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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第48話 あなたが好きだったところ



 青凪市立中央図書館の窓際には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。


 向かい合って座った彩花と悠真の間には、それぞれが読み終えた本が一冊ずつ置かれている。館内にはページをめくる音と、少し離れた貸出カウンターから聞こえる控えめな声が流れており、何度も過ごしてきた場所だからこそ、二人とも自然に声を落としていた。


「じゃあ、最初から話すね。私が一番好きだったのは、詩集が三人の人に渡っていくところ」


 彩花は古書店を舞台にした小説の表紙へ指を添えながら、昨夜から話したかったことをゆっくり言葉にしていく。


「一人目の人は手放したことを後悔するでしょ。でも、その人が手放さなかったら二人目の人はあの本を読めなかったし、二人目の人がずっと持っていたら、三人目には渡らなかった。誰かにとって大事だったものが、ずっと同じ人のところにあることだけが正解じゃないんだなって思ったの」


 悠真は途中で口を挟まず、彩花の話を聞いていた。


 以前からそうだった。


 彩花が本の感想を話すとき、悠真はすぐに自分の感想を重ねない。こちらが最後まで話し終えるのを待ち、そのあとで自分の考えを返してくれる。


 だから彩花も、途中で「こんなことまで言わなくていいかな」と引っ込めることが少なくなった。


「それとね、三人目の人が本を手放す理由も好きだった」


「もう必要ないから、ってところ?」


「うん。でも、嫌いになったわけじゃないんだよね。好きだったし、大切だったけど、今の自分にはもうなくても大丈夫だから次の人へ渡すっていうのが……なんて言えばいいんだろう」


 彩花は少し考える。


 適当な言葉で済ませたくなかった。


「大切なものって、ずっと同じ形で持っていなくてもいいのかなって思ったの。変わることと、大切じゃなくなることは別なのかもって」


 そこまで言ってから、彩花は悠真を見る。


「……伝わる?」


「うん。分かる」


 悠真はすぐに頷いた。


「俺も、あの人が本を手放すところ好きだった。ただ、彩花さんとはちょっと違う読み方してたかも」


 自分の名前が会話の中へ自然に入った。


 彩花の胸がわずかに跳ねる。


 けれど、今度はそこで会話を止めなかった。


「どう違ったの?」


「俺は、手放せるくらいちゃんと読んだんだと思った」


「ちゃんと読んだ?」


「うん。必要なところを全部受け取ったから、手元になくても大丈夫になったのかなって。だから次の人に渡せたんじゃないかな」


「ああ……」


 彩花はもう一度、物語の場面を頭の中で思い返す。


「それ、考えなかった」


「俺も彩花さんの考え方はしてなかったよ」


「同じところが好きなのにね」


「だから面白いんだと思う」


 悠真の表情が少し緩む。


「これ、話したかった」


「私も」


 彩花は素直に答えた。


 読んでいる途中から、何度も思っていた。


 ここを悠真はどう読むのだろう。


 この人物を好きになるだろうか。


 この台詞をどう思うだろう。


 一人で読んでいるはずなのに、読み終えた先に話す相手がいるだけで、本の読み方まで少し変わっていた。


「九条君……」


 そこまで言ってから、彩花は一瞬だけ止まる。


 目の前の悠真も気づいたらしく、わずかに目を瞬いた。


 彩花は少しだけ頬を熱くしながら、言い直す。


「……悠真君は、一番好きなの別のところなんだよね?」


 今度はきちんと声にできた。


 悠真は嬉しそうにしたが、昨日のようにそこだけを取り上げることはしなかった。


「うん。俺は古書店の店主が、高校生の女の子に本を勧めないところ」


「勧めないところ?」


「覚えてる? 女の子が『何か面白い本ありませんか』って聞く場面」


「覚えてる。店主さん、逆に『何が嫌い?』って聞くんだよね」


「そこ」


 悠真は本を開き、該当する場面を探した。


 しおりを挟んでいたわけではないのに、何度も読んでいるからか、それほど時間をかけずにページを見つける。


「最初に読んだときは、この店主ちょっと面倒だなって思ったんだよ」


「ふふっ」


「だって普通、おすすめ聞かれたら何冊か出すだろ?」


「本屋さんならそうかも」


「でも読み直したら、勧める前に相手のことを知ろうとしてるんだなって思った。自分が好きな本を渡すんじゃなくて、その子が読みたいものを探そうとしてる」


 悠真はそこでページから顔を上げた。


「最近、そこが一番好きになった」


「最近?」


「うん」


 彩花は何気なく聞き返しただけだった。


 けれど悠真は、少し考えてから続ける。


「前は、いいと思ったものがあったら教えればいいと思ってたんだ。相手の役に立ちそうなら、早く渡した方がいいって」


「うん」


「でも、相手がそれを欲しいかどうかは別なんだよね」


 彩花は黙って聞いていた。


 悠真が以前より待つようになったことを、彩花自身も知っている。


 何かをしてくれるとき、最近の悠真は先に尋ねることが増えた。


 荷物を持つときも、何かを勧めるときも、予定を決めるときも。


 それがどこから始まった変化なのか、彩花には分からない。


「だから今回も、本を選ぶとき結構考えた」


「私が好きそうな本?」


「それも。でも、それだけだと俺が勝手に決めてるだけだから」


 悠真の指が、机の上の本へ触れる。


「彩花さんならどう読むのか知りたい本を選んだ」


 静かな声だった。


 大げさな言い方ではない。


 それでも彩花は、その言葉をすぐに返せなかった。


 以前にも似たことは聞いている。


 この本を選んだ理由も、読み終わったあとに話したいと言ってくれたことも知っていた。


 けれど実際に読み終え、自分の感想を悠真がこんなに真剣に聞いてくれたあとでは、同じ言葉の感じ方が少し違った。


「……選んでくれてよかった」


「本?」


「うん。自分だったら、たぶん最初には選ばなかったと思う。でも好きだった」


 彩花は本の表紙をそっと撫でる。


「悠真君が選んでくれなかったら、読んでなかったかもしれない」


 悠真がわずかに目を細めた。


「それ、かなり嬉しい」


「最近それよく言うね」


「嬉しいことが多いから」


「……そういうの、普通に言うようになったよね」


「駄目?」


「駄目じゃないけど」


 彩花は視線を本へ戻した。


 駄目ではない。


 むしろ、以前より悠真が何を感じているのか分かるようになったことは嬉しかった。


     ◇


「じゃあ、次はこっち」


 しばらくして、今度は悠真が彩花から借りた長編小説を手元へ引き寄せた。


「俺が一番好きだったのは、主人公が最後に住む場所を決めるところじゃなかった」


「やっぱり?」


「分かってた?」


「なんとなく。昨日のメッセージ見て、もしかしたら途中かなって思ってた」


「当たり」


 悠真は少し笑った。


「町を出るか残るか決められなくて、一回どっちもやめるところ」


「あそこなんだ」


「うん。最初に読んだときの彩花さんは、最後の方が好きだったんだよね?」


「中学生の頃はね。主人公が最後に『ここにいる』って決めるところが一番好きだった」


「今は?」


 彩花は少し考える。


「今は……決められなくて、一回止まるところも好き」


「俺と同じだ」


「たぶん。でも、悠真君がそこを好きなのはちょっと意外かも」


「何で?」


「悠真君って、決めるの早そうだから」


「そう見える?」


「見える。学校でも生徒会やってるし、何かあったらすぐ動きそう」


「それは否定できない」


 悠真自身、苦笑する。


「でも最近、すぐ決めない方がいいこともあるって思うようになった」


 彩花は顔を上げた。


「主人公も、あそこで無理に選んでたら、たぶん誰かが望んでる方を選んでたと思うんだ。自分が何をしたいか分からないまま」


「うん」


「だから、一回どっちも選ばなかったのがいいなって」


 悠真はページをゆっくり閉じた。


「決めないことも、自分で決めたことなんだなって思った」


 彩花は何も言わず、悠真を見ていた。


 この本を選んだとき、自分は悠真がどう読むのか知りたいと思った。


 だから持ってきた。


 そして今。


 本当に知りたかったものを少し見せてもらった気がする。


「……私、この本を悠真君に渡してよかった」


「俺も読めてよかった」


「最後のところじゃないんだね」


「最後も好きだよ。でも一番は途中」


「そっか」


 彩花は嬉しくなる。


 同じ感想だったからではない。


 むしろ、少し違うから面白かった。


「私ね、中学生のときは、あの主人公が早く決めればいいのにって思ってた」


「そうなの?」


「うん。読んでてちょっと焦れたくらい。でも今読むと、そんな簡単じゃないよねって思う」


 彩花は自分の手元へ視線を落とした。


「ずっと周りに合わせてた人が、急に『自分はこれが好き』って全部分かるわけじゃないし」


 言いながら、少しだけ昔の自分が重なる。


 姉と比べられることが多かった頃。


 凛花が褒められれば一緒に笑い、自分も嬉しいと言いながら、そのあとで少しだけ寂しくなる。


 けれど、その記憶を今ここですべて話す必要はない。


 悠真も急かさなかった。


「彩花さんは、今の方がこの本好き?」


「うん。たぶん」


「そっか」


「……聞かないの?」


「何を?」


「なんで変わったのか、とか」


 悠真は少しだけ考えた。


「話したかったら聞きたい」


「話したくなかったら?」


「今は聞かない」


 即答ではなかった。


 ちゃんと考えてからの返事だった。


 彩花は、そのことが嬉しかった。


「ありがとう」


「うん」


 それ以上は聞かれなかった。


 だからこそ彩花は、いつか話してもいいかもしれないと思った。


     ◇


 二人が本の感想を話し終える頃には、窓から入る光の角度が少し変わっていた。


 ずっと同じ席にいたため、彩花は軽く肩を回す。


「ちょっと休憩する?」


 悠真が気づいて声をかけた。


「うん。飲み物買いたい」


「じゃあ行こう」


 二人は本を丁寧に鞄へしまい、休憩スペースへ向かった。


 休日の午後ということもあり、自動販売機の前には数人の利用者がいる。小さな子どもを連れた父親や、参考書を抱えた高校生らしい男子もいた。


 彩花はいつもの温かいミルクティーを選ぶ。


 悠真はその隣で迷わずコーヒーのボタンを押した。


「今日もそれなんだ」


「彩花さんも同じじゃない?」


「私は好きだから」


「俺も好きだから」


 缶を受け取ってから、二人で空いているテーブルへ移動する。


 彩花は椅子へ座り、温かい缶を両手で包んだ。


「そういえば、桜華の文化祭、準備進んでる?」


「かなり。教室も廊下も普段より物が多い」


「お姉ちゃんも同じこと言ってた」


「水瀬先輩も忙しそうだよ。昨日も剣道部の方に行ってたし」


「朝から言ってた」


 家と学校でつながっている姉の姿を想像し、彩花は少し笑った。


「悠真君も忙しいでしょ?」


「まあ、それなりに。でも当日はちゃんと時間取れそう」


「無理してない?」


「してないよ」


 悠真はそこだけははっきり答えた。


「俺の担当時間を確認したら、昼前後に一時間半くらい空けられる。仕事を他の人に押しつけたわけじゃないし、もともと交代で休憩取るから」


「ならいいけど」


「心配した?」


「するよ。私の案内のために仕事増えたら嫌だし」


「大丈夫」


 悠真は缶コーヒーをテーブルへ置いた。


「むしろ、その時間は空けたかったから」


「……私が来るから?」


「うん」


 迷わない。


 彩花はミルクティーへ口をつける。


 温かい。


 それなのに頬の方が熱い気がする。


「図書室も一般公開中は普通の書架に入れるって確認した。貴重書の展示区画だけ制限あるけど、そこ以外は大丈夫」


「そこまで調べたの?」


「見たいって言ってたから」


「私が?」


「うん」


「……図書室を?」


「図書室も、教室も、生徒会室のあたりも」


 全部覚えている。


 彩花が以前、見たいと言った場所を。


 しかも、ただ覚えているだけではなく、実際に確認までしてくれている。


「悠真君」


「うん?」


「私、そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ」


 拒絶したいわけではない。


 ただ、少し申し訳なくなった。


 けれど悠真は困ったような顔をしなかった。


「俺がしたいんだよ」


 静かに答える。


「せっかく彩花さんが桜華に来るんだから、見たいところ見てほしい」


「でも、他にも友達来るんでしょ?」


「来ると思う」


「その人たちにも案内するの?」


 聞いてから、彩花は少しだけ気になった。


 変な意味ではない。


 たぶん。


 悠真は質問の意図を深読みする様子もなく答えた。


「頼まれたら場所くらいは教えるけど、一時間半空けて一緒に回る予定はないよ」


「……そっか」


「彩花さんには俺が案内したいから」


 あまりにも自然に言うので、彩花は一瞬返事を忘れた。


 悠真は特別なことを言った顔をしていない。


 それが余計に困る。


(そういうの、普通に言うようになったんだよね)


 自分だけ。


 その事実を意識すると、胸の奥が落ち着かない。


 けれど嫌ではなかった。


「じゃあ、お願いします」


「うん。任せて」


「でも、生徒会の仕事が入ったらそっち優先してね」


「それはもちろん」


「あと、私のせいで走り回るの禁止」


「走り回る予定はないけど」


「九条君、やりそうだから」


 言ってから、彩花は「あ」と小さく声を漏らした。


 悠真も気づく。


「今、九条君だった」


「……戻った」


「別に戻ってもいいよ」


「いいの?」


「うん。どっちも彩花さんが呼んでくれるなら嬉しいから」


 悠真は本当に気にしていないようだった。


 彩花は少し安心する。


 今日から絶対に「悠真君」にしなければならないわけではない。


 長く使ってきた「九条君」が自然に出ることもある。


 それでいい。


「じゃあ、しばらく混ざるかも」


「俺もたぶん混ざると思う」


「さっきからずっと彩花さんだけど」


「……そうだね」


 悠真自身、言われて初めて気づいたように少し驚いた。


「もう慣れた?」


「慣れたっていうより、呼びたい方が先に出てる」


「それ、もっと困るんだけど」


「何で?」


「聞かないで」


 彩花はミルクティーを飲んで誤魔化した。


 向かい側で悠真が小さく笑っている。


     ◇


 休憩を終えて閲覧席へ戻る途中、彩花は新刊展示の前で足を止めた。


「これ、もう入ったんだ」


「知ってる本?」


「この前、駅の本屋さんで見た新刊。買ったやつとは別だけど、同じ作家さん」


「好きなの?」


「何冊か読んでるよ」


 彩花が一冊を手に取る。


 悠真も隣から表紙を見る。


「どんな話?」


「これはまだ読んでないから分からない。でもこの作家さん、家族の話を書くことが多いかな。大事件より、普通の生活の中でちょっとずつ関係が変わっていく感じ」


「彩花さん、そういうの好きだよね」


「うん」


 即答してから、彩花は少し笑う。


「前だったら、『たぶん』って言ってたかも」


「今は言わないね」


「好きだから」


「うん」


 悠真はそれ以上何も足さなかった。


 好きなものを好きと言える。


 それを褒めたり、大げさに成長だと言ったりせず、ただ受け取ってくれる。


 彩花にはそれが心地よかった。


「借りる?」


「今日はやめとく。まだ悠真君から借りてる一冊目も途中だから」


「冒険小説の方?」


「うん。あれ、思ってたより長い」


「小学生の俺は三日くらいで読んだらしい」


「三日?」


「祖父から聞いた。夜遅くまで読んで怒られた」


「前にも言ってたね。本当に好きだったんだ」


「今も好きだよ」


 悠真はそう言いながら、少しだけ嬉しそうに笑った。


「彩花さんが今読んでるって考えると、なんか変な感じするけど」


「嫌?」


「逆。嬉しい」


「また嬉しい」


「本当に多いんだよ、最近」


「何が?」


「彩花さん関係で嬉しいこと」


 さらりと言われた。


 彩花の手が、棚へ本を戻す途中で止まりかける。


 悠真は言ってから自分でも少しだけ照れたらしく、視線を本棚へ向けた。


 けれど、取り消さない。


 彩花も何かで否定しようとは思わなかった。


「……私も」


 小さく返す。


「え?」


「私も、悠真君関係で嬉しいこと、最近多いよ」


 今度は悠真が止まった。


 彩花は言ってしまってから恥ずかしくなったが、逃げるように歩き出すことはしなかった。


 少しの沈黙のあと、悠真の口元がゆっくり緩む。


「それ、今日一番嬉しいかもしれない」


「昨日も今日一番って言ってた」


「日は変わってるから大丈夫」


「そういう問題?」


「たぶん」


 彩花は堪えきれずに笑った。


 悠真も笑う。


 近くの棚で本を探していた年配の女性が、楽しそうな二人へ一瞬だけ視線を向け、それから静かに自分の本探しへ戻った。


 図書館なのだから、二人とも声は小さい。


 それでも、その間に流れている空気までは隠せていなかった。


     ◇


 同じ日の夕方。


 九条家のリビングでは、琴葉がソファで本を読んでいた。


 玄関の方から物音がして、しばらくすると悠真が入ってくる。


「ただいま」


「お帰りなさいませ、兄様」


「母さんたちは?」


「お母様は外出中です。お父様は書斎にいらっしゃいます」


「そっか」


 悠真はそのまま二階へ行こうとしたが、琴葉が本から顔を上げた。


「兄様」


「何?」


「随分とご機嫌ですね」


「そう?」


「はい」


 悠真は少し考えた。


 隠す理由はない。


「今日、彩花さんと図書館行ってたから」


 琴葉は静かに兄を見る。


「そうでしたか」


「うん。借りた本の感想も話せた」


「それは何よりです」


 悠真は満足そうに頷き、今度こそ階段へ向かう。


 琴葉はその背中を見送った。


 兄は変わった。


 以前なら、彩花と会ったことを尋ねられれば答えたが、自分から「会っていたから機嫌がいい」と認めるような言い方はしなかった。


 それ以上に。


(もう完全に彩花さんなのですね)


 朝だけの試しではなかったらしい。


 兄の口から出る「彩花さん」は、すでにかなり自然になっている。


 琴葉は本へ視線を戻したが、数行読んだところで小さく笑った。


「……兄様、分かりやすすぎます」


 誰も聞いていないので、その呟きは静かなリビングへ溶けていった。


     ◇


 一方、水瀬家では夕食後、彩花が借りた二冊の本を自室の机へ並べていた。


 古書店の小説は読み終えた。


 冒険小説はまだ途中。


 次に悠真へ会うとき、読み終えた方は返すことになるだろう。


 少し寂しい。


 借り物なのだから返すのは当然なのに、数日間自分の部屋にあった本がなくなると思うと、妙な感じがした。


 彩花は古書店の小説を持ち上げる。


 表紙を眺めてから、悠真と話したことを思い返した。


 同じ場面が好きでも、理由は少し違った。


 それが楽しかった。


 正解を合わせるための感想ではない。


 違うものを持ち寄って、相手の考えを知るための会話だった。


(また、こういうのしたいな)


 今度は別の本でもいい。


 映画でも。


 学校で起きたことでも。


 何かを見て、自分はこう思ったと話して、悠真がどう思ったのか聞いてみたい。


 そのとき。


 スマートフォンが震えた。


『今日はありがとう。』


 悠真からだった。


『こっちこそ。本の話楽しかった。』


『俺も。』


 少しして、もう一通届く。


『桜華の文化祭、図書室以外も見たいところあったら考えといて。』


 彩花は画面を見ながら考える。


 教室。


 生徒会室の近く。


 図書室。


 普通の廊下。


 すでにかなり言っている。


『もう結構言ってる気がする。』


『まだ増えても大丈夫。』


『一時間半で回れる?』


『頑張る。』


『走り回るの禁止って言った。』


『じゃあ頑張らないで回る。』


 彩花は笑った。


 そのあと、少しだけ迷ってから入力する。


『悠真君が好きな場所も見たい。』


 送る。


 今度は「悠真君」と打つことに、それほど時間はかからなかった。


 返事はすぐには来なかった。


 一分ほどして、ようやく届く。


『俺が?』


『うん。』


『彩花さんが見たいところだけじゃなくて?』


『それも見たいけど。』


 彩花は指を止める。


 今日、本について話したときと同じだった。


 悠真が自分のために選んでくれた本を読んだ。


 そこから、悠真が好きなところを知った。


 だったら学校でも同じかもしれない。


『悠真君が普段見てるところとか、好きな場所も知りたい。』


 送信した。


 画面の向こうで、悠真がどんな顔をしているのかは分からない。


 けれど。


 返事が来るまで少し時間がかかった理由を、彩花はまだ知らなかった。


     ◇


 九条家の自室で。


 悠真はスマートフォンを持ったまま、彩花から届いた文章を何度も読んでいた。


『悠真君が普段見てるところとか、好きな場所も知りたい。』


 文化祭へ来てくれるだけでも嬉しかった。


 図書室を見たいと言われたときも、教室や生徒会室のあたりを見たいと言われたときも嬉しかった。


 けれど、これは少し違う。


 桜華という学校を見たいのではなく。


 悠真が好きな場所を見たいと言っている。


(……どこ見せよう)


 すぐに候補がいくつも浮かんだ。


 図書室の窓際。


 校舎と体育館の間にある中庭。


 生徒会室へ向かう途中、二階の渡り廊下から見える並木。


 食堂の奥にある席。


 昔から何度も通っている階段。


 彩花が喜びそうな場所ではなく、自分が本当に好きな場所。


 その違いを考える。


 悠真はしばらく迷ってから返信した。


『ある。』


 少し考え、続ける。


『一か所、絶対見せたい。』


 送信。


 すぐに彩花から返事が来た。


『どこ?』


 悠真は笑った。


『当日まで内緒。』


『ずるい。』


『今日二回目に言われた。』


『悠真君がずるいことするから。』


 また名前で呼ばれる。


 もう驚きはしなかった。


 けれど嬉しさは、まだまったく薄くならない。


『楽しみにしてて。』


『うん。楽しみにしてる。』


 その言葉を見て、悠真は桜華学園の一角を思い浮かべた。


 文化祭当日。


 自分の学校へ彩花が来る。


 自分が毎日歩いている場所を、隣で一緒に歩く。


 そして、自分が好きな景色を見せる。


 彩花が何を思うのか知りたい。


 そのとき、どんな顔をするのか見たい。


 文化祭そのものを楽しみにしていないわけではない。


 けれど今の悠真にとって、文化祭で一番楽しみなことは、もうはっきりしていた。


 桜華へ来る彩花に、自分が見ている景色を見せることだった。

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