第33話 見せたいものが増えていく
水曜日の放課後、県立青葉高校の一年二組では、黒板の半分が文化祭のために占領されていた。
中央には大きく「謎解き企画」と書かれ、その周囲に必要なものが白や黄色のチョークで書き足されている。問題制作、教室装飾、受付、景品、当日の担当。さらに右端には役割分担表まで作られていたが、まだ名前の入っていない欄も多かった。
「だからさ、最終問題だけ難しくすればいいんだって」
「それじゃ途中がつまらないじゃん」
「全部難しくしたら小学生が泣くだろ」
「泣かない程度に難しくすればいい」
「その基準が分かんないから揉めてるんだよ!」
教室の前方では、企画担当になった生徒たちが今日も元気に意見をぶつけ合っている。
彩花は自分の席で文芸部へ持っていく原稿を鞄へしまいながら、その様子を眺めていた。
少し前まで「脱出ゲームにするか、普通の謎解きにするか」で揉めていたはずなのに、謎解きへ決まった途端、今度は難易度で揉めている。
「平和だなあ」
隣から声がした。
大地だった。
「参加してきたら?」
「俺、装飾担当」
「決まったんだ」
「さっきじゃんけんで負けた」
「負けたの?」
「受付やりたかった」
「意外」
「座れるだろ?」
「理由が最低だった」
彩花が笑うと、大地は悪びれることなく肩をすくめた。
教室にはまだ半分ほどの生徒が残っている。机を動かして寸法を測っている者もいれば、黒板の前で意見を出している者もいる。窓際では色画用紙の在庫を確認している女子たちがいて、普段の放課後とは明らかに空気が違っていた。
文化祭が近づいている。
昨日までは日程表やポスターの中にあったものが、少しずつ教室の中へ入ってきているようだった。
「水瀬は文芸部行くの?」
「うん。原稿も進めたいし」
「締め切りいつ?」
「第一稿が来週の金曜日」
「間に合う?」
「……間に合わせます」
「目そらした」
「間に合うから」
「頑張れ、作家先生」
「その呼び方やめて」
彩花は鞄を持って立ち上がった。
すると大地が、黒板の役割分担表を指す。
「そういや水瀬、当日のクラス担当まだ入ってないぞ」
「あ、本当だ」
「文芸部の当番もあるんだろ?」
「ある。時間分かったら調整するって部長が言ってた」
「じゃあ早めに決めた方がいいんじゃね?」
「そうする」
文化祭当日は、クラス企画と文芸部の両方がある。
さらに、悠真たちが来られるなら案内もしたい。
(思ったより忙しくなりそう)
けれど、不思議と嫌ではなかった。
自分の学校へ友達が来る。
自分の部活を見てもらう。
自分が書いた短編も置かれる。
考えることは増えたのに、それ以上に楽しみなことが増えている。
「じゃ、行ってくる」
「おう。原稿頑張れ」
「田辺君も装飾頑張って」
「まだ何作るかも決まってないけどな」
「そこから頑張って」
彩花は笑いながら教室を出た。
◇
文芸部室へ入ると、今日はすでにほとんどの部員が揃っていた。
窓際の机には文化祭用の展示見本が並んでいる。
去年の部誌。
おすすめ本紹介のカード。
来場者が自由に書ける三行感想カード。
その隣には、今年使う予定の小さな卓上スタンドまで置かれていた。
「水瀬さん、ちょうどいいところに」
部長が手招きする。
「何ですか?」
「当日の当番、仮で決めようと思って。クラスの方はまだ?」
「まだです」
「じゃあ希望ある?」
彩花は少し考えた。
悠真たちが何時に来られるのかは、まだ確定していない。
だから、それを基準には決められない。
「午前でも午後でも大丈夫です。ただ、クラスの担当と重ならないようにしたいです」
「了解。じゃあ今は空けておいて、クラス決まってから入れようか」
「いいんですか?」
「一年生だし、最初の文化祭なんだからクラスも回りたいでしょ。それに友達も来るんだよね?」
「はい。まだ予定が合えば、ですけど」
「じゃあなおさら」
部長は当番表の彩花の欄へ、小さく「調整」と書いた。
「ありがとうございます」
「その代わり、原稿は出してね」
「……はい」
「間があった」
「出します」
部長が笑う。
彩花も自分の席へ向かった。
原稿を取り出す。
残っているのは、終盤と結末。
大筋は決まっている。
知らない者同士だった二人が、何度か同じ場所で会い、本について話すようになり、少しずつ互いの日常を知っていく。
そこまでは、もう書けている。
問題は最後だった。
友人になった。
だから終わり。
それでは少し違う気がする。
けれど恋人になる。
それも、今の二人には早い。
彩花は原稿用紙をめくった。
鉛筆の先を紙へ置く。
(この二人は、何が変わったんだろう)
以前なら、関係の名前を探していた。
友達なのか。
それ以上なのか。
けれど今は、少し違うところを見られる。
最初は、会えるかどうか分からなかった。
次に会える保証もなかった。
だから、一度の会話が特別だった。
それが今は、次も話せると思える。
会えなければ連絡できる。
何か面白いものを見つけたら、相手に話したいと思う。
自分のいる場所を見てほしいと思う。
(……それなら)
彩花は書き始めた。
物語の二人は、いつもの場所で別れる。
大きな出来事は起こらない。
一人が帰り際に、新しく見つけた店の話をする。
もう一人が興味を示す。
そして、どちらからともなく「今度行ってみよう」と話す。
約束の日までは決めない。
けれど、二人とも次があることを疑っていない。
そこまで書いて、彩花は鉛筆を止めた。
「……うん」
小さく声が出た。
終わりが見えた。
すべてを決めなくても、物語は終われる。
関係の答えではなく、この二人がこれからも続いていくと思えるところで閉じればいい。
「水瀬さん?」
向かいに座っていた先輩が顔を上げた。
「何かできた?」
「たぶん、最後まで行けそうです」
「お」
先輩の表情が明るくなる。
「結末決まった?」
「はい。付き合うとか、そういうところまでは行かないんですけど」
「うん」
「でも、次も会うのが当たり前になったところで終わろうかなって」
先輩は少し考え、それから頷いた。
「いいと思う。その二人なら、それが一番自然かも」
「ですよね」
「最初に読ませてもらったときより、ずいぶん変わったね」
「そんなにですか?」
「うん。前は作者が二人を動かしてたけど、今は二人が勝手に動いてる感じ」
昨日も似たことを言われた。
それが少し嬉しい。
「最後まで書いたら、また読んでもらっていいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
彩花は原稿へ戻った。
そのまま四十分ほど、ほとんど手を止めずに書いた。
◇
部活動終了の少し前。
彩花は最後の一文を書き終え、鉛筆を置いた。
完成ではない。
まだ直す。
最初から読み返せば、修正したい場所はいくらでも出てくるだろう。
それでも、最初から最後まで文章がつながった。
「……できた」
声は小さかった。
けれど、隣の先輩には聞こえたらしい。
「第一稿?」
「はい」
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
彩花は椅子の背へ少しだけ体を預けた。
右手が疲れている。
何度か指を開いて、軽く握る。
その動きを見た瞬間、土曜日の悠真を思い出した。
針を持ち続けて、途中で手を開いていた。
自分はそれを見て、今日はここまでにしようと止めた。
(九条君もこんな感じだったのかな)
少しおかしくなる。
裁縫と原稿では使う筋肉も違うだろう。
それでも、集中して何かを続けていると、本人より先に手が疲れを教えてくれるところは同じらしい。
「今日はもう直さない方がいいよ」
先輩が言った。
「え?」
「完成直後に読み返すと、全部直したくなるから。一晩置いた方がいい」
「……すごく読み返したいです」
「我慢」
「はい」
彩花は素直に原稿をクリアファイルへしまった。
今すぐ悠真へ「第一稿できた」と送りたい気持ちが浮かぶ。
以前、完成したら読みたいと言ってくれた。
ただ、まだ第一稿だ。
読んでもらうのは、もう少し直してからにしたい。
(でも、できたって言うくらいならいいかな)
スマートフォンを取り出しかける。
そこで止めた。
今はまだ部活中だ。
帰ってからでいい。
連絡できるからこそ、思いついた瞬間に全部送らなくてもいい。
彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。
◇
桜華学園では同じ頃、生徒会室で文化祭の仮予定表が更新されていた。
「一般公開前週の土曜日、校内作業は午前だけで確定しました」
書記役の生徒が読み上げる。
「午後は?」
「実行委員は残りますが、生徒会執行部は緊急の仕事がなければ解散です」
「分かりました」
悠真は手元の予定表へ書き込んだ。
青葉高校の文化祭一般公開日とは重なっていない。
問題は当日。
桜華側では通常授業も文化祭作業も予定されていないが、生徒会として外部行事の手伝いが入る可能性がわずかに残っている。
「九条君」
「はい」
「来週までに変更がなければ、この予定で確定になると思います」
担当教師が言う。
「分かりました」
悠真は頷いた。
これなら、青葉へ行ける可能性はかなり高い。
まだ確定ではない。
だから彩花にも「行ける」とは言わない。
けれど、予定表の空欄を見るたびに少し期待している自分は、もう否定する必要がなかった。
「九条」
隣から湊が小声で呼ぶ。
「何?」
「空いてた?」
「たぶん」
「よかったじゃん」
「うん」
それだけで会話は終わった。
湊も、もういちいちからかわない。
悠真が彩花に会うのを楽しみにしていることは、今さら確認するようなことではなくなっていた。
それが悠真にはありがたかった。
生徒会の仕事は仕事。
彩花の文化祭へ行きたい気持ちは、それとは別。
どちらかを誤魔化す必要はない。
◇
会議が終わったあと、悠真は昇降口へ向かっていた。
階段を下りたところで、琴葉と玲奈に会う。
「兄様」
「二人とも今帰り?」
「はい。玲奈の部活が今日は早かったので」
玲奈は鞄を片方の肩に掛けたまま、悠真を見る。
「青葉の文化祭、行けそうなんだって?」
「琴葉から聞いた?」
「うん」
「まだ確定じゃないけど」
「私も行けそう」
「玲奈も?」
「面白そうだし。彩花の学校も見たい」
その言い方が、自分が彩花へ送った言葉と似ていて、悠真は少しだけ驚いた。
「何?」
「いや、俺も同じこと思ったから」
「彩花の学校見たいって?」
「うん」
玲奈は納得したように頷く。
「友達の普段いる場所って、ちょっと気になるよね」
「そう、それ」
悠真が答える。
説明しようとすればいくらでも言葉を足せる。
でも、玲奈の一言で十分だった。
琴葉は二人を交互に見た。
「私は文芸部を見てみたいです」
「彩花さんの小説?」
「それもあります。以前から書いていると聞いていましたから」
悠真も頷く。
「俺も読みたい」
「兄様はすでに予約済みでしょう?」
「予約?」
「完成したら読ませてもらう約束をしているのでは?」
「まあ」
「抜け目ない」
玲奈が笑う。
「そういう言い方やめて」
「だって早いじゃん」
「本人が書いてるって話してくれたから、読みたいって言っただけ」
「分かった分かった」
玲奈は楽しそうだ。
悠真は少しだけため息をついたが、本気で嫌なわけではない。
三人で昇降口へ向かう。
途中、琴葉が思い出したように口を開いた。
「彩花さん、当日は案内してくださるそうですよ」
「聞いた」
「兄様も?」
「昨日」
「そうでしたか」
琴葉はそれ以上何も言わなかった。
けれど内心では、少しだけ安心していた。
(兄様だけ別行動にならなくて済みそうですね)
青葉高校へ行けば、彩花の友人や部活仲間とも会うかもしれない。
兄がどんな顔をするのかは、少し興味がある。
ただし、わざと騒ぎを起こすつもりはない。
彩花の文化祭なのだから、主役は彩花の学校生活だ。
◇
彩花が家へ着いた頃には、午後六時を少し回っていた。
「ただいま」
「おかえり」
キッチンから紗月の声がする。
玄関で靴を脱いでいると、リビングから凛花も顔を出した。
「遅かったね」
「部活。原稿、第一稿までできた」
「本当?」
凛花の表情が少し明るくなる。
「おめでとう」
「まだ直すけどね」
「でも最後まで書いたんでしょ」
「うん」
「じゃあ一回おめでとうでいいじゃん」
「……そっか」
彩花は笑った。
「ありがとう」
以前なら、「まだ完成じゃないから」と先に否定していたかもしれない。
けれど、第一稿を書き終えたことまで無かったことにする必要はない。
直すのは明日から。
今日は最後まで書けた。
それでいい。
「文化祭で出すやつ?」
紗月がキッチンから尋ねる。
「そう」
「読んでいい?」
「完成したらね」
「お父さんも?」
「いいけど……ちゃんと最後まで読めるかな」
「失礼だな」
いつの間にか帰宅していた耕助が、ダイニングの椅子から顔を上げた。
「いるなら言ってよ」
「さっき帰ってきた」
「お父さん、本読むよ」
紗月が笑う。
「説明書とか」
「それも本だろ」
「説明書は本に数えないと思う」
「じゃあ何なんだ」
両親のやり取りに、彩花と凛花が笑う。
いつもの家。
その空気の中で、彩花は鞄を抱え直した。
「そうだ。文化祭の一般公開日決まったよ」
「いつ?」
紗月へ日付を伝える。
「行けそう」
「本当?」
「お父さんは?」
「勤務見ないと分からないな」
「無理しなくていいよ」
「行けたら行く」
耕助が答える。
凛花は少し考えた。
「私も桜華の予定確認する」
「うん」
「……九条君も来るの?」
声は平静だった。
彩花は特に気にせず答える。
「たぶん。まだ確定じゃないけど、予定確認してくれてる。琴葉さんと玲奈さんも来たいって」
「三人?」
「うん」
凛花は一度瞬きをした。
(九条だけじゃないなら……いや、九条だけでも別に止めないけど。止めない。彩花の友達なんだから。私は姉。姉として普通に――)
「お姉ちゃん?」
「何?」
「止まってる」
「考え事」
「文化祭の?」
「そんなところ」
凛花は平静を保った。
「来るなら案内するの?」
「そのつもり。文芸部も見てほしいし」
「そっか」
凛花は妹の顔を見る。
楽しそうだった。
それなら何も言う必要はない。
「原稿、ちゃんと仕上げなよ」
「分かってる」
「締め切り前日に泣かないように」
「泣かないよ」
「昔、夏休みの読書感想文で泣いた」
「小学校三年生の話しないで!」
紗月が吹き出し、耕助も笑う。
彩花は頬を膨らませながら二階へ上がった。
◇
自室へ入ると、まず鞄から原稿を取り出した。
机へ置く。
先輩に言われた通り、今日は読み返さない。
その代わり、スマートフォンを手に取った。
悠真との画面を開く。
少しだけ迷ってから入力する。
『文化祭の短編、第一稿できたよ。』
送信。
すぐには既読にならない。
悠真も帰宅途中かもしれないし、家で何かしているのかもしれない。
彩花は制服から部屋着へ着替え、髪をまとめ直した。
机へ戻ったところで振動する。
『完成したの?』
『まだ第一稿。これから直す。』
『でも最後まで書けたんだよね。おめでとう。』
彩花は画面を見た。
さっき凛花にも同じことを言われた。
完成ではない。
でも、一度最後まで書いた。
だから、おめでとう。
『ありがとう。』
素直に返す。
『前に読ませてもらえるって言ってたやつ?』
『うん。ちゃんと直したら。』
『楽しみにしてる。』
短い言葉。
それだけなのに、第一稿を書き終えたときとは別の嬉しさがあった。
『文化祭までには完成させるから。』
『急がなくていいよ。締め切りには間に合わせないとだろうけど。』
『それはそう。』
彩花は笑った。
『先輩にも今日はもう直すなって言われた。』
『じゃあ今日は休んだ方がいいんじゃない?』
『九条君に言われると説得力あるね。』
送信してから、土曜日のことを思い出す。
手が疲れているのに、もう少し進めようとしていた悠真。
彩花が止めなければ、たぶん続けていた。
返事が来る。
『栞のこと?』
『そう。』
『あれは反省してる。』
『本当に?』
『ちゃんと触ってない。』
『そこはえらい。』
『また褒められた。』
彩花は小さく笑った。
栞の続きをいつにするか。
まだ決めていない。
文化祭の準備もある。
互いの予定がはっきりしてからでいいと話した。
だから今日も、日程を決める必要はない。
『私も今日は原稿触らないことにする。』
『それがいいと思う。』
『じゃあ本読む。』
『俺も今読んでた。』
『何読んでるの?』
悠真から本のタイトルが届く。
彩花も知っている作家だった。
そこから数分だけ、本の話をした。
長いやり取りではない。
感想を二、三往復。
同じ作家の別作品について少し。
最後に彩花が「今度読んでみる」と送り、悠真が「貸そうか?」と返す。
『図書館になかったらお願いする。』
『分かった。』
そこで会話が終わった。
彩花はスマートフォンを机へ置く。
目の前には第一稿。
横には花柄の布。
本棚には、古本市で買った本が増えている。
少し前まで、それぞれ別々だったものの中に、悠真との会話が混ざるようになっていた。
だからといって、全部が悠真につながっているわけではない。
原稿は自分が書きたいから書く。
裁縫も好きだからする。
本も昔から好きだ。
その中へ、話せる相手が一人増えただけ。
けれど、その「一人増えた」が、思っていたより日常を広げている。
彩花は本棚から一冊抜き取った。
今日は原稿を直さない。
ベッドへ腰掛け、ページを開く。
◇
木曜日。
文化祭準備は、さらに少しだけ進んだ。
一年二組の謎解き企画では、教室を四つの区画に分けることが決まり、装飾担当になった大地たちは放課後、段ボールと色画用紙を前に頭を抱えていた。
「水瀬、助けて」
「何?」
文芸部へ行こうとしていた彩花は、教室の後ろで呼び止められた。
「これ、どうしたら古い本っぽくなる?」
机の上には厚紙で作った偽物の本がある。
どうやら謎解きの小道具らしい。
「色塗るとか?」
「茶色?」
「全部茶色だと段ボールにしか見えないかも。背表紙だけ濃くするとか、紙貼るとか」
「なるほど」
「角を少し丸くしたら?」
「どうやって?」
「ハサミ」
「天才」
「それくらい思いついて」
彩花は笑いながら、厚紙の角へ鉛筆で丸みの線を描いた。
近くの女子が覗き込む。
「水瀬さん、こういうの得意?」
「作るのは好きだよ」
「じゃあ装飾担当来てよ」
「文芸部あるから毎日は無理」
「たまに助けて」
「時間あったらね」
自然に答える。
以前なら「お姉ちゃんならもっと上手だと思うけど」と付け足していたかもしれない。
今は必要なかった。
自分ができる範囲で手伝う。
それだけだ。
「ありがとう、水瀬」
「じゃあ部活行ってくるね」
教室を出る。
廊下へ出て少し歩いたところで、後ろから女子の声が聞こえた。
「水瀬さんって結構器用だよね」
「裁縫もするって言ってた」
「へえ」
彩花の足は止まらなかった。
聞こえている。
けれど、わざわざ否定しに戻ろうとも思わない。
(……うん)
それでいい。
階段を上がり、文芸部室へ向かった。
◇
その日の部活動では、昨日書き終えた第一稿を最初から読み返した。
一晩置いたおかげか、直したい場所が昨日よりはっきり見える。
会話が長いところ。
説明しすぎているところ。
逆に、気持ちが変わった理由が足りないところ。
赤ペンで印を付けていく。
「水瀬さん」
先輩が声をかける。
「昨日の、読んでいい?」
「お願いします」
原稿を渡す。
読まれている間は落ち着かない。
自分は別の作業をしようとしたが、どうしても先輩の表情が気になってしまう。
笑った。
少し眉を寄せた。
ページを戻った。
(そこ、何か変だったかな)
聞きたい。
でも最後まで待つ。
十数分後、先輩が原稿を机へ置いた。
「いいと思う」
彩花は息を吐いた。
「本当ですか?」
「うん。特に最後」
「最後?」
「『次も会う』で終わるところ。関係を決めないままだけど、最初とは全然違うって分かる」
「そこ、一番迷いました」
「恋愛にしなかったんだね」
「……今の二人には、まだ違うかなって」
先輩は頷く。
「なら、それでいいと思う。書いてる途中で変わったなら、無理に最初の予定へ戻さなくていいし」
「はい」
「ただ、ここ」
先輩が中盤の一箇所を指す。
「この会話、ちょっと同じこと二回言ってる」
「あ」
読めば確かにそうだった。
言葉を変えているだけで、同じ気持ちを二度説明している。
「本当だ」
「片方削った方が、たぶん自然」
「直します」
彩花は赤ペンで印を付けた。
同じことを何度も言わなくても伝わる。
それは小説だけではなく、人との会話も似ているのかもしれない。
大事なことほど、何度も説明したくなる。
けれど、一度伝わったなら、その先へ進んでもいい。
「あと、登場人物の呼び方」
先輩が言った。
彩花の肩がわずかに揺れた。
「呼び方?」
「最後まで名字なんだね」
「……はい」
「変える予定ある?」
まただ。
ここ数日、なぜこんなに呼び方の話が続くのだろう。
彩花は少しだけ困った顔になる。
「今のところは」
「じゃあそのままでいいと思う」
「いいんですか?」
「だって、この二人にとってそれが自然なんでしょ?」
先輩は原稿を返す。
「名前で呼ぶことだけが仲良くなる表現じゃないし。名字のままでも、最初と最後で呼び方の響きが違って読めたよ」
彩花は原稿を受け取った。
最初。
まだ距離がある名字。
最後。
同じ名字なのに、もう距離は同じではない。
「……そういうのもあるんですね」
「あると思うよ」
先輩は自分の席へ戻った。
彩花は原稿へ目を落とす。
名字は変わっていない。
文字としては、最初から最後まで同じ。
それでも、その呼び方に含まれるものは変わる。
(九条君も、そうなのかな)
ふと浮かんだ。
最初に図書館で「九条君」と呼んだとき。
今、メッセージで「九条君」と書くとき。
同じ四文字なのに、自分の中にあるものは確かに違う。
名前へ変えなくても、変わっているものはある。
そのことが分かると、ここ数日少しだけ引っかかっていたものが軽くなった。
今は、今の呼び方でいい。
だからといって、ずっと同じだと決める必要もない。
彩花は赤ペンを持ち直した。
今度こそ、原稿の修正へ集中した。
◇
金曜日の昼休み。
桜華学園の中庭では、雲の切れ間から久しぶりに青空が見えていた。
悠真は湊とベンチに座り、昼食を取っていた。
「青葉の文化祭、ほぼ行けそう」
「予定確定した?」
「まだ最終じゃないけど、先生からもたぶん大丈夫って」
「よかったな」
「うん」
悠真はペットボトルの水を飲む。
もう、それ以上理由を説明する必要はなかった。
湊も聞かない。
「水瀬さんの小説、できたんだっけ?」
「第一稿まで」
「読ませてもらうの?」
「完成したら」
「文化祭で読む?」
「たぶん」
「感想ちゃんと言えよ」
「言うよ」
「『面白かった』だけとか駄目だぞ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「水瀬さん相手だとたまに語彙なくなる人」
「……否定しづらい言い方するな」
湊が笑った。
悠真も苦笑する。
文化祭へ行けたら、彩花の短編を読む。
文芸部を見る。
教室も案内してくれるらしい。
それだけでも十分楽しみだ。
「そういえば」
湊が箸を止める。
「呼び方、どうなった?」
「何も変わってない」
「そりゃそうか」
「変える話もしてないし」
「まだ気になる?」
悠真は少し考えた。
「前ほどは」
「何かあった?」
「琴葉から、水瀬さんもクラスメイトに同じこと言われたって聞いた」
「同じこと?」
「琴葉は名前なのに、俺は九条君なんだって」
「へえ」
湊が目を丸くする。
「すごい偶然」
「うん」
「で、水瀬さんも考えたのかな」
「分からない」
悠真はそこで止めた。
分からないものは分からない。
想像だけで決める必要はない。
「でも、今のままでいいかなって思ってる」
「九条君?」
「うん」
「水瀬さんも?」
「水瀬さん」
口にすると、やはり自然だった。
「呼び方が変わらなくても、前と同じではないし」
湊が少し意外そうに悠真を見る。
「何?」
「いや。九条がそういうこと言うようになったんだなと思って」
「どういう意味?」
「前だったら『変わってないなら変わってない』って考えそうだった」
「……そうかも」
悠真は笑った。
同じ図書館。
同じ呼び方。
同じように本の話をする。
それでも、最初と今は違う。
連絡先を知っている。
家族の話もする。
一緒に出かけた。
裁縫を教わっている。
今度は彩花の学校へ行くかもしれない。
変化は、呼び方だけに表れるわけではない。
「じゃあ、そのうち変わったら面白いな」
湊が言う。
「何が?」
「呼び方」
「……まあ」
悠真は少しだけ視線を逸らした。
「そのときは、そのときで」
「余裕あるじゃん」
「何でお前が嬉しそうなんだよ」
「友達の成長」
「誰目線だよ」
昼休み終了を知らせる予鈴が鳴った。
二人は弁当を片付け、校舎へ戻った。
◇
金曜日の放課後。
彩花は文芸部室で、修正した原稿を机の上へ揃えていた。
第一稿からいくつも赤が入った。
削った会話。
足した描写。
言い換えた文章。
結末そのものは変えていない。
「部長」
「はい?」
「第一稿、提出していいですか?」
「もちろん」
彩花はクリアファイルから原稿を出し、部長へ渡した。
締め切りは来週。
まだ余裕がある。
それでも一度提出しておけば、さらに修正する時間も取れる。
「早いね」
「昨日、先輩にも読んでもらったので」
「じゃあ私も週末読む」
「お願いします」
部長へ原稿を渡した瞬間、少しだけ肩が軽くなった。
終わったわけではない。
けれど、一つ進んだ。
窓の外では、夕方の光が校舎を照らしている。
今日は雨の気配がない。
「水瀬さん」
部長が原稿の表紙を見ながら尋ねる。
「タイトル、これで確定?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「もう少しだけ考えたいです」
「締め切りまでならいいよ」
「ありがとうございます」
タイトルだけは、まだ迷っていた。
物語の中の二人が何者なのか。
友達。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど最初と最後では、その言葉の意味が違う。
それをどう題名にするか。
急いで決めなくてもいい。
彩花は鞄を持ち、部室を出た。
◇
校門を出たところで、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『予定、ほぼ大丈夫そう。青葉の文化祭行けると思う。』
彩花は足を止めた。
まだ「確定」とは書いていない。
けれど、昨日より一歩進んでいる。
『本当?』
『うん。来週最終確認だけど。』
彩花は少し考えてから、笑って入力した。
『じゃあ文芸部、ちゃんと案内できるようにしておく。』
『楽しみにしてる。』
『今日、短編の第一稿も部長に出したよ。』
『お疲れさま。』
『ありがとう。』
『文化祭で読めそう?』
『そのつもり。』
そこで一度指を止める。
それから、もう一文。
『九条君にも読んでほしい。』
送った。
以前にも読ませる約束はしている。
だから、新しいことではない。
それでも、「読んでいいよ」ではなく「読んでほしい」と自分から書くのは、少し違った。
返事はすぐに来た。
『読みたい。』
彩花は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
嬉しい。
その気持ちは、もう打ち消さない。
『じゃあ、ちゃんと完成させないと。』
『楽しみにしてるけど、プレッシャーにはしないで。』
『分かってる。』
『本当に?』
『分かってます。』
『ならよかった。』
彩花は笑った。
歩き出す。
駅へ向かう道には、同じ青葉高校の生徒が何人も歩いている。
前を行く二人組が文化祭の装飾について話していた。
反対側の歩道では運動部らしい生徒たちがコンビニへ入っていく。
いつもの放課後。
いつもの帰り道。
けれど、今年の文化祭には、この景色を知らない友達が来るかもしれない。
桜華学園で過ごしている悠真。
琴葉。
玲奈。
自分とは違う学校の日常を持つ三人が、青葉へ来る。
そして自分は、その三人を案内する。
(どこから見せようかな)
校門。
教室。
文芸部。
中庭。
クラスの謎解きも、時間が合えば見てもらいたい。
考えているうちに、見せたいものが思ったより多いことに気づいた。
彩花は少しだけ驚いた。
以前、悠真の学校を外から見たとき、自分とは違う世界のように感じた。
桜華学園の制服。
生徒会。
長い付き合いの友人たち。
九条家という、自分には馴染みのない環境。
けれど今度は逆だ。
悠真が、自分のいる場所へ来る。
特別でも華やかでもないと思っていた場所。
それでも、自分が毎日過ごし、友達と話し、好きな文章を書いている場所。
(見てほしいな)
自然にそう思った。
学校だけではない。
自分が書いたものも。
自分が好きな部室も。
クラスメイトと作る文化祭も。
それらを悠真に見られることが、以前ほど怖くなかった。
むしろ、知ってほしいと思う。
彩花は歩きながら、もう一度スマートフォンを確認した。
新しいメッセージはない。
だから画面を閉じる。
次に話すことは、また次に見つかる。
文化祭まで、まだ少し時間がある。
栞の続きも残っている。
短編の仕上げもある。
クラスの準備もこれからだ。
全部を急いで一つにする必要はない。
青凪駅の入口が見えてくる。
夕方の人混みへ向かって歩きながら、彩花は文化祭の日を少しだけ想像した。
そこに悠真がいる景色は、まだ現実にはない。
それでも、以前なら想像するだけで落ち着かなかったはずなのに、今は違う。
来てくれたら嬉しい。
自分のいる場所を見てほしい。
自分の書いたものを読んでほしい。
それを、ちゃんと本人にも伝えられた。
呼び方は、まだ「九条君」のまま。
けれど、その四文字の中にある距離は、最初に図書館で名前を交換した頃とは、もう同じではなかった。




