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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第46話 その名前が、先に出た


 月曜日の朝、青凪市には夜のうちに降った雨がまだ残っていた。


 青葉高校へ続く歩道にはところどころ浅い水たまりができ、街路樹の葉から落ちる雫が、通学する生徒たちの傘や肩を時折濡らしている。空は明るくなり始めているものの雲は厚く、九月の終わりらしい湿った空気が制服の袖にまとわりついていた。


 彩花は昇降口でローファーの底についた水を軽く落としてから校舎へ入り、自分の教室へ向かった。


「おはよう、水瀬」


「おはよう」


 廊下ですれ違ったクラスメイトへ返事をしながら教室へ入ると、窓際の席にいた大地がすぐに片手を上げた。


「おはよ。雨、結構降ってた?」


「家出たときは少し。でも今はほとんど止んでるよ」


「俺、ちょうど一番強いときだった。靴下ちょっと濡れた」


「嫌だね、それ」


「朝から地味に最悪」


 大地が机の下で片足を浮かせて見せるので、彩花は小さく笑った。


 自分の席へ鞄を置く。


 中には教科書とノート、それから悠真に借りている二冊目の小説が入っていた。


 小さな町の古書店を舞台にした物語。


 週末から読み始め、まだ三分の一ほどしか進んでいない。


 最初は一人の客が持ち込んだ古い本から始まった話が、少しずつ別の人へつながっている。派手な事件は起きないのに、ページをめくるたびに町の輪郭とそこに暮らす人たちの過去が少しずつ見えてくる。


 悠真が「読んだあと、水瀬さんと話したい」と選んだ本。


 そう思うと、いつもの読書とは少し違った。


 面白い場面に出会うたび、自然と考えてしまう。


(九条君は、ここをどう読んだんだろう)


 土曜日に一冊目の感想を話したばかりなのに、もう次に話したいことが増えている。


「水瀬?」


「え?」


「今、めっちゃ鞄見てたけど」


 大地に言われ、彩花は我に返った。


「本が入ってるから」


「例の借りたやつ?」


「うん。二冊目」


「二冊借りてたんだ」


「交換したの。私も二冊貸してる」


「本好き同士ってそういうことするんだな」


「全員がするわけじゃないと思うけど」


「じゃあ水瀬たちが特殊なのか」


「特殊って言わないでよ」


 笑いながら返し、彩花は席についた。


 窓の外では雲の切れ間が少しずつ明るくなっている。


 雨は、このまま上がりそうだった。


     ◇


 同じ頃。


 桜華学園では、朝から文化祭準備の話題が飛び交っていた。


 正門を抜けた先の掲示板には新しい案内が増え、校舎内でも各クラスの企画名を書いた仮ポスターが目につくようになっている。普段なら整然としている廊下にも、放課後の作業に使う段ボールや模造紙が壁際へ寄せて置かれていた。


「九条、おはよう」


「おはよう」


「昨日送ったやつ見た?」


「見た。あの配置でいいと思う」


「了解。じゃあ放課後それで進める」


 クラスメイトと短く話しながら、悠真は自分の席へ向かった。


 机の中へ教科書を入れ、鞄から一冊の本を取り出す。


 彩花から借りた二冊目。


 表紙を見ただけで、土曜日の会話が蘇った。


『前は最後のところが一番好きだったんだけど、今は途中も好き』


『途中?』


『主人公が決められなくて、ずっと迷ってるところ』


 自分の居場所を探す少女の物語。


 昨夜、半分近くまで読んだ。


 確かに主人公はよく迷う。


 家族の望むもの。


 友人たちが良いと言うもの。


 自分が本当に好きなもの。


 どれも完全に嫌いではないからこそ、決められない。


 以前の自分なら、彩花が言った通り「早く決めればいい」と思ったかもしれない。


 だが今は、少し違う。


(決められないんじゃなくて、ちゃんと自分で選びたいんだろうな)


 そう読める。


 そして、そんなふうに読むようになった理由の中に、彩花との時間があることも分かっていた。


「九条」


 横から声がして顔を上げる。


 湊だった。


「何?」


「朝から本?」


「うん」


「水瀬さんの?」


「そう」


「聞く前から顔に書いてあるな」


「何が?」


「別に」


「何だよ」


 湊は笑いながら自分の席へ鞄を置いた。


 以前ならもう少しからかったかもしれないが、最近は悠真があまり動揺しない。


 水瀬さんの本だ。


 水瀬さんに借りた。


 面白い。


 そう普通に答えるようになった。


 それでも、違いは分かる。


 他の本を読んでいるときと、ほんの少し表情が違う。


 読書そのものを楽しんでいるというより、その向こうにいる誰かと話すことまで含めて楽しみにしている顔だ。


「文化祭の準備、今日も残るんだろ?」


「うん。クラスの方が先。そのあと生徒会」


「忙しいな」


「湊も残るだろ」


「俺はクラスだけ」


「じゃあ同じじゃない」


「生徒会がある分、お前の方が多い」


「まあ、それはそうだけど」


 悠真は本へしおりを挟んだ。


 生成りの布に紺色の糸、濃い緑の紐。


 自分で縫ったしおりは、使い始めた頃より少し柔らかくなっている。


「でも文化祭は楽しみだから」


「クラス企画?」


「それも」


 悠真は本を閉じる。


「水瀬さん来るし」


「はいはい」


「何、その返事」


「もう驚かないってこと」


「別に驚くようなこと言ってないだろ」


「そうだな」


 湊は笑った。


 本当に、今の悠真にとってはその程度なのだ。


 彩花が来るから楽しみ。


 それを隠す理由も、否定する理由もない。


 ただし。


 本人がその言葉をどれだけ特別な意味で使っているのか。


 そこだけは、まだ本人より周囲の方がよく分かっている気がした。


     ◇


 放課後。


 青葉高校の文芸部室には、窓から淡い西日が差し込んでいた。


 朝の雨はすっかり上がり、濡れていたグラウンドもところどころ乾き始めている。運動部の掛け声が遠くから聞こえ、開けた窓から湿った土と草の匂いが入り込んでいた。


 彩花は新しいノートを開いていた。


 最初のページには二つの文章。


『同じ呼び方でも、相手によって意味は違う。』


『呼ばれ方が変わったから近くなるのか、近くなったから呼び方が変わるのか。』


 その下には、まだ何もない。


 ペン先を紙へ近づけては離す。


 何かを書きたい気持ちはある。


 けれど、まだ物語の形にはなっていない。


「水瀬さん」


「はい?」


 向かいで原稿を読んでいた佐々木先輩が顔を上げた。


「今、書けなくて困ってる顔?」


「そんな顔してました?」


「ちょっと」


「……困ってるっていうか、まだ何を書くか決まってなくて」


「その二行から?」


「はい」


 彩花はノートを少しだけ自分の方へ寄せる。


 別に見られて困るものではない。


 ただ、なぜか少し恥ずかしい。


「呼び方かあ」


 佐々木先輩は内容を覗き込まず、椅子の背へ軽くもたれた。


「面白そうじゃない?」


「まだ話じゃないですよ」


「前も同じこと言ってなかった?」


「……言ったかもしれません」


「じゃあ今回も、そのうち何かになるかもね」


 そう言って、佐々木先輩はまた自分の原稿へ戻った。


 急かさない。


 何を書くのか聞き出そうともしない。


 彩花はその距離がありがたかった。


 ノートへ視線を戻す。


 呼び方。


 名前。


 九条君。


 悠真君。


 頭の中で並べるだけなら、以前ほど恥ずかしくない。


 でも。


(直接は、まだ言えないな)


 土曜日の別れ際。


 悠真に呼ばれたとき、一瞬だけ違う名前が来ると思った。


 来なかった。


 そのことに少しだけ続きを期待した自分にも気づいた。


 彩花はペンを動かす。


『名前を呼ぶだけなのに、今までと同じ声では言えない。』


 書いてから、しばらく見る。


「……うん」


 消さなかった。


 まだ小説ではない。


 でも、今はそれでよかった。


     ◇


 その日の夕方。


 桜華学園では、文化祭準備の作業が予定より少し長引いていた。


 悠真のクラスでは教室前方の机を寄せ、企画で使う展示物の試作品を並べている。窓の外はすでに薄暗くなり始め、校舎内には部活動と文化祭準備で残っている生徒たちの声が重なっていた。


「九条、こっち押さえて」


「分かった」


 悠真は壁際の装飾板を支える。


 二人の男子が位置を調整し、女子生徒が少し離れたところから全体を見る。


「もうちょい右」


「これくらい?」


「そこ!」


「じゃあ印つけるよ」


 作業自体は順調だった。


 ただ、今日はこのあと生徒会室へ行かなければならない。


 悠真が時計を見ると、予定より十五分ほど遅れている。


「九条、生徒会あるんだろ?」


 近くにいた男子が気づいた。


「うん。でもここ終わってから行く」


「あとこっちだけだから、先行っていいぞ」


「大丈夫。途中で抜ける方が気になるから」


「真面目だなあ」


「普通だろ」


 悠真が笑ったとき、教室の後方から女子生徒の声が飛んだ。


「九条君、これ誰の?」


 振り返る。


 女子生徒が、一冊の本を持っていた。


 彩花から借りている長編小説。


「あ、それ俺の……じゃない。借りてるやつ」


「机の横に落ちてたよ」


「ごめん。ありがとう」


 悠真はすぐに近づき、両手で受け取った。


 表紙に汚れがないか。


 角が折れていないか。


 反射的に確認する。


「大丈夫?」


「うん。何ともない」


「そんな大事な本?」


「俺のじゃないから」


「借り物?」


「うん」


 悠真は本の表紙を軽く払う。


 床自体はきれいだったし、傷もついていない。


 それでも少し安心した。


「友達の本?」


「そう」


「へえ」


 女子生徒はそれ以上聞かず作業へ戻ろうとしたが、途中で振り返った。


「九条君、普段もっと普通に本扱ってない?」


「これは借り物だから」


「なるほど」


 納得したように頷き、今度こそ戻っていく。


 そのやり取りを近くで聞いていた湊が、悠真の手元を見た。


「水瀬さんの?」


「うん」


「やっぱり」


「何で分かった?」


「お前が本一冊落ちただけでそんな顔するの、水瀬さんのだろうなって」


「そんな顔って何だよ」


「すごい心配そうな顔」


「借り物なんだから普通だろ」


「そういうことにしとく」


 湊は笑いながら作業へ戻った。


 悠真は少しだけ眉を寄せたが、本を鞄の奥へ丁寧にしまう。


(傷つかなくてよかった)


 それだけは本心だった。


 彩花が自分へ渡してくれた本。


 大切にしたかった。


     ◇


 翌日の火曜日。


 青葉高校では六時間目の体育が終わったあと、彩花たちのクラスにちょっとした混乱が起きていた。


「先生、これ今日中ですか?」


「今日中。文化祭で使った備品の確認表、まだ一年二組だけ出てないぞ」


「誰が持ってるの?」


「委員の机じゃない?」


「ない!」


 担任の声と生徒たちの声が重なる。


 文化祭で使用した学校備品の返却確認。


 行事そのものは終わっていても、細かな後処理はいくつか残っていた。


 彩花は自分の席で帰り支度をしながら、そのやり取りを聞いていた。


「水瀬」


 大地が振り返る。


「何?」


「謎解きの最後の箱って、資料室に返したよな?」


「返したよ。私も一緒に運んだから」


「だよな。じゃあチェックだけ抜けてんのかな」


「たぶん」


 結局、確認表は教卓の下に挟まっているのが見つかり、教室に安堵の声が広がった。


「何でそこにあるんだよ!」


「昨日先生置いたんじゃない?」


「俺じゃない!」


 担任まで巻き込んだやり取りに笑いが起きる。


 彩花も笑いながら鞄を肩へ掛けた。


「じゃあ私、部活行くね」


「おう。また明日」


「またね」


 教室を出る。


 今日は文芸部へ少しだけ顔を出す予定だった。


 ところが廊下を歩いている途中で、スマートフォンが短く震えた。


 校内なので取り出さず、そのまま部室へ向かう。


 文芸部で活動を終え、昇降口を出たのは午後五時前だった。


 空は昨日とは違い、雲の少ない青空。


 西日が校舎の窓を橙色に染めている。


 彩花は門を出てからスマートフォンを確認した。


 悠真からだった。


『今日、学校何時くらいに終わる?』


 送信時刻は一時間ほど前。


「……何だろ」


 彩花は立ち止まらず、歩きながら考える。


 すぐに返す。


『今終わったところ。』


 数十秒後。


『青凪駅通る?』


『通るよ。』


『俺も今そっち向かってる。』


 彩花の足が少しだけゆっくりになる。


『桜華から?』


『うん。今日は早く終わった。』


『じゃあ駅で会う?』


 送ったあと。


 自分から普通にそう書いたことに気づく。


 以前なら「もし時間があれば」と一つ前置きを入れていたかもしれない。


 今は必要だと思わなかった。


 会えるなら会いたい。


 それでいい。


 返事はすぐだった。


『会いたい。』


「……」


 彩花の足が止まった。


 通り過ぎる青葉高校の生徒が二人、横を抜けていく。


 夕方の車道から車の走る音が聞こえる。


 画面には、短い四文字。


『会いたい。』


(そこ、普通に言うんだ)


 頬が少し熱くなる。


 それでも嫌ではない。


 彩花は小さく息を吐いてから返した。


『じゃあ駅で。』


     ◇


 青凪駅の改札前は、帰宅する学生や仕事帰りの人で混み始めていた。


 彩花が到着したのは午後五時十五分頃。


 青葉高校の制服姿は珍しくないが、桜華学園の制服はこの時間、この場所では少し目立つ。


 だから。


 探すより先に分かった。


 柱の近く。


 鞄を肩に掛けた悠真が立っている。


 そして悠真も、彩花を見つけるのが早かった。


 人の流れの向こう。


 まだ十数メートル離れている。


 それなのに、ほとんど迷わずこちらを見る。


 目が合った。


 悠真の表情が柔らかくなる。


 その変化は大きくない。


 けれど、彩花には分かった。


「水瀬さん」


 人の流れを避けながら、悠真がこちらへ来る。


「待った?」


「全然。俺も今来たところ」


「本当?」


「本当。三分くらい」


「じゃあよかった」


 彩花は悠真の隣へ並ぶ。


「今日、どうしたの?」


「ちょっと寄りたいところがあって」


「青凪駅に?」


「うん」


 悠真は少しだけ迷ったあと、鞄から一枚の紙を出した。


「これ」


「何?」


 彩花が覗き込む。


 桜華学園文化祭の一般来場者向け簡易案内。


 まだ正式配布前の確認用らしく、紙の上部に小さく「校内確認用」と印字されている。


「もうできたんだ」


「仮版だけどね。今日確認してた」


「すごい」


「それで」


 悠真は紙の一部を指す。


「駅から学校までの道、初めてだと少し分かりにくい場所があるんだ」


「そうなの?」


「大通りから一本入るところ。案内看板は出る予定だけど」


「うん」


「水瀬さん、一人で来るかもしれないだろ」


 彩花が悠真を見る。


「だから?」


「駅からの行き方、今のうちに説明しようと思って」


「……そのために青凪駅まで来たの?」


「それだけじゃないよ」


「他にも用事あるの?」


「本屋に寄りたかった」


「本屋?」


「うん」


「何買うの?」


「まだ決めてない」


 彩花は数秒、悠真を見る。


「九条君」


「何?」


「本当に本屋が先?」


 悠真が止まった。


「……何で?」


「だって、買う本決まってないんでしょ?」


「見たい本はある」


「どんな?」


「新刊」


「何の?」


「……」


 悠真の視線が少し逸れる。


 彩花は思わず笑った。


「今考えた?」


「半分くらい」


「やっぱり」


「でも本屋に寄りたいのは本当」


「じゃあ半分は?」


 聞いてから。


 彩花は答えを予想した。


 悠真も、たぶん隠すつもりはなかった。


「水瀬さんに会えたらいいなと思った」


 駅構内のアナウンスが重なる。


 到着する電車。


 改札を抜ける人の足音。


 近くの売店から聞こえる店員の声。


 人が多い場所なのに、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。


「……そっか」


「うん」


「それで学校終わる時間聞いたの?」


「そう」


「私、遅かったら?」


「本屋だけ寄って帰った」


「じゃあ早く終わってよかった?」


「よかった」


 即答だった。


 彩花は少しだけ俯く。


 頬がまた熱い。


 それでも以前のように「九条君は誰にでも優しいから」と理由を探そうとは思わなかった。


 これはたぶん。


 自分に会いたかったから。


 そう言われたのだから、そのまま受け取っていい。


「私も」


「え?」


「会えてよかった」


 今度は悠真が黙る。


 彩花は先に歩き出した。


「本屋行くんでしょ?」


「あ、うん」


「行こう」


「……うん」


 追いついてきた悠真の足取りが、さっきより少し軽く見えた。


     ◇


 駅ビルの書店は夕方ということもあり、学生客が多かった。


 新刊台の周りには制服姿の高校生が何人も立ち、雑誌売り場の方からはビニール包装の擦れる音が聞こえている。店内には紙とインクの匂いが漂い、外の騒がしさが少し遠くなった。


「本当に本屋来た」


 彩花が言う。


「疑ってた?」


「ちょっと」


「ひどい」


「だって半分って言ったから」


「本屋に来たかったのも本当だから」


 悠真は新刊台を見る。


 彩花も隣から覗き込んだ。


 二人で同じ棚を見ること自体は、もう珍しくない。


 最初に会ったのも本。


 何度も話したのも本。


 けれど今日は、待ち合わせを決めていたわけではない。


 帰り道がたまたま重なったわけでもない。


 悠真が自分に会えるかもしれないと思って、学校が終わる時間を聞いた。


 その事実が、彩花の中に静かに残っていた。


「あ」


 悠真が一冊手に取る。


「これ?」


「うん。見たかったやつ」


「本当にあった」


「だから言っただろ」


「疑ってごめんなさい」


「分かればいいです」


「何その言い方」


 二人で笑う。


 そのとき。


 近くの棚の向こうから数人の高校生が出てきた。


 桜華学園の制服。


「あれ、九条?」


 悠真が振り返る。


 三人組の男子生徒だった。


 一人は同じクラスらしく、悠真もすぐに反応する。


「森川」


 男子生徒――森川航平が近づいてくる。


「お前、もう帰ったと思ってた」


「帰る途中。ちょっと本屋寄ってた」


「へえ」


 森川の視線が彩花へ向く。


 あからさまに詮索するような目ではない。


 ただ、桜華の制服ではない女子生徒が悠真と二人でいるのが少し意外だったらしい。


 悠真はその視線に気づく。


「友達の水瀬さん」


「こんにちは」


 彩花が軽く頭を下げる。


「どうも。九条と同じクラスの森川です」


「水瀬です」


「青葉?」


「はい」


「文化祭終わったところだよな。俺の従妹が行ったって言ってた」


「そうなんですか?」


「謎解きやったって」


「あ、それ私のクラスです」


「マジで? 結構難しかったって言ってた」


「最後まで解けたのかな」


「聞いてないな。今度聞いとく」


 思いがけず普通に会話が続く。


 森川の後ろにいた二人も軽く会釈し、そのうち一人が「先行ってるぞ」と声をかけた。


「おう」


 森川は返事をしてから悠真を見る。


「じゃあまた明日」


「うん。また」


「水瀬さんも、また」


「はい」


 三人が離れていく。


 彩花はその背中を見送った。


「同じクラス?」


「うん。文化祭準備も一緒」


「初めて会った」


「そうだね」


「九条君の友達、榊原君しか知らなかったから」


「森川は友達っていうか、クラスでよく話す感じかな」


「そっか」


 彩花は何となく嬉しかった。


 悠真の学校での知り合い。


 まだ知らない人。


 まだ知らない悠真の時間。


 少しずつ見えてくる。


「文化祭の日、森川君もいる?」


「たぶんクラスにいる時間あると思う」


「じゃあまた会うかもね」


「うん」


 悠真はそう答えたあと、少しだけ彩花を見る。


「水瀬さん、本当に楽しみにしてくれてる?」


「してるよ」


「学校見るの?」


「それも」


「それも?」


 彩花は悠真が以前したのと同じ言い方になったことに気づき、少し笑った。


「九条君が普段どんな感じなのか見るのも」


「……それ、結構恥ずかしいな」


「今さら?」


「今さらだけど」


「私は見られたよ?」


「そうだった」


「教室も、文芸部も、いつも読むところも」


「じゃあ俺も見せないと公平じゃないか」


「別に公平にしなくてもいいけど」


「でも見てほしい」


 悠真はそう言ってから、手にしていた新刊へ視線を落とした。


「水瀬さんには」


 最後だけ少し声が小さくなる。


 けれど彩花には届いた。


「……うん」


 彩花も、それ以上は何も言わなかった。


 ただ、胸の奥が少しだけ温かくなった。


     ◇


 少し離れた場所。


 レジへ向かっていた森川は、何となく一度だけ後ろを振り返った。


 九条悠真は学校では誰に対しても感じがいい。


 頼まれたことを嫌な顔せず引き受けるし、女子と話すときも男子と話すときも態度はほとんど変わらない。


 だから、最初はただの友達だと思った。


 実際、本人もそう紹介した。


 けれど。


「森川、何見てんの?」


 前を歩いていた友人が振り返る。


「いや」


 森川はもう一度だけ二人を見る。


 水瀬という女子が棚の本を一冊取る。


 九条がすぐそちらを見る。


 彼女が何か言う。


 九条が笑う。


 学校でも笑うことはある。


 でも、何というか。


「九条って、あんな顔するんだなと思って」


「何が?」


「別に」


「意味分かんねえ」


「俺もまだよく分からん」


 森川は肩をすくめて歩き出す。


 少なくとも。


 文化祭の日に彼女が来たら、九条はかなり分かりやすそうだ。


 そんな気はした。


     ◇


 書店を出た頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。


 悠真は結局、新刊を一冊買った。


 彩花は何も買わなかったが、気になった文庫を一冊覚えておくことにした。


 駅前広場へ出る。


 日中の暖かさは残っているものの、日が落ち始めると風が少し冷たい。


「それで」


 彩花が言う。


「道教えてくれるんじゃなかった?」


「あ」


「忘れてた?」


「水瀬さんに会えたからちょっと忘れてた」


「それ本人に言う?」


「本当だから」


「……最近、九条君ちょっと強くなったよね」


「何が?」


「そういうこと言うの」


「水瀬さんが嫌じゃないって分かったからかも」


「名前の話?」


「それだけじゃなくて」


 悠真は駅前広場の案内板へ近づく。


 スマートフォンで桜華学園周辺の地図を表示した。


「ここが駅」


「うん」


「この大通りをまっすぐ行って、ここで右」


「この細い道?」


「そう。ここがちょっと分かりにくい。文化祭の日は案内出ると思うけど」


「駅から歩いてどれくらい?」


「十五分くらいかな」


「青葉とあんまり変わらないね」


「そうだね」


 彩花は画面を見るため、悠真の隣へ少し近づいた。


 肩が触れるほどではない。


 けれど、同じスマートフォンを見るには十分近い。


 悠真の指が地図の上を動く。


「正門はここ。受付がこの辺」


「入ったら?」


「たぶん俺が迎えに行ける」


「たぶん?」


「その時間に急な仕事が入らなければ」


「入ったら仕事優先してね」


「分かってる」


「私、一人でも大丈夫だから」


「うん」


 悠真は素直に頷く。


「でも、できれば迎えに行きたい」


「……そっか」


「水瀬さん、桜華初めてだし」


「お姉ちゃんの学校でもあるけど、行ったことないからね」


「水瀬先輩も合流するかもしれないって言ってた」


「うん。まだ分からないみたい」


 悠真は地図を閉じる。


「琴葉も午前ならたぶん時間ある」


「玲奈さんもいる?」


「いると思う」


「楽しみ」


「うん」


 彩花は桜華学園の方向を見る。


 ここから校舎は見えない。


 でも、その先に悠真が毎日通う学校がある。


 姉も通っている学校。


 琴葉も玲奈もいる。


 それなのに今、彩花が一番最初に思い浮かべたのは悠真だった。


(九条君の学校)


 姉の学校でもあるのに。


 自分の中では、そんな呼び方になり始めている。


 少し不思議だった。


     ◇


「じゃあ、そろそろ帰る?」


「うん」


 駅へ戻ろうとしたときだった。


 広場の端から、自転車が一台入ってきた。


 乗っているのは高校生くらいの男子。


 歩行者を避けながら進んでいるが、片手にはスマートフォンを持っている。


 彩花は気づいていなかった。


 悠真は気づいた。


 自転車の前輪が、人を避けて少し大きくこちらへ寄る。


 危険というほどではない。


 普通なら一歩横へ動けば済む程度。


 それでも。


「彩花さん、こっち」


 悠真の声が飛んだ。


 同時に、彩花の腕を軽く引く。


 ほんの一歩。


 彩花の身体が悠真の側へ寄る。


 自転車は二人の前を通り過ぎ、乗っていた男子が「あ、すみません」と声を残していった。


「……」


「……」


 二人とも。


 すぐには動かなかった。


 悠真の手は彩花の制服の袖、その肘より少し上を掴んでいる。


 強くはない。


 ただ避けさせるための動き。


 けれど。


 問題はそこではなかった。


「……九条君」


「ごめん」


 悠真はすぐに手を離した。


「急に引っ張った」


「それは大丈夫」


「びっくりした?」


「うん」


「ごめん」


「違う」


 彩花は悠真を見る。


「そっちじゃなくて」


 悠真の動きが止まる。


 何を指しているのか。


 分からないはずがなかった。


 彩花の心臓は、自転車に驚いたときより今の方が速くなっている。


「今」


 声が少し小さくなる。


「……名前」


 悠真の目がわずかに開く。


「あ」


 それだけだった。


 本当に無意識だったのだろう。


 悠真自身、言われて初めて気づいたような顔をしている。


「俺……」


「彩花さんって言った」


「……言った」


「うん」


 駅前広場を人が行き交う。


 誰も二人を気にしていない。


 遠くからバスの到着を知らせる音が聞こえ、風が彩花の髪を少し揺らした。


 悠真は彩花を見る。


「嫌だった?」


 声がいつもより慎重だった。


 彩花はすぐに首を横へ振る。


「嫌じゃない」


 それはもう伝えたことがある。


 でも。


 実際に呼ばれてから答えるのは、少し違った。


「びっくりしただけ」


「俺もびっくりした」


「自分で?」


「考える前に出た」


「……そっか」


 彩花は視線を落とす。


 さっきの声が耳に残っている。


『彩花さん、こっち』


 頭の中で想像した声とは違った。


 もっと自然だった。


 特別に呼ぼうと構えた声ではなく、いつもの悠真の声。


 だからこそ。


 余計に胸へ残った。


「水瀬さん」


 呼ばれる。


 彩花は顔を上げた。


 いつもの呼び方。


「……戻った」


「え?」


「水瀬さんに戻った」


「だって」


 悠真が困ったように笑う。


「今、もう一回呼ぶ方が恥ずかしい」


「九条君でも恥ずかしいんだ」


「かなり」


「そうなんだ」


「水瀬さんは?」


「私?」


「俺の名前」


 彩花の呼吸が一瞬止まる。


「それは……」


 悠真は待つ。


 急かさない。


 期待していないふりもしない。


 ただ、彩花を見る。


 彩花は唇を開きかける。


「ゆ……」


 最初の音が出る。


 そこまでだった。


 顔が熱い。


「……無理」


 彩花は片手で口元を隠した。


 悠真が目を瞬く。


 それから。


「今、ちょっと言った?」


「言ってない」


「言ったよ」


「最後まで言ってないから言ってない」


「最初の一文字は言った」


「聞かなかったことにして」


「無理」


「九条君」


「嬉しかったから無理」


 即答される。


 彩花はますます顔を上げられなくなった。


「そういうの、すぐ言うようになった」


「本当だから」


「それも最近よく言う」


「駄目?」


「……駄目じゃない」


 小さく答える。


 悠真は笑った。


 さっき書店で森川が見たのと同じ。


 学校で友人へ向けるものより、少しだけ柔らかい笑顔だった。


     ◇


 帰り道。


 二人はいつもより少しゆっくり歩いていた。


 特に理由はない。


 ただ、急いで別れる必要もなかった。


「さっきの」


 彩花が口を開く。


「うん?」


「名前」


「うん」


「どうする?」


「どうするって?」


「これから」


 悠真は少し考える。


 その間にも、駅前の明かりが一つずつ点き始めている。


「無理に変えなくていいと思う」


「私も」


「今日みたいに自然に出たなら、それはそれで」


「うん」


「でも」


 悠真は一度言葉を切った。


「また呼びたいとは思ってる」


 彩花は前を向いたまま聞く。


「彩花さんって?」


「うん」


「……そっか」


「嫌じゃない?」


「嫌じゃないって言ったでしょ」


「実際呼んだあとも?」


「うん」


 彩花は少し迷ってから。


「思ってたより、普通だった」


「普通?」


「変って意味じゃないよ」


「分かってる」


「もっとすごく恥ずかしいかと思ったけど、呼ばれた瞬間は普通に返事しそうになった」


「じゃあ次は返事して」


「次がある前提なんだ」


「また呼びたいから」


「……うん」


 彩花は小さく笑う。


「じゃあ、次は返事する」


「約束?」


「そこまで大げさじゃないよ」


「でも覚えとく」


「九条君、そういうの本当に覚えてるからなあ」


「水瀬さんのことなら」


 そこまで言って。


 悠真が止まる。


 彩花も気づく。


 そして二人同時に笑った。


「そこは水瀬さんなんだ」


「今はね」


「今は?」


「……今は」


 悠真は少しだけ照れたように視線を逸らす。


 彩花はそれ以上聞かなかった。


 ただ。


 以前なら「いつか」が遠く感じた。


 今は違う。


 もう一度呼ばれることを、自然に想像できる。


 そして自分も。


 さっき途中まで出た。


(悠真君)


 頭の中では、もうきれいに言える。


 あとは声にするだけ。


 その一歩がまだ少し難しい。


 でも。


 難しいだけで、嫌ではなかった。


     ◇


 駅へ戻ると、ちょうど悠真の乗る電車が十分ほどで来るところだった。


「じゃあ、ここで」


「うん」


「今日はありがとう」


「何が?」


「道教えてくれたのと」


 彩花は少しだけ笑う。


「会いに来てくれたの」


「……うん」


「本屋も本当だったけどね」


「半分でしょ?」


「半分」


「じゃあ半分だけありがとう」


「残り半分は?」


「文化祭の日に案内してくれたら」


「分かった」


 悠真は笑う。


「ちゃんと案内する」


「仕事優先ね」


「分かってるって」


 改札前。


 人の流れが二人の横を絶えず通り過ぎていく。


 悠真は交通系ICカードを手に持つ。


「じゃあ、また」


「うん。またね」


 一歩進む。


 けれど悠真は改札へ入る前に振り返った。


「水瀬さん」


「うん?」


 彩花が見る。


 悠真は一瞬だけ迷う。


 今日、一度呼んだ。


 偶然。


 咄嗟に。


 考えるより先に。


 今度は違う。


 自分で選ぶ。


「……彩花さん」


 今度は、はっきり。


 彩花の目が大きくなる。


 駅の音が遠く感じた。


 ほんの一瞬。


 でも今度は。


「……うん」


 返事ができた。


 悠真の表情が変わる。


 驚いたあと、ゆっくり笑う。


「またね」


「うん。またね、九条君」


 彩花はまだ名前では返せなかった。


 それでも。


 悠真は何も求めなかった。


「気をつけて帰って」


「九条君も」


 悠真は改札を通る。


 彩花はその背中が人の流れへ混ざるまで見送った。


 それから。


 自分も帰ろうとして。


「……彩花さん」


 小さく呟く。


 自分の名前なのに。


 いつも家族や友達に呼ばれている名前なのに。


 今は少し違って聞こえる。


 誰が呼んでも同じ音のはずなのに。


 誰に呼ばれるかで、こんなにも変わる。


 彩花は鞄の中にあるノートを思い出した。


『同じ呼び方でも、相手によって意味は違う。』


 今日。


 もう一つ分かったことがある。


(呼び方が変わったから近くなったんじゃない)


 たぶん。


 先に近くなっていた。


 だから、名前が出た。


 彩花は駅を出る。


 夜へ変わり始めた青凪市の空の下を、自転車置き場へ向かって歩く。


 頬にはまだ少し熱が残っていた。


     ◇


 電車に乗った悠真は、扉の近くに立っていた。


 混み合うほどではないが、座席はほぼ埋まっている。


 窓の外を流れる青凪駅のホームが、ゆっくり後ろへ遠ざかっていく。


 スマートフォンを取り出す。


 何か送ろうとして。


 やめた。


 今は必要ない。


『彩花さん』


 声にした感覚が、まだ残っている。


 一度目は咄嗟だった。


 二度目は、自分で呼んだ。


 そして。


『……うん』


 彩花は返事をした。


 嫌そうではなかった。


 困った顔でもなかった。


 驚いて。


 少し恥ずかしそうで。


 それでも、ちゃんと自分を見て返事をした。


(嬉しいな)


 それ以上、理由を探す必要はなかった。


 名前で呼べた。


 彩花が返事をしてくれた。


 それが嬉しい。


 ただそれだけで十分だった。


 けれど。


 すぐに全部を変えようとは思わない。


 明日から急に毎回「彩花さん」と呼ぶのも違う気がする。


 水瀬さん。


 その呼び方にも、二人で積み重ねてきた時間がある。


 だから。


 次に自然に呼べるときに、また呼べばいい。


 電車が次の駅へ近づき、車内アナウンスが流れる。


 悠真は鞄へスマートフォンを戻そうとして、ふと手を止めた。


 彩花から借りた本が入っている。


 今日、学校で落ちかけた本。


 傷はつかなかった。


 家へ帰ったら続きを読むつもりだった。


(彩花さんが好きなところ、もう少し分かるかな)


 頭の中で呼ぶ名前は。


 もう途中で止まらなかった。

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