第44話 あなたに渡したかった本
机の上には、二冊の本が並んでいた。
一冊は、悠真が小学生の頃に祖父からもらった古い冒険小説。
もう一冊は、彩花が幼い頃から何度も読み返してきた児童文学。
どちらも新品ではない。角にはわずかな傷みがあり、ページにも長い時間を持ち主と一緒に過ごしてきた本特有の柔らかさがあった。
彩花は自分の前へ置かれた冒険小説をそっと撫でる。
「九条君、これ何回くらい読んだの?」
「分からない。小学生の頃はかなり読んだ」
「そんなに?」
「最初に読んだとき、寝る時間過ぎても読んでて怒られた」
「九条君が?」
彩花は思わず声を上げそうになり、慌てて小さくした。
「怒られることあるんだ」
「あるよ」
「なんか意外」
「水瀬さん、俺を何だと思ってるの」
「ちゃんとしてる人」
「ちゃんとはしてるつもりだけど、小学生の頃からずっと完璧だったわけじゃないよ」
「夜更かしして本読んで怒られてる九条君……」
「想像しなくていい」
「ちょっと見てみたい」
「今はもう見られないよ」
「残念」
彩花が笑う。
悠真は少し困ったような顔をしたあと、自分の前にある児童文学へ目を落とした。
「水瀬さんは?」
「私?」
「これ、最初に読んだのいつ?」
「たぶん小学校二年生くらい。最初は図書館で借りたの」
「買ったんじゃないんだ」
「うん。何回も借りたから、お父さんが誕生日に買ってくれた」
「じゃあ、それもかなり長いんだ」
「そうだね」
彩花は表紙を見る。
自分の本なのに、今は悠真の前に置かれている。
それだけで少し不思議だった。
「最初に読んだときと、今で好きなところが違うんだよ」
「図書室のカードにも書いてたね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
悠真は当然のように答える。
「『読むたびに、前とは違うところを好きになれるから』」
「……そこまでそのまま覚えてるの?」
「たぶん合ってる」
「合ってる」
彩花は少し驚きながら頷いた。
文化祭の日、図書室に貼られていた三十枚近いカードの中から、悠真は自分の字を見つけた。
そのうえ文章まで覚えている。
「九条君、本当に覚えてるね」
「水瀬さんが書いたやつだから」
「またそういうこと普通に言う」
「事実だし」
悠真は首を傾げる。
もう本人にとっては、それほど不思議なことではないらしい。
彩花の書いた文字だったから覚えている。
彩花の好きなものだから覚えている。
彩花が言ったことだから残っている。
それを説明するために、悠真がいちいち理由を探すことはなくなっていた。
彩花も以前ほど、そのたびに驚かなくなった。
ただ。
嬉しい。
その気持ちはまだ少しだけ照れくさかった。
「じゃあ、二冊目」
彩花が紙袋へ手を入れる。
「今度はどっちから出す?」
「水瀬さんから」
「さっきも私から見たいって言ったよね」
「見たいから」
「九条君のも見たいんだけど」
「じゃあ俺から?」
「……同時でいいんじゃない?」
「結局?」
「一回やったし」
「子どもみたいって言ったのに」
「九条君、結構しつこいね」
「水瀬さんが言ったことだから覚えてる」
「そういう使い方しなくていいから」
声を抑えながら二人で笑う。
周囲の閲覧席では学生が参考書を開き、少し離れた新聞閲覧コーナーでは年配の男性がページをめくっている。窓の外では薄い雲がゆっくりと流れ、午後の柔らかな光が机の端まで伸びていた。
二人は紙袋へ手を入れた。
「今度は『せーの』なしね」
「分かった」
ほとんど同時に本を取り出す。
彩花が選んだのは、一人の少女が自分の居場所を探していく長編小説。
悠真が選んだのは、小さな町の古書店を舞台にした物語だった。
「……古書店?」
彩花の視線がすぐに悠真の本へ向いた。
「うん」
「絶対好きそう」
「水瀬さんが?」
「私が」
「だから選んだところもある」
「やっぱり?」
「でも、それだけじゃないよ」
悠真は本を彩花へ差し出した。
「読んだあと、水瀬さんと話したいと思ったから」
彩花は両手で受け取る。
表紙には、小さな古書店の店先が描かれている。
古びた木の扉。
店頭へ並べられた本。
夕暮れの道。
「どんな話?」
「本が人から人へ渡っていく話、かな」
「本が?」
「一冊ごとに持ってた人が違って、その人たちの話が少しずつつながっていく。大きな事件が起きるわけじゃないけど」
「へえ……」
「最初に読んだときは、本にまつわる小さな謎が面白かった。でも読み返したら、古書店の人と常連の会話の方が好きになった」
彩花が顔を上げる。
「九条君も変わるんだ」
「何が?」
「読むたびに好きなところ」
「ああ」
悠真は笑った。
「だから水瀬さんのカード読んだとき、分かるなって思った」
「そうだったんだ」
「うん」
文化祭の日には聞かなかった話だった。
同じ言葉を読んでも、その場ではまだ出てこなかったこと。
あとから知ることがある。
悠真について、自分はかなり知っていると思うようになった。
それでも、まだ知らないことはいくらでもある。
(だから知りたいのかな)
彩花は表紙へ視線を戻した。
「これ、九条君が私に読んでほしいと思った本なんだよね」
「うん」
「一番好きな本とは違うのに?」
「違うから選んだ」
「どういうこと?」
悠真は少し考えた。
「一番好きな本は、俺が好きだから読んでほしい」
「うん」
「こっちは、水瀬さんと話したいから読んでほしい」
彩花は瞬きをした。
「違う?」
「俺の中では」
「……分かる気がする」
彩花は自分が持ってきた二冊を見る。
まさに同じだった。
児童文学は、自分が大切にしてきたから悠真に渡したかった。
もう一冊は。
「私もそうかも」
彩花は長編小説を手に取った。
「こっちは、九条君に読んでほしいから選んだ」
悠真の視線が本へ移る。
「どんな話?」
「自分の居場所を探す女の子の話」
「居場所?」
「うん。周りに合わせるのがすごく上手なの。誰かがこれがいいって言えば、それがいいって言えるし、みんなが楽しいなら自分も楽しいって思える子」
話しながら、彩花は表紙を指先で撫でる。
「でも途中で、自分が本当に好きなものとか、どこにいたいのか分からなくなっちゃう」
「それで探す?」
「うん」
「最後は?」
「それは言わない」
「そこは秘密?」
「読んでほしいから」
「分かった」
悠真は素直に引いた。
彩花は少し迷ってから、続ける。
「これ、最初に読んだの中学生の頃なんだけど」
「うん」
「その頃は最後の方が好きだったの。主人公がちゃんと自分で決めるところ」
「今は違う?」
「今は途中も好き」
「迷ってるところ?」
「そう」
彩花は窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から差した光が、図書館前の木々を照らしている。
「前は、早く決めればいいのにって思ってた。でも今読むと、そんな簡単に決められないよねって思うから」
悠真は何も挟まずに聞いていた。
「人に合わせてた時間が長かったら、急に『自分はどうしたい?』って聞かれても分からないし。分からないまま考えてる時間も、必要だったんだなって」
「……うん」
「だから、九条君がどう読むのか知りたい」
彩花は彼を見る。
「私と全然違うかもしれないけど」
「違っても話したい」
「うん。私も」
悠真は本を受け取った。
表紙を眺める。
「大事に読む」
「ありがとう」
「こっちは何回くらい読んだ?」
「三回かな」
「じゃあ水瀬さんの書き込みとかある?」
「ないよ。本にはあんまり書かないから」
「そっか」
「何で?」
「水瀬さんがどこで何考えたか分かったら面白いかなって」
「それは恥ずかしい」
「じゃあなくてよかった」
「もし書いてあったら貸さなかったかも」
「それは困る」
「そんなに?」
「読みたいから」
また迷いがない。
彩花は少しだけ笑った。
「じゃあ貸してよかった」
◇
二冊ずつの交換を終えると、机の上には持ち主の入れ替わった四冊が並んだ。
彩花の前には悠真の二冊。
悠真の前には彩花の二冊。
不思議な光景だった。
「どっちから読む?」
悠真が尋ねる。
「迷ってる」
「俺は決めた」
「どっち?」
「こっち」
悠真が児童文学へ手を置く。
「一番大事な方から?」
「うん」
「何で?」
「水瀬さんが何回も読んだ本を、先に読みたい」
彩花は自分の前にある古い冒険小説を見る。
「じゃあ私もこっちからにしようかな」
「合わせる?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、大事な方から」
二人で決める。
それだけなのに、少し楽しい。
悠真は児童文学を開きかけて、手を止めた。
「ここで読む?」
「今?」
「少しだけ」
「九条君、私が目の前にいても読めるの?」
「本なら」
「この前、私の短編読むときは隣にいると気になるって言ってなかった?」
「それは水瀬さんが書いたものだったから」
「これは?」
「水瀬さんが書いたものじゃない」
「でも私が大事にしてる本だよ?」
「……それ言われるとちょっと気になる」
「ほら」
彩花は笑った。
「じゃあ別々に読む?」
「それも変じゃない?」
「図書館では普通だよ」
「そうだけど」
「いつもやってるじゃん」
「確かに」
結局、二人はそれぞれ借りた本を開いた。
同じ机。
向かい合わせ。
彩花は悠真の冒険小説。
悠真は彩花の児童文学。
最初の数ページ。
紙の擦れる小さな音だけが二人の間を行き来する。
彩花は文章を追いながら、ときどき本そのものへ意識が向いた。
悠真が何度も読んだ本。
幼い頃。
夜更かしして怒られながら。
きっと今より小さな手で、このページをめくった。
(九条君にも、そういう頃があったんだよね)
当たり前のことなのに、少し新鮮だった。
自分が知っている悠真は高校一年生の彼だけだ。
図書館で出会った九条悠真。
桜華学園の生徒。
琴葉の兄。
生徒会役員。
九条家の御曹司。
そして。
自分のことをよく見てくれる友達。
その前にも、悠真には長い時間がある。
この本は、その一部を知っている。
そう思うと、いつもの読書とは違う感覚があった。
「水瀬さん」
小さな声。
彩花が顔を上げる。
「何?」
「これ」
悠真が開いたページを指す。
「この挿絵、好きだった?」
彩花は身を少し乗り出した。
「あ、それ好き」
「やっぱり?」
「なんで分かったの?」
「ここだけページが開きやすい」
「……そんなので分かる?」
「何回も開いてたのかなって」
「たぶん開いてた」
そこには、主人公が夜の丘で一人、遠くの町明かりを眺めている挿絵がある。
「子どもの頃、この絵すごく好きだった」
「何で?」
「きれいだったから。あと、ちょっと寂しい感じがして」
「今も好き?」
「好き。でも今は、この次のページの方が好きかも」
「まだ見ない方がいい?」
「読んでから」
「分かった」
悠真はすぐページへ戻る。
先を聞き出そうとしない。
彩花はそんな彼を少しだけ見てから、自分も本へ戻った。
数分。
十分。
二人とも黙って読む。
けれど完全に一人で読んでいるときとは違う。
ページをめくる音が聞こえる。
相手が少し姿勢を変えれば分かる。
時折、顔を上げると向かいにいる。
それが不思議と落ち着いた。
◇
三十分ほど経った頃。
彩花は区切りのいいところでしおりを挟んだ。
自分のものではなく、予備として持ってきていた紙製のしおりだ。
顔を上げると、悠真はまだ読んでいる。
かなり集中しているらしい。
彩花は声をかけず、少しだけその姿を見た。
長い指でページの端を押さえている。
視線は文章を追ったまま。
ときどき、ほんのわずかに眉が動く。
(九条君、読むときこんな顔するんだ)
今まで何度も一緒に図書館で本を読んでいる。
なのに今日は、彼が読んでいる本が自分の大切な一冊だから、いつもより気になった。
どこを読んでいるのか。
何を思っているのか。
面白いと思っているのか。
気になる。
じっと見すぎたのか。
悠真が顔を上げた。
「……水瀬さん?」
「うん」
「どうしたの?」
「見てた」
「何で?」
「私の本読んでるから」
彩花はもう誤魔化さなかった。
「どんな顔で読むのかなって気になった」
悠真が少し黙る。
「……そういうこと普通に言うようになったね」
「九条君に言われたくない」
「俺?」
「九条君の方が言うよ」
「そうかな」
「言う」
彩花は断言した。
「水瀬さんだから、とか。見たい、とか。知りたい、とか」
「ああ」
「自覚なかった?」
「ある」
「あるんだ」
「最近は」
悠真は本を閉じないまま、指をページの間へ挟んだ。
「水瀬さんのことなら知りたいから、別に隠さなくていいかなって」
「……そう」
「嫌なら言わないけど」
「嫌じゃない」
彩花は答えた。
以前より、その返事も早くなった。
「だから私も、気になるなら言っていいかなって」
「俺のこと?」
「うん」
悠真の目が少しだけ大きくなる。
「九条君が何好きなのかとか、学校で何してるのかとか、この本のどこが好きなのかとか」
「……うん」
「知りたい」
彩花はそこまで言ってから、急に自分の言葉の重さへ気づいた。
頬が熱くなる。
「友達だからね」
付け足した。
けれど、言った直後。
何か違う気がした。
言い訳のように聞こえたからではない。
友達なのは本当だ。
ただ。
それだけを理由にしなくてもよかった気がした。
悠真は否定もしなければ、深く意味を尋ねもしなかった。
「うん」
穏やかに頷く。
「俺も知りたい」
「……私のこと?」
「水瀬さんのこと」
その答えで十分だった。
◇
そのあと二人は読書をいったん止め、少し休憩することにした。
館内の飲食可能な休憩スペースへ移動する。
自動販売機で彩花は温かいミルクティー、悠真はコーヒーを買った。
「もう温かいの飲む季節だね」
「朝とか結構寒くなってきた」
「九条君、冬も図書館来る?」
「来るよ」
「雪の日でも?」
「電車動いてたら」
「そこまで?」
「水瀬さんは?」
「自転車無理なら歩くかも」
「危ない日は来なくていいよ」
「九条君もね」
「分かった」
「今ちょっと信用してない」
「してるよ」
「本当に?」
「雪の日に水瀬さんが来るかもしれないから行く、とは言わない」
「……今考えた?」
「少し」
「言ってるのと同じじゃん」
彩花が呆れる。
悠真は笑いながらコーヒーを一口飲んだ。
休憩スペースの大きな窓の向こうでは、雲が少し厚くなっている。道路沿いの街路樹はまだ緑を多く残しているが、葉の端には黄色が混じり始めていた。
「そうだ」
悠真がカップを置く。
「文化祭のとき」
「桜華の?」
「うん。図書室以外に見たいところある?」
「生徒会室」
「それは聞いた」
「教室も見たい」
「俺の?」
「うん」
「普通だよ」
言ったあと、悠真が自分で笑った。
「これ、水瀬さんに言われたやつだ」
「何が?」
「青葉のとき、水瀬さんが『普通だよ』って言ってた」
「ああ」
彩花も思い出した。
「九条君、そのとき普通のところが見たいって言ったよね」
「言った」
「じゃあ私も同じ」
「俺が普段いるところだから?」
「うん」
彩花はミルクティーのカップを両手で包む。
「教室とか廊下とか。九条君が毎日見てるところ」
「……分かった」
「何?」
「いや」
悠真は少し嬉しそうに目を伏せた。
「やっぱり案内できる時間あってよかったなって」
「そんなに?」
「水瀬さんが見たいって言ってるから」
「図書室だけでも満足するかもしれないよ?」
「それは困る」
「なんで?」
「俺のところも見てほしい」
彩花はミルクティーを飲もうとしていた手を止めた。
「……生徒会室?」
「教室も。普段いるところ」
「見たいよ」
「ならよかった」
悠真は満足そうにコーヒーへ口をつける。
彩花はその横顔を見ながら思う。
(九条君も、見てほしいんだ)
自分が青葉を見てもらえて嬉しかったように。
悠真も同じなのかもしれない。
相手が普段どんな場所で、どんなふうに過ごしているのか。
図書館だけでは見えないところ。
それを少しずつ知っていく。
彩花は桜華文化祭が前より楽しみになった。
◇
休憩を終えて閲覧席へ戻る途中、二人は書架の間を通った。
彩花がふと足を止める。
「あ」
「何?」
「これ」
棚から一冊抜く。
以前読んだことのある短編集だった。
「この作家さん、九条君読んだ?」
「それはまだ」
「面白いよ」
「どんな感じ?」
「日常系。大きな事件はないけど、人の会話がすごく好き」
「じゃあ今度読もうかな」
「貸そうか? 家にあるよ」
「また増える」
「嫌?」
「嬉しい」
「読む本いっぱいになるよ」
「水瀬さんが好きな本なら読みたい」
「全部読もうとしなくていいからね?」
「全部とは言ってない」
「でも九条君ならやりそう」
「さすがに水瀬さんの本棚全部は無理だと思う」
「私の本棚、九条君の家ほどじゃないよ」
「じゃあいける?」
「やめて」
二人で笑う。
彩花は本を棚へ戻した。
そのとき、少し離れたところから小さな声がした。
「お姉ちゃん、これ取って」
小学校低学年くらいの男の子が、高い棚を指差している。
隣にいた姉らしい女の子も手を伸ばしているが届かない。
悠真が先に気づいた。
「どれ?」
声をかけると、二人が少し驚いて振り向く。
「あれ」
男の子が指した本を悠真が取る。
「これ?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
本を渡す。
姉弟は小さく頭を下げて児童書コーナーへ戻っていった。
彩花はその様子を見ていた。
「九条君って、やっぱりそういうのすぐ気づくよね」
「何が?」
「困ってる人」
「近くにいたから」
「前も私の本取ってくれた」
「……最初に会ったとき?」
「うん」
彩花は笑う。
「同じだったね」
高い棚。
届かない本。
手を伸ばした自分。
横から伸びてきた悠真の手。
そこから始まった。
「そういえばそうだね」
「九条君、あのとき何考えてた?」
「最初?」
「うん」
悠真は少し考える。
「本届いてないなって」
「それだけ?」
「最初は」
「最初は?」
「取ったあと、笑った水瀬さん見て」
悠真が言葉を止める。
彩花が待つ。
「……可愛いなって思った」
彩花の目が大きくなった。
「え」
「前にも言ったけど」
「言ったけど……」
確かに。
以前、悠真から「水瀬さん、可愛いから」と言われたことがある。
でも。
あれが最初の日からだったとは聞いていない。
「最初から?」
「うん」
「会ったばっかりだよ?」
「だから別に、何か知ってたわけじゃないよ。笑った顔見てそう思っただけ」
「……そうなんだ」
彩花は書架へ顔を向けた。
急に背表紙がよく見える。
というより、悠真を見られない。
「言わない方がよかった?」
「今さら聞いたの私だから」
「うん」
「でも、ちょっとびっくりした」
「ごめん」
「謝らなくていい」
彩花は一度息を吐いた。
それから悠真を見る。
「私はね」
「うん」
「最初、親切な人だなって思った」
「それだけ?」
「それだけ」
「そっか」
「あと、背高いなって」
「そこ?」
「本取ってもらったから」
「なるほど」
「それから、また会った」
「うん」
「また会って、名前知って、学校知って、本の話するようになって」
彩花は少し笑う。
「今は、いっぱい知ってる」
悠真が黙った。
「九条君が妹思いなのも、家族大事にしてるのも、生徒会やってるのも、裁縫が最初すごく苦手だったのも」
「そこ入れる?」
「大事でしょ」
「できるようになったのに」
「知ってる。しおり使ってるもんね」
「使ってる」
「あと、私の言ったこと変なくらい覚えてる」
「変は余計」
「でも本当」
彩花は笑った。
「最初は何も知らなかったのにね」
「水瀬さんのことも、いっぱい知ったよ」
「うん」
「まだ知らないこともあるけど」
「私も」
それでいい。
全部を一度に知る必要はない。
会うたび。
話すたび。
一つずつ増えていく。
その方が、今の二人には合っている気がした。
◇
午後四時半。
二人は図書館を出た。
外へ出ると、昼より雲が増えていた。風も少し冷たくなっており、彩花はカーディガンの袖口を指先まで引いた。
「寒い?」
「ちょっと」
「もう秋だね」
「九条君、さっきもそんなこと言ってた」
「水瀬さんが言ったんだよ」
「あれ?」
「温かいの飲む季節だねって」
「……本当に覚えてる」
「一時間くらい前だから」
「それは普通か」
二人で笑う。
彩花は自転車の籠へ、悠真から借りた二冊を入れようとして。
手を止めた。
「どうしたの?」
「籠に入れるのちょっと怖い」
「何で?」
「これ」
古い冒険小説を見せる。
「九条君の大事な本だから。揺れるでしょ」
「鞄に入らない?」
「入るけど、曲がったら嫌だなって」
悠真は少し考え、自分の書店袋から厚手の紙袋を一枚取り出した。
「これ使う?」
「いいの?」
「うん。本買ったとき二重になってたから」
彩花は受け取り、冒険小説を児童文学用に持ってきていた布製ブックカバーへ一度包んでから、二冊を紙袋へ入れた。
「そこまでしなくても大丈夫だよ」
「大事な本なんでしょ?」
「大事だけど」
「じゃあ大事にする」
彩花は当然のように言った。
悠真はその様子を見て、少しだけ目を細める。
「貸してよかった」
「まだ読んでもないよ」
「もうよかった」
「早い」
「水瀬さんに渡せたから」
彩花は紙袋を鞄の中へ慎重に収めた。
ファスナーを閉める。
「私も」
「何が?」
「九条君に渡せてよかった」
悠真が自分の鞄を見る。
中には彩花から借りた二冊が入っている。
「読むね」
「うん」
「今日から」
「早いね」
「水瀬さんも読むだろ?」
「読む」
「じゃあお互い様」
「それ、最近よく使うね」
「便利だから」
「便利で使う言葉じゃないでしょ」
二人は駐輪場から出た。
いつもの分かれ道。
ここで彩花は自転車へ乗り、悠真は駅へ向かう。
「じゃあ、またね」
彩花が言う。
「うん。また」
悠真も返す。
そして。
「水瀬さん」
「何?」
振り返る。
悠真は何かを言いかけて。
少しだけ迷った。
「……読み終わるまで、感想送らなくてもいいから」
「え?」
「途中で話したくなったら送ってもいいけど、水瀬さんのペースで読んで」
彩花は目を瞬く。
「九条君もね」
「うん」
「早く読まなきゃって思わなくていいから」
「分かった」
「じゃあ今度こそ、またね」
「またね」
彩花は自転車へ跨がった。
少し走ってから、信号で止まる。
鞄の中には二冊の本。
悠真が一番好きな本。
自分に読んでほしいと思って選んだ本。
同じ「貸す」でも意味は違う。
自分が渡した二冊も、同じだった。
(今日から読もう)
信号が青になる。
彩花はペダルを踏み込んだ。
◇
その夜。
自室の机で、彩花は悠真から借りた冒険小説を開いていた。
夕食も入浴も宿題も終えている。
時計は午後九時半。
「少しだけ」
そう言って読み始めたはずだった。
気づけば四十分が過ぎている。
「……面白い」
主人公はまだ旅へ出たばかりだ。
それでも先が気になる。
何より。
読むたびに、ときどき考えてしまう。
(九条君、ここ好きだったのかな)
小学生の悠真は、どんな気持ちで読んだのだろう。
今の悠真なら、どこを好きだと言うのだろう。
ページをめくる。
途中、古い紙のしおりが一枚挟まっていた。
「……ん?」
彩花は手を止める。
無地に近い、小さな紙片。
表には何も書かれていない。
裏返す。
鉛筆で、小さな文字があった。
『ここから一気に面白くなる』
彩花は瞬きをした。
「これ……」
字は今の悠真より少し幼い。
けれど。
何となく分かる。
文化祭の日。
悠真は三十枚近いカードから自分の字を見つけた。
そして約束した。
今度は彩花が、悠真の字を当てられるか。
(もしかして)
スマートフォンへ手を伸ばす。
でも。
すぐには送らなかった。
紙片を見る。
少し丸い文字。
今より力の入った筆跡。
それでも、数字の書き方や「面」の払い方に、以前見た悠真の文字と似たところがある気がする。
(九条君の字だ)
なぜか、そう思った。
確信に近かった。
彩花は紙片を本へ戻す前に、位置を忘れないようページ数を確認した。
それからスマートフォンを開く。
『九条君。』
送信。
少しして。
『どうした?』
彩花は紙片の写真を撮ろうとして、やめた。
写真を送ったら簡単すぎる。
『本の中に、紙が挟まってた。』
返事が少し遅れる。
『紙?』
『「ここから一気に面白くなる」って書いてある。』
今度はさらに少し間が空いた。
『……あ。』
彩花は笑う。
『心当たりある?』
『たぶん。』
『これ、九条君が書いた?』
送ってから、画面を見る。
既読。
すぐには返らない。
やがて。
『水瀬さんはどう思う?』
「……そう来るんだ」
彩花は声に出して笑った。
約束を覚えている。
なら。
自分も答えたい。
紙片をもう一度見る。
今の字とは少し違う。
それでも。
『九条君の字だと思う。』
送る。
既読。
十秒ほどして。
『正解。』
彩花の顔がほころんだ。
『やった。』
『よく分かったね。小学生のときの字なのに。』
『なんとなく。』
『それで分かるのすごくない?』
文化祭の日。
自分が似たようなことを思った。
三十枚近いカードの中から見つけられて。
どうして分かったのか聞いたら、悠真は「水瀬さんの字っぽかった」と言った。
今なら少し分かる。
何度か見た字。
書き方。
癖。
それだけではない。
その人のものだと思って見るから、気づけることもあるのかもしれない。
『九条君が私の字当てたときの気持ち、ちょっと分かったかも。』
送る。
返事が来る。
『どんな?』
彩花は考えた。
そして。
『九条君のだったら分かる気がした。』
送信。
その直後。
少し恥ずかしくなった。
取り消したくなるほどではない。
ただ、布団へ顔を埋めたい程度には恥ずかしい。
一方。
悠真からの返事は、なかなか来なかった。
一分。
二分。
「……何してるんだろ」
ようやく画面が震える。
『それ、かなり嬉しい。』
彩花は画面を見つめた。
そして笑う。
『じゃあお互い当てられたね。』
『うん。』
『引き分け?』
『勝負だった?』
『今決めた。』
彩花は目を瞬く。
土曜日。
図書館で自分が先に着いたとき、悠真が言った。
『負けた』
『競争だったの?』
『今決めた』
まったく同じだった。
『それ私たち、この前もやった。』
『覚えてる。』
『やっぱり覚えてたんだ。』
『水瀬さんが言ったことだから。』
また。
彩花は小さく笑う。
『そういうところ、本当に九条君だね。』
送る。
『どういう意味?』
『そのまま。』
『分からない。』
『分からなくていいよ。』
彩花はスマートフォンを置いた。
冒険小説をもう一度開く。
紙片のあったページ。
『ここから一気に面白くなる』
小学生の悠真が残した文字。
本人すら挟まっていることを忘れていた、小さな過去。
それを自分が見つけた。
文化祭の日に悠真が自分の字を見つけてくれたように。
今度は自分が、悠真の字を見つけた。
彩花は紙片を元の場所へ丁寧に戻す。
「……九条君のだったら、分かる気がした、か」
自分で送った言葉を思い出し、また少し頬が熱くなる。
それでも訂正する必要はなかった。
本当だったから。
彩花は次のページをめくる。
小学生の悠真が「ここから」と残した場所から。
今度は自分が、その物語の続きを読んでいった。




