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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第35話 当日の予定表


 月曜日の朝、水瀬彩花が一年二組の教室へ入ると、黒板の右端に見慣れない大きな紙が貼られていた。


 まだホームルームまで二十分ほどあるというのに、その前にはすでに数人の生徒が集まっている。窓から差し込む九月の朝日は教室の床を斜めに照らし、開け放たれた窓から入る風が、黒板に貼られた紙の端をかすかに揺らしていた。


「おはよう」


「水瀬さん、おはよう。担当表出たよ」


「本当?」


 鞄を自分の席へ置き、彩花も黒板の前へ向かう。


 貼られていたのは、文化祭当日のクラス企画担当表だった。


 一般公開は午前十時から午後三時半。


 受付。


 謎解きの進行。


 ヒント係。


 景品。


 教室内の安全確認。


 それぞれの担当が一時間単位で組まれている。


「水瀬」


 後ろから大地が来た。


「おはよう、田辺君」


「水瀬、十二時から一時で受付」


「受付?」


「俺と一緒」


「田辺君、受付やりたかったんだっけ」


「念願叶った」


「座れるから?」


「それも大事」


 大地は満足そうに腕を組む。


「俺は十一時から一時まで。水瀬は一時間だけ」


「文芸部あるからかな」


「たぶん。実行委員が部活の方と調整したらしいぞ」


「じゃあ文芸部も出てるかな」


 彩花は自分の名前をもう一度確認した。


 十二時から一時。


 その一時間以外なら、ある程度動ける。


 もちろん文芸部の当番もあるので、完全に自由というわけではない。


「九条君たち、何時に来るんだ?」


 大地が何気なく尋ねた。


「まだ分からない。来られるのはほぼ決まったみたいだけど」


「じゃあ受付の時間に来たら、俺が歓迎しとく」


「普通にしてね」


「何もしねえよ」


「田辺君、学校対抗とか言ってたでしょう」


「あれ冗談だって」


 大地は笑いながら、自分の名前が並ぶ担当表を見る。


「でも桜華の生徒って目立ちそうだよな」


「制服で来るわけじゃないと思うけど」


「そういう意味じゃなくて。何となく」


「何となくって何?」


「何となくは何となく」


 彩花は呆れたように笑った。


 その横で、同じクラスの女子が担当表を確認していた。


「水瀬さんの友達、他校から来るの?」


「うん。三人来る予定」


「へえ。中学の友達?」


「違うよ。高校入ってから知り合った人」


「三人とも?」


「一人はその人の妹で、もう一人は妹さんの友達」


 言ってから、少し説明が複雑だったことに気づく。


 女子も一瞬考えたらしい。


「じゃあ最初の一人が九条君?」


「うん」


「あ、この前言ってた人だ」


「……やっぱり覚えてるんだ」


「だって水瀬さん、たまに名前出すもん」


「そんなに?」


「そんなにってほどじゃないけど、何回か」


 彩花は少しだけ視線を逸らした。


 自分では意識していなかった。


 けれど、古本市の話をしたとき。


 裁縫を教える話をしたとき。


 文化祭へ来るかもしれないと話したとき。


 確かに何度か名前を出している。


「仲いいんだね」


「うん。友達だから」


 今度は迷わず答えた。


 女子も「そっか」と自然に頷く。


 それだけだった。


 誰かに説明するたび、自分たちの関係を細かく考え直す必要はない。


 友達。


 その言葉で困らない。


 ただ、最初にそう呼んだ頃より、知っていることも、一緒に過ごした時間も増えている。


 それで十分だった。


「水瀬さん、文芸部もあるんでしょ?」


「うん。これから当番表見てくる」


「忙しそう」


「でも楽しみ」


 そう答えたところで予鈴が鳴った。


 生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。


 彩花も自分の席へ向かった。


 鞄から教科書を出しながら、もう一度黒板を見る。


 十二時から一時。


 覚えておこう。


     ◇


 昼休み。


 彩花は弁当を食べ終えると、文芸部室へ向かった。


 廊下では文化祭実行委員らしい生徒たちが模造紙を抱えて歩いており、階段の踊り場には一般公開日の案内ポスターが貼られている。


 あと二週間ほど。


 校内の空気は、日を追うごとに変わっていた。


「失礼します」


 部室へ入ると、部長と二年生の先輩が二人いた。


「あ、水瀬さん。ちょうどよかった」


「当番表ですか?」


「そう。クラスの方決まった?」


「十二時から一時が受付です」


「じゃあ文芸部は午前にしようか」


 部長が机の上の紙を見る。


「十時から十一時半、いける?」


「はい」


「そのあと少し休んで、十二時からクラス。午後は自由でどう?」


「いいんですか?」


「一年生には文化祭回ってほしいし。それに来客案内するんでしょ?」


「……はい」


 部長は笑う。


「なら午後空けといた方がいいよ」


「ありがとうございます」


「ただし、混んだら呼ぶかもしれない」


「それは大丈夫です」


 彩花は当番表へ自分の名前を書いた。


 十時から十一時半、文芸部。


 十二時から一時、クラス。


 一時以降は基本的に自由。


(これなら案内できそう)


 悠真たちが何時に来るかはまだ分からない。


 でも、予定を伝えれば向こうも決めやすいはずだ。


「それと、水瀬さん」


「はい」


「原稿、読んだよ」


 部長が一冊のクリアファイルを持ち上げた。


 彩花の短編だ。


 胸が少し緊張する。


「どうでした?」


「よかった」


 最初に短くそう言われ、彩花は無意識に息を吐いた。


「気になるところは付箋貼ったけど、大きく直すところはないと思う。終盤、前より自然になったね」


「本当ですか?」


「うん。最後も好き」


 部長は数ページめくる。


「この二人、結局付き合わないんだよね?」


「はい」


「でも、最初よりずっと近い」


「……そういうふうにしたかったんです」


「伝わってるよ」


 その言葉が嬉しかった。


 彩花はファイルを受け取る。


 黄色い付箋が四枚。


 思っていたより少ない。


「ここは言葉が少し重なってるから整理。ここは時間が分かりにくい。あとは誤字」


「分かりました」


「直したら完成稿でいいと思う」


「……完成」


「タイトル以外はね」


「あ」


 忘れていたわけではない。


 むしろ、ずっと残っている。


「まだ決まってない?」


「候補はあるんですけど」


「どんなの?」


「……まだ秘密で」


「じゃあ楽しみにしてる」


 部長は笑った。


 彩花も原稿を胸元へ抱える。


 本文は、あと少し。


 題名も、そろそろ決めなければならない。


 でも、不思議と焦りはなかった。


 書き始めた頃より、自分が何を書きたかったのか分かっている。


 なら、題名もきっとそこから見つかる。


     ◇


 放課後。


 桜華学園の生徒会室では、文化祭とは別件の校外行事について最終確認が行われていた。


「以上で変更ありません」


 担当教師が予定表を閉じる。


「今週末の外部行事については二年生二名が参加。九条君たち一年生は通常通り休みです」


「分かりました」


 悠真は手帳へ小さく印を付けた。


 これで確定した。


 青葉高校の文化祭一般公開日。


 生徒会の仕事はない。


 家庭の予定も、すでに確認している。


 行ける。


「九条」


 会議が終わり、書類を片付けていると湊が隣から声をかけた。


「決まった?」


「うん」


「おめでとう」


「何のお祝いだよ」


「文化祭行ける記念」


「大げさ」


 そう言いながらも、悠真の口元は少し緩んでいた。


「琴葉たちにも言う?」


「帰りに言う」


「水瀬さんには?」


「今から」


「早いな」


「決まったら連絡するって言ってたから」


「はいはい」


 湊は笑いながら、自分の書類を鞄へしまう。


「楽しんでこいよ」


「まだ先だけど」


「九条、今から楽しそうじゃん」


「……否定はしない」


「成長したなあ」


「だから何目線なんだよ」


 悠真も苦笑し、スマートフォンを取り出した。


 生徒会室の中にはまだ何人か残っている。


 だから長い文章は打たない。


『文化祭の日、予定確定した。行ける。』


 送信。


 それだけで十分だった。


     ◇


 青葉高校の文芸部室。


 彩花はちょうど原稿の付箋部分を確認していた。


 机の上には赤ペン。


 クリアファイル。


 文化祭の当番表。


 窓の外からは運動部の掛け声が聞こえている。


 スマートフォンが一度震えた。


 部活動中なので普段ならすぐには見ない。


 ただ、今日は原稿の確認が一段落していた。


 画面を見る。


『文化祭の日、予定確定した。行ける。』


「……あ」


 声が出た。


 向かいにいた先輩が顔を上げる。


「どうしたの?」


「友達が文化祭来られるって」


「この前言ってた人?」


「はい」


「よかったね」


「はい」


 彩花は素直に笑った。


 返事を打つ。


『本当? よかった。』


 少し考えてから、今日決まった予定も続ける。


『私、10時から11時半が文芸部で、12時から1時がクラスの受付になったよ。1時以降はたぶん自由。』


 送る。


 しばらくして返信。


『じゃあ1時くらいに行く方がいい?』


 彩花は首を傾げた。


 それだと、自分が文芸部にいるところは見てもらえない。


 でも、一時以降なら案内はしやすい。


(どうしよう)


 少し考える。


 どちらを優先したいか。


 自分が案内できること。


 それとも、文芸部で当番をしているところも含めて見てもらうこと。


 答えは思ったより早く出た。


『もし大丈夫なら、11時くらいに来る?』


『水瀬さん当番中じゃない?』


『うん。でも文芸部見てほしいから。』


 送信したあと、少しだけ照れる。


 また「見てほしい」と書いた。


 けれど取り消す気にはならなかった。


『じゃあ11時くらいにする。琴葉と一条にも聞いてみる。』


『うん。』


『邪魔にならない?』


『大丈夫。普通に来場者だから。』


『分かった。楽しみにしてる。』


 彩花は画面を見た。


『私も。』


 そこまで打つ。


 指が止まる。


 前なら、少し迷ったかもしれない。


 楽しみにしていると言われたら、「私も」と返すのが何となく恥ずかしくて、別の言葉を選んだかもしれない。


 今は、そのままでいいと思った。


 送信。


『私も。』


 既読が付く。


 返事はすぐには来なかった。


 代わりに数秒後、笑っている猫の小さなスタンプが一つ届いた。


 彩花は思わず笑う。


「水瀬さん、すごい嬉しそう」


 先輩に言われた。


「え?」


「友達来るの」


「あ……はい。楽しみです」


 隠す必要もない。


「他校の友達?」


「桜華学園です」


「え、桜華?」


 近くにいた別の一年生まで反応した。


「すご」


「何がすごいの?」


「いや、桜華ってなんかすごいじゃん」


「その説明、何も説明してないよ」


 部室に笑いが起きる。


「何人来るの?」


「三人です」


「じゃあ文芸部の部誌買ってもらおう」


「販売じゃないです。無料配布です」


「三冊持って帰ってもらおう」


「それはいいかも」


 文化祭の話が広がる。


 彩花はスマートフォンを伏せて机へ置いた。


 当日まで、あと少し。


 本当に来る。


 予定の中にあったものが、少しずつ現実になっていた。


     ◇


 その日の夜。


 九条家のダイニングでは、夕食後に珍しく家族全員が揃っていた。


「兄様、彩花さんから時間を聞きました」


 琴葉が紅茶のカップを置く。


「十一時くらい?」


「はい。玲奈も大丈夫だそうです」


「じゃあ三人で行こうか」


「そうですね」


 正樹が新聞から顔を上げた。


「どこへ行くんだ?」


「青葉高校の文化祭です」


 琴葉が答える。


「ああ」


 正樹は一度頷いた。


 そのまま新聞へ視線を戻す。


 外見上は、それだけだった。


(文化祭。悠真が女の子の文化祭へ。しかも向こうから案内を――いや、落ち着け。友人だ。琴葉も玲奈さんもいる。何もおかしくない。だが文化祭……青春……!)


 新聞の同じ行を三回読んでいることには誰も触れなかった。


 麗華は穏やかに微笑む。


「水瀬さんの学校ね」


「はい」


「文芸部で作品を出すと琴葉から聞いたけれど」


「短編を書くそうです」


 悠真が答える。


「読ませてもらう約束してる」


「あら」


 麗華の笑みがほんの少し深くなる。


「楽しみね」


「うん」


 悠真は普通に頷いた。


 母の笑顔に何か含まれているような気はしたが、気にしないことにする。


「兄様」


 琴葉が言う。


「当日は私と玲奈も一緒ですから、勝手に先へ行かないでくださいね」


「行かないよ」


「本当ですか?」


「何で信用ないんだ」


「彩花さんを見つけた瞬間、私たちの存在を忘れそうなので」


「忘れない」


「では信じます」


「その言い方」


 正樹の新聞がわずかに震えた。


 麗華は夫を一度だけ見た。


 笑いを堪えているのが分かる。


「琴葉も楽しみなのね」


「はい。彩花さんの学校を見るのは初めてですから」


「玲奈さんも?」


「楽しみにしています」


「三人とも気をつけて行ってらっしゃい」


「まだ二週間くらい先だよ、母さん」


「分かっているわ」


 麗華は上品に紅茶を飲む。


(でも、悠真が二週間前から予定を確定させているなんて、やっぱり楽しみなのね)


 口には出さなかった。


 今はそれでいい。


     ◇


 水瀬家でも、夕食後のダイニングテーブルに文化祭の話が出ていた。


「十一時に来ることになった」


 彩花が味噌汁の椀を置きながら言う。


「九条君たち?」


 紗月が尋ねる。


「うん。文芸部の当番中に来てもらって、そのあと十二時から私がクラス受付だから、一時までは三人で回っててもらおうかなって。一時から合流して案内する」


「ちゃんと予定組んでるね」


「当日になって困りたくないから」


 凛花は箸を止める。


「私も行けそう」


「本当?」


「うん。午前は部活あるけど、午後なら」


「じゃあ来てよ」


「いいの?」


「何で?」


「九条たちいるんでしょ」


「いるけど、お姉ちゃんも来ればいいじゃん」


 あまりにも自然に言われ、凛花は一瞬黙った。


(……いいんだ)


 もちろん妹の文化祭なのだから、姉が行って悪い理由などない。


 けれど、悠真たちが来ると聞いていたため、何となく自分が入ると邪魔なのではないかと思っていた。


「じゃあ行く」


「うん。文芸部の作品も読んで」


「読む」


「目の前では読まないで」


「何で?」


「恥ずかしいから」


「じゃあ持って帰って読む」


「それならいい」


 耕助が首を傾げる。


「お父さんは目の前で読んでいい?」


「駄目」


「何で俺だけ即答なんだ」


「絶対途中で感想言うから」


「言わないぞ」


「『この人何でこうしたの?』とか聞くでしょ」


「……聞くかもしれない」


「ほら」


 紗月が笑う。


「お父さんには家で読んでもらおうね」


「俺も行けるかまだ分からないけどな」


「来られたら来て」


「分かった」


 彩花は笑った。


 家族も来る。


 悠真たちも来る。


 クラスメイトもいる。


 文芸部の仲間もいる。


 考えてみれば、自分のいろいろな人間関係が同じ場所へ集まる日になる。


 少し緊張する。


 でも、それ以上に楽しみだった。


     ◇


 火曜日の放課後。


 彩花は文芸部室で原稿の最後の修正をしていた。


 部長から指摘された四箇所。


 一つずつ確認する。


 重複していた言葉を削る。


 時間の流れが曖昧だった部分へ一文加える。


 誤字を二つ直す。


 最後に、全体を最初から読む。


 急がない。


 一行ずつ。


 主人公たちが初めて出会う。


 何度か同じ場所で顔を合わせる。


 本の話をする。


 相手のことを少しずつ知る。


 会えない日がある。


 次に会ったとき、少し安心する。


 連絡を取るようになる。


 別の場所へ行く。


 最後には、次も会うことを疑わなくなる。


 自分たちとは違う。


 似ているところがまったくないわけではない。


 でも、この二人にはこの二人の時間がある。


 そう思える。


 最後の一文まで読み終え、彩花は原稿を机へ置いた。


「……よし」


 本文は、これでいい。


 残るのは題名だけ。


 ノートを開く。


 候補をいくつか書いていた。


『次の約束』


 少し違う。


『また会える場所』


 悪くないけれど、場所が中心ではない。


『友達になったあとで』


 説明的すぎる。


『名前のない距離』


 恋愛小説らしすぎる気がする。


 彩花は鉛筆を指先で転がした。


 物語の最後を思い出す。


 二人は別れる。


 そのとき、次に行ってみたい店の話をする。


 日程は決めない。


 約束と呼ぶほど固くない。


 でも、二人ともまた会うつもりでいる。


(何が変わったんだろう)


 出会った場所。


 話す内容。


 連絡方法。


 知っていること。


 いろいろある。


 けれど一番大きいのは、次があると思えるようになったことかもしれない。


 彩花はノートへ一つ書いた。


『また、話したいから』


 しばらく見る。


「……これかな」


 大げさではない。


 関係を決めつけてもいない。


 物語の二人が最初から最後まで持っていたものにも近い。


 もう一度読んでも、嫌ではなかった。


 彩花は原稿の表紙を新しい紙へ替える。


 中央に丁寧な字で書く。


『また、話したいから』


 その下に。


『一年二組 水瀬彩花』


 書き終えた。


 手を離す。


 自分の名前と作品名が並んでいる。


 少し照れくさい。


 それでも、以前のように「大したものじゃない」と先回りして言い訳したい気持ちはなかった。


 読んだ人がどう思うかは分からない。


 面白いと言ってくれる人もいるかもしれない。


 合わない人もいるだろう。


 それでも、自分が最後まで書いた物語だ。


「水瀬さん?」


 部長が近づいてくる。


「できた?」


 彩花は表紙を見せた。


「完成しました」


「おお」


 部長が受け取る。


 タイトルを読む。


「『また、話したいから』」


「はい」


「いいね」


「……ありがとうございます」


「これで完成稿?」


「はい」


 その言葉を口にすると、胸の奥にじわりと実感が広がった。


 第一稿ではない。


 修正途中でもない。


 完成稿。


 自分で書き始め、自分で迷い、先輩たちに読んでもらいながら、それでも最後に決めたのは自分だった。


「お疲れさま」


「ありがとうございます」


 部長が作品を展示用ファイルへ入れる。


 透明な表紙越しに、自分の名前が見える。


 文化祭の日、ここへ並ぶ。


 知らない人も読む。


 家族も読む。


 悠真も読む。


 急にその実感が強くなり、彩花は少しだけ頬を押さえた。


「どうしたの?」


「……完成したら、急に恥ずかしくなってきました」


「今?」


「今です」


 部長が笑う。


「文化祭当日はもっと恥ずかしいよ」


「やめてください」


「でも嬉しいよ」


「それもあります」


 彩花も笑った。


 恥ずかしい。


 嬉しい。


 どちらも本当だった。


     ◇


 帰り道。


 青凪駅へ向かいながら、彩花はスマートフォンを手に取った。


 完成した。


 誰に最初に伝えよう。


 そう考えてから、自分で少しおかしくなる。


 部長は目の前で完成を見ていた。


 家族には帰れば話す。


 それなら、連絡する相手は自然に決まっていた。


 悠真との画面を開く。


『短編、完成したよ。』


 送信。


 歩きながらでは危ないので、スマートフォンを鞄へ戻す。


 駅前の横断歩道を渡り、改札近くまで来たところで振動した。


 壁際へ寄って確認する。


『完成おめでとう。』


 その下に、もう一つ。


『タイトル決まった?』


 彩花は少し迷った。


 文化祭当日まで秘密にしてもいい。


 でも、悠真には言いたい気もする。


『決まった。』


『聞いていい?』


 彩花は画面を見た。


 少しだけ笑う。


『文化祭まで秘密。』


 送る。


 返事。


『気になる。』


『当日読んでください。』


『分かった。』


 さらに少しして。


『じゃあ楽しみにしてる。』


 彩花はその言葉を見ながら、文化祭の予定表を思い出した。


 十一時。


 悠真たちが青葉高校へ来る。


 文芸部室へ来る。


 自分が書いた短編がそこにある。


 読んでほしい。


 でも、読んでいる間は近くにいたくない。


 その矛盾は今も変わっていない。


『読むとき私いないところでね。』


『覚えてる。』


『絶対だよ。』


『そんなに?』


『恥ずかしいから。』


 少し間が空いた。


『じゃあ読んだあとで感想言う。』


『それは聞く。』


『そこは変わらないんだ。』


『聞きたいから。』


 送ってから、彩花は改札を通る。


 ホームへ向かう階段を上がる途中、また振動した。


 上りきってから見る。


『ちゃんと考えて言う。』


 彩花は足を止めた。


 面白かった。


 よかった。


 そんな短い感想だけではなく。


 ちゃんと読んで、考えて、伝える。


 そういう意味なのだろう。


『うん。』


 返した。


 それだけで十分だった。


     ◇


 文化祭当日の予定が決まった。


 短編も完成した。


 悠真たちが来ることも決まった。


 栞も完成している。


 少し前まで「これからどうなるんだろう」と思っていたものが、一つずつ形になっていく。


 けれど、全部が終わっているわけではない。


 むしろ、形になったからこそ、その先が始まるものもある。


 電車がホームへ入ってくる。


 風が吹き、彩花の髪が揺れた。


 扉が開き、人が降りてくるのを待ってから乗り込む。


 窓際の空いた席へ座る。


 鞄を膝へ置き、スマートフォンをしまった。


 文化祭の日。


 自分の学校で悠真に会う。


 いつもの図書館でも、市民交流センターでもない。


 彩花が毎日過ごしている場所。


 そこで何を話すのかは、まだ分からない。


 でも、見せたいものはもう決まっている。


 文芸部。


 クラスの企画。


 自分の好きな校内の場所。


 そして、自分で最後まで書いた物語。


 窓の外で、夕方の街がゆっくり後ろへ流れていく。


 彩花は膝の上で指先を重ねた。


 緊張はする。


 それでも今は、その日が来ることを楽しみに待てた。

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