第36話 案内したい場所
水曜日の昼休み、青葉高校一年二組の教室では、文化祭用の装飾が窓際の机を半分ほど占領していた。
普段なら弁当を広げる生徒が集まる場所に、今は古びた本に見せかけた厚紙や、謎解きに使う封筒、茶色く塗った小箱が積まれている。窓から入る九月の風が模造紙の端を揺らすたび、近くに座っている生徒が慣れた手つきで筆箱を重し代わりに置き直していた。
「水瀬、これ見て」
昼食を終えた彩花が文庫本を開こうとしたところで、大地が一冊の偽物の本を持ってきた。
表紙は濃い紺色で、金色のペンを使って『青凪異聞録』と書かれている。少し離れて見れば古い本らしく見えなくもないが、近づけば段ボールで作られていることはすぐ分かった。
「タイトルまで付いたんだ」
「俺が考えた」
「それっぽい」
「だろ?」
「褒めてるよ」
「分かってるって」
大地は彩花の前の席を借り、椅子を反対向きにして座った。
「でさ、これ、中に暗号入ってんの」
「それ私に言っていいの?」
「ここまではいい。答えは教えない」
「当日参加するかもしれないんだけど」
「じゃあなおさら答えは言わない」
大地は本を開きかけた手を途中で止め、また閉じた。
「九条君たちもやるんだろ?」
「たぶん。案内するつもりだから」
「三人で来るんだっけ」
「うん。十一時くらい」
「じゃあ最初は文芸部?」
「私が十一時半まで当番だから、そこに来てもらうことになった」
「なるほどな」
大地は納得したように頷き、偽物の本を机の上へ置いた。
「そのあと水瀬は十二時からこっちだろ。十一時半から十二時までどうすんの?」
「まだ決めてない」
「飯じゃね?」
「十一時半に?」
「文化祭の日は早めに食わないと混むぞ」
言われてみればそうかもしれない。
一般公開が始まれば、食べ物を扱う模擬店は昼前から混雑するだろう。悠真たちが十一時頃に来るなら、文芸部を見たあとに早めの昼食を取るのは悪くない。
「何があるの?」
「焼きそば、たこ焼き、フランクフルト、クレープ、あと二年が何かカフェやるって聞いた」
「詳しいね」
「食い物は調べた」
「田辺君らしい」
「重要だからな」
大地は真顔で言い切った。
その様子がおかしくて、彩花は笑った。
「九条君たちにも聞いてみる」
「そうしろ。十二時になったら水瀬こっちな」
「忘れないよ」
「友達来て浮かれて遅刻すんなよ」
「しません」
「どうだか」
「田辺君こそ、食べ物買いに行って受付忘れないでね」
「それは……気をつける」
「否定できないんだ」
近くで聞いていた女子が吹き出し、大地が「腹減るだろ」と言い訳を始める。
彩花は笑いながら机の上の文庫本を閉じた。
文化祭当日の予定が、少しずつ具体的になっていく。
十一時に悠真たちが来る。
文芸部を見てもらう。
そのあと少し早めに昼食。
十二時からはクラスの受付。
一時から合流。
(そのあと、どこ案内しよう)
昨日までは、文芸部とクラス企画を見てもらえればいいと思っていた。
でも、それだけではない。
青葉高校には、彩花が普段使っている図書室がある。
文芸部へ向かう途中に通る中庭も好きだ。
校舎の三階東側からは、天気がよければ青凪市の中心部が少し見える。
自分にとっては毎日の景色だ。
だからこそ、見てもらいたい気もした。
「水瀬さん、何笑ってるの?」
前の席の女子に言われ、彩花は瞬きをした。
「笑ってた?」
「ちょっと」
「文化祭のこと考えてただけ」
「楽しみなんだ?」
「うん」
彩花は素直に頷いた。
「結構、楽しみ」
◇
午後の授業が終わる頃には、空が少し曇り始めていた。
六時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩む。部活動へ向かう生徒、文化祭準備を始める生徒、すぐ帰る生徒がそれぞれ動き始め、机を引く音や話し声が重なった。
彩花も文芸部へ向かうため、教科書を鞄へしまう。
「水瀬さん」
同じクラスの女子が二人、教室後方に貼られた大きな校内図を見ながら呼んだ。
「ちょっといい?」
「何?」
「文化祭の案内図、ここで合ってる?」
一人が指しているのは特別教室棟だった。
「美術室なら二階だよ。そこは書道室」
「あ、逆か」
「階段上がって右。美術部の展示なら廊下にも案内出すって聞いたよ」
「助かった」
文化祭用の校内図には、普段使わない教室まで細かく書き込まれている。
彩花も何となく眺めた。
一年二組。
文芸部室。
図書室。
中庭。
体育館。
模擬店の並ぶ中庭側通路。
普段なら、目的地へ行くために見る必要などない。
入学して半年近く経ち、どこに何があるかはだいたい覚えている。
けれど、外から来る人にとっては違う。
(九条君たち、初めて来るんだよね)
当たり前のことなのに、今になって実感した。
彩花が毎朝通っている昇降口も。
毎日授業を受けている教室も。
昼休みに本を読むことがある中庭も。
悠真は知らない。
逆に、彩花も桜華学園について知っているのはごく一部だ。
悠真の制服姿を見たことはある。
生徒会の仕事をしていることも知っている。
校内の話を聞くこともある。
けれど、悠真が毎日どんな廊下を歩き、どんな教室で授業を受けているのかは知らない。
それを寂しいとは思わなかった。
別々の学校へ通っているのだから当然だ。
ただ、文化祭の日には、自分の側を少し見せられる。
「水瀬?」
大地の声で我に返る。
「帰んないの?」
「文芸部行くよ」
「なら早く行けよ。校内図そんな面白い?」
「当日の案内考えてた」
「ああ、九条君たち?」
「うん」
「もうツアーガイドじゃん」
「そこまでじゃないよ」
そう答えながら、彩花は校内図をもう一度見る。
「でも、せっかく来るならいろいろ見てもらいたいかも」
「じゃあ屋上」
「入れないでしょう」
「体育倉庫」
「何でそこ案内するの?」
「青葉高校の魅力」
「絶対違う」
大地が笑う。
「普通に図書室とかでいいんじゃね? 水瀬、本好きだし」
「あ、それは行きたい」
「ほら」
「中庭もいいかも」
「文化祭の日、たぶん人だらけだけどな」
「それもそうか」
「まあ、案内する場所なんて当日決めればいいだろ」
「うん」
確かにその通りだった。
予定表を作るように全部決めなくてもいい。
相手の見たい場所を聞いて、その場で歩けばいい。
「じゃ、俺準備行くわ」
「うん。また明日」
「お疲れ」
大地は教室の奥で作業を始めたクラスメイトたちの方へ向かう。
彩花も鞄を肩へ掛け、文芸部室へ向かった。
◇
文芸部室では、文化祭当日に配る部誌の仕分けが始まっていた。
印刷された冊子はまだ仮綴じの状態で、机の上に何冊も積まれている。紙とインクの匂いがいつもより強く、窓際では二年生の部員が表紙の枚数を確認していた。
「水瀬さん、来たね」
「お疲れさまです」
「完成稿、こっちにも入れたよ」
部長が展示用ファイルを見せる。
透明な表紙の向こうに、『また、話したいから』という題名と、水瀬彩花の名前が見えた。
昨日も見た。
それでも、印刷された状態で改めて見ると少し落ち着かない。
「やっぱり恥ずかしい?」
部長に見抜かれる。
「ちょっとだけ」
「昨日より?」
「昨日より」
「当日はもっとだね」
「先輩、それ楽しんでません?」
「少し」
「もう」
笑いながら、彩花は自分の席へ鞄を置いた。
今日の仕事は部誌の仕分けだ。
一冊ずつページの抜けがないか確認し、問題なければまとめて箱へ入れる。
作業そのものは単純だった。
ただ、文化祭で実際に配るものだと思うと、自然に手つきが丁寧になる。
「水瀬さんの友達、十一時頃だっけ?」
作業しながら部長が尋ねた。
「はい」
「三人?」
「はい。桜華の一年生です」
「じゃあ、来たら声かけて。せっかくだから部誌も渡すよ」
「ありがとうございます」
「水瀬さんが案内するんでしょ?」
「当番中は難しいですけど、文芸部は見てほしいってお願いしました」
「いいね」
部長は冊子の角を揃える。
「自分のいる場所を友達に見てもらうのって、ちょっと嬉しいよね」
「……はい」
彩花は素直に頷いた。
それが一番近かった。
何かを自慢したいわけではない。
青葉高校が桜華学園より優れていると言いたいわけでもない。
ただ、自分が普段いる場所を知ってもらえるのが嬉しい。
「先輩も誰か来るんですか?」
「中学の友達が来るよ。別の高校行った子」
「じゃあ同じですね」
「そうそう。だから気持ち分かる」
部長は少し笑った。
「校舎なんて普通なのに、案内したくなるんだよね」
「分かります」
「『ここが部室で、こっちがいつも使う階段で』って。相手からしたらただの階段なのに」
「……それも分かります」
彩花は思わず笑った。
さっきまで、自分も校内図を見ながら似たようなことを考えていた。
図書室。
中庭。
三階東側の窓。
どれも、悠真にとっては初めて見る場所だ。
「でも、そういうのが楽しいんだと思う」
先輩はそう言って、次の冊子を手に取った。
彩花もページを確認する。
紙をめくる音が、静かな部室に重なった。
◇
同じ頃。
桜華学園の一年生の教室では、放課後のホームルームが終わっていた。
悠真は生徒会室へ向かう前に、机の中の教科書を整理していた。
「兄様」
教室の後方から琴葉が来る。
隣には玲奈もいる。
「どうした?」
「青葉高校の文化祭について、玲奈と少し話していました」
「当日のこと?」
「はい。十一時頃に伺うのは決まりましたが、待ち合わせをどうするかと思いまして」
悠真は手を止めた。
「駅でいいんじゃない?」
「青凪駅?」
「三人ともそこ通るだろ」
「私は兄様と家から一緒でしょうけれど」
「そこは別にいいだろ」
「嫌とは言っていません」
琴葉は澄ました顔で答える。
玲奈が隣で笑った。
「私が駅で合流すればいいんじゃない? それが一番簡単」
「じゃあそうしようか」
悠真が頷く。
「時間はまた近くなってから決めればいい」
「ええ」
琴葉はそこで一度会話を切り、悠真の机を見る。
教科書の間から、深緑色の細いコードが覗いていた。
「兄様、その栞」
「ん?」
「使っているんですね」
「使うために作ったから」
悠真は当然のように答えた。
琴葉は少しだけ目を細める。
「そうですか」
「何?」
「いえ。大事そうだなと思っただけです」
「自分で作ったものだからな」
「ええ。彩花さんに教えていただいて」
「それもある」
悠真は教科書を鞄へ入れた。
以前なら、琴葉の言い方に何か含みがあるのではないかと警戒したかもしれない。
今は特に気にしなかった。
彩花に教えてもらった。
だから思い入れがある。
自分で完成させた。
だから使っている。
どちらも事実だ。
「文化祭で彩花さんの作品を読むんでしょう?」
琴葉が続ける。
「うん」
「私も読んでいいですよね?」
「俺に聞かなくてもいいだろ」
「兄様が先に読むとおっしゃるかと思いまして」
「言わないよ」
玲奈が肩を揺らした。
「九条、前より妹への反応が落ち着いたね」
「俺、そんなに反応してた?」
「してた」
「していました」
「二人で言うなよ」
悠真は苦笑する。
「水瀬さんの作品は展示するんだから、普通に読めばいいだろ」
「ではそうします」
「私も読むよ」
玲奈も楽しそうに言う。
「琴葉から少し聞いてるし。どんな話なの?」
「タイトルもまだ教えてもらってない」
「九条も?」
「文化祭まで秘密だって」
「へえ」
玲奈の目に面白そうな色が浮かぶ。
「それは楽しみ」
「読むとき、水瀬さんの前では読まないであげて」
「何で?」
「恥ずかしいらしい」
琴葉が柔らかく笑った。
「彩花さんらしいですね」
「でも感想は聞きたいって」
「それも彩花さんらしいです」
琴葉は頷いた。
「では、読むときは少し離れましょう」
「三人でぞろぞろ離れたら逆に気になるんじゃない?」
玲奈の指摘に、悠真は少し考える。
「……確かに」
「普通にすればいいよ。彩花ちゃんが当番してる間とか」
「そうですね」
琴葉も納得する。
「兄様だけ妙に意識して不自然な動きをしないようにしてください」
「しないって」
「念のためです」
「何の念だよ」
玲奈がまた笑う。
教室にはまだ数人の生徒が残っており、窓の外から運動部の掛け声が聞こえている。夕方の光が机の上へ長く伸び、三人の影を床へ落としていた。
「それで」
玲奈が悠真を見る。
「彩花ちゃん、文化祭案内してくれるんだよね?」
「一時以降は自由らしいから、そのあと」
「楽しみだな。青葉初めてだし」
「私もです」
琴葉が頷く。
「彩花さんが普段どのような場所で過ごしているのか、少し気になります」
悠真はその言葉に、自分も同じだと思った。
彩花の学校生活について、話として知っていることは増えた。
文芸部。
クラスメイト。
文化祭用の短編。
大地という男子生徒。
授業のこと。
それでも、実際の景色は知らない。
「俺も楽しみ」
自然に口から出た。
琴葉が兄を見る。
何か言うかと思ったが、今回は何も言わなかった。
代わりに少しだけ笑った。
「では、兄様が勝手に先へ行かないよう見張りながら伺います」
「結局それ言うのかよ」
◇
文芸部が終わる頃には、外で細い雨が降り始めていた。
朝の天気予報では夕方から雨と言っていたので、彩花は折り畳み傘を持ってきている。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
屋根を打つ雨音はまだ軽い。
傘を開くほどか迷う程度だったが、駅までは少し歩く。
彩花は鞄から傘を出した。
そこで、以前の雨の日を思い出した。
まだ悠真と知り合って間もなかった頃。
図書館を出たら雨が降っていて、同じ傘へ入った。
あの頃は、隣を歩くだけで妙に緊張していた気がする。
(懐かしいな)
半年も経っていない。
それなのに、ずいぶん前のことのように感じる。
今なら、雨が降っていて悠真が隣にいたとしても、あの日ほど戸惑わないだろう。
そう考えたところで、スマートフォンが振動した。
屋根の下で画面を見る。
悠真からだった。
『文化祭の日、駅で琴葉たちと合流してから行くことになった。』
彩花は少し笑う。
ちょうど考えていた相手から連絡が来た。
『了解。11時くらいだよね?』
『うん。細かい時間はまた近くなったら。』
『分かった。』
そこまで返して、昼休みに大地と話したことを思い出す。
『お昼どうする?』
送る。
すぐには返ってこない。
彩花は傘を開き、雨の中を歩き始めた。
アスファルトの色が少しずつ濃くなっている。
校門を出てしばらくしたところで、またスマートフォンが振動した。
横断歩道の手前で止まってから確認する。
『何かある?』
『模擬店いろいろあるみたい。11時半くらいならまだ混む前かもって田辺君が。』
『じゃあそこで食べたい。』
『琴葉さんと一条さんにも聞いてみて。』
『聞いておく。』
彩花はスマートフォンをしまおうとして、もう一つ思い出した。
『あと、1時からどこ見たい?』
今度の返事には少し時間がかかった。
信号が青になったので歩き出す。
駅へ続く道は傘を差した人が増え、車が濡れた道路を走るたび、低い水音が響いた。
次の交差点で画面を見る。
『水瀬さんが普段いるところ。』
彩花は足を止めかけた。
道路の端へ寄る。
もう一度読む。
『水瀬さんが普段いるところ。』
図書室、と指定するのでもない。
中庭でもない。
有名な場所でも、文化祭らしい企画でもない。
彩花が普段いるところ。
(それ、私が見せたいって思ってたところと同じだ)
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
『じゃあ、図書室とか中庭とか?』
『見たい。』
『普通だよ?』
送ってから。
彩花は自分の文章を見た。
少し前なら、そのあとに「桜華と比べたら」と続けていたかもしれない。
今日は続けなかった。
普通でも、自分が好きな場所ならそれでいい。
返事が来る。
『普通のところが見たい。』
彩花は思わず笑った。
『じゃあ案内する。』
『お願いします。』
『でも文化祭の日だから、普段と全然違うかも。』
『それはそれで見たい。』
『欲張り。』
『せっかく行くから。』
彩花は傘の下で小さく笑う。
それは、自分も同じだった。
せっかく来てくれるから。
いろいろ見せたい。
そんなふうに思っている。
◇
翌日の木曜日。
昼休みになると、彩花は図書室へ向かった。
借りたい本があったわけではない。
文化祭当日に案内するなら、何か特別な展示があるのか確認しておこうと思ったのだ。
青葉高校の図書室は、校舎二階の東端にある。
中央図書館ほど広くはない。
入口を入ると貸出カウンターがあり、窓側に閲覧机が六つ。壁際の書架には小説、評論、参考書、雑誌のバックナンバーなどが並んでいる。
昼休みは十人ほどの生徒がいた。
静かに本を読む生徒。
課題をしている生徒。
友達同士で小声で話している生徒。
彩花もときどきここで昼休みを過ごす。
図書委員がカウンターにいたので尋ねてみる。
「文化祭の日、何か展示するの?」
「うん。先生たちのおすすめ本と、生徒から募集した『人生で一冊だけ持っていくなら』って企画」
「面白そう」
「水瀬さんも書いてよ」
「まだ募集してる?」
「明日まで」
小さなカードを渡された。
『人生で一冊だけ持っていくなら?』
その下に、本の題名と理由を書く欄がある。
「一冊……」
「本好きほど決められないやつ」
「本当にそれ」
図書委員が笑う。
「文化祭の日、友達来るんだって?」
「何で知ってるの?」
「同じクラスの子から聞いた」
「広がってる……」
「別に変な話じゃないよ」
「そうだけど」
彩花はカードを持ったまま苦笑する。
「他校の友達?」
「うん」
「じゃあ図書室も案内してよ。来場者増やしたい」
「そのつもり」
「ありがとう」
図書委員は満足そうにカウンターへ戻った。
彩花は窓際の席へ座る。
カードを机へ置く。
一冊だけ。
(何にしよう)
好きな本はたくさんある。
何度も読み返した本。
子どもの頃に読んだ本。
最近好きになった本。
悠真から教えてもらった本。
逆に自分が悠真へ勧めた本。
一冊だけと言われると、決められない。
少し考えてから、今日は持ち帰ることにした。
カードを鞄へしまう。
そのとき、窓の外へ目が向いた。
二階から中庭が見える。
文化祭準備で、普段より人が多い。
ベンチの近くでは実行委員が看板を作っている。
当日はもっと賑やかになるだろう。
(九条君、ここ来るんだ)
想像してみる。
この図書室へ悠真が入ってくる。
本棚を見る。
どんな本があるか確認する。
たぶん、彩花が普段どの棚を見るのか聞く。
そんな姿が簡単に思い浮かんだ。
そのことがおかしくて、彩花は少しだけ笑った。
◇
同日の放課後。
桜華学園では、悠真が生徒会室から出たところで凛花と鉢合わせた。
「あ」
先に気づいたのは悠真だった。
「水瀬先輩、お疲れさまです」
「お疲れさま」
凛花は剣道部へ向かう途中らしく、肩に防具袋を掛けている。
以前なら、廊下で二人きりになると少し張り詰めた空気があった。
今はそこまでではない。
「文化祭、行くんだって?」
凛花が尋ねた。
「青葉のですか?」
「他に何があるの」
「はい。琴葉と一条も一緒に」
「十一時頃?」
悠真が少し驚く。
「知ってるんですね」
「昨日、彩花が言ってたから」
「そうですか」
凛花は悠真を見る。
その表情はいつものように落ち着いている。
「私も午後から行く」
「部活のあとですか?」
「うん」
「じゃあ向こうで会うかもしれませんね」
「そうね」
会話がそこで一度途切れる。
廊下の窓から夕方の光が入り、運動場から笛の音が聞こえてきた。
凛花は何か考えるように悠真を見ていたが、やがて口を開いた。
「彩花、楽しみにしてるみたい」
「文化祭を?」
「それもあるけど」
そこで凛花は少し迷った。
わざわざ伝える必要があるのか。
けれど、彩花が家で文化祭の話をしているときの表情を思い出す。
「あなたたちが来るの」
悠真は一瞬、言葉を失った。
ほんのわずかに目が見開かれる。
「……そうですか」
「うん」
「俺も楽しみにしてます」
返事は素直だった。
凛花はその顔を見る。
(本当に分かりやすくなったわね)
初めてまともに話した頃の悠真は、彩花のことを尋ねても、言葉を慎重に選んでいた。
今も軽率ではない。
ただ、嬉しいことを嬉しいと言うようになった。
「ならいいけど」
凛花はそう答える。
「一つだけ」
「はい」
「彩花の作品、本人の目の前で読まないであげて」
「それ、本人からも言われました」
「やっぱり」
凛花の口元が少し緩んだ。
「恥ずかしいんだって」
「でも感想は聞きたいそうです」
「それも聞いた」
二人は少しだけ笑った。
彩花らしい。
その一点について、珍しく意見が完全に一致した。
「じゃあ、部活あるから」
「はい。お疲れさまです」
「九条君も」
凛花は歩き出す。
数歩進んでから、足を止めた。
「九条君」
悠真が振り返る。
「はい?」
「……文化祭、普通に楽しんでいって」
言ってから、凛花自身が少し驚いたような顔をした。
悠真も同じだった。
「ありがとうございます」
それだけ返す。
凛花は今度こそ歩き去った。
悠真はその背中をしばらく見送る。
(警戒されなくなったわけじゃないんだろうけど)
それでも、以前とは違う。
彩花との関係だけではない。
その周りにいる人たちとの距離も、少しずつ変わっている。
悠真は生徒会室へ戻る予定を思い出し、踵を返した。
◇
金曜日の夜。
彩花は自室の机で、図書室からもらったカードを前にしていた。
『人生で一冊だけ持っていくなら?』
難しい。
夕食後から二十分近く考えているのに、まだ空欄だ。
「一冊なんて無理……」
思わず呟く。
候補を三冊まで絞ったところで、スマートフォンが振動した。
悠真からだった。
『琴葉と一条も、昼は青葉の模擬店で食べたいって。』
『了解。』
返してから、机のカードを見る。
少し迷い、写真を撮った。
『今、もっと難しい問題に悩んでる。』
カードの写真を送る。
しばらくして。
『これは難しい。』
『でしょ?』
『水瀬さんでも決められない?』
『好きな本多いから無理。』
『何冊まで絞った?』
『3冊。』
『十分すごい。俺ならもっと残る。』
彩花は少し笑った。
『九条君なら何選ぶ?』
返事が来るまで少し時間がかかった。
その間に、彩花は三冊の題名を見比べる。
一冊は小学生の頃から何度も読んでいる児童文学。
一冊は中学時代に出会った短編集。
もう一冊は高校へ入ってから読んだ小説。
どれも好きだ。
やがて画面が光る。
『今考えてるけど決まらない。』
『同じじゃん。』
『質問が悪い。』
『図書委員に言って。』
『でも面白い。』
彩花もそう思う。
一冊に決められないからこそ、自分がどんな本を大切にしてきたのか考えられる。
『文化祭の日、この展示も見る?』
『見たい。』
『じゃあ図書室追加。』
『案内先増えてない?』
『増えてる。』
『全部回れる?』
彩花は少し考える。
『無理だったらまた今度。』
送ってから、指が止まった。
青葉高校へ「また今度」があるのかは分からない。
文化祭以外で他校生が気軽に入れるわけではない。
けれど、言葉そのものに引っかかりはなかった。
全部を一日でやらなくてもいい。
図書室を見られなければ別の場所へ行けばいい。
話したいことが残れば、次に会ったときに話せばいい。
悠真から返事が来る。
『じゃあ無理に詰め込まないで、水瀬さんのおすすめ優先で。』
『分かった。』
『一番見せたいところどこ?』
彩花は画面を見つめた。
一番。
文芸部は見てほしい。
教室も。
図書室も。
中庭も。
でも、その中から一つ選ぶなら。
少し考えて、文字を打つ。
『文芸部かな。』
『作品があるから?』
『それもあるけど、私が普段いる場所だから。』
送ったあと、胸の奥に小さな照れが生まれた。
さっき悠真が言ったことと似ている。
彼も、自分が普段いるところを見たいと言った。
『じゃあ最初に行けるのちょうどいいね。』
『うん。』
『楽しみにしてる。』
彩花はその文章を見てから、ゆっくり息を吐いた。
『私も楽しみ。』
もう迷わなかった。
◇
メッセージを終えたあと、彩花は再び図書室のカードへ目を落とした。
三冊の候補。
どれを選ぶか。
しばらく考えて、最終的に小学生の頃から何度も読んできた児童文学の題名を書いた。
理由の欄には、少し考えてからこう記す。
『読むたびに、前とは違うところを好きになれるから。』
書き終える。
これならいい。
高校生になった今も好きだ。
誰かに勧めるためではなく、自分が好きだから選んだ。
カードを机の端へ置く。
その隣には、文化祭の予定を書いた小さなメモがある。
十時から文芸部。
十一時頃、悠真たちが来る。
十一時半頃から昼食。
十二時からクラス受付。
一時以降、合流。
その先には何も書いていない。
図書室。
中庭。
校内。
クラスの謎解き。
見せたい場所はいくつもある。
けれど、順番までは決めなくていい。
当日になってから、一緒に決めればいい。
彩花は予定表を見ながら、ふと思う。
(私、九条君に学校見てもらうの、こんなに楽しみだったんだ)
その気持ちを否定する理由はなかった。
文化祭だから。
友達が来るから。
自分の好きな場所を知ってもらえるから。
いろいろな理由がある。
どれか一つに決める必要もない。
机の上に置いたスマートフォンには、最後に届いた悠真の言葉が残っている。
『楽しみにしてる。』
彩花も同じだった。
中央図書館ではなく。
古本市でもなく。
市民交流センターでもなく。
今度は、自分が毎日過ごしている場所で会う。
その日が、少しずつ近づいていた。




