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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第43話 いつもの呼び方が、少しだけ



 月曜日の朝。


 彩花は青葉高校の昇降口で上履きへ履き替えながら、隣を通った女子生徒に名前を呼ばれた。


「彩花、おはよう」


「おはよう」


 同じクラスの友人へ返事をして、そのまま一緒に階段を上る。


 ただそれだけのことだった。


 学校では珍しくもない。


 中学から知っている友人もいるし、クラスでも名字ではなく名前で呼んでくる女子はいる。家へ帰れば両親も姉も当然のように彩花と呼ぶ。


 だから本来なら、意識するようなことではない。


「水瀬、おはよー」


 教室へ入ると、今度は大地が自分の席から手を上げた。


「おはよう」


 こちらもいつもどおり。


 鞄を机の横へ掛け、教科書を取り出す。


 その間に別の友人から「彩花」と呼ばれ、担任が来れば「水瀬」と呼ばれる。


 どちらも自分の名前だ。


 なのに。


(九条君が呼んだら、全然違うんだろうな)


 ふいに浮かんだ考えに、彩花は数学の教科書を持ったまま動きを止めた。


「水瀬?」


「え?」


「数学、一時間目じゃないぞ」


 大地に言われて黒板の時間割を見る。


 一時間目は現代文。


「……間違えた」


「珍し」


「ちょっと考え事してた」


「文化祭終わって気が抜けた?」


「そういうんじゃない」


 彩花は数学の教科書を戻し、現代文を取り出した。


 大地はそれ以上追及せず、前の席の男子との会話へ戻る。


 助かった。


 何を考えていたのか聞かれても説明できない。


 土曜日。


 偶然会った悠真と凛花。


 二人とも名字が水瀬だから、悠真が「水瀬さん」と呼んだ瞬間、姉妹そろって返事をした。


 そのとき悠真が言いかけた。


『彩――』


 あとから本人も認めた。


『彩花って言おうとした』


 さらに。


『頭の中では、たまにそう呼んでるから』


 思い出すと、今でも少し頬が熱くなる。


(頭の中で呼んでるだけなのに)


 直接呼ばれたわけではない。


 自分だって同じだ。


 悠真本人へ「悠真君」と呼びかけたことはない。


 けれど頭の中では、以前より自然にその名前が浮かぶようになった。


 だからといって、今日から呼び方を変えようとは思わない。


 まだ「九条君」が一番自然だ。


 図書館で出会ったときから、ずっとそう呼んできた。


 今ではその四文字に、最初の頃とは比べものにならないほど多くの記憶がついている。


「九条君」であることが遠いとは思わない。


 ただ。


 その向こうに「悠真君」という呼び方もあると知ってしまった。


 それだけだった。


     ◇


 同じ朝。


 桜華学園の教室では、悠真が自分の名前を何度も聞いていた。


「九条、このプリント後ろ回して」


「うん」


「悠真、今日生徒会?」


「放課後ある」


「九条君、英語の課題ってここまでだっけ?」


「次のページまで」


「九条、先生呼んでる」


「分かった」


 名字。


 名前。


 名字。


 名字。


 普段なら気にも留めない。


 相手によって呼ばれ方が違うのは普通のことだ。


 内部進学組には小学校の頃から「悠真」と呼ぶ友人もいるし、高等部から関わりが増えた生徒は「九条」が多い。


 それなのに今日は、「悠真」と呼ばれるたびに土曜日の会話が頭へ浮かぶ。


『たまに、悠真君って、思ったことはある』


「……」


「九条?」


 湊に呼ばれ、悠真は顔を上げた。


「何?」


「何じゃない。消しゴム落ちたぞ」


「あ」


 机の下を見る。


 確かに落ちている。


 拾い上げると、湊が妙な顔をした。


「珍しいな」


「何が?」


「お前がぼーっとしてんの」


「考え事」


「生徒会?」


「違う」


「家?」


「違う」


「じゃあ本?」


「ちょっと近い」


「何だそれ」


 湊は首を傾げたものの、そこで担任が入ってきたため会話は終わった。


 悠真は黒板へ目を向ける。


(悠真君、か)


 彩花がそう呼ぶところを想像したことは、もうある。


 以前なら、それだけで妙に落ち着かなくなった。


 今も嬉しいことに変わりはない。


 けれど、急いで聞きたいとは思わなかった。


 彩花自身が「今は九条君」と言った。


 なら、それでいい。


 何より。


(嫌じゃないって言ってくれたし)


 自分が彩花と呼ぶことを。


 その事実の方が、今は大きかった。


     ◇


 昼休み。


 彩花は教室で弁当を食べたあと、文芸部へ向かった。


 正式な活動時間ではないが、佐々木先輩から「文化祭の部誌を少し整理したい」と言われていたためだ。


 部室へ入ると、窓際の机に数冊の部誌と余った展示用カードが積まれていた。


「水瀬さん、ありがとう」


「これ片づければいいんですか?」


「うん。部誌は十冊残して、あとは倉庫。感想カードの予備は次でも使えるから箱に入れといて」


「分かりました」


 二人で作業を始める。


 文化祭が終わってからまだそれほど経っていないのに、部室はすっかりいつもの姿へ戻っていた。


 壁には新しい部員募集の紙もなければ、特別な飾りもない。


 机。


 椅子。


 本棚。


 窓際に置かれた観葉植物。


 静かな部室。


 彩花はこの空気が好きだった。


「そういえば」


 佐々木先輩が部誌を数えながら口を開く。


「水瀬さん、次の話もう考えてる?」


「まだ全然です」


「前に書きたいって言ってたから」


「書きたい気持ちはあります。でも、何を書くかはまだ」


「急がなくていいよ。書きたいもの見つかるまで本読んでてもいいし」


「はい」


「恋愛ものでも書けば?」


「え?」


 手にしていたカードの束がずれた。


 佐々木先輩が笑う。


「そんな驚く?」


「急だったので」


「この前の話も、人間関係が少しずつ変わっていく感じだったでしょ。ああいうの得意そうだなと思って」


「恋愛じゃなかったですよ」


「分かってる。でも、書こうと思えば書けそう」


「どうでしょう……」


 彩花はカードを箱へ入れた。


 恋愛小説。


 読むのは嫌いではない。


 むしろ好きな作品もある。


 ただ、自分で書くとなると難しそうだ。


「経験ないので」


「恋愛経験?」


「……はい」


「小説家が殺人事件経験してからミステリー書いてるわけじゃないよ」


「それと一緒にします?」


「極端な例だけど」


 佐々木先輩は楽しそうに笑った。


「まあ、無理に恋愛にしなくていいよ。水瀬さんが書きたいもの書けば」


「そうします」


「ただ、今の水瀬さんなら前とは違うもの書けそうだなって思っただけ」


「前と?」


「文化祭前より、ちょっと楽しそうだから」


 彩花は目を瞬いた。


「私が?」


「うん」


「そんなに変わりました?」


「そんなには。でも少し」


 佐々木先輩は残した部誌を棚へ並べる。


「何かあった?」


「何か……」


 彩花は考える。


 文化祭。


 作品。


 感想カード。


 家族。


 友達。


 悠真。


 一つだけを選ぶことはできない。


「いろいろありました」


「なら、それでいいんじゃない?」


「はい」


 佐々木先輩はそれ以上聞かなかった。


 彩花も作業へ戻る。


 ただ、頭の片隅に「前とは違うもの」という言葉が残った。


(次、何書こうかな)


 まだ白紙。


 だからこそ、少し楽しみだった。


     ◇


 放課後。


 桜華学園の生徒会室では、文化祭の担当表が仮決定していた。


 悠真は配られた紙を上から確認する。


 午前。


 受付補助。


 巡回。


 休憩。


 午後。


 ステージ周辺確認。


 生徒会室待機。


 そして昼前後に、一時間半ほどまとまった空きがある。


「九条、そこ休憩長いけど大丈夫?」


 副会長の先輩が尋ねる。


「はい」


「午前の受付を長めに入ってもらう分、そこ空けてある。昼食もその時間で」


「分かりました」


「何か予定あるなら使っていいぞ。文化祭の日くらい生徒会役員も自分のクラス見ないと」


「ありがとうございます」


 悠真は担当表へ視線を落とす。


 一時間半。


 全部を彩花との案内に使うつもりはない。


 昼食も必要だ。


 クラスにも顔を出したい。


 琴葉や玲奈もいる。


 それでも。


(案内できるな)


 自然にそう考えた。


「九条」


「はい?」


「またちょっと嬉しそうだけど」


「そうですか?」


「文化祭好きだったっけ?」


「今年は楽しみです」


「へえ。珍しい」


「去年も普通に楽しみでしたよ」


「普通には、な」


 先輩は笑って次の資料へ移った。


 悠真は担当表をファイルへ挟む。


 放課後になったら彩花へ連絡しよう。


 一般公開の日程だけでなく、自分の空き時間も分かった。


 まだ当日の細かい集合場所などは決めなくていい。


 ただ。


 案内できそうだと伝えたい。


     ◇


 生徒会が終わったのは午後五時を少し過ぎた頃だった。


 悠真は校舎を出る前にスマートフォンを確認する。


 彩花からの新しいメッセージはない。


 先に送る。


『文化祭の日、昼前後なら少し案内できそう。』


 校門へ向かいながら待つ。


 数分後。


『本当に?』


『うん。今日担当決まった。』


『仕事変えてもらったりしてない?』


 悠真は歩きながら少し笑った。


 彩花らしい。


 自分のために無理をさせていないか、先に確認する。


『してない。元からそこが休憩。』


『ならよかった。』


『図書室も見られると思う。』


『行きたい。』


 返事が早い。


 悠真の口元が緩む。


『やっぱりそこなんだ。』


『だって図書室だよ?』


『知ってる。』


『桜華の図書室、一回見てみたかった。』


『じゃあ最初に行く?』


 送ったあと、少し考える。


 最初。


 つまり会ってから最初に案内する場所。


 まだ集合時間も場所も決まっていない。


 気が早い。


 だが彩花からは。


『うん。』


 と返ってきた。


 続けて。


『でも九条君が普段いるところも見たい。』


 悠真の足が止まった。


 校門を出たところだった。


 後ろから歩いてきた生徒が横を通り過ぎる。


 悠真は画面を見る。


『生徒会室?』


『入れるなら。無理なら前だけでも。』


『たぶん中は難しいけど、前なら大丈夫。』


『じゃあ見たい。』


 悠真はしばらく返事を打たなかった。


 図書室へ行きたい。


 それは彩花らしい。


 けれど。


 生徒会室を見たい理由は、自分がそこにいるからだ。


(……やっぱり嬉しいな)


 最近、彩花に関することで「嬉しい」と思う回数が増えている。


 それをいちいち疑うことはもうない。


 嬉しいものは嬉しい。


『分かった。案内する。』


『ありがとう。楽しみにしてる。』


 悠真はそのメッセージを見ながら駅へ向かった。


     ◇


 同じ頃。


 彩花は自宅のキッチンで夕食の手伝いをしていた。


 紗月が味噌汁を作り、彩花はサラダ用の野菜を切っている。


「彩花、さっきからちょっと機嫌いい?」


「そう?」


「うん」


「文化祭の話してたからかも」


「桜華の?」


「九条君が、昼前後なら案内できそうだって」


「あら、よかったね」


「図書室も見られるって」


「そっちが一番嬉しそうね」


「だって桜華の図書室だよ?」


「はいはい」


 紗月が笑う。


「それと生徒会室も見たい」


「入れるの?」


「たぶん中は難しいって。前だけ」


「それでも?」


「うん」


 彩花はレタスをボウルへ移す。


「九条君が普段いるところだから」


 言ってから、自分で少しだけ手を止めた。


 母の前で。


 あまりにも自然に言ってしまった。


 紗月は娘を見る。


 からかうような表情ではない。


「楽しみなんだね」


「うん」


 彩花は頷いた。


「楽しみ」


 それだけだった。


 母もそれ以上聞かない。


 だから彩花も安心して料理へ戻った。


     ◇


 夕食後。


 彩花は自室の本棚の前に座り込んでいた。


 床には三冊の本。


 一冊目は、すでに決めている児童文学。


 幼い頃から何度も読んだ、大切な一冊だ。


 残り二冊は、「悠真に読んでほしい本」の候補。


「どっちかな……」


 一冊は、土曜日にも手に取った短編集。


 もう一冊は、数年前に読んだ長編小説。


 どちらも好き。


 でも意味が違う。


 短編集は、人と人の距離が少しずつ変わる話。


 長編は、自分の居場所を探す少女の話。


 どちらを悠真に読んでもらいたいのか。


(九条君だったら、どっち好きかな)


 考えて。


 首を振る。


 違う。


 悠真が好きそうな方を選びたいわけではない。


 それならおすすめ本だ。


 自分が、悠真に読んでほしい方。


 読み終わったあと、悠真と話したい方。


「……こっち」


 彩花は長編小説へ手を伸ばした。


 自分の居場所を探す少女。


 周囲に合わせることが上手で。


 自分の本当に好きなものが分からなくなって。


 最後には、誰かに選んでもらうのではなく、自分で居場所を選ぶ。


 初めて読んだ頃は、結末が好きだった。


 今なら。


 途中の迷っている時間も好きだと思える。


(九条君は、どう読むんだろ)


 それが知りたい。


 彩花は二冊を並べた。


 一冊は自分の「一番」に近いもの。


 一冊は悠真に読んでほしいもの。


 決まった。


 スマートフォンを手に取る。


『私も二冊決めた。』


 送る。


 数分もしないうちに返事が来た。


『本当に?』


『うん。』


『何?』


『まだ秘密。』


『俺も秘密にしてるから何も言えない。』


『じゃあ会ったときね。』


『うん。』


 彩花はそこでスマートフォンを置こうとして。


 もう一通届いた。


『楽しみ。』


 短い言葉。


 彩花は少し笑った。


『私も。』


 送信する。


 今度こそスマートフォンを置いた。


 二冊の本を机の端へ重ねる。


 次に悠真へ会うとき。


 渡す。


 そう思うだけで、少し楽しみだった。


     ◇


 次の日の昼休み。


 桜華学園の中庭では、悠真と琴葉が珍しく二人で昼食を取っていた。


 玲奈はクラスの友人に捕まり、湊は部活関係の用事があるらしい。


「兄様」


「何?」


「文化祭の日、彩花さんを案内するんですよね?」


「うん」


「時間、取れました?」


「昼前後に一時間半くらい」


「それならよかったですね」


「琴葉は?」


「私はクラスの担当が午後なので、午前は比較的自由です」


「一緒に回る?」


「もちろん」


 琴葉は弁当箱から卵焼きを取る。


「玲奈さんも来ると思います」


「じゃあ四人か」


「凛花先輩も途中で合流するかもしれませんね」


「そうだね」


「……あ」


 琴葉が何かに気づいたように箸を止めた。


「何?」


「また水瀬さんが二人になりますね」


 悠真も止まる。


 数秒後。


「……そうだな」


「土曜日、大変だったんでしょう?」


「何で知ってるの?」


「母様が凛花先輩のお母様と連絡を取ったとき、偶然会ったと聞いたそうです」


「そこまで話したの?」


「三人で昼食を食べたことだけです」


「ならいいけど」


 琴葉は兄を見る。


「呼び間違えませんでした?」


「間違えてない」


「ではどうやって?」


「二人とも返事した」


 琴葉は口元を押さえた。


「笑うなよ」


「すみません。でも想像できてしまって」


「俺も考えてなかった」


「兄様の中では、彩花さんと凛花先輩は完全に別人ですからね」


「当たり前だろ」


「だから同じ名字だということを忘れるんですよ」


「忘れてはない」


「でも、彩花さんを呼ぼうとして『水瀬さん』と言ったら、凛花先輩も振り返った」


「そう」


「そのあと?」


 悠真は卵焼きを食べる。


「別に」


「兄様」


「何?」


「何かありましたね」


「……彩花って言いかけた」


 琴葉の箸が止まった。


「本人の前で?」


「水瀬先輩もいた」


「それは」


「言うな」


「まだ何も言っていません」


「顔が言ってる」


 以前、彩花と凛花が似たような会話をしていたことなど、悠真は知らない。


 琴葉は少し考えてから尋ねた。


「彩花さんは?」


「気づいてた」


「それで?」


「あとで聞かれた」


「兄様は何と?」


「頭の中ではたまに彩花って呼んでるって言った」


 琴葉はしばらく黙った。


「何だよ」


「兄様、思ったより進みましたね」


「何が?」


「いえ」


「琴葉」


「呼び方です」


「直接は呼んでないよ」


「でも、彩花さんは嫌ではなかったんですよね?」


「うん」


 悠真は少しだけ笑った。


「嫌じゃないって」


 その表情を見て、琴葉も笑う。


「よかったですね」


「うん」


「では文化祭で凛花先輩と彩花さんが一緒にいたら、また困りますね」


「……そこなんだよな」


「どうするんです?」


「そのとき考える」


「また二人とも振り返りますよ」


「分かってる」


「『水瀬さん』」


「やめろ」


「兄様、どちらを呼んでいます?」


「琴葉」


「私は九条です」


「そういう意味じゃない」


 琴葉は楽しそうに笑った。


 悠真も呆れながら笑う。


 ただ。


 文化祭の日。


 凛花と彩花が同じ場所にいたら。


 確かに、また同じことが起きる。


(そのときは……)


 一瞬だけ考える。


 けれど答えは出さなかった。


 まだ先のことだ。


     ◇


 その週の金曜日。


 放課後の青葉高校。


 彩花は文芸部の部室でノートを開いていた。


 次の作品の案は、まだまとまっていない。


 ただ今日は、一行だけ書いた。


『同じ呼び方でも、相手によって意味は違う。』


 そこまで書いて。


 彩花はペンを止めた。


「……何これ」


 自分で少し恥ずかしくなる。


 小説の書き出しでもない。


 テーマなのか。


 メモなのか。


 それすら分からない。


 消そうとして。


 やめた。


 今の自分が考えたことなら、残しておけばいい。


 あとで使わなくても構わない。


 ノートを閉じる。


 窓の外では、部活へ向かう生徒たちが校庭を横切っていた。


 そのときスマートフォンが震える。


 悠真からだった。


『明日、図書館行く?』


 彩花は時計を見る。


 明日は特に予定がない。


 机の横には、悠真へ渡すために選んだ二冊の本を入れた紙袋が置いてある。


 今日、学校へ持ってきたわけではない。


 帰宅後に準備するつもりだった。


『行くよ。』


 送る。


『二冊持っていく。』


 彩花は笑った。


『私も。』


 少しして。


『決まったんだ。』


『決めた。』


『楽しみ。』


『私も楽しみ。』


 そこで会話は一度終わった。


 彩花はスマートフォンを机へ置く。


 明日。


 悠真が選んだ本を受け取る。


 自分が選んだ本を渡す。


 いつもの図書館。


 いつもの二人。


 呼び方だって、たぶんいつもどおり。


 それでも。


(明日、九条君に会うんだ)


 そう思った瞬間に少し嬉しくなる自分を、もう否定する気にはならなかった。


     ◇


 翌日。


 午後一時五十分。


 青凪市立中央図書館の前には、薄い秋雲の間から柔らかな陽が差していた。


 彩花は自転車を駐輪場へ入れ、前籠から紙袋を取り出す。


 二冊。


 一冊は何度も読んだ児童文学。


 もう一冊は、自分の居場所を探す少女の長編小説。


 どちらも悠真に読んでもらいたい。


 自動扉を抜ける。


 館内へ入った瞬間、紙と木の匂いがした。


 いつもの場所。


 いつもの静けさ。


 彩花は窓際の席を見る。


 まだ悠真はいない。


「……今日は私が先か」


 少しだけ嬉しい。


 いつもの席へ向かおうとして。


「水瀬さん」


 後ろから呼ばれた。


 彩花は振り返る。


 悠真がいた。


 片手に二冊入っているらしい紙袋を持っている。


「九条君」


「先だった?」


「たぶん数秒」


「負けた」


「競争だったの?」


「今決めた」


「ずるい」


 二人で笑う。


 それから。


 ほとんど同時に、互いの紙袋を見る。


「持ってきた?」


「うん」


「俺も」


「見れば分かる」


「じゃあ」


 悠真が窓際の席を見る。


「座ろうか」


「うん」


 二人は並んで歩き出した。


     ◇


 窓際の席へ着くと、彩花は紙袋を机の上へ置いた。


 悠真も向かいへ座る。


 数秒。


 どちらもすぐには本を出さない。


「……どっちから?」


 彩花が聞いた。


「水瀬さんから見たい」


「何で?」


「楽しみにしてたから」


「私も九条君の見たいよ」


「じゃあ同時?」


「それ面白い?」


「やってみる?」


「子どもみたい」


「嫌?」


「……ちょっとやりたい」


 二人で紙袋へ手を入れる。


「一冊目だけ?」


「まず一冊目」


「せーの?」


「図書館だから小さい声で」


「分かってる」


「じゃあ」


 二人は顔を見合わせる。


「せーの」


 小さな声。


 同時に一冊を取り出した。


 彩花が出したのは、何度も読んだ児童文学。


 悠真が出したのは、少し古びた冒険小説だった。


「……これ?」


 彩花が先に尋ねる。


「うん。一番好きな本」


「結構古いね」


「小学生の頃、祖父にもらった」


「そんな大事な本なの?」


「大事だよ」


「それ、私に貸して大丈夫?」


「水瀬さんだから持ってきた」


 迷いのない答えだった。


 彩花は本へ伸ばしかけた手を止める。


「……大事なんでしょ?」


「うん」


「なくしたらどうするの?」


「水瀬さん、なくさないだろ」


「絶対とは言えないよ」


「でも大事に扱ってくれる」


「それはもちろん」


「なら大丈夫」


 悠真は本を彩花の方へ差し出した。


「読んでほしい」


 彩花は両手で受け取る。


 古い本。


 角は少し丸くなっている。


 何度も開かれたことが分かる。


 悠真が長い間大切にしてきたもの。


 それを今、自分が持っている。


「……大事に読む」


「うん」


「本当に大事にするから」


「知ってる」


 悠真は笑った。


 彩花も、自分が出した児童文学を彼へ差し出す。


「これは?」


「私の一冊」


「児童文学って言ってたやつ?」


「うん。小さい頃から何回も読んでる」


 悠真は受け取った。


 表紙を見る。


 タイトルを読む。


「初めて見る」


「本当?」


「うん」


「そんなに有名じゃないかも」


「どんな話?」


「今言ったら面白くない」


「じゃあ読んでから聞く」


「うん」


 悠真は本を開かず、まず表紙をしばらく眺めた。


 彩花が何度も読んだ本。


 ページの端には、長く手元に置かれてきた本特有の柔らかさがある。


「これも大事な本?」


「大事」


「貸してくれるんだ」


「九条君だから」


 言ってから。


 彩花は自分で気づいた。


 悠真も気づいた。


 二人の間に、小さな沈黙が落ちる。


 さっき。


 悠真が言った。


『水瀬さんだから持ってきた』


 今。


 自分もほとんど同じことを言った。


「……お互い様だね」


 彩花が小さく笑う。


「うん」


 悠真も笑った。


「お互い様」


 二人の机の上に、それぞれの大切な本が置かれる。


 交換しただけなのに。


 少しだけ、自分の一部を渡したような気がした。


「じゃあ」


 悠真がもう一つの紙袋を見る。


「二冊目も見る?」


「見る」


「今度は普通に出そう」


「同時じゃなくて?」


「水瀬さんが子どもみたいって言ったから」


「九条君が言い出したんでしょ」


「でもやったのは二人」


「……それもお互い様?」


「たぶん」


 彩花は笑いながら二冊目へ手を伸ばした。


 いつもの図書館。


 いつもの席。


 呼び方も、まだ同じ。


 けれど二人の間には今、それぞれが選んだ大切な一冊が置かれていた。


 名字よりも。


 名前よりも先に。


 相手にだけ渡したいものが、また一つ増えていた。

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