第41話 君に読んでほしい一冊
月曜日の朝、青葉高校には文化祭の名残がまだあちこちに残っていた。
一般公開を終えた土曜日のうちに大半の片づけは済ませていたものの、昇降口の隅には折り畳まれた案内板がまとめて置かれ、廊下の壁には飾りを留めていたテープの跡が残っている。中庭では朝早くから実行委員の生徒たちが最後のテントを運び、校舎へ入ってくる生徒の多くも、いつもの月曜日より少し眠そうだった。
「おはよう、水瀬」
「おはよう」
教室へ入った彩花は、大地へ挨拶を返して自分の席へ向かった。
大地は机に突っ伏したまま、顔だけをこちらへ向ける。
「疲れ取れた?」
「昨日ゆっくりしたから大丈夫。田辺君は?」
「見て分かんない?」
「眠そう」
「正解」
「昨日何してたの?」
「文化祭終わった開放感で夜更かし」
「自業自得じゃん」
「日曜って夜更かししたくならない?」
「次の日学校なのに?」
「そこは考えない」
「考えた方がいいよ」
彩花が鞄から教科書を出している間にも、教室へ次々と生徒が入ってくる。土曜日の写真を見せ合っている女子たちがいれば、模擬店の売り上げについて話している男子もいて、文化祭そのものは終わったのに、教室の空気はまだ完全には日常へ戻っていなかった。
「そういや水瀬」
「何?」
「文芸部のやつ、感想来てた?」
「来てたよ」
「マジで?」
「全部で七枚」
「結構あるじゃん」
「うん。嬉しかった」
彩花は机の中へ教科書を入れながら、自然に答えた。
大地が少しだけ目を開く。
「水瀬、変わったな」
「え?」
「前だったら、『でも短い感想だから』とか『たまたま読んでもらえただけ』とか、一回なんかつけてそう」
「……そうだった?」
「俺の印象だけど」
言われて、彩花は手を止めた。
確かに以前なら、嬉しいと認める前に何か理由をつけていたかもしれない。
大したものではない。
たまたま。
自分より上手な人はいる。
そんな言葉を先に置いておけば、期待しすぎずに済むような気がしていた。
今は違う。
七枚も感想をもらえた。
読んでもらえた。
好きだと言ってもらえた。
だから嬉しい。
「……じゃあ、ちょっと変わったのかも」
「自分で認めんの?」
「悪い?」
「いや。いいんじゃね?」
大地は欠伸をしながら身体を起こした。
「俺なんて謎解きの記録抜かれたこと、まだ引きずってるし」
「それ玲奈さんも引きずってそう」
「似た者同士じゃん」
「今度会ったら言っておく?」
「やめろ。俺が勝手に仲間認定したみたいになる」
彩花が笑う。
そのとき、前の席の女子が振り返った。
「水瀬さん、文化祭の写真来てるよ。クラスのグループ見た?」
「まだ」
「集合写真、結構よく撮れてる」
「本当?」
「先生だけちょっと目つぶってるけど」
「先生……」
スマートフォンを学校で自由に触るわけにはいかないため、彩花は帰ってから確認することにした。
チャイムが鳴る。
担任が教室へ入ってくると、文化祭の空気を残していた教室が少しずつ月曜日へ戻っていった。
◇
一方、桜華学園高等部では、朝のホームルームが始まる前から悠真が一冊の本を前に悩んでいた。
「九条」
隣の席へやってきた榊原湊が、机の上を覗き込む。
「朝から難しい顔して何読んでんの?」
「読んでない」
「じゃあ何で本開いてんだよ」
「考えてる」
「本開いて?」
「本について」
「面倒くさいことしてんな」
湊は自分の椅子を引き、悠真の机へ視線を落とした。
開かれているのは、海外作家の長編小説だった。
「それ、前に読んでなかった?」
「読んだよ」
「じゃあ何?」
「人に勧めるか考えてる」
「誰に?」
「水瀬さん」
答えは早かった。
湊が「ああ」と頷いてから、少し遅れて悠真を見る。
「今、普通に名前出したな」
「聞かれたから」
「いや、前から出してるけどさ」
湊は肩をすくめる。
「文化祭どうだった?」
「楽しかった」
「水瀬さんの学校の?」
「うん」
「それはよかったな」
湊はそれ以上詳しく聞かなかった。
文化祭前に何度か話を聞いていたし、悠真が楽しみにしていたことも知っている。本人が満足そうなら、それで十分らしい。
「で、何で本?」
「水瀬さんと、一冊だけ選ぶって話になった」
「何を?」
「自分が一番好きな本」
「へえ」
「でも、水瀬さんに読んでほしい本を考えたら、別の本が浮かんだ」
「じゃあ二冊持ってけば?」
「俺もそう言った」
「解決してんじゃん」
「水瀬さんに最初、一冊って言われた」
「律儀だなあ」
「でも二冊も気になるって言ってくれた」
「じゃあ二冊持ってけばいいじゃん」
「だから今、どれにするか考えてる」
「……お前の家、本何冊あるんだっけ」
「数えたことない」
「それで二冊選ぶの?」
「難しい」
「頑張れ」
湊はあっさり会話を終わらせ、自分の席へ戻ろうとした。
「榊原」
「何?」
「人に本勧めるとき、どうやって選ぶ?」
「相手が好きそうなの」
「やっぱり?」
「普通そうじゃね?」
「でも、それだと水瀬さんが自分で選ぶ本と似るかもしれない」
湊は数秒黙った。
「じゃあ、自分じゃ選ばなそうだけど、読んだら好きそうなやつ」
「なるほど」
「九条」
「うん?」
「そこまで真剣に一冊選んでもらえる水瀬さん、ちょっと大変だな」
「何で?」
「本渡すだけで重みがすごそう」
「別に重くしないよ」
「今のお前見たあとだと説得力ない」
湊は笑いながら自分の席へ戻った。
悠真は机の上の本を見る。
確かに少し考えすぎているのかもしれない。
けれど、どうでもいい本を渡したくなかった。
彩花が読む。
そのことを考えると、選び方が変わる。
(面白いと思ってほしい)
もちろん、それが一番だ。
でも、それだけでもない。
読み終えたあとに、彩花がどこを好きだったのか聞きたい。
自分が好きだった場面をどう読んだのか知りたい。
同じところを好きになるのか。
全然違うところを見るのか。
どちらでもいい。
むしろ違ったら、それも面白い。
(俺が好きな本を読んだ水瀬さんが、何を思うのか知りたいんだ)
そこまで考え、悠真は開いていた本を閉じた。
これは候補に残す。
もう一冊は家へ帰ってから探そう。
「悠真」
前方から呼ばれ、顔を上げる。
クラスメイトの男子が、生徒会室の鍵を指で示していた。
「朝の資料、持ってくんだろ?」
「あ、うん。今行く」
悠真は本を鞄へしまい、立ち上がった。
彩花に渡す本を考えるのは楽しい。
けれど学校へ来れば、やることは他にもある。
生徒会の資料を抱えて廊下へ出ると、登校してきた生徒たちの声が周囲を満たしていた。
昨日、彩花に言われた言葉を思い出す。
『九条君が普段いるところ、見てみたいかも』
悠真は生徒会室へ向かう廊下を見た。
毎日歩いている場所だ。
見慣れた窓。
掲示板。
階段。
特別なものなど何もない。
それでも彩花は、ここを見てみたいと言った。
(来たら、どこから案内しよう)
まだ文化祭の日程すら伝えていないのに、そんなことを考えてしまう。
悠真は少し笑い、生徒会室の扉を開けた。
◇
青葉高校では午前中の授業が終わる頃には、文化祭明けの浮ついた空気もかなり薄れていた。
昼休み。
彩花は弁当と文庫本を持って教室を出た。
向かうのは、校舎西側の静かな廊下。
文化祭の日に悠真たちを案内した場所だった。
窓際に置かれたベンチは今日も空いている。
窓を少し開けると、外から乾いた風が入ってきた。中庭では運動部の男子たちがボールを蹴り、遠くから笑い声が聞こえる。
彩花はベンチへ座り、弁当箱を膝に置いた。
(ここ、九条君も座ったんだよね)
今まで何度も使ってきた場所なのに、少しだけ見え方が違う。
悠真がここへ来たのは一度だけ。
それも文化祭の日だけだ。
なのに、そのときどこへ座っていたかまで思い出せる。
「水瀬さん?」
声をかけられ、彩花は顔を上げた。
同じクラスの女子が二人、廊下を歩いていた。
「ここで食べるの?」
「うん。たまにここ来るから」
「あ、文化祭の日も桜華の人たち案内してたよね」
「見てたの?」
「通りかかった。あの男の子、すごい目立ってたから」
彩花は箸を止める。
「九条君?」
「たぶんその人。背高くて、黒髪の」
「そう」
「彼氏?」
「違うよ。友達」
答えはすぐに出た。
以前一度あった誤解のときのように、慌てて否定する必要も感じない。
「そっか。仲良さそうだったから」
「うん。仲はいいと思う」
それも普通に言えた。
女子二人は「じゃあまた教室で」と手を振り、そのまま階段の方へ歩いていった。
彩花は弁当へ視線を戻す。
「仲いい、か」
小さく呟く。
その言葉に違和感はない。
むしろ、少し嬉しい。
九条君とは仲がいい。
そう他人に言われて、自分でも否定しなくなった。
弁当を食べ終え、文庫本を開く。
数ページ進んだところで、しおりを挟んだ。
ふと昨日の約束を思い出す。
一冊だけ選ぶなら。
自分はもう決めている。
子どもの頃に何度も読んだ本。
読むたびに好きな場所が変わった。
最初は冒険が好きだった。
少し大きくなってからは主人公と母親の会話が好きになった。
今読み返せば、また違う場所が好きになるかもしれない。
(九条君は何選ぶんだろ)
文学作品。
ミステリー。
歴史。
海外小説。
悠真はかなり幅広く読む。
予想しようとしても難しい。
(九条君が一番好きな本)
それを知れることが楽しみだった。
単におすすめを教えてもらうのとは少し違う。
たくさんある中から、悠真が一冊を選ぶ。
その理由まで聞きたい。
自分が選んだ本についても、どうしてこれなのか話したい。
昨日までなら、本の話をすること自体が楽しみだった。
今は。
(九条君が選んだ本だから読みたい)
その違いに気づき、彩花は開きかけていた文庫本へ視線を落とした。
少しだけ頬が熱い。
「……似てきたのかな」
文化祭で悠真が、自分の選んだ焼きそばや本に興味を持ったように。
今度は自分が、悠真の選ぶものを知りたくなっている。
それは嫌ではなかった。
◇
放課後。
彩花は文芸部へ顔を出した。
文化祭展示を終えた部室は、以前の姿へ戻りつつある。
机の配置も通常どおりになり、壁に貼られていた作品紹介もほとんど外されていた。窓から入る夕方の光が、積まれた部誌の背表紙を照らしている。
「水瀬さん」
佐々木先輩が、机の向こうから手招きした。
「はい?」
「これ、残り」
渡されたのは、文化祭で配布した文芸部誌だった。
「一冊もらっていいんですか?」
「部員分。予備が余ったから二冊でもいいけど」
「一冊で大丈夫です」
「誰かに渡す?」
「え?」
「文化祭来られなかった人とか」
「ああ……」
彩花は部誌を見る。
家族はすでに一冊を読める。
友達にも渡した。
悠真たちも持っている。
「今のところ大丈夫です」
「じゃあ自分用に取っておきな」
「はい」
彩花は受け取った。
佐々木先輩は自分の席へ戻りながら尋ねる。
「感想カード、読んだ?」
「昨日もう一回全部読みました」
「どうだった?」
「嬉しかったです」
「それならよかった」
先輩は笑う。
「次も書けそう?」
彩花はすぐには答えなかった。
以前なら「まだ分かりません」と言ったかもしれない。
一本書き終えたばかりだ。
次の話など何も決まっていない。
けれど。
「書きたいです」
答えは思ったより自然に出た。
「まだ何を書くか全然決まってないですけど、また書きたいなって」
「うん。それで十分」
「締め切りは?」
「まだ次の部誌まで時間あるよ」
「じゃあ、ゆっくり考えます」
「そうして。文化祭終わった次の日から締め切りに追われたら文芸部嫌いになるから」
「それは嫌です」
「でしょ?」
二人で笑う。
彩花は自分の席へ座った。
ノートを開く。
白いページ。
何を書くかは決まっていない。
登場人物も。
場所も。
結末も。
それでも以前のように、白紙が怖いとは思わなかった。
何か浮かんだら書けばいい。
書きたいものが見つかったら、そのとき始めればいい。
ペンを持ち、ページの上に日付だけを書く。
その下は空白のまま。
今日はそれでよかった。
◇
同じ時間。
桜華学園の生徒会室では、悠真が文化祭関連の資料を確認していた。
青葉高校の文化祭は終わったが、桜華学園側はこれから行事が続く。
机の上には秋の行事予定表が広げられ、生徒会長と数人の役員が担当を確認していた。
「一般公開の案内、今年も外部向けは事前登録なしでいいんですよね?」
悠真が尋ねる。
「家族や友人は受付で記名だけ。去年と同じ予定」
先輩役員が答える。
「ただし一部校舎は立入禁止。中等部側もあるから、案内表示は去年より増やす」
「分かりました」
悠真は資料へ書き込む。
一般公開。
その文字だけ、少し意識してしまう。
「九条、何かある?」
「いえ」
「さっきから一般公開のところ二回見てるけど」
「友達が来たいって言ってたので」
「外部の?」
「はい」
「じゃあ日程確定したら教えてやれよ。今年は生徒会も案内係出すから、お前がずっと一緒に回れるとは限らないけど」
「……そうですよね」
「何だ、その残念そうな顔」
「してました?」
「ちょっとな」
周囲の役員が笑う。
悠真も苦笑した。
「仕事はちゃんとします」
「それは知ってる。九条が行事放り出すとは思ってない」
「ありがとうございます」
「時間空けたいなら先に担当調整しとけ。確定してからだと動かせないぞ」
「はい」
悠真は予定表を見る。
まだ担当は仮だ。
当日、自分がどこを担当するかも決まっていない。
彩花が来られるかも分からない。
それでも。
(少しくらい一緒に回れたらいいな)
そう思う。
青葉高校では、彩花が自分たちを案内してくれた。
今度は自分が案内したい。
教室。
図書室。
生徒会室は中へ入れなくても、普段ここで仕事をしていることくらいは見せられる。
彩花が「見てみたい」と言ってくれた場所を、自分から見せたい。
「九条」
「はい」
「聞いてる?」
「聞いてます。次、ステージ使用団体ですよね」
「聞いてたならいい」
笑われながら、悠真は資料へ視線を戻した。
今は生徒会の仕事。
彩花のことを考えるのは、そのあとでいい。
◇
その日の夕方。
帰宅した悠真は、制服から部屋着へ着替えると、自室の本棚の前へ立った。
壁一面。
彩花がいつか見てみたいと言った本棚だ。
小説。
新書。
児童文学。
海外作品。
古典。
シリーズもの。
何度も読み返したものもあれば、一度読んだきりのものもある。
「一冊……」
腕を組む。
一番好きな本。
そう言われると難しい。
年齢によって好きな本は変わった。
読む時期によって、印象も変わる。
彩花が図書室のカードへ書いていた言葉を思い出す。
『読むたびに、前とは違うところを好きになれるから。』
「……それ、分かるな」
だからこそ、彼女が何を選んだのか知りたい。
悠真は棚の一段へ手を伸ばした。
一冊を抜く。
中学生の頃に何度も読んだ小説。
表紙を眺める。
好きだ。
今でも好きだと思う。
けれど、彩花へ渡したいかと考えると、少し違った。
戻す。
次の一冊。
これも好き。
でも違う。
三冊目。
「……これかな」
古い装丁の文庫本。
派手な物語ではない。
小さな町の古書店を舞台に、人と本が少しずつつながっていく話。
事件らしい事件もほとんど起きない。
誰かが一冊の本を手放し、別の誰かが受け取る。
その間に、知らなかった人生の一部が見える。
悠真がこの本を初めて読んだのは中学一年の頃だった。
そのとき好きだったのは、本にまつわる謎の部分。
読み返したときは、古書店主と常連客の会話が好きになった。
さらに最近読み返したときは、本を渡すという行為そのものが印象に残った。
(これ、水瀬さん好きそうだな)
そう思った直後。
悠真は少し考え直す。
違う。
彩花が好きそうだから選ぶだけではない。
(これについて、水瀬さんと話したい)
それが一番近い。
悠真はその本を机へ置いた。
次に、一番好きな本を探す。
こちらは別の棚。
小学生の頃、祖父から渡された冒険小説。
かなり読み込んでいて、手元にあるものは角が少し傷んでいる。
悠真はそれを抜き、表紙を撫でた。
「これだな」
迷いが消えた。
一番好きな本。
彩花に読んでほしい本。
二冊。
約束より一冊多い。
でも、昨日のメッセージでは二冊でもいい流れになった。
机の上へ並べる。
そこでノックが響いた。
「兄様、入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
琴葉が入ってくる。
「母様が夕食は七時からと――」
途中で机を見る。
「本ですか?」
「うん」
「二冊」
「水瀬さんに見せる」
琴葉は驚く様子もなく近づいた。
「こちらは?」
「俺が一番好きな本」
「それ、祖父様からいただいたものですよね」
「うん」
「では、こちらは?」
「水瀬さんに読んでほしい本」
琴葉は二冊を見比べる。
「貸すんですか?」
「そのつもり」
「こちらも?」
琴葉が古い冒険小説を指す。
「うん」
「兄様、それ、かなり大事にしていますよね」
「してるよ」
「以前、私が借りようとしたときは、先に手を洗ってくださいと言いました」
「琴葉、そのときポテトチップス食べてただろ」
「そうでしたか?」
「油ついた手で触ろうとした」
「では比較になりませんね」
「ならない」
琴葉は少し笑う。
ただ、兄が迷いなくその本を彩花へ貸そうとしていることは覚えておいた。
「彩花さんには注意しないんですか?」
「何を?」
「大事な本だから丁寧に扱ってください、と」
「水瀬さんなら言わなくても丁寧に扱うよ」
悠真は当然のように答えた。
「本好きだし」
「信用していますね」
「してる」
これも即答だった。
琴葉は二冊の表紙へ視線を落とす。
「彩花さん、喜びそうですね」
「そうかな」
「兄様が選んだ本なら、きっと」
悠真はその言葉に少しだけ笑った。
「だといいけど」
「いつ渡すんですか?」
「まだ決めてない。次に会ったとき」
「図書館ですか?」
「たぶん」
「では忘れないようにしてください」
「忘れないよ」
「兄様の場合、忘れる心配はなさそうですね」
「何で?」
「朝から考えていたでしょう?」
悠真が琴葉を見る。
「何で知ってるの」
「帰ってきてすぐ本棚の前に立っていたので」
「それだけで?」
「兄様ですから」
「説明になってない」
「妹なので分かります」
琴葉は満足そうに頷き、部屋を出ていった。
悠真は机へ向き直る。
二冊。
どちらも、自分にとって意味がある。
彩花がどう読むかは分からない。
同じところを好きになる必要もない。
ただ、読み終えたあとに話がしたい。
それだけは確かだった。
◇
夜八時過ぎ。
彩花は自室で宿題を終え、スマートフォンを手に取った。
通知が一件。
悠真からだった。
『本、決めた。』
彩花はすぐに開く。
『早い。』
『結構悩んだ。』
『一冊?』
少しして返事。
『二冊。』
「やっぱり」
彩花は笑う。
『一冊って言ったのに。』
『昨日、二冊でも気になるって言った。』
『言ったけど。』
『じゃあ二冊。』
『強引。』
『嫌?』
彩花は画面を見ながら考える。
嫌なわけがない。
むしろ二冊とも気になる。
『嫌じゃない。』
送る。
続けて。
『どんな本?』
『一冊は俺が一番好きな本。』
『もう一冊は?』
『水瀬さんに読んでほしい本。』
昨日も聞いた言葉。
でも、実際に選び終えたと言われると、急に現実味が増す。
『なんで私に読んでほしいの?』
送ってから、少し迷った。
理由を聞くのは重いだろうか。
けれど悠真からの返事は、思ったより早かった。
『読んだあと、水瀬さんと話したいから。』
彩花の指が止まる。
『本の話?』
『うん。水瀬さんがどこを好きになるのか知りたい。』
その文章を二度読む。
悠真らしいと思った。
本そのものを押しつけるのではなく、自分と同じ感想を求めるわけでもない。
自分がどう読むのかを知りたい。
彩花は少し考え、返事を打つ。
『じゃあちゃんと読む。』
すぐに返ってくる。
『無理して全部読まなくていいよ。合わなかったら合わなかったって言って。』
『そこまで言われたら余計読みたくなる。』
『ならよかった。』
彩花は机の横にある本棚を見る。
自分も悠真へ見せる一冊を決めている。
けれど。
昨日から少し考えていた。
悠真は二冊。
一番好きな本と、自分に読んでほしい本。
なら自分は。
(九条君に読んでほしい本……)
今まで考えたことがなかった。
おすすめならいくらでもある。
文芸部でもよく聞かれる。
ミステリーが好きな人。
恋愛小説が好きな人。
短い話が読みたい人。
それぞれに合わせて本を選べる。
でも、「九条君に読んでほしい本」と言われると違う。
悠真だから読んでほしいもの。
自分が好きなだけではなく、読み終えた悠真と話したいもの。
彩花は本棚の前へ移動した。
棚を眺める。
「……難しい」
今朝の悠真が同じことを言っていたとは知らない。
一冊ずつ背表紙を見る。
有名な小説。
文芸部で勧められた作品。
自分で買ったもの。
凛花からもらったもの。
図書館で読んで気に入り、あとから買ったもの。
その中で、一冊に指が止まる。
「これ……」
高校へ入ってから買った短編集。
派手ではない。
人と人の間にある、言葉にしにくい距離を描いた話がいくつか入っている。
彩花は一度抜いた。
表紙を見る。
好きな本だ。
ただ。
(九条君に読んでもらうなら、これなのかな)
まだ決めきれない。
悠真も悩んだと言っていた。
なら自分も、もう少し悩んでいい。
棚へ戻そうとしたところで、スマートフォンが震えた。
『水瀬さんの一冊も楽しみにしてる。』
彩花は本を持ったまま画面を見る。
「……そういうこと言う」
期待されると緊張する。
でも、嫌ではない。
『期待しすぎないでね。』
送ろうとして。
指を止めた。
文字を消す。
以前なら、そのまま送っていたかもしれない。
期待しないで。
大した本ではない。
自分の選んだものだから。
先に少しだけ価値を下げておけば安心できる。
でも今は、それをしたくなかった。
自分が好きな本を選ぶ。
九条君に読んでほしいと思う本を選ぶ。
それでいい。
彩花は新しく打ち直した。
『ちゃんと選ぶから待ってて。』
送信。
返事はすぐに来た。
『うん。待ってる。』
彩花は画面を見て、少し笑った。
手元の短編集へ視線を戻す。
候補一冊目。
まだ決定ではない。
あと何冊か見てみよう。
◇
翌日の昼休み。
桜華学園の生徒会室では、悠真が一枚の予定表を見ていた。
昨日は仮だった文化祭関連の日程のうち、一般公開日だけが正式に決まったのだ。
「九条、それ各クラスにも回すから確認したら戻して」
「はい」
日付。
受付時間。
外部来場者の入場方法。
校内公開区域。
悠真は一通り確認する。
間違いはない。
資料を戻そうとして、手が止まった。
昨日、彩花へ言った。
日程が分かったら教える、と。
今、分かった。
(じゃあ、教えていいよな)
昼休みとはいえ、彩花は学校にいる。
急ぐ必要はない。
放課後でもいい。
それでも、決まったことを早く伝えたかった。
悠真はスマートフォンを取り出しかけ、学校内では必要時以外使わないようにしていることを思い出して手を止める。
「……放課後だな」
「何が?」
近くにいた生徒会役員が尋ねる。
「いえ。友達に文化祭の日程を教えようと思って」
「外部の友達?」
「はい」
「来るの?」
「予定が合えば」
「九条の友達なら案内してやれば?」
「そのつもりです」
「即答」
笑われる。
悠真も笑いながら資料を返した。
「仕事の時間以外で、ですけど」
「真面目だな」
「当日担当が決まってから考えます」
「はいはい」
会話が終わる。
悠真は生徒会室の窓から校庭を見る。
昼休みの生徒たち。
見慣れた景色。
彩花が見てみたいと言った場所。
もし本当に来たら。
昨日まで何でもなかった校舎が、少し違って見えるかもしれない。
◇
その日の放課後。
彩花は帰り支度をしていた。
大地は友人と話しながら先に教室を出ていく。
「水瀬、また明日」
「うん。また明日」
手を振り、鞄を肩へ掛ける。
昇降口へ向かう途中で、スマートフォンが震えた。
校外へ出てから確認する。
悠真。
『桜華の文化祭、一般公開の日決まった。』
彩花の足が止まった。
すぐ次のメッセージが届く。
日付と、一般公開の時間。
彩花は自分の予定を頭の中で確認した。
文芸部。
家の用事。
今のところ、何もない。
(行ける)
そう分かった瞬間。
口元が緩んだ。
『その日、今のところ予定ないよ。』
送る。
既読。
少しして。
『じゃあ来られそう?』
彩花は画面を見る。
昨日、自分から言った。
九条君が普段いるところを見てみたい。
だから答えは決まっている。
『うん。行きたい。』
送信する。
返事は少しだけ間を置いて届いた。
『よかった。』
それだけ。
けれど。
さらにもう一通。
『案内する。』
彩花は笑った。
『生徒会の仕事あるんじゃないの?』
『ある。時間はまだ分からない。』
『無理しなくていいよ。』
少しして返事。
『無理はしない。空いてる時間を確認する。』
彩花は歩き出す。
正門の外では、同じように帰宅する生徒たちが自転車を押している。
『琴葉さんにも会える?』
『もちろん。たぶん一条もいる。』
『楽しみ。』
送る。
そして。
少し考えて、もう一文を打った。
『九条君の学校見るのも。』
送信。
今度は返事が来るまで少し長かった。
一分。
二分。
彩花が自転車置き場へ着いた頃、ようやく画面が震える。
『俺も、水瀬さんに見てもらえるの楽しみ。』
学校を、ではなかった。
自分に。
見てもらえる。
彩花はその違いに気づいた。
けれど訂正しなかった。
『うん。』
短く返す。
スマートフォンを鞄へしまい、自転車の鍵を外した。
青葉高校の文化祭では、自分が悠真を待っていた。
今度は。
桜華学園で、悠真が自分を待っている。
そう考えると、まだ先の予定なのに胸の奥が少しだけ弾んだ。
◇
その夜。
悠真は机の上へ二冊の本を並べ、その横に文化祭の日程表を置いた。
彩花は来たいと言った。
まだ家族への確認などもあるだろうから、完全に確定したわけではない。
それでも嬉しい。
自分が毎日過ごしている学校へ彩花が来る。
生徒会室の前も。
教室も。
図書室も。
昨日まで見慣れていた場所を、彩花がどんな顔で見るのか想像する。
(どこから見せよう)
また考えている。
悠真は自分で少し笑った。
文化祭までにはまだ時間がある。
今から決める必要などない。
まずは。
「こっちだな」
二冊のうち、古い冒険小説を手に取る。
一番好きな本。
祖父からもらった本。
何度も読んだため、ページの端は少し柔らかくなっている。
大切にしてきたものだ。
だからこそ。
彩花に読んでほしい。
悠真は本を開き、最初のページへ目を落とした。
貸す前に読み返しておこうと思った。
同じ本を、彩花も読む。
そのあとで話をする。
どこが好きだったのか。
どんな場面が残ったのか。
自分とは違うところを見つけるのか。
考えるだけで楽しみだった。
数ページ読んだところで、悠真は手を止める。
しおりを挟む。
生成りの布に紺色の糸、深緑の紐。
彩花と一緒に作ったものだった。
悠真は一度それを見てから、本を閉じた。
明日はもう一冊を読み返そう。
その二冊を彩花へ渡す日は、まだ決めていない。
けれど机の上には、もう並べて置いてある。
忘れる心配など、最初からなかった。




