↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/100

第27話

古本市の翌日の日曜日、彩花は宣言どおり図書館へ行かなかった。


 朝食を終えて自室へ戻ると、昨日買った九冊の本が机の脇に積まれている。その中から旧版小説を抜き出し、窓を少し開けてベッドへ腰を下ろした。


 六月も終わりが近い。梅雨の中休みらしい青空が見えていたが、風にはすでに夏の気配が混じっていて、開けた窓から入ってくる空気も涼しいというほどではなかった。


 それでも、外へ出る気にはならない。


 昨日は朝から出かけて、古本市の三十二店をすべて回り、そのあとカフェへ行った。帰宅してからも本を読み始め、結局いつもより少し遅い時間まで起きていた。


「今日は読む」


 誰に言うでもなく呟き、栞を挟んでいたページを開く。


 しばらくは静かだった。


 階下から掃除機の音が聞こえ、廊下を凛花が通る気配がする。ページをめくる音だけが部屋に残り、昨日とはまるで違う休日の時間が流れていく。


 一時間ほど読んだところで、机に置いていたスマートフォンが震えた。


 彩花は本から顔を上げる。


 悠真かと思った。


 けれど、画面に表示されていた名前は琴葉だった。


『彩花さん、おはようございます。昨日の古本市はいかがでしたか?』


「あ」


 彩花は身体を起こす。


 琴葉には、悠真と古本市へ行くことを話していた。


『おはよう。すごく楽しかったよ。九冊買った』


 送信すると、一分もしないうちに返事が来る。


『九冊。』


『買いすぎた』


『兄様も相当買ったと聞きました。』


『七冊』


『合わせて十六冊ですね。』


『数字にすると多いよね』


『兄様も昨夜、同じことを申しておりました。』


 彩花は吹き出した。


 似たような会話を昨日、悠真ともした。


『九条君、今日は本読んでる?』


『朝食後から部屋です。おそらく。』


『おそらく?』


『兄様の部屋まで確認しに行くほど暇ではありませんので。』


「琴葉さんらしい」


 笑いながら返事を考えていると、もう一通届いた。


『ところで彩花さん。以前のお話なのですが。』


 以前。


 何のことだろう。


 少しして続きが来た。


『お宅へ伺って、一緒に裁縫をしてもよいとおっしゃってくださった件です。』


 彩花は目を見開いた。


「そうだ」


 忘れていたわけではない。


 ただ、古本市が近づいていたこともあり、具体的な日付までは決めていなかった。


 以前、母の紗月から「琴葉ちゃんを家に呼んだら?」と言われた。凛花にも確認し、琴葉自身も行きたいと言ってくれている。


 あとは日を決めるだけだった。


『うん。来てほしい』


 そこまでは迷わず打てた。


 次にカレンダーを開く。


 来週の土曜日。


 自分には特に予定がない。


 凛花は午前中に剣道部があるはずだが、午後には帰ってくると言っていた。


『来週の土曜日って空いてる?』


 送る。


 返事を待つ間、彩花は少し緊張している自分に気づいた。


 琴葉とはもう二人で出かけた。


 手芸店にも行ったし、市民交流センターの作業室で一緒にブックカバーを作った。昼食も二人で食べた。


 それなのに、自宅へ呼ぶとなると少し違う。


(友達を家に呼ぶって、こんな感じだったっけ)


 中学生の頃に友達が来たことはある。


 けれど高校へ入ってからは初めてだ。


 しかも琴葉は、九条家の娘。


 そう考えた瞬間、彩花は眉を寄せた。


「違う」


 自分で口にする。


 九条家だから呼ぶわけではない。


 琴葉だから呼ぶ。


 それだけだ。


 スマートフォンが震えた。


『空いております。よろしいのですか?』


『もちろん。午後からでいい?』


『はい。』


『じゃあ一時くらい?』


『承知しました。とても楽しみです。』


 彩花はその文を見て、自然に頬が緩んだ。


『私も楽しみ』


 送信する。


 これで決まった。


 来週土曜日、午後一時。


 琴葉が水瀬家へ来る。


「お母さんに言わないと」


 彩花は本へ栞を挟み、ベッドから立ち上がった。


     ◇


「来週の土曜日?」


 キッチンでは、紗月が昼食の準備をしていた。


 冷蔵庫から取り出した野菜を並べ、レタスを水にさらしている。彩花が話しかけると、手を止めずに振り返った。


「うん。一時くらい」


「いいじゃない」


「本当にいい?」


「私が呼んだらって言ったんでしょう?」


「そうだけど」


「何をそんなに確認してるのよ」


「だって、人来るし」


「友達でしょう?」


「うん」


 紗月はそれで話は終わりというように頷いた。


「お昼は食べてから来るの?」


「多分。聞いてない」


「一時ならそうでしょうね。おやつくらい用意する?」


「私作る」


「じゃあお願い」


「何がいいかな」


「琴葉ちゃんの好きなもの知ってる?」


「甘いものは食べると思うけど……」


 彩花は考える。


 琴葉と昼食を食べたとき、特に好き嫌いの話はしていない。


「聞いてみる」


「アレルギーもね」


「あ、うん」


 それは大事だ。


 彩花がスマートフォンを出そうとしたところで、リビングから新聞を持った耕助が顔を出した。


「誰か来るのか?」


「琴葉さん」


「ことはさん?」


「九条君の妹」


「ああ」


 耕助の表情に理解が浮かぶ。


「前に話してた、裁縫した子か」


「そう」


「来週?」


「土曜日」


「そうか」


 それだけ言って、耕助はリビングへ戻りかけた。


 しかし二歩ほど進んだところで止まる。


「父さん、その日家にいていいのか?」


「何で?」


「いや、友達来るなら邪魔かと」


「別にいいよ」


「そうか」


「お父さんの家でもあるでしょう?」


「それはそうなんだが」


 妙に遠慮している父がおかしくて、彩花は笑った。


「普通にしてて」


「分かった」


「変に挨拶とかしないでね」


「父親が娘の友達に挨拶するのは変じゃないだろ」


「長いやつ」


「しない」


「本当?」


「信用がないな」


 耕助が苦笑しながら今度こそリビングへ戻る。


 その背中を見送り、紗月が小さく笑った。


「ちょっと緊張してるのよ」


「お父さんが?」


「彩花が高校の友達を家に連れてくるの、初めてだから」


「琴葉さん、学校違うけど」


「高校生になってからできた友達って意味」


「……そっか」


 彩花は少しだけ黙った。


 高校へ入学してから、自分の周りには思っていた以上に人が増えた。


 大地。


 文芸部の先輩たち。


 図書館で知り合った悠真。


 そこから知り合った琴葉や玲奈。


 中学までの友人がいなくなったわけではない。


 けれど、新しい場所で、新しい関係が増えている。


「部屋、片づけなきゃ」


 彩花が言う。


「一週間あるわよ」


「本が増えたの」


「ああ、九冊」


「どこ置こう」


「そこから?」


「重大問題だよ」


 紗月が声を立てて笑った。


     ◇


 昼食のあと。


 彩花は自室へ戻る途中で、凛花の部屋の扉が開いていることに気づいた。


 机に向かっていた凛花が、廊下を歩く妹へ視線を向ける。


「何?」


「来週の土曜日」


「うん」


「琴葉さん来ることになった」


 凛花の手が止まった。


「決まったの?」


「一時くらい」


「そう」


 返事は淡々としている。


 しかし彩花には、以前より少しだけ姉の内側が分かるようになってきた。


「楽しみ?」


「何で私が?」


「琴葉さんと話せるから」


「別に」


「そっか」


「……嫌じゃないけど」


 やっぱり。


 彩花は笑う。


「お姉ちゃん、午後は家にいる?」


「午前は部活。十二時前には終わると思うから、帰ってくる」


「じゃあ会えるね」


「私に会いに来るわけじゃないでしょう」


「そうだけど」


 凛花がペンを置いた。


「何するの?」


「まだ決めてない。裁縫するのは多分する」


「またブックカバー?」


「同じの作っても面白くないかな」


「琴葉さん、前に猫のボタン買ってたんでしょう?」


「白い猫の?」


「使ってないの?」


「一個はまだ残ってると思う」


 彩花は少し考える。


 前回、琴葉は小さな白い猫型のボタンを買っていた。


 ブックカバーそのものには使わず、次に何か作るとき用に取っておくと言っていたはずだ。


「小さいポーチとか?」


「いいんじゃない」


「巾着でもいいかな」


「琴葉さん、初心者なんでしょう?」


「うん」


「だったら簡単な方」


「じゃあ巾着かな」


 凛花は頷く。


 そこで彩花は姉の机を見る。


 教科書と問題集が整然と並び、その端に小さな布製のペンケースが置かれている。


「あ」


「何?」


「それ」


「これ?」


 凛花がペンケースへ触れる。


「私が作ったやつだ」


「そうだけど」


「まだ使ってるんだ」


「使えるから」


「中二のときのだよ?」


「壊れてないし」


 紺色の布で作った、細長いペンケース。


 彩花が裁縫を覚え始めた頃の作品だ。


 今見ると縫い目も少し曲がっているし、ファスナーの端の処理も甘い。


「もっと綺麗なの作り直そうか?」


「いらない」


「即答」


「これがいいから」


 凛花は当然のように言った。


 彩花は少しだけ目を瞬く。


「……そっか」


「何?」


「何でもない」


「またそれ?」


「最近よく言われる」


「誰に?」


「九条君」


 凛花の眉がほんのわずかに動いた。


 だが以前のような露骨な警戒は出ない。


「昨日、楽しかった?」


「うん」


 彩花は迷わず答える。


「すごく楽しかった」


「何冊買ったの?」


「九冊」


「買いすぎ」


「お母さんにも言われた」


「九条は?」


「七冊」


「二人とも買いすぎ」


「古本市だったから」


「理由になってない」


 昨日、何度もした会話だ。


 彩花は笑った。


「お姉ちゃんも今度行けばいいのに」


「本は読むけど、三十二店全部回るほどじゃない」


「楽しいよ?」


「彩花と九条だからできるんじゃない?」


 何気なく言われた言葉だった。


 彩花は一瞬だけ止まる。


「そうかな」


「私は途中で疲れる」


「九条君も全部見たかったから」


「でしょうね」


 凛花はまたペンを持つ。


「趣味合うんだから、いいんじゃない」


「……うん」


 彩花は小さく頷いた。


 同じものが好きだから、一緒にいて楽しい。


 それは最初から変わっていない。


 ただ、今は本の話だけをしているわけでもない。


 昨日だって、プリンの好みや文化祭や来年の話までした。


 そこまで考えて、彩花は首を横に振った。


 今日は琴葉が来る話をしに来たのだ。


「じゃあ来週、琴葉さん来たらお姉ちゃんも普通に話してね」


「普通にって何」


「怖い顔しないで」


「してない」


「九条君の話になったらするでしょう?」


「内容による」


「しないでね」


「内容による」


「お姉ちゃん」


「分かったわよ」


 凛花は少しだけ面倒そうに返した。


 けれど、その口元にはわずかな笑みがあった。


     ◇


 一週間は、思ったより早く過ぎた。


 彩花は琴葉へ食べ物の好みとアレルギーを確認し、金曜日の夜にレモン風味のパウンドケーキを焼いた。


 前回の古本市で買ったレシピ本とは別の、いつも使っているレシピを少しだけ変えたものだ。


 土曜日の午前十一時過ぎ。


 凛花が剣道部から帰宅するより少し前に、彩花はリビングのテーブルへ裁縫箱を広げていた。


「部屋でやらないの?」


 紗月がキッチンから尋ねる。


「最初はここ。布切るならテーブル広いし」


「なるほど」


「あとおやつもここで食べる」


「それが本命?」


「違うよ」


「本当?」


「裁縫が本命」


 言いながら、彩花は布を確認する。


 生成り。


 薄い青。


 深緑。


 小さな花柄。


 家にある端切れをいくつか出しておいた。


 琴葉が何を作りたいか決めてから選べばいい。


「彩花」


 階段から凛花が下りてきた。


 ジャージ姿ではなく、すでに家着へ着替えている。髪も整え直したらしい。


「お姉ちゃん、おかえり」


「ただいま」


「早かったね」


「今日は片づけまで早く終わったから」


 凛花はテーブルを見る。


「準備してるの?」


「うん」


「多くない?」


「選べた方が楽しいでしょう?」


「まあ」


 凛花は深緑の布を持ち上げる。


「これ、琴葉さん好きそう」


「前のブックカバーも深緑だった」


「じゃあ違う色選ぶかも」


「そうなんだよね」


 姉妹で布を見ていると、紗月がキッチンから顔を出した。


「凛花、琴葉ちゃん来たらお茶出してあげて」


「私が?」


「私ちょっと買い物行くから」


「お母さんいないの?」


 彩花が聞く。


「二時くらいには戻るわよ。お父さんも庭いじってるし」


「分かった」


「そんなに緊張しなくても、彩花の友達でしょう?」


「緊張してない」


「昨日から三回くらい部屋掃除してたの誰?」


「……一回だけだよ」


「本棚まで拭いてたわよ」


「本棚は埃あったから」


 凛花が横から見る。


「彩花、緊張してるの?」


「ちょっとだけ」


「何で?」


「家に来るの初めてだから」


「琴葉さんが?」


「高校入ってからできた友達が」


 凛花は少し黙った。


「……そう」


「変?」


「別に」


 それだけ答えたあと、凛花は深緑の布を元の位置へ戻した。


「大丈夫でしょう。琴葉さんなら」


「うん」


 彩花もそう思う。


     ◇


 午後零時五十五分。


 彩花のスマートフォンにメッセージが届いた。


『最寄り駅へ着きました。』


「あ、琴葉さん着いた」


 彩花は立ち上がる。


「迎え行ってくる」


「駅まで?」


「うん」


「十分くらいでしょう?」


「初めてだし、道分からないから」


 玄関へ向かう。


 凛花がリビングから声をかけた。


「彩花」


「何?」


「スマホ持った?」


「持った」


「鍵」


「持った」


「車気をつけて」


「お姉ちゃん、お母さんみたい」


「うるさい」


 彩花は笑いながら家を出た。


 外は薄曇りだった。


 梅雨らしい湿気はあるものの雨は降っておらず、住宅街の庭先では紫陽花がまだ色を残している。


 駅へ向かう道を歩きながら、彩花は少しだけ足を速めた。


 琴葉が自分の家へ来る。


 そのことが、思っていた以上に嬉しい。


 駅前が見えてくる。


 改札口から出てきた人たちの中に、すぐ琴葉を見つけた。


 白いブラウスに紺色のロングスカート。


 肩から小さめのバッグを掛け、もう片方の手には紙袋を持っている。


「琴葉さん!」


 彩花が呼ぶ。


 琴葉が顔を上げた。


 その表情が一気に柔らかくなる。


「彩花さん」


「ごめん、待った?」


「いいえ。今着いたところです」


「よかった」


 彩花は琴葉の紙袋を見る。


「それ何?」


「手土産です」


「えっ」


「母からです」


「そんなのいいのに」


「私もそう申し上げたのですが」


 琴葉がほんの少しだけ遠い目をする。


「『初めてお友達のお宅へ伺うのだから』と」


「麗華さんが?」


「はい」


「お母さん喜ぶと思うけど……」


「焼き菓子です。あまり大げさなものではありませんので、受け取ってください」


「うん。ありがとう」


 そこで彩花は少し考える。


「琴葉さん」


「はい」


「緊張してる?」


 琴葉が止まった。


「……なぜでしょう」


「ちょっといつもより丁寧」


「私は普段から丁寧です」


「そうだけど」


「…………」


「してる?」


 琴葉は小さく息を吐いた。


「少しだけ」


「私も」


「彩花さんも?」


「昨日から部屋片づけてた」


「では、お互い様ですね」


「うん」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 それだけで、彩花の肩から少し力が抜けた。


     ◇


「ここ」


 十分ほど歩き、水瀬家の前で彩花が足を止めた。


 ごく普通の二階建ての家。


 小さな庭。


 玄関脇には耕助が育てている鉢植えが並び、自転車が二台置かれている。


 琴葉は家を見上げた。


「素敵なお宅ですね」


「普通だよ」


 言ってから、彩花は自分で少し止まる。


 以前なら、その「普通」にはもっと違う意味が混ざっていた気がする。


 今はただ、豪邸でも特別な建物でもないというだけだった。


「入って」


「お邪魔いたします」


 玄関の扉を開ける。


「ただいま」


「お邪魔いたします」


 奥から足音がした。


 最初に出てきたのは凛花だった。


「いらっしゃい」


「水瀬先輩。本日はお邪魔いたします」


「そんなに固くならなくていいわよ」


「ありがとうございます」


 続いて耕助が顔を出す。


「いらっしゃい」


「初めまして。九条琴葉と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」


 深く頭を下げる琴葉を見て、耕助が一瞬固まった。


「あ、いや、そんな、こちらこそ……彩花と仲良くしてくれてありがとう」


「こちらこそ、いつも彩花さんには――」


「お父さん」


 彩花が止める。


「長くしないって言ったでしょう」


「まだ長くないだろ」


「始まり方が長くなるやつだった」


 凛花が横で口元を押さえる。


 琴葉も少し驚いたあと、くすりと笑った。


「すまん」


 耕助は頭をかいた。


「ゆっくりしていって」


「ありがとうございます」


「お母さんは買い物行ってる。あとで帰ってくるから」


 彩花が説明する。


「こちら、母からです」


 琴葉が紙袋を凛花へ渡そうとする。


「私?」


「どなたにお渡しすれば」


「お姉ちゃんでいいよ」


「じゃあ預かる」


 凛花が受け取る。


「わざわざありがとう。お母さんにも伝えておく」


「お願いいたします」


「琴葉さん、こっち」


 彩花がリビングへ案内する。


 琴葉が靴を揃え、後についてくる。


 廊下を進みながら、琴葉は周囲をきょろきょろ見るようなことはしなかった。


 それでも、壁に掛かった家族写真の前では一瞬だけ足が緩んだ。


「これ」


 彩花も気づく。


「小学生のとき」


 写真には、旅行先らしい海辺で並ぶ四人が写っている。


 彩花はまだ小さく、凛花の腕に抱きついていた。


「可愛らしいですね」


「やめて。昔だから」


「今も可愛いですよ」


「琴葉さんまで九条君みたいなこと言わないで」


 琴葉の眉が上がる。


「兄様が?」


「あ」


 彩花は止まった。


 後ろにいた凛花も止まった。


 空気が一瞬だけ静かになる。


「……言ったのですか?」


 琴葉が尋ねる。


「前に」


「へえ」


「琴葉さん、その顔やめて」


「どの顔でしょう」


「絶対面白がってる」


「そんなことは」


「琴葉さん」


「少しだけです」


 凛花が小さくため息をつく。


「玄関で立ち話してないで行くわよ」


「はーい」


 彩花は琴葉の背中を軽く押した。


     ◇


 リビングのテーブルへ並べた布を見た瞬間、琴葉の目が明るくなった。


「こんなに用意してくださったのですか?」


「家にあった端切れだけだよ」


「十分です」


「今日は何作る?」


「実は」


 琴葉がバッグを開く。


 中から小さな透明袋を取り出した。


「あ」


 白い猫型のボタン。


 以前、二人で手芸店へ行ったときに買ったものだ。


「持ってきたんだ」


「はい。せっかくなので使いたくて」


「じゃあこれに合うものがいいね」


 彩花は布を一枚ずつ広げる。


「小さい巾着とかどう? 紐で閉じるやつ」


「作れますか?」


「できるよ。ブックカバーより簡単かも」


「では、それにしたいです」


「何入れる?」


「まだ決めていません」


「じゃあ小さめ?」


「はい」


 二人で布を選び始める。


 琴葉は前回の深緑とは違い、今日は薄い青の布を手に取った。


「これが好きです」


「猫の白も目立つね」


「はい」


「じゃあ内側どうする?」


「内側も必要ですか?」


「一枚でも作れるけど、裏地つけると綺麗」


「難しくなります?」


「少し。でも琴葉さんなら大丈夫だと思う」


「では、つけます」


 迷いがない。


 彩花は笑った。


「前より積極的になったね」


「先生がよいので」


「先生じゃないよ」


「では友人がよいので」


 今度は彩花が止まった。


 琴葉はさらりと言っただけだ。


 それでも、嬉しい。


「……それならいい」


「はい」


 二人で布を選ぶ。


 裏地は生成りに決まった。


 彩花が型紙代わりの紙へ寸法を書いていると、凛花が麦茶を三つ持ってきた。


「はい」


「ありがとうございます」


「お姉ちゃんも飲むの?」


「駄目?」


「全然」


 凛花は少し離れた椅子へ座る。


 琴葉が布を見せた。


「水瀬先輩、こちらはいかがでしょう」


「いいと思う。前の深緑より柔らかい感じ」


「やはり覚えていらしたのですね」


「彩花が写真見せてくれたから」


「お姉ちゃん、結構気に入ってたよ」


「余計なこと言わなくていい」


「本当ですか?」


「……上手だったと思う」


 琴葉の表情がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます」


 凛花は少しだけ視線を逸らした。


 彩花はその横顔を見て、笑いそうになるのを堪える。


「彩花」


「何?」


「何で笑ってるの」


「笑ってない」


「顔」


「九条君みたいなこと言う」


「九条?」


 凛花の眉が動く。


 琴葉がすぐに反応した。


「兄様は彩花さんの表情が分かるのですか?」


「琴葉さん」


「興味があります」


「裁縫しよう」


「まだ布を切っていません」


「じゃあ切ろう」


 彩花は強引に話を戻した。


 琴葉が楽しそうに笑う。


 凛花も呆れたように息を吐きながら、席を立たなかった。


     ◇


 裁縫を始めて一時間ほど経った。


 前回と違い、琴葉は針の持ち方や糸の始末で迷うことが減っていた。


「ここ、縫い代同じくらい?」


「そう。そこから端まで真っ直ぐ」


「曲がりそうです」


「ゆっくりで大丈夫」


「はい」


 彩花は隣に座って見守る。


 手を出しすぎない。


 分からないところだけ説明する。


 前回より、その距離の取り方にも慣れていた。


 凛花は途中で自室へ戻った。


 耕助も庭へ出ている。


 リビングには二人だけになり、窓の外から鳥の声と遠くを走る車の音が聞こえていた。


「彩花さん」


「うん?」


「こうしていると」


 琴葉は針から目を離さないまま言った。


「以前、一緒に出かけたときより、少し不思議です」


「何が?」


「彩花さんのお宅にいることが」


「私も」


「彩花さんもですか?」


「うん。琴葉さんがそこに座って裁縫してるの、まだちょっと変な感じ」


「迷惑という意味では」


「違う違う」


 彩花はすぐに首を振る。


「嬉しい方」


 琴葉の手が一瞬止まる。


「……私もです」


「よかった」


「私、彩花さんと友人になれてよかったと思っています」


 静かな声だった。


 彩花はすぐには返さなかった。


 琴葉との最初のつながりは、悠真だった。


 琴葉が自分へ興味を持った理由も、最初は兄のことがあったからだ。


 でも、今は違う。


 悠真がいなくても会う。


 メッセージをする。


 裁縫をする。


 家にも来ている。


「私も」


 彩花は笑った。


「琴葉さんと友達になれてよかった」


 琴葉が顔を上げる。


「はい」


 その表情は、学校で見せる上品な九条家の令嬢らしいものではなかった。


 もっと年相応で、少し照れている。


 彩花はそれを見て、胸の奥が温かくなった。


「だからさ」


「はい」


「今度は裁縫じゃなくても遊ぼうよ」


「ぜひ」


「玲奈さんも誘って」


「玲奈も喜ぶと思います」


「三人で何しよう」


「玲奈でしたら、買い物でも映画でも喜ぶでしょうね」


「映画いいね」


「ただし」


 琴葉が少しだけ真顔になる。


「玲奈は恋愛映画を見ると、途中から登場人物の行動へかなり口を出します」


「映画館で?」


「小声ですが」


「ちょっと見たい」


「私は隣で恥ずかしいです」


「面白そう」


「彩花さんまで」


 二人で笑う。


 そこに悠真の名前は出なかった。


 出なくても、会話は続く。


 そのことが、彩花には嬉しかった。


     ◇


「ただいま」


 午後二時過ぎ。


 玄関から紗月の声がした。


「お母さん帰ってきた」


 彩花が立ち上がる。


 琴葉も針を置こうとする。


「そのままでいいよ」


「でもご挨拶を」


「あ、そっか」


 二人で玄関へ向かう。


 紗月は買い物袋を持ったまま靴を脱いでいた。


「おかえり」


「ただいま。琴葉ちゃん来てる?」


「はい」


 琴葉が一歩前へ出る。


「初めまして。九条琴葉と申します。本日は――」


「ああ、そんなにかしこまらなくて大丈夫よ」


 紗月は笑った。


「いらっしゃい。彩花と仲良くしてくれてありがとう」


「こちらこそ、いつもお世話になっております」


「お世話っていう年齢でもないでしょう?」


 その言葉に琴葉が少し目を丸くする。


 紗月は気にせず買い物袋を持ち直した。


「お菓子もありがとう。凛花から聞いたわ。お母様によろしく伝えてね」


「はい」


「何作ってるの?」


「巾着です」


「見せて」


 琴葉の緊張が少しずつほどけていくのが、彩花には分かった。


 母は琴葉を「九条家のお嬢様」として扱っていない。


 彩花の友達。


 ただそれだけだ。


「お母さん」


「何?」


「おやつ出していい?」


「いいわよ。彩花が作ったやつでしょう?」


「うん」


「私も食べようかな」


「お母さんの分もあるよ」


「さすが」


 紗月はそのままキッチンへ入っていった。


 琴葉が小さく息を吐く。


「緊張した?」


「少し」


「お母さん、あんな感じだから」


「素敵なお母様ですね」


「そう?」


「はい」


 琴葉はキッチンにいる紗月の背中を少し見てから、彩花へ向き直った。


「とても自然に迎えてくださって」


「友達だからじゃない?」


「……そうですね」


 琴葉が微笑む。


 その言葉を、嬉しそうに受け取った。


     ◇


 午後三時。


 巾着はまだ完成していなかった。


 けれど一度休憩することにして、彩花が昨日焼いたパウンドケーキを切る。


「レモン?」


 凛花がリビングへ戻ってきた。


「うん」


「昨日作ってたやつ」


「琴葉さん来るから」


「私も食べていい?」


「もちろん」


「私もいただいてよろしいのですか?」


 紗月まで席につく。


「みんなの分あるよ」


 彩花は四人分の皿を並べた。


 耕助は庭仕事が終わってから食べると言っている。


「いただきます」


 琴葉が一口食べる。


 彩花は無意識にその顔を見る。


「……おいしいです」


「本当?」


「はい。とても」


「よかった」


「レモンの香りがしますが、酸味は強くないですね」


「皮も少し入れてる」


「彩花さん、こういうものも作れるのですね」


「お菓子作るの好きだから」


 彩花は自然に答えた。


 凛花がその横顔を見る。


 以前なら「大したものじゃない」と付け加えていたかもしれない。


 けれど今は、それで終わる。


「彩花は昔から作ってるからね」


 紗月が言う。


「最初はすごかったけど」


「お母さん」


「何?」


「その話する?」


「初めてのクッキー?」


「しなくていい」


 琴葉が興味を示す。


「初めてのクッキー?」


「形がすごかったの」


 紗月が笑う。


「星の型で抜いたはずなのに、焼いたら何か分からなくなって」


「お母さん!」


「でもおいしかったでしょう?」


「味はね」


 凛花が口を挟む。


「私、覚えてる」


「お姉ちゃんまで」


「彩花が泣きそうな顔してたから」


「泣いてないよ」


「してた」


 凛花はパウンドケーキを一口食べる。


「でも、あれ見たときすごいと思った」


 彩花が止まる。


 覚えている。


 小さかった頃。


 初めて自分だけで生地を混ぜ、母に手伝ってもらいながら焼いたクッキー。


 形は不格好だった。


 それでも凛花が言ってくれた。


『彩花、すごい。私には絶対作れない』


「……覚えてたんだ」


「覚えてるわよ」


「私も」


 紗月が笑う。


「凛花、三枚くらい食べてたもの」


「四枚」


「そこまで覚えてるの?」


「おいしかったから」


 彩花は少しだけ俯いた。


 胸の奥にあるのは、痛みではない。


 懐かしさ。


 そして、嬉しさ。


「今度また作ろうかな」


「何を?」


「クッキー」


「星?」


「今度はちゃんと星になるよ」


「それは知ってる」


 琴葉が姉妹を交互に見る。


「お二人、本当に仲がよいのですね」


「うん」


 彩花は答える。


 凛花も否定しなかった。


「昔から」


 彩花は続けた。


「お姉ちゃんのこと、大好きだから」


「彩花」


 凛花の手が止まる。


「何?」


「急に言わないで」


「何で?」


「……何でも」


 凛花が視線を逸らす。


 耳が少し赤い。


 琴葉がその変化を見逃さなかった。


「水瀬先輩」


「何?」


「嬉しいのですね」


「九条さん」


「はい」


「巾着、完成させなくていいの?」


「休憩中です」


「そう」


 琴葉は上品に微笑む。


 彩花には、その目が少しだけ楽しそうに見えた。


     ◇


 休憩後。


 巾着作りは仕上げに入った。


 紐を通す部分を縫い、最後に白い猫型のボタンを飾りとして付ける。


「ここ?」


「もう少し右」


「このくらいでしょうか」


「うん。可愛い」


 薄い青の布に、白い猫。


 小さな巾着だが、琴葉らしい落ち着いた雰囲気がある。


 琴葉が最後の糸を切った。


「できました」


「完成」


 二人で机の上へ置く。


 前回のブックカバーより、縫い目が明らかに整っている。


「上手くなったね」


「本当ですか?」


「うん。ここ見て」


 彩花が最初と最後の縫い目を比べる。


「幅が揃ってる」


「……本当ですね」


「琴葉さん、手先器用だと思う」


「兄様よりは?」


「まだ九条君やってないでしょう?」


「そうでした」


「比べないの」


 彩花が言う。


 琴葉が一瞬止まり、それから笑った。


「はい」


「九条君は九条君」


「兄様にも同じことをおっしゃるのでしょうか」


「言うと思う」


「兄様、喜びそうですね」


「何で?」


「彩花さんに教えていただけるので」


 彩花は少しだけ手を止める。


 悠真に裁縫を教える話は、まだ日付を決めていない。


 生成りの布を使うところまでは話している。


「いつにしようかな」


「決めていないのですか?」


「うん。古本市あったし」


「では、そのうちですね」


「そのうち」


 琴葉はそれ以上何も言わなかった。


 兄の予定を勝手に決めることもない。


 彩花は完成した巾着を琴葉へ渡す。


「はい。二作目」


「ありがとうございます」


「私ほとんどやってないよ」


「教えていただきました」


「でも作ったのは琴葉さん」


「では」


 琴葉は巾着を両手で持ち、少し考える。


「私が作れて、彩花さんが手伝ってくださったものです」


「うん」


「それが一番正確ですね」


「そうだね」


 彩花は笑った。


     ◇


 午後五時前。


 そろそろ琴葉が帰る時間になった。


「駅まで送るよ」


「ありがとうございます」


「私も行こうか?」


 凛花が言う。


 彩花と琴葉が同時に振り返る。


「お姉ちゃんも?」


「散歩」


「本当に?」


「何」


「別に」


 三人で玄関へ向かう。


 紗月と耕助が見送りに出てきた。


「今日はありがとう」


 紗月が言う。


「またいつでも来てね」


「はい。ありがとうございます」


 琴葉が頭を下げる。


「お菓子、おいしかったです」


「それは彩花に言ってあげて」


「もう伝えました」


「ならよかった」


 耕助も頷く。


「気をつけて帰って」


「ありがとうございます」


「お父さん、今日は短いね」


 彩花が言う。


「短くしろって言っただろ」


「ちゃんと守った」


「父さんを何だと思ってるんだ」


 琴葉が小さく笑った。


「またお邪魔してもよろしいでしょうか」


 その言葉に、彩花が先に答えた。


「もちろん」


 紗月も笑う。


「いつでもどうぞ」


「ありがとうございます」


 三人で家を出る。


     ◇


 夕方の住宅街を、彩花と琴葉と凛花が並んで歩く。


 昼より湿気が和らぎ、風が少しだけ涼しくなっていた。


「今日は楽しかったです」


 琴葉が言う。


「私も」


「水瀬先輩ともお話しできましたし」


「私はほとんど何もしてないけど」


「十分です」


「お姉ちゃん、途中からずっといたもんね」


「家だから」


「最初、自室戻ったでしょう?」


「休憩してただけ」


「ふーん」


「何」


「何でも」


 彩花は笑う。


 凛花が少し不満そうな顔をする。


 駅が見えてきた。


 そこで琴葉が歩調を少し緩めた。


「彩花さん」


「うん?」


「今日、来てよかったです」


「うん」


「彩花さんがどんな家で過ごしているのか、少し分かった気がします」


 凛花が琴葉を見る。


 彩花も少しだけ考えた。


「がっかりしなかった?」


「なぜです?」


「九条家と全然違うでしょう?」


 言ってから、以前ならもっと自分を下げる響きになっていただろうと思う。


 今はただ違いを言っただけだった。


 琴葉は少し考えたあと、首を横に振る。


「違います。でも、それだけです」


「そっか」


「それに」


 琴葉は微笑んだ。


「私は好きです。水瀬家」


 彩花の胸が温かくなる。


「ありがとう」


 今度は、その言葉を素直に受け取れた。


     ◇


 駅で琴葉を見送ったあと、彩花と凛花は二人で家へ戻った。


 来た道を歩きながら、しばらく会話はなかった。


「彩花」


「何?」


「いい友達できたね」


 凛花が不意に言う。


 彩花は姉を見る。


「うん」


「琴葉さん」


「うん」


「……よかった」


 凛花の声は静かだった。


「お姉ちゃん、心配してた?」


「少し」


「何を?」


「高校入ってから」


 凛花は前を向いたまま歩く。


「彩花、最初ちょっと緊張してたでしょう。中学から一緒の子もいるけど、クラス変わったし」


「うん」


「だから」


 そこまで言って、凛花は口を閉じる。


「でも今は大丈夫そう」


「大地もいるし、部活も楽しいよ」


「知ってる」


「九条君もいるし」


「……それも知ってる」


 少しだけ声が低くなった。


 彩花は笑う。


「お姉ちゃん」


「何」


「九条君のときだけ違う」


「警戒はしてるって言ったでしょう」


「でも前より平気でしょう?」


「…………」


「今日だって、琴葉さんと普通に話してたし」


「琴葉さんと九条は別」


「兄妹だよ?」


「別人でしょう」


 彩花は一瞬止まりかけた。


 凛花も気づいたらしい。


 二人の視線が合う。


「お姉ちゃん」


「何」


「今の、九条君が前に言ってたのと同じ」


「……何が?」


「私とお姉ちゃんは別の人って」


 凛花が黙る。


 彩花も、それ以上は言わなかった。


 ただ少し嬉しかった。


 姉も分かっている。


 家族だからといって同じではない。


 誰かを見るなら、その人自身を見る。


「九条君」


 彩花が少しだけ笑う。


「お姉ちゃんが聞いたら喜ぶかも」


「言わなくていい」


「どうしようかな」


「彩花」


「冗談だよ」


「本当に?」


「多分」


「多分って何」


 二人で歩く。


 家まであと数分。


 夕方の空は、雲の隙間から少しだけ橙色に染まり始めていた。


     ◇


 その夜。


 彩花が自室で本を読んでいると、琴葉からメッセージが届いた。


『無事に帰宅しました。本日は本当にありがとうございました。』


『こちらこそ。楽しかった』


 すぐに写真が届く。


 完成した薄青の巾着が、どこか見覚えのない大きなテーブルの上に置かれている。


 白い猫のボタンもよく見えた。


『母にも見せました。褒めてくれました。』


『よかった』


『兄様にも。』


 彩花の指が止まる。


『九条君にも?』


『はい。』


『何て?』


 送ってから、何で聞いたのだろうと思った。


 けれど取り消すほどでもない。


 琴葉から返事が来る。


『「前より上手くなってる」と。』


『よかったね』


『そのあと、自分の栞のことを思い出したようです。』


「……あ」


 彩花は笑った。


 想像できる。


『まだ日決めてないね』


『兄様から急かすことはないと思います。』


『うん』


『ですが、楽しみにはしているようです。』


 彩花は机の引き出しを開ける。


 中には以前悠真へ見せた、生成りと深緑の布の端切れが入っている。


 悠真が選んだのは生成りだった。


 縫い目が見やすく、初心者向き。


「そろそろ決めてもいいかな」


 独り言が漏れる。


 古本市も終わった。


 来週以降なら、特に大きな予定はない。


 ただ、今日は琴葉との時間だった。


 今すぐ悠真との予定へ切り替える必要もない気がした。


 彩花は引き出しを閉める。


『また来てね』


 琴葉へ送る。


『はい。次は玲奈も誘って出かけましょう。』


『映画とか』


『覚えていらしたのですね。』


『玲奈さんの映画中のツッコミ見たい』


『私は止めませんからね。』


『楽しみ』


 彩花は笑いながらスマートフォンを置いた。


 今日、琴葉が自分の家にいた。


 リビングで裁縫をして、母のお茶を飲んで、凛花と話して、自分が作ったパウンドケーキを食べた。


 それがもう、九条悠真の妹が家に来た、という一日には思えなかった。


 友達が遊びに来た。


 ただ、それだけだった。


 そして、その「それだけ」が彩花には嬉しい。


 机の上に置いていた本を開く。


 数行読んだところで、スマートフォンがもう一度震えた。


 今度は悠真だった。


『琴葉、帰ってきた。今日はありがとう。』


 彩花は画面を見て、少し笑う。


『うん。楽しかったよ。』


 送る。


 すぐに既読がついた。


『ずっと巾着見せてくる。』


『頑張って作ったから』


『分かってる。上手くなってた。』


『でしょう?』


『先生がいいから?』


 彩花は吹き出した。


『本人が頑張ったからです。』


『はい。』


 素直な返事。


 少しして、もう一通。


『俺もそのうちお願いします。』


 彩花は引き出しを見る。


 生成りの布が入っている場所。


 今度は少しだけ考えてから返した。


『うん。そろそろ日決めようか。』


 既読がつく。


 返事まで、ほんの少しだけ間が空いた。


『いいの?』


『教えるって言ったでしょう?』


『言ってた。』


『じゃあ今度、予定合わせよう。』


『うん。楽しみにしてる。』


 彩花はその文字を見つめた。


 それから、自然に笑った。


『私も。』


 送信する。


 琴葉が家へ来た一日は、それだけでちゃんと楽しかった。


 そして、その一日の終わりに、今度は悠真との次の予定が少しだけ動き始めた。


 けれど彩花は、すぐに日付を決めようとはしなかった。


 今日は今日のまま残しておきたかったからだ。


 友達が自分の家へ来てくれた、初めての土曜日。


 その嬉しさをもう少し味わってから、次の楽しみを考えればいい。


 彩花はスマートフォンを伏せ、読みかけの本を開いた。


 窓の外では、昼間より涼しくなった風がカーテンを揺らしている。


 ページをめくる前に、もう一度だけ完成した巾着の写真を思い出した。


 次に琴葉が来るときは、何を作ろう。


 玲奈と三人なら、どこへ行こう。


 悠真には、どんな栞ができるだろう。


 そんなことを考えられる今の自分を、彩花は少しだけ好きになれそうな気がしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。