第32話 いつもの呼び方
火曜日の朝、私立桜華学園高等部の廊下には、普段より多くの生徒が立ち止まっていた。
各教室の前には文化祭準備についての連絡用紙が貼り出され、階段脇の掲示板には実行委員会からの注意事項が追加されている。登校したばかりの生徒たちは鞄を肩に掛けたまま紙を覗き込み、自分たちのクラス企画について話していた。
「九条君、おはよう」
「おはよう」
声をかけてきた同級生へ返しながら、悠真は教室へ向かう。
窓の外は朝から曇っていた。昨夜遅くに雨が降ったらしく、中庭の石畳がまだ濡れている。湿った風が開いた窓から入り、廊下に並んだ文化祭のポスターを小さく揺らしていた。
教室へ入ると、すでに来ていた湊が自分の席で頬杖をついている。
「おはよう」
「おはよう。九条、今日放課後生徒会?」
「ある。昨日の提出漏れ確認と、一般公開日の人員配置」
「大変だな」
「まだ今の時期はそこまででもないよ」
「九条の『そこまで』は信用ならないんだよな」
悠真は苦笑しながら鞄を置いた。
机の中へ教科書を移し、スマートフォンをしまおうとしたところで、昨夜のやり取りが目に入る。
『分かった。来られそうなら嬉しい。』
『俺も行けたら嬉しい。』
そこで会話は終わっている。
何度も見返すような内容ではない。
それでも、彩花が「来られそうなら嬉しい」と書いてくれたことを思い出すと、昨日と同じように少し嬉しくなる。
「何?」
湊の声に、悠真は顔を上げた。
「何が?」
「いや、スマホ見てたから」
「メッセージ確認しただけ」
「水瀬さん?」
「うん」
隠す理由もないので普通に答える。
湊は一瞬だけ目を丸くしたあと、妙に感心した顔をした。
「本当に即答するようになったな」
「またそれ?」
「前が長かったから」
「そんなに変だった?」
「変というか、聞いてるこっちが疲れるくらい考えてた」
悠真にも多少の自覚はある。
彩花と会えるのが楽しみ。
連絡が来れば嬉しい。
何かを一緒にするのも楽しい。
以前は、そう思うたびに理由を探していた。
今は、少なくとも毎回考え込むことはなくなった。
「水瀬さんの学校の文化祭、行くかもしれない」
「へえ」
「一般公開の日、今のところ空けられそうだから」
「桜華の仕事は?」
「まだ確定じゃない。でも大きい予定は入ってない」
「じゃあ行けるといいな」
「うん」
悠真はスマートフォンをしまった。
青葉高校がどんな学校なのか。
彩花が普段どんな教室で過ごし、どんな部室で原稿を書いているのか。
知らないことはまだ多い。
それを知れるかもしれないと思うと、素直に楽しみだった。
◇
一時間目と二時間目の間の休み時間。
悠真が次の授業の教科書を出していると、教室の後方から女子生徒が近づいてきた。
「九条君、ちょっといい?」
「うん」
「文化祭実行委員から。生徒会に渡してほしいって」
差し出されたのは封筒だった。
「分かった。ありがとう」
「お願い」
女子生徒が戻っていく。
悠真は封筒を鞄の上へ置いた。
その様子を見ていた湊が、何気なく言う。
「九条って、ほぼ全員から九条君だよな」
「何、急に」
「いや、今聞いて思っただけ」
「名字で呼ぶだろ、普通」
「俺は悠真って呼ぶけど」
「小学校から一緒だからだろ」
「琴葉ちゃんも兄様だし」
「妹だから」
「家では?」
「家族は悠真」
「じゃあ水瀬さんは?」
悠真の手が止まった。
「……水瀬さんは、水瀬さんだろ」
「いや、聞いてるの逆。水瀬さんがお前を何て呼ぶか」
「九条君」
「だよな」
湊は特に何かを言うでもなく頷いた。
悠真は少し眉を寄せる。
「何?」
「別に。水瀬さんって、お前の妹のことは琴葉さんって呼んでるんだろ?」
「そうだけど」
「兄妹なのに片方は名前で、片方は名字なんだなと思って」
どこかで同じ会話が行われているとは、悠真は知るはずもない。
ただ、言われて初めて考えた。
彩花は琴葉を「琴葉さん」と呼ぶ。
凛花のことは「お姉ちゃん」。
玲奈については、まだ直接名前で呼ぶ機会自体がそれほど多くない。
そして自分は「九条君」。
初めて名前を交換した日から、ずっと変わっていない。
「……何か変?」
悠真が尋ねる。
「全然。ただ気づいただけ」
「じゃあ言うなよ」
「雑談に意味求めるなって」
湊は笑いながら自分の席へ戻った。
悠真も教科書へ視線を戻す。
けれど、一度意識すると少しだけ残った。
水瀬さん。
九条君。
呼び慣れた言葉だ。
彩花の声で「九条君」と呼ばれることにも、何の違和感もない。
むしろ、それが一番自然に聞こえる。
(……名前で呼ばれたら、どうなるんだろう)
頭の中に浮かんだ疑問に、悠真は一度瞬きをした。
想像してみる。
『悠真君』
「…………」
「九条?」
前の席から声をかけられ、悠真は顔を上げた。
「何?」
「いや、先生来た」
「ああ」
いつの間にかチャイムが鳴っていた。
教室の前方では教師が出席簿を開いている。
悠真は慌てて姿勢を正した。
(今考えることじゃないな)
そう判断して、意識を授業へ戻す。
ただ、先ほど頭の中で聞こえた呼び方だけは、思っていたより簡単には消えなかった。
◇
昼休み。
琴葉は友人たちと食事を終えたあと、廊下で兄と鉢合わせた。
「兄様」
「琴葉」
「生徒会室ですか?」
「資料置きに行くところ」
悠真の手には、朝受け取った封筒と何枚かの書類がある。
「忙しそうですね」
「まだ大丈夫。琴葉は?」
「玲奈を待っています。先生に呼ばれているので」
「そう」
普段ならそこで別れる。
けれど今日は、悠真がその場に残った。
琴葉は兄を見る。
「何か?」
「琴葉って、水瀬さんから最初から琴葉さんって呼ばれてた?」
「……はい?」
予想外すぎる質問だった。
琴葉は数秒、兄の顔を見つめた。
「何ですか、突然」
「ちょっと気になっただけ」
「なぜ気になったんです?」
「湊に言われた。水瀬さんは琴葉を名前で呼ぶのに、俺は九条君なんだなって」
琴葉は黙った。
(榊原さん、余計なところへ気づきましたね)
とはいえ、確かに少し面白い。
「私は兄様と同じ名字ですから、名字で呼ばれると紛らわしいでしょう」
「やっぱりそれ?」
「おそらくは。私と知り合った時点で、彩花さんにとって『九条君』はすでに兄様でしたから」
「ああ」
言われれば単純な話だった。
同じ九条が二人いる。
だから琴葉を名前で呼ぶ。
「では、兄様は何と呼ばれたいんです?」
琴葉が尋ねる。
悠真はすぐには答えなかった。
「別に、今のままでいいけど」
「そうですか」
「何、その顔」
「いえ」
琴葉はごく穏やかに微笑んでいる。
表面上は。
(今のままでいい、と。では今のままでなくなった場合については考えたんですね、兄様)
口にすると面倒なことになりそうなので黙っておく。
「兄様は彩花さんを水瀬さんと呼んでいますものね」
「うん」
「でしたら、お互い同じでは?」
「そうなんだけど」
「けれど?」
「……いや、何でもない」
悠真はそこで話を切った。
琴葉は追わない。
兄が自分で考えるべきことだ。
それに、無理に呼び方を変えさせたいとも思わない。
彩花と悠真には、二人の速度がある。
「そういえば」
琴葉は話題を変えた。
「彩花さんの文化祭の日程、決まったそうですね」
「知ってるの?」
「昨日、少し連絡しましたから」
「そうなんだ」
「兄様、行くんですか?」
「予定が合えば」
「私も行ってみたいです」
悠真が少し驚く。
「琴葉も?」
「友人の文化祭へ行きたいと思うのは、普通ではありませんか?」
「そうだけど」
「玲奈にも聞いてみます。もちろん、彩花さんにも先に確認しますが」
「三人で行く?」
「兄様も数に入っているんですか?」
「何で外されるの?」
琴葉は少しだけ笑った。
「冗談です」
ちょうど廊下の向こうから玲奈が歩いてくる。
琴葉は片手を上げた。
「玲奈」
「待たせた?」
「大丈夫です」
玲奈は悠真にも気づき、軽く手を上げる。
「悠真もいたんだ」
「今から生徒会室」
「お疲れ」
悠真は頷き、今度こそその場を離れた。
背中を見送った玲奈が、琴葉へ顔を寄せる。
「何話してたの?」
「兄様が、彩花さんから名字で呼ばれていることを突然気にし始めました」
「へえ」
玲奈の口元が上がる。
「それ面白そう」
「面白がって刺激しないでくださいね」
「何で?」
「兄様ですから」
「ああ」
玲奈は妙に納得した。
「考えすぎるか」
「以前ほどではありませんが」
二人は並んで教室へ戻り始める。
「でも、彩花は悠真を九条君って呼ぶんだ」
「そうですよ」
「何か似合うね」
「私もそう思います」
琴葉は頷いた。
今の二人には、今の呼び方が似合っている。
だからこそ、いつかそれが変わる日が来たなら、きっと思っている以上に大きな意味を持つ。
(まあ、兄様にそこまで教える必要はありませんね)
琴葉は何も知らない顔で歩き続けた。
◇
一方、青葉高校では、彩花が昼休みに文芸部の原稿を読み返していた。
昨夜、家でも少し進めた。
物語は終盤へ入り始めている。
主人公二人は友人になり、以前より自然に会話できるようになった。けれど、その関係を恋愛へ進めるかどうかは、まだ決めていない。
昨日先輩に言われた通り、作者が先に答えを決めて引っ張るのではなく、二人が何を感じるかを追ってみようと思っている。
「水瀬、昼休みも書いてんの?」
後ろから声がして、彩花は原稿を伏せた。
「田辺君」
「そんな隠さなくても読まないって」
「まだ途中だから」
「分かってるよ」
大地は自分の席から椅子だけ持ってきて、少し離れたところへ座った。
手には購買のメロンパンがある。
「文化祭のクラス企画、謎解きになりそう」
「脱出ゲーム派は?」
「負けた」
「田辺君、どっちだったの?」
「どっちでもよかった派」
「一番関係ないじゃん」
「でも投票はした」
「どっちに?」
「謎解き」
「じゃあ関係あるよ」
彩花が笑う。
大地はメロンパンを一口食べた。
「そういや九条君、文化祭来るかもなんだっけ」
「予定が合えばね」
「昨日言ってた桜華の生徒会?」
「うん」
「忙しそう」
「たぶん」
彩花は原稿をクリアファイルへ戻す。
そして昨日の呼び方の話を思い出した。
大地は何気なく言っただけだった。
それなのに、自分は昨日の昼から何度か考えてしまっている。
「田辺君」
「ん?」
「田辺君って、下の名前何だっけ」
「ひどくない?」
「冗談」
「大地です。クラスメイトになって三か月近い水瀬さん」
「知ってます」
「じゃあ何で聞いたんだよ」
「田辺君のことずっと田辺君って呼んでるなと思って」
「普通じゃん」
「だよね」
「何の確認?」
大地が怪訝そうな顔をする。
「昨日、呼び方の話したでしょう?」
「ああ」
「それからちょっと気になって」
「九条君のこと?」
「……まあ」
隠すほどでもない。
大地はしばらく考え、メロンパンの袋を小さく畳んだ。
「でも、呼び方って仲の良さだけじゃなくない?」
「どういうこと?」
「俺、小学校から仲いいやつでも名字で呼んでるし。逆に高校から知り合ったやつでも名前で呼ぶやついるし」
「うん」
「だから別に、九条君だから距離あるとかじゃないんじゃね?」
彩花は少し驚いた。
「田辺君、たまにいいこと言うね」
「たまにって何だよ」
「褒めてる」
「絶対褒めてない」
大地は不満そうだったが、彩花は笑った。
確かにそうだ。
九条君と呼ぶから遠いわけではない。
琴葉さんと呼ぶから、琴葉の方が近いとも限らない。
呼び方だけで全部が決まるわけではない。
それなら、今すぐ変える理由もない。
「ちょっとすっきりした。ありがとう」
「何か知らんけど、どういたしまして」
予鈴まであと少し。
大地は椅子を戻すために立ち上がった。
「でもさ」
「何?」
「水瀬が九条君のこと名前で呼んだら、本人めちゃくちゃびっくりしそう」
「っ……」
昨日、頭の中だけで試した呼び方が蘇った。
『悠真君』
また頬が熱くなる。
「何で最後に余計なこと言うの!」
「え、俺何か変なこと言った?」
「言った!」
彩花が睨むと、大地は笑いながら椅子を持って逃げていった。
「じゃ、授業始まるぞー」
「分かってる!」
周囲の何人かがこちらを見て笑っている。
彩花は机へ突っ伏したくなったが、どうにか耐えた。
(もう田辺君には相談しない……!)
そもそも相談したつもりもなかった。
◇
放課後。
桜華学園の生徒会室では、文化祭当日の仮配置表を前に、数人の役員が話し合っていた。
「正門受付、午前が足りません」
「中等部から応援出せない?」
「確認します」
「体育館側は?」
「去年より一人増やした方がいいと思います。来賓の移動と一般客が重なるので」
悠真は資料へ目を通しながら、必要な箇所へ書き込んでいく。
「じゃあ体育館側を一人増やして、その分、午後の中庭巡回を一人減らしましょう。午後は実行委員の巡回も入ります」
「分かりました」
「九条君、救護室への案内表示は?」
「昨日先生から修正版もらってます。あとで共有します」
学校にいるときの悠真は、迷いが少ない。
何を確認するべきか。
誰へ頼むべきか。
どこを先に決めるべきか。
必要なことを整理し、一つずつ進める。
私生活で彩花の一言を考えすぎていた頃とは、別人のようだと湊に笑われたこともある。
自分でも否定できない。
「今日はここまでにしましょう」
予定していた議題が終わり、悠真が声をかける。
時計は五時半を過ぎていた。
役員たちが書類をまとめ始める。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
人が少しずつ出ていく。
悠真も机の上を片付けていると、同じ一年の女子役員が声をかけてきた。
「九条君、このファイル棚に戻していい?」
「うん。二段目」
「分かった」
その声を聞いた瞬間。
午前中に湊から言われたことが、また頭へ浮かんだ。
九条君。
学校では聞き慣れている。
同級生からも先輩からも、ほとんどそう呼ばれる。
なのに、彩花の声で呼ばれる「九条君」だけは、頭の中で簡単に区別できる。
(同じ呼び方なのにな)
不思議だった。
声が違うからと言ってしまえば、それまでだ。
それでも、彩花に呼ばれたときだけ振り返る自分の感覚まで、他の誰かと同じには思えない。
「九条?」
湊が鞄を持って立っていた。
「帰らないの?」
「帰る」
「また考え事?」
「少し」
「水瀬さん?」
「……何で分かるんだよ」
「今日の朝からの流れで他に何があるんだ」
悠真は苦笑した。
二人で生徒会室を出る。
廊下はすでに静かになり始めていた。
窓の外では、雲の隙間から薄い夕日が差している。
「呼び方のこと、まだ考えてた?」
「ずっとじゃない」
「でも考えた?」
「少し」
湊は階段を下りながら笑う。
「変えたいの?」
「分からない」
「じゃあ今のままでいいじゃん」
「琴葉にも同じようなこと言われた」
「相談したの?」
「たまたま会ったから聞いただけ」
「何て?」
「名字が同じだから琴葉は名前になったんじゃないかって」
「普通の理由だった」
「うん」
「残念?」
悠真は一段下りたところで、湊を見る。
「何で残念なんだよ」
「何となく」
「残念じゃない」
「じゃあいいじゃん」
湊の言う通りだ。
何も問題はない。
彩花は自分を九条君と呼ぶ。
自分は彩花を水瀬さんと呼ぶ。
その呼び方で、これまで何度も話してきた。
本のこと。
学校のこと。
家族のこと。
古本市。
裁縫。
名前が名字だから話せなかったことなど、一つもない。
「でも」
悠真は階段の踊り場で少しだけ足を緩めた。
「水瀬さんに名前で呼ばれたら、たぶん驚く」
「へえ」
「何、その反応」
「いや。自分から言ったなと思って」
「聞かれたからだろ」
「聞いてないけど」
悠真は黙った。
確かに、湊は今それを聞いていない。
「……帰るぞ」
「はいはい」
湊の笑い声を背中に受けながら、悠真は階段を下りた。
◇
その夜。
彩花は夕食後、自室で文化祭の短編を書いていた。
窓の外では、ようやく雨が降り始めている。
細かな雨粒が窓ガラスへ当たり、一定の音を立てていた。
机の上には原稿。
その横には文化祭の案内。
さらに少し離れたところには、土曜日に買った淡い青の花柄布が畳んで置かれている。
今夜は布には触れない。
まず原稿を進める。
物語の中では、主人公の二人が駅で別れる場面を書いていた。
会話を交わし、片方が改札へ向かう。
そこで、彩花の鉛筆が止まった。
登場人物の一人が、相手を名字で呼ぶ。
昨日までは何とも思わなかった。
今日は、そこが妙に目につく。
「……田辺君のせいだ」
小さく呟く。
けれど、名字を名前へ書き換えることはしなかった。
この二人は、まだこの呼び方だ。
作者が気になったからといって、急に変えるのは違う。
彩花はそのまま続きを書いた。
数行進んだところで、スマートフォンが震える。
画面には琴葉の名前。
『彩花さん、こんばんは。少し聞いてもいいですか?』
『こんばんは。もちろん。』
返すと、すぐに次が来た。
『文化祭の一般公開日、私も伺って大丈夫でしょうか? 玲奈も予定が合えば行きたいそうです。』
彩花の表情が明るくなる。
『もちろん! 二人とも来てくれたら嬉しい。』
『ありがとうございます。まだ予定を確認しているところなので、決まったら連絡しますね。』
『うん。待ってる。』
そこで一度会話が途切れる。
彩花はスマートフォンを置こうとした。
ところが、もう一度振動する。
『ところで彩花さん。』
「?」
『兄様から、今日少し妙な質問をされました。』
彩花の指が止まった。
嫌な予感ではない。
ただ、琴葉がわざわざ「妙な質問」と言うのが気になる。
『どんな?』
返事を待つ。
雨音が少し強くなった。
『私が彩花さんから、いつ頃から琴葉さんと呼ばれているのか、と。』
「えっ」
今度は完全に声が出た。
彩花はスマートフォンを両手で持ち直す。
(何で九条君がそれを気にしてるの?)
心当たりがない。
自分は悠真に、昨日大地から呼び方について言われたことなど話していない。
それなのに、ほぼ同じ日に悠真も似たことを考えたらしい。
『どうしてそんなこと聞いたの?』
『榊原さんから、私は名前で呼ばれているのに兄様は九条君なのだと指摘されたそうです。』
彩花は画面を見つめた。
「……同じこと言われてる」
思わず呟く。
昨日は大地。
今日は悠真が湊。
まったく別の学校で、互いに知らないところで、似たことを言われている。
偶然なのに、少しおかしい。
『私も昨日、田辺君に同じようなこと言われたよ。』
送る。
既読がつくまで少し間があった。
『……そうなのですか?』
『琴葉さんは琴葉さんなのに、九条君はずっと九条君なんだねって。』
また少し間。
『なるほど。』
その短い返事の向こうで、琴葉が何を考えているのかは分からない。
実際には。
(何ですか、その妙な一致は)
琴葉は自室のベッドに腰掛けたまま、スマートフォンを見つめていた。
兄と彩花が別々の学校で、ほぼ同じ時期に同じことを指摘される。
別に運命などという大げさな話ではない。
ただの偶然だ。
しかし。
(兄様、知ったら絶対また少し考えるでしょうね)
少し面白い。
けれど、余計なことはしない方がいい。
琴葉は慎重に返信した。
『呼び方は自然に決まるものですし、無理に変える必要はないと思いますよ。』
彩花はその文章を読んで、少し安心した。
『私もそう思う。九条君は九条君って感じするし。』
送信。
その直後。
(……これ、琴葉さんのお兄さん本人のことを琴葉さんに言ってるんだ)
急に恥ずかしくなった。
取り消したい。
しかし、すでに既読がついた。
『分かります。』
琴葉から返ってくる。
それだけだった。
彩花はほっと息を吐いた。
『じゃあ文化祭の予定分かったら教えてね。』
『はい。おやすみなさい、彩花さん。』
『おやすみ、琴葉さん。』
会話を終える。
スマートフォンを机へ置いた。
雨はまだ降っている。
原稿へ戻ろうとしたのに、鉛筆を持つ前にまた考えてしまった。
(九条君も、気にしたんだ)
自分だけではなかった。
そのことが、どうして少し嬉しいのかは分からない。
呼び方を変えたいと言われたわけではない。
名前で呼んでほしいと言われたわけでもない。
ただ、悠真も一度は考えた。
それだけ。
彩花は鉛筆を持った。
原稿の中では、名字で呼び合う二人が駅で別れようとしている。
その呼び方を、今夜も変えない。
◇
翌日の放課後。
雨は上がっていた。
昨夜の雨を残した校庭には小さな水たまりができており、雲の隙間から差し込む光を反射している。
彩花は文芸部室の窓を少し開けた。
湿った土の匂いが入ってくる。
「水瀬さん、紹介文できた?」
「はい」
部長へ昨日頼まれた用紙を渡す。
百文字ほどの短い文章。
文芸部では部員の短編やおすすめ本を展示していること。
本が好きな人も、普段あまり読まない人も気軽に来てほしいこと。
そして、気に入った作品があれば感想を残してほしいこと。
部長は一度読み、頷いた。
「いいね。これで出す」
「大丈夫ですか?」
「うん。固すぎないし」
「よかった」
彩花は自分の席へ戻る。
原稿を出そうとしたところで、スマートフォンが短く震えた。
放課後なので確認する。
悠真だった。
『生徒会の予定、まだ仮だけど青葉の文化祭の日は空けられそう。』
彩花の口元が自然に緩む。
『本当?』
『うん。急に仕事が入らなければ行けると思う。』
『琴葉さんと玲奈さんも来たいって言ってたよ。』
少しして。
『聞いた。』
『じゃあみんなで来る?』
送ってから、彩花は考えた。
悠真。
琴葉。
玲奈。
三人とも桜華の制服で来るのだろうか。
文化祭だから私服かもしれない。
どちらでも目立ちそうだ。
特に玲奈は、何もしなくても目立つ。
(文芸部の先輩、びっくりしそう)
想像して少し笑う。
返信が届いた。
『たぶん。ただ、琴葉たちはまだ予定確認中みたい。』
『そっか。』
『水瀬さんは当日ずっと文芸部?』
彩花は部長を見る。
「部長、文化祭の日って、ずっと部室にいないと駄目ですか?」
「交代でいいよ。クラスも回りたいでしょ?」
「ですよね」
「水瀬さん、誰か来るの?」
「友達が来るかもしれなくて」
答える。
以前なら、そこで少し説明を足したかもしれない。
どこの友達なのか。
どういう知り合いなのか。
けれど今日は、それだけで十分だった。
部長も「じゃあ時間分かったら当番調整しよう」と普通に返してくれる。
彩花は悠真へ返信した。
『交代だから、ずっとじゃないよ。来る時間分かったら、その時間はなるべく空けてもらう。』
『そこまでしなくていいよ。』
『私が案内するって言ったでしょう?』
送る。
少しして返ってきた。
『じゃあお願いする。』
『任せて。』
会話はそこで終わった。
彩花はスマートフォンを机へ置き、原稿用紙を取り出す。
「水瀬さん」
向かいの先輩が、少し笑いながらこちらを見ていた。
「はい?」
「友達来るの、楽しみなんだね」
「え?」
「顔」
どこかで聞いたような指摘だった。
彩花は思わず自分の頬へ手を当てる。
「そんなに出てました?」
「ちょっとだけ」
「……来てくれたら嬉しいので」
今度は、そう答えた。
言ってから恥ずかしくはなった。
けれど訂正はしない。
「いいじゃん」
先輩もそれ以上聞かなかった。
彩花は原稿へ目を落とす。
昨日までと同じ文章。
同じ登場人物。
同じ名字の呼び方。
けれど、読む自分の方が少しだけ変わった気がした。
◇
その日の夜、悠真は自室で本を読んでいた。
机の端には、透明袋に入った未完成の栞が置いてある。
約束通り、触っていない。
続きを調べてもいない。
次に彩花と予定を合わせるまでは、このままだ。
スマートフォンが震える。
琴葉からだった。
『兄様、まだ起きていますか?』
『起きてる。』
『少しだけいいですか?』
『何?』
すぐに返事が来る。
『昨日、兄様から呼び方のことを聞かれたので。』
悠真は本から視線を外した。
『うん。』
『彩花さんも、田辺さんというクラスメイトから、ほぼ同じことを言われたそうですよ。』
「……え?」
思わず声が出た。
画面を読み直す。
彩花も。
同じことを。
『何て?』
『私は琴葉さんなのに、兄様はずっと九条君なのだと。』
悠真はしばらく返信しなかった。
別に、珍しいことではない。
兄妹で名字が同じなのだから、片方を名前で呼ぶ。
それを第三者が見れば気づくこともある。
自分は湊に言われた。
彩花はクラスメイトに言われた。
それだけだ。
それだけなのに。
(……水瀬さんも考えたのかな)
自分と同じように。
もし名前で呼んだら。
もし呼ばれたら。
そこまで考えたのかは分からない。
勝手に想像するべきでもない。
『そうなんだ。』
結局、それだけ返した。
琴葉からすぐに届く。
『それだけです。おやすみなさい。』
『おやすみ。』
会話は終わった。
悠真はスマートフォンを机へ置く。
本へ戻ろうとした。
けれど、一行読んでも内容が頭へ入ってこない。
「……九条君、か」
彩花の声を思い出す。
図書館で。
駅で。
古本市で。
市民交流センターで。
何度も呼ばれた。
そのたびに自然に振り向いた。
今の呼び方が嫌なわけではない。
むしろ好きだと思う。
彩花の声で呼ばれる「九条君」は、他の誰かから呼ばれるものとは違って聞こえる。
だから、無理に変えたいとは思わない。
それでも。
(名前で呼ばれたら、やっぱり嬉しいのかな)
今度は、その問いから逃げなかった。
少し考える。
そして、たぶん、と答えが出る。
きっと嬉しい。
かなり。
想像しただけで落ち着かなくなる程度には。
けれど、それを彩花へ頼もうとは思わなかった。
自分だって彼女を「水瀬さん」と呼んでいる。
それに今の呼び方には、今まで積み重ねてきた時間がある。
最初に名前を交換した日から、ずっと続いている。
変わるなら。
何か自然なきっかけがあったときでいい。
悠真はそう考えて、本を開き直した。
今度はさっきより内容が頭へ入ってくる。
数ページ読んだところで、透明袋に入った栞が視界へ入った。
けれど、手は伸ばさない。
呼び方も。
栞も。
今すぐ完成させる必要はない。
ただし、それは止まっているという意味でもなかった。
悠真はページをめくった。
静かな部屋に紙の音が響く。
その夜、二人の呼び方は何一つ変わらなかった。
翌日もきっと、彩花は「九条君」と呼び、悠真は「水瀬さん」と呼ぶ。
今は、それが一番自然だった。
けれど二人とも、それ以外の呼び方を一度だけ想像したことを、まだ互いには知らなかった。




