第31話 呼び方の向こう側
月曜日の放課後、県立青葉高校の文芸部室には、いつもより多くの紙が広がっていた。
普段なら部員それぞれのノートや原稿用紙、本が置かれている長机の中央に、今日は文化祭実行委員会から配られた資料が積まれている。教室展示についての注意事項、当日の使用可能時間、一般公開に関する案内、提出物の締め切り。それらに混じって、赤字で「校内提出用」と書かれた紙まであり、普段の静かな部室とは少し違う慌ただしさがあった。
開け放たれた窓から、運動部の掛け声が聞こえてくる。
六月も終わりに近づき、日が傾き始めても空気には湿気が残っていた。天井の扇風機がゆっくり首を振るたび、机の端に置かれたプリントがかすかに浮き上がる。
「じゃあ、これで確定ね」
二年生の部長が、文化祭の日程表へ蛍光ペンで線を引いた。
「今年の一般公開は土曜日。文芸部の展示も朝から開けることになりました。部誌の配布は予定通り。各自の短編は、来週金曜日までに第一稿を出してください」
「来週金曜……」
向かいに座っていた一年生の部員が、絶望したような声を出す。
「まだ半分なんですけど」
「半分あるなら大丈夫」
「部長の大丈夫、信用していいやつですか?」
「締め切り前の文芸部員に言う大丈夫は、だいたい根拠ないよ」
隣の先輩が笑い、部室の空気が少しだけ緩んだ。
彩花もつられて笑いながら、自分の手元にある日程表へ視線を落とす。
一般公開日。
そこへ書かれた日付を見た瞬間、頭の中に一人の顔が浮かんだ。
(あ、九条君に言わないと)
思い浮かんでから、彩花は一度瞬きをした。
ずいぶん自然だった。
文化祭の日程が決まった。
だから悠真へ伝える。
その間に迷う時間がなかった。
古本市の帰りに寄ったカフェで、一般公開されるなら教えてほしいと言われていたから、約束を覚えていただけなのだけれど。
それでも、日程表を見た瞬間に思い出したことが、少しだけ不思議だった。
「水瀬さん?」
横から呼ばれ、彩花は顔を上げた。
「はい?」
「日付、間違えてないよね?」
部長が自分の日程表と彩花のものを見比べている。
「あ、はい。土曜日で合ってます」
「よかった。今年、去年と曜日の並び違うから、一瞬不安になって」
部長は頷き、次の資料へ移った。
彩花も改めて日程表へ目を落とす。
一般公開については、保護者だけでなく校外の人も入場できる。ただし受付で記名が必要で、混雑状況によっては入場制限を行う場合があるらしい。
文芸部の展示場所は、この部室。
壁には部員のおすすめ本紹介を掲示し、机には部誌と短編を置く。昨年好評だったという「三行感想カード」も今年また置くことになっていた。
「水瀬さんの短編、どこまで行った?」
隣に座っていた先輩が小声で尋ねた。
「一応、後半には入りました」
「お、順調」
「でも、最初の方を直したくなってきてて」
「それは締め切り前に始めると危険なやつだよ」
「ですよね……」
彩花も分かっている。
書けば書くほど、最初に書いた文章が気になる。
登場人物の言い方が違う気がする。
この場面はもう少し長くした方がいい。
逆に、ここは説明しすぎている。
気づけば、直したい場所ばかり増えていく。
「でも、水瀬さんの話、前より人物が自然になったよね」
「本当ですか?」
「うん。前に読ませてもらったところより、ちゃんとその子たち自身の話になってる感じ」
先輩は彩花の原稿へ手を伸ばさず、表紙だけを指した。
「最初の頃、ちょっとだけ『作者が答えを知ってる』感じがしたんだよね」
「作者が答えを?」
「この二人はこういう関係になります、って先に決めて、そこへ向かって歩かせてる感じ。でも今は、本人たちがまだ分かってないまま話してる感じがする」
彩花は、机の上に置いた原稿へ視線を落とした。
少し前まで、自分でも続きをどうすればいいのか迷っていた。
友達になった二人。
けれど、それで終わりではない。
友達になったあとも会う。
話す。
知らなかったことを知る。
予定を合わせて出かけることもある。
それでも、その先が何なのかを本人たちが知らないのなら、作者だけが急いで答えを決めなくてもいい。
そう考えるようになってから、以前より筆が進むようになった。
「……本人たちが分かってないなら、そのままでいいかなって思うようになったんです」
「いいと思う。現実でも、人間関係って名前付いてから全部決まるわけじゃないし」
先輩はそう言って、自分の原稿へ戻った。
彩花も鉛筆を持つ。
その瞬間、頭に浮かびかけたものを、慌てて追い払う必要はなかった。
自分の話は、自分の話。
原稿の中の二人は、原稿の中の二人だ。
似ている部分があったとしても、それだけで同じになるわけではない。
彩花は一度深く息を吸い、書きかけの行へ鉛筆を置いた。
◇
三十分ほど集中したところで、部室の扉が開いた。
「失礼しまーす」
聞き慣れた明るい声に、何人かが顔を上げる。
田辺大地だった。
片手にクリアファイルを持ち、もう片方の手には購買で買ったらしい紙パックの飲み物を持っている。
「田辺君、また実行委員の使い?」
部長が尋ねる。
「違います。今回はクラスの方。展示で使う机の数、今日までなんで」
「ああ、それ」
「文芸部って長机二本で出してましたよね?」
「去年はね。今年もたぶん同じ」
大地はクリアファイルから一枚の紙を取り出し、部長へ渡した。
そのまま帰るかと思ったが、彩花の机の上に積まれた原稿へ気づく。
「水瀬、進んでる?」
「一応」
「読ませてくれるやつ?」
「文化祭で置くから、そのとき読めるよ」
「長い?」
「短編」
「俺でも読める?」
「田辺君、普段何読んでるの?」
「漫画」
「じゃあ文字も読めるから大丈夫」
「そういう問題?」
近くにいた先輩が吹き出した。
大地も笑いながら、彩花の原稿を覗き込もうとはせず、一歩離れたところに立っている。
「文化祭、一般公開土曜なんだって?」
「うん。今決まったところ」
「俺らのクラス、飲食じゃないから暇だったら来てよ。たぶん謎解き」
「たぶんって」
「まだ揉めてる。脱出ゲーム派と普通の謎解き派で」
「違いがよく分からない」
「俺も」
「じゃあ何で揉めてるの?」
「分かんない」
あまりに堂々と答えるので、彩花は笑ってしまった。
大地は紙パックのストローをくわえながら、机に置かれた一般公開案内を見る。
「外の人も来られるんだな」
「受付は必要みたいだけどね」
「水瀬んちの家族も来る?」
「お母さんは来るかも。お父さんはまだ分からない。お姉ちゃんも桜華の予定次第かな」
「ああ、姉ちゃん別の学校だもんな」
「うん」
答えたところで、彩花はもう一人を思い出した。
いや、思い出したというより、最初から頭の隅にいた。
「九条君にも、日程決まったら教えるって言ってたから連絡しないと」
口にしてから、彩花は日程表を手元へ寄せた。
一般公開の開始時間まで、あとで写真に撮って送れば間違いがない。
それくらいのつもりだった。
ところが。
「九条君?」
大地が聞き返した。
「うん」
「前に言ってた桜華の友達?」
「そう」
「古本市、一緒に行った人?」
「そうだよ」
「裁縫教えたのもその人?」
「うん。土曜日に――」
そこまで答えて、彩花は止まった。
大地も止まった。
近くで原稿を書いていた一年生の女子部員も、なぜか鉛筆を止めている。
「……何?」
彩花が尋ねる。
大地は少し考えてから言った。
「いや、水瀬って結構九条君の話するんだなと思って」
「え?」
予想していなかった言葉だった。
「そんなにしてる?」
「そんなにっていうか、俺が聞いたとき普通に出てくる」
「聞かれたから答えてるだけだよ」
「まあ、そうなんだけど」
大地は特にからかう様子もなく、首を傾げた。
「何かもう、九条君って名前だけは知り合いみたいな気がしてきた」
「会ったことないでしょう?」
「ない」
「じゃあ知り合いじゃないよ」
「知ってる」
あっさり返され、また周囲に小さな笑いが起こる。
けれど彩花は、自分の中に引っかかったものを無視できなかった。
(私、そんなに九条君の話してる?)
思い返す。
古本市。
裁縫。
図書館。
文化祭の日程を知らせる約束。
確かに最近、何かの話をすると悠真の名前が出ることは増えた。
けれど、それは一緒に何かをする機会が増えたからだ。
不自然なことではない。
たぶん。
「それにしても」
大地がもう一度口を開く。
「九条君ってずっと名字なんだな」
「え?」
「いや、何となく。妹の方は琴葉さんなんだろ?」
今度こそ、彩花は言葉を失った。
部室の音が一瞬だけ遠くなる。
窓の外から野球部の声が聞こえた。
扇風機がこちらへ向き、日程表の端を揺らしていく。
「……そうだけど」
「兄妹で呼び方違うんだなと思っただけ」
大地に深い意味はなさそうだった。
実際、言い終えるとすぐ部長の方へ向き直り、机の数について話し始めている。
残された彩花だけが、自分の言葉を頭の中で繰り返した。
琴葉さん。
九条君。
(……本当だ)
今まで気にしたことがなかった。
琴葉と知り合ったとき、悠真と同じ九条姓なのだから、名字で呼べば二人とも「九条さん」になる。
だから自然に「琴葉さん」と呼ぶようになった。
玲奈も琴葉をそう呼ぶし、本人も嫌がらなかった。
それだけのことだ。
一方で悠真は、最初に名前を知った日からずっと九条君。
変える理由がなかった。
困ったこともない。
今だって困っていない。
(でも、琴葉さんは琴葉さんで……九条君は九条君なんだ)
当たり前の事実を、初めて外側から見たような気がした。
「水瀬さん?」
先輩に呼ばれ、彩花は我に返った。
「はい」
「田辺君、もう帰ったよ」
「えっ」
扉を見る。
確かに大地はいない。
「全然気づかなかった」
「考え事?」
「ちょっとだけ」
先輩は面白がるような顔をしたが、何について考えていたのかまでは聞かなかった。
「原稿止まってるよ」
「あ」
鉛筆を持ったままだった。
「すみません。続きやります」
「私に謝らなくていいけど」
彩花は原稿へ向き直った。
けれど、さっきまで自然に出ていた言葉が、急に止まってしまった。
紙の上の登場人物の名前が目に入る。
この二人は互いを名字で呼んでいる。
それも、自分が何も考えずに決めた設定だった。
(……いや、今そこ気にしたら絶対書けなくなる)
彩花は鉛筆を置いた。
代わりに文化祭の日程表を手に取る。
まずは、やるべきことをやろう。
◇
部活が終わったのは、午後五時を少し回った頃だった。
彩花は校舎を出る前に、昇降口脇のベンチへ座った。
文化祭の日程表をバッグから取り出し、一般公開の部分だけが写るようにスマートフォンで撮影する。
悠真とのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りは土曜日。
『今日はありがとう。』
『どういたしまして。私も楽しかったよ。』
『俺も。』
そこで終わっている。
栞の次の日程については、まだ何も話していない。
月曜日になれば生徒会の予定が分かるものもあると言っていたが、今日すぐ決めなければならないわけでもない。
今伝えたいのは文化祭の方だ。
彩花は写真を添付した。
『文化祭の一般公開日、決まったよ。土曜日だって。』
送信。
数秒後、付け足す。
『前に決まったら教えるって言ってたから。』
これでいい。
スマートフォンをバッグへしまおうとしたところで、振動した。
早い。
『ありがとう。』
続けてもう一通。
『その日、桜華の予定確認してみる。』
彩花は画面を見た。
来る、とは書いていない。
桜華の文化祭準備もある。
生徒会なら、普通の生徒より忙しいはずだ。
それでも予定を確認すると言ってくれたことが、少し嬉しい。
『無理しなくて大丈夫だからね。』
送る。
返事は少しだけ間を置いて届いた。
『分かってる。でも行けるなら行きたい。』
彩花の指が止まった。
昇降口を出ていく生徒たちの声が近くを通り過ぎる。
下駄箱の扉が閉まる音。
外から吹き込む湿った風。
全部がいつもと同じなのに、スマートフォンの画面にある一文だけが妙に目に残った。
(……行きたいんだ)
悠真は以前、彩花の短編を読みたいと言っていた。
だから、そのためだろう。
文芸部の展示にも興味があるのかもしれない。
それに、文化祭そのものが嫌いではないのかもしれない。
理由はいくつも考えられる。
けれど、わざわざ一つへ決める必要はない。
『来られそうだったら教えて。文芸部の場所も送るね。』
『うん。』
そこで終わるかと思ったが、少しして新しいメッセージが来た。
『水瀬さんの学校見るのも楽しみ。』
「……学校?」
思わず声に出た。
近くを通った一年生男子がちらりとこちらを見たので、彩花は慌てて口を閉じる。
自分の学校。
悠真がいる桜華学園を、彩花は外から見たことがある。
制服姿の悠真も知っている。
生徒会で仕事をしていることも、琴葉や玲奈、凛花が同じ学校にいることも知っている。
けれど悠真は、青葉高校にいる彩花をまだ知らない。
文芸部で原稿を書いている自分。
クラスメイトと話している自分。
この昇降口から帰る自分。
そういうものを見たいと言われている気がして、少しだけ落ち着かなくなった。
『普通の学校だよ?』
送ってから、彩花は眉を寄せた。
(あ)
また「普通」と書いた。
以前なら、そのまま何とも思わなかっただろう。
けれど今は、送った文字が少し気になった。
青葉高校が桜華学園のような名門校ではないのは事実だ。
だからといって、つまらない学校という意味ではない。
文芸部は好きだ。
部室も好きだ。
クラスにも話せる人がいる。
文化祭の準備だって、少し楽しみにしている。
訂正するほどのことではない。
でも、自分で自分のいる場所を先に小さく言わなくてもよかったかもしれない。
返事が届いた。
『水瀬さんが通ってる学校でしょ。』
彩花は画面を見つめた。
その下へ、もう一通。
『だったら見てみたい。』
短い文章だった。
大げさな褒め言葉でもない。
それなのに、胸の奥がゆっくり温かくなる。
(……そういう言い方するんだ)
彩花は小さく息を吐いた。
『そっか。』
それだけでは少し素っ気ない気がして、続ける。
『じゃあ、来られたら案内するね。』
送信してから、ほんの少し迷った。
『文芸部も見てほしい。』
今度は、迷った時間より送信ボタンを押す方が早かった。
『もちろん。』
返事も短い。
けれど十分だった。
彩花はスマートフォンをバッグへしまい、立ち上がった。
外へ出る。
校門へ向かう生徒の流れに混ざりながら、文芸部のある校舎を一度振り返る。
見慣れた校舎。
毎日通っている場所。
明日も来る場所。
それを誰かに見てほしいと思ったことは、これまであまりなかった。
家族が文化祭へ来るのとは、少し違う。
だからといって、その違いに今すぐ名前を付ける必要もなかった。
◇
同じ頃、桜華学園では生徒会室の窓から西日が差し込んでいた。
長机の上には、文化祭関連の書類がいくつも積まれている。
クラス企画の申請書。
部活動展示の配置案。
来賓受付の確認表。
生徒会執行部の担当割り振り。
悠真は一枚ずつ内容を確認しながら、必要な箇所へ付箋を貼っていた。
「九条、こっち終わった」
向かいから湊がファイルを差し出す。
「ありがとう。提出漏れあった?」
「二クラス。明日催促」
「分かった。俺からも担当に言っておく」
悠真はファイルを受け取り、一覧へ印を付ける。
文化祭までまだ時間はある。
それでも、生徒会側はすでに準備が本格化していた。
当日だけ動けばいいわけではない。
むしろ今の方が、確認するものは多い。
「そういえば」
湊が椅子の背へ体を預けた。
「土曜、裁縫どうだった?」
悠真の手が一瞬止まる。
「楽しかった」
「即答になったな」
「何が?」
「前だったら三秒くらい考えてた」
「そんなに?」
「もっとかも」
湊は笑う。
悠真は少し考えたが、否定する材料がなかった。
「栞は?」
「まだ途中」
「九条が途中で帰ってきたの?」
「どういう意味だよ」
「完成するまで帰らなそうだから」
「水瀬さんにも似たようなこと言われた」
「やっぱり」
湊は楽しそうだが、それ以上からかってはこなかった。
「続きも教えてもらうの?」
「そのつもり。予定はまだ決めてない」
「へえ」
悠真は次の書類へ手を伸ばした。
そのとき、机の上に伏せていたスマートフォンが震えた。
仕事中なら普段はすぐ見ない。
ただ、今は一段落したところだった。
画面を見る。
彩花からのメッセージ。
文化祭の一般公開日。
「……土曜か」
「何?」
「いや」
悠真は桜華の予定表を手元へ引き寄せた。
青葉高校の一般公開日と、自分たちの準備日程を照らし合わせる。
現時点では、大きな仕事は入っていない。
ただし今後変更される可能性はある。
「他校の文化祭?」
湊が日程表を覗かない距離から尋ねた。
「水瀬さんの学校」
「ああ」
それだけで通じた。
悠真は返信する。
行けるなら行きたい。
それは考えるまでもなかった。
彩花が毎日通っている学校を見てみたい。
文芸部の部室も。
書いている短編も。
彼女が学校でどんなふうに過ごしているのかも、少し気になる。
以前なら、そこから理由を細かく考えていたかもしれない。
なぜ見たいのか。
なぜ気になるのか。
友達なら普通なのか。
けれど今は、そこまで考える必要を感じなかった。
見たいから、見たい。
予定が合えば行く。
それでいい。
「行けそう?」
湊が聞く。
「今の予定なら」
「じゃあ行けば?」
「うん」
悠真は日程表の該当日に、小さく印を付けた。
確定ではない。
生徒会の仕事が入れば、そちらを優先しなければならない。
それでも、予定を空けておくくらいはできる。
再びスマートフォンを見る。
『じゃあ、来られたら案内するね。』
その次。
『文芸部も見てほしい。』
悠真の口元が少し緩んだ。
「九条」
「何?」
「顔」
湊が自分の頬を指す。
「何」
「いや。別に」
「絶対何かあるだろ」
「楽しそうで何より」
悠真は一瞬黙り、それからスマートフォンを伏せた。
「楽しみだから」
「うん。そういうところ」
「だから何なんだよ」
湊は答えず、次のファイルを開いた。
悠真も仕事へ戻る。
ただ、先ほどまでただの空欄だった予定表の一日が、少しだけ違って見えた。
◇
翌日の昼休み。
彩花は教室の自分の席で、紗月が作った弁当を食べていた。
窓の外は曇っている。
朝から雨が降りそうで降らない空が続いており、湿気のせいで教室の中も少し蒸し暑かった。
「水瀬」
前の席を借りて座った大地が、購買の焼きそばパンを開けながら声をかけてくる。
「何?」
「昨日の九条君」
「昨日の?」
「文化祭の日程教えるって言ってたじゃん。教えた?」
「うん」
「来るって?」
「まだ分からないよ。向こうも文化祭の準備あるし」
「桜華も忙しそうだな」
「生徒会だから余計にね」
「九条君、生徒会なの?」
「うん」
「へえ。何かすげえな」
大地は感心しながら焼きそばパンを一口食べた。
「金持ちで生徒会って、漫画みたい」
「そういう言い方しないの」
「ごめん」
反省が早い。
彩花は卵焼きを箸で半分に切る。
「でも九条君、そういうの気にしないと思うよ」
「金持ちって言われるの?」
「そこじゃなくて」
「じゃあどこ?」
「……もういい」
説明するのが面倒になった。
大地も深追いせず、パンを食べる。
しばらくして、昨日のことを思い出したように口を開いた。
「そういや俺、昨日変なこと言った?」
「変なこと?」
「呼び方の話。何か水瀬、固まってたから」
「ああ……」
忘れてはいなかった。
むしろ、昨日からときどき思い出している。
琴葉さん。
九条君。
「変ではないよ。言われたことなかったから、ちょっと考えただけ」
「別に名字でいいと思うけどな」
「じゃあ何で言ったの?」
「兄妹なのに片方名字で片方名前だから、珍しいなって思っただけ」
本当にそれだけらしい。
大地は焼きそばパンの袋を畳みながら続ける。
「俺も中学からの友達、名字のままのやついるし。呼び方なんて変えるタイミング分かんないよな」
「……それは分かる」
「急に今日から名前な、って言うのも変だし」
「そうなんだよね」
思わず同意すると、大地が笑った。
「水瀬も気にしてたんじゃん」
「田辺君が言ったからでしょう」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「半分も?」
「責任取って」
「どうやって?」
「知らない」
二人で笑う。
そこで会話は終わった。
大地は別のクラスメイトに呼ばれ、自分の席へ戻っていく。
彩花は残っていた卵焼きを食べながら、窓の外へ目を向けた。
呼び方を変えたいわけではない。
九条君は、九条君だ。
最初に図書館で名前を知った日から、ずっとそう呼んできた。
今では口にするのに何の迷いもない。
むしろ「悠真君」と呼ぶ自分を想像しようとすると、妙に落ち着かなかった。
(……無理かも)
頭の中で一度だけ試してみる。
(悠真君)
自分で考えただけなのに、頬が熱くなった。
(いやいやいや、何で?)
慌てて麦茶を飲む。
ただ名前を呼んだだけだ。
しかも実際には声にも出していない。
それなのに、普段の「九条君」とはまるで違う。
距離が一気に近くなるような。
今まで開けていた扉を、勝手に一枚越えるような。
そんな感覚がした。
「水瀬、暑い?」
近くの女子が尋ねた。
「え?」
「顔ちょっと赤いよ」
「暑い。今日、蒸してるから」
「分かる。雨降るなら早く降ってほしいよね」
「ね」
どうにか誤魔化し、彩花は麦茶をもう一口飲んだ。
冷たい。
少しだけ落ち着く。
(別に、変えなくていいんだし)
悠真から何か言われたわけでもない。
自分も困っていない。
だから今まで通りでいい。
そう結論を出したところで、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。
◇
放課後、彩花は文芸部へ向かう前に廊下の掲示板で足を止めた。
文化祭の一般公開についてのポスターが貼られている。
昨日まではなかったものだ。
開催日。
受付時間。
校内案内。
まだ仮の部分もあるが、文化祭が少しずつ近づいていることが分かる。
通りかかった生徒たちも、「今年何やる?」「去年より人来るかな」と話しながらポスターを見ていた。
彩花も少し離れたところから眺める。
昨日、悠真へ送った日付と同じものが大きく書かれている。
(来られるかな)
自然に思った。
来られなかったとしても仕方がない。
桜華の予定がある。
生徒会の仕事もある。
それでも。
(来てくれたら、嬉しいな)
今度は、頭に浮かんだ言葉を打ち消さなかった。
文芸部を見てほしい。
自分の書いたものも、完成したら読んでほしい。
青葉高校にいる自分も、少し見てほしい。
そこまで考えてから、彩花は掲示板を離れた。
階段を上がる。
部室へ向かう廊下には、斜めから夕方の光が差し込んでいた。
文化祭準備のためか、あちこちの教室から普段より賑やかな声が聞こえる。
文芸部室へ入ると、先に来ていた部長が顔を上げた。
「水瀬さん、ちょうどよかった」
「はい?」
「昨日の一般公開の案内、少し追加あるって。外部の人向けの校内マップも作るみたいだから、文芸部の紹介文、誰か書いてくれない?」
「紹介文ですか?」
「百文字くらい」
「それなら」
彩花はバッグを置いた。
「やります」
「助かる」
部長から用紙を受け取る。
自分たちの部活を、外から来る人へ紹介する文章。
何を書こう。
部誌。
おすすめ本。
短編展示。
感想カード。
机へ座り、鉛筆を持つ。
最初に浮かんだ文章を書いてみる。
『文芸部では、部員が書いた短編小説やおすすめ本の紹介を展示しています。』
ここまでは普通だ。
その先を少し考える。
どんな人に来てほしいか。
本が好きな人。
小説を書く人。
普段あまり本を読まない人でもいい。
悠真なら、たぶん来てくれる。
自分の短編を探してくれるかもしれない。
そこまで考え、彩花は少しだけ笑った。
「水瀬さん、何か思いついた?」
部長に尋ねられる。
「はい。たぶん」
彩花は再び用紙へ向かった。
文章を書く。
消す。
また書く。
今度は、昨日より迷わなかった。
◇
その日の帰り道。
青凪駅へ着いた彩花は、ホームで電車を待ちながらスマートフォンを確認した。
悠真からメッセージが一件届いている。
『文化祭の日、今のところ午前中なら空けられそう。まだ確定じゃないけど。』
彩花は画面を見つめた。
昨日は「行けるなら行きたい」。
今日は、もう予定を確認してくれている。
嬉しい。
今度は、その言葉がすぐに浮かんだ。
『分かった。無理しないでね。』
そこまで打ち、少し考える。
昨日も同じことを言った。
何度も「無理しなくていい」と言うのも、来てほしくないみたいに見えるかもしれない。
彩花は一度文章を消した。
『分かった。来られそうなら嬉しい。』
入力した指が止まる。
送っていいだろうか。
別におかしくない。
来てほしいと思っているのだから、そのまま言えばいい。
(……前なら消してたかも)
自分でそう思った。
重くないかな。
勘違いされないかな。
もっと無難な言い方があるんじゃないかな。
そんなことを考えて、結局「無理しないでね」だけにしていたかもしれない。
でも悠真は、自分が行きたいから予定を確認している。
なら彩花も、自分が嬉しいことくらい伝えていい。
送信した。
数秒。
既読がつく。
『俺も行けたら嬉しい。』
彩花の口元が自然に緩んだ。
そこでホームへ電車が入ってくる。
風が吹き、スカートの裾が揺れた。
スマートフォンをバッグへしまい、乗車口の列へ並ぶ。
名前の呼び方は、まだ変わらない。
九条君は九条君。
それで困っていない。
ただ、昨日まで一度も考えなかったことを、今日は少しだけ考えた。
いつか変わるのだろうか。
それとも、ずっとこのままなのだろうか。
答えは分からない。
今すぐ決めたいとも思わなかった。
電車の扉が開く。
彩花は乗り込み、空いていた席へ腰を下ろした。
窓の外では、夕方の青凪駅がゆっくり後ろへ流れていく。
膝の上のバッグには、書きかけの短編と、文化祭の一般公開案内が入っている。
その日程を、悠真はもう知っている。
来られるかもしれない。
自分が毎日過ごしている場所へ。
自分が書いたものを置く場所へ。
(来てくれたら、ちゃんと案内しよう)
文芸部。
教室。
よく使う階段。
昼休みに友達と話す場所。
全部を見せる必要はないけれど、悠真が知りたいと思ってくれるなら、自分も少し見てほしい。
そんなことを考えながら、彩花は窓へ目を向けた。
空にはようやく薄い雲の切れ間ができ、沈みかけた太陽の光が街の屋根を照らしている。
スマートフォンは、もう鳴らなかった。
それでも彩花は一度も画面を確認しなかった。
次に会う約束を今すぐ決めなくてもいい。
栞はまだ途中。
文化祭もまだ先。
呼び方も、今は変わらない。
それでも、少しずつ増えていくものはある。
彩花はそれを急いで数えようとはせず、流れていく夕方の街を静かに眺めていた。




