第40話 特別に嬉しかった
文化祭の翌朝、水瀬彩花が目を覚ましたのは八時を少し過ぎた頃だった。
カーテンの隙間から差し込む日差しは柔らかく、昨日の朝のような慌ただしさはない。一階から聞こえてくるのも文化祭の準備を急かすような物音ではなく、食器の触れ合う音と、テレビから流れる日曜朝の情報番組の声だった。
「……終わったんだ」
枕元のスマートフォンを手に取り、彩花は小さく呟いた。
昨日まで、ずっと文化祭のことを考えていた。
短編の締め切り。
文芸部の展示。
クラスの謎解き。
担当時間。
悠真たちが来る時間。
一つずつ決め、準備し、ようやく迎えた一日だった。
それが終わってしまうと、少しだけ部屋が静かに感じられる。
スマートフォンの画面には、昨夜のやり取りが残っていた。
『おやすみ、水瀬さん。また図書館で。』
『おやすみ、九条君。また図書館で。』
そこまで読んだところで、彩花は画面を伏せた。
(朝から見返して何してるんだろ)
自分で少し恥ずかしくなる。
ただ、昨日の最後に交わした言葉が、妙に頭に残っていた。
また図書館で。
文化祭という特別な日が終わっても、次に会う場所がある。
それが嬉しかった。
「彩花ー、起きてる?」
一階から母の声が飛んでくる。
「起きてるー!」
「朝ご飯食べるなら下りてきてね!」
「今行く!」
返事をして、彩花はベッドから降りた。
◇
朝食の食卓には、昨夜読まれた『また、話したいから』の透明ファイルが置かれていた。
「お父さん」
彩花は椅子へ座る前にそれを見る。
「読んだの?」
「読んだ」
耕助は妙に真剣な顔で頷いた。
「どうだった?」
「よかった」
「みんな最初それ言うね」
「だってよかったんだから仕方ないだろ」
「もっと何かないの?」
「あるぞ」
耕助は待ってましたとばかりに姿勢を正した。
「まず主人公二人の距離感が――」
「お父さん、長くなるならご飯食べてからにして」
紗月が味噌汁を置きながら遮った。
「今聞かれたから答えようとしたんだよ」
「彩花、これから朝ご飯だから」
「私は聞いてもいいけど」
「ほら」
「でも食べながらでいいよ」
「じゃあ食べながら話す」
耕助は満足そうに箸を持った。
向かい側では凛花が呆れたように笑っている。
「お父さん、昨日行けなかった分まで取り返そうとしてる」
「行きたかったんだから仕方ないだろ」
「来年があるよ」
彩花が言う。
「来年……」
耕助の顔が明るくなる。
「そうか。来年もあるのか」
「高校卒業まで毎年あるでしょう」
「じゃあ来年は絶対休み取る」
「一年先の休みはまだ取れないよ」
「気持ちの問題だ」
紗月が笑いながら焼き魚を取り分ける。
「それで、作品はどうだったの?」
「母さんまで」
「私はまだ途中なの。昨日寝る前に読み始めたけど、眠い状態で読むのもったいないと思って」
「別にそこまで構えなくてもいいのに」
「せっかく彩花が書いたんだから、ちゃんと読みたいでしょう」
「……ありがとう」
自然にお礼が出た。
以前なら「そんな大したものじゃないよ」と先に言っていたかもしれない。
今は、読んでもらえること自体をそのまま受け取れる。
「お父さんはね」
耕助が話を戻す。
「最後が好きだった」
「お父さんも?」
「も?」
彩花が止まる。
「誰かも同じこと言ったの?」
「感想カードにもあったし、お姉ちゃんも。九条君も」
「九条君も読んだのか」
「文化祭でね」
「どんな感想だった?」
「何でそこだけ詳しく聞くの」
「別にいいだろ」
「お父さん」
凛花が低い声で呼ぶ。
「普通に聞いて」
「普通だよ」
「顔が普通じゃない」
「俺はいつもこの顔だ」
「昨日、九条君の名前出たときも同じ顔してた」
「凛花はどっちの味方なんだ」
「彩花の味方」
「俺もだよ!」
「朝からうるさい」
紗月の一言で二人が黙る。
彩花は笑いを堪えながら味噌汁を飲んだ。
「九条君は」
少ししてから、自分から話す。
「最初と最後で似た会話をしてるんだけど、その意味が変わってるところが好きって」
「へえ」
紗月が感心したように頷く。
「ちゃんと読んでくれたのね」
「うん」
「彩花、そこ嬉しそうだったよ」
凛花が何気なく言う。
「そう?」
「昨日もそうだった」
「……だって、気づいてほしかったところだったから」
「なら嬉しいよね」
「うん」
彩花は素直に頷いた。
その返事に、誰も何も足さなかった。
耕助だけは何か言いたそうだったが、紗月に一度見られて口を閉じる。
穏やかな朝食が続いた。
◇
午前十時過ぎ。
彩花は自室の机で、文化祭から持ち帰ったものを整理していた。
クラス企画のパンフレット。
文芸部の部誌。
来場者用の小さな案内。
感想カード。
必要なものと、記念に残しておきたいものを分ける。
感想カードだけは、最初から捨てる選択肢がなかった。
机の引き出しから小さな箱を出し、一枚ずつ重ねていく。
『最後の会話が好きでした。』
『少しずつ仲良くなるところが自然でした。』
『また話したいと思える人がいるのっていいなと思いました。』
どれも短い。
それでも、昨日の部室の景色まで思い出せる。
最後の一枚を入れたところで、彩花は手を止めた。
感想カードではない言葉が頭に浮かぶ。
『俺、好きだった』
昨日の悠真。
直後に「話が」と続いたのに、一瞬だけ驚いた。
(あれはびっくりするよ)
思い出すだけで少し頬が熱い。
さらに夜のメッセージ。
『今日、水瀬さんが笑ってるところ、いっぱい見られたし。』
『水瀬さんの。』
彩花は机へ額をつけそうになった。
「……何でそこまで見てるの」
小さく呟く。
悠真は人をよく見ている。
困っている人がいれば気づくし、以前話したこともよく覚えている。
だから、自分だけではない。
そう考えるのが一番自然なはずだった。
けれど昨日一日を思い返すと、少しだけ違うような気もする。
文芸部室へ来たとき。
昼食のとき。
受付。
図書室。
廊下。
自分が普段使う場所を見たいと言った。
四十分受付をしているだけの自分を待っていてもいいと言った。
好きだと言ったものを覚えていた。
自分の字を、三十枚ほどのカードの中から見つけた。
(九条君、私のこと……)
そこまで考えて。
彩花は椅子の背へ身体を預けた。
「……いや」
その先を急いで決める必要はない。
九条君は友達。
大切な友達。
それは間違っていない。
ただ。
(私も、九条君のこと、ちゃんと見てるのかな)
昨日、少しだけ気になった。
悠真は自分の好きなものをいくつも覚えている。
では自分はどうだろう。
悠真が本を好きなこと。
家に大きな本棚があること。
甘いものも普通に食べること。
裁縫は初心者だったのに、途中で投げ出さずしおりを完成させたこと。
家族を大切にしていること。
琴葉には兄らしく接すること。
学校では生徒会の仕事をしていること。
約束を守ること。
自分が嫌だと言ったことを無理にしないこと。
思ったより、たくさん出てきた。
「……結構知ってる」
彩花は一人で呟いた。
それでも、まだ知らないことも多い。
桜華学園で普段どう過ごしているのか。
生徒会ではどんな顔をしているのか。
家ではどこで本を読むのか。
壁一面の本棚は本当にどんなものなのか。
何をしているときが一番楽しいのか。
将来、何をしたいのか。
昨日、悠真が青葉高校の普通の場所を見たがった理由が、今なら少し分かる気がした。
(私も見てみたいかも)
九条君が普段いる場所。
自分の知らない九条悠真。
そう思ったことが、少しだけ嬉しかった。
◇
昼前。
九条家では、悠真がリビングのソファで本を読んでいた。
正確には、同じページを少し長く開いたままにしていた。
「兄様」
向かい側のソファから琴葉が呼ぶ。
「何?」
「先ほどからページが進んでいません」
「読んでるよ」
「十分近く同じページです」
「そんなに?」
「はい」
悠真は本へ視線を戻す。
確かに、内容がほとんど頭に入っていない。
昨日の文化祭のことを考えていた。
「疲れているのでは?」
「それはあるかも」
「昨日はずっと歩いていましたからね」
「水瀬さんはもっと疲れてるだろうな」
自然に出た名前に、琴葉が少しだけ目を細める。
「また彩花さんですか」
「何が?」
「兄様が考えていることです」
「文化祭の話だから出てくるだろ」
「昨日から、文化祭の思い出の中心がほぼ彩花さんですね」
「水瀬さんの学校だったんだから当然じゃない?」
「青葉高校は彩花さんの所有物ではありませんよ」
「そういう意味じゃない」
悠真は苦笑し、本を閉じた。
しおりが見える。
生成りの布に紺色の糸。
自分で縫ったものだ。
「兄様」
「うん?」
「昨日、彩花さんの字をすぐ見つけましたよね」
「図書室の?」
「はい」
「見たことあったから」
「玲奈の字も分かりますか?」
「たぶん分からない」
「湊さんは?」
「見れば分かるかもしれないけど、自信ない」
「私の字は?」
「分かる」
「家族ですからね」
琴葉は少し間を置いた。
「では、彩花さんは?」
「分かった」
「家族ではありません」
「知ってるよ」
「長年の友人でもありません」
「それも知ってる」
「なのに分かるんですね」
悠真はしおりへ視線を落とした。
「……そうだな」
昨日は当たり前のように見つけた。
彩花の字だから分かると思った。
でも、言われてみれば。
知り合ってから、まだそれほど長いわけではない。
それなのに、自分は彩花の字を覚えている。
「兄様は」
琴葉は慎重に言葉を選ぶ。
「彩花さんのことを、よく見ていますね」
「うん」
悠真は否定しなかった。
琴葉が少し驚く。
「そこは認めるんですか」
「昨日も言われたし」
「田辺さんに?」
「それもあるし、一条にも。琴葉もずっと言ってるだろ」
「そうですね」
「だから考えた」
悠真は本を膝の上へ置いた。
「俺、水瀬さんのことは結構見てる」
「結構、ですか」
「かなり?」
「私に聞かれても」
「でも、他の人よりは見てると思う」
そこまでは、自分でも分かる。
昨日だけではない。
図書館で初めて会った頃から、彩花の表情をよく見ていた。
笑った。
困った。
照れた。
不安そうにした。
少し自信を持って言葉を口にした。
その一つ一つが記憶に残っている。
「何でだと思います?」
琴葉が尋ねる。
「気になるから」
今度も答えは早かった。
「彩花さんが?」
「うん」
「どういう意味で?」
そこだけは、悠真の返事が止まった。
分からないわけではない。
ただ、今すぐ一つの言葉へ押し込む必要を感じなかった。
「水瀬さんだから、でいいんじゃない?」
「……兄様らしいですね」
「駄目?」
「いいえ」
琴葉は微笑んだ。
「今は、それでいいと思います」
「何だよ、その言い方」
「何でもありません」
悠真は少しだけ納得できなかったが、追及はしなかった。
代わりにスマートフォンを見る。
まだ彩花からメッセージは来ていない。
自分から送る用事も、今のところない。
それなのに、一瞬だけ通知を確認してしまった。
琴葉は気づいたが、今度こそ何も言わなかった。
◇
午後一時四十分。
彩花は青凪市立中央図書館の入口前で、自転車の鍵をかけていた。
文化祭の翌日くらい家でゆっくりしてもいいと思った。
実際、午前中はずっと家にいた。
けれど昼食を食べ終えた頃から、何となく本を読みたくなった。
借りていた本も一冊読み終わっている。
返却する理由もある。
だから来た。
それだけ。
(別に、九条君がいるかもしれないからじゃないし)
そこまで考えてから、彩花は自分で眉を寄せた。
(何でわざわざ否定したんだろ)
会えたら嬉しい。
もう、それは認めている。
昨日も会ったばかりだ。
それでも今日また会えたら、たぶん嬉しい。
なら、それでいい。
自動ドアを抜ける。
休日の中央図書館は、文化祭の青葉高校とは比べものにならないほど静かだった。
受付カウンター。
返却機。
新刊案内。
聞こえるのは本を戻す音と、靴音、それから小さな子どもへ読み聞かせをする声くらい。
彩花は借りていた本を返却し、いつもの一般書コーナーへ向かった。
自然と視線が奥へ向く。
窓際。
いつも悠真が座ることの多い席。
そこに。
「……いた」
昨日、文芸部室で悠真が呟いたのと同じ言葉を、今度は彩花が小さく口にした。
悠真が座っている。
私服。
机の上には一冊の本。
そして、そのページには生成りのしおりが挟まれていた。
彩花が教えながら、悠真自身が作ったもの。
昨日、琴葉が教科書で使っているのを見つけたのと同じしおりだ。
(本当に使ってる)
知っていた。
大事に使うと言われた。
実際に何度も見た。
それでも嬉しい。
彩花は静かに近づいた。
悠真は本を読んでいて、まだ気づかない。
あと数歩。
そこで悠真が顔を上げた。
視線が合う。
一瞬だけ驚いたあと。
表情がはっきりと変わった。
「水瀬さん」
声は小さい。
図書館だから。
けれど、その顔だけで分かる。
嬉しそうだった。
「九条君」
彩花も笑う。
「昨日ぶり」
「うん」
「今日も来たんだ」
「水瀬さんも」
「本返しに」
「俺は借りに」
「もう借りる本決まった?」
「まだ」
「じゃあ探してる途中?」
「一回休憩してた」
悠真は向かいの椅子を見る。
「座る?」
「うん」
彩花は椅子を引き、いつものように向かいへ座った。
昨日とはまるで違う。
文化祭の飾りもない。
模擬店もない。
クラスメイトもいない。
琴葉も玲奈も凛花もいない。
いつもの図書館。
いつもの席。
九条君と水瀬さん。
それなのに。
昨日より少しだけ、相手のことを知っている。
「九条君」
「何?」
「昨日の続き、していい?」
悠真が目を瞬く。
「作品の?」
「それもあるけど」
彩花は少しだけ迷ってから言った。
「昨日、九条君が私の学校見たいって言ってたでしょう?」
「うん」
「今日、ちょっと分かったかも」
「何が?」
「その気持ち」
悠真が黙る。
「私も」
彩花は机の上で指を組んだ。
「九条君が普段いるところ、見てみたいかも」
「……桜華?」
「うん」
「文化祭?」
「それも楽しそうだけど、それだけじゃなくて」
昨日の悠真の言葉を思い出す。
『普通のところが見たい。』
「教室とか、生徒会でいるところとか」
「生徒会室?」
「入れるか分からないけど」
「関係者以外は難しいかな」
「じゃあ廊下とか」
「廊下?」
「九条君だって青葉の廊下見てたでしょう」
「見てた」
「だから同じ」
彩花は少し笑う。
「九条君が普段どんなところにいるのか、私も見てみたい」
悠真は何も言わなかった。
ただ、彩花を見ている。
「……九条君?」
「ごめん」
「どうしたの?」
「嬉しかった」
「何が?」
「水瀬さんが、俺のこと知りたいって言ってくれたから」
「……」
彩花の頬が少し熱くなる。
「学校の話だよ」
「分かってる」
「じゃあそういう言い方しないで」
「どういう言い方?」
「知らない」
彩花は視線を本棚へ逃がした。
悠真は小さく笑った。
「桜華の文化祭はまだ先だけど」
「うん」
「一般公開の日、分かったら教える」
「いいの?」
「来てほしい」
今度は彩花が黙った。
悠真はそれを特別なことのように言わなかった。
けれど、昨日の自分を思い出す。
悠真たちが青葉高校へ来る。
そのことを朝から何度も気にしていた。
正門から入ってきた姿を見つけて嬉しかった。
自分の学校を見てもらいたかった。
そして今。
悠真も同じように、自分の学校へ来てほしいと言っている。
「……行きたい」
彩花は答えた。
「予定合えば」
「うん」
「琴葉さんもいるし」
「いる」
「玲奈さんも?」
「たぶん来ると思う」
「じゃあ安心」
「俺だけだと不安?」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる」
悠真が笑う。
「でも」
彩花は少し考える。
「九条君がいるなら、それでも大丈夫だと思う」
悠真の笑みが止まった。
「……九条君?」
「うん」
「今の、もう一回言って」
「嫌」
「何で?」
「何となく」
「俺、結構嬉しかったんだけど」
「だから嫌なの」
「どういうこと?」
「恥ずかしいから」
彩花は頬を赤くしながら本棚を見る。
悠真は追及しなかった。
ただ、さっきより少し嬉しそうに本を閉じた。
◇
しばらく二人で本を選んだ。
昨日の文化祭について話し、文芸部の感想カードが増えていたことも話した。
「何枚あった?」
「全部で七枚」
「結構あったんだ」
「うん。短いのもあったけど」
「どれが一番嬉しかった?」
昨日、部長にも聞かれた質問。
彩花は足を止めた。
目の前には小説の棚。
隣には悠真。
「感想カードの中なら」
「うん」
「『また話したいと思える人がいるのっていいな』って書いてくれたやつ」
「へえ」
「自分で書いた話から、そういうこと考えてくれたんだって思ったら嬉しかった」
「分かる」
「九条君は?」
「俺?」
「読んだ側として、一番残ったところ」
悠真は少し考える。
「やっぱり最後かな」
「また話そう、のところ?」
「うん」
「昨日も言ってたね」
「あと」
悠真は一冊の本を棚から抜きながら続けた。
「題名」
「題名?」
「読み終わってから見ると、最初に見たときと意味が変わった」
「……本当?」
「うん。最初は普通にいい題名だと思ったけど、読んだあとだと、二人の関係そのものみたいに見えた」
彩花は黙った。
そこまで考えて読んでもらえるとは思っていなかった。
「水瀬さん?」
「嬉しい」
素直に言った。
「それ、すごく嬉しい」
「ならよかった」
「九条君に読んでもらってよかった」
「三回目」
「数えてるの?」
「昨日から三回言われた」
「そんなに言った?」
「言った」
「……じゃあ、もう言わない」
「何で?」
「言いすぎたから」
「別に何回でもいいけど」
「九条君が数えるから嫌」
「じゃあ数えない」
「もう遅いよ」
二人で小さく笑う。
近くにいた利用者が本を選んでいることに気づき、声をさらに落とした。
そのまま別の棚へ移動する。
しばらくして、悠真が一冊を手に取った。
「これ読んだことある?」
「あるよ」
「どうだった?」
「私は好き。最初はちょっとゆっくりだけど、途中から面白くなる」
「じゃあ借りようかな」
「私が好きって言ったから?」
「それもある」
「また?」
「何?」
「昨日も私が焼きそばって言ったら同じのにしたでしょう」
「あれは焼きそば食べたくなっただけ」
「本当に?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「水瀬さんが選んだから」
「……何で?」
悠真は本の表紙を見る。
「同じもの試したら、水瀬さんがどこ好きだったのか分かるかもしれないから」
彩花は返事を忘れた。
昨日もそうだった。
自分の好きな場所。
自分の書いた話。
自分の選んだもの。
悠真はそれらを、ただ「そうなんだ」で終わらせない。
自分でも見てみようとする。
「九条君」
「うん?」
「私も何か読もうかな」
「何を?」
「九条君が好きな本」
悠真が動きを止めた。
「俺の?」
「うん」
「前にも貸したことあるけど」
「そうじゃなくて」
彩花は棚を見る。
「九条君が一番好きなの」
「一番?」
「一冊だけ選ぶなら」
「難しいな」
「図書室の展示と同じ」
「水瀬さんは選んだんだろ?」
「選んだよ」
「何だったの?」
「児童文学」
「題名は?」
「それは今度」
「何で隠すの?」
「九条君も一冊選んだら教える」
「交換?」
「そう」
彩花は少し笑う。
「お互い、一冊だけ」
「面白そう」
「でしょう?」
「じゃあ考える」
「今日決めなくていいよ」
「水瀬さんも教えるの今日じゃない?」
「うん」
「じゃあ次に会ったとき?」
彩花は少しだけ考えてから頷いた。
「それまでに決められたら」
「分かった」
また一つ、次に会う理由ができた。
けれど、二人ともそれを大げさには扱わなかった。
次に会う。
そのこと自体が、もう特別な約束を必要としなくなっていた。
◇
午後三時を過ぎた頃、二人は窓際の席へ戻った。
彩花は新しく選んだ本。
悠真は彩花が勧めた本。
向かい合って読み始める。
昨日とはまるで違う静けさだった。
ページをめくる音。
空調の低い音。
遠くで子どもが母親へ何かを尋ねる声。
いつもの図書館。
彩花は数ページ読んだところで、ふと顔を上げた。
悠真は本を読んでいる。
ページの端から、生成りのしおりが少しだけ見えていた。
視線を戻そうとして。
気づく。
悠真の右手。
昨日、文化祭で見たときもそうだった。
裁縫を始めた頃は、針を持つだけで肩に力が入っていた手。
今は普通に本を押さえている。
(九条君のこと、私も結構見てるのかも)
そんなことを思った。
その瞬間。
悠真が顔を上げた。
視線が合う。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「俺、何かついてる?」
「ついてない」
「じゃあ?」
「ちょっと見てただけ」
言ってから、彩花は止まった。
悠真も止まる。
「……俺を?」
「うん」
「何で?」
「何でって」
昨日、自分が何度も聞いた質問だ。
悠真が自分を見ているたび。
自分の学校を見たがるたび。
好きなものを覚えているたび。
どうして、と聞いた。
今度は自分が聞かれている。
彩花は少し考えた。
「九条君がいたから」
それしか思いつかなかった。
「いたから見た」
悠真が目を瞬く。
それから、ゆっくり笑った。
「そっか」
「何、その顔」
「いや」
「笑ってる」
「嬉しかったから」
「見られただけで?」
「水瀬さんになら」
また。
あまりにも自然に言う。
彩花は何も返せなくなり、本へ視線を落とした。
けれど、文字がすぐには頭に入ってこない。
向かい側でも、悠真は本を開き直していた。
数秒後。
今度は悠真が顔を上げる。
彩花を見る。
すぐに気づかれた。
「九条君」
「何?」
「今見たでしょう」
「見た」
「何で?」
「水瀬さんがいたから」
同じ言葉を返される。
彩花は一瞬黙ってから、笑いを堪えきれなかった。
「真似した」
「でも本当」
「ずるい」
「何が?」
「私が先に言ったのに」
「言葉って早い者勝ちなの?」
「今だけ」
二人とも声を抑えて笑った。
近くの席の人がこちらを見たため、すぐに口を閉じる。
それから。
ほとんど同時に、また本へ視線を戻した。
◇
午後四時前。
二人は図書館を出た。
空はまだ明るいが、九月の夕方らしい風が吹いている。
自転車置き場へ向かう途中、彩花が立ち止まった。
「九条君」
「何?」
「一冊、忘れないでね」
「一番好きな本?」
「うん」
「水瀬さんも」
「私はもう決めてるよ」
「じゃあ俺だけ宿題か」
「そうだね」
「期限は?」
「ない」
「また会うまで?」
「それが期限になるのかな」
「じゃあ意外と短いかも」
「何で?」
「俺、たぶんまた来るから」
悠真は図書館を見る。
「来週かもしれないし」
「予定あるかもしれないでしょう」
「そのときはその次」
「……そっか」
「うん」
悠真は当たり前のように答える。
彩花も、それ以上何も言わなかった。
次の日曜日。
その次。
あるいは平日のメッセージ。
会う日を今ここで決めなくても、二人の間にはもう次がある。
「じゃあまた」
悠真が言う。
「うん。またね」
彩花も返す。
自転車の鍵を外す。
そのとき、悠真がふと思い出したように声をかけた。
「水瀬さん」
「何?」
「昨日の文化祭」
「うん」
「一番よかったの、やっぱり水瀬さんに会えたことだった」
彩花の手が止まった。
朝、琴葉に聞かれて答えた言葉。
そのまま本人へ伝えるつもりはなかった。
けれど今、帰ろうとする彩花を見たら言いたくなった。
「文化祭自体も楽しかったし、作品もよかった。でも」
悠真は少しだけ言葉を選ぶ。
「水瀬さんがあそこにいて、普段の水瀬さんを見られたのが一番よかった」
彩花は何も言わずに悠真を見る。
冗談を言っている顔ではない。
いつもの穏やかな顔。
だからこそ、余計に困る。
「……九条君」
「うん?」
「そういうこと、他の友達にも言う?」
悠真は少し考えた。
湊。
琴葉。
玲奈。
学校の友人。
誰かの文化祭へ行って、その相手に同じことを言うか。
「言わないと思う」
答えは簡単だった。
「水瀬さんだから言った」
彩花の胸が大きく鳴った。
昨日から何度も感じたものより、少しだけ強い。
「……そっか」
それしか言えなかった。
「うん」
悠真は、それ以上説明しなかった。
彩花も聞かなかった。
ただ、自転車のハンドルを握ったまま、少しだけ視線を落とす。
「私も」
声が小さくなる。
「昨日、九条君が来てくれたの、他の人が来てくれたのとはちょっと違って嬉しかった」
今度は悠真が黙った。
「琴葉さんも玲奈さんも来てくれて嬉しかったよ。お姉ちゃんも。でも」
彩花は自分の言葉を確かめるように続ける。
「九条君に、私が普段いるところを見てもらえたのは……なんか、特別に嬉しかった」
言い終えた途端、恥ずかしくなった。
「じゃあ、帰るね」
「待って」
「何?」
「今の」
「聞き返すの禁止」
「でも」
「禁止」
「……分かった」
悠真は諦めた。
ただし。
笑っていた。
今まで彩花が見た中でも、かなり嬉しそうに。
「じゃあ、またね。水瀬さん」
「うん」
彩花は自転車を押しながら数歩進む。
そこで一度だけ振り返った。
「またね、九条君」
呼び方は、昨日までと何も変わっていない。
水瀬さん。
九条君。
図書館で名前を交換した日から続いている呼び方。
それでも。
悠真が「水瀬さん」と呼ぶ声を、彩花はもう他の誰かへ向ける声と同じだとは思えなかった。
そして悠真もまた。
自分へ向けられた「九条君」が、最初に名前を呼ばれた日のものとはまるで違うことを知っていた。
彩花が自転車に乗る。
ペダルを踏む。
数メートル進んだところで、前方から小さな男の子が飛び出しかけた。
「あっ」
彩花はすぐにブレーキを握った。
自転車が止まる。
男の子の母親が慌てて手を引いた。
「すみません!」
「大丈夫です」
彩花が答える。
少し離れたところにいた悠真も、反射的に一歩前へ出ていた。
「水瀬さん、大丈夫?」
「うん。全然ぶつかってないよ」
「よかった」
「九条君」
「何?」
彩花は自転車に跨がったまま、少し笑った。
「本当にすぐ来るね」
「何が?」
「私が何かあると」
悠真は止まる。
「……そう?」
「うん」
昨日、人混みの中でも同じだった。
今日もそう。
考えるより先に動いている。
「でも」
彩花はもう一度ペダルへ足を置く。
「ありがとう」
「うん」
「じゃあ今度こそ、またね」
「また」
彩花が走り出す。
今度は止まらない。
悠真はその後ろ姿を見送った。
角を曲がり、見えなくなる。
その直後。
悠真のスマートフォンが震えた。
まだ彩花が出発して一分も経っていない。
画面には、一通のメッセージ。
『さっき言い忘れた。』
続けて、もう一通。
『九条君の一番好きな本、ちゃんと考えてきてね。』
悠真は思わず笑った。
すぐに返信する。
『分かった。』
少し考え。
もう一文だけ加えた。
『水瀬さんに読んでほしい一冊を選ぶ。』
送信。
数秒後。
『それ、一番好きな本と同じ?』
悠真は画面を見たまま考える。
そして。
『たぶん違う。』
『じゃあ二冊になるじゃん。』
『二冊じゃ駄目?』
『一冊って言ったでしょう。』
『じゃあ悩む。』
『ちゃんと悩んでください。』
『はい。』
そこで一度やり取りが止まる。
悠真はスマートフォンをポケットへ入れた。
その瞬間、また震えた。
『でも、九条君が私に読んでほしい本も気になる。』
悠真は画面を見つめる。
今度は、すぐに返信しなかった。
代わりに図書館の入口へ視線を向ける。
さっきまで二人でいた場所。
そして、もう一度スマートフォンを見る。
『じゃあ、今度は二冊持ってくる。』
送信。
返ってきたのは短い一文だった。
『楽しみにしてる。』
悠真はその文字を見て、ポケットから今日借りた本を取り出した。
生成りのしおりが、ページの間から少しだけ覗いている。
その紐を指先で押さえながら、悠真は駅へ向かって歩き出した。




