第30話 少しずつ形になって
生成りの布の上を、紺色の糸が少しずつ進んでいく。
市民交流センターの作業室へ来たばかりの頃は、一針ごとに手を止めていた悠真も、今では何度か続けて針を動かせるようになっていた。縫い目は完全に揃っているわけではない。最初の方には間隔の狭いところもあれば、反対に少し広くなったところもある。
それでも、始めたばかりの頃とは明らかに違っていた。
彩花は隣で余り布を縫いながら、ときどき悠真の手元へ目を向けていた。
ずっと見ている必要は、もうない。
針を持つ手にも余計な力が入らなくなってきたし、糸を引くときも勢い任せに引っ張らない。分からないところがあれば自分から聞いてくるので、彩花は必要なときだけ声をかければよかった。
最初は教える側の自分まで少し緊張していた。
琴葉へ裁縫を教えた経験はある。
けれど悠真は、琴葉とはまったく違う。
慎重で、一度教えたことをすぐ覚える。その一方で、細かいところへ意識が向きすぎると、途端に手が止まる。
だから全部を先回りして教えるより、まずやってもらった方がいい。
その加減も、少しずつ分かってきた。
「水瀬さん」
案の定、悠真の手が止まった。
「うん?」
「ここ、少し広くなった」
生成りの布をこちらへ傾けて見せてくる。
紺色の縫い目の一か所だけ、前後より間隔が広い。
けれど、言われなければ気にならない程度だった。
「大丈夫。そのまま進めていいよ」
「気にならない?」
「私は全然」
そう答えてから、彩花は少し考えた。
「九条君は?」
「……気になる」
「やっぱり」
「でも、さっきほどじゃない」
「じゃあ、そのまま最後まで縫ってみたら? 全部できてから見て、それでも気になるなら考えよう」
悠真はすぐには針を動かさなかった。
問題の一針をじっと見る。
その横顔には、ほどいてやり直したい気持ちが少しだけ残っているように見えた。
彩花は何も言わずに待った。
ここで「大丈夫だから」と重ねても、たぶん意味はない。
やるのは悠真だ。
残すか直すかも、本当は悠真が決めればいい。
数秒して、悠真が小さく息を吐いた。
「最後までやってみる」
「うん」
針が動き出した。
一針。
もう一針。
少し広くなった場所を越え、その先へ紺色の線が伸びていく。
彩花も自分の布へ視線を戻した。
作業室には、針が布を抜ける小さな音だけではなく、いくつもの生活音が混ざっている。
少し離れた長机では、親子が色紙を使って何かを作っていた。小学生くらいの男の子が、切り抜いた黄色い星を母親へ見せている。
「ここでいい?」
「うん。そこに貼ったら綺麗じゃない?」
抑えた声でそんな会話が聞こえる。
窓際では、編み物をしている女性が毛糸玉を足元の袋から取り出していた。編み棒が触れ合う、ごく小さな音もする。
誰も急いでいない。
それぞれが、自分の作っているものへ向き合っている。
彩花はこの空気が好きだった。
手芸店も好きだが、こうして誰かが何かを作っている場所も落ち着く。
完成する前のものが、いくつもある。
途中であることが当たり前の空間だ。
「……水瀬さん」
「今度はどうしたの?」
「いや」
悠真がこちらを見る。
「何か楽しそうだったから」
「私?」
「うん」
言われて、彩花は自分の口元へ触れた。
「笑ってた?」
「少し」
「全然気づかなかった」
「何考えてた?」
彩花は作業室を見回した。
「こういうところ、好きだなって思ってた」
「作業室?」
「うん。みんな違うもの作ってるでしょう?」
窓際の編み物。
奥の親子の工作。
自分たちの裁縫。
「まだ完成してないものばっかりなんだけど、それが普通なんだなって」
悠真も周囲を見た。
「言われてみればそうだな」
「お店だと完成品が並んでるけど、作ってる途中ってこんな感じなんだよ。布だけだったり、糸が途中だったり、失敗したところ直したり」
「水瀬さんもよく途中で止める?」
「止めるよ。時間なかったら次の日にするし、疲れたらやめるし。作り方分からなくなって、何日か放っておいたこともある」
「意外」
「何で?」
「最後まで一気にやりそうだから」
「そんな体力ないよ」
彩花は笑った。
「お菓子は途中で翌日にできないものも多いけど、裁縫は逃げないから」
「逃げない」
「布が勝手にどこか行ったりしないでしょう?」
「それはそうだけど」
「だから疲れたらやめる。次にまたやればいいし」
悠真は少し考えるように、自分の布へ視線を戻した。
それから再び針を動かし始める。
彩花も自分の余り布へ針を刺した。
会話が途切れる。
けれど気まずくはない。
図書館で並んで本を読んでいるときに似ていた。
相手が隣にいることは分かっている。
だからといって、ずっと話し続ける必要はない。
ときどきページをめくる代わりに、今日は針が布を通る。
紙の擦れる音の代わりに、糸を引く小さな音がする。
違う場所で、違うことをしている。
それでも、どこか同じだった。
◇
「できた」
悠真がそう言ったのは、それから十分ほど経ってからだった。
彩花は自分の針を止める。
「見せて」
差し出された生成りの布を受け取り、表と裏を確認する。
反対側の一辺が最後まで縫えていた。
最初の部分には少し不揃いなところがある。
けれど後半になるにつれて、目に見えて間隔が安定していた。
「うん。ちゃんとできてるよ」
「最初と全然違うな」
「後半、かなり慣れてる」
悠真は彩花の手の中にある布を覗き込む。
問題にしていた広い一針も、その中にある。
「さっきのところ、分かる?」
彩花が聞く。
「分かる」
「やっぱり?」
「自分で縫ったから」
そう言いながらも、悠真はほどこうとはしなかった。
彩花は少しだけ待つ。
「直す?」
今度は、あえて自分から聞いた。
悠真は布全体を見る。
最初の一針。
間隔が狭いところ。
少し広くなったところ。
後半の整ってきた線。
全部をしばらく眺めたあと、首を横に振った。
「このままでいい」
「うん」
「ここだけ直したら、そこだけ綺麗になるし」
「そうだね」
「それに」
悠真が最初の方を指した。
「最初のこれがあって、こっちになったんだろ?」
最後の数針。
確かに、同じ人が同じ日に縫ったとは思えないくらい違う。
「だったら残しておく」
彩花は自然に笑った。
「いいと思う」
それ以上は言わなかった。
失敗も思い出になる。
最初から上手くなくてもいい。
そんな言葉を足さなくても、悠真は自分で決めた。
それが少し嬉しかった。
「じゃあ次、どうする?」
「ちょっと待ってね」
彩花は布を机へ広げた。
細長い生成りの布。
両側に入った紺色の縫い目。
上部には、深緑のコードを付ける予定の部分が残っている。
ここまで来ると、最初よりずっと栞らしく見える。
「次は端を整えて、ここを処理してからコードを付ける」
彩花が指先で順番に示す。
悠真も顔を近づけて確認する。
「コードってどうやって付ける?」
「そこも縫うよ。ただ、ちょっと細かいから――」
言いながら、彩花は壁の時計を見た。
四時を少し回っている。
まだ作業室を使える時間はある。
けれど。
隣を見る。
悠真は無意識なのか、右手を一度開いてから握り直していた。
「九条君、手疲れてるでしょう?」
「え?」
「さっきから何回かやってる」
彩花が同じ動きを真似すると、悠真は自分の手を見た。
「……ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「正直に言うと、思ってたより疲れた」
「やっぱり」
「痛いわけじゃないんだけど、変なところ使った感じする」
「初めてだからね。ずっと手元も見てたし」
彩花は布を持ち上げ、もう一度時計を確認した。
「今日はここまでにしようか」
「まだ時間あるけど」
「あるけど、次のところ細かいから。疲れたままやって失敗するより、次にした方がいいよ」
悠真は少しだけ迷った。
机の上の布へ視線を落とす。
「途中で終わるの、ちょっと気になる?」
彩花が聞く。
「……さっきまでなら気になってたかも」
「今は?」
「次にやること分かってるから、そこまで」
「じゃあ今日は終わり」
「うん」
あっさり決まった。
彩花は裁縫箱から小さな透明袋を取り出す。
「途中のもの、まとめておこう」
「その袋、水瀬さんの?」
「予備。細かい材料入れるのに何枚か持ってるから使っていいよ」
「ありがとう」
悠真は生成りの布を持ち上げた。
そして、自然な動作で半分に折ろうとする。
「あ、待って」
彩花が止めた。
悠真の手がぴたりと止まる。
「何?」
「折らなくていいよ。跡ついちゃうから」
「でも袋に――」
「そのまま入るよ」
袋を広げて見せる。
悠真は布と袋を見比べた。
「本当だ」
「九条君、そこは気にしないんだね」
「何が?」
「縫い目はすごく気にするのに、布は普通に折ろうとしたから」
「知らないから」
「即答」
「知らないことは気にしようがないだろ?」
あまりにもっともな返事で、彩花は笑ってしまった。
「確かにそうだけど」
「だから教えてもらってるんだし」
「じゃあ覚えてください。こういう薄い布は、できれば折り目つけない」
「覚えた」
「本当かな」
「そこ疑う?」
「今日覚えることいっぱいあったから」
「針の持ち方、糸の通し方、玉結び、縫い方」
「あと布を折らない」
「今追加された」
悠真が指を折りながら確認する。
その様子を見て、彩花はまた笑った。
生成りの布を袋へ平らに入れる。
残った紺色の糸。
まだ使っていない深緑のコード。
それらも一緒に収めた。
「針はケースへ戻してね」
「それは覚えてる」
「よし」
「今ちょっと子ども扱いしてない?」
「してないよ」
「本当に?」
「……ちょっとだけ?」
「してるじゃん」
声を抑えながら二人で笑う。
悠真は針をケースへ戻し、糸切りばさみと指ぬきも紙袋へしまった。
彩花も自分の裁縫道具を片付ける。
糸を戻し、余り布をまとめ、針の本数を確認する。
「水瀬さんって、最後に針の数見るんだ」
「うん。一本なくなってたら危ないから」
「なるほど」
「家だと特にね。落ちてたら踏むかもしれないし」
「それは怖いな」
「だから最初に何本出したか覚えておくの」
悠真は自分のケースも確認した。
「俺も次からやる」
「そうして」
彩花は裁縫箱の蓋を閉じる。
その音が、今日の作業の終わりを知らせるように小さく響いた。
「水瀬さん」
「うん?」
「今日、分かりやすかった」
唐突に言われ、彩花は顔を上げた。
「何が?」
「説明。最初は針の持ち方も分からなかったけど、一個ずつやったらここまでできたから」
悠真が透明袋を見る。
その中には、途中まで形になった栞がある。
「そっか」
彩花は少しだけ照れた。
けれど、すぐに打ち消そうとは思わなかった。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい」
「次もお願いします」
「任せて」
それだけだった。
得意なのか。
向いているのか。
そんなことまで決めなくてもいい。
今日は悠真が少しずつできるようになって、自分もその時間を楽しめた。
それで十分だった。
◇
一階の受付へ利用終了を伝え、市民交流センターを出たのは四時十五分を少し回った頃だった。
建物の中に長くいたせいか、外へ出た瞬間、湿った空気が肌へまとわりつく。
「暑い」
彩花が思わず言う。
「中、涼しかったから余計に暑く感じるな」
「夕方なのにね」
六月も終わりに近づいている。
空にはまだ明るさが残っていたが、昼間ほど強い日差しではない。薄い雲の向こうから光が広がり、駅前の建物や道路を柔らかく照らしている。
歩道を行き交う人も多かった。
買い物袋を持った家族。
部活帰りらしい高校生。
自転車を押して歩く学生。
二人はその流れに混ざって駅へ向かう。
「手、大丈夫?」
彩花が聞く。
「少し疲れてるくらい」
悠真は紙袋を持っていない方の手を開閉した。
「明日になったら変なところ筋肉痛になってたりして」
「指って筋肉痛になるのかな」
「分からない」
「分からないのに言ったの?」
「九条君、最初すごく力入ってたから」
「怖いこと言わないでよ」
「大丈夫だと思う。たぶん」
「たぶん付いた」
悠真が苦笑する。
彩花も笑った。
「でも、本当に最初より力抜けてたよ」
「途中から持ちやすくなった」
「慣れたんだと思う」
「水瀬さんに手の位置直してもらってからかも」
その言葉で、彩花の頭に少し前の感触が戻った。
針を持つ悠真の指へ、自分から触れた。
親指の位置を動かして、人差し指の力を抜いて。
必要があったからしただけのことだ。
分かっている。
「……あれは、九条君が力入れすぎてたから」
「うん。分かってる」
悠真もそれ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ間ができる。
彩花は歩道の先へ視線を向けた。
横断歩道の信号はまだ青い。
「渡れそう」
「少し急ぐ?」
「走らなくても大丈夫じゃない?」
二人で歩調を少し速める。
ちょうど渡り切ったところで、背後の信号が点滅を始めた。
「ぎりぎり」
「走らなくて正解だったね」
「水瀬さん、荷物あるしな」
悠真の視線が彩花の大きめの布バッグへ向く。
「今日はそんなに重くないよ」
「本?」
「一冊だけ。あとは裁縫道具」
「古本市のときよりは軽いか」
「比べる相手が悪いよ。あの日は九冊買ったんだから」
「途中から俺も持ったけど、それでも重かったな」
「助かりました」
彩花が少し頭を下げる。
「どういたしまして」
それだけ交わして、また歩く。
古本市の話を長く振り返ることはなかった。
つい最近の出来事なのに、もう二人の間では説明し直す必要のない記憶になっている。
しばらくして、彩花の視線が悠真の紙袋へ向いた。
「それ、家で続きやらないでね」
悠真も紙袋を見る。
「信用ないな」
「九条君、一人で調べて進めそうだもん」
「……調べようとは少し思ってた」
「ほら」
「でもやらないよ」
「本当?」
「本当」
悠真は紙袋を軽く持ち上げた。
「せっかくここまで教えてもらったんだから、続きも水瀬さんに聞く」
「うん。その方がいいと思う。コード付けるところ、最初はちょっと分かりにくいし」
「それに、完成したら最初に見てもらいたいし」
彩花の歩調が、ほんの少しだけ緩んだ。
悠真もそれに合わせる。
「……私に?」
「教えてもらってるんだから」
「それは、そうだけど」
「変?」
「変じゃない」
変ではない。
理屈も分かる。
けれど「最初に見てもらいたい」という言い方は、どうして少しだけ胸の奥へ残るのだろう。
(九条君、こういうの普通に言うんだよなあ……)
本人は不思議そうな顔をしている。
きっと本当に、それ以上の意味は考えていない。
「じゃあ、ちゃんと最初に見る」
「うん」
「だから勝手に完成させないでね」
「そこに戻るんだ」
「大事だから」
「分かりました」
悠真が笑う。
彩花もつられて笑った。
◇
駅へ向かう途中、小さな公園の前で信号に捕まった。
遊具の周りにはまだ何組かの親子が残っている。
ベンチでは部活動帰りらしい中学生たちがペットボトルを片手に話し込み、少し離れたところでは犬を連れた男性がゆっくり歩いていた。
湿った風が通り抜ける。
彩花は額にかかった髪を耳へかけた。
「次、いつにする?」
悠真が尋ねる。
「栞の続き?」
「うん」
彩花はバッグからスマートフォンを出しかけた。
けれど、そこで手を止める。
「今日決めなくてもいいんじゃない?」
「そう?」
「九条君、来週の生徒会の予定まだ全部分からないでしょう?」
「月曜にならないと確定しないのがある」
「私も原稿進めたいし。空いてる日分かってからでいいよ」
「文化祭の短編?」
「うん。まだ途中だから」
「進んでる?」
「少しずつ。書いて消しても多いけど」
「前に言ってたな。登場人物が自分に似すぎたところ消したって」
「覚えてたの?」
「聞いたから」
さらりと返される。
彩花は少しだけ笑った。
「今はもうちょっと、その子自身の話になってきたと思う」
「読めるの楽しみにしてる」
「完成したらね」
「急かさないよ」
「ありがとう」
そこで信号が青へ変わった。
二人は人の流れに合わせて横断歩道を渡る。
「栞も原稿も途中か」
悠真が何気なく言った。
「そうだね」
「水瀬さん、途中のもの結構あるな」
「作ってれば普通だよ。全部一日で終わるわけじゃないし」
「今日ちょっと分かった」
「何が?」
「途中でも別に困らないってこと」
彩花は隣を見た。
悠真は前を向いたまま歩いている。
「栞、今日完成させた方がすっきりすると思ってたけど、今は次でいいかなって思ってる」
「疲れたから?」
「それもある」
「正直」
「でも、次にやること分かってるし。また続ければいいから」
「うん」
彩花はそれ以上言葉を足さなかった。
作業室で自分が何気なく言ったことを、悠真なりに受け取ったのだろう。
完成していない。
だから駄目なのではない。
ただ、まだ続きがある。
「玉結び忘れないでね」
彩花が言うと、悠真がこちらを見る。
「そこ?」
「大事でしょう?」
「忘れたら?」
「もう一回教える」
「じゃあ安心した」
「最初から忘れる気にならないでよ」
「覚えておくよ」
二人は笑いながら駅前へ入った。
◇
改札前は、夕方らしい人の多さだった。
待ち合わせをしている人。
改札から出てきた家族。
制服姿の学生たち。
電光掲示板を見上げると、彩花が乗る電車までは十分ほどある。
「九条君は?」
「俺も十五分くらい」
「じゃあ、今日はここまでだね」
「うん」
言ってから、彩花は悠真の紙袋を見る。
「栞、潰さないようにね」
「ちゃんと持って帰る」
「布も折らない」
「覚えてる」
「針も――」
「ケースに入ってる」
先回りされ、彩花は口を閉じた。
悠真が笑う。
「他は?」
「……ないです」
「確認終わり?」
「終わり」
「今ちょっと琴葉みたいだった」
「琴葉さん?」
「俺が出かけるとき、忘れ物ないか妙に確認するから」
「しっかりしてるもんね」
「水瀬さんも結構似てる」
「今日は私が道具持ってきた側だから気になるだけだよ」
「分かってる」
悠真は紙袋を持ち直した。
「ちゃんと持って帰るから大丈夫」
「うん」
改札の向こうから、到着する電車についての放送が流れる。
まだ少し時間はある。
それでも、ここで長く引き留める理由もなかった。
「今日はありがとう」
悠真が先に言った。
「こちらこそ」
彩花は一度頷く。
そして、自然に続けた。
「楽しかった」
口にしてから、自分でも少しだけ驚いた。
ちゃんと教えられてよかった。
ここまで作れてよかった。
そういう言葉ではなく。
ただ、楽しかった。
悠真も一瞬だけ目を細めた。
「俺も」
「裁縫が?」
「それもある」
「それも?」
「水瀬さんと一緒にやったのが」
彩花の目が、少しだけ大きくなる。
悠真は言ってから何かおかしいと思ったのか、わずかに首を傾げた。
「……何?」
「ううん」
何でもない。
何でもないはずなのに。
胸の奥に小さなものが落ちたような感覚だけが残る。
「私も、一人で縫うのとは違って楽しかったよ」
彩花はそう返した。
それなら、嘘ではない。
悠真へ教える。
失敗を見て笑う。
できたところを一緒に確認する。
一人で裁縫をするときにはない時間だった。
「じゃあ次も」
悠真が言う。
「うん。続きね」
彩花は笑った。
そこでちょうど、ホームへ向かう人が増え始めた。
「そろそろ行く」
「気をつけて」
「九条君も」
彩花は改札へ向かう。
二歩。
三歩。
そこで一度だけ振り返った。
「九条君」
「何?」
「……やっぱり、家で触らないでね」
悠真が一瞬黙る。
そのあと、声を抑えて笑った。
「最後までそれ?」
「念のため」
「分かった。触りません」
「ならよし」
彩花も笑い、今度こそ改札を通った。
◇
電車の中は、座席が半分ほど埋まっていた。
彩花は窓際の席へ座り、膝の上へ布バッグを置く。
発車すると、青凪駅のホームがゆっくり後ろへ流れていった。
今日は長かったような、短かったような気がする。
手芸店へ行った。
糸を選んだ。
深緑のコードも選んだ。
自分は予定になかった淡い青の花柄布を買った。
交流センターへ移動して、悠真に針の持ち方から教えた。
指が触れた。
それを二人とも意識した。
けれど、そのあとも普通に続きをした。
今になって思い返すと、少しだけ頬が熱くなる。
(……あそこだけ思い出さなくていいのに)
窓へ顔を向ける。
夕方の街が流れていく。
それよりも、悠真が少しずつ縫えるようになったことの方が印象に残っていた。
最初は糸を通すだけで苦戦していた。
玉結びも上手くいかなかった。
縫い目の間隔を気にしていた。
それが最後には、自分で「このままでいい」と決めた。
(九条君、何でもできる人だと思ってたな)
初めて会った頃の印象を思い出す。
落ち着いていて。
親切で。
何をしても困らなさそうな人。
けれど、実際は違った。
針へ糸を通せない。
布を普通に折ろうとする。
指を刺す。
知らないことは知らない。
できないこともある。
そのことが、なぜか嬉しかった。
完璧ではないから安心する、というだけではない。
自分の知っていることを、悠真が知らない。
だから自分が教えられる。
今までとは逆だった。
図書館の高い棚では、悠真に本を取ってもらった。
古本市では重い本を持ってもらった。
知らないことを聞いたこともある。
今日は自分が隣で、彼の手元を見ていた。
どちらかだけが助けるのではない。
できる方が、そのときできることをする。
それくらいの関係が、彩花には心地よかった。
電車が次の駅へ滑り込む。
人が何人か降り、また何人か乗ってきた。
彩花はバッグを少し抱え直す。
中には、自分の裁縫箱がある。
そして家の机には置くことになる、今日買った花柄の布。
(何作ろうかな)
考えると、少し楽しくなった。
◇
「ただいま」
玄関を開けると、奥から紗月の声が返ってきた。
「おかえりー」
靴を脱いでリビングへ入る。
紗月はソファで洗濯物を畳んでいた。
「どうだった?」
「楽しかったよ」
彩花はバッグを下ろす。
「九条君、ちゃんと縫えた」
「あら。完成したの?」
「まだ。途中まで」
「そうなのね」
紗月はそれ以上深く聞かず、タオルを畳んだ。
「初めてなら疲れたでしょうね」
「結構集中してた。最後の方は上手くなってたよ」
話しているうちに、自然と笑みが出る。
紗月はそれを見たが、何もからかわなかった。
「彩花も疲れたでしょう。お茶あるわよ」
「飲む」
「冷蔵庫。レモンのやつ」
「ありがとう」
彩花が冷蔵庫へ向かうと、廊下から足音がした。
部活から帰っていた凛花がリビングへ顔を出す。
「おかえり」
「ただいま」
「裁縫、どうだった?」
「途中までできたよ。九条君、思ってたよりちゃんと縫えてた」
「思ってたより?」
「もっと最初から綺麗にやるかと思ってた」
凛花が少し笑った。
「初心者なんだから無理でしょ」
「そうなんだけど。九条君って何でもできそうに見えるから」
「見えるだけじゃない?」
「お姉ちゃんが言う?」
「私は九条君の裁縫なんて知らないもの」
「それもそうだね」
彩花は冷蔵庫からレモンティーを取り出した。
「でも、最初より最後の方がすごく綺麗になってたよ」
自分のことではないのに、少し誇らしい。
凛花はそんな妹の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「楽しそうね」
「うん。楽しかった」
彩花は今度も迷わず答えた。
「続きも今度やる」
「そう」
凛花はそれだけ言った。
胸の内で何を考えているのか、彩花には分からない。
けれど止められなかった。
警戒するとも言われなかった。
それが今は自然になっている。
「そうだ。布も買ったの」
「九条君の?」
「違うよ。私の」
バッグから手芸店の小袋を取り出し、淡い青の花柄布を見せる。
凛花が手に取った。
「彩花っぽい」
「九条君にも同じこと言われた」
口にしたあと、彩花は一瞬止まった。
凛花の眉がわずかに動く。
「九条君が選んだの?」
「選んだっていうか、見つけて『水瀬さん好きそう』って。見たら本当に好きだったから買ったの」
「……へえ」
「何、その顔」
「別に」
凛花は布を返した。
表情はいつも通り落ち着いている。
(妹の好みまで分かるようになってるのね、九条悠真……)
胸の内では少しだけ複雑だったが、口にはしなかった。
「何作るの?」
「まだ決めてない。ブックカバーもいいかなって」
「できたら見せて」
「うん」
彩花は布を受け取る。
紗月が洗濯物を畳みながら、こちらを見た。
「それ、可愛いじゃない」
「でしょう?」
今度は彩花が少し嬉しそうに答えた。
◇
夜。
夕食と入浴を終えた彩花は、自室の机へ文芸部の原稿を広げた。
文化祭へ向けた短編は、まだ途中だ。
知らない者同士だった二人が少しずつ言葉を交わし、友人になり、そのあとも関係を続けていく話。
以前、一度書いて消した文章の跡が残っている。
現実の自分と似すぎていると思った部分だ。
彩花はそこを読み返し、少しだけ考えたあと、消した文章を戻すことはしなかった。
代わりに、その先を書く。
物語の中の二人には、二人の事情がある。
自分とは違う場所に住んでいる。
好きなものも違う。
出会い方も違う。
だったら、その人たちが選ぶ言葉を書けばいい。
鉛筆が紙の上を走る。
数行。
また数行。
途中で一度手を止めた。
机の端には、淡い青の花柄布が置いてある。
「……やっぱりブックカバーかな」
文庫本を一冊取り出し、布の上へ置いてみる。
大きさを確かめる。
柄の出方も悪くない。
けれど、まだ切らない。
何を作るか決めてからでいい。
今日、悠真へ言ったのと同じだ。
急がなくても、布は逃げない。
彩花は文庫本を戻した。
そのとき、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『無事持って帰った。触ってない。』
彩花は思わず吹き出した。
駅で何度も念を押したせいだ。
『確認しました。えらい。』
送る。
すぐに既読がつく。
『子ども扱いされてない?』
『してないよ。』
『本当に?』
彩花は少し考えた。
『たぶん。』
送信する。
数秒後。
『たぶんなんだ。』
「ふふっ」
一人なのに笑ってしまう。
そのあと、少し間が空いた。
『今日はありがとう。』
短いメッセージ。
彩花は画面を見ながら、駅で交わした言葉を思い出す。
『どういたしまして。私も楽しかったよ。』
送った。
返事はすぐに届いた。
『俺も。』
それだけ。
次の予定は決めない。
栞について細かく話し直すこともしない。
それでも、今日一日がそこで綺麗に終わったように感じた。
彩花はスマートフォンを伏せた。
続きを待つ必要はない。
机の上には書きかけの物語がある。
隣には、まだ何になるか決まっていない布がある。
どちらも途中。
でも、それでいい。
彩花は鉛筆を持ち直した。
◇
同じ頃。
九条家の自室では、悠真が机の上へ透明袋を置いていた。
中には、途中まで縫った生成りの布が入っている。
紺色の糸。
まだ付けていない深緑のコード。
最初の一辺には、不揃いな縫い目が残っている。
反対側は、それより少し整っていた。
悠真は椅子へ座り、しばらく袋越しに眺める。
やはり最初の部分は気になる。
少し狭い。
少し広い。
自分で縫ったからこそ、どこが気に入らないのかも分かる。
それでも、ほどきたいとは思わなかった。
『最初のこれがあって、こっちになったんだろ?』
作業室で自分が口にした言葉を思い出す。
あのときは、考えて出した言葉ではなかった。
ただ見比べて、そう思った。
できなかったところを消してしまえば、綺麗にはなる。
けれど、自分がそこから始めたことも見えなくなる。
「……このままでいいな」
もう一度、小さく呟く。
袋は開けない。
続きを調べることもしない。
スマートフォンを使えば、コードの付け方くらいすぐに出てくるだろう。
動画だってあるはずだ。
それでも、検索画面を開こうとは思わなかった。
次に彩花へ聞けばいい。
彼女が隣で「そこはこう」と言うのを聞きながら続きをやる。
その方がいいと思った。
机の上には読みかけの本がある。
悠真はそれを手に取った。
ページの間には、市販の薄い紙製の栞が挟まっている。
何年も使っているものではない。
書店でもらった、ごく普通の栞だ。
完成したら、入れ替える。
生成りの布。
紺色の糸。
深緑のコード。
少し不揃いな縫い目。
自分で作ったものを、本の間に挟む。
その光景を想像する。
少し楽しみだった。
悠真は今使っている栞を抜き、本を読み始めた。
数ページ進んだところで、机の端の透明袋が視界へ入る。
けれど、もう手は伸ばさなかった。
今日のところは、ここまで。
完成していない。
次に続きを作る日も決まっていない。
それでも、何も困らない。
続きをやるつもりがあるなら、途中は終わりではない。
悠真は本へ視線を戻した。
ページを一枚めくる。
静かな部屋に、紙の擦れる音だけが小さく響いた。




