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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第45話 名前で呼ぶには、まだ少し


 日曜日の朝。


 九条家のダイニングで、悠真は珍しく食事中に何度も時計を見ていた。


 別に急いでいるわけではない。


 今日は生徒会もなければ、誰かと会う予定もない。午前中に学校関係の資料を少し確認するつもりではあるが、時間を決めているわけでもなかった。


 それでも、普段より早く朝食を終えようとしている。


「兄様」


 向かいに座っていた琴葉が味噌汁の椀を置いた。


「何?」


「今日、何か予定がありますか?」


「ないけど」


「では、どうして先ほどから時計を?」


「見てただけ」


「三回目です」


「数えてたの?」


「たまたまです」


 琴葉はそう言ったが、目は明らかに兄を観察していた。


 悠真は気にせず焼き魚へ箸を伸ばす。


 その隣では麗華が静かにお茶を飲み、新聞に目を通していた正樹も会話を聞いているらしい。


「図書館へ行くの?」


 麗華が尋ねた。


「今日は行かないよ」


「あら、珍しい」


「昨日行ったから」


「水瀬さんと?」


「うん」


 答えたところで、正樹の新聞がほんの少し下がった。


 悠真は見なかったことにする。


「昨日、本を交換したんだ」


「交換?」


「お互いに読んでほしい本を二冊ずつ」


「素敵ね」


 麗華が微笑む。


「兄様の二冊というと、もしかしてお祖父様からいただいた本も?」


「うん」


 琴葉が少し驚く。


「本当に貸したんですね」


「前にも言っただろ」


「そうですけど、実際に渡したと聞くと少し驚きます」


「そんなに?」


「あの本、兄様がかなり大事にしているのを知っていますから」


「大事だよ」


「それでも貸した」


「水瀬さんなら大丈夫だから」


 悠真は自然に答えた。


 そこへ。


「……ほう」


 新聞の向こうから低い声が聞こえた。


 悠真は父を見る。


「何?」


「いや」


 正樹は新聞を戻す。


「何でもない」


「絶対何かあるだろ」


「水瀬さんを信頼しているんだなと思っただけだ」


「してるよ」


「そうか」


 それだけ言って、正樹は黙った。


 表面上は。


(祖父からもらった、あの本を)


 内心ではかなり驚いていた。


 悠真が本を人に貸さないわけではない。


 友人と本の貸し借りをしたこともある。


 だが、あの冒険小説は別だった。


 幼い頃から何度も読んでいる。


 引っ越しや部屋の整理のときも、必ず自分で場所を決めていた。


 そんな本を、何の不安もなく渡せる相手。


(……なるほど)


 正樹は新聞へ視線を戻す。


 口にすれば息子が嫌がることくらい分かっている。


 だから言わない。


 隣の麗華も夫の内心をだいたい察したらしく、ほんの少し笑っている。


「それで兄様」


 琴葉が尋ねる。


「彩花さんからは何を?」


「一冊は児童文学。もう一冊は長編」


「もう読みました?」


「児童文学の方は昨日から読んでる」


「早いですね」


「面白いから」


 それも本当だった。


 昨夜、彩花とメッセージを終えたあと。


 悠真は再び本を開いた。


 少しだけ読むつもりだったのに、気づけばかなり進んでいた。


 文章は子どもにも読みやすい。


 物語も決して複雑ではない。


 けれど、大人になった今読んでも残るものがある。


 何より。


 読みながら考えてしまう。


 彩花はどこを好きだったのだろう。


 子どもの頃と今で、どこが変わったのだろう。


 それを聞くのが楽しみだった。


「そういえば」


 琴葉が少しだけ声を落とす。


「昨日、何か連絡ありました?」


「水瀬さんから?」


「はい」


「何で?」


「兄様が朝から少し機嫌がいいので」


「普通だけど」


「普通ではあります」


「じゃあ普通だろ」


「ただ、普通の中では機嫌がいい方です」


「細かいな」


 悠真は呆れながら水を飲んだ。


 だが。


 思い当たることはある。


『九条君のだったら分かる気がした。』


 昨夜、彩花から届いた言葉。


 小学生の頃の自分が書いた紙片を見つけ、彩花は自分の字だと当てた。


 文化祭の日には、自分が彩花の字を見つけた。


 今度は逆。


 嬉しくないはずがなかった。


「……ちょっとだけ」


「何があったんです?」


「言わない」


「兄様」


「水瀬さんとの話だから」


 琴葉が目を瞬く。


 悠真はそれ以上話さず、残っていた朝食を食べる。


 琴葉も無理には聞かなかった。


 ただ、兄の中で「彩花との間だけに置いておきたいもの」が少しずつ増えていることには気づいた。


 それは悪い変化ではない。


 むしろ。


「兄様」


「今度は何?」


「児童文学、読み終わったら感想をちゃんと伝えてくださいね」


「そのつもり」


「彩花さん、きっと楽しみにしていますから」


「うん」


 悠真は頷いた。


「俺も話すの楽しみだから」


 琴葉は微笑み、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 同じ頃。


 水瀬家では、彩花がリビングのソファで悠真から借りた冒険小説を読んでいた。


 昨夜からかなり読み進めている。


 物語は、小さな村で育った少年が古い地図を手に旅へ出るところから始まった。


 王道と言えば王道。


 知らない土地。


 仲間。


 危険。


 秘密。


 それでも古さを感じさせない面白さがある。


 何より主人公がいい。


 怖いもの知らずではない。


 むしろ怖がる。


 逃げたいとも思う。


 それでも「自分で見たい」と一歩ずつ進む。


(九条君、この主人公好きそう)


 ページをめくる。


 昨夜見つけた紙片の場所はもう過ぎている。


『ここから一気に面白くなる』


 確かにその通りだった。


 あのあと新しい仲間が登場し、物語が一気に動き始めた。


「……小学生の九条君、正しかった」


「何が?」


 突然後ろから声がして、彩花は肩を揺らした。


「お姉ちゃん!」


「そんな驚く?」


「急に話しかけるから」


 凛花がソファの背後から本を覗き込む。


「それ、九条君の?」


「うん」


「昨日交換したって言ってたやつ?」


「何で知ってるの?」


「昨日帰ってきたとき紙袋大事そうに持ってたから聞いたでしょ」


「あ、そうだった」


「集中しすぎ」


 凛花は隣のソファへ座る。


「面白い?」


「うん。結構好き」


「九条君が一番好きな本なんだっけ」


「そう。お祖父さんからもらったんだって」


「それ貸してくれたんだ」


「うん」


 彩花は本を両手で持ち直した。


「だから絶対汚さないようにしないと」


「彩花なら大丈夫でしょ」


「九条君も同じこと言ってた」


「へえ」


 凛花の目が少し細くなる。


「何?」


「別に」


「最近お姉ちゃんの『別に』信用できない」


「ひどい」


「絶対何か考えてるもん」


「彩花が信頼されてるんだなと思っただけ」


「……それは」


 彩花は本へ視線を落とす。


「嬉しい」


 素直に言った。


 凛花は妹を見る。


 以前なら。


「私なんかにそんな大事な本」と言ったかもしれない。


 少なくとも、少し前の彩花なら遠慮が先に出ただろう。


 今は違う。


 大事にする。


 信頼されて嬉しい。


 それで終われる。


「そっか」


 凛花は微笑んだ。


「よかったね」


「うん」


 彩花も笑う。


「お姉ちゃん、今日部活は?」


「午後から。そろそろ出る」


「日曜なのに大変だね」


「大会近いからね」


「頑張って」


「ありがとう」


 凛花は立ち上がりかけて。


 ふと思い出したように彩花を見る。


「そういえば、桜華の文化祭」


「うん?」


「当日、私も昼前後なら少し空くかも」


「本当?」


「まだ確定じゃないけど」


「じゃあ一緒に回れる?」


「少しなら」


「九条君が昼前後に案内してくれるって」


「聞いた」


「誰から?」


「学校で担当表見たから」


「そっか」


 凛花は少しだけ口元を上げる。


「また二人とも水瀬さんになるね」


「……あ」


 彩花の手が止まった。


 土曜日の出来事が蘇る。


『水瀬さん』


『うん』


『はい』


 姉妹そろって返事をした。


 そして。


『彩――』


 あの一瞬。


「どうするんだろうね、九条君」


 凛花はあくまで軽く言った。


「どうするって?」


「二人いるとき」


「お姉ちゃんを水瀬先輩って呼べばいいんじゃない?」


「まあ、それが一番簡単かな」


「でしょ」


「彩花って呼んでも区別できるけど」


「お姉ちゃん!」


 凛花は笑う。


「冗談」


「もう」


「でも嫌じゃないんでしょ?」


 彩花が黙る。


「……うん」


「そっか」


 凛花はそれ以上からかわなかった。


「じゃ、行ってくる」


「うん。いってらっしゃい」


 玄関へ向かう姉を見送り、彩花は再び本を開く。


 けれど。


 さっきまで読んでいた文章が、少し頭へ入りにくくなった。


(彩花って呼んでも、か)


 悠真にそう呼ばれる。


 想像したことはある。


 嫌ではない。


 それも本人へ伝えた。


 でも。


 実際に呼ばれたら。


(……どうなるんだろ)


 分からない。


 きっと恥ずかしい。


 でも、嫌ではない。


 むしろ。


 少しだけ。


(聞いてみたいかも)


 そこまで考えて、彩花は本で口元を隠した。


「……本読もう」


 誰もいないリビングで小さく呟く。


 そして今度こそ、冒険小説の世界へ戻った。


     ◇


 月曜日。


 青葉高校では、文化祭の名残がほとんど消えていた。


 廊下に残っていた掲示物も外され、教室の後ろに積まれていた段ボールもなくなった。


 いつもの授業。


 いつもの昼休み。


 いつもの放課後。


 ただ文芸部の部室では、彩花の机の上に一冊の新しいノートが置かれていた。


 文化祭後に買ったものだ。


 最初のページには、以前書いた一行。


『同じ呼び方でも、相手によって意味は違う。』


 その下はまだ白い。


 彩花はペンを持ったまま考える。


「進んでる?」


 向かい側から佐々木先輩が尋ねた。


「全然です」


「一行ある」


「これ話じゃないですよ」


「種にはなるかも」


「種?」


「そこから何か出てくるかもしれないでしょ」


 佐々木先輩は自分の原稿へ視線を戻す。


「最初から話全部決めなくてもいいと思うよ」


「はい」


 彩花はもう一度一行を見る。


 呼び方。


 名字。


 名前。


 同じ名字でも、誰が呼ぶかで違う。


 同じ名前でも、誰に呼ばれるかで違う。


 そこまで考えて。


 もう一行書いた。


『呼ばれ方が変わったから近くなるのか、近くなったから呼び方が変わるのか。』


「……」


 自分で書いておきながら、少し恥ずかしい。


 でも消さなかった。


 小説になるかは分からない。


 今の自分が気になっていること。


 それを残しておく。


 それだけでもいい。


     ◇


 同じ月曜日の放課後。


 桜華学園では、文化祭準備のため各クラスの活動が本格化していた。


 悠真のクラスでは、教室を使った展示と小規模な参加型企画を組み合わせることになっている。


 放課後の教室には十数人が残り、机を囲んで作業していた。


「九条、その紙取って」


「これ?」


「それ」


 悠真は机の端にある色紙を渡す。


「ありがとう」


 女子生徒が受け取り、再び作業へ戻った。


 悠真も自分の担当している案内表示の確認を続ける。


 そこへ、別の女子生徒が近づいてきた。


「九条君、ちょっといい?」


「うん」


「文化祭の日、生徒会もあるんだよね?」


「あるよ」


「クラスの当番、今ここになってるけど大丈夫?」


 差し出された表を見る。


「その時間なら大丈夫。生徒会の方は空いてる」


「よかった。じゃあそのままでいい?」


「うん」


「ありがと」


 女子生徒が戻る。


 その様子を少し離れた席から見ていた湊が、作業しながら口を開いた。


「お前、文化祭の日すごいな」


「何が?」


「生徒会やってクラスやって、案内もするんだろ?」


「ずっとじゃないよ」


「水瀬さん来るんだっけ」


「うん」


 悠真の返事が少しだけ早い。


 湊は紙を切る手を止めない。


「楽しみ?」


「楽しみ」


「即答だな」


「来てくれるから」


 それ以上でも、それ以下でもないような言い方だった。


 湊は少しだけ笑う。


「まあ、青葉のときのお返しみたいなもんか」


「それもある」


「それも?」


「俺の学校、見たいって言ってくれたから」


 悠真は案内表示の文字を確認する。


「だったらちゃんと見せたい」


「なるほど」


 湊はそれ以上聞かなかった。


 以前なら、ここから何か言ったかもしれない。


 だが今の悠真には、わざわざ誰かが説明する必要がない。


 水瀬彩花が来る。


 だから嬉しい。


 彼女が見たいと言った。


 だから見せたい。


 その感情を、悠真自身がそのまま受け入れている。


「榊原、そっち終わった?」


 別の男子から声が飛ぶ。


「あとちょっと」


 湊が返事をする。


 会話はそこで終わった。


 悠真も作業へ戻る。


 机の上には文化祭当日の簡単な校内図がある。


 図書室。


 自分の教室。


 生徒会室前。


 中庭。


 食堂。


 彩花なら、どこを面白がるだろう。


 そう考えながら眺めると、普段見慣れた学校が少し違って見えた。


     ◇


 火曜日の昼休み。


 青葉高校。


 彩花は教室で弁当を食べ終えたあと、机の中から悠真の冒険小説を取り出した。


「それ最近読んでるやつ?」


 大地が近くを通りながら聞く。


「うん」


「分厚いな」


「結構長いよ」


「面白い?」


「面白い」


 彩花は迷わず答えた。


「友達に借りたの」


「へえ」


 大地は表紙を見る。


「古そう」


「大事な本なんだって」


「そんなの借りて平気?」


「大事に読むから」


「水瀬なら平気か」


 大地はそれだけ言い、自分の席へ戻ろうとする。


 彩花は本を開いた。


 しばらく読んでいると。


「あ」


 思わず小さな声が出た。


 少し離れた大地が振り向く。


「何?」


「何でもない」


「本で何かあった?」


「うん。でも何でもない」


「ならいいけど」


 大地はまた友人との会話へ戻る。


 彩花はページを見る。


 主人公が旅の途中で、自分の目的について問われる場面だった。


 どうしてそこまでして進むのか。


 危険なのに。


 怖いのに。


 主人公は、うまく答えられない。


 ただ。


『自分の目で見たいからだと思う』


 そう答える。


 彩花は少しだけ笑った。


(九条君、この場面好きそう)


 根拠はない。


 でも、そう思った。


 ページの隅を折ることはせず、持っていた付箋を一枚貼ろうとして。


 止める。


「……勝手に貼らない方がいいか」


 自分の本ではない。


 代わりにスマートフォンのメモへページ数を残した。


 読み終わったら聞こう。


 この場面、好きだった?


 悠真が何と答えるのか。


 それを考えるだけで、続きを読む楽しみが一つ増えた。


     ◇


 水曜日の放課後。


 桜華学園の生徒会室前の廊下には、文化祭用の資材が一時的に積まれていた。


 悠真は段ボール箱を一つ抱え、倉庫へ運ぶ。


 戻ってくると、琴葉が廊下の向こうから歩いてきた。


「兄様」


「琴葉。どうしたの?」


「クラスの提出物を持ってきました」


「そこに置けばいいよ」


「はい」


 琴葉が書類を所定の箱へ入れる。


 そのあと、生徒会室前を見回した。


「彩花さん、ここも見たいんですよね?」


「うん」


「本当に廊下だけになりそうですけど」


「それでもいいって」


「兄様がいる場所だから?」


「そう言ってた」


 悠真の声がわずかに柔らかくなる。


 琴葉は兄を見る。


「嬉しいですね」


「嬉しいよ」


「最近、すぐ認めますね」


「認めたら駄目なの?」


「いいえ。むしろ前より分かりやすくて助かります」


「何が助かるんだよ」


「兄様が一人で延々考えなくなったので」


「そんなに考えてた?」


「かなり」


「……そうかな」


「かなりです」


 琴葉は断言した。


 悠真は少しだけ眉を寄せる。


 否定しようとして。


 やめた。


 たぶん妹の方が客観的に見ている。


「まあ、今はいいんだよ」


「何がです?」


「水瀬さんに会えたら嬉しいし、話したら楽しい。それで」


「はい」


「文化祭に来てくれるのも嬉しい」


「はい」


「だからちゃんと案内したい」


「はい」


「……何でそんな顔してるの?」


「いえ」


 琴葉は穏やかに笑っている。


「よかったなと思って」


「何が?」


「兄様が楽しそうなので」


 悠真は一瞬黙る。


 それから。


「琴葉も楽しみ?」


「もちろんです」


「水瀬さん来るの」


「はい。彩花さんと一緒に文化祭を回るの、楽しみです」


 兄妹は顔を見合わせる。


「じゃあ当日、時間合ったら一緒に」


「はい」


「玲奈にも伝えといて」


「分かりました」


 琴葉は廊下を戻っていく。


 悠真は生徒会室へ入る前に、一度振り返った。


 文化祭当日。


 ここへ彩花が来る。


 いつも自分が歩いている廊下を、彩花が歩く。


 それを想像すると、やはり少し嬉しかった。


     ◇


 木曜日の夜。


 彩花は冒険小説を読み終えた。


 最後のページを閉じる。


 すぐには動かなかった。


「……よかった」


 小さく呟く。


 面白かった。


 それだけではない。


 悠真がこの本を好きだということが、何となく分かる気がした。


 主人公は旅を通じて強くなる。


 でも、最後まで何でも一人でできる人にはならない。


 人に頼る。


 仲間を信じる。


 怖いときは怖いと言う。


 それでも、自分が選んだ道を進む。


(九条君、どこが一番好きなんだろ)


 聞きたいことがいくつもある。


 例のページ。


 好きな登場人物。


 最後の場面。


 小学生の頃と今で、好きなところが変わったのか。


 スマートフォンを手に取る。


『読み終わった。』


 送る。


 返事は数分後だった。


『本当に?』


『うん。』


『どうだった?』


 彩花はすぐには答えなかった。


 文章にしようとすると、長くなりそうだ。


『面白かった。』


 まずそれだけ送る。


 続けて。


『でも、メッセージで全部言うのもったいない。』


 既読。


『俺もそう思う。』


 彩花は目を瞬く。


『九条君も読み終わった?』


『今日読み終わった。』


『私の本?』


『うん。児童文学の方。』


 同じ日。


 ほとんど同じタイミングで、お互いの大切な本を読み終えた。


 偶然なのに少し嬉しい。


『話したいこといっぱいある。』


 悠真から届く。


 彩花は笑った。


『私も。』


『次会ったとき話す?』


『うん。』


 そこで一度指を止める。


 次に会う。


 いつだろう。


 図書館。


 学校帰り。


 偶然。


 どれでもいい。


 ただ、早く話したい。


『今週末、図書館行く?』


 彩花から送った。


 返事は早かった。


『行く。』


『じゃあそのとき。』


『うん。楽しみ。』


 彩花はスマートフォンを置く。


 机の上の冒険小説を見る。


「……私も楽しみ」


 今度は画面ではなく、声に出した。


     ◇


 金曜日。


 桜華学園の昼休み。


 悠真は生徒会室へ向かう途中、二年生の教室が並ぶ廊下で凛花と会った。


「あ」


「九条君」


「水瀬先輩」


 自然に呼ぶ。


 凛花が少しだけ笑った。


「何ですか?」


「いや。ちゃんと区別するんだなって」


「……土曜日のことですか?」


「そう」


「さすがに学びました」


「じゃあ彩花が隣にいても大丈夫?」


「水瀬先輩って呼べば」


「なるほど」


 凛花は納得したように頷く。


 それで会話が終わるかと思ったが。


「九条君」


「はい?」


「彩花から借りた本、読んだ?」


 悠真が少し驚く。


「知ってるんですか?」


「家で読んでるの見たから。彩花も九条君の読んでるよ」


「俺の方は昨日読み終わりました」


「早いね」


「面白かったので」


「そっか」


 凛花は悠真の表情を見る。


 穏やかだ。


 けれど本の話をしただけで、少し嬉しそうになる。


「彩花も楽しそうだったよ」


「本当ですか?」


 その一言への反応が早い。


 凛花は内心で少し笑う。


「うん。かなり集中して読んでた」


「……よかった」


「そんなに心配だった?」


「心配っていうか」


 悠真は少し考える。


「俺が好きな本だから、読んでもらえたら嬉しいとは思ってました。でも、水瀬さんが面白いと思うかは別なので」


「そこは分けるんだ」


「はい」


「彩花が面白いって言ったら?」


「昨日言ってくれました」


 悠真は少し笑った。


「嬉しかったです」


「そっか」


 凛花はそれだけ返す。


 そして歩き出そうとして。


 足を止めた。


「九条君」


「はい?」


「文化祭の日、私も少し合流すると思うから」


「聞きました」


「彩花から?」


「琴葉からです」


「情報回るの早いね」


「家族同士なので」


「それもそうか」


 凛花は一瞬だけ迷ったあと。


「そのとき、私のことは水瀬先輩でいいよ」


「はい」


「彩花は」


 悠真が見る。


 凛花はほんの少し口元を上げた。


「好きに呼べば?」


「……水瀬先輩」


「じゃ、またね」


「ちょっと待ってください」


 しかし凛花は片手を上げ、そのまま教室へ戻っていった。


 悠真だけが廊下へ残される。


「……好きにって」


 小さく呟く。


 困る。


 水瀬さんでいい。


 今までずっとそう呼んできた。


 本人も、今は九条君と呼ぶと言っている。


 急ぐ必要はない。


 ただ。


『嫌じゃないよ』


 彩花の言葉を思い出す。


(彩花さん)


 頭の中で呼ぶ。


 最近は以前より自然になった。


 名字より先に浮かぶことすらある。


 けれど直接声にするとなれば、話は別だ。


「……まだいいか」


 悠真は生徒会室へ向かった。


     ◇


 土曜日の午後。


 青凪市立中央図書館。


 彩花がいつもの窓際へ向かうと、今日は悠真が先に座っていた。


 机の上には、彩花から借りた児童文学が置かれている。


 生成りの布に紺色の糸。


 自分が教えながら悠真が作ったしおりが、途中のページに挟まっていた。


 彩花はそれを見て少し笑う。


「九条君」


 悠真が顔を上げる。


「水瀬さん」


「今日は負けた」


「競争だった?」


「今決めた」


 二人とも一瞬止まり。


 同時に笑った。


「またそれ」


「三回目?」


「たぶん」


 彩花は向かいへ座る。


 鞄から悠真の冒険小説を出した。


「読み終わった」


「俺も」


 悠真も児童文学を持ち上げる。


「じゃあ」


「話す?」


「うん」


 そこから。


 二人の会話は、なかなか止まらなかった。


 彩花が最初に聞いたのは、主人公が旅へ出る場面だった。


「九条君、ここ好き?」


「好き。何で分かった?」


「九条君っぽいと思った」


「どこが?」


「怖いけど、自分で見たいから行くところ」


 悠真は少し考える。


「俺、そんな感じ?」


「ちょっと」


「意外」


「そう?」


「もっと慎重だと思ってた」


「慎重だけど、決めたら行くでしょ」


「……水瀬さん、俺のこと結構見てるね」


「九条君に言われたくない」


 即座に返す。


 悠真が笑う。


「それもそうか」


「それで、九条君は?」


「何?」


「私の本。どこ好きだった?」


 悠真は児童文学を開く。


 しおりを挟んでいた場所とは違うページを探し、彩花の方へ向けた。


「ここ」


 彩花は覗き込む。


 物語の中盤。


 主人公が一人で丘へ登り、遠くの町を見る場面だった。


 あの挿絵の少しあと。


「ここ?」


「うん」


「何で?」


「主人公、ここで帰るか進むか迷うだろ」


「うん」


「結局その日は決めない」


「そうだね」


「前だったら、早く決めればいいのにって思ったかもしれない」


 彩花は目を瞬く。


 自分が二冊目の本について話したとき。


 似たことを言った。


『前は、早く決めればいいのにって思ってた』


 悠真は続ける。


「でも今は、決めない時間も必要なんだろうなって思った」


「……私もそこ好き」


「本当に?」


「うん。子どもの頃は、その次の冒険が始まるところの方が好きだったけど」


「今は?」


「迷ってるところも好き」


「一緒だ」


「一緒だね」


 二人で本を見る。


 同じ場面。


 同じ理由。


 完全に同じではないかもしれない。


 それでも、近い。


「九条君」


「うん?」


「貸してよかった?」


 悠真が尋ねるより先に、彩花が聞いた。


「すごく」


「本当?」


「うん。水瀬さんが好きな理由、少し分かった気がする」


「……そっか」


「水瀬さんは?」


「私も貸してもらってよかった」


「面白かった?」


「面白かった。それと」


 彩花は冒険小説の表紙へ手を置く。


「九条君が好きなの、ちょっと分かる気がした」


「俺が?」


「うん」


「どこで?」


「いろいろ」


「それ聞きたい」


「長くなるよ?」


「いいよ」


「図書館閉まるまで?」


「それは困るけど」


「じゃあ少しずつ」


「うん」


 少しずつ。


 本の話をするように。


 互いのことも。


 それでいい。


     ◇


 一時間ほど話したあと。


 二人は本を交換し直した。


 冒険小説は悠真へ。


 児童文学は彩花へ。


 そして今度は二冊目。


 古書店の小説と、少女が居場所を探す長編小説。


「次はこっちだね」


「うん」


 彩花は古書店の小説を鞄へ入れる。


 悠真も長編をしまう。


「また同じくらいに読み終わったりして」


「競争する?」


「しないよ」


「今度はしないんだ」


「急いで読む本じゃないと思うから」


「俺もそう思う」


 彩花は少し笑う。


「じゃあゆっくり」


「うん」


 そのあと二人はそれぞれ別の本を選び、しばらく普通に読書をした。


 午後四時を過ぎた頃。


 図書館を出る。


 今日はよく晴れていた。


 夕方の空は薄い橙色に変わり始めている。


「次に大きい予定って、桜華の文化祭かな」


 彩花が自転車を押しながら言った。


「そうだね」


「楽しみ」


「俺も」


「九条君、自分の学校なのに?」


「水瀬さんが来るから」


 あまりにも自然な返事だった。


 彩花は少しだけ悠真を見る。


「……本当にそれ言うようになったね」


「何?」


「私がいるから、とか。私が来るから、とか」


「駄目?」


「駄目じゃないよ」


 彩花は前を見る。


「嬉しい」


 悠真の足がほんの少し止まりかける。


「……そっか」


「うん」


「じゃあ言う」


「毎回じゃなくていいからね?」


「前にも言われた」


「覚えてた?」


「もちろん」


「だと思った」


 二人で笑う。


 駅へ向かう道と、彩花の家へ向かう道が分かれる場所まで来た。


「じゃあ、また」


 悠真が言う。


「うん。またね」


 彩花も返す。


「水瀬さん」


「何?」


 呼ばれて振り返る。


 悠真は何かを言おうとしていた。


 その表情を見た瞬間。


 彩花は、なぜか分かった。


(もしかして)


 名字ではない方。


 あの日。


 姉と一緒にいたとき、途中まで聞こえた呼び方。


 悠真は一瞬だけ迷う。


 けれど。


「……次の本も、感想楽しみにしてる」


 いつもの呼び方のまま続けた。


「うん。私も」


 彩花は答える。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 別の名前が聞こえると思っていた自分に気づいた。


 残念というほどではない。


 ただ。


(まだなんだ)


 そう思った。


 そして。


 その「まだ」に、自分が続きを期待していることにも気づく。


「じゃあね、九条君」


「うん。また」


 彩花は自転車へ跨がる。


 悠真も駅へ向かう。


 数歩進んだところで。


 今度は悠真が一度だけ振り返った。


 彩花はもう自転車を走らせ始めている。


 秋の夕方。


 長く伸びた影が、道路の上を動いていく。


(……まだ、か)


 悠真は心の中で同じことを思った。


 呼ぼうと思えば呼べる。


 嫌ではないことも知っている。


 それでも、今までずっと使ってきた呼び方を変えるには、ほんの少しだけ勇気がいる。


 だから今日は呼ばなかった。


 けれど。


 いつか呼びたいとは思った。


 水瀬さんではなく。


(彩花さん)


 その名前を、今度は途中で止めずに。


 悠真は少しだけ笑って、駅へ向かって歩き出した。

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