第34話 最後のひと手間
土曜日の朝、水瀬彩花はダイニングテーブルの端にスマートフォンを置き、トーストへいちごジャムを塗っていた。
窓から入る九月の光はまだ夏の名残を含んでいるものの、朝の空気には少しずつ涼しさが混じり始めている。開けた窓の向こうから近所の家の掃除機の音がかすかに聞こえ、テレビでは週末の天気予報が流れていた。
「今日、部活?」
向かいでコーヒーを飲んでいた紗月が尋ねる。
「午前中だけ。文化祭の展示準備するの」
「午後は?」
「九条君と会う」
答えてから、彩花はジャムを塗る手を止めた。
以前なら、もう少し説明を足していた気がする。
図書館で会うとか、裁縫を教えるとか、そういう理由を先に置いてから名前を出していた。
今日は順番が逆だった。
「栞の続き?」
「うん。あとちょっとだから」
「完成しそう?」
「たぶん。縁を整えて紐を付けるだけ」
紗月は「そっか」と頷き、それ以上は特に追及しなかった。
父の耕助は新聞から顔を上げる。
「栞?」
「前に話したでしょう。九条君に裁縫教えてるって」
「ああ、あれか」
「忘れてたでしょ」
「忘れてない。今思い出した」
「それを忘れてたって言うんだよ」
彩花が笑う。
隣では凛花がヨーグルトの蓋を開けながら、さりげない顔で会話を聞いていた。
「どこでやるの?」
「前と同じ市民交流センター。三時から部屋取れたから、その前に図書館で待ち合わせ」
「二人で?」
「うん」
「……そう」
凛花はヨーグルトを一口食べた。
(栞。裁縫。公共施設。健全。非常に健全。何も問題はない)
自分へ言い聞かせる必要がある時点で、少し問題があるような気もする。
ただ、以前のように「本当に大丈夫?」と確認する気にはならなかった。
悠真が彩花を急かさないことも、無理に距離を縮めようとしないことも、ここまでの様子で分かっている。
警戒が消えたわけではない。
姉として、そこは別だ。
けれど、彩花が楽しそうにしている予定へ毎回水を差したいわけでもなかった。
「何時に帰る?」
「六時前には帰ると思う」
「分かった」
それだけ言って、凛花はまたヨーグルトへ視線を戻した。
彩花は少しだけ姉を見た。
「お姉ちゃん、今日部活?」
「午後から」
「そっか。頑張って」
「彩花も」
「うん」
短いやり取りだった。
それでも、彩花には十分だった。
◇
午前九時半。
青葉高校の文芸部室には、いつもの机と椅子に加えて、段ボール箱が三つ置かれていた。
中身は文化祭用の展示道具だ。
机へ敷く布。
卓上スタンド。
作品を入れる透明ファイル。
おすすめ本を紹介するカード。
来場者が感想を書ける小さな用紙。
さらに去年使った飾りまで詰め込まれている。
「これ、使えます?」
一年生の部員が、少し潰れた紙の花を持ち上げた。
部長が見る。
「……頑張れば?」
「頑張るのは花ですか、私たちですか」
「私たち」
「捨てません?」
「そうしようか」
部室に笑いが起きた。
彩花は窓際の机で、作品展示用のスペースを測っていた。
「短編、一人何ページくらいになります?」
「水瀬さんのは原稿量からすると、このファイル一冊かな」
部長が透明な薄型ファイルを渡してくれる。
「これに入れて、表紙にタイトルと名前」
「分かりました」
「タイトル決まった?」
「まだです」
「締め切りまでにはね」
「はい」
そこが最後まで残っている。
本文は第一稿を提出し、修正箇所も見えてきた。
けれど題名だけは、まだ決めきれていない。
あまり恋愛らしくしたくない。
かといって「友達」という言葉だけで閉じ込めるのも違う。
物語の二人は、最後まで名字で呼び合う。
関係へ明確な答えを出さないまま、それでも次に会うことを当然のように思って終わる。
(題名で答えを決めちゃうのも違うんだよね)
考えながら、ファイルの表紙へ仮の付箋だけ貼った。
「水瀬さん、こっち手伝ってもらえる?」
「はい」
呼ばれて席を立つ。
今日は原稿を書く日ではない。
展示を作る日だ。
部員たちで机を動かし、実際の文化祭当日に近い配置を試してみる。
窓際に作品。
中央におすすめ本。
入口近くには部誌。
「感想カード、出口の方がよくないですか?」
彩花が言う。
「何で?」
「作品を読んだあと、戻って書くより帰る前に置いてあった方が書きやすそうかなって」
「確かに」
部長が入口と出口を見比べる。
「じゃあこっちにしよう」
彩花は小さな机を持ち上げ、先輩と一緒に移動させた。
窓から風が入り、展示見本の紙が一枚めくれる。
誰かが慌てて押さえ、また笑いが起きた。
華やかな準備ではない。
段ボールを開けて、古い飾りを選別して、机を何度も動かす。
それでも、少しずつ文化祭当日の形が見えてくる。
悠真たちがここへ来たら、どんな顔をするだろう。
自分の作品を手に取るだろうか。
玲奈はどの本を選ぶだろう。
琴葉なら、感想カードまで丁寧に書いてくれそうだ。
(九条君は……)
たぶん、最初から最後まで読む。
そんな気がする。
自分から読んでほしいと言ったのだから、実際に目の前で読まれたら相当恥ずかしいだろう。
今さらそのことに気づいた。
「……あ」
「水瀬さん?」
「何でもないです」
近くの先輩に首を振る。
(どうしよう。目の前で読まれるの、すごく恥ずかしいかも)
読んでほしい。
でも、読んでいるところは見たくない。
矛盾している。
彩花は少し困りながら、それでも口元が緩むのを止められなかった。
◇
正午前には作業が一段落した。
「今日はここまで」
部長の声で、部員たちが片付けを始める。
文化祭当日まで机をこのままにはできないため、配置をスマートフォンで撮影し、床へ貼った小さな目印も剥がしていく。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
彩花も鞄を持つ。
廊下へ出ると、別の教室でも文化祭準備が行われていた。
段ボールを抱えた生徒。
模造紙を広げている生徒。
廊下の長さをメジャーで測っている実行委員。
土曜日の校舎なのに、普段よりずっと人が多い。
一年二組の前を通ると、扉が開いていた。
「水瀬!」
中から大地が手を上げる。
「田辺君、来てたんだ」
「装飾担当なめんなよ。土曜出勤だぞ」
「学校だから出勤じゃないでしょう」
「気分は出勤」
教室の中では数人が作業していた。
先日作っていた偽物の本が、机の上に十冊ほど並んでいる。
彩花は一冊手に取った。
「あ、ちゃんと本っぽくなってる」
「だろ?」
「背表紙の色変えたんだ」
「水瀬先生のご指導のおかげで」
「その呼び方やめて」
「はいはい」
大地が笑う。
偽物の本は、先日よりかなりそれらしくなっていた。茶色だけでなく深い緑や暗い赤の紙が貼られ、背表紙には金色のペンで架空の題名が書かれている。
「これ、謎に使うの?」
「そう。何冊かに文字隠すらしい」
「面白そう」
「文化祭当日、ちゃんと来いよ」
「自分のクラスなんだから来るよ」
「文芸部に籠もってそうだから」
「当番以外は戻ってくるって」
「ならよし」
大地は満足そうに頷いた。
「九条君たちも連れてきたら?」
「そのつもり」
「三人だっけ?」
「うん。予定が合えば」
「じゃあ難易度上げとくか」
「何で?」
「桜華の頭いい人たちが来るんだろ?」
「文化祭で学校対抗しないでよ」
周囲のクラスメイトが笑う。
大地も冗談だと分かる顔で肩をすくめた。
「普通に楽しんでもらうよ」
「それがいいと思う」
彩花は偽物の本を机へ戻した。
「じゃあ私、帰るね」
「お疲れ」
「田辺君たちも頑張って」
「午後までには帰りたい」
「頑張って」
教室を出る。
階段へ向かいながら、彩花は少しだけ振り返った。
文化祭の準備が、自分の知らないところでも進んでいる。
当日には、今の教室とはまったく違う景色になっているのだろう。
それを誰かに見せたいと思えるのが、少し嬉しかった。
◇
午後二時少し前。
青凪市立中央図書館の自動扉を抜けると、冷房の残る静かな空気が彩花を包んだ。
外は朝より気温が上がっていた。
九月とはいえ、日差しの下を歩けばまだ暑い。
彩花は肩から掛けた鞄を持ち直し、館内を見回した。
待ち合わせは二時。
市民交流センターの予約は三時からなので、それまでは図書館で過ごすことにしている。
悠真はまだ来ていない。
時計を見ると一時五十三分。
(ちょっと早かった)
いつもの棚へ行こうか迷っていると、自動扉が開く音がした。
振り返る。
紺色の半袖シャツに淡いグレーのパンツ。
悠真だった。
彼もすぐに彩花を見つける。
「水瀬さん」
「九条君」
名前を呼び合う。
ここ数日、周囲から何度も呼び方について言われたせいで、一瞬だけそこへ意識が向いた。
けれど、違和感はない。
やはり今はこれが自然だった。
「早いね」
「水瀬さんも」
「部活終わって、そのまま来たから」
「午前中、文化祭準備?」
「うん。文芸部の展示作ってた」
二人は並んで館内へ入る。
「どんな感じ?」
「作品を置く机とか、おすすめ本のコーナーとか。まだ仮だけど、だいぶ形になってきたよ」
「見たいな」
悠真が迷いなく言う。
彩花は少し笑った。
「文化祭来られたら見せる」
「予定はたぶん大丈夫。先生にも、ほぼ確定って言われた」
「本当?」
「うん。来週の最終確認だけ」
「じゃあ、かなり来られそうなんだ」
「俺は行くつもりでいる」
その言葉に、彩花の歩幅がほんの少し緩んだ。
嬉しい。
昨日も同じ気持ちになった。
今日は本人が目の前で言っているから、もう少し強く感じる。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと案内する」
「お願いします」
悠真が軽く頭を下げる。
彩花も笑った。
二人は自然に文学の棚へ向かった。
◇
三時までの一時間弱。
二人はそれぞれ本を見て、ときどき同じ棚の前で話した。
ずっと一緒にいるわけではない。
彩花が文庫の棚を見ている間、悠真は少し離れた評論の棚へ行く。
しばらくすると戻ってきて、見つけた本を一冊見せる。
「これ、水瀬さん読んだことある?」
「あ、その作家好き。短編集は読んだ」
「これは?」
「長編はまだ」
「じゃあ借りようかな」
「感想教えて」
「分かった」
そんな会話をして、また別々に棚を見る。
同じ空間にいても、ずっと相手だけを見ている必要はない。
それが彩花には心地よかった。
本を選びたいときは本を見る。
話したいことがあれば話す。
沈黙していても気まずくない。
最初にこの図書館で出会った頃は、話しかけるタイミング一つにも少し迷っていた。
今は、棚の向こうに悠真がいることを知りながら、自分の本を選べる。
「水瀬さん」
「ん?」
「時間」
悠真が腕時計を見せる。
二時四十分を過ぎていた。
「あ、そろそろ行こうか」
「うん」
二人は借りる本を持ってカウンターへ向かった。
彩花は二冊。
悠真は一冊。
貸出手続きを終えて外へ出ると、日差しが少し傾き始めていた。
市民交流センターまでは徒歩十分ほどだ。
「午前中、原稿もやった?」
悠真が尋ねる。
「今日は展示だけ。原稿は昨日、部長に第一稿出したから」
「もう出したんだ」
「うん。でも直すところいっぱいある」
「読ませてもらえるのは、そのあと?」
「ちゃんと完成してから」
「分かった」
悠真は急かさない。
それがありがたい。
「ただ……」
「何?」
「文化祭で読むなら、私が近くにいないときにして」
「え?」
「目の前で読まれるの、たぶんすごく恥ずかしい」
悠真は少し驚き、それから笑った。
「じゃあ離れて読む」
「感想はあとで聞く」
「そこは聞くんだ」
「聞きたいから」
「分かった」
悠真の笑いが少し深くなる。
「ちゃんと読むよ」
「……うん」
彩花は前を向いた。
恥ずかしい。
でも、やっぱり読んでほしい。
その二つが同時にあることを、今は不思議だと思わなかった。
◇
市民交流センターの共有作業室には、前回と同じように数組の利用者がいた。
窓際では年配の女性二人が編み物をしており、反対側の大きな机では親子が画用紙を切っている。奥には一人で模型を作っている男性もいて、室内には小さな会話と紙を切る音が混ざっていた。
二人は前回と同じ壁側の机へ向かった。
「持ってきた?」
彩花が尋ねる。
「もちろん」
悠真は鞄から透明な袋を取り出した。
中には、途中まで仕上がった生成りの栞が入っている。
「本当に触ってない?」
「触ってない」
「確認します」
「どうぞ」
彩花は袋を受け取り、中身を取り出した。
両側の長辺には紺色の糸で縫い目が並んでいる。
最初の方は少し不揃い。
後半は明らかに整っている。
前回見たままだ。
「合格」
「何の?」
「勝手に進めなかったこと」
「約束したから」
「調べたくならなかった?」
「なった」
「なったんだ」
「一回だけ」
悠真が苦笑する。
「でも、最後も見てもらうって言ったから」
彩花は栞を机へ置いた。
「じゃあ今日は完成させようか」
「お願いします」
裁縫箱を開く。
今日は長く縫う必要はない。
残っているのは、短辺の処理と紐を付ける工程だ。
「まず端ね」
彩花は自分用の小さな布を取り出した。
悠真の栞そのものには触れず、別布で見本を作る。
「このままだと端から少しずつほつれるから、折り込んで縫うの。今回は栞だから、そんなに複雑にしなくて大丈夫」
「どれくらい折る?」
「これくらい」
指先で布を折る。
「前より細かいな」
「短いから大丈夫。長いところ縫うよりすぐ終わるよ」
「油断すると失敗しそう」
「失敗しても直せるから」
悠真は頷いた。
前なら「きれいにやらないと」と身構えていたかもしれない。
今日は、まずやってみる。
布を折り、針を通す。
一針。
二針。
彩花は横から見ている。
「そこ、もう少し内側」
「こっち?」
「うん。それくらい」
必要なところだけ声をかける。
悠真も分からないときだけ尋ねる。
以前のように一動作ごと確認することはない。
少しずつ、自分で判断できるようになっている。
数分後、一つ目の短辺が終わった。
「どう?」
悠真が見せる。
彩花は顔を近づけて確認した。
「大丈夫。ちゃんと留まってる」
「見た目は?」
「最初にしては十分」
「最初にしては、か」
「そこ大事だよ」
彩花が笑う。
「私だって最初からきれいだったわけじゃないし」
「前に言ってた巾着?」
「そう。曲がってたやつ」
「まだあるかもしれないって言ってたよね」
「探してない」
「今度見つけたら見たい」
「ええ……」
「嫌?」
「嫌っていうか、恥ずかしい」
「俺の最初の栞は水瀬さんが全部見てるのに」
「それとこれは違うでしょう」
「同じじゃない?」
「違います」
彩花は笑いながら首を振った。
悠真も追及しない。
会話の間にも手は進み、二つ目の短辺へ移る。
最初より少し速い。
それでも急いではいない。
窓の外から午後の光が入り、机の上の針が時折小さく光る。
近くでは編み物をしている女性たちが旅行の話をしている。
親子の机からは「そこ赤じゃないよ」という子どもの声が聞こえた。
共有された静かな作業の時間。
その中で、栞は少しずつ完成へ近づいていった。
◇
「できた」
二つ目の短辺を縫い終えた悠真が、糸を切った。
彩花が確認する。
「うん。これで布の方は大丈夫」
「残りは紐?」
「そう」
材料袋から、暗い緑色のコードを取り出す。
手芸店で悠真自身が選んだものだ。
生成りの布と紺色の糸。
そこへ深い緑が加わる。
「長さどうする?」
「本から少し出るくらい?」
「じゃあ実際に合わせよう」
彩花は鞄から今日借りた文庫本を取り出した。
栞をページの間へ挟み、上からコードを伸ばす。
「このくらいかな」
「長すぎる?」
「少し切る」
悠真が自分で長さを確認し、はさみを入れる。
残るのは、紐を栞へ固定する作業だけ。
「ここは少しやり方あるから見てて」
彩花は別の短いコードを使い、結び方を見せた。
輪を作る。
通す。
引く。
「分かった?」
「たぶん」
「じゃあやってみて」
悠真は自分のコードを持った。
一度目。
輪の向きを間違える。
「あれ」
「反対」
「こっちか」
ほどく。
二度目。
今度は通せたが、締める場所が少しずれた。
「惜しい」
「もう一回」
三度目。
輪を作り、コードを通し、位置を確認してからゆっくり引く。
深緑の紐が、生成りの布の上端へ収まった。
「……どう?」
悠真が手を離す。
彩花は確認する。
引いてみる。
緩まない。
「できてる」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ」
悠真は机の上の栞を見る。
彩花も見る。
しばらく、どちらも言葉を続けなかった。
生成りの布。
紺色の縫い目。
深緑のコード。
売り物のように均一ではない。
最初に縫った側は、縫い目の幅が少しずつ違う。
途中には、一箇所だけ明らかに間が広いところもある。
反対側へ行くほど整っている。
短辺も完璧ではない。
けれど、ちゃんと栞になっていた。
「完成だね」
彩花が言った。
悠真は少し遅れて頷く。
「……完成した」
その声には、思っていた以上の実感が混じっていた。
最初は針へ糸を通すだけで苦労した。
玉結びも何度かやり直した。
最初の一針は、自分でも笑うくらい慎重だった。
途中で指を刺した。
手が疲れて、一度作業を止めた。
続きを家で調べたくなったけれど、触らずに持ってきた。
それが今、一つの形になっている。
「思ったより嬉しいな」
悠真が呟く。
「完成すると?」
「うん。買った栞なら、ここまで見ないと思う」
指先で縫い目の近くをなぞる。
直接糸へ触れないように、少しだけ離して。
「ここ、最初の方だよね」
「そう」
「下手だな」
「最初なんだから当たり前」
「でも、残してよかった」
悠真が笑う。
「ここだけ縫い直してたら、たぶん今見ても何も思わなかった」
彩花は栞を見た。
「そうかもね」
それ以上、大きな意味を足す必要はなかった。
失敗したところも残っている。
上達したところも残っている。
それだけで十分だった。
「本に挟んでみる?」
彩花が尋ねる。
「いい?」
「もちろん」
悠真は先ほど借りた本を取り出した。
ページを開く。
完成した栞を挟む。
深緑のコードだけが本の上から少し覗いた。
「お」
「ちゃんと栞」
「当たり前だけど、ちゃんと使える」
「使えなかったら困るよ」
「それもそうか」
二人で笑う。
悠真は一度本を閉じ、もう一度開いた。
栞のあるページがすぐに開く。
「これ、今日から使う」
「本当に?」
「そのために作ったんだから」
「最初のうちは糸が引っかからないように気をつけてね」
「分かった」
「洗わないでね」
「栞を?」
「念のため」
「洗わないよ」
彩花が笑う。
そこで悠真は、本から栞を抜いた。
「水瀬さん」
「ん?」
「ありがとう」
まっすぐ言われた。
「教えてくれて」
彩花は少しだけ目を丸くした。
何度かお礼は言われている。
今日も途中で言われた。
けれど、完成したものを前にして言われると、少し違って聞こえた。
「……どういたしまして」
彩花は笑った。
「ちゃんと完成してよかったね」
「うん」
「途中で投げ出さなかったし」
「水瀬さんが教えてくれたから」
「九条君が自分で縫ったんでしょう?」
「それでも」
「じゃあ半分ずつ?」
「何が?」
「完成した功績」
悠真は少し考えた。
「それだと水瀬さんが少ない気がする」
「じゃあ六対四?」
「水瀬さん六?」
「私が六なの?」
「教える方が大変だっただろうし」
「そんなことないよ」
「じゃあ五対五で」
「最初に戻った」
また笑い合う。
大げさな達成ではない。
ただ、一枚の布の栞が完成した。
それだけのことなのに、二人の間には穏やかな満足感が残った。
◇
作業室の時計は、まだ四時を少し過ぎたところだった。
「思ったより早く終わったね」
彩花が道具を片付けながら言う。
「今日は縫うところ少なかったから」
「前より慣れたのもあるよ」
「そうかな」
「あるよ。最初、針持つだけですごく慎重だったし」
「刺さると思ってたから」
「実際一回刺したね」
「言わないで」
「事実です」
裁縫箱を閉じる。
悠真は完成した栞を、もう透明袋には戻さなかった。
借りた本へそのまま挟んでいる。
それを見て、彩花は少し嬉しくなった。
「このあと、どうする?」
悠真が尋ねる。
予約時間は五時まである。
けれど、もう作業することはない。
「まだ四時だね」
「うん」
「……ちょっと休んでから帰る?」
「俺はいいよ」
共有作業室の隅には、小さな休憩スペースがある。
二人は道具を片付けてから、そちらへ移動した。
自動販売機で彩花はレモンティー、悠真は水を買う。
窓際の椅子へ座ると、外の通りが見えた。
休日の午後。
親子連れ。
買い物袋を持った人。
自転車で通り過ぎる学生。
「これで裁縫教室、終わりだね」
彩花が言う。
何気なく口にしただけだった。
けれど、言ってから少しだけ引っかかった。
終わり。
栞は完成した。
だから、教える理由もなくなった。
もちろん、会えなくなるわけではない。
文化祭もある。
図書館でも会う。
連絡もできる。
それなのに、何度か続いた予定が一つ終わったことに、ほんの少しだけ寂しさがあった。
(楽しかったからかな)
それなら自然だ。
悠真もペットボトルを持ったまま、少し考えていた。
「終わりか」
「うん。ちゃんと完成したし」
「……もう一個作る?」
「え?」
「いや、今すぐじゃなくて」
悠真は自分で言ってから少し笑った。
「栞もう一個はいらないか」
「本たくさん読むなら使えるけど」
「でも同じもの作るより、違うものの方が面白そう」
「違うもの?」
「水瀬さん、前にブックカバー作れるって言ってなかった?」
彩花は瞬きをした。
以前、そんな話をした。
「言ったけど……」
「難しい?」
「栞よりは。布も多いし、サイズ合わせないといけないから」
「じゃあ、もう少し慣れてから?」
「九条君、まだ裁縫やる気なの?」
「やってみたら面白かったから」
予想していなかった答えだった。
彩花は悠真を見る。
自分が好きなことを、悠真が一度やってみた。
それで終わりではなく、またやってみたいと思ってくれた。
そのことが、思っていたより嬉しい。
「……じゃあ、いつかね」
「うん」
「いきなりブックカバーは難しいかもしれないから、その前に何か簡単なの作ってもいいし」
「何がある?」
「コースターとか、小さい袋とか」
「水瀬さんが作ったことあるやつ?」
「どっちもあるよ」
「じゃあ今度見せて」
「いいけど」
彩花はレモンティーを一口飲んだ。
冷たい甘さが喉を通る。
栞作りは終わった。
でも、裁縫そのものまで終わったわけではないらしい。
次の日程を決める話にはならない。
文化祭の準備もある。
まずはそちらだ。
ただ、「いつか」が一つ増えた。
それくらいが今はちょうどよかった。
◇
「そういえば」
少し間を置いて、悠真が口を開いた。
「文化祭のクラス企画、何になったの?」
「謎解き」
「面白そう」
「今日も準備してたよ。偽物の本をいっぱい作ってた」
「文芸部じゃなくてクラスで?」
「うん。謎に使うんだって」
「本の中にヒントとか?」
「たぶん。詳しく聞いたら当日つまらなくなるから聞いてない」
「じゃあ行ってみたい」
「田辺君が、桜華の人が来るなら難易度上げるって言ってた」
「何で学校対抗になってるの?」
悠真が笑う。
「私も言った」
「田辺君って、前に話してたクラスメイトだよね」
「うん。装飾担当」
以前なら、大地の名前を聞いたとき、悠真の胸に小さな引っかかりが生まれていた。
今も、まったく何も感じないわけではない。
彩花の日常の中に、自分の知らない男子生徒がいる。
それを少し気にする自分はいる。
けれど、その感覚を一つずつ調べるようなことはしなかった。
大地は彩花のクラスメイト。
文化祭を一緒に作る仲間。
今分かっているのはそれで十分だ。
「文芸部とクラス、両方案内してもらっていい?」
「もちろん。あと、時間あったら校内も」
「そんなに?」
「だって、せっかく来るんでしょう?」
彩花は当然のように言った。
「図書室は文化祭だと何かやるのかな。中庭もあるし、食べ物の出店もたぶんあるし……あ、でも私の当番時間まだ決まってないから、全部回れるかは分からないけど」
指を折るように考えている。
悠真は、その様子を少し黙って見ていた。
「何?」
気づいた彩花が首を傾げる。
「いや」
「何か変だった?」
「違う。そんなに案内するところ考えてくれてるんだなって」
「……あ」
彩花は自分でも気づいていなかったらしい。
少しだけ頬が熱くなる。
「来てくれるなら、見てほしいから」
「うん」
「私の学校、桜華みたいにすごくないけど」
そこまで言って。
彩花は止まった。
以前なら、そのまま「普通の学校だし」と続けていたかもしれない。
けれど、今日の午前中に見た教室を思い出す。
偽物の本を作っていた大地たち。
展示の位置を何度も変えた文芸部。
文化祭へ向けて動いている生徒たち。
そこを、先に自分で小さくする必要はない。
「……でも、私は好きだよ」
言い直した。
「青葉高校」
悠真は静かに頷いた。
「じゃあ、余計に見たい」
「うん」
彩花も頷く。
それで話は終わった。
誰かと比べる必要も、長い説明もいらなかった。
◇
四時半を過ぎた頃、二人は市民交流センターを出た。
外は少し涼しくなっていた。
駅へ向かう道を並んで歩く。
「栞、落とさないでね」
彩花が言う。
「本に挟んでる」
「本ごと落としたら?」
「そこまで信用ない?」
「一応」
「大丈夫」
悠真は鞄を軽く持ち上げた。
「ちゃんと持って帰る」
「ならよし」
横断歩道で信号を待つ。
向かい側には、買い物帰りらしい人たちが何人か立っていた。
風が吹き、彩花のスカートの裾が小さく揺れる。
信号が青になる。
二人は人の流れに合わせて歩き出した。
「水瀬さん」
「何?」
「完成したの、最初に見てもらえてよかった」
彩花は隣を見る。
「私、ずっと見てたじゃん」
「そうだけど」
「最後の紐付けるところも」
「完成した状態を」
悠真は少し笑う。
「前に、完成したら最初に見てもらうって言ったから」
そういえば、そんな話をした。
前回の帰り道。
まだ縁も紐も残っていたとき。
彩花が教えているから、最後も見てもらいたいと悠真が言った。
「……ちゃんと約束守ったね」
「うん」
「合格です」
「また合格?」
「今日は二回目」
「基準が分からない」
「私基準」
「一番難しいやつだ」
「そんなに厳しくないよ」
二人の笑い声が、夕方の通りへ混ざる。
駅が近づいてきた。
◇
改札前で足を止める。
「じゃあ、また連絡するね」
彩花が言う。
「文化祭の予定?」
「それも。栞の次はしばらくないけど」
「図書館もあるし」
「うん」
それだけでよかった。
次の約束を今ここで決めなくても、また会うと思える。
「今日はありがとう」
悠真が言う。
「こちらこそ。完成おめでとう」
「ありがとう」
「ちゃんと使ってね」
「使う」
「感想も聞くから」
「栞の?」
「使い心地」
「そこまで?」
「教えた側として気になります」
「分かりました」
悠真が笑う。
「じゃあ次会ったとき報告する」
「お願いします」
彩花は軽く手を振り、改札へ向かった。
数歩進んだところで振り返る。
悠真はまだいた。
目が合う。
彩花はもう一度、小さく手を振った。
悠真も返す。
今度はそのまま改札を通った。
◇
夜。
九条家の自室で、悠真は机に向かって本を読んでいた。
ページの上から、深緑のコードが少しだけ覗いている。
数ページ読む。
本を閉じる。
また開く。
栞のある場所へすぐ戻れる。
「……普通に便利だな」
当たり前のことを呟いた。
机に置いてあった紙製の栞は、今日は使っていない。
新しい栞を抜いて見る。
生成りの布に、紺色の糸。
縫い目は不揃い。
でも、それが気にならない。
むしろ、最初の一針がどこだったのか分かる。
その近くには、少し大きく空いた間隔もある。
後半へ行くほど整っている。
完成したものだけを見ても、作っていた時間を思い出せた。
悠真は栞を本へ戻した。
スマートフォンを手に取る。
『使ってみた。ちゃんと便利。』
彩花へ送る。
数分後。
『よかった。』
続けて。
『糸、引っかかってない?』
『大丈夫。』
『紐も?』
『大丈夫。』
『なら合格。』
悠真は笑った。
『今日三回目。』
少しして返ってくる。
『よくできました。』
「……それは先生みたいだろ」
声に出してから、以前のやり取りを思い出し、また笑う。
だが、その言葉をわざわざ送り返して蒸し返すことはしなかった。
『大事に使う。』
それだけ送る。
返事は少し間を置いて届いた。
『うん。』
短い一文字。
悠真は画面を閉じた。
◇
同じ頃。
彩花はベッドの上でスマートフォンを見ていた。
『大事に使う。』
その言葉が、思っていたより嬉しかった。
自分が作ったものではない。
作ったのは悠真だ。
彩花は教えただけ。
それでも、自分が好きな裁縫を一緒にやって、完成したものを悠真が本当に使っている。
(教えてよかったな)
素直にそう思う。
机の上には、自分で買った淡い青の花柄布がある。
まだ何を作るかは決めていない。
隣には、修正途中の文化祭用短編。
今日はもう触らない。
明日また読む。
栞は完成した。
一つの予定が終わった。
けれど、なくなったものより、残ったものの方が多い気がした。
悠真の本には、今日完成した栞が挟まれている。
文化祭には、悠真たちが来るかもしれない。
完成させた短編も読んでもらう。
そして、いつになるかは分からないけれど、また別のものを一緒に作る話まで出た。
彩花は花柄の布へ目を向ける。
「次、何作ろうかな」
今度は自分のために。
あるいは、誰かのために。
まだ決めなくていい。
スマートフォンを充電器へつなぎ、ベッド脇へ置く。
部屋の明かりを消す前に、文化祭の予定表が目に入った。
そこに書かれた一般公開日。
少しずつ近づいている。
図書館で出会った頃は、悠真に自分の学校を見てもらう日が来るなんて考えもしなかった。
自分の書いた物語を読んでほしいと思うことも。
自分の好きな裁縫を教えることも。
その一つが、今日終わった。
けれど、それは何かが途切れたというより、二人の間に一つ新しい思い出が増えたように感じられた。
彩花は最後にもう一度だけスマートフォンを見る。
新しい通知はない。
それでいい。
「おやすみ、九条君」
送るつもりもなく、小さく呟いた。
そして自分で少しだけ照れながら、部屋の明かりを消した。




