第49話 君に見せたい景色
月曜日の朝、桜華学園の校門をくぐった悠真は、いつもより少しだけゆっくりと歩いていた。
文化祭を目前に控えた校内は、普段の落ち着いた雰囲気から大きく変わっている。正門脇には一般公開日の案内板を設置するための土台が組まれ、昇降口へ続く道では実行委員の生徒たちが装飾の位置を確認していた。校舎の窓から色紙や布を運ぶ生徒の姿も見え、朝の早い時間にもかかわらず、あちこちから準備の声が聞こえてくる。
悠真はそんな景色を眺めながら歩き、昇降口へ向かうはずの角を一つだけ曲がった。
少し遠回りになる道だった。
校舎と体育館の間にある中庭を抜け、その先の渡り廊下へ続いている。
中央の大きな中庭ほど広くはなく、昼休みでも利用する生徒はそれほど多くない。花壇の脇には古い木製のベンチが二つ置かれ、その向こうには高等部の校舎と図書室の入る別棟をつなぐ二階の渡り廊下が見えていた。
悠真が足を止めたのは、その渡り廊下の途中だった。
窓の外には、桜華学園の敷地を南北に走る並木道が広がっている。
季節が進み、葉は緑の中に黄色や橙色を混ぜ始めていた。朝の光が斜めから差し込み、枝の間を抜けた光が石畳の上へ細かな模様を落としている。
(ここなら、文化祭の日でも来られるな)
昨日、彩花から届いたメッセージを思い出す。
『悠真君が普段見てるところとか、好きな場所も知りたい。』
読んだ瞬間に嬉しかった。
だから「一か所、絶対見せたい」と返した。
けれど、実際にどこを見せるかについては、候補がいくつも浮かんでいた。
図書室の窓際は好きだ。
中庭も落ち着く。
生徒会室へ向かう途中の階段には、小学生の頃から何度も見てきた景色がある。
それでも、一番に浮かんだのはここだった。
悠真は窓の向こうへ視線を向ける。
この渡り廊下は、特別豪華な場所ではない。
桜華には歴史のある講堂もあれば、手入れの行き届いた庭園もある。来校者へ見せる場所を選ぶなら、もっと分かりやすく立派な場所はいくらでもあった。
それでも悠真は、昔からここが好きだった。
授業の移動で通ることもある。
生徒会室から図書室へ向かうときにも使う。
忙しい日に一人で歩くと、窓から見える木々に季節の変化を見つけることがあった。
誰かに勧めるほどの名所ではない。
だからこそ、彩花には見せたいと思った。
(彩花さんなら、たぶんこういうところも見てくれる)
立派かどうかではなく、そこに何があるのかを見てくれる。
本の少し擦れた表紙も、誰かが残した古い鉛筆の文字も、目立たない物語の途中も。
彩花がどう感じるかは分からない。
それでも、見てほしい。
「九条?」
後ろから声をかけられ、悠真は振り返った。
鞄を肩にかけた湊が、少し不思議そうな顔で立っている。
「おはよう」
「おはよう。いや、それはいいんだけど、何で朝からこんなところにいるんだ?」
「ちょっと確認」
「何を?」
湊が窓の外を見る。
装飾もない。
文化祭準備の生徒もいない。
確認するようなものがあるようには見えなかった。
「文化祭の日、ここって通行制限なかったよな?」
「たぶんないけど……お前、実行委員の動線まで確認してるの?」
「違う。彩花さんに見せたいから」
あまりにも自然な返答に、湊が黙った。
悠真はその反応を見て首を傾げる。
「何?」
「いや」
湊は数秒考えてから、首を横に振った。
「何でもない。通行制限はなかったと思うぞ。ここ、展示にも使わないし」
「よかった」
「水瀬さん、ここ見たいって言ったのか?」
「いや。俺が見せたい」
「……そうか」
「うん」
悠真はもう一度窓の外を見る。
湊も隣へ立った。
長く桜華へ通っている彼にとっても見慣れた景色であり、わざわざ文化祭の来場者を連れてくるような場所だと思ったことはない。
けれど、今の悠真を見ていると少しだけ意味が分かった。
九条悠真は、来客向けの立派な桜華を水瀬彩花へ見せたいのではない。
自分が毎日見ている桜華を見せたいのだ。
「九条」
「何?」
「当日、案内時間足りなくなるんじゃないか?」
「……それはちょっと心配してる」
「やっぱりか」
「彩花さんが見たいって言ってたところ全部回って、ここも来ると結構ぎりぎりなんだよな」
「一時間半だろ?」
「うん」
「文化祭の日の廊下を普段と同じ速度で歩けると思うなよ。人多いぞ」
もっともな指摘だった。
悠真は少し考える。
「順番考え直す」
「朝からここにいた理由、それか」
「そうだけど?」
「いや、いいんじゃないか。楽しそうだし」
湊はそれだけ言って歩き出した。
悠真も隣に並ぶ。
「湊」
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
「混むの忘れてた」
「生徒会役員が一番忘れちゃ駄目なやつだろ」
「案内のこと考えてたら抜けた」
「水瀬さん関係になると、お前たまに優先順位おかしくなるよな」
からかうというより呆れた声だった。
以前なら、悠真はその言葉について考え込んでいたかもしれない。
今は違った。
「気をつける」
「否定しないんだな」
「彩花さんが来るの楽しみなのは本当だから」
湊は一瞬だけ横を見る。
悠真の顔に迷いはない。
「……そっちの方が分かりやすくていいわ」
「何が?」
「何でもない」
「最近それ言う人多くない?」
「気のせいだろ」
湊は笑いながら先へ歩いた。
◇
昼休み。
彩花は教室ではなく、二階西側の廊下にあるベンチへ来ていた。
以前から、ときどき本を読むために使っている場所だ。
文化祭が終わってから校内はすっかり普段の姿へ戻り、あれほど廊下を埋めていた装飾も案内板も残っていない。窓の外では運動場を使う生徒たちの声が聞こえ、秋の風が少しだけ開いた窓から入り込んでいた。
彩花の膝には、悠真から借りた冒険小説がある。
古書店の小説はすでに読み終えたが、こちらはまだ途中だった。
小学生だった悠真が夢中になった本。
祖父の俊治からもらい、何度も読み返した一冊。
そして途中には、幼い悠真自身が残した『ここから一気に面白くなる』という鉛筆書きの紙が挟まっていた。
彩花はその少し先まで読み進めている。
物語の主人公は、長く旅を共にしていた仲間たちと初めて別行動を取っていた。
自分一人で決めなければならない。
それまでなら仲間の中で一番強い人物へ任せていた場面で、主人公は何度も失敗しながら、自分の判断で道を選んでいく。
(あ、ここ好きかも)
彩花はページをめくる手を止めた。
派手な戦いの場面ではない。
主人公が一人で村人の話を聞き、地図を広げ、自分なりに考えているだけだ。
それでも面白い。
(悠真君は、ここどう思ったのかな)
自然に浮かんだ名前へ、もう自分で驚くことはなかった。
まだ直接呼ぶときには少し緊張する。
けれど頭の中では、すっかり「悠真君」が馴染み始めている。
「やっぱりここにいた」
声がして顔を上げると、琴葉ではなく――もちろん桜華にいる琴葉が青葉へ現れるはずもなく――そこに立っていたのは大地だった。
「田辺君」
「教室に本置いてあったから、図書室かここかなって」
「何か用事?」
「佐々木先輩が来てたぞ。文芸部の連絡あるって」
「先輩が?」
「昼休み終わる前にちょっと顔出してほしいって。急ぎじゃないみたいだけど」
「分かった。ありがとう」
彩花はしおりを挟もうとして、少し考えた。
普段使っている自分のしおりではなく、もともと本に入っていた幼い悠真の紙を傷めないよう別のページへ避ける。
その様子を大地が眺めていた。
「それ、例の九条の本?」
「うん。小学生の頃から持ってるんだって」
「へえ。そんな大事なの普通に貸すんだな」
「……うん」
彩花は本を閉じる。
改めて他人から言われると、やはり少し不思議だった。
自分が逆の立場なら、誰にでも貸せるだろうか。
子どもの頃から持っていて、家族から贈られ、何度も読み返した本。
たぶん、貸す相手は選ぶ。
悠真もそうだった。
『水瀬さんだから持ってきた』
あの日の言葉を思い出す。
「大事にしないとね」
彩花はそう言いながら本を鞄へしまった。
大地は何気なく返す。
「水瀬なら大丈夫だろ。人の本、自分のより丁寧に扱いそうだし」
「そこまでじゃないよ」
「いや、今も紙一枚めちゃくちゃ丁寧に避けてたじゃん」
「これは特別なの」
「本が?」
「……本も」
それ以上は説明しなかった。
悠真の子どもの頃の字が書かれた紙だから大切だとは、なんとなく口にするのが恥ずかしかった。
大地も深く追及せず、二人で文芸部の部室へ向かった。
◇
佐々木先輩からの用件は、校内文芸誌についてだった。
「文化祭号とは別で、冬に一冊作ろうって話が出てるの。まだ正式決定じゃないんだけど、水瀬さんも何か書くなら載せる?」
「冬ですか?」
「うん。短くてもいいし、前みたいな短編でもいい。もちろん書けたらで大丈夫」
部室の机には、文化祭で使った感想カードの残りや、片づけ切れていない文具が少し置かれている。
彩花は自分のノートを開いた。
最近、少しずつ書き足している文章がある。
呼び方。
名前。
同じ言葉でも、相手によって変わる意味。
まだ物語にはなっていない。
「書きたいです」
「じゃあ枠だけ空けとく?」
「それはちょっと怖いです」
「逃げ道なくなるもんね」
「はい」
二人で笑う。
佐々木先輩は無理に締切を押しつけず、「正式に決まったらまた言うね」とだけ伝えた。
彩花がノートを閉じようとしたとき、挟んでいた紙が少しずれた。
『呼ばれた名前は、同じ自分の名前なのに少し違って聞こえた。』
以前書いた一文が見える。
佐々木先輩は内容までは読まなかったが、ノートへ向けられた彩花の表情には気づいた。
「水瀬さん、今度は前より楽しそうに書いてるね」
「そう見えます?」
「うん。文化祭前は、ちゃんとしたものを書かなきゃって顔してたこともあったけど、今は何を書こうかなって顔してる」
彩花は少し考えた。
確かに違う。
以前は、自分に書けるのかを先に考えていた。
今は、書きたいものを探している。
「まだ全然まとまってないですけど」
「まとまってない時間も楽しいよ」
「はい。今は結構好きです」
佐々木先輩は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、まとまるまで大事にしてあげて」
「そうします」
部室を出る頃には、昼休み終了まであと数分になっていた。
彩花は急ぎすぎない程度に教室へ戻りながら、鞄の中の冒険小説と、自分のノートの両方を意識していた。
本を読むこと。
書くこと。
誰かと話すこと。
以前から好きだったものが、少しずつつながっている。
その中心に悠真だけがいるわけではない。
文芸部も、琴葉も、玲奈も、家族も、大地たちクラスメイトもいる。
それでも、悠真と出会ってから増えたものがたくさんあることも確かだった。
◇
放課後の桜華学園では、文化祭準備が朝以上の賑わいを見せていた。
悠真は生徒会室で担当表を確認したあと、一般来場者の動線を実際に歩いて確かめていた。
正門から受付。
中央廊下。
階段。
高等部一年の教室が並ぶ区域。
図書室へ向かう別棟。
仕事として必要な確認でもある。
ただし、今日の悠真は一般的な動線確認とは別に、もう一つ考えていることがあった。
(正門から教室に行って、そこから図書室。そのあと渡り廊下なら無理ないか)
彩花と回る順番だ。
生徒会室の近くは途中で通れる。
凛花の予定と琴葉の予定もあるので、二人と会う時間によって多少変わるだろう。
悠真が案内板の位置を確認していると、後ろから琴葉と玲奈が歩いてきた。
「兄様」
「悠真、何してんの?」
「動線確認」
「一人で?」
「仕事の方は終わった。今は彩花さん案内するときの順番考えてる」
玲奈が足を止めた。
琴葉はもう驚かなかった。
「九条、文化祭の案内ってそんなに事前準備するものだっけ?」
「人多いから、時間足りなくなりそうで」
「一時間半だっけ?」
「うん。図書室と教室と生徒会室のあたりは彩花さんが見たいって言ってる。あと俺が見せたいところもあるから」
「へえ」
玲奈は面白そうに悠真を見る。
「自分が見せたいところまであるんだ?」
「あるよ」
「どこ?」
「まだ秘密」
「私にも?」
「彩花さんに最初に見せたい」
玲奈の口元がゆっくり上がった。
「九条、前よりだいぶ分かりやすくなったね」
「何が?」
「彩花ちゃんだけ扱い違うところ」
悠真は否定しなかった。
少しだけ考えてから、むしろ不思議そうに答える。
「違うと思う」
「おお」
玲奈が感心したような声を出した。
琴葉は隣で静かに兄を見る。
「玲奈が来ても、学校は案内できるけど、事前に一時間半のコース考えたりはしないし」
「そこまで自覚あるんだ」
「だって彩花さんだから」
琴葉がそっと額へ手を当てた。
「兄様」
「何?」
「いえ。何でもございません」
「何で琴葉まで?」
玲奈は肩を震わせて笑っている。
ただし、からかい続けることはしなかった。
悠真本人がすでに違いを認めているなら、外から名前を付ける必要はない。
それに玲奈には、もう一つ気づいたことがあった。
悠真は「水瀬さん」ではなく「彩花さん」と呼んでいる。
以前なら、それだけで琴葉と目を合わせたかもしれない。
けれど今の悠真にとって、その呼び方はもう冗談にするほど不自然ではなかった。
「彩花ちゃん、楽しみにしてた?」
「うん。俺が好きな場所も見たいって」
答えた悠真の表情が、ほんの少し変わった。
嬉しさを隠す気がない。
玲奈はそれを見て、からかう代わりに笑った。
「じゃあ、ちゃんと見せてあげなよ」
「そのつもり」
「当日、私も彩花ちゃんに会ったら少し借りるからね」
「借りる?」
「私も友達なんだけど」
「ああ、そういう意味か。もちろん」
悠真は普通に頷く。
「でも俺の案内時間は取らないで」
「九条、今の結構すごいよ」
「何が?」
「何でもない」
「またそれ?」
今度は琴葉まで笑った。
◇
その日の夕方。
青葉高校から帰宅した彩花は、リビングのテーブルで紗月と向かい合っていた。
「桜華の文化祭、交通費これで足りる?」
「大丈夫。電車もそんなに遠くないし」
「お昼は?」
「向こうで食べると思う。模擬店とかもあるみたいだから」
「じゃあ多めに持っていきなさい。余ったら返せばいいし」
「自分のお小遣いあるよ」
「文化祭くらいいいの」
紗月はそう言いながら財布を閉じる。
彩花は少し迷ったが、ありがたく受け取った。
「ありがとう」
「凛花とは向こうで会うの?」
「たぶん。お姉ちゃん、午前中は剣道部の方にいるかもって言ってたから、時間が合えば」
「琴葉ちゃんもいるんでしょ?」
「うん。玲奈さんも」
「九条君は?」
その呼び方を聞いた瞬間、彩花の中にほんの少しだけ違和感が生まれた。
つい先日まで、自分も同じように呼んでいたのに。
「悠真君もいるよ」
自然に答えてから、彩花自身が止まった。
紗月も止まった。
数秒だけ、母娘の間に沈黙が落ちる。
「……悠真君?」
「うん」
彩花の頬がじわじわ熱くなる。
家ではこれまでずっと「九条君」と呼んでいた。
紗月は驚いたようだったが、すぐに面白がって追及することはしなかった。
「呼び方、変わったのね」
「最近ちょっとだけ」
「そう」
「……それだけ?」
「何が?」
「いや、もっと何か言われるかと思った」
「言ってほしいなら言うけど」
「言わなくていい」
彩花が即座に答えると、紗月は笑った。
「じゃあ言わない。でも、楽しんできなさい」
「うん」
「凛花にも言っておいて。お母さんは今年もう青葉で文化祭気分を味わったから、桜華は二人で楽しんできてって」
「分かった」
彩花は受け取ったお金を財布へしまう。
そのとき玄関の開く音がして、少し遅れて凛花が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり、お姉ちゃん」
「ただいま、彩花」
凛花は鞄を置きながらリビングへ入り、母と妹を交互に見る。
「文化祭の話?」
「うん。交通費とか」
「そっか。当日、私の予定まだ完全には決まってないけど、時間分かったら送るね」
「ありがとう。無理に合わせなくていいよ。悠真君が案内してくれるから」
凛花の動きが止まった。
今度は彩花にも分かった。
「……お姉ちゃんまでその反応するの?」
「何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
「ごめん」
凛花は本当に少し申し訳なさそうにしながら、それでも確認せずにはいられなかった。
「呼び方変わったんだね」
「うん。まだ九条君って出ることもあるけど」
「そっか」
それ以上は言わない。
ただ、凛花の胸の中には複雑な感情があった。
妹が男の子を下の名前で呼ぶ。
姉としては落ち着かない。
相手が九条悠真だということも、もちろん意識する。
けれど同時に、彩花が自分から誰かとの距離を縮めたことが嬉しかった。
以前の彩花なら、自分が相手にとって特別かもしれないと感じた瞬間、先に一歩引いていたかもしれない。
今は違う。
九条から「彩花さん」と呼ばれることを受け入れ、自分も「悠真君」と呼んでいる。
(彩花が自分で決めたなら、それでいい)
凛花はそう思いながら、妹の隣へ座った。
「九条君……じゃなくて、九条は当日、生徒会の仕事もあるからね。あんまり困らせないように」
「私が困らせる前提なの?」
「逆。九条が彩花のために頑張りすぎそうだから」
「それは私も少し思ってる」
「やっぱり?」
「一時間半で案内する順番まで考えてるみたい」
凛花は黙った。
紗月も黙った。
「……何?」
「彩花」
「うん?」
「それ、普通の友達全員にやってると思う?」
凛花は責めるような声ではなく、本当に確認するように尋ねた。
彩花はすぐには答えなかった。
昨日、悠真本人にも似たことを聞いた。
他の友達にも一時間半空けて案内するのか。
悠真の答えは明確だった。
『彩花さんには俺が案内したいから』
「……やってないと思う」
彩花は正直に答えた。
「悠真君も、私だからって言ってた」
凛花は一瞬だけ目を閉じた。
紗月が小さく笑う。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんと大丈夫だから」
「何が?」
「何でもない」
「今日それ言う人多いな……」
彩花が首を傾げる。
凛花は妹の顔を見ながら、結局それ以上何も言わなかった。
彩花自身が、もう分かり始めている。
九条悠真が自分を他の友人とまったく同じようには扱っていないことを。
だからといって、今すぐその関係へ名前を付ける必要はない。
姉が先回りして教えることでもなかった。
◇
夜。
自室へ戻った彩花は、ベッドへ腰を下ろしてスマートフォンを開いた。
悠真からメッセージが来ている。
『当日の回り方、だいたい決めた。』
『本当に作ったの?』
『作った。』
『遠足のしおりみたいになってない?』
『そこまではしてない。』
『ちょっと安心した。』
すぐに返事が届く。
『でも混んでたら変えるから、予定通りじゃなくても怒らないで。』
『怒らないよ。』
『よかった。』
彩花は画面を見ながら笑う。
『秘密の場所も入ってる?』
『入ってる。』
『まだ教えてくれないんだ。』
『当日見せたいから。』
その一文で、彩花の指が止まる。
見せたい。
自分が見たいと言ったからではなく、悠真が自分に見せたい場所。
どんなところなのだろう。
立派な場所かもしれない。
図書室の中にある特別な棚かもしれない。
それとも、もっと普通の場所なのかもしれない。
『楽しみにしてる。』
送る。
少しして、悠真から返事が来た。
『俺も楽しみ。』
それだけでも十分だったのに、続けてもう一通届いた。
『文化祭より、彩花さんが来ることの方が楽しみかもしれない。』
彩花はしばらく画面を見つめた。
「……また、そういうこと普通に言う」
誰もいない部屋で呟く。
以前なら、どう返せばいいか分からず、冗談にしていたかもしれない。
今も恥ずかしい。
胸の奥が落ち着かない。
それでも、嫌ではない。
彩花は少し考えてから返信した。
『私は文化祭も楽しみだよ。』
送ったあと、もう一文を打つ。
『でも、悠真君に案内してもらうのも、かなり楽しみ。』
今度は消さなかった。
◇
翌日の放課後、悠真は文化祭準備の合間に例の渡り廊下を通った。
朝とは違い、西側から入る夕方の光が並木を照らしている。
黄色くなり始めた葉が風に揺れ、その影が石畳の上をゆっくり動いていた。
朝も好きだ。
けれど夕方もいい。
文化祭当日、彩花とここへ来る時間は昼過ぎになるだろう。
その頃にどんな光が入るのかまでは分からない。
晴れるかどうかも分からない。
それでもいいと思った。
同じ場所でも、その日によって見えるものは違う。
同じ本でも、読む時期や人によって好きなところが変わるように。
「兄様?」
少し離れたところから琴葉の声が聞こえた。
悠真が振り返る。
「またこちらにいらしたのですか?」
「うん。通りかかっただけ」
琴葉は兄の隣まで来ると、窓の外へ目を向けた。
「彩花さんへお見せする場所というのは、こちらですか?」
「……何で分かった?」
「兄様が文化祭準備中に、何の用事もない渡り廊下で一人景色を眺めていれば、さすがに」
「そんなに分かりやすい?」
「かなり」
琴葉は微笑む。
「でも、いい場所ですね」
「琴葉もそう思う?」
「はい。ただ、兄様がこちらをお好きだったとは存じませんでした」
「言ったことなかったから」
「では、彩花さんにはお話しになるのですね」
「うん」
悠真は迷わなかった。
「知ってほしいから」
琴葉が兄を見る。
悠真の視線は窓の向こうにある。
「彩花さん、俺が好きな場所も見たいって言ってくれたんだ。だから、ちゃんと俺が好きなところ見せたい」
「そうでしたか」
「ここなら、俺がずっと見てきた景色だから」
琴葉はそれ以上何も言わなかった。
兄が彩花へ見せようとしているのは、文化祭の華やかな部分ではない。
桜華学園の豪華さでも、九条家の人間としての自分でもない。
九条悠真という一人の少年が、何年も見てきた景色だった。
それを見せたいと思える相手。
そして、それを知りたいと言ってくれる相手。
琴葉は兄の横顔を見てから、静かに笑った。
「晴れるとよろしいですね」
「うん。でも雨でもいいかも」
「雨でも?」
「雨の日のここも結構好きだから」
「では、どちらでも大丈夫ですね」
「そうだね」
二人はしばらく並木を眺めたあと、それぞれの仕事へ戻った。
◇
文化祭前日の夜。
彩花の机の上には、悠真から借りた冒険小説が開かれていた。
もう終盤に入っている。
主人公は長い旅を経て、最初に出発した町へ戻ろうとしていた。
けれど、同じ場所へ戻るのに、出発したときと同じ人間ではない。
彩花はその一節をゆっくり読み、ページをめくった。
明日は桜華学園の文化祭。
制服で行くつもりなので、特別な服を選ぶ必要はない。
持ち物も財布とスマートフォン、それから小さなハンカチがあれば十分だ。
それなのに、普段の日曜日より少しだけ落ち着かない。
机の端でスマートフォンが震える。
『明日、正門の受付を通ったところで待ってる。』
悠真からだった。
『仕事大丈夫?』
『その時間は空いてる。』
『分かった。』
少し迷ってから続ける。
『楽しみにしてるね。』
返事はすぐに届いた。
『俺も。』
そして、もう一通。
『たぶん俺の方が楽しみにしてる。』
「競うものじゃないでしょ」
彩花は笑いながら入力する。
『じゃあ私も負けないくらい楽しみにしとく。』
『それ嬉しい。』
『また嬉しいって言ってる。』
『彩花さんのことだと多いから仕方ない。』
指が止まる。
今では悠真は、こういう言葉をほとんど隠さなくなった。
彩花だから。
彩花が来るから。
彩花に見せたいから。
最初の頃なら、その一つ一つに戸惑っていたと思う。
今も戸惑いはある。
けれど、それ以上に嬉しい。
自分が誰かにとって特別かもしれないことを、怖がらずに受け取れるようになっていた。
『じゃあ、明日ね。悠真君。』
送信する。
『うん。明日、彩花さん。』
返ってきた名前を見て、彩花は微笑んだ。
スマートフォンを伏せ、もう一度冒険小説へ向き直る。
明日は、悠真が毎日過ごしている学校へ行く。
彼の教室を見て、図書室を歩いて、生徒会の仕事をしている場所を見る。
そして、悠真が自分に見せたいと言った景色を見る。
それがどんな場所なのか、彩花はまだ知らない。
ただ一つ分かっているのは、立派な場所だから見たいのではないということだった。
悠真が好きだから。
悠真が自分に見せたいと思った場所だから、見てみたい。
彩花は読みかけのページへ視線を戻した。
けれど数行読んだところで、明日のことを考えてしまい、同じ文章をもう一度読み直すことになった。
「……今日はもう無理かも」
苦笑しながら、彩花は本を閉じる。
大切な本を傷めないよう机の上へ置き、照明を消す前に、もう一度だけスマートフォンを確認した。
新しいメッセージはない。
それでいい。
次に悠真の言葉を聞くのは、画面の中ではなくてもいい。
明日になれば会えるのだから。
桜華学園の文化祭。
今度は彩花が、悠真のいる場所へ会いに行く。




