第50話 今度は、君がいる学校へ
桜華学園の最寄り駅へ降りた瞬間から、彩花は普段とは違う空気を感じていた。
改札を抜ける人の流れには、自分と同じ高校生だけでなく、小学生くらいの子どもを連れた家族や、落ち着いた服装の年配夫婦も混ざっている。その多くが同じ方向へ歩いていることから、わざわざ案内を確認しなくても桜華学園の文化祭へ向かう人々なのだと分かった。
彩花は肩から提げた鞄の位置を直し、人の流れに合わせて歩き始めた。
服装は青葉高校の制服だ。
文化祭へ遊びに行くだけなので私服でもよかったのだが、同じ高校生として他校へ行くなら制服の方が気楽だった。それに、凛花からも「制服の子も多いよ」と聞いていたので、朝になって迷うこともなかった。
ただし、服装に迷わなかったからといって、まったく緊張していないわけではない。
(本当に来たんだ)
駅から十分ほど歩くと、並木の向こうに桜華学園の正門が見えてきた。
何度か名前を聞き、写真で見たこともある学校だった。
県内でも有名な私立校。
姉の凛花が通い、悠真や琴葉、玲奈が毎日過ごしている場所。
高い塀の向こうには複数の校舎が並び、正門へ続く道の両側には文化祭用の旗が一定の間隔で掲げられている。来場者を迎えるために整えられた景色なのだろうが、それでも青葉高校とはずいぶん雰囲気が違った。
「……やっぱり大きいな」
思わず呟く。
青葉高校が嫌になったわけではない。
自分の学校は好きだ。
文化祭を終えた今なら、以前よりずっと素直にそう思える。
だからこそ、違いを違いとして楽しめた。
正門の近くでは、腕章を着けた生徒たちが来場者を案内している。
彩花は少しだけ立ち止まり、スマートフォンを確認した。
悠真から届いた最後のメッセージは、朝のものだった。
『受付を通ったところで待ってる。』
昨日も聞いている。
それでも、朝になってもう一度送ってくれた。
(仕事、大丈夫かな)
心配は残っている。
悠真は何度も大丈夫だと言っていたし、他の人へ仕事を押しつけたわけではないことも確認している。
だから今日は、その言葉を信じることにした。
「こんにちは。一般公開のご来場ですか?」
受付にいた女子生徒から声をかけられ、彩花は顔を上げた。
「はい」
「こちらへお名前をご記入ください。校内案内を一部お渡ししています。立入制限区域についても記載されていますので、ご確認をお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
受付を済ませ、文化祭用の案内冊子を受け取る。
表紙には桜華学園の校章と文化祭の文字が入り、中を開くと各クラスや部活動の企画が細かく掲載されていた。
(あとでちゃんと見よう)
そう思いながら受付を抜ける。
そして。
「彩花さん」
聞き慣れ始めた声が、人のざわめきの中からはっきり届いた。
彩花は顔を上げる。
少し離れた場所に、悠真が立っていた。
制服姿は図書館でも見たことがある。
けれど今日は、その腕に生徒会役員であることを示す腕章がある。
周囲には同じ制服を着た生徒が大勢いる。
その中で悠真を見つけた瞬間、彩花は不思議なくらい安心した。
「悠真君」
以前なら、一度頭の中で練習してからでなければ言えなかった名前が、今日は自然に出た。
悠真の表情が柔らかくなる。
「おはよう。迷わなかった?」
「大丈夫。駅からみんな同じ方向に歩いてたから」
「確かに今日は分かりやすいかも」
「待たせた?」
「全然。俺が早く来ただけ」
「どのくらい?」
「……十分くらい」
「それは早いよ」
「楽しみだったから」
あまりにも普通の声で言われ、彩花は一瞬だけ返事に困った。
悠真は以前なら、こういう言葉を口にしたあと自分でも意味を考え込んでいた。
今は違う。
会いたかったから待っていた。
来るのが楽しみだったから早く来た。
それをそのまま言葉にする。
「私も楽しみにしてたよ」
彩花も、同じように返した。
悠真が少しだけ目を見開き、それから嬉しそうに笑う。
「じゃあ行こうか」
「うん。お願いします」
二人は並んで校舎へ向かった。
◇
桜華学園の校舎へ入って最初に彩花が驚いたのは、豪華さよりも人の多さだった。
「すごい……」
廊下の両側には各クラスの看板が並び、生徒たちが来場者へ声をかけている。飲食企画の香りが遠くから漂い、吹奏楽部らしい演奏まで聞こえてきた。
普段は落ち着いた学校なのだろう。
それが今日だけは、学校全体が一つの大きな催し物になっている。
「青葉も人多かったけど、こっちもすごいね」
「今日は特に多いと思う。午前中より今くらいの時間が一番混むから」
「大丈夫? 一時間半で」
「そこは考えた」
悠真が少し得意そうに案内冊子を開く。
「最初に俺の教室。この時間なら比較的空いてる。そこから生徒会室の近くを通って図書室。図書室を出たあとに――」
「待って」
「何?」
「本当に予定組んでる」
「組むって言ったよ?」
「聞いてたけど、ここまでちゃんとしてると思わなかった」
「一時間半しかないから」
悠真は当然のように答える。
「彩花さんが見たいって言ったところ、できるだけ全部回りたいし」
「……ありがとう」
「うん」
「でも、急がなくていいからね。全部見られなくても大丈夫」
「分かってる」
悠真は頷いた。
「だから、彩花さんが途中で気になるところ見つけたら言って。予定変えるから」
「せっかく考えたのに?」
「彩花さんに楽しんでもらうための予定だから、予定を守ることが目的じゃないよ」
その言い方が妙に悠真らしくて、彩花は笑った。
「じゃあ遠慮なく言うね」
「そうして」
歩き始める。
途中、悠真へ声をかける生徒が何人もいた。
「九条、さっきの案内板ありがとう」
「うん。位置大丈夫だった?」
「問題なし」
「九条君、午後の交代、予定通りで大丈夫だから」
「分かりました。時間までには戻ります」
悠真は一人一人へきちんと返す。
生徒会役員だから顔が広いのだろう。
彩花が知っている図書館での悠真とは少し違う。
家族といる悠真とも違う。
学校の中で、周囲から頼られている悠真。
(こういう悠真君もいるんだ)
以前から知ってはいた。
生徒会に入っていることも、忙しいことも。
けれど知識として聞くのと、実際に見るのでは違う。
彩花が隣を歩きながら周囲を見ていると、悠真がこちらを向いた。
「どうした?」
「見てた」
「何を?」
「悠真君」
「俺?」
「学校だと本当に生徒会の人なんだなって」
「一応ね」
「みんな普通に頼ってる」
「俺だけじゃないよ。生徒会の人はみんな忙しいし」
そこで自分だけを特別に見せようとしないのも悠真らしかった。
「でも、ちょっと新鮮」
「俺も青葉で彩花さん見たとき、そんな感じだった」
「私?」
「うん。クラスの人と話してたり、文芸部で案内してたり。図書館で会う彩花さんとは少し違った」
「ああ……」
あの日のことを思い出す。
今度は立場が逆なのだ。
彩花が悠真の学校へ来て、普段の悠真を見る。
「じゃあ今日は、いっぱい見て帰ろうかな」
何気なく言うと、悠真が一瞬黙った。
「……うん」
「何?」
「いや。嬉しいなって」
「また?」
「また」
悠真は笑う。
「見てほしかったから」
彩花の胸の奥が、少しだけ温かくなった。
◇
悠真の教室では、簡単なゲーム企画が行われていた。
入口の装飾をくぐると、クラスメイトらしい男子がすぐに悠真へ気づく。
「九条、戻ってきた……って、あれ?」
「今は休憩中」
「それは分かるけど」
男子生徒の視線が彩花へ移る。
悪意はない。
純粋に知らない女子が悠真と一緒にいることが気になったのだろう。
「友達の水瀬彩花さん。青葉高校から来てくれた」
悠真が紹介する。
「彩花さん、こっちは同じクラスの――」
「宮原颯太。よろしく」
先に名乗った男子――宮原颯太が、人懐こい笑顔を見せた。
「水瀬さん、いらっしゃい。九条から青葉の文化祭の話は聞いてるよ」
「え?」
彩花が悠真を見る。
「そんなに話したの?」
「そんなには話してない」
「いや、結構楽しそうに話してたぞ」
「宮原」
「事実じゃん」
颯太が笑う。
悠真は少し困った顔をしたが、否定はしなかった。
「青葉、楽しかったから」
「そういうところだよ」
「何が?」
「何でもない」
「最近みんなそれ言うな……」
悠真が本気で不思議そうにしている。
彩花はそのやり取りを見て、思わず笑った。
「九条、案内中?」
「うん。一時間半くらい」
「へえ。ちゃんと休憩取ってるならいいけど」
「取ってるよ」
颯太は悠真の腕章を見たあと、彩花へ視線を戻した。
「こいつ、準備中も忙しかったからさ。今日くらい休めってみんな言ってたんだよ」
「そうなんですか?」
「宮原、余計なこと言わなくていい」
「でも本当だろ?」
彩花は悠真を見る。
「無理してない?」
「してない」
すぐに返ってくる。
けれど今度は、彩花も簡単には引かなかった。
「本当に?」
「本当に。今は正式な休憩時間。あとで戻る時間も決まってるし、その分の仕事は午前中に終わらせてる」
「……ならいいけど」
「心配してくれてありがとう」
悠真は柔らかく笑った。
その表情を見ていた颯太が、ほんの少しだけ眉を上げる。
九条悠真は誰に対しても感じがいい。
クラスでも人当たりがよく、頼み事をされれば可能な範囲で引き受ける。
だから、女子から人気があることも知っている。
ただ、今の笑い方は少し違った。
水瀬彩花を見るときだけ、肩から余計な力が抜けるように見える。
そして何より、彼女の心配へ答える声が妙に嬉しそうだった。
(ああ、この子か)
颯太はようやく理解した。
最近、九条が文化祭の来場者動線や図書室の公開範囲をやけに細かく確認していた理由。
誰かに頼まれたからではない。
この少女に見せたかったのだ。
「水瀬さん」
「はい?」
「九条、今日かなり楽しみにしてたから、ゆっくり見てって」
「宮原」
「いいじゃん、それくらい」
彩花は少し驚いたあと、悠真を見る。
悠真は否定せず、わずかに照れたような顔をしていた。
「……知ってる」
彩花は答えた。
「本人から、何回も聞いたから」
「何回も言ったっけ?」
「言ってるよ」
「そっか」
悠真は少し考え、それから笑った。
「ならいいや」
颯太はその二人を交互に見て、何も言わずに笑った。
◇
教室を出たあと、彩花はしばらく黙って歩いていた。
「彩花さん?」
「何?」
「いや、静かだから」
「見てるの」
「何を?」
「学校」
彩花は廊下の先へ目を向ける。
窓際には文化祭用の装飾が並び、教室から楽しそうな声が聞こえる。すれ違う生徒たちの中には悠真へ会釈する人もいれば、気軽に手を上げる人もいた。
「悠真君が普段いるところ、本当に見てるんだなって思って」
「まだ教室しか見てないけど」
「でも、さっきの宮原君とか。学校の友達と話してる悠真君も初めて見た」
「湊とは会ったことあるよね?」
「あるけど、図書館だったから。学校の中だとちょっと違う」
「そうかな」
「違うよ」
彩花は少し考えてから言葉を続ける。
「ちゃんと、ここに悠真君の生活がある感じがする」
悠真の歩みが少しだけ遅くなった。
「……それ、前に俺が青葉で思ったのと似てる」
「やっぱり?」
「うん」
悠真は彩花を見た。
「だから来てくれて嬉しい」
まただ。
今日だけでも何度目か分からない。
けれど、もう彩花は「また言ってる」とは返さなかった。
「来てよかった」
代わりにそう言う。
まだ始まったばかりだ。
それでも、本当にそう思った。
◇
「ここが生徒会室」
しばらく歩いたところで、悠真が一つの扉を示した。
文化祭当日のため、扉は開いている。
中では数人の生徒が忙しそうに動き、机の上には無線機や資料、予備の案内冊子などが並んでいた。
「入って大丈夫?」
「今は入口までなら。中は仕事中だから邪魔しないようにしよう」
「うん」
彩花は扉の外から室内を覗く。
「ここにいつもいるの?」
「毎日じゃないよ。でも生徒会の仕事がある日は来る」
「思ってたより普通の部屋」
「何を想像してたの?」
「もっとすごいところ」
「すごいところ?」
「桜華だし、生徒会だし、九条家の御曹司がいるし」
「最後の関係ある?」
「ちょっとだけ」
彩花が笑う。
悠真も苦笑した。
「普通だよ。仕事する場所だから」
「でも、こういうのが見たかった」
「普通のところ?」
「うん」
彩花は室内へもう一度目を向ける。
書類を整理する生徒。
無線で連絡を取る生徒。
壁には文化祭当日の予定表が貼られている。
華やかではない。
けれど、悠真が普段ここで仕事をしているのだと思うと面白かった。
「兄様?」
室内から声がした。
琴葉が資料を持ってこちらへ歩いてくる。
「琴葉ちゃん」
「彩花さん。いらしていたのですね」
「うん。こんにちは」
「こんにちは。ようこそ桜華へ」
琴葉の表情が柔らかくなる。
「兄様にきちんと案内していただけていますか?」
「うん。すごくちゃんと予定まで作ってくれてる」
「やはり」
「やはり?」
「いえ、こちらの話です」
琴葉は微笑み、兄へ視線を移す。
「兄様、次の担当までまだお時間はございますね?」
「うん。大丈夫」
「でしたら、どうぞごゆっくり。こちらは問題ございませんので」
「ありがとう」
悠真が答える。
琴葉は再び彩花を見る。
「彩花さん、私はもう少しこちらにおりますが、あとで時間が合いましたらお会いしましょう」
「うん。琴葉ちゃんのクラスも見てみたい」
「ぜひ。午後は私もクラスへ戻る予定です」
「分かった」
短く話したあと、琴葉は仕事へ戻っていった。
彩花と悠真も生徒会室を離れる。
その背中を見送りながら、琴葉は手にしていた資料へ視線を落とした。
兄は今朝から何度も時間を確認していた。
仕事に遅れないためだけではない。
限られた時間の中で、彩花に見せたい場所をできるだけ多く回るためだ。
仕事そのものは普段通り正確にこなしている。
他の来場者への対応も変わらない。
それでも、彩花のことになると一段だけ深くなる。
ただ案内するのではなく、何を見たいか覚え、公開範囲を調べ、混雑する時間を考え、自分が好きな場所まで見せようとしている。
(兄様は、本当に彩花さんのことになると丁寧なのですね)
以前なら、そこに少し危うさも感じたかもしれない。
兄は思いついたらすぐ動くところがある。
けれど最近は、彩花が望んでいるかを先に考えるようになった。
だから琴葉も、安心して見ていられる。
「九条さん、こちらの確認をお願いします」
「はい、ただいま」
呼ばれ、琴葉は仕事へ意識を戻した。
◇
「次、図書室?」
「うん。ただ、途中で一か所寄っていい?」
「秘密の場所?」
「まだ」
「まだなんだ」
「秘密の場所は最後の方」
「ちゃんと焦らすね」
「焦らしてるつもりはないんだけど」
「じゃあ何?」
「一番見せたいから、時間気にしないで見られるようにしたい」
彩花は少しだけ目を瞬いた。
「一番なんだ」
「うん」
悠真は当然のように答える。
「俺が好きな場所だから」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
楽しみが増えた。
「じゃあ途中はどこ?」
「ここ」
悠真が足を止めたのは、校舎の一角にある階段だった。
「階段?」
「そう」
「……普通だね」
「彩花さん、普通のところ見たいって言っただろ?」
「言ったけど、本当に普通」
思わず笑う。
階段自体は特別な造りではない。
ただ、踊り場に大きな窓があり、そこから中庭が見えた。
「ここ、小学生の頃から使ってるんだ」
「小学生?」
「桜華は初等部からあるから。建物は違うけど、行事とかで高等部側に来ることもあったし、中学に上がってからはよく通ってる」
「じゃあ、ずっと見てきた場所なんだ」
「うん」
彩花は踊り場の窓から外を見る。
文化祭で人が多い。
中庭には模擬店が並び、その間を大勢の来場者が歩いている。
「普段はもっと静か?」
「かなり。昼休みでも今日ほど人いないよ」
「そっか」
彩花は窓枠へ触れないよう少し近づく。
「こういうの、好き」
「本当?」
「うん。悠真君が昔から見てたところなんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら見られて嬉しい」
悠真は返事をしなかった。
彩花が振り返る。
「悠真君?」
「……ごめん。ちょっと嬉しかった」
「それ、今日何回目?」
「数えてない」
「私も数えてないけど、多いよ」
「仕方ないよ」
悠真は笑った。
「彩花さん、今日ずっと俺が嬉しいこと言うから」
彩花は一瞬言葉に詰まった。
「私は普通に感想言ってるだけなんだけど」
「それが嬉しい」
「……じゃあ止めようがないね」
「止めなくていいよ」
「そういう意味じゃない」
二人で笑いながら階段を上がる。
何でもない階段。
何でもない踊り場。
けれど彩花には、さっきまでより少しだけ桜華学園が近く感じられた。
◇
図書室へ入った瞬間、彩花の目が明らかに変わった。
「……広い」
悠真はその横顔を見て、思わず笑った。
「やっぱり最初それ言うと思った」
「だって広いよ」
「青凪の中央図書館よりは小さいよ」
「学校の図書室で比べるところじゃないでしょ」
桜華学園の図書室は別棟の二階にあり、大きな窓から自然光が入る造りになっている。文化祭中は図書委員会によるテーマ展示が行われ、入口近くには在校生が選んだおすすめの一冊が紹介カードとともに並べられていた。
彩花はすぐに展示へ近づいた。
「これ、全校生徒から集めたの?」
「希望者だったと思う」
「悠真君は書いた?」
「今年は出してない」
「そっか」
「出せばよかったな」
「なんで?」
「彩花さんが見るなら」
また自然に言われる。
彩花は少しだけ困ったように笑った。
「来年も来るか分からないよ?」
「じゃあ来年も来てほしい」
「気が早い」
「そう?」
「まだ今年の文化祭始まったばっかりだよ」
「確かに」
悠真も笑う。
彩花は展示カードを一枚ずつ眺め始めた。
悠真は急かさない。
予定を組んできたはずなのに、彩花が立ち止まれば一緒に止まる。
数分後、彩花がそれに気づいた。
「時間、大丈夫?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。ここは長くなると思ってたから」
「……そこまで予想されてる」
「彩花さんだから」
その一言に、彩花はもう驚かなかった。
ただ、少し嬉しくなる。
悠真は自分が本を好きなことを知っている。
図書室へ来れば時間を忘れることも知っている。
だから最初から、その時間を予定の中へ入れてくれていた。
それは大げさなことではない。
けれど、自分のことを見てもらえていると感じるには十分だった。
「悠真君」
「何?」
「ありがとう」
「まだ案内途中だよ?」
「今言いたかったから」
悠真が一瞬黙り、それから柔らかく笑う。
「どういたしまして」
今度は「嬉しい」と口にはしなかった。
それでも、表情を見れば十分分かった。
◇
図書室を出たあと、二人は少しだけ模擬店を覗いた。
彩花が気になった焼き菓子を一つ買い、悠真は飲み物を買う。
人の流れを避けて中庭の端へ移動すると、ちょうど向こうから玲奈が歩いてきた。
「彩花ちゃん」
「玲奈さん」
彩花が笑顔になる。
「来てたんだね。ようこそ」
「こんにちは。さっき琴葉ちゃんにも会いました」
「九条に連れ回されてない?」
「逆かも。私が見たいところいっぱい言ったから」
「なるほど」
玲奈は悠真を見る。
「ちゃんと案内できてる?」
「できてると思う」
「彩花ちゃん、採点すると?」
「採点?」
「案内役として」
突然の質問に彩花は少し考えた。
「百点?」
「即答だ」
「だって、私が見たいって言ったところ全部覚えてくれてたし、図書室で長くなることまで予定に入れてたから」
玲奈の視線が悠真へ移る。
「九条」
「何?」
「やっぱり彩花ちゃん相手だと細かいね」
「そう?」
「そうだよ」
悠真は少し考えたあと、否定しなかった。
「彩花さんには楽しんでほしいから」
玲奈はそれを聞き、軽く肩をすくめる。
「はいはい。じゃあ邪魔しないでおく」
「玲奈さんはどこ行くんですか?」
「友達のクラス寄ってから琴葉のところ。あとでまた会えたら話そう」
「はい」
玲奈が去っていく。
彩花はその背中を見送ってから、悠真を見る。
「本当にみんなに言われるね」
「何を?」
「私のとき細かいって」
「実際そうなのかも」
「認めるんだ」
「うん」
悠真は飲み物のボトルを持ち直した。
「他の人だったら、見たい場所聞いてそこまで連れていけば十分だと思う。でも彩花さんには、どうせなら俺が好きなところも見てほしいし、彩花さんが好きそうなところも見せたい」
言葉を探している様子はない。
もう悠真の中では、それが自然なことなのだ。
「だから、たぶん違う」
彩花は返事を急がなかった。
以前なら「どうして私だけ」と聞いていたかもしれない。
今は、その答えを悠真自身が何度も示している。
彩花だから。
それ以上を、今すぐ求めなくてもいい。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、特別待遇だ」
冗談っぽく言ってみる。
悠真は笑うと思った。
ところが、返ってきたのは思ったより真面目な声だった。
「そうだね」
「……そこ認めるの?」
「だって違うって言ったばっかりだし」
「そうだけど」
「嫌?」
悠真が尋ねる。
彩花は少しだけ考えた。
周囲の声が聞こえる。
模擬店から漂う甘い匂い。
遠くのステージから流れてくる音楽。
その中で、悠真だけが自分の返事を待っていた。
「嫌じゃないよ」
彩花は答えた。
「むしろ、嬉しい」
悠真の目が少し大きくなる。
「……そっか」
「うん」
「よかった」
それだけだった。
特別とは何なのか。
友達と何が違うのか。
そんな話には進まない。
今はただ、自分だけ少し違うことをしてもらえている。
それを嬉しいと思える。
彩花には、その変化だけで十分だった。
◇
「そろそろ秘密の場所?」
焼き菓子を食べ終えたあと、彩花が尋ねた。
「うん。時間もちょうどいい」
「そんなに遠い?」
「ここからなら五分くらい」
二人は中庭を離れ、人の多い中央廊下から少し外れた通路へ入った。
歩くほど、文化祭の喧騒が少しずつ遠くなる。
「こっち、人少ないね」
「展示がないから。移動に使う人くらいしか来ない」
「本当に普通のところなんだ」
「期待外れだったらごめん」
「まだ見てないのに謝らないでよ」
彩花は笑った。
「それに、私が見たいって言ったのは悠真君が好きな場所だから。すごい場所かどうかじゃないよ」
悠真の足が一瞬だけ遅くなる。
「……うん」
「また嬉しい?」
「かなり」
「顔で分かるようになってきた」
「そんなに出てる?」
「私には分かるかも」
その言葉に、悠真が彩花を見る。
彩花自身も、言ってから少しだけ驚いた。
けれど取り消さなかった。
幼い頃の字も分かった。
今、嬉しそうにしている顔も分かる。
全部ではない。
知らない悠真は、まだたくさんいる。
だからこそ、今日ここへ来た。
「ここ」
悠真が足を止めた。
二階の渡り廊下だった。
彩花は周囲を見回す。
最初は、何が特別なのか分からなかった。
けれど悠真が窓の方へ歩いたので、その隣へ並ぶ。
そして外を見た。
「……あ」
声が漏れた。
窓の向こうには、桜華学園の敷地を通る並木道が広がっていた。
黄色や橙色へ変わり始めた葉が、昼下がりの光を受けている。風が吹くたび枝が揺れ、その隙間から落ちた光が石畳の上で形を変えていた。
文化祭の人混みは、ここからだと少し遠い。
楽しそうな声は聞こえる。
けれどガラス一枚を隔てたこの場所だけは、学校の中にありながら少し静かだった。
「綺麗」
彩花は素直に言った。
「本当?」
「うん」
悠真の声に、少しだけ安心した響きが混じった。
「ここ、好きなの?」
「うん。昔から」
「どうして?」
「たぶん、普通だから」
「普通?」
「毎日同じように通るけど、景色は結構変わるんだ。春は葉が明るいし、夏は全部緑で、今くらいから色が変わる。冬は枝だけになる」
悠真は窓の外を見る。
「忙しいときにここ通ると、いつの間にか季節変わってるなって思うことがある」
彩花は、悠真の横顔を見る。
初めて聞く話だった。
生徒会役員として何でもこなし、九条家の御曹司で、学校でも頼られている悠真。
そんな彼が、忙しい日の途中で窓の外を見て、葉の色が変わったことに気づいている。
その姿が、なぜかとても悠真らしいと思った。
「好き」
彩花が呟く。
悠真がこちらを向いた。
「え?」
「この場所。私も好き」
「ああ……」
悠真が少しだけ息を吐く。
「よかった」
「もしかして緊張してた?」
「ちょっと」
「どうして?」
「彩花さんに見せたいって自分から言ったから。普通の渡り廊下だし、来ても何も思わなかったらどうしようかなって」
「そんなこと考えてたんだ」
「考えるよ」
彩花はもう一度窓の外を見る。
「私、たぶん景色だけだったら、ここまで好きになってないかも」
「え?」
「悠真君が好きな場所だって聞いたから、好き」
言ってから、自分でも少しだけ恥ずかしくなった。
悠真は何も言わない。
彩花が隣を見ると、完全に固まっていた。
「……悠真君?」
「ごめん」
「どうしたの?」
「今の、かなり嬉しかった」
「また?」
「今日一番かもしれない」
「それ、最近毎日更新してない?」
「してるかも」
悠真は笑った。
彩花も笑う。
そのあと、二人はしばらく何も言わず並木を眺めた。
会話がなくても気まずくない。
窓の向こうで葉が揺れている。
文化祭の音が遠くから届く。
人の足音がたまに背後を通り過ぎる。
悠真が長い間見てきた景色の隣に、今日は彩花がいる。
それだけだった。
けれど悠真にとっては、文化祭のどんな企画を見るよりも、この時間の方がずっと特別だった。
(見せてよかった)
彩花が綺麗だと言ったからだけではない。
自分が好きな場所だから好きだと言ってくれた。
その言葉が、胸の奥へ残っている。
「彩花さん」
「うん?」
「来てくれてありがとう」
彩花が少し驚いた顔をする。
「まだ帰らないよ?」
「分かってる。でも今言いたかった」
どこかで聞いた言い方だった。
彩花も気づいたらしく、小さく笑う。
「じゃあ、どういたしまして」
少し間を置いてから続けた。
「連れてきてくれてありがとう、悠真君」
今度は悠真が笑った。
◇
渡り廊下を出る頃には、悠真の休憩時間も残り少なくなっていた。
「そろそろ戻らないと駄目?」
「あと十五分くらい」
「じゃあ、生徒会室まで戻ろう」
「彩花さんは?」
「琴葉ちゃんのクラス行ってみようかな。場所分かる?」
「案内する」
「でも仕事」
「途中まで同じ方向だから」
「ならお願い」
二人は並んで歩き始めた。
人の多い廊下へ戻るにつれて、文化祭の賑わいがまた近づいてくる。
途中、何人もの生徒とすれ違った。
その中には悠真を知る者もいる。
腕章を着けた九条悠真が、他校の女子生徒と並んで歩いている。
何人かが気づいたように視線を向けた。
けれど悠真は気にしていなかった。
「彩花さん、午後はどうする?」
「琴葉ちゃんと玲奈さんに会って、お姉ちゃんのところも行きたい。あとは気になったところ回るかな」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。案内冊子あるし」
「そっか」
「仕事終わるのは?」
「夕方近くになると思う」
「じゃあ、無理に会わなくても大丈夫だからね」
彩花は普通のつもりで言った。
けれど悠真は少しだけ黙った。
「……できれば、もう一回会いたい」
彩花が足を緩める。
「今日?」
「うん。仕事終わったあと、彩花さんがまだいるなら」
悠真は少しだけ照れたように続ける。
「せっかく来てくれたから、帰る前にも会いたい」
強くは言わない。
残ってほしいとも言わない。
彩花の予定を変えさせようともしない。
ただ、自分の希望だけを伝えている。
彩花はスマートフォンで時刻を確認した。
帰宅を急ぐ必要はない。
凛花も夕方までは学校にいる。
「たぶん、まだいるよ」
「本当?」
「うん。私もいろいろ見たいし」
そこまで言ってから、彩花は少しだけ迷った。
でも、今は言える気がした。
「それに、私も帰る前に悠真君ともう一回会いたい」
悠真が足を止めかける。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ仕事、ちゃんと終わらせてくる」
「ちゃんと終わらせてきてください」
「はい」
彩花が笑う。
悠真も笑った。
生徒会室へ向かう分かれ道が近づく。
ここから先は、いったん別行動になる。
「じゃあ、あとで連絡する」
「うん。仕事頑張って」
「ありがとう。彩花さんも楽しんで」
「楽しんでるよ。すごく」
その言葉に、悠真の表情がまた柔らかくなった。
彩花はもう、それが自分へ向けられたときの顔だと分かる。
「またあとでね、悠真君」
「うん。またあとで、彩花さん」
二人はそこで別れた。
悠真は生徒会室へ。
彩花は琴葉の教室へ。
歩く方向は違う。
それでも今日は、もう一度会う約束がある。
◇
生徒会室へ戻った悠真は、扉を開ける直前に一度だけ表情を整えた。
仕事へ戻る。
休憩時間は終わりだ。
「九条君、おかえり」
「戻りました。交代します」
「休憩できた?」
「はい」
先輩から資料を受け取り、担当へ入る。
切り替えは早かった。
来場者からの問い合わせを確認し、校内放送の連絡を整理し、次の担当者へ必要事項を伝える。
仕事中の悠真は、いつも通りだった。
それでも近くで作業していた琴葉には、一つだけ分かった。
兄の機嫌が、とてもいい。
「兄様」
「何?」
「例の場所はいかがでした?」
資料から目を離さず尋ねる。
悠真の手がほんの一瞬だけ止まった。
「彩花さん、好きって言ってくれた」
「景色を?」
「うん。それと……俺が好きな場所だから好きって」
琴葉は兄を見る。
その表情を見た瞬間、それ以上聞く必要はないと分かった。
「それは、ようございましたね」
「うん」
悠真は一度だけ笑い、すぐに仕事へ戻った。
けれど琴葉は思う。
たぶん今日、兄は何度もあの渡り廊下での言葉を思い出すのだろう。
そしてきっと、あの場所は今日から少しだけ意味が変わる。
今まで一人で見てきた景色に、水瀬彩花の記憶が加わったから。
◇
一方、彩花は案内冊子を見ながら琴葉の教室へ向かっていた。
途中で何度か道を確認しながら歩いていると、窓の外に先ほどの並木が一瞬見えた。
渡り廊下とは違う角度。
それでも、すぐに分かった。
(悠真君、あそこをずっと見てたんだ)
今日初めて来た学校なのに、一つだけ自分にとって意味のある場所ができた。
有名な場所ではない。
文化祭の案内冊子にも載っていない。
きっと来場者のほとんどは、わざわざ足を止めない。
それでも彩花は、もう一度見たいと思った。
悠真が好きな場所だから。
そして、悠真が自分に見せたいと思ってくれた場所だから。
彩花は冊子を持ち直し、琴葉の教室へ向かう。
桜華学園で過ごす時間は、まだ終わっていない。
今日はまだ、知らない悠真をいくつも見つけられそうだった。




