第27話
古本市の翌日の日曜日、彩花は宣言どおり図書館へ行かなかった。
朝食を終えて自室へ戻ると、昨日買った九冊の本が机の脇に積まれている。その中から旧版小説を抜き出し、窓を少し開けてベッドへ腰を下ろした。
六月も終わりが近い。梅雨の中休みらしい青空が見えていたが、風にはすでに夏の気配が混じっていて、開けた窓から入ってくる空気も涼しいというほどではなかった。
それでも、外へ出る気にはならない。
昨日は朝から出かけて、古本市の三十二店をすべて回り、そのあとカフェへ行った。帰宅してからも本を読み始め、結局いつもより少し遅い時間まで起きていた。
「今日は読む」
誰に言うでもなく呟き、栞を挟んでいたページを開く。
しばらくは静かだった。
階下から掃除機の音が聞こえ、廊下を凛花が通る気配がする。ページをめくる音だけが部屋に残り、昨日とはまるで違う休日の時間が流れていく。
一時間ほど読んだところで、机に置いていたスマートフォンが震えた。
彩花は本から顔を上げる。
悠真かと思った。
けれど、画面に表示されていた名前は琴葉だった。
『彩花さん、おはようございます。昨日の古本市はいかがでしたか?』
「あ」
彩花は身体を起こす。
琴葉には、悠真と古本市へ行くことを話していた。
『おはよう。すごく楽しかったよ。九冊買った』
送信すると、一分もしないうちに返事が来る。
『九冊。』
『買いすぎた』
『兄様も相当買ったと聞きました。』
『七冊』
『合わせて十六冊ですね。』
『数字にすると多いよね』
『兄様も昨夜、同じことを申しておりました。』
彩花は吹き出した。
似たような会話を昨日、悠真ともした。
『九条君、今日は本読んでる?』
『朝食後から部屋です。おそらく。』
『おそらく?』
『兄様の部屋まで確認しに行くほど暇ではありませんので。』
「琴葉さんらしい」
笑いながら返事を考えていると、もう一通届いた。
『ところで彩花さん。以前のお話なのですが。』
以前。
何のことだろう。
少しして続きが来た。
『お宅へ伺って、一緒に裁縫をしてもよいとおっしゃってくださった件です。』
彩花は目を見開いた。
「そうだ」
忘れていたわけではない。
ただ、古本市が近づいていたこともあり、具体的な日付までは決めていなかった。
以前、母の紗月から「琴葉ちゃんを家に呼んだら?」と言われた。凛花にも確認し、琴葉自身も行きたいと言ってくれている。
あとは日を決めるだけだった。
『うん。来てほしい』
そこまでは迷わず打てた。
次にカレンダーを開く。
来週の土曜日。
自分には特に予定がない。
凛花は午前中に剣道部があるはずだが、午後には帰ってくると言っていた。
『来週の土曜日って空いてる?』
送る。
返事を待つ間、彩花は少し緊張している自分に気づいた。
琴葉とはもう二人で出かけた。
手芸店にも行ったし、市民交流センターの作業室で一緒にブックカバーを作った。昼食も二人で食べた。
それなのに、自宅へ呼ぶとなると少し違う。
(友達を家に呼ぶって、こんな感じだったっけ)
中学生の頃に友達が来たことはある。
けれど高校へ入ってからは初めてだ。
しかも琴葉は、九条家の娘。
そう考えた瞬間、彩花は眉を寄せた。
「違う」
自分で口にする。
九条家だから呼ぶわけではない。
琴葉だから呼ぶ。
それだけだ。
スマートフォンが震えた。
『空いております。よろしいのですか?』
『もちろん。午後からでいい?』
『はい。』
『じゃあ一時くらい?』
『承知しました。とても楽しみです。』
彩花はその文を見て、自然に頬が緩んだ。
『私も楽しみ』
送信する。
これで決まった。
来週土曜日、午後一時。
琴葉が水瀬家へ来る。
「お母さんに言わないと」
彩花は本へ栞を挟み、ベッドから立ち上がった。
◇
「来週の土曜日?」
キッチンでは、紗月が昼食の準備をしていた。
冷蔵庫から取り出した野菜を並べ、レタスを水にさらしている。彩花が話しかけると、手を止めずに振り返った。
「うん。一時くらい」
「いいじゃない」
「本当にいい?」
「私が呼んだらって言ったんでしょう?」
「そうだけど」
「何をそんなに確認してるのよ」
「だって、人来るし」
「友達でしょう?」
「うん」
紗月はそれで話は終わりというように頷いた。
「お昼は食べてから来るの?」
「多分。聞いてない」
「一時ならそうでしょうね。おやつくらい用意する?」
「私作る」
「じゃあお願い」
「何がいいかな」
「琴葉ちゃんの好きなもの知ってる?」
「甘いものは食べると思うけど……」
彩花は考える。
琴葉と昼食を食べたとき、特に好き嫌いの話はしていない。
「聞いてみる」
「アレルギーもね」
「あ、うん」
それは大事だ。
彩花がスマートフォンを出そうとしたところで、リビングから新聞を持った耕助が顔を出した。
「誰か来るのか?」
「琴葉さん」
「ことはさん?」
「九条君の妹」
「ああ」
耕助の表情に理解が浮かぶ。
「前に話してた、裁縫した子か」
「そう」
「来週?」
「土曜日」
「そうか」
それだけ言って、耕助はリビングへ戻りかけた。
しかし二歩ほど進んだところで止まる。
「父さん、その日家にいていいのか?」
「何で?」
「いや、友達来るなら邪魔かと」
「別にいいよ」
「そうか」
「お父さんの家でもあるでしょう?」
「それはそうなんだが」
妙に遠慮している父がおかしくて、彩花は笑った。
「普通にしてて」
「分かった」
「変に挨拶とかしないでね」
「父親が娘の友達に挨拶するのは変じゃないだろ」
「長いやつ」
「しない」
「本当?」
「信用がないな」
耕助が苦笑しながら今度こそリビングへ戻る。
その背中を見送り、紗月が小さく笑った。
「ちょっと緊張してるのよ」
「お父さんが?」
「彩花が高校の友達を家に連れてくるの、初めてだから」
「琴葉さん、学校違うけど」
「高校生になってからできた友達って意味」
「……そっか」
彩花は少しだけ黙った。
高校へ入学してから、自分の周りには思っていた以上に人が増えた。
大地。
文芸部の先輩たち。
図書館で知り合った悠真。
そこから知り合った琴葉や玲奈。
中学までの友人がいなくなったわけではない。
けれど、新しい場所で、新しい関係が増えている。
「部屋、片づけなきゃ」
彩花が言う。
「一週間あるわよ」
「本が増えたの」
「ああ、九冊」
「どこ置こう」
「そこから?」
「重大問題だよ」
紗月が声を立てて笑った。
◇
昼食のあと。
彩花は自室へ戻る途中で、凛花の部屋の扉が開いていることに気づいた。
机に向かっていた凛花が、廊下を歩く妹へ視線を向ける。
「何?」
「来週の土曜日」
「うん」
「琴葉さん来ることになった」
凛花の手が止まった。
「決まったの?」
「一時くらい」
「そう」
返事は淡々としている。
しかし彩花には、以前より少しだけ姉の内側が分かるようになってきた。
「楽しみ?」
「何で私が?」
「琴葉さんと話せるから」
「別に」
「そっか」
「……嫌じゃないけど」
やっぱり。
彩花は笑う。
「お姉ちゃん、午後は家にいる?」
「午前は部活。十二時前には終わると思うから、帰ってくる」
「じゃあ会えるね」
「私に会いに来るわけじゃないでしょう」
「そうだけど」
凛花がペンを置いた。
「何するの?」
「まだ決めてない。裁縫するのは多分する」
「またブックカバー?」
「同じの作っても面白くないかな」
「琴葉さん、前に猫のボタン買ってたんでしょう?」
「白い猫の?」
「使ってないの?」
「一個はまだ残ってると思う」
彩花は少し考える。
前回、琴葉は小さな白い猫型のボタンを買っていた。
ブックカバーそのものには使わず、次に何か作るとき用に取っておくと言っていたはずだ。
「小さいポーチとか?」
「いいんじゃない」
「巾着でもいいかな」
「琴葉さん、初心者なんでしょう?」
「うん」
「だったら簡単な方」
「じゃあ巾着かな」
凛花は頷く。
そこで彩花は姉の机を見る。
教科書と問題集が整然と並び、その端に小さな布製のペンケースが置かれている。
「あ」
「何?」
「それ」
「これ?」
凛花がペンケースへ触れる。
「私が作ったやつだ」
「そうだけど」
「まだ使ってるんだ」
「使えるから」
「中二のときのだよ?」
「壊れてないし」
紺色の布で作った、細長いペンケース。
彩花が裁縫を覚え始めた頃の作品だ。
今見ると縫い目も少し曲がっているし、ファスナーの端の処理も甘い。
「もっと綺麗なの作り直そうか?」
「いらない」
「即答」
「これがいいから」
凛花は当然のように言った。
彩花は少しだけ目を瞬く。
「……そっか」
「何?」
「何でもない」
「またそれ?」
「最近よく言われる」
「誰に?」
「九条君」
凛花の眉がほんのわずかに動いた。
だが以前のような露骨な警戒は出ない。
「昨日、楽しかった?」
「うん」
彩花は迷わず答える。
「すごく楽しかった」
「何冊買ったの?」
「九冊」
「買いすぎ」
「お母さんにも言われた」
「九条は?」
「七冊」
「二人とも買いすぎ」
「古本市だったから」
「理由になってない」
昨日、何度もした会話だ。
彩花は笑った。
「お姉ちゃんも今度行けばいいのに」
「本は読むけど、三十二店全部回るほどじゃない」
「楽しいよ?」
「彩花と九条だからできるんじゃない?」
何気なく言われた言葉だった。
彩花は一瞬だけ止まる。
「そうかな」
「私は途中で疲れる」
「九条君も全部見たかったから」
「でしょうね」
凛花はまたペンを持つ。
「趣味合うんだから、いいんじゃない」
「……うん」
彩花は小さく頷いた。
同じものが好きだから、一緒にいて楽しい。
それは最初から変わっていない。
ただ、今は本の話だけをしているわけでもない。
昨日だって、プリンの好みや文化祭や来年の話までした。
そこまで考えて、彩花は首を横に振った。
今日は琴葉が来る話をしに来たのだ。
「じゃあ来週、琴葉さん来たらお姉ちゃんも普通に話してね」
「普通にって何」
「怖い顔しないで」
「してない」
「九条君の話になったらするでしょう?」
「内容による」
「しないでね」
「内容による」
「お姉ちゃん」
「分かったわよ」
凛花は少しだけ面倒そうに返した。
けれど、その口元にはわずかな笑みがあった。
◇
一週間は、思ったより早く過ぎた。
彩花は琴葉へ食べ物の好みとアレルギーを確認し、金曜日の夜にレモン風味のパウンドケーキを焼いた。
前回の古本市で買ったレシピ本とは別の、いつも使っているレシピを少しだけ変えたものだ。
土曜日の午前十一時過ぎ。
凛花が剣道部から帰宅するより少し前に、彩花はリビングのテーブルへ裁縫箱を広げていた。
「部屋でやらないの?」
紗月がキッチンから尋ねる。
「最初はここ。布切るならテーブル広いし」
「なるほど」
「あとおやつもここで食べる」
「それが本命?」
「違うよ」
「本当?」
「裁縫が本命」
言いながら、彩花は布を確認する。
生成り。
薄い青。
深緑。
小さな花柄。
家にある端切れをいくつか出しておいた。
琴葉が何を作りたいか決めてから選べばいい。
「彩花」
階段から凛花が下りてきた。
ジャージ姿ではなく、すでに家着へ着替えている。髪も整え直したらしい。
「お姉ちゃん、おかえり」
「ただいま」
「早かったね」
「今日は片づけまで早く終わったから」
凛花はテーブルを見る。
「準備してるの?」
「うん」
「多くない?」
「選べた方が楽しいでしょう?」
「まあ」
凛花は深緑の布を持ち上げる。
「これ、琴葉さん好きそう」
「前のブックカバーも深緑だった」
「じゃあ違う色選ぶかも」
「そうなんだよね」
姉妹で布を見ていると、紗月がキッチンから顔を出した。
「凛花、琴葉ちゃん来たらお茶出してあげて」
「私が?」
「私ちょっと買い物行くから」
「お母さんいないの?」
彩花が聞く。
「二時くらいには戻るわよ。お父さんも庭いじってるし」
「分かった」
「そんなに緊張しなくても、彩花の友達でしょう?」
「緊張してない」
「昨日から三回くらい部屋掃除してたの誰?」
「……一回だけだよ」
「本棚まで拭いてたわよ」
「本棚は埃あったから」
凛花が横から見る。
「彩花、緊張してるの?」
「ちょっとだけ」
「何で?」
「家に来るの初めてだから」
「琴葉さんが?」
「高校入ってからできた友達が」
凛花は少し黙った。
「……そう」
「変?」
「別に」
それだけ答えたあと、凛花は深緑の布を元の位置へ戻した。
「大丈夫でしょう。琴葉さんなら」
「うん」
彩花もそう思う。
◇
午後零時五十五分。
彩花のスマートフォンにメッセージが届いた。
『最寄り駅へ着きました。』
「あ、琴葉さん着いた」
彩花は立ち上がる。
「迎え行ってくる」
「駅まで?」
「うん」
「十分くらいでしょう?」
「初めてだし、道分からないから」
玄関へ向かう。
凛花がリビングから声をかけた。
「彩花」
「何?」
「スマホ持った?」
「持った」
「鍵」
「持った」
「車気をつけて」
「お姉ちゃん、お母さんみたい」
「うるさい」
彩花は笑いながら家を出た。
外は薄曇りだった。
梅雨らしい湿気はあるものの雨は降っておらず、住宅街の庭先では紫陽花がまだ色を残している。
駅へ向かう道を歩きながら、彩花は少しだけ足を速めた。
琴葉が自分の家へ来る。
そのことが、思っていた以上に嬉しい。
駅前が見えてくる。
改札口から出てきた人たちの中に、すぐ琴葉を見つけた。
白いブラウスに紺色のロングスカート。
肩から小さめのバッグを掛け、もう片方の手には紙袋を持っている。
「琴葉さん!」
彩花が呼ぶ。
琴葉が顔を上げた。
その表情が一気に柔らかくなる。
「彩花さん」
「ごめん、待った?」
「いいえ。今着いたところです」
「よかった」
彩花は琴葉の紙袋を見る。
「それ何?」
「手土産です」
「えっ」
「母からです」
「そんなのいいのに」
「私もそう申し上げたのですが」
琴葉がほんの少しだけ遠い目をする。
「『初めてお友達のお宅へ伺うのだから』と」
「麗華さんが?」
「はい」
「お母さん喜ぶと思うけど……」
「焼き菓子です。あまり大げさなものではありませんので、受け取ってください」
「うん。ありがとう」
そこで彩花は少し考える。
「琴葉さん」
「はい」
「緊張してる?」
琴葉が止まった。
「……なぜでしょう」
「ちょっといつもより丁寧」
「私は普段から丁寧です」
「そうだけど」
「…………」
「してる?」
琴葉は小さく息を吐いた。
「少しだけ」
「私も」
「彩花さんも?」
「昨日から部屋片づけてた」
「では、お互い様ですね」
「うん」
二人は顔を見合わせて笑った。
それだけで、彩花の肩から少し力が抜けた。
◇
「ここ」
十分ほど歩き、水瀬家の前で彩花が足を止めた。
ごく普通の二階建ての家。
小さな庭。
玄関脇には耕助が育てている鉢植えが並び、自転車が二台置かれている。
琴葉は家を見上げた。
「素敵なお宅ですね」
「普通だよ」
言ってから、彩花は自分で少し止まる。
以前なら、その「普通」にはもっと違う意味が混ざっていた気がする。
今はただ、豪邸でも特別な建物でもないというだけだった。
「入って」
「お邪魔いたします」
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「お邪魔いたします」
奥から足音がした。
最初に出てきたのは凛花だった。
「いらっしゃい」
「水瀬先輩。本日はお邪魔いたします」
「そんなに固くならなくていいわよ」
「ありがとうございます」
続いて耕助が顔を出す。
「いらっしゃい」
「初めまして。九条琴葉と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
深く頭を下げる琴葉を見て、耕助が一瞬固まった。
「あ、いや、そんな、こちらこそ……彩花と仲良くしてくれてありがとう」
「こちらこそ、いつも彩花さんには――」
「お父さん」
彩花が止める。
「長くしないって言ったでしょう」
「まだ長くないだろ」
「始まり方が長くなるやつだった」
凛花が横で口元を押さえる。
琴葉も少し驚いたあと、くすりと笑った。
「すまん」
耕助は頭をかいた。
「ゆっくりしていって」
「ありがとうございます」
「お母さんは買い物行ってる。あとで帰ってくるから」
彩花が説明する。
「こちら、母からです」
琴葉が紙袋を凛花へ渡そうとする。
「私?」
「どなたにお渡しすれば」
「お姉ちゃんでいいよ」
「じゃあ預かる」
凛花が受け取る。
「わざわざありがとう。お母さんにも伝えておく」
「お願いいたします」
「琴葉さん、こっち」
彩花がリビングへ案内する。
琴葉が靴を揃え、後についてくる。
廊下を進みながら、琴葉は周囲をきょろきょろ見るようなことはしなかった。
それでも、壁に掛かった家族写真の前では一瞬だけ足が緩んだ。
「これ」
彩花も気づく。
「小学生のとき」
写真には、旅行先らしい海辺で並ぶ四人が写っている。
彩花はまだ小さく、凛花の腕に抱きついていた。
「可愛らしいですね」
「やめて。昔だから」
「今も可愛いですよ」
「琴葉さんまで九条君みたいなこと言わないで」
琴葉の眉が上がる。
「兄様が?」
「あ」
彩花は止まった。
後ろにいた凛花も止まった。
空気が一瞬だけ静かになる。
「……言ったのですか?」
琴葉が尋ねる。
「前に」
「へえ」
「琴葉さん、その顔やめて」
「どの顔でしょう」
「絶対面白がってる」
「そんなことは」
「琴葉さん」
「少しだけです」
凛花が小さくため息をつく。
「玄関で立ち話してないで行くわよ」
「はーい」
彩花は琴葉の背中を軽く押した。
◇
リビングのテーブルへ並べた布を見た瞬間、琴葉の目が明るくなった。
「こんなに用意してくださったのですか?」
「家にあった端切れだけだよ」
「十分です」
「今日は何作る?」
「実は」
琴葉がバッグを開く。
中から小さな透明袋を取り出した。
「あ」
白い猫型のボタン。
以前、二人で手芸店へ行ったときに買ったものだ。
「持ってきたんだ」
「はい。せっかくなので使いたくて」
「じゃあこれに合うものがいいね」
彩花は布を一枚ずつ広げる。
「小さい巾着とかどう? 紐で閉じるやつ」
「作れますか?」
「できるよ。ブックカバーより簡単かも」
「では、それにしたいです」
「何入れる?」
「まだ決めていません」
「じゃあ小さめ?」
「はい」
二人で布を選び始める。
琴葉は前回の深緑とは違い、今日は薄い青の布を手に取った。
「これが好きです」
「猫の白も目立つね」
「はい」
「じゃあ内側どうする?」
「内側も必要ですか?」
「一枚でも作れるけど、裏地つけると綺麗」
「難しくなります?」
「少し。でも琴葉さんなら大丈夫だと思う」
「では、つけます」
迷いがない。
彩花は笑った。
「前より積極的になったね」
「先生がよいので」
「先生じゃないよ」
「では友人がよいので」
今度は彩花が止まった。
琴葉はさらりと言っただけだ。
それでも、嬉しい。
「……それならいい」
「はい」
二人で布を選ぶ。
裏地は生成りに決まった。
彩花が型紙代わりの紙へ寸法を書いていると、凛花が麦茶を三つ持ってきた。
「はい」
「ありがとうございます」
「お姉ちゃんも飲むの?」
「駄目?」
「全然」
凛花は少し離れた椅子へ座る。
琴葉が布を見せた。
「水瀬先輩、こちらはいかがでしょう」
「いいと思う。前の深緑より柔らかい感じ」
「やはり覚えていらしたのですね」
「彩花が写真見せてくれたから」
「お姉ちゃん、結構気に入ってたよ」
「余計なこと言わなくていい」
「本当ですか?」
「……上手だったと思う」
琴葉の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
凛花は少しだけ視線を逸らした。
彩花はその横顔を見て、笑いそうになるのを堪える。
「彩花」
「何?」
「何で笑ってるの」
「笑ってない」
「顔」
「九条君みたいなこと言う」
「九条?」
凛花の眉が動く。
琴葉がすぐに反応した。
「兄様は彩花さんの表情が分かるのですか?」
「琴葉さん」
「興味があります」
「裁縫しよう」
「まだ布を切っていません」
「じゃあ切ろう」
彩花は強引に話を戻した。
琴葉が楽しそうに笑う。
凛花も呆れたように息を吐きながら、席を立たなかった。
◇
裁縫を始めて一時間ほど経った。
前回と違い、琴葉は針の持ち方や糸の始末で迷うことが減っていた。
「ここ、縫い代同じくらい?」
「そう。そこから端まで真っ直ぐ」
「曲がりそうです」
「ゆっくりで大丈夫」
「はい」
彩花は隣に座って見守る。
手を出しすぎない。
分からないところだけ説明する。
前回より、その距離の取り方にも慣れていた。
凛花は途中で自室へ戻った。
耕助も庭へ出ている。
リビングには二人だけになり、窓の外から鳥の声と遠くを走る車の音が聞こえていた。
「彩花さん」
「うん?」
「こうしていると」
琴葉は針から目を離さないまま言った。
「以前、一緒に出かけたときより、少し不思議です」
「何が?」
「彩花さんのお宅にいることが」
「私も」
「彩花さんもですか?」
「うん。琴葉さんがそこに座って裁縫してるの、まだちょっと変な感じ」
「迷惑という意味では」
「違う違う」
彩花はすぐに首を振る。
「嬉しい方」
琴葉の手が一瞬止まる。
「……私もです」
「よかった」
「私、彩花さんと友人になれてよかったと思っています」
静かな声だった。
彩花はすぐには返さなかった。
琴葉との最初のつながりは、悠真だった。
琴葉が自分へ興味を持った理由も、最初は兄のことがあったからだ。
でも、今は違う。
悠真がいなくても会う。
メッセージをする。
裁縫をする。
家にも来ている。
「私も」
彩花は笑った。
「琴葉さんと友達になれてよかった」
琴葉が顔を上げる。
「はい」
その表情は、学校で見せる上品な九条家の令嬢らしいものではなかった。
もっと年相応で、少し照れている。
彩花はそれを見て、胸の奥が温かくなった。
「だからさ」
「はい」
「今度は裁縫じゃなくても遊ぼうよ」
「ぜひ」
「玲奈さんも誘って」
「玲奈も喜ぶと思います」
「三人で何しよう」
「玲奈でしたら、買い物でも映画でも喜ぶでしょうね」
「映画いいね」
「ただし」
琴葉が少しだけ真顔になる。
「玲奈は恋愛映画を見ると、途中から登場人物の行動へかなり口を出します」
「映画館で?」
「小声ですが」
「ちょっと見たい」
「私は隣で恥ずかしいです」
「面白そう」
「彩花さんまで」
二人で笑う。
そこに悠真の名前は出なかった。
出なくても、会話は続く。
そのことが、彩花には嬉しかった。
◇
「ただいま」
午後二時過ぎ。
玄関から紗月の声がした。
「お母さん帰ってきた」
彩花が立ち上がる。
琴葉も針を置こうとする。
「そのままでいいよ」
「でもご挨拶を」
「あ、そっか」
二人で玄関へ向かう。
紗月は買い物袋を持ったまま靴を脱いでいた。
「おかえり」
「ただいま。琴葉ちゃん来てる?」
「はい」
琴葉が一歩前へ出る。
「初めまして。九条琴葉と申します。本日は――」
「ああ、そんなにかしこまらなくて大丈夫よ」
紗月は笑った。
「いらっしゃい。彩花と仲良くしてくれてありがとう」
「こちらこそ、いつもお世話になっております」
「お世話っていう年齢でもないでしょう?」
その言葉に琴葉が少し目を丸くする。
紗月は気にせず買い物袋を持ち直した。
「お菓子もありがとう。凛花から聞いたわ。お母様によろしく伝えてね」
「はい」
「何作ってるの?」
「巾着です」
「見せて」
琴葉の緊張が少しずつほどけていくのが、彩花には分かった。
母は琴葉を「九条家のお嬢様」として扱っていない。
彩花の友達。
ただそれだけだ。
「お母さん」
「何?」
「おやつ出していい?」
「いいわよ。彩花が作ったやつでしょう?」
「うん」
「私も食べようかな」
「お母さんの分もあるよ」
「さすが」
紗月はそのままキッチンへ入っていった。
琴葉が小さく息を吐く。
「緊張した?」
「少し」
「お母さん、あんな感じだから」
「素敵なお母様ですね」
「そう?」
「はい」
琴葉はキッチンにいる紗月の背中を少し見てから、彩花へ向き直った。
「とても自然に迎えてくださって」
「友達だからじゃない?」
「……そうですね」
琴葉が微笑む。
その言葉を、嬉しそうに受け取った。
◇
午後三時。
巾着はまだ完成していなかった。
けれど一度休憩することにして、彩花が昨日焼いたパウンドケーキを切る。
「レモン?」
凛花がリビングへ戻ってきた。
「うん」
「昨日作ってたやつ」
「琴葉さん来るから」
「私も食べていい?」
「もちろん」
「私もいただいてよろしいのですか?」
紗月まで席につく。
「みんなの分あるよ」
彩花は四人分の皿を並べた。
耕助は庭仕事が終わってから食べると言っている。
「いただきます」
琴葉が一口食べる。
彩花は無意識にその顔を見る。
「……おいしいです」
「本当?」
「はい。とても」
「よかった」
「レモンの香りがしますが、酸味は強くないですね」
「皮も少し入れてる」
「彩花さん、こういうものも作れるのですね」
「お菓子作るの好きだから」
彩花は自然に答えた。
凛花がその横顔を見る。
以前なら「大したものじゃない」と付け加えていたかもしれない。
けれど今は、それで終わる。
「彩花は昔から作ってるからね」
紗月が言う。
「最初はすごかったけど」
「お母さん」
「何?」
「その話する?」
「初めてのクッキー?」
「しなくていい」
琴葉が興味を示す。
「初めてのクッキー?」
「形がすごかったの」
紗月が笑う。
「星の型で抜いたはずなのに、焼いたら何か分からなくなって」
「お母さん!」
「でもおいしかったでしょう?」
「味はね」
凛花が口を挟む。
「私、覚えてる」
「お姉ちゃんまで」
「彩花が泣きそうな顔してたから」
「泣いてないよ」
「してた」
凛花はパウンドケーキを一口食べる。
「でも、あれ見たときすごいと思った」
彩花が止まる。
覚えている。
小さかった頃。
初めて自分だけで生地を混ぜ、母に手伝ってもらいながら焼いたクッキー。
形は不格好だった。
それでも凛花が言ってくれた。
『彩花、すごい。私には絶対作れない』
「……覚えてたんだ」
「覚えてるわよ」
「私も」
紗月が笑う。
「凛花、三枚くらい食べてたもの」
「四枚」
「そこまで覚えてるの?」
「おいしかったから」
彩花は少しだけ俯いた。
胸の奥にあるのは、痛みではない。
懐かしさ。
そして、嬉しさ。
「今度また作ろうかな」
「何を?」
「クッキー」
「星?」
「今度はちゃんと星になるよ」
「それは知ってる」
琴葉が姉妹を交互に見る。
「お二人、本当に仲がよいのですね」
「うん」
彩花は答える。
凛花も否定しなかった。
「昔から」
彩花は続けた。
「お姉ちゃんのこと、大好きだから」
「彩花」
凛花の手が止まる。
「何?」
「急に言わないで」
「何で?」
「……何でも」
凛花が視線を逸らす。
耳が少し赤い。
琴葉がその変化を見逃さなかった。
「水瀬先輩」
「何?」
「嬉しいのですね」
「九条さん」
「はい」
「巾着、完成させなくていいの?」
「休憩中です」
「そう」
琴葉は上品に微笑む。
彩花には、その目が少しだけ楽しそうに見えた。
◇
休憩後。
巾着作りは仕上げに入った。
紐を通す部分を縫い、最後に白い猫型のボタンを飾りとして付ける。
「ここ?」
「もう少し右」
「このくらいでしょうか」
「うん。可愛い」
薄い青の布に、白い猫。
小さな巾着だが、琴葉らしい落ち着いた雰囲気がある。
琴葉が最後の糸を切った。
「できました」
「完成」
二人で机の上へ置く。
前回のブックカバーより、縫い目が明らかに整っている。
「上手くなったね」
「本当ですか?」
「うん。ここ見て」
彩花が最初と最後の縫い目を比べる。
「幅が揃ってる」
「……本当ですね」
「琴葉さん、手先器用だと思う」
「兄様よりは?」
「まだ九条君やってないでしょう?」
「そうでした」
「比べないの」
彩花が言う。
琴葉が一瞬止まり、それから笑った。
「はい」
「九条君は九条君」
「兄様にも同じことをおっしゃるのでしょうか」
「言うと思う」
「兄様、喜びそうですね」
「何で?」
「彩花さんに教えていただけるので」
彩花は少しだけ手を止める。
悠真に裁縫を教える話は、まだ日付を決めていない。
生成りの布を使うところまでは話している。
「いつにしようかな」
「決めていないのですか?」
「うん。古本市あったし」
「では、そのうちですね」
「そのうち」
琴葉はそれ以上何も言わなかった。
兄の予定を勝手に決めることもない。
彩花は完成した巾着を琴葉へ渡す。
「はい。二作目」
「ありがとうございます」
「私ほとんどやってないよ」
「教えていただきました」
「でも作ったのは琴葉さん」
「では」
琴葉は巾着を両手で持ち、少し考える。
「私が作れて、彩花さんが手伝ってくださったものです」
「うん」
「それが一番正確ですね」
「そうだね」
彩花は笑った。
◇
午後五時前。
そろそろ琴葉が帰る時間になった。
「駅まで送るよ」
「ありがとうございます」
「私も行こうか?」
凛花が言う。
彩花と琴葉が同時に振り返る。
「お姉ちゃんも?」
「散歩」
「本当に?」
「何」
「別に」
三人で玄関へ向かう。
紗月と耕助が見送りに出てきた。
「今日はありがとう」
紗月が言う。
「またいつでも来てね」
「はい。ありがとうございます」
琴葉が頭を下げる。
「お菓子、おいしかったです」
「それは彩花に言ってあげて」
「もう伝えました」
「ならよかった」
耕助も頷く。
「気をつけて帰って」
「ありがとうございます」
「お父さん、今日は短いね」
彩花が言う。
「短くしろって言っただろ」
「ちゃんと守った」
「父さんを何だと思ってるんだ」
琴葉が小さく笑った。
「またお邪魔してもよろしいでしょうか」
その言葉に、彩花が先に答えた。
「もちろん」
紗月も笑う。
「いつでもどうぞ」
「ありがとうございます」
三人で家を出る。
◇
夕方の住宅街を、彩花と琴葉と凛花が並んで歩く。
昼より湿気が和らぎ、風が少しだけ涼しくなっていた。
「今日は楽しかったです」
琴葉が言う。
「私も」
「水瀬先輩ともお話しできましたし」
「私はほとんど何もしてないけど」
「十分です」
「お姉ちゃん、途中からずっといたもんね」
「家だから」
「最初、自室戻ったでしょう?」
「休憩してただけ」
「ふーん」
「何」
「何でも」
彩花は笑う。
凛花が少し不満そうな顔をする。
駅が見えてきた。
そこで琴葉が歩調を少し緩めた。
「彩花さん」
「うん?」
「今日、来てよかったです」
「うん」
「彩花さんがどんな家で過ごしているのか、少し分かった気がします」
凛花が琴葉を見る。
彩花も少しだけ考えた。
「がっかりしなかった?」
「なぜです?」
「九条家と全然違うでしょう?」
言ってから、以前ならもっと自分を下げる響きになっていただろうと思う。
今はただ違いを言っただけだった。
琴葉は少し考えたあと、首を横に振る。
「違います。でも、それだけです」
「そっか」
「それに」
琴葉は微笑んだ。
「私は好きです。水瀬家」
彩花の胸が温かくなる。
「ありがとう」
今度は、その言葉を素直に受け取れた。
◇
駅で琴葉を見送ったあと、彩花と凛花は二人で家へ戻った。
来た道を歩きながら、しばらく会話はなかった。
「彩花」
「何?」
「いい友達できたね」
凛花が不意に言う。
彩花は姉を見る。
「うん」
「琴葉さん」
「うん」
「……よかった」
凛花の声は静かだった。
「お姉ちゃん、心配してた?」
「少し」
「何を?」
「高校入ってから」
凛花は前を向いたまま歩く。
「彩花、最初ちょっと緊張してたでしょう。中学から一緒の子もいるけど、クラス変わったし」
「うん」
「だから」
そこまで言って、凛花は口を閉じる。
「でも今は大丈夫そう」
「大地もいるし、部活も楽しいよ」
「知ってる」
「九条君もいるし」
「……それも知ってる」
少しだけ声が低くなった。
彩花は笑う。
「お姉ちゃん」
「何」
「九条君のときだけ違う」
「警戒はしてるって言ったでしょう」
「でも前より平気でしょう?」
「…………」
「今日だって、琴葉さんと普通に話してたし」
「琴葉さんと九条は別」
「兄妹だよ?」
「別人でしょう」
彩花は一瞬止まりかけた。
凛花も気づいたらしい。
二人の視線が合う。
「お姉ちゃん」
「何」
「今の、九条君が前に言ってたのと同じ」
「……何が?」
「私とお姉ちゃんは別の人って」
凛花が黙る。
彩花も、それ以上は言わなかった。
ただ少し嬉しかった。
姉も分かっている。
家族だからといって同じではない。
誰かを見るなら、その人自身を見る。
「九条君」
彩花が少しだけ笑う。
「お姉ちゃんが聞いたら喜ぶかも」
「言わなくていい」
「どうしようかな」
「彩花」
「冗談だよ」
「本当に?」
「多分」
「多分って何」
二人で歩く。
家まであと数分。
夕方の空は、雲の隙間から少しだけ橙色に染まり始めていた。
◇
その夜。
彩花が自室で本を読んでいると、琴葉からメッセージが届いた。
『無事に帰宅しました。本日は本当にありがとうございました。』
『こちらこそ。楽しかった』
すぐに写真が届く。
完成した薄青の巾着が、どこか見覚えのない大きなテーブルの上に置かれている。
白い猫のボタンもよく見えた。
『母にも見せました。褒めてくれました。』
『よかった』
『兄様にも。』
彩花の指が止まる。
『九条君にも?』
『はい。』
『何て?』
送ってから、何で聞いたのだろうと思った。
けれど取り消すほどでもない。
琴葉から返事が来る。
『「前より上手くなってる」と。』
『よかったね』
『そのあと、自分の栞のことを思い出したようです。』
「……あ」
彩花は笑った。
想像できる。
『まだ日決めてないね』
『兄様から急かすことはないと思います。』
『うん』
『ですが、楽しみにはしているようです。』
彩花は机の引き出しを開ける。
中には以前悠真へ見せた、生成りと深緑の布の端切れが入っている。
悠真が選んだのは生成りだった。
縫い目が見やすく、初心者向き。
「そろそろ決めてもいいかな」
独り言が漏れる。
古本市も終わった。
来週以降なら、特に大きな予定はない。
ただ、今日は琴葉との時間だった。
今すぐ悠真との予定へ切り替える必要もない気がした。
彩花は引き出しを閉める。
『また来てね』
琴葉へ送る。
『はい。次は玲奈も誘って出かけましょう。』
『映画とか』
『覚えていらしたのですね。』
『玲奈さんの映画中のツッコミ見たい』
『私は止めませんからね。』
『楽しみ』
彩花は笑いながらスマートフォンを置いた。
今日、琴葉が自分の家にいた。
リビングで裁縫をして、母のお茶を飲んで、凛花と話して、自分が作ったパウンドケーキを食べた。
それがもう、九条悠真の妹が家に来た、という一日には思えなかった。
友達が遊びに来た。
ただ、それだけだった。
そして、その「それだけ」が彩花には嬉しい。
机の上に置いていた本を開く。
数行読んだところで、スマートフォンがもう一度震えた。
今度は悠真だった。
『琴葉、帰ってきた。今日はありがとう。』
彩花は画面を見て、少し笑う。
『うん。楽しかったよ。』
送る。
すぐに既読がついた。
『ずっと巾着見せてくる。』
『頑張って作ったから』
『分かってる。上手くなってた。』
『でしょう?』
『先生がいいから?』
彩花は吹き出した。
『本人が頑張ったからです。』
『はい。』
素直な返事。
少しして、もう一通。
『俺もそのうちお願いします。』
彩花は引き出しを見る。
生成りの布が入っている場所。
今度は少しだけ考えてから返した。
『うん。そろそろ日決めようか。』
既読がつく。
返事まで、ほんの少しだけ間が空いた。
『いいの?』
『教えるって言ったでしょう?』
『言ってた。』
『じゃあ今度、予定合わせよう。』
『うん。楽しみにしてる。』
彩花はその文字を見つめた。
それから、自然に笑った。
『私も。』
送信する。
琴葉が家へ来た一日は、それだけでちゃんと楽しかった。
そして、その一日の終わりに、今度は悠真との次の予定が少しだけ動き始めた。
けれど彩花は、すぐに日付を決めようとはしなかった。
今日は今日のまま残しておきたかったからだ。
友達が自分の家へ来てくれた、初めての土曜日。
その嬉しさをもう少し味わってから、次の楽しみを考えればいい。
彩花はスマートフォンを伏せ、読みかけの本を開いた。
窓の外では、昼間より涼しくなった風がカーテンを揺らしている。
ページをめくる前に、もう一度だけ完成した巾着の写真を思い出した。
次に琴葉が来るときは、何を作ろう。
玲奈と三人なら、どこへ行こう。
悠真には、どんな栞ができるだろう。
そんなことを考えられる今の自分を、彩花は少しだけ好きになれそうな気がしていた。




