第47話 今度は、私から
翌朝、彩花は目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日はまだ淡く、部屋の中には夜の涼しさがわずかに残っている。枕元のスマートフォンへ手を伸ばして時刻を確認すると、起きる予定より七分早かった。
もう一度眠るには短いが、だからといってすぐに起き上がる気にもならない。彩花は仰向けのまま天井を眺めていたが、ぼんやりしていた頭の中へ、昨日の夕方に聞いた声があまりにも自然に蘇ってきた。
『……彩花さん』
駅の改札前で、悠真が初めて自分の意思で呼んだ名前だった。
「……朝から思い出すことじゃないでしょ」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、彩花は布団を鼻のあたりまで引き上げた。思い出さないようにしようとすると、かえって昨日の光景が鮮明になり、自転車を避けたときに咄嗟に呼ばれた一度目の「彩花さん」まで続けて浮かんでくる。
一度目は、考えるより先に悠真の口から出た名前だった。
二度目は違う。駅の改札へ向かう直前、悠真自身が少し迷ってから、それでも自分で選んではっきりと「彩花さん」と呼んだ。
そして彩花も、その声にきちんと返事をした。
(名前を呼ばれて返事しただけなんだけどな)
家では毎日のように呼ばれている。学校でも親しい女子から名前で呼ばれることはあるし、玲奈からは「彩花ちゃん」と呼ばれている。
同じ自分の名前なのに、悠真から呼ばれたときだけ妙に耳へ残っていた。
(九条君だと、やっぱり違うんだよね)
どうして違うのかまで考えかけて、彩花はそこでやめた。
最近は、分からない感情を無理に答えへ変えなくてもいいと思えるようになっている。分からなくても、嬉しかったことまで否定する必要はない。
昨日、悠真に名前を呼ばれた。
驚いたけれど、嬉しかった。
今はそれだけ分かっていれば十分だった。
彩花はようやく布団から抜け出し、床へ足を下ろした。立ち上がりながら、今日は悠真と会う予定などないことを思い出す。
学校も違えば、普段使う通学路も違う。昨日会えたのは、悠真が青凪駅まで足を延ばし、彩花の学校が終わる時間をわざわざ尋ねてきたからだ。
(……会えたらいいなって、来てくれたんだよね)
思い出した途端、今度は別の意味で頬が熱くなる。
結局、部屋を出て階段を下りるまでの間に、彩花は昨日のことを何度も思い返していた。
◇
「彩花、今日ちょっと早いね」
朝食の席へ着くと、紗月が味噌汁を置きながら不思議そうに言った。
「目が覚めたの。たまにはそういう日もあるよ」
「珍しいから、何か予定でもあるのかと思った」
「普通に学校だよ」
彩花はそう答えて箸を取った。
向かいでは耕助がスマートフォンで朝のニュースを確認しており、その隣では凛花が静かに朝食を食べている。いつもの水瀬家の朝だったが、しばらくして凛花がふと箸を止めた。
「彩花、今日なんか機嫌いい?」
「え?」
思いがけないところから飛んできた言葉に、彩花の手が止まった。
紗月までこちらを見る。
「そうなの?」
「普通だよ。お姉ちゃん、急に何?」
「別に。ただ、なんとなく」
「なんとなくで聞かないでよ」
彩花は味噌汁へ視線を落としたが、凛花はそれ以上追及しなかった。ほんの少しだけ口元を緩めると、何事もなかったように朝食へ戻る。
姉妹だからこそ分かることがある。
彩花は何か嬉しいことがあったとき、本人が思っているより少しだけ表情へ出る。以前は嬉しいことがあっても、自分から「大したことじゃない」と小さくしてしまうことが多かったが、最近はそういう癖も減っていた。
凛花から見れば、今の彩花は何かを隠しているというより、まだ自分の中で大切に眺めているように見えた。
(だったら、今は聞かなくていいか)
話したくなれば、彩花の方から話してくれる。以前よりも、そういうことが増えている。
「お姉ちゃん」
今度は彩花から声をかけた。
「文化祭の準備、今日もある?」
「あるよ。放課後はクラスの方を少しやって、そのあと剣道部もあるから、帰りは遅くなると思う」
「大変だね」
「この時期は仕方ないかな。彩花が来る日までには、見せられる程度には片づいてると思うけど」
「今そんなに散らかってるの?」
「学校全体がいつもより騒がしいだけ。廊下の端に段ボールがあったり、教室で装飾を作ってたりするし」
凛花が説明すると、彩花は少し考えてから笑った。
「それ、完成前もちょっと見てみたいかも」
「準備中を?」
「うん。青葉のときもそうだったけど、準備してるときって本番とは全然違うでしょ。学校によっても違いそうだし」
「なるほどね」
凛花は納得して頷いたあと、妹の顔を見た。
「本当に楽しみにしてるんだ」
「うん。楽しみ」
今度は迷わず答えられた。
桜華学園を見ることも、琴葉や玲奈に会うことも、姉が普段どんな場所で過ごしているのか知ることも楽しみだった。
そして、その中に悠真がいる。
悠真の教室を見て、生徒会室の前へ行き、いつも過ごしている図書室も見たい。
どれか一つだけではない。
全部ひっくるめて、今は桜華の文化祭が楽しみだった。
◇
同じ頃、桜華学園では朝のホームルームが始まる前から、文化祭準備についての相談があちこちで飛び交っていた。
「九条、このパネルって生徒会に確認必要?」
教室へ入ったばかりの悠真へ、クラスメイトが装飾用の板を指しながら尋ねる。
「避難経路にかからないならクラス判断で大丈夫だと思う。ただ、廊下側へ出すなら通路の幅だけ確認した方がいいよ」
「じゃあ放課後に測っとく。九条も残るんだろ?」
「うん。クラスの方をやってから生徒会へ行く予定」
「相変わらず忙しいな」
「そっちも文化祭前は同じだろ」
軽く笑って会話を終え、悠真は自分の机へ鞄を置いた。
鞄の中には、彩花から借りた二冊目の小説が入っている。
昨夜もかなり読み進めた。
周囲に合わせることが上手な少女が、自分自身の好きなものや居場所を見失い、何度も迷いながら自分で選べる場所を探していく物語。
最初に彩花から説明を聞いたときより、実際に読んでみると主人公はずっと迷っていた。
家族が望むものも、友人たちが良いと言うものも、完全に嫌いなわけではない。だからこそ簡単に捨てられず、自分の気持ちだけを取り出すことも難しい。
(決められないんじゃなくて、ちゃんと自分で選びたいんだろうな)
そんなふうに読めるようになっている自分へ、悠真は少しだけ驚いていた。
以前なら、最後に何を選んだかという結果の方へ目が向いていたかもしれない。けれど今は、その途中で何度も立ち止まり、自分自身へ問い直している時間の方が気になる。
彩花が「今は途中の方も好き」と話していたからなのかもしれない。
それだけではない気もした。
悠真自身が、以前より「すぐ答えを決めなくてもいい」と思えるようになっている。
「兄様」
教室の入口から聞き慣れた声がして、悠真は顔を上げた。
琴葉が薄い冊子を持って立っている。
「どうした?」
「生徒会室へ行く前に、こちらをお渡ししておこうと思いまして」
琴葉が差し出したのは、文化祭当日に使用する生徒向け案内冊子の確認版だった。まだ正式印刷前らしく、表紙の隅には小さく校正用の印が入っている。
「完成版?」
「最終確認版です。兄様のクラス周辺の案内も掲載されていますので、誤りがないか確認していただけますか?」
「分かった。昼までには見るよ」
「お願いいたします」
冊子を渡した琴葉はすぐに戻ろうとはせず、兄の顔を少し眺めた。
「何?」
「兄様、昨日は青凪駅へ寄られたのでしたね」
「うん」
「彩花さんにはお会いできました?」
「会えたよ。学校が終わる時間を聞いたら、ちょうど駅を通るって言ってたから」
「それはよかったです」
「うん。よかった」
迷いのない返事だった。
琴葉はそれを聞いて、わずかに目を細める。
以前の兄なら、ここで「たまたま時間が合っただけ」とでも付け加えていたかもしれない。別に嘘をつくわけではないが、自分が彩花に会いたかったという部分を必要以上に分析して、結果として説明を増やしていた。
今は違う。
会えて嬉しかったのなら、嬉しかったと認めている。
その変化を琴葉は好ましく思っていた。
「それでは、私は戻ります」
「琴葉、ちょっと待って」
「はい?」
「文化祭の日、彩花さんが図書室を見たいって言ってたんだけど、今年の展示って何をやるか知ってる?」
琴葉の目がわずかに大きくなる。
兄が自然に使った呼び方に気づいたからだ。
けれど、あえてそこへ触れずに答える。
「図書委員会でしたら、テーマ別のおすすめ本展示と、在校生が選んだ一冊の紹介を予定していたと思います。通常の書架も公開時間中は利用できるはずです」
「詳しい?」
「兄様よりは存じているかと」
「じゃあ、あとで詳しく教えてくれる?」
「もちろん構いませんが、彩花さんのためですか?」
「そうだよ。せっかく来るなら、見たいって言ってたところはちゃんと見せたいから」
これも即答だった。
琴葉は一瞬だけ兄を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「承知しました。昼休みに分かる範囲でお伝えします」
「ありがとう」
「それでは、今度こそ失礼いたします」
教室を出て廊下を歩きながら、琴葉は先ほどの会話を思い返していた。
(兄様、もう本当に自然におっしゃるのですね)
彩花さんのため。
彩花さんに見せたい。
会えて嬉しかった。
そこへいちいち理由を付けることも、自分の気持ちを否定することもなくなっている。
兄本人がそれを何という感情だと考えているのか、琴葉は聞こうとは思わなかった。
少なくとも今は、それでいい。
水瀬彩花という少女が兄にとって他の誰とも違うことは、もう説明してもらわなくても十分に分かるのだから。
◇
昼休みの青葉高校では、開けた窓から入る風がカーテンをゆっくり膨らませていた。
昼食を食べ終えた彩花は、机の上へ悠真から借りた小説を広げていた。古書店を舞台にした物語は半分を越え、最初は別々に見えた登場人物たちが少しずつ本を通してつながり始めている。
「水瀬、それ何読んでんの?」
前の席から大地が振り返り、表紙へ目を向けた。
「借りてる本。前に話した二冊目の方だよ」
「まだ交換続いてんだな。面白い?」
「面白いよ。派手な事件が起こる話じゃないけど、本を売った人とか買った人とか、それぞれに小さい話があるの」
「俺、派手じゃないと途中で寝そう」
「田辺君はそうかも」
「そこは否定してくれよ」
大地が笑うので、彩花も小さく笑った。
「でも、ちょっとした謎みたいなのはあるよ。この本を前に持ってた人は誰なのかとか、どうして手放したのかとか」
「それなら少し面白そうだな」
大地が表紙をもう少し見ようと身を乗り出したので、彩花は本を傷めないように両手で持ち上げた。
「読むなら、私が返してから自分で借りてね。これは九条君から借りてる本だから」
「分かってるって。取らないよ」
「ならいいけど」
彩花は本を机へ戻す。
大地はその様子を見ていたが、ふと別のところが気になったようだった。
「水瀬、前より普通に九条の名前出すようになったよな」
「そう?」
「うん。前は俺が聞いたあとに話してた気がするけど、最近は普通に『九条君が』って言うじゃん」
言われてみれば、そうかもしれない。
以前は悠真の話をするだけで、周囲から何か特別な意味を持たれるような気がして、少し慎重になっていた。
今はもう、そこまで構えない。
悠真と友達であることも、仲がいいことも、隠すようなことではない。
「仲いいもんな」
大地が何でもないことのように言う。
彩花も、今度は迷わなかった。
「うん。仲いいと思う」
その返事を聞いた大地が、少しだけ目を丸くした。
「やっぱ水瀬、変わったな」
「またそれ言うの?」
「いい意味だって。前なら『そうかな』って一回逃げてた」
「……そんなに?」
「そんなに」
大地は笑いながら立ち上がった。
「俺、購買行ってくるけど何かいる?」
「大丈夫」
「了解。じゃ、行ってくる」
友人たちのところへ向かう大地を見送り、彩花はもう一度本を開いた。
けれど、すぐには文字が頭へ入ってこなかった。
(仲いいと思う、か)
自分で口にしても、もう恥ずかしくない。
それどころか、そう言えることが少し嬉しかった。
彩花はページの上へ視線を戻し、しおりを置いていたところから続きを読み始めた。
◇
放課後の文芸部では、佐々木先輩がホワイトボードへ今後の活動予定を書いていた。
文化祭が終わったばかりなので、すぐに次の締切を設定するつもりはないらしい。窓の外では運動部の掛け声が聞こえ、傾き始めた日差しが部室の床へ長い四角形を作っている。
「冬までに何かできたらいいかな、くらいで考えてるから、文化祭で燃え尽きた人はしばらく休んでもいいよ」
「先輩は休むんですか?」
彩花が尋ねると、佐々木先輩はホワイトボード用のペンを持ったまま笑った。
「私は書くよ。今、書きたいものあるし」
「即答ですね」
「水瀬さんは?」
「私も書きたいです。ただ、まだ話としては何も決まってなくて」
「それでも十分じゃない? 最初から全部決まってる方が珍しいし」
彩花は頷き、自分のノートを開いた。
そこには、少しずつ増えた文章がある。
『同じ呼び方でも、相手によって意味は違う。』
『呼ばれ方が変わったから近くなるのか、近くなったから呼び方が変わるのか。』
『名前を呼ぶだけなのに、今までと同じ声では言えない。』
彩花は昨日のことを思い出し、その下へ新しい一文を書き足した。
『呼ばれた名前は、同じ自分の名前なのに少し違って聞こえた。』
ペン先を止めて読み返す。
昨日の自分が感じたことを、そのまま書いたような文章だった。
(これが小説になるかは、まだ分からないけど)
それでも消す気にはならなかった。
文化祭で『また、話したいから』を書いてから、日常の中で以前より細かなものを拾うようになった気がする。
人が話す声や、言葉を選ぶまでの間。
同じ言葉でも、誰が言うかで変わる意味。
そんなものが、少しずつ気になるようになった。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
部活動中なので取り出さなかったが、彩花の頭には自然と一人の顔が浮かぶ。
(九条君かな)
家族からの連絡かもしれないし、学校関係の通知かもしれない。
それでも、最初に悠真だと思った。
部活動が終わって昇降口まで来たところで確認すると、予想は当たっていた。
『昨日借りた本、読み終わった。』
彩花は靴を履き替えながら返事を打つ。
『早い。』
『続きが気になって読んだ。』
『どこが好きだった?』
送信してから校舎を出る。
すぐに返事が来るかと思ったが、悠真は少し考えたらしく、校門へ着く頃にスマートフォンが震えた。
『言いたいけど、メッセージで全部言うのはもったいない。』
彩花は画面を見て、思わず笑った。
自分も同じだった。
面白かったところをすぐ送りたい気持ちはあるのに、それ以上に、悠真の顔を見ながら話したい。
『じゃあ、今度会ったとき。』
『うん。彩花さんも読み終わったら教えて。』
その一文を読んだところで、彩花の足がゆっくり止まった。
昨日までは、メッセージの中ではずっと「水瀬さん」だった。
声で呼ばれるのとは、また少し違う。
文字として並んだ「彩花さん」は、悠真が意識して入力しなければ出てこない呼び方だった。
(……使ったんだ)
昨日一度呼んだからといって、今日から全部を変える必要はない。
悠真自身も、急に全部を変えようとは思っていないと言っていた。
だからこそ、こうして自分で選んで書いてくれたことが嬉しかった。
『うん。もう少しかかると思うけど、読み終わったら言うね。』
彩花は名前のことには触れず、そのまま返事を送った。
けれど、歩き出したあとも、画面で見た「彩花さん」という四文字がしばらく胸の中に残っていた。
◇
その頃、桜華学園の生徒会室では、文化祭当日に向けた最終確認が続いていた。
「九条君、一般公開用の案内は確認終わった?」
「はい。うちのクラス周辺は問題ありませんでした。廊下の展示位置だけ、明日もう一度幅を測るそうです」
「ありがとう。図書室のところも見た?」
「そこも確認しました」
「早いね。九条君、図書委員だったっけ?」
「違います。友達が図書室を見たいって言ってたので、先に確認しておきたかったんです」
「なるほど。じゃあ案内役も大変だね」
「いえ。俺も見せたいので」
先輩はそれ以上深く聞かず、悠真から資料を受け取った。
悠真もすぐ次の作業へ戻ったが、頭の片隅では文化祭当日のことを考えている。
桜華の図書室は広く、蔵書も多い。
文化祭当日は図書委員会の展示があるものの、通常の書架にも入れると琴葉から聞いた。彩花なら展示だけでなく、普段の棚も見たがる気がする。
(最初に図書室へ行く方がいいかな。でも教室の近くを通るなら、先にそっちでもいいし)
校内を案内するだけなのに、頭の中ではもう彩花が隣を歩いていた。
正門から受付を通り、教室を見て、図書室へ行く。
生徒会室の前も見たいと言っていた。
中庭や食堂にも興味を持つかもしれない。
自分が見せたい場所を並べるより先に、彩花が何を見たら喜ぶのかを考えていることに、悠真自身は特に違和感を覚えなかった。
「九条君、このあとステージ側の確認へ行ける?」
「はい。今の作業が終わったら行きます」
「お願い」
「分かりました」
資料をまとめて立ち上がり、生徒会室を出る。
廊下の向こうから琴葉が歩いてきた。
「兄様」
「琴葉。図書室の件、ありがとう」
「いえ。ちょうど追加で確認できたことがございます。当日は一般公開時間中も通常の書架へ入れるそうです。ただし、一部の貴重書展示区画は立入制限があるとのことでした」
「それなら十分かな。水瀬さん……」
そこまで言ったところで、悠真はほんの一瞬だけ止まった。
昨日の声を思い出したからではない。
さっき自分で送ったメッセージを思い出した。
「彩花さん、普通の書架も見たいと思う」
自分で選んで言い直す。
琴葉はその変化に気づいたが、驚きを大きく表には出さなかった。
「ええ。彩花さんでしたら、展示だけでなく普段の図書室そのものも楽しまれると思います」
「だよね。ありがとう」
「兄様」
「何?」
「その呼び方、よくお似合いだと思います」
予想していなかった言葉に、悠真は目を瞬いた。
「……そういうの言う?」
「これくらいでしたら」
「急に恥ずかしくなったんだけど」
「でしたら、これ以上は申し上げません」
琴葉は上品に微笑むと、そのまま教室の方へ歩いていった。
悠真は廊下に残され、少しだけ困った顔で妹の背中を見送る。
それから、今しがた自分が口にした名前を頭の中でもう一度確かめた。
(彩花さん)
昨日ほど緊張しない。
けれど、何も感じなくなったわけではなかった。
呼べることが嬉しい。
その感覚は、むしろ少しずつはっきりしていた。
◇
木曜日の夜、彩花は悠真から借りた古書店の小説を読み終えた。
夕食も入浴も済ませたあとの自室で、最後のページを閉じてからもしばらく表紙へ手を置いていた。
静かな物語だった。
大きな事件が起こるわけではないのに、読み終える頃には古書店のある町そのものを知っているような気持ちになる。
彩花が特に好きだったのは、一冊の古い詩集が三人の持ち主を渡っていく話だった。
一人目は手放したあとで後悔し、二人目は偶然手に入れたその本に救われ、三人目は自分にはもう必要なくなったからと、次に必要とする誰かへ渡していく。
同じ本でも、持つ人によって意味が変わる。
その変化が好きだった。
(九条君は、どこが一番好きだったんだろう)
すぐに聞きたくなる。
メッセージで話すこともできるが、悠真も直接話したいと言っていた。
彩花はスマートフォンを手に取った。
『読み終わったよ。』
少しすると既読がつき、悠真から返事が届く。
『どうだった?』
『面白かった。好きなところもあったよ。』
『聞きたい。』
『今度ね。』
『うん。俺も話したい。』
そこで会話が一度途切れた。
彩花は画面を見つめる。
昨日から、ずっと気になっていることがあった。
悠真はメッセージでも「彩花さん」と書いた。
直接呼ばれたときも嬉しかった。
文字で見たときも嬉しかった。
それなら、自分はどうなのだろう。
まだ直接は一度も呼べていないが、頭の中ではもう何度も呼んでいる。
(悠真君)
心の中なら、以前よりずっと自然に言える。
声にするのは難しくても、文字ならできるだろうか。
彩花は入力欄へ指を置いた。
『悠真君は、どこが一番好きだった?』
最後まで打つ。
画面の中に「悠真君」と並んでいる。
それを見た途端、急に恥ずかしくなった。
(これ、送るの? 本当に?)
一度消そうとして、指が止まる。
嫌だから消したいわけではない。
ただ恥ずかしい。
昨日、悠真に名前を呼ばれたときも同じだった。
そして悠真は、自分が返事をしたことを本当に嬉しそうにしていた。
(私も呼ばれて嬉しかったんだから、九条君だって……)
そこまで考えて、彩花は少しだけ息を吸った。
「……えい」
送信する。
直後、自分が口にした掛け声に気づいて、机へ軽く額をつけた。
「えいって何……」
送信取消を押したくなるが、それでは余計に意識していることが伝わりそうだった。
そもそも、送りたくなかったわけではない。
しばらくしてスマートフォンが震える。
恐る恐る画面を見ると、悠真からの返事が届いていた。
『今、名前で呼んだ?』
「……やっぱりそこに気づくよね」
彩花は片手で頬を押さえながら返信する。
『文字だけど。』
『うん。でも嬉しい。』
少し間を置いて、さらに一通届いた。
『たぶん今日一番嬉しい。』
彩花は画面を見つめたまま、頬が熱くなるのを感じた。
大げさだと思う。
けれど、昨日の自分も悠真から「彩花さん」と呼ばれたことを朝から思い出していた。
そう考えると、強く否定することもできない。
『大げさ。』
『大げさじゃないよ。』
『じゃあ質問にも答えて。』
今度は返事が少し遅れた。
『ごめん。名前の方が嬉しくて質問飛んだ。』
彩花は思わず吹き出した。
普段の落ち着いた悠真からすると少し珍しい返事だが、最近はこういうところも見せるようになっている。
『私は詩集が三人に渡るところが好きだった。』
『俺もそこ好き。』
『本当?』
『うん。でも一番好きなのは別のところ。』
『どこ?』
『直接話したい。』
彩花は小さく笑った。
『ずるい。』
『彩花さんも今度って言った。』
また名前で呼ばれた。
けれど今度は、最初ほど驚かなかった。
胸の奥が少しだけくすぐったくなり、それからゆっくり嬉しさが広がっていく。
『じゃあ今度。』
そこまで送ってから、彩花は少し考えた。
もう一度、入力欄へ指を置く。
一度送れたのだから、もう一度くらい。
『おやすみ、悠真君。』
今度は先ほどより短い迷いで送信できた。
◇
九条家の自室で、悠真は届いたメッセージを見たまましばらく動けなかった。
『おやすみ、悠真君。』
短い一文だった。
まだ声で呼ばれたわけではない。
それでも、彩花が自分で文字を打ち、送ってくれたことが嬉しかった。
「……嬉しいな」
誰もいない部屋で、自然と声に出る。
悠真は自分の頬が緩んでいることに気づいていたが、直そうとは思わなかった。
机の上には彩花から借りた本が置いてある。
もう読み終えているが、返すときに話したいことはたくさんあった。
桜華の文化祭も近づいている。
彩花が自分の学校へ来て、自分が普段使っている教室や図書室、生徒会室の近くを歩く。
それを想像するだけで楽しみだった。
(文化祭で彩花さんを見つけたら、たぶんもう水瀬さんじゃなくて、最初から彩花さんって呼ぶんだろうな)
無理にそう決めるつもりはない。
約束にする必要もない。
ただ、昨日より今日の方が、その呼び方はずっと自然になっていた。
悠真は返信欄を開く。
『おやすみ、彩花さん。』
それだけ送ってスマートフォンを机へ置いた。
もう一度画面を開いて読み返したりはしなかった。
それでも眠る準備を始める間ずっと、彩花から届いた「悠真君」という三文字が、胸の奥に温かく残っていた。
◇
金曜日の放課後、彩花は青葉高校の校門を出て、青凪駅へ向かう道を歩いていた。
今日は文芸部の活動がない。
西へ傾いた日差しが建物の影を長く伸ばし、歩道には同じように帰宅する生徒たちが続いている。昼間は暖かかったが、夕方になると風には少し秋らしい冷たさが混じっていた。
歩いている途中、スマートフォンが震える。
『明日、図書館行く?』
悠真からだった。
借りた本は読み終わった。
感想も直接話したい。
彩花は迷わず返事を打った。
『行くよ。』
『俺も行く。いつものくらい?』
『うん。』
短いやり取りを終え、彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。
いつもの図書館。
何度も会っている場所。
いつもの時間。
けれど明日は、少しだけ違う気がする。
悠真はもう自分を「彩花さん」と呼んだ。
自分も文字の中では「悠真君」と呼べた。
昨日送った『おやすみ、悠真君』を思い出すだけで、まだ少し恥ずかしい。
あれを声にするとなれば、もっと緊張するだろう。
(明日、言えるかな)
言わなくてもいい。
悠真も急かしてはいない。
だからこそ彩花は、誰かに求められたからではなく、自分から呼んでみたいと思っていた。
名字だと困るからでも、関係を変えなければならないからでもない。
ただ、「悠真君」と呼んでみたい。
その気持ちが昨日より少し大きくなっていることを、彩花はもう否定しなかった。
◇
土曜日。
青凪市立中央図書館の前には、秋の柔らかな日差しが落ちていた。
入口脇の植え込みでは葉の色が少しずつ変わり始め、風が吹くたびに乾きかけた葉が擦れる音を立てる。図書館へ入っていく親子連れや年配の利用者が行き交う中、彩花はいつもの入口へ向かった。
そして、すぐに悠真を見つけた。
入口近くの邪魔にならない場所で、本を一冊持って待っている。
悠真も彩花へ気づくのが早かった。
こちらを見た瞬間、表情が柔らかくなる。
その変化を、彩花はもう見間違えなかった。
「彩花さん、こんにちは」
悠真は最初から名前で呼んだ。
自転車を避けるために咄嗟に出たわけでも、途中で言い直したわけでもない。ほんの少し照れは残っているように見えたが、それでも迷わず「彩花さん」と呼んだ。
彩花の胸が大きく鳴る。
「こんにちは」
まず挨拶を返してから、彩花は一度だけ息を整えた。
昨日から何度も頭の中では練習した。
それなのに実際に悠真の顔を見ると、用意していたはずの声が喉の奥で引っかかりそうになる。
悠真は何も言わずに待っていた。
急かさない。
期待していないふりもしない。
ただ、いつもの穏やかな顔で彩花を見ている。
だから彩花も、逃げたくはなかった。
「……悠真君」
少し小さな声になったが、今度は最後まで言えた。
悠真の目が大きくなる。
返事がない。
数秒待っても黙ったままなので、彩花の方が先に耐えられなくなった。
「……何か言ってよ。余計に恥ずかしくなるから」
「あ、ごめん」
悠真はようやく我に返ったように瞬きをして、それから隠しきれない笑みを浮かべた。
「嬉しくて、ちょっと何言えばいいか分からなくなった」
「そんなに?」
「うん。昨日メッセージで呼んでもらったのも嬉しかったけど、声で聞くと全然違う」
「……そっか」
「すごく嬉しい」
真っ直ぐ言われると、彩花はどう返せばいいか分からなくなる。
それでも以前のように「大げさだよ」と否定して終わらせる気にはならなかった。
「私も」
「え?」
「昨日、彩花さんって呼ばれたとき、嬉しかったから。だから……たぶん同じ」
言い終える頃には頬がかなり熱くなっていた。
悠真は一瞬驚いたあと、さっきよりさらに嬉しそうに笑う。
「もう一回呼んでほしい」
「それは今すぐは無理」
「駄目?」
「今のでかなり頑張ったの。そんな簡単に二回目要求しないでよ」
「じゃあ今日は一回だけ?」
「分からない」
「分からないなら、また呼ぶかもしれない?」
「悠真君、そういう聞き方ずるい」
口にしてから、彩花は止まった。
今。
自然に出た。
さっきのように準備していなかった。
悠真も同じことに気づいたらしく、目を瞬いている。
「……二回目」
「数えないで」
「ごめん。でも今の、すごく自然だった」
「言われると意識するから、もう言わないで」
「分かった」
返事をしながらも、悠真の顔は明らかに嬉しそうだった。
彩花は恥ずかしさを誤魔化すように図書館の入口へ視線を向ける。
「ほら、入ろう。二冊目の感想話すんでしょ?」
「うん。俺も話したいこと結構ある」
二人で自動ドアを抜ける。
外の風の音が遠のき、代わりにページをめくる音や貸出機の小さな電子音が聞こえてきた。何度も一緒に来た図書館なのに、今日だけは入口から見える景色まで少し違うような気がする。
いつもの窓際へ向かって歩いている途中、悠真が隣から声をかけた。
「彩花さん」
「何?」
今度は考える前に返事ができた。
悠真が少し笑う。
「呼んだだけ」
「それ、やりたかっただけでしょ」
「一回だけやってみたかった」
「じゃあ、もう終わりね」
「はい」
素直に返事をする悠真を見て、彩花も笑ってしまった。
嫌ではなかった。
むしろ、もう一度呼ばれたことが嬉しい。
窓際の席が見えてくる。
悠真がいつものように先に椅子を引こうとしたので、彩花はその背中へ声をかけた。
「悠真君」
「うん?」
すぐに振り返る。
その反応が、なんだか嬉しかった。
「二冊目の感想、ちゃんと最初から話そう。メッセージだと我慢してたところいっぱいあるから」
「俺も。彩花さんがどこ好きだったか、聞きたかった」
二人は向かい合って席についた。
水瀬さんと九条君という呼び方が、なくなったわけではない。
最初に出会ってからずっと二人の間にあり、少しずつ距離を縮めてきた大切な呼び方だ。
けれど今は、その隣に新しい呼び方が増えた。
彩花さん。
悠真君。
まだ声にするたび少し照れるし、呼ばれるたびに意識する。
それでも、もう頭の中だけに置かれている名前ではない。
彩花は借りていた本を鞄から取り出し、悠真も同じように一冊の本を机へ置いた。
「じゃあ、どっちから話す?」
「彩花さんから聞きたい」
「私?」
「うん。俺が選んだ本だから、最初に感想聞きたい」
悠真の視線が、自然と彩花へ向く。
自分が好きな本だから読んでほしかっただけではない。
この本を読んだ彩花が何を思い、どこで立ち止まり、どの人物を好きになるのかを知りたかった。
それは本を貸すと決めたときから変わっていない。
彩花も、その視線から逃げずに本の表紙へ指を添えた。
「じゃあ、最初から話すね。私が一番好きだったのは――」
静かな図書館の窓際で、二人の読書の続きが始まる。
呼び方が変わったから、急に別の関係になったわけではない。
ただ、今まで積み重ねてきたものがあったからこそ、ようやくその名前を声にできた。
そして一度声にしてしまえば、その名前はもう、遠い未来の呼び方ではなかった。




