第28話 選ぶところから
月曜日の放課後、水瀬彩花は文芸部の部室で原稿用紙を前にしたまま、しばらく同じ一文を眺めていた。
六月も終わりに近づき、窓の外から入ってくる風には昼間の熱がまだ残っている。グラウンドでは運動部の掛け声が途切れることなく続き、ときおり笛の音が混じっていた。部室の中ではページをめくる音や鉛筆が紙を擦る音が静かに重なり、それぞれが文化祭へ向けた原稿に取り組んでいる。
彩花の原稿も、決して止まっているわけではない。
文化祭の冊子へ載せるために書き始めた短編は、少しずつ形になっていた。知らない者同士だった二人が言葉を交わすようになり、何度も会ううちに相手のことを知り、やがて友人と呼べるようになる物語だ。
けれど今は、鉛筆よりも机の端に置いたスマートフォンが気になっていた。
「水瀬さん、さっきからスマホ見てるけど、何か連絡待ち?」
向かいの机で原稿を読んでいた先輩に声をかけられ、彩花は顔を上げた。そんなに見ていただろうかと思いながら、反射的にスマートフォンを伏せる。
「そんなに気にしてました?」
「三回くらいかな。急ぎなら返して大丈夫だよ。今日はそれぞれの原稿を進める日だし」
「急ぎじゃないんです。ただ、ちょっと予定を決めないとなって思ってて」
答えながら、彩花は昨夜のやり取りを思い出した。
琴葉と過ごした一日が終わったあと、悠真とのメッセージで話題に出たのは、以前から約束していた栞作りだった。
『そろそろ日決めようか』
そう送ったのは彩花の方だった。
ただ、昨夜のうちに具体的な日程までは決めなかった。琴葉が自分の家へ遊びに来て、一緒に裁縫をして、凛花や家族とも話した。その一日が思っていた以上に楽しく、夜になっても気持ちがまだそこに残っていたからだ。
だから、栞の話は「また決めよう」で終わった。
(今週の土曜日なら空いてるけど……九条君はどうなんだろう)
日曜日なら、いつものように中央図書館へ行く可能性が高い。
それなら土曜日の方がいい。
そこまで考えたところで、部室の入口から声が飛んできた。
「水瀬、ちょっといい?」
振り向くと、田辺大地が数枚のプリントを持って立っていた。
「田辺君、どうしたの?」
「先生から。文化祭のクラス企画アンケート、部活にも共有してくれってさ。今日、俺が係だから届けて回ってる」
「また届け物なんだ」
「またって言うなよ。ちゃんと仕事してるだけだろ」
大地は苦笑しながら部長の机へプリントを置いた。用事を終えて帰ろうとしたところで、彩花の机に広げられた原稿用紙が目に入ったらしく、少しだけ足を止める。
「そういや、小説の方は進んでる?」
「少しずつ。まだ完成はしてないけど、文化祭には間に合わせるよ」
「完成したら読ませて」
「文芸部の冊子に載ったらね」
「じゃあ、そのとき読む。頑張れよ」
「ありがとう。田辺君も係頑張ってね」
「おう。じゃ、お邪魔しましたー」
軽く手を上げ、大地は部室から出ていった。
扉が閉まると、向かいにいた先輩が原稿から顔を上げる。
「田辺君、相変わらず軽いね」
「でも、頼まれたことはちゃんとやってるんですよ」
「水瀬さん、結構田辺君に甘いよね」
「甘いですか?」
「ちゃんと良いところ見てるって意味」
言われてみれば、そうなのかもしれない。
大地は騒がしいし、食べ物の話ばかりしていることもある。それでも困っている相手を放っておくような性格ではないし、係の仕事を頼まれれば文句を言いながらもやる。
「クラスメイトですから」
「そういうところ、水瀬さんらしいね」
先輩はそれ以上何も言わず、自分の原稿へ戻った。
彩花も鉛筆を持ち直す。
目の前の短編では、主人公が友人と次に会う約束をしようとしていた。
別に自分と悠真をモデルにしているわけではない。
最初からそういうつもりで書き始めた話ではなかった。
それなのに、自分の生活が少しずつ変わってきたせいなのか、書いている人物の気持ちと自分の経験が重なる瞬間が増えている。
『また会いたいと思うことと、次に会う日を決めることは、少しだけ違っていた。』
そこまで書いたところで、彩花の鉛筆が止まった。
(……これ、今の私みたい)
気づいた途端、急に恥ずかしくなる。
九条君に会いたい、と考えているわけではない。
土曜日に裁縫を教える約束をしたいだけ。
そう思ったところで、彩花は自分の思考に引っかかった。
(会いたくないわけじゃないけど)
むしろ、会えるなら嬉しい。
古本市で朝から午後まで一緒にいても疲れなかった。図書館で話す時間も楽しい。最近はメッセージで話すことも自然になった。
だから土曜日に会うことが嫌なはずはない。
そこまで考えた彩花は、書いた一文へ横線を引いた。
「消すの?」
先輩が気づいた。
「ちょっと直接的すぎる気がして。もう少し、この子らしい言い方にしたくて」
「私は嫌いじゃないけどね。でも作者が引っかかるなら直した方がいいと思う」
「もう少し考えてみます」
彩花は新しい一文を考える。
自分のことではなく、物語の中にいる主人公ならどう感じるのか。
それを意識すると、今度は少しずつ鉛筆が進み始めた。
十分ほど集中した頃、机の端でスマートフォンが短く震えた。
画面を見る。
表示されていたのは、九条悠真の名前だった。
『今、部活?』
たったそれだけの文章なのに、彩花の口元が自然に緩む。
『うん。文芸部。九条君は?』
送信する。
すぐに返事は来なかった。
おそらく生徒会の仕事中なのだろう。
彩花はスマートフォンを伏せると、今度こそ原稿へ意識を戻した。
◇
悠真から次のメッセージが届いたのは、文芸部の活動が終わり、彩花が昇降口で靴を履き替えているときだった。
『今終わった。』
『私も今終わったよ。お疲れさま。』
『水瀬さんもお疲れさま。昨日の話なんだけど、今週の土曜って空いてる?』
何の話かは聞かなくても分かった。
彩花は校舎を出ると、校門の脇で一度立ち止まった。
夕方になっても空はまだ明るい。部活を終えた生徒たちが友人と話しながら校門を抜けていき、自転車置き場からは鍵を外す音が続いている。
『空いてるよ。栞作る?』
『うん。俺は午後なら大丈夫。』
思ったより簡単に日が決まった。
彩花はカレンダーへ予定を入れようとして、もう一つ必要なことを思い出す。
『じゃあ土曜日にしよう。でも、糸とか九条君が使うものは買った方がいいと思う。布は前に選んだ生成りでいいんだよね?』
少しして返事が届く。
『うん。糸とかは自分で選びたい。』
画面を見て、彩花は小さく笑った。
(やっぱり九条君だ)
こちらで全部用意しても構わない。
むしろ初心者なら、その方が楽だろう。
それでも、自分が使うものなら自分で選びたいらしい。
『じゃあ、前に琴葉さんと行った手芸店に行く? 青凪駅の近く。』
『行きたい。材料選ぶところから教えてほしい。』
そのあとは自然に話が進んだ。
午後二時に手芸店の前で待ち合わせる。
必要な材料を買い、そのあと市民交流センターの作業室が空いていれば、そこで作る。
空いていなければ、そのとき考える。
すべて決め終えてスマートフォンを閉じると、彩花はカレンダーへ予定を書き込んだ。
『14:00 九条君 手芸店』
古本市のときとは違う。
今回は大きな催しへ出かけるわけではない。
本を探すわけでもない。
悠真が使う栞を作るために会う。
しかも、自分が教える側だ。
(ちゃんと教えられるかな)
琴葉にはもう二度教えている。
それでも悠真へ教える場面を想像すると、少しだけ勝手が違う気がした。
「水瀬?」
後ろから声をかけられ、振り返る。
同じクラスの女子が二人、少し離れたところで待っていた。
「帰らないの?」
「あ、ごめん。予定決めてた」
彩花が二人のところへ行くと、一人がスマートフォンを見ながら尋ねてきた。
「土日の予定?」
「うん。土曜日に友達へ裁縫教えることになったの」
「裁縫かあ。そういえば水瀬、得意だったよね」
「うん。好きだから」
言ってから、彩花はそのまま歩き出した。
以前なら、「そんなに上手じゃないけど」と付け足していたかもしれない。
けれど今日は、その言葉を探すことさえなかった。
裁縫が好き。
人に教えられるくらいには得意。
それでいい。
◇
同じ頃。
桜華学園高等部の生徒会室では、悠真が机の上に積まれた書類を整理していた。
文化祭へ向け、各部活動から提出された申請書類が少しずつ増え始めている。記載漏れを確認し、担当ごとに分類し、翌日の会議ですぐ使えるようにしておく。
「九条、こっちは全部見たぞ」
向かい側から榊原湊がファイルを差し出す。
「ありがとう。そこに置いて。俺の方もあと二枚だから」
「六月でこれだろ? 文化祭直前になったらどうなるんだよ」
「今のうちに処理しておけば、その頃の仕事は減らせる」
「お前は絶対そう言うと思った」
湊は苦笑しながら椅子の背もたれへ身体を預けた。
悠真は残っていた書類へ目を通し、不備のある箇所へ付箋を貼る。
「終わり。今日はここまででいい」
「やっと帰れる」
「途中で帰ろうとした奴が何言ってるんだ」
「帰ろうとしたところを九条に捕まえられたんだろ」
「仕事が残ってたからな」
湊が立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。
悠真も机を片付けようとして、端に置いていたスマートフォンへ目を向けた。
「土曜日、水瀬さん?」
不意に言われ、悠真は手を止めた。
「何で分かるんだよ」
「さっきメッセージ見たあと、ちょっと機嫌よかったから」
「そんなに顔に出てた?」
「俺には最近分かる」
湊は面白そうに笑っている。
悠真は否定する理由もなく、スマートフォンを鞄へ入れた。
「前に話した栞、土曜日に教えてもらうことになった」
「ようやくか。確か結構前から言ってただろ?」
「古本市があったし、琴葉が水瀬さんの家へ行く予定もあったから、急いで決める必要なかったんだよ」
「なるほど。で、二人で裁縫?」
「その前に材料を買う。水瀬さんが前に琴葉と行った手芸店に連れていってくれる」
湊はそこで少し想像したらしく、肩を揺らした。
「九条が手芸店にいるところ、全然想像できない」
「俺も初めて行くから似たようなものだよ」
「お前、糸一本選ぶのに三十分くらいかけそうだな」
「さすがにそこまではかからない。使う布に合うものを水瀬さんに聞いて、その中から自分で選べばいいだろ」
「その考え方がもう九条なんだよ。全部水瀬さんに選んでもらった方が早いのに」
言われても、悠真は首を横に振った。
「自分で使うものだからな。分からないなら教えてもらえばいいけど、最後は自分で選びたい」
湊は一瞬だけ黙り、それから穏やかに笑った。
「まあ、楽しそうで何よりだ」
「うん。楽しみ」
答えはすぐに出た。
以前なら、その一言を口にする前に自分の中で考えていたかもしれない。
なぜ楽しみなのか。
水瀬さんと会えるからなのか。
裁縫を教えてもらえるからなのか。
どちらが大きいのか。
けれど今は、そこを細かく分ける必要がないと思っている。
会えるのも嬉しい。
知らないことを教えてもらうのも楽しみ。
それで十分だった。
「最近、そこ即答するようになったな」
湊にも気づかれたらしい。
「楽しいものを楽しみって言うだけだからな」
「成長したなあ」
「何でお前がそんな立場なんだよ」
「友人として見守ってる」
「頼んでない」
悠真が呆れると、湊は楽しそうに笑った。
「完成したら見せろよ。上手くできても失敗してても」
「上手くできたら考える」
「水瀬さんにはどっちにしても見られるだろ?」
「その場にいるんだから当たり前だろ。それとお前に見せるのは別だ」
「冷たいなあ」
「関係ないだろ」
二人はそんな話をしながら、生徒会室の電気を消した。
◇
土曜日。
午後一時五十分。
青凪駅前には、休日らしい人の流れができていた。
六月末の空は薄い雲に覆われている。強い日差しこそないものの、湿った空気が肌へまとわりつき、歩いているとじんわり汗ばむ程度には暑い。
彩花は白い半袖のブラウスに淡い青のロングスカートを合わせ、肩には少し大きめの布バッグを掛けていた。
中には裁縫箱、定規、布用のペン、厚紙。
そして、以前悠真が選んだ生成りの布。
家を出る前に三度確認したので、忘れ物はないはずだ。
(教えるだけなんだから、そんなに緊張する必要ないよね)
琴葉にはすでに二度教えている。
ただ、悠真と琴葉では性格が違う。
琴葉は分からなければすぐに聞き、確認しながら作業する。
一方の悠真は、一度説明されたことを自分の中で整理してから、正確にやろうとしそうだ。
(……二ミリとか気にしそう)
以前、琴葉と話したことを思い出し、彩花は一人で笑いそうになる。
手芸店が見えてきた。
店先には季節ものの布や手作りバッグの見本が並び、その前に一人の少年が立っている。
紺色の半袖シャツ。
明るめのベージュのパンツ。
古本市の日とは少し違う、落ち着いた私服姿だった。
悠真も彩花に気づき、すぐに顔を上げる。
「水瀬さん。こんにちは」
「こんにちは。待った?」
「俺も今来たところ。まだ十分前だから、むしろ早すぎたかなって思ってた」
「よかった。私も同じこと思ってた」
彩花がスマートフォンを見ると、一時五十二分。
二人とも似たような時間に到着したらしい。
悠真の視線が、彩花の肩に掛かった大きめのバッグへ向く。
「それ、今日使う道具?」
「うん。必要そうなのは一通り持ってきたよ」
「結構入ってそうだけど、重くない?」
「今日は大丈夫。古本市の日みたいに本が何冊も入ってるわけじゃないから」
「分かった。重くなったら言って」
「うん。そのときはお願いする」
以前なら、最初から「大丈夫」と言い切っていたかもしれない。
けれど必要になれば頼ればいい。
彩花自身、最近はそう思えるようになっていた。
「じゃあ、まず九条君の材料選ぼうか」
「お願いします、先生」
「まだ教室にも着いてないのに先生になってる」
「材料選びから教えてもらうから」
「琴葉さんも同じこと言ってたよ」
「じゃあ間違ってないな」
「兄妹でそういうところ揃わなくていいの」
彩花が笑い、悠真も少し口元を緩める。
二人は並んで店内へ入った。
◇
休日の手芸店は、彩花が予想していたより賑わっていた。
夏用のバッグを作るための布を選んでいる女性。子どもと一緒にワッペンを見ている母親。刺繍糸を何色も手に取って比較している若い女性。
棚には色が溢れている。
入口を入った悠真は、周囲を一度見回してから感心したように息をついた。
「糸だけでもこんなにあるんだな」
「種類だけならもっとあるよ。太さも素材も用途も違うから」
「全部見ても、今の俺には何が違うのか分からないと思う」
「じゃあ今日は必要なものだけ見よう。最初から全部覚えなくていいから」
彩花はバッグから生成りの布を小さく切ったサンプルを取り出し、糸の棚へ向かった。
「この布に合わせるなら、この辺かな。近い色にすると縫い目が目立ちにくくなるし、違う色を使えば縫い目もデザインになるよ」
「初心者なら近い色の方が失敗は目立たない?」
「そうだね。でも、見える方が縫いやすい場合もあるから、好きな方でいいと思う」
悠真は少し考えてから、生成りとは違う色の糸が並ぶ棚へ視線を向けた。
「じゃあ、違う色にする。失敗したところも分かった方が、次に直せそうだし」
「そっち選ぶんだ」
「変だった?」
「ううん。九条君らしいなって思っただけ」
紺、茶、灰色、深緑。
いくつか手に取り、生成りの布の横へ並べてから、悠真は濃い紺色の糸を選んだ。
「これならどう?」
「いいと思う。生成りに紺なら綺麗だし、落ち着いて見えるよ」
「じゃあこれにする」
決まれば早い。
彩花は小さく笑いながら、次の棚へ向かった。
「栞の上から出す紐も付ける?」
「せっかくだから付けたい。糸と同じ紺がいいかな」
「合わせてもいいけど、違う色でも大丈夫だよ。生成りと紺なら、深緑とか茶色も合うと思う」
細いコードやリボンが並ぶ棚の前で、悠真は何本かを見比べた。
しばらくして、彩花へ視線を向ける。
「水瀬さんならどれにする?」
「私?」
「参考にしたい」
「九条君が使うんだよ?」
「分かってる。その上で、水瀬さんなら何を合わせるのか聞きたい」
そこまで言われ、彩花も棚へ向き直った。
生成りの布。
濃い紺の糸。
その二つへ合わせるなら。
「私は深緑かな。紺だけで揃えるより少し変化があるし、でも派手にはならないから」
「じゃあ深緑にする」
「決めるの早いね。参考じゃなかったの?」
「水瀬さんの話を聞いて、自分でもいいと思ったから決めた」
「……そっか」
悠真は深緑のコードを籠へ入れた。
彩花はその様子を見て、思わず少し笑う。
「何?」
「九条君、自分で選びたいって言ってたけど、私が勧めたもの結構そのまま選ぶなって思って」
「嫌だった?」
「全然。ただ、もっと悩むのかと思ってた」
「分からないところは詳しい人に聞いて、その上で自分がいいと思ったものを選べばいいだろ?」
いかにも悠真らしい答えだった。
「なるほど。じゃあ次は道具ね」
「はい、先生」
「まだ言うの?」
「今日は最後まで言うつもり」
「もう諦めた方がいいのかな……」
彩花が苦笑すると、悠真は少し楽しそうに笑った。
◇
裁縫道具の棚では、針と小さな糸切りばさみを選んだ。
今日だけなら彩花のものを借りれば足りるが、悠真は家でも使えるよう最低限の道具は持っておきたいと言った。
「あと、指ぬきもあった方がいいかも」
「必要?」
「絶対じゃないけど、初心者は針を指に刺しやすいから。私も最初の頃は何回かやったよ」
彩花が自分の指先を見せるようにすると、悠真は迷うことなく指ぬきを籠へ入れた。
「買うんだ」
「経験した人が刺したって言ってるんだから、買っておいた方がいいだろ」
「そこは素直なんだね」
「痛い思いをしてから買う必要ないからな」
「やっぱり九条君らしい」
「今日それ何回目?」
「まだ二回くらいじゃない?」
「もっと言われた気がする」
「気のせいだよ」
そんな話をしながら売り場を進んでいると、今度は悠真が布の棚の前で足を止めた。
壁際には、無地から柄物まで数え切れないほどの布が並んでいる。
「琴葉のブックカバーも、ここで布を選んだんだよな?」
「うん。深緑の布。写真見た?」
「見せてもらった。かなり気に入ってたよ」
「よかった。琴葉さん、自分でほとんど作ったんだよ」
「水瀬さんが教えたからだろ」
「私は教えただけ。作ったのは琴葉さん」
自然にそう答えられた。
自分の教え方を否定するわけでもない。
琴葉の頑張りを自分のものにするわけでもない。
そのどちらでもない言い方ができたことに、彩花自身は気づかなかった。
悠真は色とりどりの布を眺めながら、ふと尋ねる。
「水瀬さんは、こういう店に来るのも楽しい?」
「楽しいよ。本屋とはちょっと違うけどね」
「どう違う?」
彩花は棚に並ぶ布へ視線を向けた。
「本屋だと、この本には何が書いてあるんだろうって考えるのが楽しいの。手芸店だと、この布で何を作ろうって考えるのが楽しい。作りたいものを先に決めてから布を探すこともあるけど、布を見てから作りたいものが決まることもあるよ」
「今日は俺が前者か」
「そう。栞を作るって決まってるからね」
「水瀬さんは?」
「今日は付き添いだから何も買わないつもりだけど――」
そこで悠真が一枚の布へ目を止めた。
淡い青地に、小さな白い花が散っている。
「これ、水瀬さん好きそう」
何気なく言われ、彩花もその布を見る。
「……好き」
「やっぱり」
「分かるの?」
「何となく。派手すぎなくて、でもよく見ると花があるから」
悠真は少し嬉しそうだった。
好みを当てただけなのに、なぜそんな顔をするのだろう。
「私、そんなに分かりやすい?」
「前よりは分かる気がする」
「それって、私が分かりやすくなったのかな。それとも九条君が分かるようになったのかな」
何気なく尋ねると、悠真は少し考えた。
「両方かもしれない。水瀬さん、前より好きなものを好きって言うようになったし、俺も前より水瀬さんのこと知ってるから」
彩花は一瞬、返事を忘れた。
言われてみればそうなのかもしれない。
以前の自分なら、この布を見て「好き?」と聞かれても、「可愛いと思う」と少し遠回しに答えていた気がする。
今は、好き、と言えた。
「……じゃあ、両方だね」
「うん」
悠真が布へもう一度視線を向ける。
「買わないの?」
「今日は九条君の買い物でしょう?」
「でも気に入ったんだろ?」
「布なら家にもいっぱいあるし……」
そう言いながらも、彩花は値札を見る。
高い布ではない。
何を作るかはまだ決めていない。
それでも、確かに好みだった。
「少しだけ買おうかな」
「何作る?」
「それはこれから。さっき言った、布を見てから考える方」
「なるほど」
店員に頼み、必要最低限の長さだけ切ってもらった。
受け取った布を見ていると、何を作ろうかという考えがもう頭の中を巡り始める。
「九条君の買い物だったのに、私まで買っちゃった」
「俺が見つけたんだから気にしなくていいだろ」
「付き合わせちゃったかなと思って」
「俺はまだ見てたかったくらいだけど」
そう言われ、彩花は少しだけ目を丸くした。
以前ならここで「ごめん」と言っていたかもしれない。
相手の時間を使わせた。
自分の買い物へ付き合わせた。
そう考えて。
けれど悠真は嫌がっていない。
「じゃあ……ありがとう。九条君が見つけてくれなかったら気づかなかったかも」
「何作るか決まったら教えて」
「うん。完成したら写真送るね」
そう答えると、悠真は満足そうに頷いた。
◇
会計を終えて店を出ると、空は相変わらず薄い雲に覆われていた。
悠真の紙袋には、紺色の糸、深緑のコード、針、糸切りばさみ、指ぬきが入っている。
彩花のバッグには裁縫道具と生成りの布。
そして、新しく買った淡い青の花柄布。
「市民交流センター、ここから歩いて十分くらいだよ」
「作業室って予約してなくても使える?」
「空いてれば大丈夫。土曜日だから埋まってることもあるけど、そのときは少し待とう」
二人は駅前通りを並んで歩き始めた。
古本市の日と同じ二人での外出でも、今日は人混みもなく、立ち止まる店も一つだけだった。
目的も違う。
それでも会話が途切れて困ることはない。
「さっき買った布、本当に何になるんだろうな」
悠真が少し気になっている様子で尋ねてくる。
「まだ決めてないよ。ブックカバーでもいいし、小さいポーチでもいいし」
「巾着は?」
「作れるけど、琴葉さんと同じになるから、せっかくなら違うものもいいかな」
「同じじゃ駄目ってわけじゃないんだろ?」
「もちろん。でも、あの布なら何が似合うかなって考えるのも楽しいから」
「じゃあ決まったら教えて」
「さっきも言ってたね。そんなに気になる?」
「俺が水瀬さんに合いそうだと思った布だから、何になるのか見たい」
その言葉に、彩花はほんの少しだけ歩調を緩めた。
布そのものが気になるのではなく。
自分が何を作るのかを楽しみにしているらしい。
「分かった。ちゃんと教える」
「写真も?」
「送るよ」
「待ってる」
返事は迷いなく返ってきた。
彩花は前を向いたまま、少しだけ笑った。
◇
市民交流センターの一階には、小さな受付と休憩スペースがある。
利用状況を確認すると、二階の作業室には空きがあった。
「よかった。前に琴葉さんと来たときも使ったところだよ」
「今日は他にも人いる?」
「二組くらいみたい。静かに使えば大丈夫」
受付を済ませ、階段を上る。
作業室は広い一室を用途ごとに使えるようにした空間で、いくつもの長机が並んでいた。窓際では年配の女性二人が編み物をしており、奥では親子らしい二人が色紙や厚紙を使って工作をしている。
彩花と悠真は、少し離れた空いている長机を選んだ。
向かい合わせではなく、角を挟んで隣へ座る。
彩花はバッグから裁縫箱、定規、布用ペン、厚紙、生成りの布を順番に取り出した。悠真も先ほど買ったものを紙袋から出し、机の上へ並べていく。
「じゃあ、最初に完成したときの大きさを決めようか。九条君、文庫本に使うことが多い?」
「文庫が一番多いけど、できれば単行本でも使いたい」
「それなら少し長めにしよう。幅は細い方がいいって言ってたよね」
「うん。あんまり本からはみ出さない方が好き」
「じゃあ完成したときに三センチくらい。縫い代があるから、布はそれより大きく切るよ」
彩花は厚紙へ線を引きながら、一つずつ説明していく。
ふと横を見ると、悠真が想像以上に真剣な顔で手元を見つめていた。
学校の授業でも、きっとこんな顔で話を聞いているのだろう。
そう思うと、少しおかしくなる。
「……何?」
笑ったことに気づかれた。
「まだ何も間違えてないよ」
「じゃあ何で笑ったの?」
「九条君、本当に授業受けてるみたいだなって。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。多少曲がっても、ちゃんと栞として使えるから」
「多少って、どれくらい?」
「それ聞くと思った」
彩花はとうとう笑ってしまった。
窓際で編み物をしていた女性の一人が、こちらを見て穏やかに微笑んでいる。大声を出してしまったわけではないが、彩花は少しだけ声を落とした。
「前に琴葉さんと話したの。九条君なら二ミリくらいのずれでも気にしそうだねって」
「二ミリは結構大きいだろ」
「栞だよ?」
「栞でも気になるものは気になる」
「やっぱり」
予想通りすぎる。
彩花は生成りの布を悠真の前へ置いた。
「じゃあ、今日の目標を決めます」
「綺麗に完成させる」
「違います。まず最後まで作ること」
「綺麗に最後まで作る」
「付け足さないの」
悠真が納得しきれない顔をする。
「初めてなんだから、少しくらい曲がってもやり直しすぎないこと。失敗も含めて自分で作った栞なんだから」
「……程度による」
「九条君」
「分かりました、先生」
「返事だけはすごくいいね」
彩花が呆れながら笑うと、悠真もようやく肩の力を抜いた。
◇
最初の作業は、布へ印を付けることだった。
彩花が一度見本を見せ、そのあと悠真へ定規と布用ペンを渡す。
「ここから縫い代を一センチ取ってね。布の端が少し曲がってるから、こっちを基準にした方がいいよ」
「この線に合わせればいい?」
「そう。定規を押さえて――」
彩花が指を伸ばしたのと、悠真が定規を動かそうとしたのは、ほとんど同時だった。
指先が軽く触れる。
二人の動きが止まった。
「あ……ごめん」
先に手を引いたのは彩花だった。
「俺も。ごめん」
「ううん。私が手出したから」
「俺も動かしたから同じだよ」
ほんの一瞬だった。
古本市の帰り、電車で肩が触れたときと比べても、それほど大きなことではない。
それなのに、指先だったせいなのか、触れた感覚だけが妙にはっきり残った。
「……そこを基準にすれば大丈夫」
「分かった」
彩花は何事もなかったように説明を続ける。
悠真も定規を当て直した。
けれど、さっきまで迷いなく動いていた手が、今度はなかなか動かない。
「九条君、そこはそんなに慎重にならなくても大丈夫だよ」
「分かってるんだけど……ちょっと待って」
悠真は定規の位置を確かめながら、小さく息を吐いた。
彩花はその横顔を見て、ふと尋ねる。
「もしかして、緊張してる?」
「少し」
「裁縫で?」
聞いてから、悠真が一拍だけ黙った。
「裁縫もあるけど、さっき手が当たったから」
あまりにもそのまま答えられ、今度は彩花が言葉を失った。
「……それ?」
「水瀬さんが聞いたんだろ」
「そうだけど……」
頬が少し熱くなる。
けれど、悠真だけが気にしていたことにするのも違う気がした。
「私も、ちょっとびっくりしたよ」
悠真が顔を上げる。
目が合った。
ほんの数秒。
周囲では編み棒の触れ合う小さな音がして、奥の親子が何かを相談している声も聞こえる。
二人だけが止まっているわけではない。
そう思ったら、彩花の肩から少し力が抜けた。
「だから、お互い様。もう線引こう?」
「……そうだな」
悠真の返事が妙に真面目で、彩花は笑いそうになった。
悠真も同じだったらしく、口元が少し緩む。
それだけで、わずかに張っていた空気が自然にほどけた。
◇
印を付け終え、次は布を切る。
悠真は裁ちばさみを持つ手まで慎重だった。
「一気に切らなくていいからね。線を見ながら少しずつ進めれば大丈夫」
「この角のところは?」
「一度止めて、布の向きを変えた方がやりやすいよ。そう、そのまま」
彩花は手を出しすぎず、横から見守った。
琴葉へ教えたときとは違う。
琴葉は分からないことがあるたびに質問し、その都度確認しながら手を進めた。
悠真は最初の説明をよく聞き、自分の中で一度整理してから動く。
その分、始めるまでは慎重だが、理解したあとは迷いが少ない。
最後まで切り終えると、悠真は布を机へ置いた。
「見てもらっていい?」
「もちろん」
彩花は受け取り、端を確認する。
初めてにしては十分きれいだった。
「うん。ちゃんと切れてるよ。これなら大丈夫」
「少しずれてない?」
「このくらいなら全然平気」
悠真の視線が机の端にある定規へ向く。
彩花は先回りして、それを自分の方へ引き寄せた。
「測りません」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあるよ」
「水瀬さん、最近俺のこと分かるようになってない?」
「さっき九条君も似たようなこと言ってたでしょう?」
「確かに」
二人で顔を見合わせ、笑った。
そこで彩花は、ふと気になった。
「九条君、楽しい?」
「楽しいよ」
返事はすぐだった。
「ずっと難しい顔してるから、もしかして作業自体はそんなに楽しくないのかなって」
「集中するとこうなるだけ。思ってたより面白いよ。布を切るだけでも、ちゃんと形になっていくのが分かるし」
「そっか。ならよかった」
「水瀬さんは?」
「私?」
「教えるの、楽しい?」
彩花は少し考えた。
「楽しいよ。琴葉さんに教えたときも楽しかったし、九条君は九条君で全然違うから面白い」
「全然違う?」
「琴葉さんは、分からないことがあるとすぐ聞いてくれるの。九条君は一回説明したら、まず自分で考えてからやるでしょう?」
「どっちが教えやすい?」
「比べなくていいの」
自然に出た言葉だった。
言ったあと、彩花自身が少し驚く。
以前、悠真から何度も言われたこと。
誰かと比べなくていい。
それを今度は自分が、ごく自然に口にしていた。
「琴葉さんには琴葉さんのやり方があるし、九条君には九条君のやり方があるから。それぞれ違って面白いよ」
悠真は少しだけ目を細めた。
「そっか」
「うん」
それ以上は何も言わなかった。
だからこそ、彩花も照れずに済んだ。
しばらくして、悠真が切った布を指先で整えながら口を開く。
「俺、最初に裁縫教えてもらうって話したときから、本当にやるつもりだったよ」
「そうなの? 私は、そのうちできたらいいなくらいだと思ってた」
「やってみたかったから」
「裁縫を?」
「それもあるけど……水瀬さんが好きなことを、少し知りたかった」
彩花の手が止まる。
悠真の声は特別大きくも、小さくもない。
ただ、当たり前のことを話すような口調だった。
本。
料理。
お菓子作り。
裁縫。
以前より、自分から好きだと言えるようになったもの。
悠真は、それを聞いて終わるのではなく、その一つへ実際に触れようとしている。
「でも、やってみて難しかったら裁縫嫌いになるかもしれないよ?」
「それはやってみないと分からない。でも、俺が上手くできるかとか、好きになるかどうかと、水瀬さんが好きなことは別だろ?」
彩花は少しだけ目を見開いた。
自分が好きなものを、相手も同じように好きにならなければいけないわけではない。
悠真が裁縫を好きになる必要もない。
上手になる必要もない。
ただ、自分が大切にしているものを知ろうとしてくれる。
そのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。
「……じゃあ、ちゃんと教えるね」
「お願いします、先生」
「でも二ミリは諦めて」
「そこはまだ相談したい」
「駄目です」
「厳しいな」
「初心者に一番厳しいの、九条君自身だからね」
彩花が笑うと、悠真も声を立てないように笑った。
窓の外では、午後の日差しが少しずつ傾き始めている。
机の上には、切ったばかりの生成りの布。
紺色の糸。
深緑のコード。
まだ栞は形になっていない。
それでよかった。
今日は材料を選ぶところから始めたのだから。
悠真が針の袋へ手を伸ばした。
「次は縫う?」
「その前に糸の通し方。初めてなら、そこからやろう」
「分かった。じゃあお願いします」
「今度は先生って言わないんだ?」
「言ってほしい?」
「言わなくていい」
「じゃあ水瀬先生」
「九条君」
彩花が睨む真似をすると、悠真は楽しそうに笑った。
少し離れた窓際では、先ほどから編み物をしていた女性たちが静かに作業を続けている。奥の親子もまだ工作の途中で、作業室には休日の午後らしい穏やかな時間が流れていた。
彩花は裁縫箱から糸通しを取り出し、悠真の前へ置く。
「糸は長くしすぎない方がいいよ。途中で絡みやすくなるから、最初はこれくらい」
「長い方が途中で足さなくて済むと思ってた」
「最初はみんなそう思うんだけど、長すぎると絡んだり、結び目ができたりするの。慣れてから少しずつ調整すればいいよ」
「なるほど。じゃあ今日は言われた通りにする」
「今日は?」
「慣れたら自分でも考える」
「それならいいよ」
悠真は紺色の糸巻きを手に取り、彩花が示した長さまで糸を伸ばした。
その手元を見守りながら、彩花は不思議な感覚を覚えていた。
いつもは本の話をしている。
図書館で会えば、読んだ本の感想を話す。
古本市では、一緒に棚を見て回った。
今日は、そのどれとも違う。
自分がずっと好きだったことを、悠真が隣で初めてやろうとしている。
それが少しくすぐったくて、それ以上に嬉しい。
生成りの布。
紺色の糸。
深緑のコード。
二人で選んだものが、長机の上に並んでいる。
まだ一針も縫っていない。
完成した形がどうなるのかも分からない。
きっと真っ直ぐにいかないところもある。
悠真なら、そのたびに気にするのだろう。
それを自分が止めながら、一つずつ教えていく。
「九条君、そこまで伸ばしたら十分だよ」
「これくらい?」
「うん。じゃあ切ってみて」
悠真が買ったばかりの糸切りばさみを手に取る。
小さな刃が閉じ、紺色の糸が一本、机の上へ落ちた。
「切れた」
「それくらいなら絡みにくいと思う。次は針に通すんだけど――」
彩花はそこで言葉を切り、悠真の手元を見る。
これから初めて糸を通す。
そのあと玉結びを覚えて、ようやく最初の一針になる。
栞が完成するのは、まだ先だ。
急ぐ必要はない。
今日中に完成しなくても構わない。
悠真が一つずつ覚えていく時間も含めて、今日二人でここへ来た意味なのだと思えた。
「まず、針持ってみて」
彩花がそう言うと、悠真は小さな針を慎重につまみ上げた。
「こう?」
「うん。じゃあ今度は――」
彩花は少しだけ椅子を寄せ、悠真の手元が見える位置から説明を始める。
窓から差し込む午後の光が、机の上の生成りの布を柔らかく照らしていた。




