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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 私の学校へようこそ

 文化祭当日の朝、青葉高校は八時を過ぎた頃から、普段とはまるで違う空気に包まれていた。


 正門には色とりどりの紙花で飾られた大きな看板が立ち、校舎の窓にはクラスや部活動ごとのポスターが並んでいる。一般公開が始まるまでまだ二時間近くあるというのに、廊下では段ボール箱を抱えた生徒が行き交い、体育館の方からはマイクテストの声が響いていた。


 彩花も八時半より少し早く登校し、昇降口で上履きへ履き替えた。


「おはよう、水瀬さん!」


「おはよう。準備、間に合いそう?」


「たぶん! 水瀬さんは文芸部から?」


「うん。そっちが落ち着いたら教室にも顔出すね」


「了解。今日頑張ろうね」


「頑張ろう」


 クラスメイトと別れ、彩花は文芸部室へ向かった。


 制服はいつもと同じで、通る廊下も毎日歩いている場所だ。それでも壁の至るところに案内が貼られ、教室の入口には装飾が施され、窓の外の中庭にも模擬店用のテントが並んでいるだけで、学校全体が別の場所になったように感じられた。


(本当に今日なんだ)


 何週間も前から準備してきた。


 短編を書いて、直して、最後まで完成させた。文芸部の展示を作り、クラスでは謎解き企画を準備し、当日の担当時間も決めた。


 そして今日は、悠真たちが来る。


 来られるかもしれない、ではない。


 十一時頃に来ると分かっている。


 そのことを考えると、朝から少しだけ落ち着かなかった。


 文芸部室へ入ると、すでに何人かの部員が集まっていた。


「おはようございます」


「おはよう、水瀬さん。ちょうどいいところに来た」


 部長が入口近くの展示を確認しながら手招きする。


「感想カード、最後にもう一回見てもらえる?」


「はい」


 彩花は鞄を置き、出口側に設置した小さな机へ向かった。


 色違いの感想カード。


 数本のペン。


 回収箱。


 文化祭の準備中、来場者が作品を見終わったあとにそのまま書けるよう、出口近くへ置いた方がいいと彩花が提案したものだ。


「これで大丈夫だと思います。ペンも書けました」


「じゃあ決定。作品の方も全部入ってるよ」


 部長が展示用の机を指す。


 透明なファイルが何冊も並んでいる。


 その中に、自分の作品もあった。


『また、話したいから』


 一年二組 水瀬彩花。


 昨日まで何度も確認してきたはずなのに、一般公開当日の朝に見ると、また違った緊張が胸の奥へ広がった。


 今日は、知らない人も読む。


 同じ学校の生徒も読む。


 家族も読むかもしれない。


 そして。


(九条君も読むんだ)


 それを考えた瞬間だけ、他の誰かに読まれるときとは違う緊張が生まれた。


「水瀬さん」


「はい?」


「今、九条君のこと考えた?」


「なんで分かるんですか」


「顔」


「そんなに出てました?」


「ちょっとだけ」


 部長は楽しそうに笑った。


「今日、三人で来るんだよね?」


「はい。十一時くらいです」


「桜華の?」


「そうです。九条君と、妹の琴葉さんと、その友達の玲奈さん」


「作品、読んでもらうんでしょ?」


「三人とも読んでくれると思います」


「特に九条君に?」


「……先輩」


「はいはい。準備しよう」


 これ以上からかわれたくなくて、彩花は部誌の箱へ向かった。


 背後から小さな笑い声が聞こえたが、嫌ではなかった。


 ただ、恥ずかしい。


     ◇


 午前九時五十分。


 一般公開開始を告げる校内放送が流れた。


『まもなく十時より、青葉高校文化祭一般公開を開始します。来場者の皆様は正門受付にて――』


 放送を聞きながら、彩花は入口近くの椅子へ座った。


 胸元には白い名札。


『水瀬彩花』


 昨日までロッカーに置いていたものだ。


 文芸部室の扉は開放され、廊下からでも展示の一部が見えるようになっている。


「緊張する?」


 部長が隣で尋ねた。


「少し」


「去年の私もそうだった。最初のお客さんが入ってきた瞬間、何を言えばいいか全部飛んだよ」


「先輩、不安になること言わないでください」


「でも五分で慣れた」


「先にそっちを言ってください」


 二人で小さく笑う。


 やがて廊下の向こうから、人の声が増えてきた。


 保護者らしい夫婦。


 中学生のグループ。


 他校の制服を着た生徒。


 卒業生らしい若者。


 一般公開が始まったのだ。


 最初の来場者は、青葉高校の生徒に連れられた母親だった。


「いらっしゃいませ」


 彩花は少し緊張しながら立ち上がる。


「文芸部では部誌の配布と、部員の作品展示、おすすめ本の紹介をしています。よかったらご覧ください」


「あら、ありがとう」


 女性は穏やかに笑い、展示へ向かった。


 部長が言った通り、五分もすると慣れた。


 文芸部は大勢が一気に押し寄せるような場所ではない。数人が入り、静かに作品を読み、おすすめ本の紹介を眺めて出ていく。


 時々、来場者から声をかけられた。


「これ、高校生向けですか?」


「中学生でも読めると思います。少し長いですけど、文章自体は難しくないですよ」


「じゃあ読んでみようかな」


「図書室にもあると思います」


 知らない人へ自分の好きな本を紹介するのは、思ったより楽しかった。


 十時半を過ぎる頃には、感想カードも少しずつ箱へ入っていた。


 彩花は入口近くの時計を見る。


 十時三十五分。


(今頃、駅かな)


 悠真たちは十時半に青凪駅で待ち合わせると言っていた。


 そこから学校まで十五分ほど。


 受付の時間を考えても、十一時前後には来るだろう。


「水瀬さん」


「はい?」


「また時計見た」


「時間を確認しただけです」


「友達、まだかなって?」


 部長がにやりとする。


 彩花は一瞬だけ言い訳しようとして、やめた。


「……それもあります」


「今日は素直だね」


「来るって分かってるから、気になるだけです」


「うんうん」


「その顔やめてください」


 彩花は頬を少し膨らませながら、入口へ視線を戻した。


     ◇


 その頃、青凪駅の改札前には悠真と琴葉が並んで立っていた。


 悠真は白いシャツに黒に近い紺色のパンツ。琴葉は淡いベージュのブラウスと長めのスカートで、二人とも普段の桜華学園の制服姿とは印象が違う。


 悠真はスマートフォンの時刻を見る。


 十時二十八分。


 待ち合わせにはまだ二分ある。


 それなのに、さっきから何度も時刻を確認していた。


「兄様」


「何?」


「まだ十時半になっていません」


「分かってる」


「青葉高校の一般公開は逃げませんよ」


「それも分かってる」


「彩花さんも逃げません」


 悠真は琴葉を見る。


「何で水瀬さんが出てくるんだよ」


「今日、兄様が青葉高校へ行く最大の理由だからです」


「文化祭を見るためだろ」


「では、彩花さんがいなくても同じくらい楽しみでしたか?」


 悠真は答えなかった。


 答えられないわけではない。


 答えが明確すぎた。


 青葉高校そのものに以前から興味があったわけではない。文化祭という行事だけなら、わざわざ予定を確認してまで来たいとは思わなかったかもしれない。


 彩花がいる。


 彩花が「見てほしい」と言った。


 彩花が普段過ごしている場所を、自分も見てみたいと思った。


 だから来た。


「……水瀬さんがいるから来たのはそうだけど」


 結局、そのまま答えた。


 琴葉が目を瞬く。


「兄様」


「何?」


「最近、隠さなくなりましたね」


「別に隠すことじゃないだろ。友達の学校の文化祭に誘われたら、その友達に会うのが一番の目的になるの普通じゃない?」


「そういうことにしておきます」


「何だよ、その言い方」


 琴葉は小さく笑う。


 悠真自身は、本当にそれ以上説明する必要を感じていなかった。


 水瀬彩花がいるから行きたい。


 それはもう、理由を掘り下げるほど不思議なことではなかった。


 改札の向こうへ目を向ける。


「兄様」


「今度は何?」


「玲奈が来る方向は反対側です」


「……」


 悠真はゆっくり視線を変えた。


「何となく見ただけ」


「はい」


「絶対信じてないだろ」


「はい」


「そこは否定してくれよ」


 その直後、駅構内の人混みから玲奈が現れた。


「おはよう」


「おはようございます、玲奈」


「おはよう、一条」


「待った?」


「今来たところです」


「よかった」


 玲奈は二人を見比べ、それから悠真へ目を向けた。


「九条、楽しそうだね」


「お前までそれ言うの?」


「琴葉も言った?」


「朝からずっと」


「だって分かりやすいから」


「普通だろ。他校の文化祭なんてあんまり行かないし」


「へえ」


 玲奈が笑う。


「じゃあ彩花ちゃんがいなくても同じくらい楽しみ?」


「さっき同じ質問された」


「答えは?」


「水瀬さんがいるから来た」


 玲奈まで少し驚いた。


「九条、今日どうしたの?」


「何が?」


「いや、別に」


 琴葉と玲奈が顔を見合わせる。


 悠真は眉を寄せた。


「行こう。遅れる」


「まだ余裕ありますよ」


「受付あるだろ」


 三人は駅を出る。


 土曜日の青凪駅前は平日より家族連れが多く、商店街へ向かう人たちが横断歩道を渡っていた。九月の日差しはまだ少し強いが、風には秋の気配が混ざっている。


 悠真は青葉高校の方向へ歩き出した。


「兄様」


「何?」


「少し速いです」


 言われて、悠真は足を止めた。


 振り返ると、琴葉と玲奈が数歩後ろにいる。


「……ごめん」


「彩花さんは文芸部の当番中ですから、数分早く着いても逃げませんよ」


「分かってるって」


「でも急いでいます」


「早く着いた方がいいだろ」


「兄様」


「何だよ」


「嬉しいんですね」


 悠真は一瞬だけ黙った。


 以前なら、そこで否定していたかもしれない。


 今日は違った。


「うん」


 短く答える。


「楽しみにしてたから」


 琴葉はそれ以上からかわなかった。


 玲奈も少しだけ目を細める。


 悠真が誰に対しても親切なのは二人とも知っている。


 誰かに頼られれば助けるし、約束は守る。


 けれど、約束の場所へ向かうだけで歩調が速くなる姿は、少なくとも玲奈には見覚えがなかった。


     ◇


 十時五十分。


 青葉高校の正門前は、すでに多くの来場者で賑わっていた。


 受付テントには列ができ、校内からは吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。中庭に並ぶ模擬店からは焼きそばのソースの匂いが漂い、色とりどりの案内板を持った生徒たちが来場者へ声をかけていた。


「結構大きいね」


 玲奈が正門を見上げる。


「思っていたより人が多いです」


 琴葉も周囲を見回した。


 悠真は学校全体を見るより先に、校舎の窓へ視線を向けていた。


 もちろん、そこから彩花が見えるはずはない。


 文芸部がどの辺りなのかも、案内図で知っているだけだ。


 それでも。


(ここにいるんだ)


 そう思う。


 いつも中央図書館で会う彩花ではない。


 休日に一緒に出かける彩花でもない。


 ここでは、青葉高校一年生の水瀬彩花だ。


 悠真の知らない時間を毎日ここで過ごしている。


「兄様、受付です」


「分かってる」


 三人は一般来場者用の列へ並んだ。


 受付用紙へ名前を書き、来場者証を受け取る。


 悠真は自分の名前を書いたあと、用紙の端に記載された校内案内へ目を向けた。


 二階東側。


 文芸部。


 すでに保存してある案内図と同じなのに、また確認する。


「九条」


 玲奈が横から覗き込む。


「文芸部の場所なら覚えてるんじゃない?」


「確認しただけ」


「今日それ何回目?」


「何が?」


「確認」


「……行くぞ」


 玲奈が笑った。


 校舎へ入る。


 昇降口には一般来場者用のスリッパが用意され、近くでは実行委員の生徒がパンフレットを配っていた。


「公立高校ってこんな感じなんだ」


 玲奈が掲示板を見る。


「桜華とは結構違うね」


「そうですね」


 琴葉も興味深そうに周囲へ視線を巡らせる。


 部活動の大会結果。


 図書委員からのお知らせ。


 進路関係のポスター。


 文化祭用の装飾。


 悠真も見ていた。


 けれど、設備を比べているわけではなかった。


(これ、水瀬さんも毎日見るのかな)


 掲示板。


 階段。


 靴箱。


 廊下の窓。


 どれも特別なものではない。


 だからこそ気になる。


「文芸部は二階だよね」


 玲奈が言う。


「うん。右側の階段上がって、東の端」


「完璧ですね、兄様」


「案内図見たから」


「何回くらい?」


「数えてない」


 琴葉が笑う。


 三人は階段を上がった。


 途中ですれ違う青葉高校の生徒たちが楽しそうに話している。文化祭という特別な日だから普段通りではないのだろうが、その制服姿の集団を見ているだけでも、悠真には少し新鮮だった。


 彩花は、この中にいる。


 学校ではどんなふうに友達と話すのか。


 文芸部ではどんな顔をしているのか。


 自分の知らない彩花がここにはいる。


(見たいんだよな)


 悠真はもう、その理由を疑わなかった。


 水瀬彩花のことだから、知りたい。


 それだけだった。


 二階へ着く。


 廊下を進むと、文芸部の案内板が見えてきた。


『文芸部 部誌配布・作品展示』


 悠真の視線が自然とその先へ向かう。


 部室の入口。


 中には数人の来場者がいる。


 その中から、悠真はほとんど探すことなく一人を見つけた。


 入口近くの机。


 制服姿。


 胸元の白い名札。


 来場者へ部誌を手渡しながら、穏やかに説明している。


 横顔だけだった。


 人もいる。


 それでも一瞬で分かった。


「……いた」


 悠真が小さく呟く。


 琴葉が兄を見る。


「彩花さんですね」


「うん」


 その声に、自分でも分かるほど笑みが混ざった。


 玲奈が悠真と彩花を交互に見る。


 悠真は気づいていない。


 さっきまで校内のあちこちを見ていた視線が、彩花を見つけた瞬間からほとんど動かなくなっていることに。


 彩花が来場者へ説明する。


 笑う。


 部誌を渡す。


 先輩らしい女子から何か言われ、少し困った顔をする。


 どれも悠真が普段知らない姿だった。


(こういう顔するんだ)


 中央図書館では、本を読んでいることが多い。


 二人でいるときは穏やかに話す。


 琴葉と一緒のときは、少し姉のように見えることもある。


 今は部員として動いている。


 その違いが、妙に嬉しかった。


「兄様」


「何?」


「入りませんか?」


「……入る」


「しばらく見ていましたね」


「仕事中だったから声かけるタイミング見てただけ」


「そういうことにしておきます」


 琴葉はそれ以上言わなかった。


 そのとき。


 彩花が顔を上げた。


 視線が合う。


 一瞬だけ、彼女の表情が止まった。


 次の瞬間。


 ぱっと笑う。


「九条君」


 自分を見つけて笑った。


 ただそれだけで、悠真の胸が大きく跳ねた。


 誰にでも見せる接客用の笑顔とは違う。


 少なくとも、悠真にはそう見えた。


(……来てよかった)


 まだ校舎へ入って数分しか経っていない。


 それなのに、そう思った。


「水瀬さん」


 悠真も笑った。


     ◇


 彩花は、自分でも分かるくらい嬉しそうな顔をしていた。


 来ることは知っていた。


 時間も聞いていた。


 駅から歩いてくることも知っている。


 それでも、実際に三人の姿を見ると違った。


「来た」


 思わず口から出た。


「来たよ」


 悠真が答える。


「迷わなかった?」


「案内図あったから」


「よかった」


 彩花は琴葉と玲奈にも視線を向ける。


「琴葉さん、いらっしゃい。一条さんも」


「彩花さん、お邪魔します」


「こんにちは、彩花ちゃん」


「こんにちは……って、彩花ちゃん?」


 玲奈から自然に名前で呼ばれ、彩花は少しだけ目を丸くした。


「あれ、嫌だった?」


「ううん。初めてそう呼ばれたからびっくりしただけ」


「じゃあ彩花ちゃんでいい?」


「うん」


「やった」


 玲奈が笑う。


 琴葉も隣で微笑んでいた。


 その横で、悠真だけが一瞬黙った。


(彩花ちゃん)


 玲奈は、あまりにも自然に呼んだ。


 彩花も受け入れた。


 昨日まで少し意識していた名前が、目の前で別の人の口から簡単に出てくる。


 胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。


 嫌ではない。


 玲奈が彩花と仲良くなるのは嬉しい。


 なのに。


(俺は、水瀬さんなんだよな)


 不満ではない。


「水瀬さん」という呼び方には、二人の間で積み重ねてきた時間がある。


 それでも今だけは、玲奈が少しだけ羨ましかった。


 そんな自分に気づき、悠真はわずかに視線を逸らした。


「水瀬さん」


 部長が奥から声をかける。


「お友達?」


「あ、はい」


 彩花は三人を見る。


「こちら、友達の九条君です。それから妹の琴葉さんと、琴葉さんの友達の一条玲奈さん」


「こんにちは」


 三人がそれぞれ挨拶する。


「文芸部部長の佐々木先輩」


「佐々木です。いつも水瀬さんがお世話になってます」


「何で先輩がそれ言うんですか」


 彩花が慌てる。


 部長は楽しそうに笑った。


「一回言ってみたかった」


「保護者みたいです」


「でも、水瀬さん真面目だから本当に助かってるよ」


「先輩」


「本当のこと」


 彩花は困ったように眉を下げる。


 悠真はそのやり取りを見ながら、自然に笑っていた。


「九条君」


「ん?」


「何笑ってるの?」


「いや」


 悠真は少し迷ってから答えた。


「水瀬さん、ここではこういう感じなんだなって」


「こういう感じ?」


「先輩と話してるところとか、来た人に本を勧めてるところとか。俺、初めて見るから」


「……そうだね」


「楽しそう」


 彩花は少しだけ目を丸くした。


 それから部室を見回す。


 机。


 本。


 展示。


 先輩たち。


 何度も過ごしてきた場所。


「うん」


 彩花は小さく頷いた。


「楽しいよ」


「そっか」


 悠真はそれだけ答えた。


 けれど、視線は彩花からなかなか離れなかった。


 彼女が楽しいと言った場所。


 彼女が自分から見てほしいと言った場所。


 そこに実際に立ってみると、想像していた以上に嬉しかった。


 部室が特別なのではない。


 ここにいる彩花を知れたことが、悠真には特別だった。


     ◇


「これが部誌?」


 玲奈が机の上の冊子を手に取った。


「うん。無料だから持っていって」


「三冊いい?」


「もちろん」


 琴葉も一冊受け取る。


「彩花さんも書いているんですか?」


「部誌には短いのだけ。文化祭用の短編はこっち」


 彩花は作品展示の机を指した。


 言った直後、少しだけ表情が固くなる。


「あ」


 悠真はすぐ気づいた。


「約束、覚えてるよ」


「まだ何も言ってないよ」


「目の前では読まない」


「……うん」


「だから今は読まない」


 彩花の肩から少し力が抜けた。


「ありがとう」


 その小さな変化を見て、悠真も安心する。


 自分が読みたいからといって、今すぐ読む必要はない。


 彩花が読んでほしいと思える形で読む方が大事だった。


「何、その約束」


 玲奈が二人を見る。


「私がいるところで読まれるの恥ずかしいから」


 彩花が正直に答えた。


「でも感想は聞きたい」


「難しいね、彩花ちゃん」


「自分でも分かってる」


 玲奈が笑う。


 琴葉は展示された作品の題名を見る。


「これですね」


「……うん」


「『また、話したいから』」


 題名を声に出されただけで、彩花の肩が少し縮んだ。


「琴葉さんまで声に出さないで」


「すみません」


「いや、別にいいんだけど……」


 悠真も作品ファイルへ目を向ける。


『また、話したいから』


 初めて知る題名だった。


 何度も直して、最後に彩花自身が決めたタイトル。


 悠真はその文字をしばらく見つめた。


「いいタイトルだね」


「まだ読んでないのに?」


「タイトルだけでも好き」


 彩花が目を瞬く。


 悠真自身も、口にしてから少しだけ驚いた。


 でも訂正する必要はなかった。


「……ありがとう」


 彩花が少し照れながら笑う。


 その顔を見て、悠真の胸の奥がまた温かくなる。


(やっぱり、ちゃんと読みたい)


 流し読みではなく。


 文化祭の展示物の一つとしてでもなく。


 水瀬彩花が時間をかけて書いたものとして読みたい。


 どんなことを考えて。


 どんな言葉を選んで。


 どういう終わり方を選んだのか。


 知りたかった。


「読むのは、私が受付行ってからにして」


「十二時?」


「うん。その方が私いないから」


「分かった」


「絶対だよ」


「約束したから守るよ」


「九条君、こういう約束ちゃんと守るもんね」


「こういう?」


「私が嫌って言ったこと、無理にしない」


 彩花は何気なく言った。


 悠真は少しだけ目を見開く。


 そんなふうに思われていたことを知らなかった。


「……嫌なことはしたくないから」


「うん。知ってる」


 彩花は当たり前のように答えた。


 悠真は一瞬、言葉が出なかった。


 琴葉が兄の横顔を見る。


 ほんの少しだけ耳が赤い。


 けれど今日は何も言わなかった。


     ◇


 十一時十五分を過ぎた頃、文芸部室の来場者が少し落ち着いた。


 彩花が時計を確認する。


 当番は十一時半まで。


「水瀬さん」


 部長が呼んだ。


「もう上がっていいよ」


「でも、まだ十五分あります」


「今日は人数足りてるし。友達来てるんだから」


「いいんですか?」


「いいよ。十二時からクラスでしょ? 早めにお昼食べてきな」


「……ありがとうございます」


 彩花は嬉しそうに頭を下げた。


 その表情を見ていた悠真が、ほとんど同時に立ち上がる。


 琴葉が気づく。


 まだ彩花は「行こう」と言っていない。


 それなのに兄はもう帰る準備をしている。


(本当に分かりやすいですね、兄様)


 琴葉は胸の内だけで呟いた。


「九条君、琴葉さん、一条さん」


 彩花が三人のところへ戻る。


「少し早く上がっていいって」


「じゃあお昼?」


 玲奈が尋ねる。


「うん。混む前に行こう」


「何食べる?」


「いろいろあるよ。中庭に模擬店出てるから」


 彩花は部室を出る前に振り返った。


「先輩、行ってきます」


「行ってらっしゃい。十二時遅れないでね」


「はい」


「九条君」


 突然、部長が悠真を呼んだ。


「はい?」


「水瀬さん、十二時にはちゃんとクラスへ返してください」


「先輩!」


 彩花が振り返る。


 悠真は一瞬だけ笑ってから、真面目な顔で頷いた。


「分かりました」


「九条君も返事しないで!」


「時間は守らないと」


「そういう話じゃないでしょう」


 部長が笑う。


 琴葉と玲奈も笑っていた。


 彩花は頬を赤くしながら廊下へ出る。


「もう……」


「いい先輩だね」


「いい先輩だけど、たまにああいうことするの」


「水瀬さんが可愛がられてるのは分かった」


「九条君まで」


 悠真は笑いながら彩花の隣を歩く。


 普段なら何でもない廊下。


 でも、彩花が歩いているだけで、悠真は自然と周囲まで覚えようとしていた。


 二階の東端。


 窓際に文芸部のポスター。


 階段の近くには図書委員会の掲示。


 彩花が毎週何度も通っている道。


 自分でも、どうしてそこまで見てしまうのかは考えなかった。


 また来る機会があるかどうかも分からない。


 それでも覚えておきたかった。


「彩花ちゃん、部活でも可愛がられてるんだね」


 玲奈が言う。


「一条さんまで」


「玲奈でいいよ」


「え?」


「琴葉は琴葉さんで、私だけ一条さんだとちょっと寂しい」


 玲奈は軽い調子で言った。


 彩花は少し迷う。


「……玲奈さん?」


「うん」


「じゃあ、玲奈さん」


「よろしく、彩花ちゃん」


「うん」


 玲奈が嬉しそうに笑う。


 琴葉も「よかったですね」と微笑んだ。


 悠真だけが、ほんの少し遅れて歩いた。


 玲奈さん。


 彩花ちゃん。


 呼び方が変わるのは、こんなに簡単なこともあるらしい。


 昨日までなら「別に今のままでいい」と思って終わっていた。


 今も、水瀬さんという呼び方が嫌なわけではない。


 むしろ好きだ。


 自分が「水瀬さん」と呼べば、彼女は必ずこちらを見る。


 図書館で名前を交換した日から続いている、自分だけに馴染んだ呼び方だ。


 それでも。


(……彩花、か)


 頭の中で名前だけを呼んだ瞬間、思った以上に近く感じた。


「九条君?」


 少し前を歩いていた彩花が振り返る。


「どうしたの?」


「何でもない」


「置いてくよ」


「今行く」


 悠真は歩調を速める。


 彩花の隣へ戻った。


 名前は呼ばなかった。


 まだ、その必要はない。


 ただ、玲奈が名前を呼んだときに感じた小さな羨ましさだけは、なかったことにはできなかった。


     ◇


 中庭へ出ると、文芸部室とはまるで違う賑わいが待っていた。


 テントが並び、生徒たちの呼び込みが飛び交っている。


「焼きそばどうですかー!」


「クレープあります!」


「フランクフルト残り少ないです!」


「まだ十一時半なのに?」


 玲奈が笑う。


 ソースの香り。


 甘いクレープ生地の匂い。


 揚げ物の音。


 生徒や来場者の話し声。


 体育館の方からは軽音楽部の演奏まで聞こえてくる。


「すごいですね」


 琴葉が周囲を見回した。


「桜華と雰囲気が全然違います」


「やっぱり?」


 彩花が尋ねる。


「はい。でも、こちらも楽しそうです」


「よかった」


 彩花が嬉しそうに笑う。


 悠真はその横顔を見る。


 さっきから、彩花は何度も「よかった」と言っている。


 自分たちが楽しんでいることが嬉しいらしい。


(来てよかったって、ちゃんと言った方がいいかな)


 思ったが、今はまだ言わなかった。


 今日一日を見てからでも遅くない。


「何食べる?」


 玲奈が屋台を見る。


「私は焼きそば気になる」


「私はクレープも気になります」


「琴葉、それ昼じゃなくてデザートだろ」


「兄様、文化祭で栄養バランスを求める必要がありますか?」


「そこまで言ってない」


「九条君は?」


 彩花が尋ねる。


 悠真は屋台を見る。


 本当は何でもよかった。


 食べ物より、彩花と一緒に昼を食べることの方が楽しみだったからだ。


「水瀬さんは?」


「私は……焼きそばかな」


「じゃあ俺も焼きそば」


 答える。


 琴葉が兄を見る。


 玲奈も見る。


 悠真が気づく。


「何?」


「いえ」


「何だよ」


「兄様は焼きそばが食べたかったんですね」


「今そう決めた」


「彩花さんが選んだ直後に」


「同じもの食べちゃ駄目なのか?」


「誰もそんなこと言ってません」


 琴葉は微笑んでいる。


 悠真は少し眉を寄せた。


「水瀬さん」


「何?」


「俺、別の方がいい?」


「何で私に聞くの?」


「ほら」


 玲奈が吹き出した。


「九条、それだよ」


「何が?」


「何でもない」


 彩花だけが分からず首を傾げている。


 結局、焼きそばを三つ。


 琴葉は少し迷った末、焼きそばと小さなクレープを買った。


「両方?」


「文化祭ですから」


「強い」


 玲奈が感心する。


 空いている中庭のベンチを見つけ、四人で座った。


 彩花と琴葉。


 向かい側に悠真と玲奈。


 紙パックに入った焼きそばを食べ始める。


「おいしい」


 玲奈が言う。


「普通の焼きそばだけど、文化祭で食べるとおいしいよね」


 彩花も頷いた。


「分かる」


 悠真は自分の焼きそばを一口食べたあと、彩花の手元へ目を向けた。


「水瀬さん、朝から何か食べた?」


「朝ご飯は食べたよ」


「文化祭始まってから」


「食べてない」


「飲み物は?」


「持ってきてる。ほら」


 彩花が鞄からペットボトルを少し持ち上げて見せる。


「ならいいけど」


「九条君、心配しすぎ」


「朝からずっと当番だったんだろ」


「一時間半だけだよ」


「その前に準備もあったんじゃない?」


「まあ、ちょっと」


「じゃあちゃんと食べた方がいい」


 彩花は少し笑った。


「食べてるでしょう」


「そうだけど」


「大丈夫。ちゃんと元気だよ」


「ならいい」


 悠真はそれ以上言わなかった。


 玲奈は焼きそばを食べながら、悠真を見る。


 自分や琴葉が朝食を食べたかなど、今日一度も聞かれていない。


 もちろん、具合が悪そうなら悠真は誰にでも気を配るだろう。


 でも彩花については、具合が悪そうだから聞いているわけではない。


 ただ朝から働いていたと知っているから、気になった。


 それが悠真にとってあまりにも自然らしい。


 玲奈は何も言わず、少しだけ笑った。


「彩花さん」


 琴葉がクレープを持ちながら尋ねる。


「午後はどこへ案内してくださるんですか?」


「まだ全部決めてないよ。図書室と中庭は見てほしかったけど、中庭はもう来ちゃったね」


「では図書室ですね」


「あと、クラスの謎解きもやってみて」


「もちろんです」


「一時まで私受付だから、その間にやってもいいよ」


「彩花ちゃんが受付してるところ見たい」


 玲奈が言う。


「見るようなものじゃないよ」


「学校での彩花ちゃん、結構新鮮」


「九条君もさっき同じこと言ってた」


「兄様が?」


 琴葉が悠真を見る。


「うん」


 悠真は迷わず頷く。


「もっと見たい」


 彩花が目を瞬く。


「もっと?」


「水瀬さんが普段どんな感じなのか。文芸部は見たけど、教室とか、いつも通るところとか」


「……本当に普通だよ?」


「普通のところが見たいって言っただろ」


「そうだけど」


「文化祭の企画を見るのも楽しいけど、俺はそっちの方が気になる」


 悠真は何でもないことのように言った。


 琴葉の手が止まる。


 玲奈も一瞬だけ悠真を見る。


 彩花だけが、少し照れたように笑った。


「変なの」


「そう?」


「せっかく文化祭なのに」


「水瀬さんの学校に来たんだから、水瀬さんが普段いるところ見たいのは普通じゃない?」


「……そういうもの?」


「俺はそう」


 悠真は言い切った。


 彩花はそれ以上何も言えず、焼きそばへ視線を戻した。


 頬が少し熱い。


(九条君、本当に私の学校見に来たんだ)


 もちろん文化祭も目的だろう。


 琴葉や玲奈もいる。


 それでも、悠真が自分の普段いる場所を見たいと言ってくれるのは嬉しかった。


「来てよかった」


 悠真が続けた。


「まだ来たばっかりだよ」


「それでも」


 悠真は周囲を見る。


 賑やかな中庭。


 制服姿の生徒たち。


 校舎。


 そして、目の前にいる彩花。


「水瀬さんが『青葉が好き』って言ってた理由、少し分かった気がする」


「どういう意味?」


「楽しそうだから」


 彩花は目を瞬いた。


 先日、自分で言った言葉を、悠真は覚えていた。


「……覚えてたんだ」


「覚えてるよ」


 悠真は不思議そうに答えた。


 忘れる理由がない。


 彩花が少し迷いながら、それでも自分の学校を好きだと言ったときの表情まで覚えている。


「水瀬さんが好きって言ったものは、結構覚えてる」


「え?」


 彩花が顔を上げる。


「本とか、食べ物とか。裁縫もそうだし、青葉も」


「そんなに?」


「たぶん」


「……すごいね」


「そう?」


「私、九条君の好きなもの全部覚えてるかな」


「全部じゃなくていいよ」


「でも」


「俺が勝手に覚えてるだけだから」


 悠真は本当にそう思っていた。


 覚えようと努力した記憶はない。


 彩花が好きだと言ったから残った。


 それだけだ。


 玲奈はとうとう視線を逸らし、琴葉はクレープを一口食べた。


 二人とも同じことを考えていたが、言わなかった。


 ――それを特別扱いと言うのでは。


 本人だけが、まだその言葉を使っていない。


     ◇


 十一時五十分。


「そろそろ行かないと」


 彩花が時計を見る。


「受付十二時から」


「行こう」


 悠真がすぐに立ち上がる。


「九条君たちはゆっくりしてていいよ」


「教室まで行く」


「場所分かる?」


「分からないから案内して」


「じゃあ結局私が連れていくんじゃん」


「そうなる」


 彩花が笑う。


 琴葉と玲奈も立ち上がった。


「私たちも行きます」


「じゃあ四人で」


 中庭を出て、一年二組へ向かう。


 廊下は来場者で混み始めていた。


 人の流れが一度狭くなったところで、前を歩いていた彩花が小学生くらいの子どもを避けて少し横へ寄る。


 悠真は反射的に彩花の側へ身体を寄せ、後ろから来た人とぶつからないよう位置を変えた。


 触れはしない。


 ただ、自然に彩花と人混みの間へ入った。


「大丈夫?」


「うん」


 彩花はそれだけ答えた。


 悠真も何事もなかったように歩き続ける。


 琴葉は後ろからそれを見ていた。


 兄は昔から人に気を配る。


 けれど、今の動きは考えるより先だった。


 彩花が少し横へ動いただけで、兄の身体も動いた。


(本当に、彩花さんのことになると反応が早いんですよね)


 口には出さない。


 彩花本人は何も気づかず、一年生の教室棟を指していた。


「ここが一年の教室」


「水瀬さんの教室は?」


「二組だから、あそこ」


 廊下の先には、茶色い紙で装飾された入口がある。


『一年二組 消えた書庫の謎』


 大きな看板。


「ちゃんとしてる」


 玲奈が感心する。


「田辺君たち頑張ったから」


「田辺君?」


「同じクラスの子。装飾担当」


 悠真はその名前を知っていた。


 彩花の話の中に何度か出てきたクラスメイト。


 以前なら、少しだけ胸の奥がざわつくこともあった。


 今はまず、どんな人なのか見てみたいと思った。


 教室入口へ近づくと、その本人が受付の内側にいた。


「水瀬、ギリギリ」


「まだ五分あるよ」


「優秀」


 大地が言いながら、彩花の後ろを見る。


「あ」


 三人と目が合う。


「もしかして九条君?」


 悠真が少し驚く。


「そうだけど」


「田辺大地。水瀬と同じクラス」


「ああ。話聞いてる」


「俺も」


 大地は笑って手を上げた。


「よろしく」


「よろしく」


 握手をするわけでもなく、二人は軽く会釈を交わす。


 悠真は大地を見る。


 明るくて、話しやすそうな男子だ。


 彩花が学校で普通に話しているクラスメイト。


 大地が彩花へ自然に声をかけ、彩花も同じように返す。


 その距離感を見たとき、胸の奥にほんの少しだけ引っかかるものがあった。


 けれど、嫌ではない。


(学校では、こういう感じなんだな)


 むしろ、知らなかった彩花の日常をまた一つ知れた。


「何か普通」


 彩花が二人を見比べる。


「何を期待してたんだよ」


 大地が笑う。


「別に期待してないけど」


「じゃあ普通でいいだろ」


 悠真も少し笑った。


「水瀬さん、いつもこんな感じ?」


「田辺君が適当なの」


「ひどくね?」


「事実」


「九条君、水瀬って結構容赦ないから気をつけた方がいいぞ」


「知ってる」


「九条君?」


「裁縫のとき、できてないところは普通に言われた」


「それは九条君が聞くからでしょう」


「でも褒めてもくれた」


「できたところは褒めるよ」


 悠真が笑う。


「うん。だから楽しかった」


 彩花が少し黙った。


 大地も一瞬だけ悠真を見る。


 言葉自体は普通なのに、悠真があまりにも自然に言うので、返す言葉が遅れた。


「……ならよかったけど」


 彩花が小さく答える。


 琴葉と玲奈は、また顔を見合わせた。


 兄は本当に自覚なく彩花だけへ言葉を真っ直ぐ投げる。


「水瀬、交代するぞ」


「うん」


 大地が受付の横を空ける。


 彩花は三人へ向き直った。


「私、一時までここだから」


「じゃあ謎解きやってくる」


 玲奈が言う。


「頑張って」


「ヒントなしでいけるかな」


「九条君たちなら大丈夫じゃない?」


 大地が聞きつける。


「それ、挑戦状?」


 玲奈が楽しそうに笑った。


「いや、桜華の人たち頭いいって聞くし」


「田辺君、また学校対抗にしようとしてる」


「してないって」


「なら普通にやってください」


「はいはい」


 彩花は受付席へ座る。


 悠真たちは入口で説明を受ける。


 その姿を見ていると、不思議な感じがした。


 自分の教室。


 いつものクラスメイト。


 そこに悠真たちがいる。


 今まで別々だった場所が、今日だけ少し重なっている。


 悠真が受付前で振り返った。


「水瀬さん」


「何?」


「行ってくる」


「うん。頑張って」


 彩花が笑う。


 悠真も笑ってから、教室の奥へ入った。


 その様子を横で見ていた大地が、彩花へ少し顔を寄せる。


「九条君さ」


「何?」


「水瀬のことよく見てるな」


「そう?」


「うん」


「九条君、人のことちゃんと見てるから」


「……まあ、水瀬がそう思ってるならいいけど」


「何?」


「何でもない」


 大地は次の来場者へ説明用紙を渡した。


 彩花は首を傾げたものの、受付へ意識を戻す。


 教室の奥では、悠真たちが謎解きを始めていた。


     ◇


「兄様、これでは?」


「いや、その数字だと次が合わない」


「玲奈、こっち見ました?」


「見た。たぶん本の背表紙の色も関係ある」


 三人は思った以上に本気だった。


 制限時間は二十分。


 偽物の古書を調べ、壁に貼られた文章から数字を拾い、最後の箱を開ける。


 悠真も謎へ集中していた。


 ただ、受付の方から彩花の声が聞こえるたび、意識の一部がそちらへ向く。


「いらっしゃいませ。三名様ですね」


 知らない来場者へ説明する声。


「こちらを読んでから始めてください」


 落ち着いた声。


 普段、自分へ向けられるものとは少し違う。


「兄様」


「何?」


「今、聞いていました?」


「聞いてる。三番目の文字だろ?」


「……聞いていたならいいです」


「何だよ」


「彩花さんの声がするたび受付を見ているので」


「見てない」


「見てましたよ」


 玲奈まで言う。


 悠真は反論しようとして、やめた。


「……ちょっと気になっただけ」


「何が?」


「ちゃんとやれてるかなって」


 琴葉は呆れたように兄を見る。


「彩花さんは兄様が見守らなくても受付できます」


「分かってる」


「では謎を解いてください」


「はいはい」


 悠真は苦笑して、再び紙へ視線を落とした。


 十五分ほどで、玲奈が最後の紙を持ち上げる。


「分かった」


 三人で答えを確認し、受付へ戻った。


「答え、これ」


 玲奈が用紙を差し出す。


 大地が確認する。


「正解。十五分四十二秒。今日の暫定一位」


「やった」


「まだ始まって二時間だけど」


「それでも一位は一位」


 玲奈が満足そうに笑う。


 琴葉も楽しそうだった。


「面白かったです」


「ありがとうございます」


 大地が景品のカードを渡す。


「兄様、最後ほとんど玲奈が解きましたね」


「途中は俺もやっただろ」


「私は?」


「琴葉もやった」


「なら結構です」


 彩花は三人を見ながら笑った。


「楽しそうでよかった」


 悠真はその笑顔を見た瞬間、謎解きで一位になったことより、そちらの方が嬉しいと思った。


「楽しかったよ」


「本当?」


「うん。水瀬さんたち、これ作ったんだろ?」


「私は少し手伝っただけだけど」


「それでも」


 悠真は教室を見回す。


「水瀬さんが話してたもの、実際に見られてよかった」


「……そっか」


 彩花はまた少し嬉しそうに笑った。


 悠真は、その顔を見るたび同じことを思う。


 来てよかった。


「水瀬さんもあとでやれば?」


「私、準備で答えちょっと知ってるから」


「じゃあ無理か」


「うん。でもみんながやってるの見るの楽しいよ」


 大地が時計を見る。


「水瀬、あと四十分」


「分かってる」


「三人どうすんの?」


「どうしよう」


 彩花は悠真たちを見る。


「一時までまだあるけど、他のところ見てくる?」


「俺はここにいてもいいけど」


 悠真が答える。


「四十分ずっと受付見てても何もないよ」


「水瀬さんいるし」


 彩花が止まる。


「……私?」


「うん」


 悠真は普通に答えた。


「別に暇じゃないよ」


 琴葉がゆっくり兄を見る。


 玲奈は口元を押さえた。


 大地まで少し目を丸くしている。


 悠真だけが周囲の反応に気づかない。


「でも、せっかく来たんだから他も見てきて」


 彩花が少し頬を熱くしながら言う。


「じゃあ図書室?」


 玲奈が助け舟を出した。


「あ」


 彩花は頷く。


「いいかも。二階東側。『人生で一冊だけ持っていくなら』って展示あるから、私のカード探してみて」


「それ、言ってたやつ?」


「うん」


「じゃあ探す」


 悠真がすぐ答える。


「本当に見つけられる?」


「やってみる」


「ヒントなしね」


「分かった」


「琴葉さんと玲奈さんも教えないで」


「私たちも彩花さんの字を知っていますよ?」


「じゃあ三人で探して」


「承知しました」


 三人は教室を出る。


 廊下へ出て少し歩いたところで、玲奈が悠真を見る。


「九条」


「何?」


「四十分、彩花ちゃんの受付見ててもいいって本気で言った?」


「別にいいだろ」


「何するの?」


「待ってる」


「受付してる彩花ちゃんを?」


「うん」


「兄様」


 琴葉が静かに言う。


「それを普通だと思っているのは、おそらく兄様だけです」


「何で?」


「四十分ですよ?」


「本読んでてもいいし」


「では図書室へ行くのと変わらないでしょう」


「……確かに」


「今気づいたんですか」


 玲奈がとうとう笑った。


「九条、彩花ちゃんのことになると本当にちょっと変だね」


 悠真は眉を寄せた。


「変って何だよ」


「悪い意味じゃないよ」


「じゃあどういう意味?」


「そのうち分かるんじゃない?」


「何だそれ」


 悠真は納得できないまま、図書室への案内を確認した。


 けれど、玲奈に言われたことを深く考えることもしなかった。


 彩花がいるなら、そこにいても退屈しない。


 それだけのことだと思っていた。


     ◇


 図書室には三十枚以上のカードが貼られていた。


『人生で一冊だけ持っていくなら?』


 題名も理由もさまざまだ。


「兄様」


 琴葉が言う。


「本当に字だけで探すんですか?」


「そのつもり」


「内容見れば彩花さんらしいものが分かりそうですけど」


「それだと面白くない」


 悠真は一枚ずつ見る。


 最初は内容を読まない。


 文字の形だけを見る。


 丸み。


 漢字の払い。


 少し小さめの文字。


 彩花の字は何度か見ている。


 裁縫の手順を書いてくれたメモ。


 待ち合わせのときに見せてもらった紙。


 文芸部の原稿。


 特別覚えようとしたわけではない。


 ただ、覚えていた。


「これ」


 悠真が一枚を指した。


 琴葉と玲奈が近づく。


 そこで初めて内容を読む。


『読むたびに、前とは違うところを好きになれるから。』


「たぶん水瀬さん」


「早くない?」


 玲奈が驚く。


「まだ半分も見てないよ」


「字が似てる」


「そんなに覚えてるもの?」


「何回か見たから」


「私、兄様の字なら当然分かりますけど、長年一緒に暮らしていますよ」


「水瀬さんの字、特徴あるから」


「そうでしょうか」


 琴葉は兄の横顔を見る。


 悠真にとっては本当に当然らしい。


 彩花が書いた字。


 彩花が好きだと言った本。


 彩花がよくする表情。


 本人は一つ一つを特別なことだと思っていない。


 けれど、それらをこれほど自然に覚えている相手が他にいるのか。


 琴葉には思い当たらなかった。


「写真撮っていいかな」


 悠真が言う。


「展示だから大丈夫じゃない?」


 玲奈が答える。


 悠真はカードだけが入るように写真を撮った。


「戻ろう」


「もう?」


「水瀬さん、そろそろ終わるだろ」


 玲奈がスマートフォンを見る。


「まだ十五分くらいあるよ」


「ゆっくり戻ればちょうどいい」


「兄様」


「何?」


「いえ」


 琴葉はもう言わなかった。


     ◇


 一時まで、あと五分。


 三人が一年二組へ戻ると、悠真は受付へ真っ直ぐ向かった。


「水瀬さん」


「おかえり。見つけた?」


「これ?」


 スマートフォンを見せる。


 画面には、図書室の展示に貼られた一枚のカード。


 彩花が書いたものだった。


「……正解」


「やっぱり」


「本当に字で分かったの?」


「うん」


「何枚あった?」


「三十枚くらい」


「それで?」


「見つけた」


 彩花は画面と悠真を交互に見る。


「すごいね」


「前に何回か見てたから」


「私、九条君の字分かるかな」


「今度試す?」


「何で?」


「俺も何か書けばいい」


「それだけのために?」


「面白そうだし」


 彩花は笑った。


「じゃあ今度ね」


「うん」


 また一つ、軽い「今度」が増える。


 大きな約束ではない。


 予定表へ書くほどでもない。


 それでも悠真は、その「今度」が自然にあることを嬉しく思った。


「水瀬」


 大地が時計を指す。


「一時」


「あ、本当だ」


「交代来たぞ」


 次の担当の生徒が教室へ入ってくる。


「お疲れ、水瀬さん」


「お願いします」


 彩花は受付席から立った。


 胸元の名札を整える。


 これで今日の担当は、呼び出しがない限り終わりだ。


「お待たせ」


 三人へ向き直る。


「ここからは案内できます」


「お願いします」


 琴葉が丁寧に頭を下げる。


「どこ行く?」


 玲奈が尋ねる。


 彩花は少し考えた。


 図書室は三人だけで行った。


 中庭も昼食で見た。


 クラス企画も終わった。


 なら。


「学校の中、普通に歩く?」


「普通に?」


「うん。特別なところじゃなくて、私が普段使う場所」


 悠真がすぐに笑った。


「それが見たい」


「本当に?」


「最初から言ってる」


「じゃあ案内する」


 彩花も笑った。


     ◇


 四人で廊下を歩く。


 文化祭の賑わいは昼を過ぎても衰えていなかった。


「ここが一年の教室棟」


「うん」


「こっち行くと理科室。授業以外ではあんまり行かないけど」


「水瀬さん、理科好き?」


「普通かな。嫌いじゃないよ」


「得意?」


「それも普通」


「じゃあ国語?」


「国語は好き」


「やっぱり」


「本が好きだからって、全部国語が得意になるわけじゃないよ」


「でも水瀬さん、文章読むの速いよね」


「九条君も速いでしょう」


「俺は問題文になると急に面倒になる」


「分かる。好きで読むのと、答えを探しながら読むのって違うよね」


「そう、それ」


 何気ない会話をしながら、四人は廊下を進んだ。


 文化祭らしい派手な装飾がある場所を抜けると、少しだけ人通りの少ない廊下へ出る。窓の向こうにはグラウンドが広がり、部活動で使う倉庫や、校舎の端に沿って植えられた木々が見えた。


「この辺は静かですね」


 琴葉が窓の外を眺める。


「普段はもっと静かだよ。今日は文化祭だから、どこに行っても人がいるけど」


「水瀬さんはこういうところ通る?」


「うん。文芸部に行くとき、たまにこっち使うよ。遠回りだけど、混んでないから」


「へえ」


 悠真が周囲を見る。


 文化祭の目玉になるようなものは何もない。白い壁と、少し古びた掲示板。窓際には掃除用具がまとめて置かれ、廊下の隅には文化祭で余ったらしい段ボールが重ねられている。


 それでも悠真は、先ほど模擬店を見ていたときより丁寧に周囲を見ていた。


 彩花が普段通る場所。


 それだけで、今まで知らなかった彼女の日常の一部に触れているような気がする。


「九条君、本当に見るね」


 彩花が隣から言った。


「何を?」


「廊下とか」


「見るよ。案内してもらってるし」


「でも、何もないでしょう?」


「何もなくない」


「何があるの?」


 聞かれて、悠真は少し考えた。


 窓。


 掲示板。


 教室の扉。


 階段。


 それ自体に特別なものがあるわけではない。


「水瀬さんが普段歩いてる場所」


 結局、そのまま答えた。


「それがある」


 彩花は一度瞬きをしてから、少し困ったように笑った。


「やっぱり九条君、ちょっと変」


「さっき一条にも言われた」


「そうなの?」


「彩花ちゃんの受付を四十分見て待っててもいいって言ったから」


 玲奈がすぐに告げる。


「一条」


「だって本当でしょ?」


「……四十分?」


 彩花が立ち止まり、悠真を見る。


「ずっと?」


「本読んでればいいかなって」


「だったら図書室行けばいいじゃん」


「琴葉にも同じこと言われた」


「でしょう?」


 彩花は呆れたように笑った。


「せっかく文化祭に来たのに、受付してる私を四十分見てるって何するの」


「だから本読むって」


「それ、私を見てないよ」


「たまに見る」


「何で?」


「いるか確認する」


「受付なんだからいるよ」


「それもそうなんだけど」


 悠真が言葉に詰まると、玲奈がとうとう声を立てて笑った。


「九条、やっぱりちょっとおかしいよ」


「だから何がおかしいんだよ」


「彩花ちゃんのことになると、って意味」


「それ説明になってないだろ」


 悠真は不満そうだったが、彩花は隣で笑っていた。


 からかわれているのは悠真なのに、自分まで少し恥ずかしい。


 それでも嫌ではなかった。


「でも」


 彩花は歩き出しながら、小さく続けた。


「待っててくれようとしたのは、ちょっと嬉しいけど」


「じゃあ待ってればよかった?」


「それとこれは別」


「難しいな」


「九条君が極端なの」


「そうかな」


「そうだよ」


 そんなやり取りをしながら角を曲がる。


 琴葉は二人の後ろを歩きながら、隣の玲奈と目を合わせた。玲奈も何も言わずに笑っている。


 以前なら兄は、彩花と一緒にいたいと思った自分自身に驚き、その理由を一人で考え込んでいたかもしれない。


 今は違う。


 待っていたいから待つ。


 見たいから見る。


 会えて嬉しいなら、それを否定しない。


 肝心なところだけがまだ追いついていないように見えるが、それも兄らしいのかもしれない。


「ここ」


 彩花が立ち止まった。


 目の前には、ごく普通の教室があった。


 一年二組とは違い、文化祭企画には使われていないらしく、扉には『関係者以外立入禁止』の紙が貼られている。


「ここが?」


「違うよ」


 彩花は笑って、その向かい側を指した。


 廊下の窓際。


 壁際に細長い木製のベンチが置かれている。


「たまにここで本読むの」


「廊下で?」


「昼休みとか。教室がうるさいときだけだけど」


「へえ」


 悠真がベンチを見る。


「座っていいの?」


「今日はいいんじゃない? 誰も使ってないし」


 彩花が先に腰を下ろす。


 琴葉と玲奈も続き、悠真は最後に空いていた彩花の隣へ座った。


 四人で並ぶと少し狭い。


 窓から入る風が、文化祭の熱気を少しだけ冷ましてくれる。


 遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏と、校内放送。廊下の向こうを通る来場者の声もここでは少し遠かった。


「いい場所ですね」


 琴葉が言った。


「でしょう?」


 彩花が嬉しそうに答える。


「図書室ほど静かじゃないけど、風が入るから好き」


「ここで何読むの?」


 悠真が尋ねる。


「そのとき持ってる本。お昼食べたあと、十分くらいしか読めないこともあるけど」


「十分でも読むんだ」


「読みたいときはね」


「水瀬さんらしい」


「何それ」


「そのままの意味」


 悠真は窓の外へ視線を向けた。


 グラウンドの端では、文化祭の案内係らしい生徒が看板を運んでいる。


 何でもない景色だった。


 けれど、今度図書館で彩花が本を読んでいる姿を見たら、この場所も思い出すのだろう。


 平日の昼休み。


 制服姿の彩花が一人でここに座り、本を開いている。


 その光景を想像できるくらいには、今日だけで彼女の学校での姿をいくつも知った。


「九条君」


「ん?」


「そんなに気に入った?」


「ここ?」


「うん」


「気に入った」


「まだ五分もいないよ」


「水瀬さんが好きな場所なら、知れてよかった」


「……またそういうこと普通に言う」


「何が?」


「何でもない」


 彩花は前を向いた。


 頬が少しだけ熱い。


 好きな本を覚えている。


 好きな学校を見に来る。


 好きな場所を知れてよかったと言う。


 悠真にとっては、それらが全部自然なことらしい。


(九条君って、本当に人のことよく覚えてるな)


 そう思う。


 ただ、今日何度か玲奈や琴葉が見せた表情を思い出すと、それだけでは説明できないような気もした。


 けれど、答えを探す前に校内放送が響いた。


『午後一時三十分より、体育館にて吹奏楽部の演奏を開始します――』


「あ」


 彩花が時計を見る。


「もうそんな時間」


「次、どこ行く?」


 玲奈が尋ねる。


「どうしよう。体育館行ってみる?」


「いいね」


「琴葉さんは?」


「ぜひ」


「九条君も?」


「行く」


 四人が立ち上がる。


 彩花は歩き出しかけてから、ふと思い出したように振り返った。


「九条君」


「何?」


「ここ、覚えた?」


「覚えた」


「即答なんだ」


「二階の西側。階段から二つ目の角を曲がったところ」


「そこまで聞いてないよ」


「覚えたから」


「本当に?」


「たぶん一人でも来られる」


「もう来る予定ないでしょう」


「今のところは」


「今のところって何」


 彩花が笑う。


 悠真も笑いながら立ち上がった。


 そのとき、廊下の向こうから声がした。


「彩花?」


 聞き慣れた声に、彩花が振り向く。


「あ、お姉ちゃん」


 人混みの向こうに、凛花が立っていた。


 制服ではなく、白い薄手のシャツに濃紺のパンツという私服姿。肩には小さなバッグを掛けている。


 部活を終えてから来ると言っていた通り、午後になって青葉高校へ到着したらしい。


 凛花の視線が彩花から琴葉、玲奈へ移る。


 そして最後に、悠真で止まった。


「……九条君」


「水瀬先輩。こんにちは」


 悠真が立ち上がって頭を下げる。


 凛花も落ち着いて会釈を返した。


「こんにちは。来てたんだね」


「はい。十一時頃から」


「そう」


 外から見れば、ただの穏やかな挨拶だった。


 しかし凛花の内側では、文化祭へ来た妹が楽しそうにしていることへの喜びと、その隣に九条悠真が当然のように座っていた光景への警戒が、ほぼ同時に発生していた。


(隣だった)


 ただ座っていただけ。


 四人で並んでいたのだから、そこに深い意味はない。


(分かってる。分かってるけど、隣だった)


 しかも彩花が笑っていた。


 とても楽しそうに。


(……いや、楽しそうなのはいい。むしろ嬉しい。彩花が友達と文化祭を楽しんでる。最高。そこは最高なんだけど)


「お姉ちゃん?」


「何?」


「ぼーっとしてるけど、疲れた?」


「全然」


 即答した。


「部活は?」


「予定より早く終わったから、そのまま来たの。お母さんたちは?」


「まだ。お父さんの仕事次第で一緒に来るかもって」


「そっか」


 凛花はもう一度三人を見る。


 琴葉とは以前から面識がある。


「琴葉さん、久しぶり」


「お久しぶりです、凛花さん」


「玲奈さんも」


「こんにちは。お邪魔してます」


「ううん。楽しんでいって」


 そして、やはり最後に悠真。


 悠真は何もしていない。


 本当に何もしていない。


 それは分かっている。


 彩花を急かさないことも、嫌がることを無理強いしないことも、凛花はこれまで見てきた。


 だから以前ほど強く警戒しているわけではない。


 ただし。


(信用と警戒は両立する)


 そこだけは譲れなかった。


「お姉ちゃん、これから体育館行くけど、一緒に行く?」


「いいの?」


「もちろん」


 彩花が何の迷いもなく答える。


「九条君たちもいいよね?」


「もちろん」


 悠真が答えた。


「水瀬先輩も一緒の方が、水瀬さんも嬉しいだろうし」


 凛花は一瞬だけ悠真を見る。


 自分が加わることを嫌がるどころか、彩花が嬉しいからと自然に受け入れた。


(……そういうところなんだよね)


 警戒しづらい。


 正確には、警戒する理由をなかなか作らせてくれない。


「じゃあ、一緒に行こうかな」


「うん」


 彩花が笑う。


 五人になって歩き出した。


     ◇


 体育館へ向かう途中、凛花は彩花の隣を歩いていた。


「文芸部はもう終わった?」


「当番は終わったよ。十時から十一時半まで」


「作品は?」


「展示してある」


「あとで読む」


「私がいないときにして」


「分かってる」


「絶対だよ」


「分かってるって」


 凛花が笑う。


「九条君にも同じこと言った?」


「言った」


「へえ」


 凛花が少しだけ後ろを見る。


 悠真は琴葉と玲奈と話しながら歩いていた。


「守ってる?」


「うん。まだ読んでない」


「そっか」


「十二時から受付だったから、その間に読んでもいいって言ったんだけど、図書室行ってたみたい」


「じゃあ、まだなんだ」


「たぶんこのあと」


 彩花の声に、少しだけ緊張が混ざる。


 凛花はそれに気づいた。


「読まれるの、そんなに恥ずかしい?」


「恥ずかしいよ」


「私にも?」


「お姉ちゃんにも」


「九条君にも?」


「九条君には……」


 彩花が少し考える。


「恥ずかしいけど、読んでほしい」


 凛花の足が一瞬だけ止まりそうになった。


 彩花は気づかず続ける。


「前から、完成したら読んでって言ってたから。ちゃんと感想も聞きたいし」


「……そう」


「何?」


「何でもない」


 凛花は前を向く。


(読んでほしい、か)


 彩花が自分から誰かに作品を見せたいと思う。


 それ自体は、とても嬉しい。


 昔の彩花なら、自分が書いたものを見せる前に「大したものじゃないけど」と言っていたかもしれない。


 今は違う。


 恥ずかしがりながらも、読んでほしいと言える。


 その相手の一人が悠真だということだけは、姉として少々複雑だった。


 だが、その複雑さを彩花へ押しつけるつもりはない。


「楽しみにしてる」


 凛花が言う。


「彩花の話」


「期待しすぎないでね」


「それは無理」


「お姉ちゃん」


「妹が書いたんだから楽しみにするでしょ」


「そういうところだよ」


 彩花は困ったように笑った。


 その少し後ろでは、悠真が二人の会話を聞かないよう玲奈の話へ意識を向けていた。


 作品については、彩花が自分から話してくれた範囲だけでいい。


 それ以上を先に知りたいとは思わなかった。


     ◇


 吹奏楽部の演奏を聞き終えたあと、五人は再び校舎へ戻った。


 凛花は途中で剣道部の知り合いを見つけ、少し挨拶へ向かう。


「先に文芸部行ってて。あとで追いつくから」


「分かった」


 彩花が手を振る。


 時刻は二時を少し過ぎていた。


 文芸部室へ戻ると、午前中より来場者は少なかった。部長が入口で彩花に気づき、手を上げる。


「おかえり」


「戻りました」


「当番終わってるのに戻ってくるなんて偉い」


「作品読みに来ただけです」


「ああ」


 部長の視線が悠真へ移る。


「ついに?」


「先輩、その言い方やめてください」


「何も言ってないよ」


「顔で言ってます」


 彩花が抗議すると、部長は笑いながら奥へ戻っていった。


「彩花ちゃん、どうする?」


 玲奈が尋ねる。


「私たちも読むけど」


「……私、外にいる」


「本当に?」


「本当に」


「じゃあ琴葉と私と九条で読む?」


「うん」


 彩花は一歩下がった。


 しかし悠真が作品の置かれた机へ向かうのを見ると、やはり落ち着かない。


 自分で読んでほしいと言った。


 目の前では読まないでとも頼んだ。


 だから、ここで逃げるのが正しい。


「私、飲み物買ってくる」


「彩花さん」


 琴葉が呼び止める。


「はい?」


「ゆっくりで大丈夫ですよ」


「……うん」


「兄様も、読むのは速いですが、今日は急がないと思いますから」


 彩花は悠真を見る。


 彼はすでに展示の前に立っていたが、まだファイルには触れていなかった。


 こちらを見ている。


「水瀬さん」


「何?」


「行ってきていいよ」


「……うん」


「ちゃんと読むから」


「それが緊張するんだけど」


「じゃあ適当に読む?」


「それは嫌」


「難しいな」


 悠真が笑う。


 彩花もつられて笑った。


「ちゃんと読んで」


「分かった」


「でも、急がなくていいから」


「うん」


「あと、読み終わった直後にすぐ感想言わなくてもいいよ」


「分かってる。ちゃんと考えてから言うって約束しただろ」


「……覚えてた」


「覚えてるよ」


 その答えを聞いて、彩花はようやく少し安心した。


「じゃあ、行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 彩花が部室を出る。


 姿が見えなくなるまで待ってから、悠真は展示へ向き直った。


 透明なファイルを手に取る。


 表紙には、朝見た題名。


『また、話したいから』


 一年二組 水瀬彩花。


 悠真は近くの空いている席へ座った。


 琴葉と玲奈も、それぞれ別のファイルを手に取る。


 同じ作品を三人で覗き込むのではなく、一人ずつ読むことにした。


 悠真は一ページ目を開いた。


 最初の数行を読む。


 そして、すぐに周囲の音が遠くなった。


 物語は、二人の人間が偶然出会うところから始まっていた。


 特別な事件は起きない。


 劇的な運命でもない。


 少しずつ言葉を交わし、相手の好きなものを知り、次に会ったときに話したいことが増えていく。


 友達と呼べるようになってからも、二人の間にあるものはそこで止まらない。


 けれど、物語の中の二人は最後まで恋人にはならなかった。


 名前をつけないまま、それでも次に話すことを楽しみにしている。


 最後の場面。


 片方が何気なく「また話そう」と言う。


 もう片方が、それを当たり前のように受け入れる。


 そこで物語は終わった。


 悠真は最後の一文を読んだあと、すぐにはページを閉じなかった。


(……好きだな)


 最初に浮かんだのは、それだった。


 文章の技巧を評価できるほど、自分は創作に詳しくない。


 けれど、好きかどうかなら分かる。


 好きだった。


 派手ではない。


 大きな事件もない。


 それでも、少しずつ相手が日常の中へ入ってくる感じが、静かに残った。


 そして。


 自分たちに似ている部分がまったくないとは思わなかった。


 図書館ではない。


 登場人物も違う。


 会話も出来事も同じではない。


 それでも、誰かと話すことが少しずつ楽しみになっていく感覚だけは、妙に身近だった。


 ただ、それを「俺たちの話みたい」と言うのは違う気がした。


 彩花はこの物語を、自分たちの出来事を写して書いたわけではない。


 以前、彼女自身がそう話していた。


 なら、似ている部分だけを拾って感想にするのは違う。


 悠真はもう一度、最後の数行を読み返した。


(ちゃんと考えよう)


 彩花が聞きたいのは、からかうための感想でも、自分との共通点探しでもない。


 彼女が書いた物語を読んだ自分の言葉だ。


 悠真は静かにファイルを閉じた。


「兄様」


 先に読み終えていた琴葉が小声で呼ぶ。


「どうでした?」


「……よかった」


「それだけですか?」


「水瀬さんに言う前に、琴葉に全部言わない」


 琴葉は少し驚いて、それから微笑んだ。


「それもそうですね」


 玲奈も最後のページを閉じる。


「彩花ちゃんらしい話だね」


「うん」


 悠真が答える。


「でも、それだけじゃないと思う」


「というと?」


「水瀬さんが書いたからって、全部水瀬さん本人として読むのは違う気がする」


 玲奈は少しだけ目を細めた。


「九条、ちゃんと読んだんだね」


「読むって約束したから」


「約束してなくても読んだでしょ」


「それはそうだけど」


 悠真は表紙をもう一度見た。


『また、話したいから』


 題名まで読んだあとだと、最初に見たときより少し違って見える。


 話したいから、また会う。


 会ったから、また話したいことが増える。


 そんな繰り返しで距離が変わっていく。


 悠真には、その感覚がよく分かった。


     ◇


 彩花は自動販売機の前で、同じ飲み物を二度見比べていた。


「……どっちでもいいのに」


 結局、いつものお茶を選ぶ。


 ペットボトルが落ちる音を聞きながら、文芸部室の方向を見る。


(もう読んだかな)


 気になる。


 ものすごく気になる。


 けれど戻りたくない。


 読んでいる途中の悠真と目が合ったら、その場から逃げたくなる自信がある。


「彩花?」


 背後から声がして振り返る。


 凛花だった。


「お姉ちゃん」


「何してるの?」


「避難」


「何から?」


「九条君たちが作品読んでる」


「ああ」


 それだけで凛花は理解した。


「緊張してる?」


「してる」


「じゃあ、もう少しここにいる?」


「うん」


 凛花は隣の自動販売機で水を買った。


 二人で廊下の窓際に立つ。


「ねえ、お姉ちゃん」


「何?」


「自分で読んでって言ったのに、読まれると怖いの変かな」


「全然」


「そう?」


「見てほしいのと、どう思われるか怖いのは別でしょ」


「……そっか」


「私だって試合見に来てほしいけど、失敗したら嫌だなって思うし」


「お姉ちゃんでも?」


「思うよ」


「何でも平気そうなのに」


「そんなわけないでしょ」


 凛花が苦笑する。


「ただ、彩花の前で格好つけてただけ」


「何で?」


「お姉ちゃんだから」


「何それ」


「そういうものなの」


 彩花が笑った。


 凛花はその横顔を見る。


 昔から、自分ができることを褒められるたび、隣にいる彩花が少しだけ小さくなる瞬間を何度も見てきた。


 自分が原因ではないと分かっていても、何もできなかったことがずっと引っかかっていた。


 今の彩花は、自分で書いた作品を展示している。


 友達を学校へ招いている。


 自分の好きな場所を案内している。


 そして、誰かに読んでほしいと言える。


「彩花」


「何?」


「完成、おめでとう」


「前にも言ってくれたでしょう」


「展示されたの見たら、また言いたくなった」


「まだお姉ちゃん読んでないじゃん」


「読む前でも言えるよ。最後まで書いたんだから」


 彩花は少しだけ黙った。


 それから、素直に笑う。


「ありがとう」


 凛花も笑った。


「そろそろ戻る?」


「……うん」


 二人で文芸部室へ向かう。


     ◇


 部室へ戻ると、悠真たちはもう作品を読み終えていた。


 ファイルも元の位置へ戻されている。


 彩花はそれを見ただけで緊張した。


「……読んだ?」


「読んだ」


 悠真が答える。


「どうだった?」


 聞いたあとで、彩花は自分の言葉に驚いた。


 すぐ感想を言わなくてもいい、と自分で言ったばかりなのに。


「ごめん。今じゃなくていいって言ったのに」


「大丈夫」


 悠真は少し考える。


「全部はあとでちゃんと言う。でも、一個だけ今言っていい?」


「……うん」


「俺、好きだった」


 彩花が固まった。


 凛花の眉がわずかに動く。


 琴葉が兄を見る。


 玲奈は一瞬だけ口元を押さえた。


 悠真は周囲の反応に気づかず続ける。


「話が。すごく好きだった」


「あ……」


 彩花の止まっていた息が戻る。


「話ね」


「うん?」


「何でもない」


 頬が熱い。


 一瞬だけ、別の意味に聞こえた自分が恥ずかしい。


「どこが?」


「それはちゃんと考えてから言う」


「今、一個だけって言ったもんね」


「うん。でも、読み終わって最初に思ったのはそれだったから。先に言いたかった」


「……そっか」


 彩花は胸の前でペットボトルを両手で持った。


 怖かった。


 読んでもらうことも。


 感想を聞くことも。


 でも今は、逃げずに聞いてよかったと思う。


「ありがとう」


「うん」


「九条君に読んでもらってよかった」


 その言葉に、悠真の表情が少し変わった。


 嬉しそうに、柔らかくなる。


「俺も、読めてよかった」


 彩花はその顔を見て、また少しだけ頬が熱くなった。


 そこへ凛花が一歩前へ出る。


「じゃあ、次は私が読む」


「お姉ちゃん」


「彩花はまた外に出てていいよ」


「何で追い出されるの」


「目の前で読まれるの嫌なんでしょ?」


「そうだけど」


「じゃあ行ってらっしゃい」


「ここ私の部活なんだけど」


 凛花はすでに作品ファイルへ手を伸ばしている。


 彩花は困った顔をしながら、結局また廊下へ向かった。


「九条君」


「何?」


「付き合って」


「どこに?」


「その辺。お姉ちゃんが読み終わるまで」


「いいよ」


 あまりにも自然に悠真が答えたため、凛花の手が一瞬止まる。


 だが何も言わなかった。


 琴葉と玲奈は顔を見合わせる。


「私たちは?」


 玲奈が聞く。


「ここにいていいよ」


「扱い違わない?」


「だって二人はもう読んだでしょう」


「そういう意味じゃないんだけどな」


 玲奈が笑う。


 彩花と悠真は並んで部室を出た。


     ◇


「どこ行く?」


 悠真が尋ねる。


「すぐ戻るから、さっきのベンチでいい?」


「うん」


 二人で廊下を歩く。


 文化祭の喧騒はまだ続いているが、午後二時半を過ぎ、午前中ほどの混雑はなくなっていた。


 先ほど四人で座ったベンチへ戻る。


 今度は二人だけだった。


 彩花が窓側。


 悠真がその隣。


 少し間を空けて座る。


「……本当に好きだった?」


 彩花が尋ねた。


「うん」


「気を遣ってない?」


「使ってない」


「友達だから褒めたとか」


「それならもっと無難なこと言うと思う」


「無難なこと?」


「文章が読みやすかったとか、最後まで面白かったとか」


「それも言われたら嬉しいけど」


「もちろん、それも思った。でも最初に出たのが『好きだった』だった」


 悠真は窓の外を見る。


「特に最後」


「最後?」


「二人が結局、何にもならないところ」


「……何にもならないって言い方すると、何も進んでないみたい」


「ごめん。そういう意味じゃなくて」


 悠真は少し考え、言葉を選ぶ。


「友達になったから終わりじゃなくて、そのあとも少しずつ変わっていくのがよかった。最後も、何か大きな約束をするわけじゃなくて、また話すことだけ決まってるだろ」


「うん」


「それで十分なんだって思えた」


 彩花は黙って聞く。


 悠真は物語を、自分との共通点だけで見ていない。


 登場人物を登場人物として読んで、その上で感想を言ってくれている。


 それが嬉しかった。


「あと」


「まだある?」


「あるよ。ちゃんと考えて言うって言っただろ」


「今全部言うの?」


「駄目?」


「駄目じゃないけど」


 彩花が少し笑う。


「聞きたい」


「じゃあ言う」


 悠真は続けた。


「最初の方と最後の方で、同じような会話してるのに意味が違うのも好きだった」


 彩花が目を見開く。


「気づいた?」


「うん。最初は本当にただ話してるだけなのに、最後は次に話すのが当たり前になってる」


「……そこ、気づいてほしかったところ」


「本当?」


「うん」


 彩花の顔が明るくなる。


 悠真は、その変化を見逃さなかった。


「じゃあ合ってた」


「合ってる」


「よかった」


「私も」


 彩花は膝の上でペットボトルを握る。


 書いている間、何度も迷った。


 もっと分かりやすく関係を進めた方がいいのか。


 恋愛として結論を出した方が物語らしいのか。


 けれど、最後までそうしなかった。


 友達になったあとも、距離は変わる。


 名前をつけなくても、昨日と今日では違う。


 その変化を書きたかった。


 悠真は、そこを読んでくれた。


「九条君に読んでもらってよかった」


 彩花はもう一度言った。


「さっきも言ってた」


「二回言ってもいいでしょう」


「いいよ」


「じゃあ二回目」


 彩花は笑う。


「読んでくれてありがとう」


「こちらこそ」


「何で九条君がお礼言うの?」


「読ませてもらったから」


「展示してるんだから誰でも読めるよ」


「でも、俺は前から読ませてもらう約束してたし」


「そうだったね」


 二人の間に短い沈黙が落ちる。


 気まずくはない。


 窓から入る風が、彩花の髪を少し揺らした。


 廊下の遠くを誰かが走り、先生に注意される声が聞こえる。


 悠真はふと、さっき読んだ物語の最後を思い出した。


 また話したいから。


 次に会う。


 次に会えば、また話したいことが増える。


「水瀬さん」


「何?」


「俺も、また読みたい」


「何を?」


「水瀬さんが書いた話」


 彩花が瞬く。


「次、まだ何も書いてないよ」


「今すぐじゃなくていい」


「いつになるか分からないよ?」


「できたときでいい」


「次も見せるって決まってないんだけど」


「じゃあ、見せてもいいって思ったら」


「……それなら」


 彩花は少し考えてから頷いた。


「書いたら、見せてもいいかも」


「うん」


「約束まではしないよ」


「分かってる」


「でも、覚えてたら」


「覚えてると思う」


「九条君、本当に覚えてるからなあ」


 彩花は笑った。


 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいた。


「彩花」


 凛花だった。


 手には作品ファイルを持っていない。きちんと展示へ戻してから来たらしい。


「読み終わった?」


「うん」


「どうだった?」


 今度は彩花からすぐに尋ねた。


 凛花は妹の前で立ち止まる。


「好きだった」


「……お姉ちゃんまで同じこと言う」


「九条君も言ったの?」


「うん」


「真似してないからね」


「分かってるよ」


 凛花は少し笑ってから、彩花の頭へ手を伸ばしかけた。


 だが学校で、しかも友達の前だと思い直し、肩を軽く叩く。


「ちゃんと彩花の話だった」


「どういう意味?」


「読めば分かるかなと思って」


「分からないよ」


「じゃあ帰ってから言う」


「何それ」


「長くなるから」


 凛花は笑った。


 その目が少しだけ潤んでいるように見え、彩花はそれ以上追及できなかった。


「……ありがと」


「うん」


 そこへ琴葉と玲奈もやって来る。


「凛花さん、どうでした?」


「よかったよ」


「ですよね」


「琴葉さんも?」


「はい」


「玲奈さんも?」


「好きだった」


「何でみんな同じこと言うの」


 彩花がとうとう笑った。


「もっと別の感想ないの?」


「あるけど、それはあとで」


「お姉ちゃんと同じこと言ってる」


「じゃあ私たち、気が合うね」


 玲奈が楽しそうに笑う。


 文化祭の廊下に、五人の笑い声が重なった。


     ◇


 その後も、彩花は校内を案内した。


 写真部の展示を見て、家庭科部の焼き菓子を買い、途中で大地と再び会えば、謎解きの暫定一位が更新されたと玲奈が本気で悔しがった。


 凛花は途中から千尋と合流することになり、三時過ぎに一度彩花たちと別れた。


「帰るとき連絡して」


「分かった」


「お母さんたち来たら私にも教えて」


「うん」


 凛花は最後に悠真へ目を向ける。


「九条君」


「はい」


「彩花、楽しそうだから」


「……はい?」


「何でもない」


 それだけ言って去っていった。


 悠真は意味が分からず首を傾げたが、彩花は姉の背中を見ながら苦笑していた。


「お姉ちゃん、たまに変なこと言うから気にしないで」


「うん」


「兄様も人のことは言えませんけどね」


「何で俺?」


「本日何度目でしょう」


「何が?」


「何でもありません」


 琴葉は微笑むだけで答えなかった。


 午後三時半を過ぎると、文化祭も終盤の空気になってきた。


 来場者はまだ多いが、完売の札を出す模擬店も増え、校内放送では一般公開終了時刻の案内が流れ始めている。


「そろそろ最後、どこか行く?」


 玲奈が尋ねる。


 彩花は少し考えた。


「屋上は入れないし……中庭も行ったし」


「もう十分見たよ」


 悠真が言う。


「本当に?」


「うん」


「まだ見てないところいっぱいあるよ」


「また全部見せようとする」


「だって案内するって言ったから」


「水瀬さんの学校で見たかったものは見られた」


「何?」


「文芸部と、教室と、普段いるところ。それと話」


 最後の一言で、彩花は少し照れた。


「……ならいいけど」


「すごくよかった」


「学校が?」


「全部」


 悠真は周囲を見る。


 朝から何度も通った廊下。


 文化祭の飾り。


 青葉高校の制服を着た生徒たち。


 午前中には知らなかった場所が、今は少しだけ具体的な意味を持って見える。


 文芸部室は彩花が作品を書く場所。


 一年二組は普段授業を受ける場所。


 二階のベンチは昼休みに本を読む場所。


 図書室には彩花が選んだ一冊のカードがある。


 そして今日、その一つ一つを彩花本人に案内してもらった。


「来てよかった」


 悠真は言った。


 今度は昼食のときより、はっきりと。


「本当に」


 彩花は少しだけ目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「よかった」


「水瀬さん」


「何?」


「今日、案内してくれてありがとう」


「こっちこそ来てくれてありがとう」


「楽しかった」


「私も」


 自然に返したあと、彩花は少しだけ自分の言葉を意識した。


 けれど訂正はしなかった。


 楽しかった。


 それでいい。


 琴葉と玲奈も一緒だった。


 凛花も途中から加わった。


 学校のいろいろな場所を歩いた。


 ただ、それだけの一日。


 それなのに朝より、自分の学校が少し好きになった気がした。


     ◇


 一般公開終了十五分前。


 四人は昇降口へ向かっていた。


 来場者が一斉に帰る前に出た方がいいだろうということになったのだ。


 途中、文芸部室の前を通る。


 彩花が足を止めた。


「ちょっとだけ待ってて」


「片づけ?」


「ううん。感想カード見てくる」


 三人も一緒に部室へ入る。


 出口近くに置かれていた回収箱には、朝よりずっと多くのカードが入っていた。


 部長がそれを仕分けている。


「水瀬さん、ちょうどよかった」


「私のありました?」


「あるよ」


「本当ですか?」


「何枚か」


 部長が数枚のカードを渡した。


 彩花は受け取る。


 最初の一枚。


『最後の会話が好きでした。続きがありそうで、でもここで終わるのがよかったです。』


 二枚目。


『登場人物が少しずつ仲良くなるところが自然でした。』


 三枚目。


『また話したいと思える人がいるのっていいなと思いました。』


 彩花は、しばらく何も言えなかった。


 知らない人が読んだ。


 自分の名前も知らない誰かが、足を止めて、最後まで読んで、わざわざ感想を書いてくれた。


「……嬉しい」


 小さく声が出た。


「よかったね」


 部長が笑う。


「はい」


 彩花は三枚をもう一度読む。


 悠真たちは少し離れた場所にいた。


 覗き込まない。


 彩花が見せるまで待っている。


 そのことにも気づいて、彩花は自分から三人の方へ向かった。


「見て」


 カードを差し出す。


「いいの?」


 悠真が尋ねる。


「うん」


 三人で読む。


「私と同じところ好きな人いる」


 悠真が最初のカードを指した。


「最後?」


「うん」


「本当だ」


「よかったな」


「うん」


 彩花は笑った。


「書いてよかった」


 その言葉は、思ったより簡単に出た。


 誰かより上手だからではない。


 褒められたからだけでもない。


 自分が書きたくて書いたものを、誰かが読んで何かを受け取ってくれた。


 それが嬉しい。


「水瀬さん」


「何?」


「そのカード、大事にしそう」


「するよ」


「やっぱり」


「九条君だって、こういうのもらったら取っておくでしょう?」


「水瀬さんからなら絶対」


「何で私限定なの」


「捨てられないから」


「まだ何もあげてないよ」


「じゃあ今度何か書いて」


「急に?」


「さっき字当てしただろ」


「あ」


 図書室での話を思い出し、彩花が笑う。


「じゃあ、本当にやる?」


「やる」


「何書けばいいの?」


「何でも」


「それが一番困る」


「本の題名とか」


「それならいいけど」


「決まり」


「そんな約束だったっけ?」


「今決まった」


「九条君、たまに勝手だよね」


「嫌?」


「嫌じゃないけど」


 彩花がそう答えると、悠真は満足そうに笑った。


 その横で玲奈が琴葉へ小声で言う。


「これ、私たちいる?」


「今日は最後までいる予定です」


「そういう意味じゃなくて」


「分かっています」


 二人は笑いを堪えた。


     ◇


 昇降口を出ると、午後の日差しは朝より柔らかくなっていた。


 正門の外には帰る来場者が流れ、受付では実行委員の生徒が来場者証を回収している。


「ここまででいいよ」


 彩花が言う。


「片づけあるんでしょ?」


「うん。少しだけ」


「じゃあ戻らないと」


「大丈夫。まだ時間あるよ」


 四人は正門の少し手前で立ち止まった。


 朝、悠真たちが入ってきた場所。


 今度は彩花が見送る側だった。


「琴葉さん、今日は来てくれてありがとう」


「こちらこそ。とても楽しかったです」


「玲奈さんも」


「うん。また来たいくらい」


「文化祭、年一回だよ」


「じゃあ来年」


「来年?」


「駄目?」


「駄目じゃないけど」


 彩花は少し驚いて、それから笑った。


「じゃあ来年も、予定合ったら」


「約束ね」


「まだ一年先だよ」


「覚えておく」


 玲奈が楽しそうに答える。


 そして彩花は悠真を見る。


「九条君も」


「うん」


「来てくれてありがとう」


「俺の方こそ」


「本当に楽しかった?」


「何回聞くの?」


「だって桜華と全然違うし」


 言ってから、彩花は少しだけ止まる。


 以前なら、その先に「普通の学校だし」と続けていたかもしれない。


 でも今日は言わなかった。


 青葉高校は桜華とは違う。


 ただ、それだけだ。


「違うから面白かった」


 悠真が答える。


「それに、水瀬さんが好きな学校だろ」


「うん」


「俺も好きになった」


 彩花が目を見開く。


「一日で?」


「一日で」


「単純」


「そうかも」


「でも」


 彩花は正門を振り返った。


 紙花で飾られた看板。


 窓に並ぶポスター。


 聞こえてくる校内放送。


 朝から何度も見た景色。


「嬉しい」


 素直に言った。


「九条君にそう言ってもらえるの」


「ならよかった」


 悠真が笑う。


 彩花も笑った。


 少し離れた場所から、実行委員の生徒が一般公開終了の案内板を運んでくる。


 朝には『一般公開中』と書かれていた板が裏返される。


『本日の一般公開は終了しました』


 まだ終了時刻には数分早いが、受付では帰る来場者の列ができていた。


「じゃあ行くね」


 琴葉が言う。


「うん。また連絡する」


「はい」


「彩花ちゃん、またね」


「またね、玲奈さん」


 玲奈と琴葉が先に歩き出す。


 悠真も続こうとして、一度だけ振り返った。


「水瀬さん」


「何?」


 呼ばれて、彩花が顔を上げる。


 朝から何度も呼ばれた。


 いつもと同じ「水瀬さん」。


 それなのに今日は、その声が少しだけ違って聞こえた。


「また図書館で」


 悠真が言う。


 彩花は一瞬だけ目を丸くする。


 今日読んでもらった物語の題名が、頭をよぎった。


 また、話したいから。


 けれど、それを口にはしなかった。


「うん」


 彩花は笑う。


「また図書館で」


 悠真も笑って、今度こそ琴葉たちの後を追った。


 彩花は正門の内側から三人を見送る。


 玲奈が何かを言い、琴葉が笑う。


 少し遅れて追いついた悠真が二人へ何か返し、それからもう一度だけ学校の方を振り返った。


 目が合う。


 彩花が手を上げると、悠真も手を上げた。


 その直後。


 正門脇の案内板が、実行委員の手で完全に裏返された。


『本日の一般公開は終了しました』


 文化祭の一日が終わる。


 彩花は胸元の名札を指先で整え、校舎へ向き直った。


 手には、三枚の感想カードが残っていた。

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