↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/100

第29話 最初の一針

「まず、針持ってみて」


 彩花がそう言うと、悠真は小さな針を慎重につまみ上げた。


「こう?」


「うん。持ち方に決まりがあるわけじゃないから、自分が扱いやすければ大丈夫。今は糸を通すところからね」


 土曜日の午後、市民交流センター二階の作業室には穏やかな時間が流れていた。


 窓から入る光は少しずつ傾き始めているものの、まだ夕方と呼ぶには早い。窓際では二人の女性が編み物を続け、少し離れた長机では親子が色紙を切っている。紙を擦る音、はさみを動かす音、ときおり交わされる小さな会話が広い部屋の中で柔らかく混ざっていた。


 彩花と悠真が使っている机の上には、切り終えた生成りの布と紺色の糸、深緑のコードが並んでいる。


 栞としての形が見えるのは、まだずっと先だった。


「糸の先を持って、針穴に通すんだけど……九条君、やったことない?」


「小学校の家庭科でボタン付けくらいはやったはずなんだけど、ほとんど覚えてない」


「じゃあ初めてくらいのつもりでやろうか」


「その方がいいと思う」


 悠真は針穴へ糸を近づけた。


 一度目。


 糸の先が、わずかに横へ逸れる。


 二度目。


 今度は針穴の直前で糸が折れた。


 悠真の眉間に、ごく薄く皺が寄る。


 彩花はその横顔を見て、思わず口元を緩めた。


「今、笑った?」


「笑ってないよ」


「絶対笑った」


「だって九条君、すごく真剣なんだもん」


「入らないからな」


「まだ二回しかやってないでしょう?」


「二回とも失敗した」


「そういう数え方しなくていいの」


 悠真は三度目に挑戦する。


 しかし、今度も糸の先がわずかにずれた。


 目の前の小さな針穴を見つめる表情は、生徒会で書類を確認しているときよりも真剣なのではないかと思えるほどだった。


「貸して」


 彩花が手を差し出す。


 悠真は少し迷ってから、針と糸を渡した。


「糸の先がちょっとほつれてるでしょう? こうなったら一回切った方が通しやすいの」


 彩花は糸切りばさみで先端をほんの少し切り落とす。


「それから、糸を動かすより針を近づける感じにしてもいいよ。人によってやりやすい方法違うから」


「水瀬さんは?」


「私はこうかな」


 彩花は糸を指先で整え、針穴へ通した。


 ほとんど迷いのない動きだった。


「……早い」


「慣れてるからね」


「もう一回やって」


「いいよ」


 一度通した糸を抜き、今度は悠真から見えやすいよう、少しゆっくり動かす。


 針を持つ指。


 糸の先。


 目線。


 どこへ合わせているのかを説明しながら、もう一度通す。


「こんな感じ。最初は時間かかっても大丈夫だから」


「分かった。もう一回やる」


 悠真は針を受け取った。


 今度は彩花が教えた通り、ほつれのない糸先を持ち、針の方をゆっくり近づけていく。


 数秒後。


「あ」


 紺色の糸が、小さな針穴を抜けた。


「通った」


「うん。できたね」


 彩花が笑う。


 ただ糸を通しただけなのに、悠真はしばらく針を見ていた。


「思ったより嬉しいな」


「まだ糸通しただけだよ?」


「だからだろ。できなかったことができたんだから」


 その言葉を聞いて、彩花は少しだけ目を細めた。


「九条君、そういうところいいね」


「どういうところ?」


「小さいことでも、できたらちゃんと喜ぶところ」


「そうかな」


「うん。最初からできて当然って思ってる人なのかなって、前はちょっと思ってた」


「俺が?」


「桜華学園で、生徒会やってて、勉強もできて……初めて会った頃は、何でもできそうに見えたから」


 言いながら、彩花は初めて悠真と出会った日のことを思い出した。


 図書館の高い棚。


 届かなかった一冊。


 横から伸びてきた手。


 あのときは名前すら知らなかった。


 何となく育ちが良さそうで、落ち着いていて、親切な人。


 それだけだった。


「実際はできないこと、結構あるよ」


 悠真が苦笑する。


「裁縫もそうだし。料理だって水瀬さんほどできない。琴葉に負けてることもあるし、凛花先輩みたいに剣道できるわけでもない」


「それは比べる相手が悪くない?」


「水瀬さんが言う?」


「……確かに」


 二人で笑った。


 以前の自分なら、そこで姉の名前が出た瞬間に胸の奥が少しだけざわついていたかもしれない。


 凛花は剣道もできる。


 勉強もできる。


 自分よりずっと。


 けれど今は、悠真が凛花の剣道を褒めたからといって、自分の裁縫が消えるわけではないと分かる。


「じゃあ次、玉結びね」


 彩花は自然に話を戻した。


「これも覚えてない?」


「全然」


「じゃあ見せるよ」


 自分の裁縫箱から別の糸を取り出し、指へ巻きつける。


「糸を指に一周させて、ここで少しねじるの。それから――」


 説明しながら指先を動かす。


 悠真は黙って見ていた。


「最後に引っ張ると、ここに結び目ができる」


「なるほど」


「やってみる?」


「やる」


 悠真は自分の糸を指へ巻いた。


 だが、最初の一回は結び目が途中にできた。


「……位置が違う」


「うん。でも結べてるから最初はそんな感じ」


「やり直していい?」


「これはいいよ。まだ縫ってないから」


 悠真は一度糸を外し、もう一度。


 今度は指に巻く方向が逆になった。


「水瀬さん」


「うん?」


「これ、思ったより難しい」


「でしょう?」


 なぜか少し得意げな気持ちになる。


「簡単そうに見えてた?」


「見えてた。水瀬さんが簡単そうにやるから」


「慣れてるだけだよ。私も最初は全然できなかったから」


「いつからやってるの?」


「ちゃんとやり始めたのは小学生くらいかな。もっと小さい頃から、お母さんが縫い物してるのを横で見たりはしてたけど」


 彩花は悠真の手元を見ながら、昔を思い出す。


 初めて自分で針を持った日のことまでは覚えていない。


 けれど、布を縫い合わせて何かが形になることが好きだった。


 最初は真っ直ぐ縫えなかった。


 糸が絡まったこともある。


 指を刺して泣いたこともある。


 それでも嫌いにはならなかった。


「最初に作ったものって覚えてる?」


「うーん……学校以外なら、小さい巾着だったと思う。すごく曲がってたけど」


「まだある?」


「たぶん家のどこかに。お母さんが取ってあるかも」


「見てみたい」


「嫌だよ」


 彩花はすぐに首を振った。


「何で?」


「本当に下手だから。縫い目もばらばらだし、紐を通すところも片方狭くなってたし」


「今の水瀬さんしか知らないから、逆に見てみたい」


「絶対笑うでしょう?」


「笑わないよ」


「九条君、たまに顔に出るから信用できない」


「そんなに?」


「最近はちょっと分かる」


 手芸店でも似た話をした。


 悠真が自分の好みを少し分かるようになった。


 自分も悠真の表情を以前より読めるようになった。


 それは何か大きな出来事があったからではない。


 図書館で話した時間。


 メッセージ。


 古本市。


 何度も交わした会話。


 小さな積み重ねの結果なのだろう。


「じゃあ笑わないって約束する」


「それでも見せるとは言ってないよ」


「交渉は続ける」


「そんなに見たいの?」


「水瀬さんにも下手だった頃があるって分かれば、俺も安心するから」


「そういう理由?」


「半分は」


「残り半分は?」


 悠真は少し考えた。


「昔の水瀬さんが作ったものに興味ある」


 彩花は瞬きをした。


「……そういうことさらっと言うよね、九条君」


「変だった?」


「変じゃないけど」


 変ではない。


 ただ、少しくすぐったい。


 自分が好きなもの。


 昔作ったもの。


 今までの自分。


 悠真はそういうものを知りたがる。


「見つかったら考える」


「分かった」


「見せるとは言ってないからね」


「考えてくれるなら十分」


 それ以上押してこないところも、悠真らしい。


 彩花は小さく息をつき、悠真の手元へ視線を戻した。


「それより玉結び。今度はできそう?」


「やってみる」


 悠真は三度目の挑戦を始めた。


 今度は指へ巻く方向を確認し、ゆっくり糸をねじり、最後まで引く。


 糸の端に小さな結び目ができた。


「できた」


「うん。今度はちゃんと端にできてる」


「これで縫える?」


「縫えるよ」


 悠真の表情が少し明るくなる。


 いよいよ最初の一針だった。


     ◇


「最初は並縫いでいいよ」


 彩花は自分の布を使い、悠真から見えやすい位置で針を動かした。


「表から刺して、裏から出す。それを同じくらいの間隔で繰り返すの。最初から細かくしすぎなくていいからね」


「何ミリくらい?」


「九条君が聞くと思ったから、今日は五ミリくらいで」


「全部五ミリ?」


「目安。定規で一針ずつ測ったら怒るよ」


「やろうと思ってない」


「一瞬考えなかった?」


「……少しだけ」


「やっぱり」


 彩花は笑いながら見本を見せる。


 布の表と裏を針が行き来し、紺色の糸が短い線を作っていく。


 悠真はその動きをじっと見つめていた。


「水瀬さん、速いな」


「これはゆっくりやってるよ」


「これで?」


「普段はもう少し速いかな」


「……すごい」


 その一言が思った以上に真っ直ぐで、彩花は少し照れた。


「長くやってるから」


「長くやってても、できない人はできないだろ」


「そうかもしれないけど……」


 以前なら、ここで褒め言葉を小さくしようとしていただろう。


 誰でもできる。


 大したことではない。


 そんな言葉を足して。


 けれど今日は、その代わりに一度だけ頷いた。


「ありがとう」


 悠真が微笑む。


「じゃあ俺もやってみる」


「うん。最初の位置はここね」


 悠真は生成りの布を持ち、針先を当てる。


 ゆっくりと押す。


 針が布を抜け、裏側へ出た。


「そのまま糸を引いて」


「全部?」


「玉結びが布に当たるところまで」


 悠真が糸を引く。


 紺色の糸がするすると布を通り、最後に小さな結び目が裏側で止まった。


「……入った」


「最初の一針だね」


 彩花が言う。


 悠真は布を持ったまま、しばらくその一針を見ていた。


「これ、結構嬉しいな」


「さっき糸通したときも言ってたよ」


「今度は本当に栞を作り始めた感じがする」


 たった一本。


 生成りの布に、短い紺色の線ができただけ。


 けれど、それは確かに最初の一針だった。


「じゃあ、次も同じくらいの間隔で」


「ここ?」


「うん。もう少し先でも大丈夫」


「五ミリくらい?」


「だいたいでいいって」


 悠真が二針目を進める。


 三針目。


 四針目。


 最初のうちは一針ごとに手が止まっていたが、少しずつ動きが続くようになった。


 彩花はすぐに口を出さず、横から見守る。


 すると六針目あたりで、明らかに間隔が狭くなった。


 悠真も気づいたらしい。


 手が止まる。


「水瀬さん」


「うん」


「ここだけ狭い」


「そうだね」


「やり直した方が――」


「そのまま」


 彩花は即答した。


「でも、ここだけ三ミリくらいしかない」


「測ってないのに分かるの?」


「見れば分かる」


「じゃあ測らなくても気にしてるじゃない」


「そこじゃないの」


 彩花は笑いを堪えながら、悠真が縫った部分を指で示す。


「これくらいなら全然問題ないよ。むしろ最初の栞なんだから、少しくらい揃ってない方が後で見たとき分かりやすいでしょう?」


「何が?」


「初めて作ったってことが」


 悠真は布を見る。


 紺色の縫い目は、確かに完全には揃っていない。


「……そういう考え方もあるのか」


「私は好きだよ。最初から全部綺麗じゃなくても」


「水瀬さんの最初の巾着も?」


「それは別」


「何で?」


「私のは本当にひどいから」


「余計見たくなった」


「九条君」


 二人の声が重なり、また笑う。


 少し離れた場所にいた編み物の女性たちも、こちらを気にする様子はなく、それぞれの作業を続けている。


 彩花は悠真の縫い目へもう一度目を向けた。


「でも、本当に上手だよ。初めてにしては」


「本当?」


「本当。力を入れすぎてないから布も寄ってないし」


「それならよかった」


「ただし」


 彩花が悠真の右手を見る。


「針を持つ手、ちょっと固くなってる。力抜いた方が疲れないよ」


「こう?」


「もう少し」


 悠真が手を開いたり閉じたりする。


 それでも上手く力が抜けないらしい。


 彩花はどう説明するか考え、同じように針を持って見せる。


「ぎゅっと握らなくていいの。落とさないくらいで――」


 言葉だけでは伝わりにくい。


 悠真も自分の指を見ながら首を傾げる。


「俺、そんなに力入ってる?」


「入ってる。ほら、親指のところ白くなってるでしょう?」


「本当だ」


「だから――」


 彩花は悠真の手元へ自分の手を伸ばしかけ、途中で止まった。


 さっき指が触れただけで、二人とも妙に意識してしまったことを思い出したからだ。


 悠真も、その動きに気づいたらしい。


「触って直した方が分かりやすい?」


 先に聞かれた。


「……たぶん」


「じゃあお願い」


 あまりにも素直に言われ、彩花の方が少し困る。


「いいの?」


「水瀬さんが嫌じゃなければ」


「私は大丈夫だけど」


 それなら、と彩花は悠真の指先へそっと触れた。


「親指、ここまで力入れなくていいよ。人差し指も、もう少し軽く」


 悠真の親指の位置を少し動かし、人差し指との間を緩める。


 ほんの数秒。


 それだけのことなのに、さっき偶然触れたときとは違った。


 今度は触れると分かった上で触れている。


 悠真の手は、自分より少し大きい。


 その事実が急に近く感じられ、彩花は必要なところだけ直すとすぐに手を離した。


「……こんな感じ」


「分かった。ありがとう」


 悠真は針を持ち直した。


 さっきより指先の力が抜けている。


「これなら?」


「うん。いいと思う」


 彩花はそう答え、自分の手を膝の上へ戻した。


(教えてるだけだから)


 間違ってはいない。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 ただ。


 なぜか自分の指先に、まだ悠真の手へ触れた感覚が残っている気がした。


 隣を見ると、悠真も少しだけ耳が赤い。


 けれど、何も言わなかった。


 彩花も言わない。


 そのまま悠真は次の一針を進めた。


     ◇


 十分ほど経つ頃には、最初の辺が半分ほど縫えていた。


 速度は決して速くない。


 一針進めて確認し、ときどき彩花へ尋ねる。


 それでも最初の頃より手の動きはずっと滑らかになっていた。


「九条君、最初より速くなってる」


「本当?」


「うん。縫い目も安定してきたよ」


「最初のところと全然違うな」


 悠真は自分が縫った線を見比べる。


 確かに最初の数針は間隔がばらついているが、後半は少しずつ揃っている。


「これ、面白いな」


「裁縫?」


「うん。やった分だけ形に残るのが分かりやすい」


「分かる」


 彩花は嬉しくなった。


「料理もそうなんだけど、作る前は材料だけなのに、自分で手を動かすとちゃんと別のものになるでしょう? 裁縫も布と糸だったものが、少しずつ形になっていくのが好き」


 話しているうちに、自然と声が弾んでいた。


「失敗することもあるし、ほどいてやり直すこともあるけど、最後にできたものを見ると、ちゃんと自分で作ったんだなって思えるの」


 悠真は針を動かす手を止めずに聞いていた。


「水瀬さん、本当に好きなんだな」


「うん。好き」


 今度は迷わなかった。


 悠真が少し笑う。


「それ聞けてよかった」


「何で?」


「前より、そういう話してくれるから」


 彩花は一瞬だけ黙った。


 悠真が続ける。


「最初の頃って、水瀬さん、自分のことあんまり話さなかっただろ。好きな本の話はしてくれたけど、それ以外は聞いても『そんなに』とか『大したことじゃない』って言うこと多かったし」


「……覚えてたんだ」


「結構覚えてるよ」


 それは少し恥ずかしい。


 自分では意識していなかった言葉まで覚えられている。


「最近は裁縫も好きって言うし、料理も好きって言うし。だから、聞いてて楽しい」


「私の話なのに?」


「水瀬さんの話だからだろ」


 悠真は縫い目へ視線を落としたまま答えた。


 あまりに自然だったので、彩花はすぐに返せなかった。


(九条君、こういうこと言うんだよなあ……)


 特別な意味を込めているようには見えない。


 だから余計に困る。


 少しだけ胸の奥がくすぐったくなるのに、その感覚をどう扱えばいいのか分からない。


「……じゃあ、もっと上手になったら裁縫の話もいっぱいできるね」


 彩花は少し考えてからそう返した。


「俺が?」


「うん。今日だけで嫌にならなかったら」


「今のところ嫌になる要素ないよ」


「まだ指刺してないからじゃない?」


「刺す前提なの?」


「初心者あるある」


「指ぬき買って正解だったな」


 悠真が真剣に頷いたので、彩花はまた笑った。


     ◇


 そして、その五分後。


「痛っ」


 小さな声がした。


 彩花はすぐに悠真の手を見る。


「刺した?」


「……刺した」


「見せて」


 悠真が右手の人差し指を見せる。


 針先が少し当たっただけらしく、血は出ていない。


「大丈夫。傷にもなってないよ」


「本当に刺すんだな」


「だから言ったでしょう?」


「指ぬきしてない指に刺さった」


「そこまでは守れないよ」


 彩花は笑いながらも、念のため指先を確認する。


「痛み残ってない?」


「もう大丈夫」


「じゃあ続けられるね」


「水瀬先生、結構厳しいな」


「これくらいで休ませてたら完成しないから」


「さっきは急がなくていいって言ってたのに」


「急がなくていいのと、ちょっと刺しただけで諦めるのは別です」


「分かりました」


 悠真は針を持ち直す。


 その表情に嫌そうな様子はなかった。


 むしろ先ほどより楽しそうに見える。


 彩花も自分の裁縫箱から余っていた布を取り出し、隣で小さな縫い物を始めた。


「水瀬さんも何か作るの?」


「九条君が縫ってる間、見てるだけなのも落ち着かないから。練習用の布で少し縫ってるだけ」


「さっき買った布は?」


「あれは家で考える。ちゃんと何を作るか決めてから切りたいし」


「そっか」


 二人で並んで針を動かす。


 会話が途切れた。


 けれど、不思議と気まずくはなかった。


 針が布を抜ける小さな音。


 糸が擦れる感触。


 窓の外から聞こえる車の音。


 ときおり、隣から悠真の息遣いが聞こえる。


 図書館でそれぞれ本を読んでいるときと少し似ている。


 話さなくても、同じ場所にいることが落ち着く。


 彩花は何針か縫ったあと、横を見る。


 悠真は真剣に自分の布を見ていた。


 最初より、ずっと自然に針が動いている。


(上手くなってる)


 ほんの一時間にも満たない。


 それでも、確かに変わっている。


 彩花は声をかけず、そのまま自分の布へ視線を戻した。


     ◇


「できた」


 悠真がそう言ったのは、それからしばらく経ってからだった。


 栞が完成したわけではない。


 最初の一辺を縫い終えただけだ。


 それでも悠真の声には、はっきり達成感が混じっていた。


「見せて」


 彩花が布を受け取る。


 最初は少し不揃い。


 途中から徐々に整い、最後の方はかなり安定している。


「すごい。後半かなり綺麗になってるよ」


「最初のところが気になる」


「ほどかないよ」


「まだ何も言ってない」


「言いそうな顔してる」


「……ちょっとだけ思った」


「駄目」


 彩花は布を悠真へ返した。


「ここが最初でしょう? それで、こっちが最後。ちゃんと上手くなったの分かるじゃん」


「確かに」


「だったら残しておいた方がいいよ」


「水瀬さんがそう言うなら、そうする」


「九条君の栞なんだから、最後は自分で決めてね」


「俺も残した方がいいと思ったから」


「ならよし」


 彩花は頷く。


「次は反対側を縫うんだけど、その前に少し休憩しようか。ずっと手元見てたでしょう?」


 言われて初めて気づいたらしく、悠真が肩を回した。


「確かにちょっと疲れた」


「集中しすぎ」


「水瀬さんは疲れない?」


「慣れてるけど、長時間やれば疲れるよ。飲み物買いに行こうか」


「うん」


 二人は道具を机の中央へまとめ、針だけはケースへ戻した。


 作業室を出ると、廊下の空気が少しひんやりして感じられる。


 一階の自動販売機まで下り、それぞれ飲み物を買った。


 彩花は冷たいレモンティー。


 悠真は水。


 休憩スペースの窓際に並んで座る。


「今、何時?」


 悠真がスマートフォンを見る。


「三時半くらい」


「思ったより経ってる」


「材料選んでた時間もあるからね」


「今日中に完成する?」


 彩花は少し考えた。


「急げばできると思う。でも、急ぐ?」


 悠真も少し考える。


 それから首を横に振った。


「急がなくていい。せっかくだからちゃんと覚えたい」


「私もその方がいいと思う」


「じゃあ、今日完成しなかったら次?」


「うん。続きやろう」


 言ってから、彩花は少しだけ笑った。


「これで、また会う予定増えたね」


 深く考えずに出た言葉だった。


 悠真がこちらを見る。


「……そうだな」


「何、その間」


「いや」


 悠真はペットボトルの蓋へ指を置いたまま、少しだけ視線を逸らした。


「俺は嬉しいなと思って」


 彩花はレモンティーを持ったまま止まった。


「栞、今日完成しなくても?」


「完成するのも楽しみだけど、もう一回教えてもらえるなら、それも嬉しい」


「……そっか」


「水瀬さんは?」


 聞き返される。


 彩花は少し考えた。


 栞は今日完成してもいい。


 次に持ち越してもいい。


 どちらでも困らない。


 ただ、もう一度悠真へ教える時間があると言われて、嫌だとはまったく思わなかった。


 むしろ。


「私も、いいと思う」


「いい?」


「もう一回やるの。九条君、ちゃんと聞いてくれるから教えやすいし」


「そこ?」


「そこも」


 答えてから、彩花はレモンティーを一口飲んだ。


 冷たい甘酸っぱさが喉を通る。


 悠真もそれ以上は聞かなかった。


 けれど、その横顔は少し嬉しそうだった。


     ◇


 休憩を終えて作業室へ戻る。


 窓際にいた女性の一人はすでに帰ったらしく、先ほどより部屋の中は静かになっていた。


 二人は再び隣へ座る。


 悠真が自分の生成りの布を手に取った。


 紺色の縫い目。


 最初は少し不揃いで、途中から少しずつ整っている。


「これ、ちゃんと栞になるんだよな」


「なるよ。まだ途中だけど」


「完成したら使う」


「作る前から言ってたね」


「自分で作ったなら、たぶん今持ってる栞より使うと思う」


「そんなに?」


「今日のことも思い出せそうだし」


 彩花は一瞬、悠真の横顔を見た。


 本人は布を見たままだ。


 また、そういうことを自然に言う。


「……じゃあ、ちゃんと使えるものにしないとね」


「だから綺麗に作りたい」


「そこで完璧を目指さなくていいの」


「でも長く使いたいから」


 その理由なら、少しだけ分かる気がした。


「じゃあ、丈夫には作ろう。でも最初の縫い目は残す」


「分かった」


「約束ね」


「うん」


 彩花は次の工程を説明するため、生成りの布へ指を置く。


 今度は手が触れないように避けたわけではない。


 かといって、触れることを意識したわけでもない。


 ただ自然に、二人で同じ場所を見る。


「次は反対側。さっきより少し長いけど、同じやり方で大丈夫」


「今度は最初から一人でやってみる」


「うん。分からなくなったら聞いて」


 悠真が針を持つ。


 紺色の糸を通し、今度は彩花に言われる前に玉結びを始めた。


 一度目は少し位置がずれた。


 けれど悠真はすぐにほどこうとはしなかった。


「これくらいなら?」


 彩花が確認する。


「大丈夫。ちゃんと端に近いよ」


「じゃあ、このまま使う」


「うん」


 最初の一針。


 悠真はさっきより迷わず針を刺した。


 彩花はその横で、何も言わずに見守る。


 一針。


 もう一針。


 まだ速くはない。


 けれど、確実に先ほどより滑らかだった。


「九条君」


「うん?」


「上手くなってるよ」


 悠真は手元から顔を上げた。


「本当?」


「本当。ちゃんと」


 彩花が笑う。


 悠真も少し笑ってから、再び布へ視線を戻した。


 作業室へ差し込む午後の光は、来たときよりも柔らかくなっている。


 今日中に栞は完成しないかもしれない。


 それでも二人とも、もう気にしていなかった。


 生成りの布へ、紺色の糸が少しずつ増えていく。


 最初の一針から始まった線は、まだ途中だ。


 その続きを急ぐ理由は、どこにもなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。