雑に終わらせるつもりはなかった。


 彩花が「仕事頑張って」と送り出してくれたのだから、きちんと終わらせてから会いたい。


(その方が、ちゃんと会える)


 悠真は次の資料を手に取った。


     ◇


 午後三時を過ぎる頃には、校内の人の流れが少しずつ変わり始めていた。


 まだ多くの来場者が残っているものの、朝から来ていた家族連れの中には帰り始める人もいる。模擬店では売り切れの札が出る店が増え、校内放送では終了時間に関する案内が流れ始めていた。


 彩花は琴葉、玲奈と一緒に中庭の端にあるベンチへ座っていた。


 三人でいくつかの展示や企画を回り、途中で玲奈が勧めた菓子も食べた。朝から桜華にいる二人は慣れているが、初めて来た彩花にとっては見るものが多く、足にも少し疲れが出始めている。


「楽しいけど、結構歩くね」


「桜華、無駄に広いからね」


「玲奈、学校に対して無駄とは何ですか」


「琴葉だって移動教室遠いって言ってるじゃん」


「それとこれは別です」


 いつものやり取りらしく、二人とも本気で言い争っているわけではない。


 彩花は笑いながら飲み物を一口飲み、鞄からスマートフォンを取り出した。


 悠真からの新しいメッセージはまだない。


 仕事中なのだから当然だ。


 急かすつもりもない。


 それでも画面を確認した自分に気づき、彩花は少しだけ苦笑した。


「兄様からですか?」


 琴葉が尋ねる。


「ううん。まだ何も来てないよ。仕事中だし」


「兄様の担当は、予定通りならもうしばらくかかると思います」


「大丈夫。待ってるっていうより、何となく見ただけだから」


 そう答えたあと、彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。


 玲奈が少しだけ笑う。


「気になるんだ?」


「……ちょっとは」


 以前なら「別に」と答えていたかもしれない。


 けれど今日は、素直に認めた。


「帰る前にもう一回会うって言ったから」


「うん」


「だから、いつ終わるのかなって思っただけ」


 玲奈はそれ以上からかわなかった。


「じゃあ、それまで何する?」


「まだ時間ある?」


「あるよ。閉会まで全部いる必要はないけど、もう少しなら」


 彩花は案内冊子を開く。


 まだ見ていない企画はいくつもある。


 けれど、朝のように全部を見たいとは思わなかった。


 今日は十分に楽しんでいる。


「少し休んでから、もう一回図書室行ってもいい?」


「もちろんです」


「気に入ったんだね」


「うん。それに、さっきは悠真君と一緒だったから、今度は一人でも少し見てみたい」


 彩花はそう言いながら、自分でも理由を考える。


 同じ場所でも、誰と見るかによって感じ方が変わる。


 今朝の図書室は、悠真が自分のために調べてくれた場所だった。


 今度は自分自身の目で、桜華の図書室をもう少し見たい。


「では私たちも参りましょうか」


「二人は別のところ行ってても大丈夫だよ?」


「私も図書室に用がありますので」


「私はちょっと休みたいから付き合う」


「玲奈、それは図書室を休憩所として利用するという意味ですか?」


「静かに本読むからいいでしょ」


 三人は少し休んでから立ち上がった。


     ◇


 二度目の図書室は、先ほどより人が少なくなっていた。


 入口のテーマ展示を抜け、彩花は一般公開されている書架へ進む。学校図書室らしく学習資料が充実している一方、小説や新書も多く、青葉高校とは選書の傾向が少し違っていた。


 琴葉は借りたい本を確認するため別の棚へ向かい、玲奈は閲覧席でパンフレットを眺めている。


 彩花は一人で棚の間を歩いた。


 背表紙を目で追っているうちに、ある作家の名前が目に入る。


「あ」


 悠真から借りた古書店の小説を書いた作家だった。


 別作品が二冊並んでいる。


 彩花は一冊を抜き、あらすじを確認した。


 地方の小さな映画館を舞台にした物語らしい。


(悠真君、これ読んだことあるかな)


 すぐにそう思った。


 今度会ったら聞いてみよう。


 そう考えた瞬間、彩花は少しだけ笑った。


 本を見つける。


 悠真を思い出す。


 感想を聞きたくなる。


 以前にはなかった流れが、自分の中ですっかり自然になっている。


 彩花は本を棚へ戻した。


 借りることはできない。


 けれど題名は覚えた。


 スマートフォンへメモしようかと思ったところで、ちょうど画面が光った。


 メッセージが一件届いている。


 送信者を確認した瞬間、胸が少しだけ弾んだ。


『彩花さん、今どこ?』


 悠真だった。


 彩花はすぐに返事を打とうとして、いったん指を止める。


 急ぐ必要はないのに、自然と口元が緩んでいる。


『図書室。琴葉ちゃんと玲奈さんも一緒だよ。』


 送信すると、それほど待たずに返ってきた。


『仕事、もう少しで終わる。』


『お疲れさま。』


『ありがとう。終わったら図書室行ってもいい?』


 彩花は画面を見つめた。


 朝は受付で悠真が待っていた。


 今度は、悠真が自分のいる場所へ来る。


『うん。待ってる。』


 送信する。


 そのあと、ほんの少し考えてからもう一文を付け足した。


『私も会いたかったから。』


 送信ボタンを押した瞬間、頬が熱くなる。


(……これは、ちょっと恥ずかしい)


 昼間、玲奈たちには普通に言えた。


 けれど本人へ文字で送ると、感じ方が違う。


 取り消すことはしなかった。


 数十秒ほどして返信が届く。


『今、それ見てすごく嬉しい。』


 彩花は思わず笑った。


『仕事中でしょ。』


『もう引き継ぎ中。』


『じゃあちゃんと終わらせてから来て。』


『はい。』


 最後の一文字まで読んでから、彩花はスマートフォンを胸元へ引き寄せるように持った。


 すぐ近くの棚では、何も知らない来場者が本を選んでいる。


 少し離れた閲覧席には玲奈がいる。


 窓から差し込む午後の光は、朝よりも少し黄色みを帯びていた。


 文化祭は、ゆっくり終わりへ近づいている。


 けれど彩花にとって今日の時間は、まだ終わっていなかった。


     ◇


 生徒会室では、悠真が最後の引き継ぎを終えようとしていた。


「来場者数の集計はここまで入力済みです。西側廊下の混雑も落ち着いてます。残りは閉会前の確認だけなので、予定通り交代で大丈夫です」


「了解。九条君、お疲れさま」


「お疲れさまです。お願いします」


 資料を渡し、腕章を外す。


 朝から身につけていたものを机の所定位置へ置くと、肩の力が少し抜けた。


 スマートフォンには、少し前に彩花から届いたメッセージが残っている。


『私も会いたかったから。』


 何度見ても嬉しい。


 だからといって、仕事中に眺め続けるわけにはいかなかったので、一度確認したあとは鞄へ戻していた。


 今はもういい。


「兄様」


 生徒会室へ戻ってきた琴葉が声をかける。


「琴葉。彩花さんは?」


「図書室にいらっしゃいます。玲奈も一緒です」


「今から行く」


「はい。お仕事、お疲れさまでございました」


「ありがとう」


 悠真は鞄を持つ。


 その顔を見て、琴葉は少しだけ笑った。


「兄様」


「何?」


「急がなくても、彩花さんは待ってくださっていますよ」


「分かってる」


 答えながらも、悠真の歩く速度は普段より少しだけ速い。


 琴葉は止めなかった。


 兄が今日一日、仕事をきちんとこなしていたことを知っている。


 彩花との時間のために仕事を放り出したわけでもない。


 だから今くらいは、会いたい人のところへ少し早足で向かってもいいだろう。


     ◇


 図書室の窓際で、彩花は先ほど見つけた映画館の小説をもう一度手に取っていた。


 借りられないので、冒頭を少し読むだけにする。


 琴葉は近くの棚を見ており、玲奈は閲覧席に座ったまま別の本を開いていた。


 ページへ目を落としているのに、彩花の意識はときどき入口へ向かう。


(まだかな)


 そう思った直後、自分で少しおかしくなった。


 急がせたくない。


 仕事はきちんと終えてほしい。


 そう思っているのに、会えると分かれば待ち遠しい。


 矛盾しているようで、たぶん矛盾していない。


 急いでほしいのではなく、会いたいだけなのだ。


 ページを一枚めくったところで、図書室の入口付近から足音が聞こえた。


 文化祭中なのだから、誰かが入ってくること自体は珍しくない。


 それでも彩花は顔を上げた。


 人影を確認するより先に、なぜか分かった。


 入口から入ってきた悠真が、室内を見回す。


 そして、いくつも並ぶ書架や閲覧席の中から、ほとんど迷うことなく彩花を見つけた。


 視線が重なる。


 悠真の表情が、すぐに柔らかくなる。


 彩花も自然に笑っていた。


「彩花さん」


 図書室だから、悠真は近くまで来てから小さな声で呼んだ。


「悠真君。お疲れさま」


「ありがとう。待った?」


「全然。琴葉ちゃんたちと回ってたし、図書室も見てたから」


「そっか」


 悠真は安心したように息をついた。


 その少し後ろで、玲奈が開いていた本から顔を上げる。


 入口から入ってきた瞬間、九条悠真はほとんど周囲を見ていなかった。


 正確には、周囲を見ていないのではない。


 探しているものが最初から一つだったのだ。


 そして彩花を見つけた途端、学校で仕事をしていたときとはまったく違う顔になった。


 玲奈は隣に来た琴葉へ小声で言う。


「分かりやすいね」


「はい」


 琴葉も、今度は否定しなかった。


 彩花には二人の会話までは聞こえていない。


「仕事、ちゃんと終わった?」


「終わった。引き継ぎもしてきたよ」


「じゃあ、お疲れさま」


「うん」


 悠真は彩花が持っている本へ気づいた。


「それ、読んでたの?」


「少しだけ。悠真君から借りた古書店の小説と同じ作家さん」


「本当だ」


「読んだことある?」


「それはない。映画館の話?」


「うん。面白そうだった」


 彩花は表紙を悠真へ見せる。


「また一冊増えたね」


「何が?」


「二人とも読みたい本」


 悠真の言葉に、彩花は少し考えてから頷いた。


「本当だね」


 今日、文化祭で見つけた一冊。


 それをいつ読むかは決まっていない。


 一緒に読む約束をしたわけでもない。


 それでも、また話したいものが増えた。


 彩花は本を棚へ戻しながら、ふと窓の外を見る。


 光は少しずつ夕方へ近づいている。


「このあと、どうする?」


 悠真が尋ねた。


「悠真君は?」


「俺はもう仕事終わり。片づけは別の担当だから、今日は自由」


「そっか」


「彩花さんがまだ見たいところあるなら一緒に行きたいし、もう疲れたなら駅まで送る」


 決めつけず、彩花に選ばせてくれる。


 彩花は少し考えた。


 今日は十分に歩いた。


 たくさん見た。


 琴葉や玲奈、凛花とも過ごした。


 それでも、まだ一つだけしたいことがあった。


「もう一回、あそこ行ってもいい?」


「あそこ?」


「悠真君が好きな渡り廊下」


 悠真が目を瞬く。


「行きたいの?」


「うん。今度は夕方に近いでしょ?」


 彩花は窓から差し込む光へ目を向ける。


「朝でも昼でも違うって言ってたから、今の景色も見てみたい」


 悠真はしばらく何も言わなかった。


 今日の最初、自分が彩花へ見せたいと思って連れていった場所。


 今度は彩花の方から、もう一度見たいと言ってくれた。


「行こう」


 返ってきた声は静かだったが、嬉しさは隠れていなかった。


「時間、大丈夫?」


「うん。お姉ちゃんには帰るとき連絡するって言ってある」


「分かった。じゃあ、ゆっくり行こう」


 悠真がそう答える。


 彩花は琴葉と玲奈へ顔を向けた。


「二人とも、今日はありがとう」


「もう行く?」


「うん。悠真君と少し回ってから帰るね」


「分かった。彩花ちゃん、またね」


「彩花さん、お気をつけて」


「うん。またね」


 二人へ手を振り、彩花は悠真と並んで図書室を出た。


 午前中と同じ二人。


 けれど、今度は悠真が用意した案内順に従って歩くわけではない。


 彩花自身がもう一度見たいと思った場所へ、二人で向かう。


 窓の外では午後の光が少しずつ傾き始め、文化祭の賑わいも、昼間とは違う終わり際の空気へ変わりつつあった。


 悠真が長く見てきた景色は、今度はどんな色になっているのだろう。


 彩花はそれを楽しみにしながら、隣を歩く悠真とともに渡り廊下へ向かった。

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