第26話
市民ホール前の広場を離れても、古本市の賑わいはしばらく背中についてきた。
店主の呼び声や本をめくる音、軽食を売る屋台から漂う甘い匂い。土曜日の午後の日差しはまだ高く、歩道脇の街路樹が落とす影だけが、そこを歩く人たちに短い涼しさを与えている。
彩花と悠真は、その影を選ぶように並んで歩いていた。
悠真の鞄には、自分で買った七冊のほかに彩花の単行本が三冊入っている。彩花が持つ生成りのトートバッグにも残りの本が収まっていて、歩くたびに布地が脚へ軽く触れた。
「カフェ、どっちだっけ」
彩花が交差点の先を見る。
「駅の方に戻れば何軒かあると思う」
「さっき通ったところ?」
「うん。市民ホール来る途中に一軒見た」
「九条君、覚えてたんだ」
「水瀬さんは?」
「古本市の看板しか見てなかった」
「だと思った」
「何で?」
「着いたとき、広場見た瞬間に歩くの速くなってたから」
「……見てたの?」
「隣にいたし」
「まだ待ち合わせしたばっかりだったでしょう?」
「じゃあ、正確には少し後ろ」
「もっと見られてた」
彩花は少し恥ずかしくなり、日傘の柄を握り直した。
けれど嫌ではない。
悠真が自分の表情や行動をよく見ていることは、今日だけでも何度か分かった。
先ほども「水瀬さん限定かも」と言われた。
あの言葉を思い出すと、今でも胸の辺りが少し落ち着かない。
だからといって、何か答えを出そうとは思わなかった。
今日は楽しい。
それだけは、もう分かっている。
「水瀬さん」
「何?」
「日傘、こっち寄せなくていい?」
「九条君入ってないでしょう?」
「俺は大丈夫」
「暑くない?」
「暑いけど」
「じゃあ入る?」
「二人だと狭くない?」
彩花は自分の日傘を見る。
女性用の、ごく普通の大きさだ。
二人で入れないことはない。ただ、並んで歩くなら肩が近くなる。
「……確かに」
「だろ?」
「じゃあ、九条君も日陰歩いて」
「うん」
信号が赤になる。
二人は交差点の手前で止まった。
道路から熱を含んだ風が流れてきて、彩花のスカートの裾を揺らす。向かい側には休日の買い物客が何人も待っており、少し離れたところでは小学生くらいの兄妹がソフトクリームを食べていた。
信号を待ちながら、彩花は何となく悠真の横顔を見る。
今日だけで、もう四時間近く一緒にいる。
図書館で長く話した日もあった。
カフェへ移動した日もある。
けれど今日は朝から待ち合わせをして、一緒に店を回って、昼食を食べて、それでもまだ帰らずに次の場所へ向かっている。
(私が言ったんだ)
もう少し話したい、と。
言った瞬間は、自分でも少し驚いた。
けれど今は、取り消したいとは思わない。
「青だよ」
「え?」
悠真の声で我に返る。
信号が変わっていた。
「あ、ごめん」
「考え事?」
「ちょっと」
「本?」
「……まあ、いろいろ」
「買えなかった短編集?」
「それも少し」
嘘ではない。
悠真はそれ以上聞かず、彩花の歩幅に合わせて横断歩道を渡った。
◇
市民ホールから駅へ向かう通りを五分ほど歩いたところに、その店はあった。
一階がカフェ、二階が小さな雑貨店になっている建物で、通りに面した窓には観葉植物が並んでいる。入口脇の黒板には手書きで、本日のケーキと季節限定ドリンクが書かれていた。
「ここ?」
「多分、俺が見たのはここ」
彩花は黒板を読む。
「レモンと蜂蜜のチーズケーキ」
「好きそう」
「何で分かったの?」
「顔」
「また?」
「うん」
彩花は自分の頬へ手を当てた。
「そんなに分かりやすい?」
「今のは分かる」
「どんな顔だった?」
「食べたい顔」
「説明になってないよ」
「でも食べたい?」
「……食べたい」
「じゃあ合ってる」
悠真が先に扉を開ける。
中から冷房の涼しい空気が流れてきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
店内へ入ると、外の暑さで火照っていた肌が一気に冷やされる。木目を基調とした落ち着いた店で、窓際に二人掛けの席がいくつか並び、奥には四人掛けのテーブルもある。
土曜の午後なので客は多かったが、ちょうど窓際の席が一つ空いていた。
店員に案内され、二人は向かい合って座る。
「涼しい」
彩花が小さく息を吐いた。
「結構暑かったな」
「九条君、平気そうだったけど」
「暑いよ」
「汗あんまりかいてない」
「水瀬さんも」
「私は日傘あったから」
悠真は鞄を椅子の横へ置いた。
中には彩花の本も入っている。
「本、大丈夫?」
「うん」
「重かったでしょう?」
「まだ平気」
「あとで返してね」
「家まで持っていってもいいけど」
「駄目です」
「何で?」
「九条君の家に私の本行っちゃうでしょう」
「次の日曜に持っていけばいい」
「一週間読めない」
「ああ、それは駄目だ」
「でしょう?」
あっさり納得する。
彩花は笑いながらメニューを開いた。
「九条君、何食べる?」
「水瀬さんはもう決まってるだろ」
「レモンと蜂蜜のチーズケーキ」
「やっぱり」
「九条君は?」
「……プリン」
彩花はメニューから顔を上げる。
「プリン好きなの?」
「普通に」
「初めて知った」
「プリンの好みまで話したことないだろ」
「確かに」
彩花はメニューの写真を見る。
昔ながらの少し固めのプリンらしい。
「私もそっち気になる」
「じゃあ一口食べる?」
「いいの?」
「昼も交換したし」
「じゃあチーズケーキも食べる?」
「うん」
自然に話が決まった。
そこで彩花は少しだけ手を止める。
昼にもサンドイッチを交換した。
今度はケーキとプリン。
琴葉となら、何も考えない。
凛花とだってそうだ。
悠真とでも、もう自然にできる。
その事実だけが、少し不思議だった。
「どうした?」
「何でもない」
「最近その返事多くない?」
「九条君に考えてるの見つかるから」
「じゃあ聞かない方がいい?」
「それも変」
「難しいな」
「気になったら聞いていいよ」
「言いたくなかったら?」
「言わない」
「分かった」
簡単な取り決めだった。
けれど彩花には、そのくらいが心地よかった。
◇
注文を済ませると、二人は買った本をテーブルの端へ少しだけ出した。
彩花が一番最初に買った旧版小説。
悠真が見つけた海外文学。
古い焼き菓子のレシピ本。
文芸誌。
「結構買ったね」
彩花が改めて言う。
「水瀬さん九冊」
「九条君七冊」
「合計十六冊」
「数字にすると多い」
「一日で買う量じゃないな」
「古本市だから」
「便利だな、その言葉」
「今日だけ使える」
彩花はレシピ本を開いた。
紙は少し黄ばんでいる。
写真も今の料理本ほど鮮やかではない。それでも、長く誰かの本棚に置かれていた本が自分の手元へ来たのだと思うと、妙に嬉しかった。
「これ、何か作ってみたい」
「どれ?」
悠真が身を乗り出す。
彩花は目次から気になっていたページを開いた。
「蜂蜜のビスケット」
「おいしそう」
「今のレシピと結構違う」
「分量?」
「それもあるし、説明が短い。『程よく焼く』とか書いてある」
「程よく」
「一番困るやつ」
「何分?」
「書いてない」
「温度は?」
「『中火の天火』」
「分からない」
「でしょう?」
二人で笑う。
彩花はページを指で押さえながら考える。
「でも、今のオーブン用に調整すれば作れそう」
「作る?」
「多分」
「感想聞きたい」
「成功したらね」
「失敗したら?」
「それは言わない」
「何で?」
「恥ずかしいから」
「失敗も聞きたいけど」
「嫌です」
「水瀬さんでも失敗するんだなって安心する」
彩花が顔を上げる。
「九条君」
「何?」
「この前、将来の話したとき私も似たようなこと言ったね」
「俺が迷ってると安心するって?」
「うん」
「じゃあお互い様」
「……そうかも」
完璧に見える人にも、迷うことがある。
得意なことがある人にも、失敗することがある。
そんな当たり前のことを、以前の彩花は自分にだけ上手く適用できなかった。
凛花は何でもできる。
自分は普通。
そう分けてしまう方が簡単だった。
けれど今は、少し違う。
「失敗したら」
「うん?」
「……写真くらい送るかも」
「本当?」
「笑わないなら」
「笑わない」
「絶対?」
「形による」
「笑う気じゃん」
「焦げて真っ黒だったら無理かもしれない」
「じゃあ送らない」
「ごめん。笑わない」
「遅い」
彩花が本を閉じる。
そのとき、注文した飲み物が運ばれてきた。
彩花はアイスティー。
悠真はアイスコーヒー。
少し遅れて、チーズケーキとプリンも並ぶ。
「おいしそう」
彩花の声が弾む。
レモン色のソースがかかった白いチーズケーキには、薄く切ったレモンの砂糖漬けが添えられている。
「写真撮る?」
「撮る」
スマートフォンを出す。
上から一枚。
少し斜めからもう一枚。
悠真のプリンも画面の端へ入る。
「あ」
「何?」
「九条君のも入った」
「いいよ」
「送ろうか?」
「何を?」
「写真」
「うん」
彩花はその場で送信する。
悠真のスマートフォンがテーブルの上で震えた。
「来た」
「早いでしょう?」
「目の前にいるから」
「それ言ったら送る意味ないね」
「あとで残るからいいんじゃない?」
悠真は画面を見る。
「綺麗に撮れてる」
「本当?」
「うん」
「じゃあよかった」
写真が残る。
今日の古本市そのものではなく、その後に入ったカフェの写真。
いつか見返したとき、今日のことを思い出すのだろうか。
彩花はそんなことを少しだけ考えながら、フォークを手に取った。
◇
「おいしい」
一口食べた瞬間、彩花の顔が緩んだ。
「そんなに?」
「レモン結構強い。でも蜂蜜で酸っぱすぎない」
「へえ」
「食べる?」
「うん」
彩花はケーキを少し切り分けようとして、手を止める。
取り皿がない。
「あ」
「どうした?」
「お皿」
「フォークで取れば?」
「九条君の?」
「うん」
「……それでいい?」
「水瀬さんが嫌じゃなければ」
「私は別に」
悠真が自分のフォークでケーキの端を一口分取る。
それだけのことだった。
それなのに、彩花はなぜかその動きを目で追ってしまった。
悠真が食べる。
「本当だ。レモン強い」
「でしょう?」
「おいしい」
「よかった」
今度はプリン。
「水瀬さんも食べる?」
「うん」
悠真が皿を少し中央へ寄せる。
彩花は自分のフォークを伸ばしかけて、止まった。
さっき悠真がチーズケーキを食べたのは、悠真自身のフォーク。
自分は自分のフォーク。
何も問題はない。
(何で今、一瞬止まったの)
分からない。
「どうした?」
「何でもない」
「また?」
「プリン取る」
「うん」
一口。
「……固い」
「そこ?」
「おいしい。好き」
「よかった」
「九条君、こういうプリン好きなんだ」
「うん。柔らかいのも食べるけど」
「覚えた」
口にしてから、彩花は自分で少し驚く。
「覚えるの?」
悠真が聞いた。
「だって今聞いたから」
「そっか」
「何?」
「いや」
悠真が笑う。
「水瀬さんが俺の好きなもの覚えてくれるの、嬉しいなって」
「…………」
また、そういうことを言う。
彩花はアイスティーへ手を伸ばした。
「九条君も、私の好きなもの覚えてるでしょう?」
「結構」
「じゃあ同じ」
「うん」
同じ。
それでいいはずなのに、冷たいアイスティーを飲んでも頬の熱が少し残った。
◇
食べ終えても、すぐには席を立たなかった。
店内には穏やかな音楽が流れ、窓の外では夏に近い日差しが歩道を白く照らしている。古本市から流れてきたらしい紙袋を持つ客も何組かいて、隣の席では年配の夫婦が買った本を見せ合っていた。
彩花は窓の外を眺める。
「古本市、楽しかったね」
「うん」
「来年も行きたい」
「もう来年?」
「だって年一回でしょう?」
「多分」
「九条君も行く?」
「行きたい」
「じゃあ、また一緒に見る?」
言ってから。
彩花は少しだけ止まった。
来年。
今は高校一年生。
来年なら二年生。
ずいぶん先のようで、学校生活で考えれば一年しかない。
その頃も悠真と友達でいることを、今、自分はごく自然な前提として口にした。
「……いいの?」
悠真の声が少しだけ静かだった。
「何が?」
「来年も一緒で」
「嫌なの?」
「逆」
悠真はすぐに答えた。
「行きたい」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
「まだ日付も分からないけど」
「その頃になったら調べればいい」
「忘れてたら?」
「どっちかが覚えてるだろ」
「二人とも忘れてたら?」
「そのときは仕方ない」
「適当」
「一年後の予定を今から固定する方が無理だろ」
「確かに」
二人で笑う。
約束と呼ぶほど固いものではない。
来年も行けたら。
それくらい。
けれど彩花には、その曖昧さがちょうどよかった。
未来を縛るのではなく、そこに相手がいる可能性を自然に置いておける。
それだけで少し嬉しい。
「来年は」
「うん?」
「今日売れちゃった短編集、見つかるといいね」
「覚えててくれるの?」
「そりゃ覚えてるよ」
「九条君、買ってない本まで覚えるんだ」
「水瀬さん、結構残念そうだったから」
「……やっぱり顔見てる」
「見てる」
今度は否定しなかった。
彩花は一瞬、言葉を失う。
悠真も照れた様子はある。
けれど、言い直さない。
その変化に、彩花の方がまだ慣れていない。
「九条君」
「何?」
「前より、素直になった?」
「何が?」
「そういうの」
「そういうのって?」
「……嬉しいとか、見てるとか」
悠真は少し考えた。
「水瀬さんが聞くからじゃない?」
「私?」
「うん。聞かれたのに誤魔化す方が変だろ」
「前は結構考えてたよね」
「考えてた」
「今は?」
「考えるけど」
悠真はアイスコーヒーのグラスへ目を落とした。
氷はだいぶ溶けている。
「分からないことまで無理に決めなくていいかなって」
彩花は黙って聞く。
「水瀬さんと話すのが楽しいなら、楽しいでいいし。会えて嬉しいなら、それでいい。今日も古本市、一緒に来られてよかったし」
「…………」
「その先まで今決めなくても、別に困らないから」
彩花はすぐには返事をしなかった。
言われたことを、自分の中へ置いてみる。
不思議なくらい、しっくりきた。
自分も同じなのかもしれない。
悠真といると楽しい。
会えると嬉しい。
今日は帰りたくないと思った。
恋人に間違われたときは、妙に恥ずかしかった。
悠真が自分の表情をよく見ていると言えば、胸が落ち着かなくなる。
全部ある。
けれど、その一つ一つへ今すぐ同じ名前をつけなくてもいい。
「……それ、いいね」
「何が?」
「分からないことまで決めなくていいって」
「うん」
「私もそうする」
彩花は小さく笑う。
「今日楽しい。それでいい」
悠真も笑った。
「俺も」
窓の外をバスが一台通り過ぎる。
会話はそこで一度途切れた。
気まずくはなかった。
むしろ、何かを無理に続けなくても同じ席にいられることが、今の二人には自然だった。
◇
しばらくして、彩花はテーブルの端に置いていた文芸誌を手に取った。
「そうだ」
「何?」
「これ、文芸部に持っていこうかな」
「買ったやつ?」
「うん。古い号だから、みんなで見ると面白そう」
「部室に置くの?」
「持っていって見せるだけ。自分で買ったから持って帰るけど」
「水瀬さん、文芸部でこういう話するんだ」
「するよ」
「どんな感じ?」
「どんなって?」
「部活」
彩花は少し考える。
「基本は静かかな。みんな読んだり書いたりしてるし。でも、ずっと無言じゃないよ。新刊の話したり、誰かが書いたもの読んだり」
「文化祭の話も?」
「最近は多い」
「水瀬さんの短編、進んでる?」
「一応」
「読んでみたい」
「駄目」
「即答」
「まだ途中だもん」
「完成したら?」
「……文化祭で出すなら読めるよ」
「行っていいの?」
彩花が瞬きをする。
「文化祭?」
「うん」
「一般公開なら」
「まだ決まってない?」
「日程とか詳しいことはこれから」
「そっか」
悠真はそこで話を止めた。
行く、とも言わない。
絶対見たいとも言わない。
まだ何も決まっていないから。
それでも彩花の頭には、一瞬だけ光景が浮かんだ。
青葉高校の校舎。
文化祭。
文芸部。
そこに悠真がいる。
桜華の制服で来るのか、私服なのかは分からない。
(……九条君が、青葉に)
少し変な感じがする。
でも、嫌ではない。
「日程分かったら」
彩花が言う。
「うん?」
「教えるよ」
悠真の表情が少し変わる。
「いいの?」
「来られるかは別として」
「うん」
「一般公開あるなら」
「教えて」
「分かった」
これもまだ約束ではない。
けれど、悠真が知らない彩花の学校側へつながる、小さな入口になった。
◇
午後四時を少し過ぎた頃。
二人はようやくカフェを出た。
古本市も終了時間を迎え、市民ホール方面からは本を抱えた人たちが駅へ向かって歩いてくる。昼間より日差しは少し傾いたが、まだ空気には熱が残っていた。
「結構いたね」
彩花が時刻を見る。
「一時間くらい?」
「もっと」
「本当?」
「三時前に入ったから」
「……一時間以上」
「話してたから」
「九条君もでしょう?」
「うん」
彩花は日傘を開く。
悠真が自然に車道側へ回った。
以前なら、その行動一つを「優しい人だから」と意識したかもしれない。
今は、九条君はこうする、と知っている。
それでも当たり前だとは思わない。
「ありがとう」
「何が?」
「そっち歩いてくれてるから」
悠真が一瞬だけ彩花を見る。
「気づいてた?」
「今は」
「そっか」
「前から?」
「まあ」
「言ってよ」
「言うこと?」
「……違うか」
彩花は笑う。
駅までは十分もかからない。
だから歩く速度を落とす理由はない。
それなのに、二人とも急いではいなかった。
「水瀬さん」
「何?」
「本、戻す?」
「あ」
彩花は忘れかけていた。
「駅着いてからでいい?」
「いいよ」
「重かった?」
「全然」
「嘘じゃない?」
「本当に」
「じゃあ駅で」
「うん」
歩道の先に駅舎が見えてくる。
朝はここから市民ホールへ向かった。
そのときは、今日がどんな一日になるのか分からなかった。
今はトートバッグに九冊の本がある。
悠真の鞄にも七冊。
写真もある。
食べたものも、話したことも増えた。
そして。
今日がもう少し続けばいいと思った。
その気持ちを、悠真へ言えた。
(言ってよかったな)
彩花はそう思った。
もし言わなければ、古本市を出たところでそのまま駅へ向かっていたかもしれない。
それでも楽しい一日だっただろう。
でも、カフェで話した時間も楽しかった。
プリンが好きだと知った。
来年も古本市へ行けたらと話した。
文化祭の日程を教える約束もした。
言わなければ増えなかったものが、いくつもある。
「九条君」
「うん?」
「さっき」
「どれ?」
「私が、まだ帰りたくないって言ったとき」
悠真の歩調がほんの少し変わった。
「うん」
「変じゃなかった?」
聞いてから、今さらだと思う。
もうカフェで一時間以上過ごしたあとだ。
「全然」
悠真の返事は早かった。
「むしろ嬉しかった」
「……そっか」
「俺も帰りたくなかったから」
彩花は日傘の下で瞬きをした。
悠真は前を見ている。
言った本人も少し照れているのか、耳がわずかに赤い。
それでも言葉を取り消さない。
「九条君」
「何?」
「それ、結構恥ずかしいね」
「水瀬さんが聞いたんだろ」
「そうだけど」
「俺も言ってから思った」
「じゃあ同じ」
「うん」
二人とも少し笑った。
恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
その二つが同時にあってもいい。
◇
青凪駅へ着くと、改札前の広場は古本市帰りの人で少し混んでいた。
二人は人の流れから外れ、柱の近くで荷物を入れ替える。
「これと、これと……」
悠真が自分の鞄から単行本を三冊取り出す。
「ありがとう」
「重くない?」
「帰るだけだから大丈夫」
「駅から家まで歩くだろ」
「二十分くらい」
「持っていこうか?」
「それだと九条君が私の家まで来ることになるよ」
「途中まで」
「電車逆じゃない?」
「……そうだった」
「そこまでしなくて大丈夫」
彩花は笑いながら三冊をトートバッグへ入れた。
ずしりと重くなる。
「でも本当にありがとう。午後、かなり楽だった」
「ならよかった」
「次から買いすぎないようにする」
「来年?」
「来年も持ってもらう前提にしないで」
「俺は何も言ってない」
「顔が言ってる」
「水瀬さんまで顔読むようになった?」
「九条君限定かも」
言った。
数時間前、悠真が自分へ言ったのと同じ言葉。
悠真が完全に止まる。
「…………」
「仕返し」
彩花は少しだけ得意になる。
「水瀬さん」
「何?」
「それ、思ったより効く」
「九条君が先に言ったんだからね」
「そうだけど」
「じゃあお互い様」
「……うん」
悠真は困ったように笑った。
彩花も笑う。
胸は少し速い。
でも今は、その速さまで含めて楽しかった。
◇
二人が使う路線は途中まで同じだった。
改札を通り、ホームへ上がる。
夕方の光が線路へ斜めに差し込み、銀色のレールを細く光らせている。古本市の紙袋を持つ人があちこちにいて、ベンチでは小さな男の子が買ってもらったらしい絵本をすでに開いていた。
「座る?」
悠真が聞く。
「電車で座れると思う」
「じゃあここでいいか」
二人はホームの乗車位置で並んで待つ。
彩花は重くなったトートバッグを一度足元へ置いた。
「本当に買ったなあ」
「九冊」
「九条君七冊」
「覚えてる」
「帰ったら何から読む?」
「今日買ったやつ?」
「うん」
「海外の短編」
「あれ?」
「うん。水瀬さんは?」
彩花は考える。
「最初に買った旧版かな」
「やっぱり」
「レシピ本も見たいけど」
「ビスケット作る?」
「今日は作らないよ」
「残念」
「本十冊近く持って帰って、そこからお菓子作る体力ない」
「それはそう」
「明日かな」
「早いな」
「材料あったら」
「成功したら教えて」
「失敗しても写真送るかも」
「さっきは嫌って言ってたのに」
「気が変わった」
「何で?」
彩花は少し考えた。
「九条君なら、まあいいかなって」
悠真が黙った。
まただ。
「何?」
「今日、それ多いなと思って」
「何が?」
「水瀬さんなら、とか。九条君なら、とか」
言われて気づく。
悠真の部屋の本棚。
水瀬さんなら見てもいい。
失敗したお菓子。
九条君なら見せてもいい。
「……本当だ」
「うん」
「変?」
「嬉しい」
悠真は少しだけ笑った。
「俺は」
彩花も笑う。
「私も嫌じゃない」
「そこは嬉しいじゃないんだ」
「今考えてる」
「考えるんだ」
「九条君みたいに何でもすぐ言えないよ」
「俺も最近だよ」
「じゃあ、そのうち」
「待ってる」
軽い言葉だった。
何を待つのか、二人とも詳しく決めない。
それくらいでよかった。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
遠くから車両が近づいてくる音がした。
◇
電車へ乗ると、運よく二人並んで座れた。
冷房の効いた車内で、彩花はトートバッグを膝の上へ置く。重いけれど、その重さまで今日の成果のように思えて、少し嬉しい。
電車が動き出す。
市民ホールのある街並みが窓の向こうへ流れていった。
「疲れた?」
悠真が小声で聞く。
「少し。でも楽しい方が大きい」
「俺も」
「九条君も疲れてる?」
「歩いたから多少は」
「琴葉さんに言われてた?」
「何を?」
「私が疲れてないか見てって」
悠真が彩花を見る。
「何で分かったの?」
「言いそう」
「……言われた」
「やっぱり」
「何でそこまで分かるんだ」
「琴葉さんと友達だから」
「俺より分かってない?」
「それはないでしょう」
「最近自信ない」
「兄様なのに?」
「兄様だから分からないこともある」
「そういうもの?」
「多分」
彩花は笑う。
電車は次の駅へ着き、人が何人か乗り込んでくる。
二人は少しだけ身体を寄せ、通路を広くする。
肩が触れた。
一瞬。
彩花は気づいた。
悠真も気づいたと思う。
けれど、どちらもすぐに離れるほど大きく反応しなかった。
人が前を通り過ぎる。
そのあと、自然に元の距離へ戻る。
それだけ。
ただ彩花は、以前ならもっと意識したかもしれないと思った。
近くにいること自体へ、少しずつ慣れている。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
今は考えない。
「水瀬さん」
「何?」
「眠かったら寝ていいよ」
「寝ないよ」
「朝から歩いてたから」
「九条君の隣で?」
「駄目?」
彩花は少しだけ考えた。
駄目ではない。
でも。
「寝顔見られるの嫌」
「見ないよ」
「絶対見るでしょう?」
「……起きてるか確認くらいは」
「見るじゃん」
「じゃあ寝ない方がいいな」
「うん」
二人で小さく笑う。
車窓から差し込む夕方の光が、彩花のトートバッグに当たっている。
その上へ置いた手を眺めながら、彩花は今日のことを少しずつ思い返した。
朝、服を選んだこと。
待ち合わせ場所で悠真を見つけたこと。
互いに服を褒めたこと。
三十二の店を全部見たこと。
本を買ったこと。
売れてしまった本があったこと。
サンドイッチを交換したこと。
彼氏だと間違われたこと。
荷物を持ってもらったこと。
カフェへ誘ったこと。
プリンを一口もらったこと。
来年の話をしたこと。
文化祭の日程を教えると言ったこと。
どれか一つが特別に大きいわけではない。
でも全部を並べると、今日一日が思ったよりずっと長く、濃く感じられる。
「今日さ」
彩花が口を開く。
「うん」
「図書館で会うのとは、やっぱり違ったね」
「古本市?」
「それもあるけど」
言葉を探す。
「朝から待ち合わせして、いろんなところ見て、ご飯食べて。そのあともカフェ行って」
「うん」
「こういうのもいいなって思った」
悠真は静かに聞いている。
「日曜日に図書館で会うのも好きだけど」
「……うん」
「たまに違うところ行くのも、楽しいね」
悠真の表情が柔らかくなる。
「また行く?」
「どこに?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに誘うの?」
「水瀬さんも今日、カフェ決めてないのに誘っただろ」
「それはそうだけど」
「だから、どこか」
「……うん」
彩花は少し笑った。
「行きたい」
「じゃあ、また」
「また」
行き先も日付もない。
それでも、その言葉だけで十分だった。
◇
数駅後。
彩花が乗り換える駅が近づいた。
「次だね」
悠真が言う。
「うん」
楽しい時間は、終わるときだけ少し速く感じる。
彩花はトートバッグの持ち手を握った。
「九条君」
「何?」
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「本も持ってもらったし」
「それはいいって」
「古本市も」
「俺も行きたかったから」
「カフェも」
「俺も行きたかった」
「……全部それだね」
「実際そうだから」
悠真が笑う。
「水瀬さんが付き合ってくれたんじゃなくて、俺も行きたかったし、俺も楽しかった」
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
彩花は少しだけ考え、言い直す。
「一緒に行ってくれてありがとう」
「俺も。一緒に行ってくれてありがとう」
同じだった。
片方が相手に合わせたのではない。
二人とも行きたかった。
二人とも楽しかった。
それが嬉しい。
電車が減速する。
ホームが近づく。
「また明日?」
悠真が言いかけて、止まった。
明日は日曜日。
いつもなら図書館で会う日だ。
彩花も気づく。
「……どうする?」
「水瀬さん、今日疲れたろ」
「九条君も」
「俺は大丈夫」
「私も大丈夫だけど」
少し考える。
今日一日、一緒にいた。
だから明日も必ず会わなければいけないわけではない。
会いたくないわけでもない。
「明日は」
彩花が言う。
「家で本読もうかな」
「うん」
「今日買ったの」
「俺もそうする」
「じゃあ、図書館は休み?」
「そうしようか」
「うん」
それで何も不安はなかった。
毎週日曜日に会うことが自然になっていても、それは義務ではない。
会わない日があっていい。
それぞれの家で、今日一緒に買った本を読む。
それも少し面白い。
「読み終わったら」
「連絡する?」
「うん」
「じゃあ俺も」
電車が停車した。
扉が開く。
彩花は立ち上がる。
「じゃあ、またね」
「また」
ホームへ降りる。
数歩進んでから振り返る。
悠真はまだ座席からこちらを見ていた。
目が合う。
彩花が小さく手を振る。
悠真も手を上げた。
扉が閉まる。
電車がゆっくり動き始める。
彩花はそれを見送り、それから乗り換えホームへ向かった。
◇
帰宅したのは午後五時半を少し過ぎた頃だった。
「ただいま」
「おかえり」
リビングから紗月の声がする。
玄関で靴を脱いだ瞬間、彩花はトートバッグを一度床へ置いた。
「重かった……」
「何冊買ったの?」
いつの間にか紗月が廊下まで来ていた。
「九冊」
「九冊?」
「九条君は七冊」
「二人で十六冊?」
「古本市だから」
「便利な言葉ね」
「九条君にも言われた」
紗月が笑う。
「楽しかった?」
「うん」
彩花は即答した。
「すごく」
その声が自分でも思ったより明るかった。
紗月は娘の顔を見たあと、余計なことは聞かずに「手洗ってきなさい」とだけ言った。
「はーい」
トートバッグを持ち上げる。
「彩花」
「何?」
「その本、全部部屋?」
「うん」
「本棚入るの?」
「…………」
彩花が止まる。
「考えてなかった」
「でしょうね」
「どうしよう」
「買う前に考えなさいよ」
「古本市だったから」
「それはもう聞いたわ」
母の笑い声を背中に受けながら、彩花は二階へ上がった。
◇
自室の床へ買った本を並べる。
一冊。
二冊。
三冊。
九冊。
改めて見ると、やはり多い。
それでも後悔はなかった。
「本棚……」
空きはほとんどない。
机の横に積むしかなさそうだ。
彩花は最初に買った旧版小説を手に取る。
今夜はこれを読む。
そう決めて机へ置いた。
スマートフォンが震える。
悠真からだった。
『着いた。』
短い。
彩花は笑う。
『私もさっき着いた。』
少しして。
『本、重かった?』
『重かった。』
『やっぱり。』
『でも無事。』
『よかった。』
そこで終わるかと思った。
もう一通来る。
『今日は楽しかった。』
彩花は画面を見る。
昼にも聞いた。
帰りにも聞いた。
それでも、また言ってくれる。
だから彩花も返す。
『私も楽しかった。』
少し考え、続ける。
『カフェも行ってよかった。』
既読。
『うん。誘ってくれて嬉しかった。』
胸の奥が、また少しだけ温かくなる。
『私も、九条君が行くって言ってくれて嬉しかった。』
送った。
今度は返事まで少し間があった。
『また行こう。』
彩花は迷わなかった。
『うん。』
それだけ送って、スマートフォンを机へ置く。
今日はもう十分に話した。
明日は会わない。
それでも次がなくなったわけではない。
また図書館で会う。
またメッセージもする。
いつか別の場所にも行く。
琴葉とも会う。
九条家へ行く話もある。
文化祭の日程が決まれば、悠真へ教える。
これから先にあるものが、少しずつ増えている。
彩花は椅子へ座り、旧版小説を開いた。
最初のページ。
古い紙の匂い。
数行読んだところで、今日この本を見つけたときの悠真の声を思い出す。
『買う?』
彩花は小さく笑った。
今日買った本には、今日の記憶がついている。
それはきっと、同じ本を一人で買いに行ったときにはなかったものだ。
だからといって、何か特別な名前をつける必要はない。
今はただ。
また一緒に出かけたい。
そう思える相手がいることを、彩花は素直に嬉しいと思った。




