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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第39話

一般公開終了を知らせる校内放送が流れた直後から、青葉高校は朝とは別の種類の慌ただしさに包まれた。


 来場者を迎えるために開け放たれていた教室の扉が閉じられ、廊下に置かれていた案内板が次々と回収されていく。模擬店では売り切れた食材の箱をまとめる生徒が走り回り、中庭からはテントを畳むために声を掛け合う生徒たちの声が聞こえていた。


 正門で悠真たちを見送った彩花も、そのまま余韻に浸っているわけにはいかなかった。


「水瀬さん!」


 校舎へ戻ったところで、クラスメイトに呼び止められる。


「二組、片づけ始めてるよ。文芸部とどっち先?」


「文芸部に一回顔出してから教室行く。展示だけ確認したいから」


「了解。こっちはまだ謎解きの道具まとめてるから大丈夫」


「ありがとう。すぐ行くね」


 彩花は階段を上がり、文芸部室へ向かった。


 午前中は来場者の出入りが続いていた部室も、今は部員だけになっている。机の上には作品ファイルやおすすめ本の紹介カードが残っていたが、入口の看板はすでに外され、部長が壁の飾りを一枚ずつ剥がしていた。


「戻りました」


「おかえり、水瀬さん。お友達は?」


「今帰りました」


「楽しかった?」


「はい」


 迷わず答えたあと、彩花は少しだけ自分で驚いた。


 けれど、言い直す必要はない。


 楽しかった。


 朝から緊張して、文芸部の当番をして、悠真たちが来る時間を何度も気にして、学校を案内して、自分の書いたものまで読んでもらった。


 一日の中にいろいろなことが詰まっていたけれど、全部まとめて楽しかったと言える。


「よかったね」


 部長はそれ以上からかわず、机の上に置かれた小箱を指した。


「感想カード、作品ごとに分けたよ。水瀬さんの分はそこ」


「もう分けたんですか?」


「片づけながらね。持って帰っていいよ」


「ありがとうございます」


 彩花は小箱へ近づいた。


 昼過ぎに見せてもらった三枚だけではない。


 新しく何枚か増えている。


「……こんなに?」


「午後に読んでくれた人もいたみたい」


 部長が笑う。


「全部が長い感想じゃないけどね」


「それでも嬉しいです」


 彩花は一枚ずつ手に取った。


『会話が自然で読みやすかったです。』


『最後まで恋愛になるのかと思ったけど、ならない終わり方も好きでした。』


『友達になったあとも関係が変わる、というところが印象に残りました。』


 短いものもある。


 丸をつけるだけの簡単な感想もある。


 それでも、自分の作品を誰かが読んだ痕跡だった。


「水瀬さん」


「はい?」


「今日、一番嬉しかった感想ってどれ?」


「一番ですか?」


「うん」


 彩花は手元のカードを見る。


 昼過ぎに読んだもの。


 今初めて読んだもの。


 どれも嬉しい。


 自分の書いたものに対して、知らない誰かが何かを感じてくれた。それだけでも十分だった。


 けれど、一番と聞かれた瞬間。


 最初に思い浮かんだのはカードに書かれた文章ではなかった。


『俺、好きだった』


 悠真の声。


 読み終えた直後に言われた言葉。


 そのあと、二人でベンチに座って聞いた感想。


 同じような会話でも、最初と最後で意味が違って見えること。


 友達になったから終わりではなく、そのあとも少しずつ変わっていくところがよかったこと。


 自分が読んでほしかったところを、きちんと見つけてもらえた。


(……あれが、一番嬉しかったかも)


 そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。


「水瀬さん?」


「あ、すみません」


「悩む?」


「はい。どれも嬉しいから」


 嘘ではない。


 ただ、頭に浮かんだ一つだけは言わなかった。


「いい悩みだね」


「そうですね」


 彩花は笑い、小箱のカードを丁寧にまとめた。


 その横に、透明なファイルが置かれている。


『また、話したいから』


 自分の作品。


「それも持って帰っていいよ」


「はい」


 ファイルを手に取る。


 昨日までは、人に見せることを考えるだけで緊張した。


 今も恥ずかしさがなくなったわけではない。


 それでも、朝にこの表紙を見たときとは少し違う。


(書いてよかったな)


 今度は誰かに言われたからではなく、自分でそう思えた。


     ◇


 一年二組へ戻ると、謎解き企画の跡は半分ほど消えていた。


 壁に貼られていた古書風の紙は剥がされ、偽物の本は段ボールへ詰められている。教室の中央では机が元の位置へ戻され始めていた。


「水瀬、遅い」


 段ボールを抱えた大地が言う。


「ごめん。文芸部の片づけしてた」


「知ってる。だから一応文句言っただけ」


「じゃあ言わなくていいでしょう」


「文化祭最後の日くらい言わせろよ」


「今日しかやってないけどね」


「細かい」


 大地は段ボールを床へ置く。


「そっち終わった?」


「まだ少し残ってるけど、私の展示は片づいた」


「じゃあこっち手伝って」


「何すればいい?」


「偽本の中身抜いて、使える紙だけ分けて。来年何かに使えるかもしれないから」


「分かった」


 彩花は鞄と作品ファイルを教卓の脇へ置き、作業へ加わった。


 午前中まで謎解きの道具だった偽物の古書。


 中には文字を隠した紙が挟まれていたり、番号を書いたカードが貼られていたりする。


 数週間かけて作ったものを、一時間もかからず解体していくのは少し不思議だった。


「これ、残す?」


 彩花が一冊持ち上げる。


「あ、それ一番出来よかったやつ」


「じゃあ残す?」


「記念に?」


「来年使えるかもしれないし」


「じゃあ保管箱」


「了解」


 作業を続けていると、大地がふと思い出したように口を開いた。


「そういや九条君たち、帰った?」


「うん。さっき」


「楽しんでた?」


「かなり」


「謎解き暫定一位、結局抜かれたけどな」


「玲奈さん悔しがってたよ」


「本気だったもんな、あの人」


 大地が笑う。


「九条君も普通に楽しんでたし」


「うん」


「なんか安心した」


「何が?」


「桜華って聞いてたから、もっとこう……」


 大地は両手を広げる。


「『庶民の文化祭というものを見学させてもらおう』みたいなの想像してた」


「そんな人だったら私も友達になってないよ」


「だよな」


「琴葉さんも玲奈さんも普通でしょう?」


「普通。むしろ玲奈さん、謎解きに本気すぎて怖かった」


「負けず嫌いなのかも」


「来年リベンジに来そう」


「本人も来年って言ってた」


「マジで?」


「予定が合えばね」


「一年先の予定をもう立ててんの?」


「約束ってほどじゃないよ」


「九条君も?」


「……九条君には聞いてない」


 彩花は偽本からカードを抜きながら答えた。


 でも。


『また図書館で』


 帰り際の言葉を思い出す。


 来年よりずっと近い次が、もう当たり前のようにある。


「水瀬」


「何?」


「手止まってる」


「あ」


「今日それ多くない?」


「何が?」


「たまに急にぼーっとする」


「疲れたんじゃない?」


「自分で言う?」


「朝からいたんだから疲れるよ」


「まあ、それはそう」


 大地は深く追及せず、次の段ボールへ手を伸ばした。


 彩花も作業へ戻る。


 数分後、教室の後ろから担任の声が飛んだ。


「一年二組、机戻したら一回集合! 最後に写真撮るぞ!」


「写真?」


「クラス写真だって」


「全員いる?」


「帰ったやつ以外はいるだろ」


 片づけの手が止まり、生徒たちが黒板前へ集まり始める。


 文化祭用に作られた『消えた書庫の謎』の看板だけは、まだ入口から外されていなかった。


「看板持ってくる?」


「持ってこよう!」


「田辺、取って!」


「俺?」


「装飾担当!」


「はいはい」


 大地が看板を運んでくる。


 彩花もクラスメイトたちの中へ入った。


 前列。


 後列。


 椅子に座る生徒。


 床にしゃがむ生徒。


「水瀬さん、こっち空いてる!」


「ありがとう」


 呼ばれた場所へ入り、隣の女子と肩が触れそうな距離で並ぶ。


 担任がスマートフォンを構える。


「撮るぞー。目つぶるなよ!」


「先生が一番つぶりそう!」


「うるさい!」


 笑い声が広がる。


「はい、三、二、一!」


 シャッター音。


 その瞬間、彩花は自然に笑っていた。


 誰かと比べることもなく。


 自分が目立つかどうかも考えず。


 ただ、一年二組の一人として。


     ◇


 同じ頃。


 青葉高校を出た悠真たちは、青凪駅へ向かって歩いていた。


 朝とは逆方向の道。


 駅へ向かう来場者が多く、歩道には同じように文化祭帰りらしい家族連れや学生が何組もいる。


「楽しかったですね」


 琴葉が言った。


「うん」


 玲奈も頷く。


「思ってたより見るところ多かった」


「謎解きもよくできていました」


「一位抜かれたけど」


「まだ言うのかよ」


 悠真が笑う。


「暫定一位だったのに」


「十五分くらいしか一位じゃなかっただろ」


「一位は一位」


「それ、昼にも言ってた」


「大事なことだから」


 三人で話しながら歩く。


 悠真の手には、文芸部でもらった部誌が入った紙袋。


 中には琴葉と玲奈の分もある。


「兄様」


「何?」


「今日は満足しましたか?」


「した」


 即答だった。


「青葉高校を見られて?」


「それもある」


「文化祭を楽しめて?」


「それも」


「彩花さんに会えて?」


「それが一番」


 琴葉が足を止めかけた。


 玲奈も横を見る。


「……何?」


 悠真が二人を見る。


「いや」


 玲奈が先に笑った。


「九条、朝より進んでるなと思って」


「何が?」


「朝は『水瀬さんがいるから来た』だったのに、帰りには『会えたのが一番』なんだ」


「実際そうだったから」


「へえ」


「何だよ」


「別に」


 玲奈は楽しそうに前を向く。


 悠真は少し眉を寄せたが、否定はしなかった。


 今日、何が一番印象に残ったか。


 文芸部の展示。


 謎解き。


 中庭の焼きそば。


 図書室。


 吹奏楽部。


 どれも楽しかった。


 けれど、一つだけ選ぶなら。


 文芸部室の入口で彩花を見つけた瞬間だった。


 自分に気づいて、ぱっと笑った顔。


 あの一瞬が、朝から見たどんな展示より鮮明に残っている。


「兄様」


「今度は何?」


「また何か考えていますね」


「今日のこと」


「彩花さんのことではなく?」


「水瀬さんも含めて今日のこと」


「ほとんど同じでは?」


「違うだろ」


「そうでしょうか」


「文化祭の話だってしてる」


「では、何が一番印象に残っていますか?」


 悠真は答えようとして、止まった。


 さっき自分の中で出た答えを、そのまま妹に言うのはさすがに少し恥ずかしい。


「……作品」


「彩花さんの?」


「うん」


「やはり彩花さんではありませんか」


「作品だって言ってるだろ」


 琴葉が小さく笑う。


「どうでした?」


「よかったよ」


「具体的には?」


「それ、水瀬さんに言ったから琴葉にはもういい」


「私も読みましたよ」


「なら自分の感想があるだろ」


「あります」


「じゃあそれでいい」


 悠真はそう言ったあと、少しだけ歩調を緩めた。


 作品の感想は彩花に伝えた。


 でも、まだ一つ伝えていないことがある。


 文化祭へ来てよかった。


 学校を見られてよかった。


 作品も読めてよかった。


 それは全部言った。


 ただ。


(今日の水瀬さん、すごく楽しそうだった)


 それを見られたのが嬉しかった。


 学校で友達と話す彩花。


 文芸部で先輩にからかわれる彩花。


 受付で来場者へ説明する彩花。


 自分の作品の感想カードを読んで、「書いてよかった」と笑った彩花。


 中央図書館で会っているだけでは知らなかった顔が、今日一日でいくつも増えた。


 その全部を、また見たいと思う。


 同時に。


 自分が知らない彩花を誰かが知っていることを、少しだけ羨ましいとも思った。


 文芸部の先輩。


 大地。


 クラスメイト。


 彼らにとっては日常の彩花が、自分には今日初めて見られた姿だった。


 嫌ではない。


 当たり前だとも分かっている。


 それでも。


(もっと知りたいんだよな)


 今度は、その気持ちを不思議だとは思わなかった。


 誰にでも同じことを思うわけではないことも、もう何となく分かっている。


 琴葉が学校で誰と話しているかを全部知りたいとは思わない。


 湊が普段どこで昼を食べるかも気にならない。


 玲奈が何を好きだと言ったかを、すべて覚えているわけでもない。


 彩花だけだ。


 好きな本。


 好きな食べ物。


 好きな場所。


 書く文字。


 よくする表情。


 学校での過ごし方。


 次に書くかもしれない物語。


 知るたびに、それで満足するのではなく、もう一つ知りたいものが増える。


(……俺、水瀬さんのこと、相当好きなんだな)


 そこまで考えたところで、悠真は足を止めそうになった。


 けれど。


 その「好き」が何なのかまでは、まだ考えなかった。


 人として好きなのは、もうずっと前から分かっている。


 友達として大事なのも分かっている。


 今はそれで困っていない。


 だから急いで名前をつける必要もない。


「兄様?」


 琴葉が振り返る。


「何でもない」


「本当ですか?」


「うん」


 悠真は少し笑う。


「今日、来てよかったなって思ってただけ」


「それなら何よりです」


 琴葉も笑った。


     ◇


 午後五時前。


 文化祭の片づけを終えた彩花が校舎を出る頃には、正門の大きな看板から紙花の一部が外され始めていた。


 朝はあれほど賑やかだった中庭も静かになり、模擬店のテントは骨組みだけになっている。


「終わったー!」


 後ろからクラスメイトの声が響く。


「疲れた!」


「明日休みでよかった!」


「月曜も片づけあるぞ!」


「聞きたくない!」


 笑い声が広がる。


 彩花も友人たちへ手を振り、昇降口で靴を履き替えた。


 鞄の中には『また、話したいから』の原稿と、感想カード。


 それだけで、朝より少し鞄が重くなったような気がする。


 正門を出る前にスマートフォンを確認すると、家族のグループに紗月からメッセージが届いていた。


『お父さんの仕事が思ったより遅くなったから、今日は行けなかった。ごめんね。帰ったら文化祭の話聞かせてね』


 続けて耕助。


『ごめん! 原稿は家で読ませて!』


 彩花は少し笑った。


『大丈夫。今から帰るね。原稿持って帰ってるよ』


 送信する。


 その直後。


 別の通知が一つ表示された。


 九条悠真。


 彩花の指が自然に止まる。


『今日はありがとう。今、駅着いた。』


 短いメッセージ。


 それを見ただけなのに、朝から何度も感じた小さな嬉しさがまた戻ってくる。


『こっちこそありがとう。片づけ終わって、今帰るところ。』


 送る。


 すぐに既読がついた。


『お疲れさま。』


『九条君も。』


 そこで終わるかと思った。


 けれど、少ししてまた表示が変わる。


『作品の感想、さっき言ったので全部じゃないから、また今度話したい。』


 彩花は正門の前で立ち止まった。


(まだあるんだ)


 あれだけ聞いたのに。


 好きだったこと。


 最後がよかったこと。


 同じような会話の意味が変わっていること。


 十分すぎるくらいだった。


 それでも悠真は、まだ話したいと言っている。


『うん。聞きたい。』


 送る。


 少し考えて、もう一文。


『私も、九条君がどう読んだのかもっと聞きたい。』


 送信。


 今度はすぐに返事が来なかった。


 彩花はスマートフォンを見たまま待つ。


 数十秒。


『じゃあ、次に会ったとき。』


 その一文を見て、彩花は笑った。


『うん。』


 返してから、スマートフォンを鞄へ入れる。


「水瀬?」


 後ろから大地に呼ばれた。


「まだいたの?」


「今帰るところ」


「なんか笑ってなかった?」


「メッセージ来てたから」


「九条君?」


「うん」


 彩花は隠さなかった。


「今日のお礼」


「そっか」


 大地はそれだけ言い、自転車置き場の方を指す。


「じゃあ俺こっち。月曜な」


「うん。また月曜」


「文化祭お疲れ」


「田辺君も」


 大地が去っていく。


 彩花も自転車置き場へ向かった。


 以前なら、九条君からのメッセージだと口にするだけでも少し意識したかもしれない。


 今は普通に言える。


 友達からメッセージが来た。


 ただ、それだけ。


 なのに。


(次に会ったとき、か)


 その言葉だけは、胸の中に少し長く残った。


     ◇


 九条家へ戻った悠真は、自室で今日もらった部誌を机へ置いた。


 着替えを済ませ、鞄からスマートフォンを出す。


 彩花とのやり取りは、さっきの『うん。』で止まっている。


 次に会ったとき。


 そう送った。


 いつなのかは決めていない。


 けれど、中央図書館へ行けばまた会える気がしている。


 必ず毎週という約束ではない。


 会えない日もある。


 それでも、「次」がなくなるような感覚はなかった。


 机の上に置いた部誌を開く。


 目次の中に、水瀬彩花の名前がある。


 文化祭用の短編とは違う短い文章。


「……」


 悠真は一度閉じた。


 そして、もう一度開いた。


(これも水瀬さんが書いたんだよな)


 読もうとしたところで、ドアがノックされる。


「兄様」


「どうぞ」


 琴葉が入ってきた。


「母様がお茶にしませんかと」


「今行く」


「何を読んでいたんですか?」


「部誌」


「ああ」


 琴葉は机の上を見る。


 開かれたページに彩花の名前があることへ気づいた。


「早速ですか」


「もらったから読むだろ」


「他の方の作品もありますよ?」


「読むよ」


「最初に彩花さん?」


「目次の上から見てたらあっただけ」


「そういうことにしておきます」


「本当だって」


 琴葉は小さく笑い、部屋を出ようとする。


「琴葉」


「はい?」


「今日さ」


「はい」


「水瀬さん、楽しそうだったよな」


 琴葉は少しだけ目を丸くした。


「そうですね」


「よかった」


「……兄様がですか?」


「何が?」


「彩花さんが楽しそうで、兄様が嬉しいんですか?」


「嬉しいよ」


 悠真は迷わず答えた。


「水瀬さん、自分の学校好きって言ってたし。作品も感想もらって嬉しそうだったし」


「そうですね」


「あと、学校だと図書館にいるときと結構違った」


「どちらの彩花さんが好きですか?」


 琴葉は何気ない調子で尋ねた。


 悠真は少し考える。


「どっちも」


「即答ですね」


「だって同じ水瀬さんだろ」


「そうですけれど」


「図書館で本読んでる水瀬さんも好きだし、今日みたいに友達と話してる水瀬さんも好き。琴葉といるときも違うし」


「……兄様」


「何?」


「いえ」


 琴葉は言いかけた言葉を飲み込んだ。


 兄の中ではまだ、「好き」という言葉の置き場所が広い。


 本が好き。


 学校が好き。


 友達が好き。


 彩花が好き。


 それらがまだ同じ棚に並んでいる。


 けれど。


 今日一日、兄を見ていた琴葉には分かる。


 同じ棚に置かれていても、彩花だけは明らかに扱いが違う。


「お茶、冷めますよ」


「今行く」


 琴葉は先に部屋を出た。


 悠真も立ち上がる。


 その前に一度だけ、机の上の部誌へ目を向けた。


 彩花の名前があるページに、細い紙のしおりを挟む。


 生成りの布。


 紺色の糸。


 深緑の紐。


 彩花に教えてもらいながら、自分で作ったしおりだった。


     ◇


 夜。


 水瀬家の食卓には、文化祭から持ち帰った焼き菓子が並んでいた。


「行きたかったなあ」


 耕助が本気で残念そうに言う。


「仕事だったんだから仕方ないでしょう」


 紗月が笑う。


「でも彩花の受付見たかった」


「見るものじゃないよ」


「文芸部も」


「原稿持って帰ってきたから読めるよ」


「本当?」


「うん」


 彩花は鞄から透明なファイルを取り出した。


『また、話したいから』


 それを見ただけで、耕助の顔が明るくなる。


「これか!」


「お父さん、今から読む?」


「読む!」


「私がお風呂入ってる間にして」


「目の前は駄目なの?」


「駄目」


「分かった」


 耕助が素直に引き下がる。


 凛花はすでに読んでいるため、余裕のある顔で味方する。


「本当に目の前だと落ち着かないからやめてあげて」


「凛花は読んだの?」


「文化祭で」


「ずるい!」


「何が?」


「俺も行きたかった!」


「お父さん、そこ張り合うところじゃないから」


 紗月が呆れたように笑う。


「で、どうだったの?」


「よかったよ」


「それだけ?」


「本人いるから」


「お姉ちゃんまで」


 彩花が頬を膨らませる。


 食卓に笑いが広がった。


「そういえば」


 紗月が彩花を見る。


「九条君たちも楽しんでた?」


「うん。琴葉さんも玲奈さんも」


「九条君は?」


「九条君も」


「文芸部も見たの?」


「見たし、クラスの謎解きもやったよ。図書室も行って、学校の中も案内した」


「ずいぶん回ったのね」


「うん」


「作品も?」


 紗月が透明ファイルを見る。


 彩花は一瞬だけ止まった。


「読んでもらった」


「どうだったって?」


「……好きだったって」


 耕助が止まった。


 箸も止まった。


「何が?」


「作品が」


「作品ね」


「何だと思ったの」


「いや、何も」


「お父さん」


「何も言ってないぞ」


 耕助は妙に姿勢を正した。


 凛花が静かにお茶を飲む。


「九条君、ちゃんと感想言ってたよ」


「お姉ちゃん」


「最後の場面とか、同じような会話の意味が変わってるところとか」


「そこまで聞いてたの?」


「あとから彩花に聞いた」


「いつ?」


「さっき」


「聞かれてない」


「帰りにちょっと」


「……そうだっけ」


 彩花は思い返す。


 片づけの途中、凛花から少し聞かれたような気もする。


「それで」


 紗月が穏やかに尋ねる。


「彩花はどうだったの?」


「何が?」


「読んでもらえて」


 彩花は少し考えた。


 答えは、もう分かっている。


「嬉しかった」


 素直に言う。


「すごく」


 凛花が横を見る。


 彩花は続けた。


「知らない人から感想カードもらえたのも嬉しかったし、先輩にも褒めてもらったし、お姉ちゃんにも読んでもらえたし」


「うん」


「でも……」


 一度言葉が止まる。


 家族の前で言うのは、少し恥ずかしい。


「九条君が、私が書きたかったところをちゃんと読んでくれたのも、すごく嬉しかった」


 耕助の眉がわずかに動いた。


 凛花も何も言わない。


 紗月だけがいつもの穏やかな表情で頷いた。


「よかったね」


「うん」


 それだけだった。


 誰もからかわなかった。


 彩花も、それ以上説明しなかった。


 ただ、自分の中では少しだけ分かっていた。


 今日もらった感想は、全部嬉しい。


 どれかを軽く扱うつもりはない。


 それでも悠真からの言葉だけは、何度も思い出してしまう。


 どうしてなのか。


 今はまだ、答えを出す必要はない気がした。


     ◇


 夕食と入浴を終え、彩花は自室の机に感想カードを並べていた。


 一枚ずつ読み返す。


 文化祭の一日が、少しずつ遠くなっていく。


 朝の校舎。


 文芸部の当番。


 正門。


 悠真を見つけた瞬間。


 琴葉。


 玲奈。


 大地。


 凛花。


 焼きそば。


 謎解き。


 図書室。


 いつものベンチ。


 自分の物語を読んでもらった時間。


 どれも今日起きたことなのに、朝のことはもう少し前の出来事のように感じる。


 スマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 九条悠真。


 反射的に開く。


『さっき部誌も読んだ。』


「早い」


 彩花は思わず声に出した。


『もう?』


『琴葉に同じこと言われた。』


『文化祭で疲れてるんだから休めばいいのに。』


『読みたかったから。』


 短い返事。


 彩花は少しだけ笑う。


『どうだった?』


 送ってから。


(また聞いてる)


 今日は何度、悠真に感想を求めただろう。


 でも、聞きたい。


 すぐに返事が届く。


『短い方も好きだった。』


『また好きって言ってる。』


『駄目?』


『駄目じゃない。嬉しい。』


 送信。


 今度は少し間が空いた。


『じゃあよかった。』


 それを見て、彩花は机の上の感想カードへ視線を戻した。


 何となく。


 本当に何となく、悠真にも今日のことを伝えたくなった。


『九条君。』


『うん?』


 文字を打つ。


 一度消す。


 もう一度打つ。


『今日、来てくれて本当に嬉しかった。』


 指が止まる。


 昼にも似たことは言った。


 正門でもお礼を言った。


 だから、わざわざ夜にもう一度送らなくてもいい。


 そう思う。


 それでも。


 今日一日を終えて、一番伝えたいことを考えたら、これだった。


 彩花は送信を押した。


 既読がつく。


 返事はすぐには来なかった。


 一分にも満たない時間なのに、少し長く感じる。


 やがて画面が変わる。


『俺も、行けて本当によかった。』


 続けてもう一通。


『水瀬さんがいる青葉高校を見られてよかった。』


 彩花は画面を見つめた。


 そして。


 もう一通。


『今日、水瀬さんが笑ってるところ、いっぱい見られたし。』


「……」


 彩花の頬が一気に熱くなった。


 何と返せばいいのか分からない。


(何それ)


 嬉しい。


 恥ずかしい。


 どちらもある。


 けれど、不快ではまったくない。


 むしろ。


 もう一度読み返したくなる。


『それ、感想?』


 ようやく返す。


『今日の。』


『文化祭の?』


 少しして。


『水瀬さんの。』


 彩花は完全に動きを止めた。


「……九条君」


 誰もいない部屋で名前を呟く。


 自分の学校を見てもらいたかった。


 文芸部も。


 教室も。


 作品も。


 それらを見てもらえたことが嬉しかった。


 でも悠真が今日一日で見ていたものは、それだけではなかったらしい。


 そこにいる自分まで見ていた。


 そう思うと、胸の奥が落ち着かない。


 返事を打とうとして、何度か指が止まる。


 結局。


『……ありがとう。』


 それだけ送った。


 すぐに返事が来る。


『うん。』


 会話はそこで止まった。


 彩花はスマートフォンを伏せる。


 机の上には感想カード。


 その横には透明なファイル。


『また、話したいから』


 自分でつけた題名。


 何度も見てきた文字。


 けれど今夜は、その題名を見るだけで、昼間とは違う意味まで浮かんでくる気がした。


 彩花はファイルを閉じ、感想カードを一枚ずつ小さな箱へしまった。


 最後の一枚を入れたところで、伏せていたスマートフォンがもう一度だけ震える。


 画面には、悠真から届いた短い一文。


『おやすみ、水瀬さん。また図書館で。』


 彩花はしばらくそれを見つめてから、指を動かした。


『おやすみ、九条君。また図書館で。』


 送信する。


 窓の外では、昼間まで青葉高校を包んでいた文化祭の音などもう聞こえない。


 静かな自室で、彩花は机の端に置いた『また、話したいから』の表紙をもう一度だけ見た。


 そしてその隣へ、スマートフォンをそっと置いた。

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