第42話 二人とも、水瀬さん
桜華学園の文化祭の日程を悠真から教えてもらった翌日の夕方、彩花は食卓に一枚の紙を置いた。
「お母さん、この日って何か予定あったっけ?」
夕食にはまだ少し早く、キッチンでは紗月が鍋の火加減を見ている。学校から帰ってきた凛花はリビングのソファで髪をまとめ直しており、父の耕助はまだ仕事から戻っていなかった。
「どの日?」
「ここ」
彩花がスマートフォンに表示した日付を見せると、紗月は鍋からいったん離れて画面を覗き込んだ。
「今のところ家の予定はないと思うけど。何かあるの?」
「桜華の文化祭」
その言葉に、ソファにいた凛花が振り向いた。
「来るの?」
「予定がなかったら行きたいなって。九条君から一般公開の日が決まったって連絡来たから」
「兄妹からじゃなくて九条君からなんだ」
「うん。分かったら教えるって言ってたから」
彩花は何でもないことのように答えた。
凛花は何か言いかけたものの、結局それ以上は触れずに立ち上がる。
「私はその日、剣道部の方にも顔出すから校内にはいるよ。午前中はたぶん部活、午後はクラス」
「そうなんだ」
「生徒会もかなり忙しいと思う」
「九条君もそう言ってた。仕事の時間はまだ分からないって」
「じゃあ、ずっと案内してもらえるとは思わない方がいいかもね」
「うん。そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ。琴葉さんもいるし、玲奈さんもたぶんいるって」
凛花の眉がわずかに動いた。
「……玲奈さん?」
「一条玲奈さん」
「そこじゃなくて」
「何?」
「呼び方」
彩花は一瞬きょとんとした。
それから意味が分かる。
「ああ。文化祭のときから玲奈さんって呼んでる」
「向こうは?」
「彩花ちゃん」
「へえ」
凛花は腕を組んだ。
表情だけを見ればいつもどおり落ち着いているが、妹の交友関係に関する新情報を聞き逃す気がないことくらい、彩花には分かる。
「琴葉さんは琴葉さんで、玲奈さんは玲奈さん」
「九条君は九条君」
「そうだけど?」
「別に」
「お姉ちゃん、何か言いたそう」
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
「彩花が玲奈と仲良くなったんだなと思っただけ」
「うん。話しやすいよ」
「……そう」
凛花はそこで会話を終えた。
だが内心では少し複雑だった。
(玲奈、早い)
昔から知っている一条玲奈の距離の詰め方は自然だ。本人に悪気など一切なく、むしろ人との距離を見誤ることは少ない。
だからこそ、彩花が受け入れて「玲奈さん」と呼んでいるなら、それは純粋に喜ばしい。
喜ばしいのだが。
(九条君はまだ九条君なんだ)
そこへ余計な意味をつけるつもりはない。
彩花には彩花の速さがある。
悠真も、それを急かす人間ではないことはもう分かっている。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「やっぱり何か考えてるでしょ」
「夕飯何かなって」
「今、目の前でお母さんが作ってるよ」
「見れば分かることを考える日もあるの」
「絶対違う」
キッチンから紗月の笑い声が聞こえた。
「凛花、彩花に余計なこと言わないのよ」
「言ってないよ」
「だから余計に怪しいんだけど」
「お母さんまで」
三人の声が重なり、夕方の水瀬家にいつもの空気が戻った。
◇
数日後の土曜日。
午前十時を少し過ぎた頃、青凪駅前は休日らしい人通りで賑わっていた。
雲は薄く、秋の光が駅前広場のタイルへ柔らかく落ちている。吹き抜ける風には夏の名残がほとんどなく、半袖の人より薄手の長袖を着た人の方が増えていた。
彩花は駅前の書店から出ると、紙袋を持ち直した。
文芸部で使うノートを買うついでに、本を一冊買った。
先日から考えていた「九条君に読んでほしい本」の候補とは別の新刊だ。
(結局まだ決められてないんだよね)
悠真はもう二冊を選んだと言っていた。
自分は一冊目こそ決まっているが、二冊目をどうするか迷っている。
別に悠真が二冊だから、自分も二冊にしなければならないわけではない。
それでも、「九条君に読んでほしい一冊」を考え始めたら、選びたくなってしまった。
「彩花?」
聞き慣れた声がして、彩花は顔を上げた。
「お姉ちゃん?」
駅前広場の向こうから、凛花が歩いてくる。
制服ではなく、白いシャツに濃紺のパンツという私服姿だった。肩にはスポーツバッグではなく小さめのバッグを掛けている。
「どうしたの?」
「部活の買い物。竹刀の鍔がそろそろ駄目になりそうだから」
「学校じゃなかったんだ」
「今日は午後練。彩花は?」
「本屋。ノートと本買った」
「また本?」
「また本」
凛花が笑う。
「お昼は?」
「まだ。帰ってから食べようかなって」
「じゃあ一緒に何か食べる?」
「いいよ」
二人で駅ビルの方へ向かおうとした、そのときだった。
「あれ」
凛花が足を止める。
「どうしたの?」
「九条君」
「え?」
彩花が振り返る。
駅前広場の反対側。
人の流れの向こうから、悠真が歩いてくる。
私服姿だった。
薄いグレーのシャツに黒のパンツ。肩には小さめのショルダーバッグを掛け、片手には書店の袋を持っている。
悠真も二人に気づいた。
その瞬間。
彼の視線は、ほとんど迷わず彩花へ向いた。
ほんの少し目元が緩む。
「水瀬さん」
呼ばれて。
「うん」
「はい」
二人が同時に返事をした。
沈黙。
彩花が隣を見る。
凛花も彩花を見る。
悠真が止まった。
「……あ」
三人の間に、数秒だけ妙な間が落ちた。
最初に吹き出したのは凛花だった。
「そりゃそうなるよね」
「お姉ちゃんも返事するから」
「私も水瀬さんだけど」
「そうだけど」
悠真が二人の前まで来る。
「すみません。考えてなかったです」
「別に謝らなくていいよ。実際どっちも水瀬だし」
凛花は少し面白そうに悠真を見る。
「ちなみに、今どっち呼んだの?」
「彩――」
悠真の口が止まった。
彩花の目がわずかに大きくなる。
凛花も気づいた。
悠真自身も、今何を言いかけたのか理解したらしい。
ほんの一瞬。
駅前を通る人の声だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「……妹さんです」
言い直した。
彩花の頬が少しだけ熱くなる。
「私?」
「うん」
「そうなんだ」
それだけ答える。
聞き間違いではなかった。
今。
たぶん。
(彩花って言おうとした?)
けれど、確信はない。
悠真は普段から頭の中ではそう区別しているのかもしれない。
姉妹が並んでいれば、名字では区別できない。
ただそれだけだ。
凛花は何も言わなかった。
言えば彩花が意識する。
悠真も困る。
だから表面上は何もなかったことにした。
「九条君も買い物?」
「はい。本を買いに」
悠真が袋を少し持ち上げる。
彩花がすぐ反応した。
「本?」
「うん」
「この前の二冊とは別?」
「別。あれは家にある」
「また増えたんだ」
「水瀬さんも持ってる」
悠真が彩花の紙袋を見る。
「これは新刊」
「何買ったの?」
「見たい?」
「見たい」
返事が早い。
彩花は紙袋から本を取り出した。
「これ。前に読んだ作家さんの新しいやつ」
「あ、この人か」
「知ってる?」
「前作だけ」
「私も前作好きだったから買ってみた」
「読み終わったら感想聞いていい?」
「いいよ」
会話が自然に続いていく。
凛花は隣で黙って二人を見た。
(……なるほど)
文化祭の日にも思った。
悠真は彩花と話すとき、少しだけ違う。
声が柔らかい。
反応が早い。
彩花の話したことをよく覚えている。
それ以上に。
彩花が何か話し始めると、きちんとそちらへ意識を向ける。
今も駅前には大勢の人がいる。
姉である自分も隣にいる。
それなのに、悠真の注意は自然に彩花へ集まっていた。
露骨ではない。
本人も意識していないのかもしれない。
だから余計に分かりやすい。
「お姉ちゃん?」
彩花に呼ばれ、凛花は我に返った。
「何?」
「ぼーっとしてた」
「ちょっと考え事」
「また?」
「私だって考え事くらいするよ」
「この前もしてた」
「彩花、最近お姉ちゃんに厳しくない?」
「普通だよ」
悠真が小さく笑った。
凛花が彼を見る。
「九条君、今笑った?」
「いえ」
「笑ったよね?」
「仲いいなと思って」
「仲いいよ」
凛花は即答した。
彩花も笑う。
「うん。仲いい」
悠真の表情が柔らかくなる。
文化祭で見た姉妹の姿と同じだった。
比較されて苦しかった過去を、悠真は詳しく知らない。
それでも二人が互いを大切にしていることは分かる。
「二人はこれからどこか行くんですか?」
「お昼食べようかって話してたところ」
凛花が答える。
「九条君は?」
「帰るところです」
「お昼は?」
「まだですけど」
凛花が彩花を見る。
彩花も凛花を見る。
姉妹の間に、短い無言のやり取りが成立した。
「九条君も来る?」
彩花が聞いた。
悠真が一瞬だけ目を見開く。
「いいの?」
「お姉ちゃん、いい?」
「私はいいよ」
凛花はあっさり答えた。
「三人で?」
「嫌なら無理しなくていいけど」
「行く」
悠真の返事は早かった。
彩花が少し笑う。
「即答」
「だって予定ないし」
「じゃあ決まりね」
凛花が駅ビルを見る。
「何食べる?」
「私は何でも」
「それ一番困るやつ」
「お姉ちゃんは?」
「麺類」
「広い」
「彩花は?」
「じゃあ……パスタ?」
「賛成」
凛花が悠真を見る。
「九条君は?」
「俺も大丈夫です」
「じゃあ行こうか」
三人は駅ビルへ向かった。
◇
休日の昼時ということもあり、レストラン街はそれなりに混んでいた。
三人が入った洋食店も満席に近く、入口で名前を書いて待つことになった。
「水瀬様、三名様」
店員に呼ばれる。
「はい」
「はい」
また姉妹が同時に反応した。
悠真が口元を押さえる。
「九条君」
彩花が睨む。
「ごめん」
「笑った」
「今回は俺じゃなくても笑うと思う」
「確かに」
凛花まで笑っている。
三人は店員に案内され、窓際の四人掛けへ座った。
凛花と彩花が並び、悠真が向かい側。
メニューを開く。
「彩花、これ好きそう」
「きのこクリーム?」
「うん」
「お姉ちゃんは?」
「私はトマト系かな」
悠真はメニューを見ながら、自然に口を開いた。
「水瀬さん、この前きのこのパスタ好きって言ってなかった?」
また。
姉妹二人が顔を上げた。
悠真が固まる。
凛花が先に笑った。
「これ今日ずっと続く?」
「……すみません」
「だから謝らなくていいって」
彩花も笑っていた。
「九条君、今日何回間違えるかな」
「間違えてるわけじゃないんだけど」
「じゃあ何?」
「二人とも水瀬さんだから」
「そうだね」
彩花はメニューを閉じかけて、ふと悠真を見る。
「ちなみに今も私?」
「うん」
「何で?」
「前にメッセージで、きのこ系好きって言ってたから」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
何でもないことのように返される。
彩花の指が、メニューの端を撫でた。
自分でも忘れていたような会話だ。
いつ話したのかもすぐには思い出せない。
「九条君、そういうのよく覚えてるよね」
「水瀬さんのことなら結構」
言ってから、悠真は特に言い直さなかった。
凛花が黙って水を飲む。
彩花は一瞬だけ視線を落とした。
(……私のことなら)
以前なら、その言葉の理由を考えたかもしれない。
今は。
悠真が自分のことをよく見ている。
よく覚えている。
それを少しずつ知ってきた。
「じゃあ、きのこクリームにしようかな」
「俺もそれにしようかな」
「また同じの?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
彩花は笑う。
「本当に試すよね。私が好きって言ったもの」
「気になるから」
「美味しくなかったら?」
「水瀬さんが好きなのと、俺が好きかは別だろ」
「それはそう」
「でも、知りたい」
悠真はメニューへ目を戻した。
「水瀬さんが何を好きなのか」
凛花はとうとう小さく息を吐いた。
「九条君」
「はい?」
「それ、本人にそんな普通の顔で言えるのすごいね」
「何がですか?」
「……ううん。何でもない」
彩花も首を傾げる。
凛花は二人を見比べた。
(この二人、まだこれで友達なんだ)
もちろん、友達なのだろう。
本人たちがそう認識しているなら、それでいい。
外から余計な名前をつける必要はない。
ただ。
悠真が彩花を見る目は、もう自分が警戒していた頃とはかなり違って見えた。
軽い興味でも。
御曹司の気まぐれでもない。
彩花自身を知りたい。
その気持ちだけは疑いようがなかった。
◇
料理が届くと、会話は学校の話へ移った。
「そういえば彩花、文化祭来るんだよね?」
「うん。予定が変わらなければ」
「九条君、生徒会当日かなり忙しいでしょ」
「まだ担当は仮です。でも時間は作れると思います」
「無理に作らなくていいよ」
彩花がすぐ言う。
「仕事あるならそっち優先して」
「分かってる。空いてる時間で案内する」
「一人でも見られるよ?」
「俺が案内したい」
彩花がフォークを止めた。
悠真はきのこを口に運びながら、続ける。
「水瀬さんが青葉を案内してくれたから、今度は俺が案内したい」
「……そっか」
「見たいって言ってくれたし」
「うん」
彩花は少し照れながら笑った。
「見たい」
悠真も笑う。
「じゃあ案内する」
向かい合った二人の間で、話があっさり決まる。
凛花は自分のパスタを食べながら、その様子を眺めた。
口を挟む必要はなかった。
「図書室は見たい?」
「見たい」
「即答」
「だって桜華の図書室でしょ? 蔵書多そう」
「多いよ」
「どれくらい?」
「正確には分からないけど、青葉よりかなり多いと思う」
「いいなあ」
彩花の目が明らかに輝く。
悠真がそれを見て笑った。
「たぶん水瀬さん、図書室だけで結構時間使うと思う」
「使うかも」
「文化祭の展示もあるし」
「何やるの?」
「今年はまだ全部把握してない。確認しとく」
「そこまでしなくていいよ」
「俺も知りたいから」
「生徒会なのに知らないの?」
「全部の企画を細かく覚えてるわけじゃないよ」
「そっか」
「でも、水瀬さんが見たいなら確認しとく」
まただ。
凛花は水を飲んだ。
彩花だから。
彩花が見たいから。
彩花が好きなものだから。
悠真の選択には、そういう基準が自然に入り込んでいる。
本人はそれを隠してもいない。
かといって、恋愛として押しつけてもいない。
(……前より安心かも)
凛花は思う。
悠真が彩花を急かさないことは知っていた。
今はもう一つ分かった。
彼は、自分が彩花に何をしてあげたいかだけではなく、彩花が何を見たいか、何を好きかを基準に動く。
それなら。
少なくとも今は、自分が間へ入る必要はない。
「お姉ちゃんも一緒に回れる?」
彩花が尋ねた。
「私は部活とクラス次第。途中なら合流できると思う」
「そっか」
「ずっと一緒じゃなくても平気でしょ?」
「うん」
彩花は普通に頷いた。
「琴葉さんたちもいるし、九条君もいるから」
悠真が少しだけ顔を上げる。
凛花はそれを見逃さなかった。
「今、嬉しかった?」
「……何がですか?」
「彩花が九条君いるから平気って言ったの」
「お姉ちゃん」
「何?」
「そういうこと聞かなくていいから」
「ごめん」
凛花は素直に引いた。
悠真は少し考えたあと。
「でも、嬉しいです」
「九条君まで答えなくていいよ!」
彩花の声が少し大きくなる。
近くの席の客が一瞬こちらを見た。
「ご、ごめんなさい……」
彩花が小さくなる。
悠真は笑いをこらえ、凛花は肩を震わせた。
「二人とも笑わないで」
「ごめん」
「ごめんね、彩花」
「絶対反省してない」
三人の間に笑いが広がった。
◇
昼食を終えると、凛花は午後の部活へ向かうため駅へ戻ることになった。
「彩花は?」
「私も帰るつもりだったけど」
彩花は時計を見る。
まだ十二時半を少し過ぎたところだ。
悠真が持っている書店の袋へ視線が向く。
「九条君は?」
「俺も帰るつもりだった」
「……図書館寄る?」
口に出してから、彩花は自分で少し驚いた。
今日はもともと会う約束をしていなかった。
偶然会って。
一緒に昼食を食べた。
そのまま帰っても十分だった。
けれど、まだ話したいと思った。
悠真の目がわずかに明るくなる。
「行く」
「また即答」
「今日は予定ないから」
「じゃあ行こっか」
「うん」
凛花が二人を見る。
「私はここで別れるね」
「お姉ちゃん、部活頑張って」
「ありがとう。九条君」
「はい」
「彩花、よろしく」
「……何をですか?」
「普通に。一緒に図書館行くんでしょ?」
「あ、はい」
「何でちょっと警戒してるの」
「水瀬先輩が言うと別の意味がありそうで」
「失礼だな」
「お姉ちゃん、前科あるから」
「彩花まで?」
凛花は少し不満そうな顔をしたあと、二人へ手を振った。
「じゃあまたね」
「うん」
「また学校で」
凛花が駅の方へ歩き出す。
彩花と悠真は並んで、中央図書館へ向かう道へ進んだ。
数分歩いたところで。
「九条君」
「うん?」
「さっき」
「何?」
「最初に会ったとき」
悠真の足がほんの少し遅くなる。
彩花は前を見たまま続けた。
「私とお姉ちゃんが一緒に返事したとき、何か言いかけなかった?」
やっぱり気づいていた。
悠真は少し黙る。
「……気づいてた?」
「ちょっとだけ」
「聞こえた?」
「最初のところだけ」
彩花は指で紙袋の持ち手をいじった。
「『あや』って」
「うん」
悠真は否定しなかった。
秋の風が二人の間を抜ける。
道路の向こうをバスが通り過ぎ、少し遅れてエンジン音が遠ざかった。
「彩花って言おうとした」
彩花の足が止まりそうになる。
止まらなかった。
ただ歩幅が少し小さくなった。
「……なんで?」
「二人とも水瀬さんだったから」
「それは分かるけど」
「区別しようとして」
「それで私が彩花?」
「うん」
悠真は少し困ったように笑った。
「頭の中では、たまにそう呼んでるから」
今度こそ彩花が止まった。
悠真も数歩先で気づき、振り返る。
「……頭の中で?」
「うん」
「いつから?」
「分からない」
「分からないの?」
「気づいたら」
彩花は悠真を見る。
何と言えばいいのか分からない。
嫌ではない。
むしろ。
(九条君の中では、私、彩花なんだ)
そう思うと、胸の奥がくすぐったい。
家族。
学校の友達。
玲奈。
名前で呼ばれること自体は珍しくない。
なのに悠真がそう呼ぶことだけ、妙に意識してしまう。
「嫌だった?」
悠真が聞いた。
「嫌じゃない」
彩花はすぐ答えた。
「全然嫌じゃないけど……びっくりした」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
彩花は再び歩き出す。
悠真も隣へ並んだ。
しばらく二人とも何も言わなかった。
沈黙は気まずくない。
ただ、いつもより少しだけ落ち着かない。
「水瀬さんは?」
「え?」
「俺のこと、頭の中で何て呼んでる?」
今度は彩花が固まった。
「……九条君」
「本当に?」
「基本は」
「基本?」
「そこ聞く?」
「気になる」
彩花は前を見る。
以前、大地と話していたとき。
一度だけ。
悠真君。
そう口から出た。
一人で考えたこともある。
けれど本人へ直接言うのは、また違う。
「……たまに」
「うん」
「悠真君って、思ったことはある」
言った。
直接呼んだわけではない。
それでも悠真の名前を本人の隣で口にした瞬間、彩花の頬が一気に熱くなった。
悠真は何も言わない。
「九条君?」
「……ごめん」
「何が?」
「ちょっと嬉しくて」
彩花はますます前しか見られなくなる。
「まだ呼ばないよ」
「うん」
「今は九条君だから」
「分かってる」
「九条君も、水瀬さんでいいからね」
「うん」
悠真は少し笑う。
「でも、嫌じゃないって分かった」
「何が?」
「彩花って呼ぶの」
彩花は答えなかった。
答えられなかった。
数歩進んでから。
「……嫌じゃないよ」
小さく返す。
悠真はそれ以上何も言わなかった。
呼ばない。
今はまだ。
それでいい。
◇
中央図書館へ着くと、二人はいつもの窓際ではなく、奥の閲覧席へ座った。
土曜日の午後。
館内には親子連れや学生が多く、児童書コーナーからは時折小さな子どもの声が聞こえる。
彩花は買ったばかりの新刊を机へ置いた。
悠真も書店で買った本を出す。
「それ何?」
「短編集」
「見ていい?」
「いいよ」
本を交換する。
彩花は悠真の買った短編集の裏表紙を読み、悠真は彩花の新刊をめくる。
いつもと同じ。
本を見せ合う。
気になったところを話す。
ただ。
「水瀬さん」
「うん」
呼ばれるたびに、少しだけ意識する。
さっき知ってしまった。
悠真の頭の中では、ときどきこの名字が「彩花」に変わっている。
悠真も同じらしい。
「九条君」
「何?」
呼ぶと、一瞬だけこちらを見る目が違う気がした。
「……何でもない」
「呼んだのに?」
「呼んでみただけ」
「何それ」
悠真が笑う。
彩花も笑った。
名前は変わっていない。
でも。
変えられることを、二人とも知った。
それだけで「水瀬さん」と「九条君」の響きまで、昨日とは少し違って聞こえた。
◇
図書館を出たのは、午後四時前だった。
空はまだ明るいが、陽は少し傾き始めている。
駐輪場まで歩きながら、彩花は思い出した。
「そうだ。本」
「何?」
「九条君が選んだ二冊」
「ああ」
「今日持ってないよね?」
「持ってない。偶然会うと思ってなかったから」
「そっか」
「次は持ってくる」
「うん」
「水瀬さんのは?」
「一冊は決まってる」
「もう一冊は?」
「……まだ迷ってる」
「二冊にするの?」
「九条君が二冊だから」
「合わせなくてもいいよ」
「分かってる」
彩花は自転車の鍵を取り出す。
「でも、九条君に読んでほしい本を選ぶの、ちょっと楽しいから」
悠真が黙った。
「何?」
「それ、嬉しい」
「今日それ多くない?」
「だって嬉しいから」
「そういうのすぐ言うよね」
「言わない方がいい?」
「……別に」
彩花は自転車を押して駐輪場から出る。
「言っていいよ」
悠真が少し目を見開く。
「本当に?」
「嬉しいなら」
「じゃあ言う」
「毎回はやめてね」
「難しいかも」
「何で?」
「水瀬さんといると結構嬉しいことあるから」
「……そういうところ」
「何?」
「何でもない」
彩花は前を向いた。
顔が熱い。
でも逃げるほどではない。
少し困る。
少し恥ずかしい。
それ以上に、嬉しい。
駅へ向かう分かれ道で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また」
「うん。またね、九条君」
「また、水瀬さん」
いつもの呼び方。
悠真が駅へ向かって歩き出す。
彩花も自転車へ跨がろうとして。
ふと振り返った。
悠真の背中はまだ見える。
(悠真君)
声には出さなかった。
ただ頭の中で一度だけ呼ぶ。
その名前が以前よりずっと自然に浮かんだことに、自分でも少し驚いた。
一方、駅へ向かっていた悠真も、信号待ちで立ち止まりながら先ほどの会話を思い出していた。
『たまに、悠真君って、思ったことはある』
口元が緩みそうになり、慌てて前を見る。
(……それは嬉しいだろ)
まだ直接は呼ばれない。
自分も直接は呼ばない。
急いで変える理由もない。
ただ、いつか変わるかもしれない呼び方を、二人とももう知っている。
信号が青になる。
悠真は歩き出した。
その頃、反対方向へ自転車を走らせ始めた彩花の胸の中にも、同じようにまだ声にはならない名前が残っていた。




