第37話 同じ名字の呼び方
文化祭まで、あと一週間。
月曜日の朝、水瀬彩花が一年二組の教室へ入ると、入口のすぐ横に見慣れない段ボール箱が置かれていた。
中には文化祭当日に使う名札用のケースが人数分入っており、近くの机では実行委員の女子がクラス名簿と照らし合わせながら一つずつ確認している。教室の後方には謎解き企画の装飾もかなり増え、先週まで白かった壁の一部が、古い洋館の書斎を思わせる茶色い紙で覆われていた。
「おはよう、水瀬さん」
「おはよう。これ、名札?」
「うん。当日は全員付けることになったの。水瀬さんのもあるよ」
実行委員が箱の中を探し、一枚の名札を取り出した。
一年二組。
水瀬彩花。
白い紙に印刷された自分の名前を見て、彩花は受け取る。
「当日までなくさないでね」
「分かった。鞄に入れておく」
「できれば家に持って帰らない方がいいかも。当日忘れる人いそうだから」
「じゃあロッカーに置いておくね」
「それがいいと思う」
彩花は自分のロッカーへ名札をしまった。
ただそれだけのことだった。
文化祭では、来場者から誰がスタッフなのか分かるようにする必要がある。名字だけでは同じ名字の生徒がいる可能性もあるため、名札には全員の姓名が書かれていた。
席へ戻ろうとすると、後ろから大地が来た。
「俺のある?」
「田辺君は自分で探して」
「冷たいな」
「そこにあるでしょう」
大地が箱を覗き込む。
「あった。田辺大地。よし」
「何を確認したの?」
「俺が俺であること」
「朝から大丈夫?」
「月曜だからちょっと危ない」
彩花は笑いながら席へ戻る。
朝のホームルームまでまだ時間があり、教室には文化祭の話をしている生徒が多かった。あと一週間となれば、授業以外の時間はほとんど準備へ使われる。
彩花も鞄から教科書を出しながら、今週の予定を頭の中で確認した。
文芸部の展示準備。
クラス企画の最終確認。
図書室へ、先日書いたおすすめ本のカードを提出する。
文化祭当日の来場時間についても、悠真たちともう一度確認しておく必要がある。
「水瀬さん」
前の席の女子が振り返った。
「そういえば、桜華の友達来るんだよね?」
「うん」
「三人だっけ」
「そうだよ」
「九条君と、妹さんと、妹さんの友達?」
「うん」
以前も似た説明をした。
もうクラスの何人かには知られているらしい。
「妹さんも九条さんだよね?」
「そうだけど」
「当たり前だけど、二人とも九条さんなんだなって」
「兄妹だからね」
「水瀬さん、妹さんのことは何て呼んでるの?」
「琴葉さん」
「じゃあ九条君だけ名字?」
「……あ」
言われて、彩花は瞬きをした。
考えたことがなかった。
琴葉とは最初から「琴葉さん」と呼んでいる。
一方、悠真はずっと「九条君」。
兄妹なのだから、二人が同じ場所にいるときに「九条君」と呼べば悠真を指すことは分かるし、「九条さん」と言えば琴葉になる。
だから困ったことはない。
「確かに」
「今気づいたの?」
「うん」
「仲いいのに意外」
「そうかな?」
「だって妹さんは名前なんでしょ?」
「最初にそう呼ぶことになったから」
彩花はそう答えた。
実際、それ以上の理由はなかった。
琴葉と知り合ったとき、悠真と区別するためにも自然に名前で呼ぶことになった。それが今まで続いている。
「じゃあ、お兄さんも名前で呼んだら?」
「え?」
「妹さんと一緒にいるとき楽じゃない?」
女子は本当に何気なく言っただけらしい。
深い意味などなさそうだった。
それなのに。
「悠真君……?」
彩花は、ほとんど音にならないくらい小さな声で言ってみた。
自分の口から出た二文字が、妙に耳へ残る。
「……」
「水瀬さん?」
「いや、何でもない」
「顔赤くない?」
「赤くないよ」
「ちょっと赤い」
「朝、暑いから」
「今日涼しいけど」
「……文化祭準備で暑いの」
「まだ何もしてないじゃん」
女子が笑う。
彩花は視線を逸らし、自分の席へ座った。
机の上に教科書を置く。
(何でこんなに変な感じするんだろう)
名前を呼ぶだけだ。
琴葉のことは普通に琴葉さんと呼んでいる。
玲奈も、一条さん。
大地は田辺君。
それぞれ最初に定着した呼び方をそのまま使っている。
悠真だけが特別なわけではない。
けれど、「悠真君」と口にした瞬間だけ、今までより一歩近い場所へ踏み込むような感じがした。
彩花は小さく息を吐いた。
(別に、今変える必要ないよね)
困っていない。
悠真から変えてほしいと言われたわけでもない。
なら、そのままでいい。
そう結論づけたところで、朝のホームルームを知らせる予鈴が鳴った。
彩花は教科書を開いた。
ただ。
さっき一度だけ口にした名前が、思っていたより長く耳の奥へ残っていた。
◇
昼休み。
彩花は図書室へおすすめ本のカードを提出した。
「ありがとう」
図書委員が受け取り、内容を確認する。
「児童文学なんだ」
「うん。小学生の頃から好きで」
「理由いいね。『読むたびに、前とは違うところを好きになれるから』」
「声に出して読まないで」
「ごめんごめん」
図書委員は笑いながら、カードを展示用の箱へ入れた。
「文化祭の日は入口のところに貼るから」
「分かった」
「友達にも見てもらって」
「うん」
図書室はいつもと変わらず静かだった。
窓から入る九月の風がカーテンを揺らし、ページをめくる音があちこちから小さく聞こえてくる。
彩花はそのまま帰ろうとして、ふと書架の一角へ目を向けた。
先週から文化祭用に設けられた特集棚だ。
『名前が印象的な物語』
手書きの小さな札が置かれている。
「……名前」
朝の会話を思い出してしまった。
悠真君。
頭の中で言うだけなら、朝より少しだけ平気だった。
それでも「九条君」とは違う。
何が違うのかと聞かれたら、うまく説明できない。
距離。
親しさ。
響き。
たぶん、全部少しずつ違う。
「水瀬さん、何か借りる?」
図書委員に声をかけられ、彩花は我に返った。
「今日はいいかな」
「そっか」
「また来るね」
「うん」
図書室を出る。
廊下を歩きながら、彩花は少しだけ眉を寄せた。
(意識すると駄目だ)
普段なら何とも思わない呼び方まで、気になってしまう。
文化祭まであと一週間。
当日は琴葉もいる。
玲奈もいる。
悠真もいる。
そこで「九条君」と呼んでも、誰も困らない。
なら考えなくていい。
そう思った。
思ったのだけれど。
頭の片隅には残ったままだった。
◇
同じ日の放課後。
桜華学園では、生徒会室の窓から傾いた日差しが差し込んでいた。
悠真は文化祭とは関係のない校内行事の書類を整理し、確認済みの束を隣へ移す。
青葉高校の文化祭へ行く週末は、生徒会の予定も家庭の予定も入っていない。
すでに分かっていることなのに、手帳を開くたび、その日の欄へ目が向く。
「九条」
向かい側で作業していた湊が声をかけた。
「今、また土曜見ただろ」
「見てない」
「見た」
「書類見てた」
「手帳だったじゃん」
悠真は黙った。
湊が笑う。
「そんな楽しみ?」
「楽しみだけど」
「即答するようになったな」
「前から楽しみなものは楽しみって言ってるだろ」
「最近はな」
湊はペンを置き、椅子の背へ軽く体重を預けた。
「水瀬さんの学校行くんだっけ」
「うん」
「いいな。他校の文化祭」
「榊原もどこか行けば?」
「誘われてないのに一人で行くの寂しいだろ」
「別に一般公開ならいいだろ」
「九条は誘われてる側だから言えるんだよ」
悠真は少し考えた。
確かに、彩花から「来て」と言われている。
文芸部を見てほしいとも言われた。
そのことを思い出すだけで、胸の奥が少し温かくなる。
「……そうかも」
「そこで納得すんな」
湊は笑い、また書類へ視線を戻した。
しばらくは紙をめくる音だけが続いた。
やがて、生徒会室の扉が開く。
「兄様」
琴葉だった。
「終わりましたか?」
「もう少し」
「待っています」
「先帰っててもいいよ」
「玲奈と話がありますから大丈夫です」
「一条もいるの?」
「廊下に」
琴葉がそう答えた直後、開いた扉の向こうから玲奈が顔を出した。
「いるよ」
「入れば?」
「生徒会の邪魔しない?」
「もう終わるから」
「じゃあ失礼します」
玲奈も室内へ入った。
湊が二人へ軽く挨拶し、琴葉も会釈を返す。
「文化祭の待ち合わせなんですが」
琴葉が悠真の机の横に立った。
「青凪駅に十時半頃でどうでしょう」
「学校までどのくらい?」
「駅から歩いて十五分ほどだそうです」
「なら余裕あるな」
「少し早めに着いてもいいでしょうし」
「うん」
玲奈がスマートフォンを見ながら言う。
「私も十時半で大丈夫」
「じゃあ決まりで」
悠真は手帳へ書き込んだ。
土曜日。
十時半、青凪駅。
そこまで書いたところで、湊が何気なく尋ねる。
「一条と九条妹も水瀬さんと仲いいんだよな?」
「九条妹って呼び方やめてください」
琴葉が即座に返す。
「ごめん。琴葉さん」
「それなら結構です」
「水瀬さんは何て呼んでるの?」
「私をですか?」
「うん」
「琴葉さんです」
「じゃあ九条は?」
「九条君」
琴葉が答えた。
悠真のペン先が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、玲奈は気づいたらしい。
悠真を見る。
「何?」
「いや」
「今ちょっと反応したよね」
「してない」
「兄様」
琴葉までこちらを見る。
「何だよ」
「彩花さんから『九条君』と呼ばれることに何か?」
「何もない」
「では、もし名前で呼ばれたら?」
「……」
今度は、明確に答えが遅れた。
湊が笑いを堪えるように口元を押さえる。
「榊原、笑うな」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
悠真は手帳を閉じた。
考えたことがなかったわけではない。
琴葉は彩花から「琴葉さん」と呼ばれている。
玲奈は「一条さん」。
自分は「九条君」。
最初にそう呼び始めたから、そのまま続いている。
不満などない。
むしろ、彩花の声で「九条君」と呼ばれることに慣れすぎていて、それが自分への呼びかけとして完全に定着している。
でも。
(……悠真君、って呼ばれたら?)
想像した。
彩花の声。
自分を見る顔。
その口から、自分の名前。
「兄様?」
「……何でもない」
「耳、少し赤くないですか?」
「夕日」
「窓と反対向きですけど」
「暑い」
「今日は涼しいですよ」
「水瀬さんも同じ言い訳してそう」
玲奈が笑いながら言った。
悠真が顔を上げる。
「何で水瀬さん?」
「何となく」
「適当だな」
「でも、ありそう」
玲奈は楽しそうだった。
琴葉も小さく笑っている。
「別に呼び方なんて今のままでいいだろ」
悠真はそう言った。
それは本心だった。
変えてほしいとは思っていない。
彩花が自然に呼べる呼び方なら、それでいい。
「そうですね」
琴葉もあっさり頷いた。
「彩花さんが呼びたいように呼ぶのが一番です」
「なら何で聞いたんだよ」
「兄様がどんな顔をするか少し興味がありまして」
「お前な」
「確認できました」
「何を」
「秘密です」
悠真はため息をついた。
湊と玲奈が笑う。
生徒会室に夕方の柔らかな空気が流れた。
ただ。
作業へ戻ってからも、悠真の頭の片隅には一つの響きが残っていた。
(悠真君、か)
悪くない。
そう思ってしまったことだけは、誰にも言わなかった。
◇
火曜日。
青葉高校では、文化祭準備のために放課後の教室がいつも以上に騒がしかった。
一年二組では謎解き企画の最終テストが行われている。
「水瀬、受付役やって」
「今?」
「客役が足りない」
「分かった」
大地に呼ばれ、彩花は教室入口の受付席へ座った。
机の上には当日使用する説明用紙。
その横に名札ケース。
昨日渡された自分の名札をロッカーから出し、首から下げる。
『水瀬彩花』
胸元に自分の名前がある。
「では、お客様どうぞ」
大地が教室の外へ声をかける。
数人のクラスメイトが客役として入ってきた。
「いらっしゃいませ。こちらの説明を読んでから始めてください。制限時間は二十分です」
「水瀬さん、本番みたい」
「練習だから」
「もう一回、もっと店員っぽく」
「何で?」
「雰囲気」
「謎解きに店員いないでしょう」
周囲が笑う。
彩花も笑いながら説明用紙を渡した。
テストが始まる。
客役の生徒たちは教室内に置かれた偽物の本や箱を調べ、暗号を解いていく。
彩花は受付から様子を見守った。
大地は進行係として教室内を歩き回り、必要なところだけヒントを出している。
十五分ほどで最初の組が最後の答えへ到達した。
「おめでとうございます」
彩花が景品代わりの小さなカードを渡す。
「楽しかった」
「本番も来てね」
「自分のクラスだけど」
「じゃあ友達連れてきて」
そんなやり取りをしながら、次の組を入れる。
二回目のテストが終わったところで、大地が受付へ戻ってきた。
「いい感じじゃん」
「うん。思ったよりちゃんとしてる」
「思ったよりって何だよ」
「最初、段ボールしかなかったから」
「そこから作ったんだよ」
「褒めてるって」
彩花は首から名札を外そうとした。
そのとき、大地が名札を見て言う。
「フルネームなんだな」
「全員そうだよ」
「同じ名字対策?」
「たぶん」
「そういや水瀬って、文化祭の日に九条が二人来るんだろ?」
「うん」
「どうやって呼び分けんの?」
また、その話だ。
彩花の手が止まる。
「九条君と琴葉さん」
「なるほど」
「今まで困ったことないよ」
「ならいいけど」
大地は深く考えず、次の準備へ向かおうとする。
けれど途中で振り返った。
「九条君って下の名前何だっけ」
「悠真君」
答えてから。
彩花は固まった。
大地も一瞬止まった。
「……水瀬?」
「違う」
「何が?」
「今のなし」
「何で?」
「九条悠真君」
「いや、別にフルネーム聞いてないけど」
「……」
頬が熱い。
完全に無意識だった。
朝から何度か頭の中で考えていたせいだろう。
大地は少し不思議そうにしてから、何かに気づいたように笑った。
「ああ、名前で呼んだの初めて?」
「本人には呼んでないから」
「でも言ったじゃん」
「田辺君に聞かれたからでしょう」
「はいはい」
「何、その顔」
「別に」
「笑ってる」
「笑ってないって」
「絶対笑ってる」
大地は肩を揺らしながら逃げるように教室の奥へ戻った。
彩花は追わなかった。
追う方が余計に目立つ。
名札を外し、両手で持つ。
(悠真君って言った)
本人はいない。
ただ名前を答えただけ。
それなのに、心臓が少し速い。
「……慣れない」
小さく呟く。
でも、嫌ではなかった。
そこが一番困る。
◇
その日の夜。
夕食後、彩花は自室で文化祭の持ち物を確認していた。
文芸部から渡された当日用の予定表。
クラス企画の名札。
ハンカチ。
筆記用具。
スマートフォン。
財布。
まだ数日前なのに、母から「前日に慌てないようにね」と言われ、必要なものだけメモしている。
机の端には、以前買った淡い青地に白い花柄の布が畳んで置いてあった。
まだ何を作るか決めていない。
それを眺めていると、スマートフォンが振動した。
『待ち合わせ、土曜10時半に青凪駅になった。学校には11時前くらいに着くと思う。』
悠真からだ。
『了解。私は文芸部にいるから、そのまま来て大丈夫だよ。』
『場所分かる?』
『案内図送ろうか?』
『お願い。』
彩花は学校から配布された一般来場者向け案内図を撮影して送る。
『正門入って右の校舎。二階の端。』
『分かった。』
『迷ったら連絡して。』
『水瀬さん当番中じゃない?』
『少しくらいなら見られるよ。』
『じゃあ迷ったら琴葉に調べてもらう。』
『自分で調べてください。』
すぐに笑っているスタンプが返ってきた。
彩花も笑う。
いつものやり取りだ。
そこでふと、今日のことを思い出した。
大地に聞かれて。
無意識に「悠真君」と答えた。
メッセージ画面の上には、登録名として『九条悠真』と表示されている。
当然、名前は知っている。
何度も見ている。
それなのに。
(本人に悠真君って呼ぶのは……)
想像する。
土曜日。
文芸部室へ来た悠真を見つける。
「悠真君」
駄目だ。
想像しただけで恥ずかしい。
彩花はベッドへ座り、スマートフォンを膝へ置いた。
(何で?)
嫌ではない。
呼びたくないわけでもない。
ただ、今までずっと「九条君」だった。
それを変えると、何かが変わってしまう気がする。
実際には呼び方一つで関係が大きく変わるわけではないだろう。
明日から名前で呼んだからといって、急に別の関係になるわけでもない。
それでも、自分の中では小さくない。
スマートフォンがまた振動した。
『そういえば、図書室の一冊選ぶやつ決まった?』
「あ」
彩花は画面を開く。
『決めたよ。』
『何にした?』
『文化祭で探して。』
『また秘密?』
『これは展示見れば分かる。』
『探す。』
『いっぱい貼ってあると思うよ。』
『水瀬さんの字なら分かるかも。』
彩花の指が止まった。
『分かるの?』
『たぶん。』
『なんで?』
『メッセージじゃなくて手書きの方も何回か見てるから。』
裁縫のときに書いた説明。
古本市で見せたメモ。
文芸部の話をしたときにも、原稿の一部を見せたことがある。
言われてみれば、悠真は彩花の字を見ている。
『当てられたらすごいね。』
『じゃあ探してみる。』
『頑張って。』
そこで会話が一度切れた。
彩花は画面を見ながら、さっきまで考えていた呼び方のことを思い出す。
九条君。
それはもう、すっかり馴染んでいる。
名前を呼ぶより自然で、安心する。
だから今は、それでいい。
(でも、いつかは……?)
そこまで考え、彩花は首を振った。
無理に決めなくていい。
必要になったら、そのとき考えればいい。
文化祭の予定表を机へ戻す。
あと数日。
今は、そちらの方が大事だった。
◇
木曜日の放課後。
文化祭準備は、いよいよ最終段階に入っていた。
青葉高校の廊下には装飾が増え、普段なら何もない壁にも案内表示やポスターが並んでいる。教室からは段ボールを切る音や笑い声が聞こえ、体育館ではステージ発表のリハーサルが始まっていた。
彩花は文芸部の展示を終え、部室入口から全体を眺めた。
壁にはおすすめ本の紹介。
机には部誌。
展示用ファイル。
その中に、自分の『また、話したいから』もある。
出口側には感想カード。
「これでほぼ完成かな」
部長が言う。
「明日は最終確認だけにしよう」
「はい」
「水瀬さん、当日よろしくね」
「こちらこそお願いします」
「友達来たら紹介してね」
「紹介?」
「せっかく来てくれるんでしょ」
「そうですけど……」
彩花は少し考える。
悠真。
琴葉。
玲奈。
部長へ紹介するなら。
「友達の九条君です」
普通だ。
「友達の琴葉さんです」
こちらも普通。
でも兄妹を続けて紹介すると。
「九条君と、妹の琴葉さん」
これが一番自然かもしれない。
「どうしたの?」
「紹介の仕方考えてました」
「今?」
「ちょっと事情があって」
「何の事情?」
「同じ名字の兄妹が来るので」
「ああ」
部長はすぐ理解した。
「お兄さんの方は下の名前で呼ばないの?」
まただ。
彩花は思わず黙った。
部長が首を傾げる。
「水瀬さん?」
「……今週、その質問三回目くらいです」
「そんなに?」
「はい」
「じゃあみんな同じこと思うんだ」
「そうみたいです」
彩花は小さく息を吐いた。
「ずっと九条君って呼んでるので」
「なるほど」
「琴葉さんは最初から琴葉さんで」
「別に困ってないならそのままでいいんじゃない?」
「……そうですよね」
「呼び方って、変えようと思うと急に恥ずかしいし」
彩花が顔を上げる。
「先輩もあります?」
「あるよ。中学から仲いい友達、今さら下の名前で呼べない子いる」
「仲悪いわけじゃないですよね?」
「全然。むしろ仲いい」
「じゃあ、そういうものですか」
「そういうものじゃない?」
部長は笑った。
「でも、変わるときは何かの拍子に変わったりするけどね」
「何かの拍子」
「うん。誰かと区別しなきゃいけなくなったとか、相手からそう呼んでって言われたとか。理由なんてその程度」
「……なるほど」
「まあ、水瀬さんが呼びやすいのでいいと思うよ」
「はい」
それで会話は終わった。
部長は別の展示物を確認しに行く。
彩花は自分の作品ファイルを整えた。
無理に変えなくていい。
その言葉に安心した。
同時に。
「変わるときは何かの拍子に変わる」
その言葉も、少しだけ残った。
◇
そして、文化祭前日の金曜日。
青葉高校は午後の授業が短縮され、校内全体が準備時間になった。
廊下を歩く生徒たちは皆忙しそうで、あちこちから「テープある?」「机もう一個必要」「実行委員どこ?」という声が飛び交っている。
彩花も文芸部とクラスを何度か往復した。
文芸部の最終確認。
クラス受付の説明。
名札。
来場者用パンフレット。
謎解きのテスト。
気づけば、外は夕方の色になっていた。
「水瀬、明日十二時な」
教室で大地が確認する。
「分かってる」
「遅刻すんなよ」
「田辺君こそ」
「俺は十一時からいる」
「食べ物買いに消えないでね」
「信用ねえな」
「今までの発言のせいでしょう」
大地が笑う。
「九条君たち十一時だっけ」
「うん」
「じゃあ俺もどっかで会うな」
「たぶん」
「桜華の生徒って分かるかな」
「私服だから分からないと思うよ」
「じゃあ水瀬の近くにいる三人組探すわ」
「不審者みたいだからやめて」
「冗談だって」
大地は最後の装飾を壁へ貼りに行った。
彩花も自分の机周りを片付ける。
明日は普段の教室ではない。
机の配置も違う。
壁も違う。
それでも、ここは自分の教室だ。
悠真が来る。
琴葉が来る。
玲奈も来る。
午後には凛花も来る。
考えると、少しだけ落ち着かない。
けれど、不安ではなかった。
「水瀬さん」
クラスメイトの女子が声をかける。
「明日楽しみだね」
「うん」
「九条君来るし?」
からかうような言い方ではない。
ただ、以前から話を聞いている友達が来るから、という程度の笑顔だった。
彩花も笑う。
「それも楽しみ」
「素直」
「だって本当だから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも、訂正はしなかった。
友達が自分の学校へ来る。
自分の作品を読む。
普段いる場所を見てもらう。
それを楽しみにして何がおかしいのだろう。
何もおかしくない。
◇
帰宅後。
夕食と入浴を終えた彩花は、明日の持ち物をベッドの上へ並べた。
財布。
スマートフォン。
ハンカチ。
小さなポーチ。
文芸部の予定表。
学校指定の名札はロッカーに置いてある。
服装は制服。
文化祭なので生徒は制服着用と決まっている。
普段と同じ制服なのに、明日は少し違って見える気がした。
机の上の時計は午後九時を少し過ぎている。
スマートフォンが振動した。
『明日、10時半に駅で合流して行く。』
悠真。
『了解。待ってます。』
『水瀬さん何時から学校?』
『8時半。準備あるから。』
『早いな。』
『九条君たち来る頃にはもう疲れてるかも。』
『差し入れ必要?』
『大丈夫。』
少し考えて。
『でもお昼は一緒に食べよう。』
『もちろん。』
彩花は微笑んだ。
『明日迷わないでね。』
『案内図保存した。』
『えらい。』
『裁縫のときと同じ扱いされてない?』
『気のせい。』
『本当に?』
『たぶん。』
悠真から笑っているスタンプが届く。
彩花も返した。
それから数秒。
『水瀬さん。』
文字だけのメッセージが届いた。
『何?』
『明日楽しみにしてる。』
彩花は画面を見つめた。
同じことは何度か言われている。
自分も何度か返している。
だから、もう迷わない。
『私も楽しみにしてる。』
送る。
既読。
『じゃあ明日。』
『うん。また明日。』
そこで会話は終わった。
彩花はスマートフォンを置き、ベッドへ腰を下ろす。
「また明日」
小さく口にする。
明日になれば会える。
それが分かっている。
図書館で偶然会えるかどうかも分からなかった頃とは違う。
約束して。
時間を決めて。
来ることを知っている。
そして、自分は待っている。
ふと。
朝から何度も頭に浮かんだ別の呼び方が、また出てきた。
「……悠真君」
今度は、一人きりの部屋ではっきり声にした。
誰も聞いていない。
それでも頬が熱くなる。
「やっぱり無理」
思わず両手で顔を覆った。
けれど、指の隙間から小さく息を吐いたあと、彩花は少し笑った。
嫌だから無理なのではない。
まだ、恥ずかしいだけだ。
その違いくらいは、自分でも分かった。
明日すぐに変える必要はない。
きっと会えば、いつものように呼ぶ。
「九条君」
そちらは自然に言えた。
長い間使ってきたわけでもないのに、もう自分の中へ馴染んでいる。
なら、今はそれでいい。
いつか別の呼び方が自然になる日が来るのかもしれない。
来ないかもしれない。
まだ分からない。
彩花は立ち上がり、カーテンを少し開けた。
夜空には雲が残っていたが、雨は降っていない。
天気予報では、明日は晴れ。
文化祭。
自分の学校へ、悠真が来る。
その事実だけで、胸の奥が静かに弾んでいた。
彩花はカーテンを閉じ、明日のために早めに眠ろうと部屋の灯りを少し落とした。




