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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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25/100

第25話

土曜日の朝。


 水瀬彩花は、開け放したクローゼットの前で腕を組んでいた。


 時刻は午前八時四十分。


 待ち合わせまでは、まだ二時間以上ある。


 朝食も食べ終えているし、歯も磨いた。髪の寝癖も直した。普段なら休日の外出準備など、出発する三十分ほど前から始めても十分に間に合う。


 それなのに今日は、ずいぶん早い時間から服を選んでいる。


「……別に、何でもいいんだけど」


 誰もいない部屋で呟く。


 ベッドの上には、候補として出した服が二組並んでいた。


 一つは白いブラウスと淡い水色のロングスカート。


 もう一つは薄いベージュの半袖カットソーと紺色のスカート。


 どちらも何度か着たことがある。特別なお出かけ用ではないし、気合いを入れて買った服でもない。


 ただ、古本市へ行くなら動きやすい方がいい。


 屋外の広場を歩く。


 出店は三十ほどあるらしい。


 悠真とは、できれば全部見たいと話していた。


 天気予報では、最高気温は二十九度。


 日差しも強い。


「水色かな」


 彩花は白いブラウスを手に取る。


 涼しそうだ。


 ただ、少しだけ綺麗に見えすぎる気もする。


「…………」


 手を止めた。


(綺麗に見えすぎるって何)


 自分で考えて、自分で困る。


 別にいいではないか。


 友達と出かける日に、少しくらい綺麗な服を選んでも。


 琴葉と二人で出かけたときだって服は選んだ。


 あの日も駅で待ち合わせをして、手芸店へ行き、カフェで昼食を食べた。


 今日も同じだ。


 友達と出かける。


 ただ、相手が悠真なだけ。


「……それを気にしてるんじゃない」


 彩花は白いブラウスを身体へ当て、鏡を見る。


 悪くない。


 そのとき、部屋の扉が二度ノックされた。


「彩花?」


「うん」


「入るわよ」


「どうぞ」


 扉が開き、凛花が顔を出した。


 部屋へ入った姉は、ベッドの上に並んだ服と、鏡の前に立つ妹を順番に見る。


 彩花も凛花を見る。


「何?」


「……別に」


「今、絶対何か思ったでしょう」


「思ってない」


「お姉ちゃんの『別に』は信用できない」


「最近、彩花も言うようになったわね」


 凛花はそう言いながら部屋へ入り、ベッドの端へ腰を下ろした。


「古本市、今日だったのね」


「うん」


「十一時?」


「そう」


「市民ホールでしょう?」


「うん」


 凛花は白いブラウスを見る。


「それでいいんじゃない?」


「これ?」


「似合うし」


「……こっちは?」


 もう一組を見せる。


「それも似合う」


「どっち?」


「好きな方」


「それで決められないから聞いてるの」


「じゃあ白」


「理由は?」


「涼しそう」


「それだけ?」


「他に何がいるのよ」


 もっともだった。


 彩花は白いブラウスへ視線を戻す。


「じゃあ、これにしようかな」


「いいんじゃない」


 凛花は立ち上がりかけた。


 そこで止まる。


「彩花」


「何?」


「……楽しみ?」


 質問は思ったより普通だった。


 彩花も素直に頷く。


「うん」


「そう」


「前から行ってみたかったし」


「古本市に?」


「それもあるけど」


 彩花は少し考える。


「九条君と本のお店いっぱい見るの、楽しそうだから」


 凛花が黙った。


「お姉ちゃん?」


「何でもない」


「また?」


「本当に何でもないわよ」


 凛花は今度こそ扉へ向かう。


 その背中を見ながら、彩花は首を傾げた。


「お姉ちゃん」


「何?」


「今日、何時まで部活?」


「午前だけ」


「じゃあ帰ってくる?」


「昼過ぎには」


「そっか」


「何?」


「別に」


「……彩花」


「お姉ちゃんの真似」


 凛花は振り返り、少しだけ呆れた顔をした。


 彩花が笑う。


 結局、凛花も小さく笑った。


「行ってらっしゃい」


「まだ二時間あるよ」


「知ってる」


 扉が閉まる。


 彩花はもう一度鏡を見る。


 白いブラウス。


 水色のスカート。


「……うん」


 これでいい。


 そう決めると、さっきまでの迷いが嘘のように消えた。


     ◇


 一階へ下りると、紗月がリビングで洗濯物を畳んでいた。


 耕助はソファに座り、テレビを見ながらコーヒーを飲んでいる。


「お母さん」


「決まった?」


「何が?」


「服」


「……何で知ってるの?」


「さっきから二階を歩き回ってたでしょう」


「そんなに?」


「クローゼット開けたり閉めたりする音もしてたわよ」


 彩花は少しだけ恥ずかしくなる。


 耕助がテレビから顔を上げた。


「今日は出かけるんだっけ?」


「古本市」


「ああ。市民ホールの」


「お父さん知ってるの?」


「毎年やってるだろ」


「行ったことある?」


「昔、お母さんと」


「え?」


 彩花が母を見る。


 紗月は畳んだタオルを重ねながら頷いた。


「結婚する前ね」


「そうなの?」


「古本市だけじゃなくて、あの辺でイベントがあるとたまに行ったわよ」


「お父さん本読むの?」


「失礼だな」


「だって最近読んでるところ見ない」


「仕事で疲れてるんだよ」


「新聞は読むでしょう」


 紗月が言う。


「新聞と小説は違うだろ」


「昔は小説も読んでたわよね」


「まあな」


 意外だった。


 彩花は父の顔を改めて見る。


「何だよ」


「知らなかった」


「彩花が生まれる前の話だからな」


「何読んでたの?」


「いろいろ」


「いろいろって便利」


「何だそれ」


「九条君もよく使う」


 自然に名前が出た。


 耕助がコーヒーカップを置く。


「今日、その九条君と行くのか?」


「うん」


「二人で?」


「うん」


 答えてから、彩花は父を見る。


「何?」


「いや」


 耕助は一度だけ紗月を見た。


 紗月は何も言わず、タオルを畳んでいる。


「楽しんでこいよ」


「……うん」


 それだけだった。


 もっと何か聞かれるかと思った。


 男の子と二人で出かける。


 父親なら気にするのかもしれない。


 けれど、耕助はそれ以上聞かなかった。


「暑いから飲み物持っていきなさい」


 紗月が言う。


「向こうで買うよ」


「最初の分くらい持っていけば?」


「重くない?」


「五百ミリ一本でしょう」


「じゃあ持ってく」


「日焼け止めも」


「塗る」


「帽子は?」


「持ってかない」


「倒れないでね」


「大丈夫だよ」


 いつもの母だった。


 彩花は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを一本取り出す。


 鞄へ入れようとして、少し考えた。


「お母さん」


「何?」


「古本って何冊くらい買うと思う?」


「知らないわよ」


「鞄、大きい方がいいかな」


「買う気満々ね」


「見るだけのつもりだけど」


「その台詞、本好きは信用できないわよ」


 耕助が笑った。


「紙袋くらい向こうでもらえるだろ」


「雨降らないしね」


「帰り重くなるぞ」


「九条君もいるし」


 口にしてから、彩花は止まった。


 耕助も一瞬止まる。


 紗月が娘を見る。


「…………」


「……自分で持つよ」


 彩花は言い直した。


「買った本は自分で持つ」


「別に九条君に持ってもらってもいいんじゃない?」


 紗月が平然と言う。


「いや、今の言い方だと最初から持ってもらうつもりみたいでしょう?」


「そうね」


「違うから」


「分かったわよ」


 母の口元が少し笑っている。


「もう」


 彩花は麦茶を鞄へ入れた。


 少し大きめの生成りのトートバッグ。


 本を何冊か買っても入る。


 これでいい。


     ◇


 午前十時十二分。


 九条家。


 悠真は自室の鏡の前で、シャツの袖を一度折った。


 白い半袖シャツ。


 濃いグレーのパンツ。


 それだけ。


 特別な服ではない。


 なのに、さっきから鏡を見る回数が普段より多い。


「…………」


 悠真は自分を見る。


(何してるんだ、俺)


 古本市へ行くだけだ。


 彩花と。


 二人で。


 朝から夕方近くまで。


「……いや」


 そこまで考えて、自分で止める。


 今日は本を見る。


 彩花もそれを楽しみにしている。


 自分も楽しみにしている。


 それで十分だ。


 以前なら「これは友達として普通なのか」と考え始めたかもしれない。


 今は、そこへ戻る必要はない。


 友達。


 大切な友達。


 一緒に古本市へ行く。


 楽しみ。


 それだけで成立している。


 悠真は腕時計をつけた。


 時刻は十時十四分。


 待ち合わせは十一時。


 家から市民ホールまでは車なら二十分ほど。


 電車を使っても十分間に合う。


「兄様」


 扉の外から声がした。


「何?」


「入っても?」


「いいよ」


 琴葉が入ってくる。


 兄を見る。


 頭から足元まで。


 もう一度、頭から足元まで。


「……何?」


「いえ」


「何だよ」


「三十分ほど前にも、その服ではありませんでしたか?」


「そうだけど」


「まだ鏡を見ていたのですか?」


「時計つけてただけ」


「腕時計をつけるのに三十分?」


「かかってない」


 琴葉は何も言わず兄を見る。


「その顔やめて」


「どの顔でしょう」


「全部分かってるみたいな顔」


「分かりやすいので」


「最近、家族全員それ言うな」


「事実です」


 琴葉は兄の服をもう一度見る。


「似合っていますよ」


「……ありがとう」


「彩花さんにも褒めてもらえるとよいですね」


「別にそれ目的じゃない」


「分かっています」


「絶対分かってないだろ」


「兄様」


「何?」


「古本市を楽しんできてください」


 琴葉の声が少しだけ柔らかくなる。


「余計なことを考えずに」


 悠真は妹を見る。


「考えてないよ」


「なら結構です」


「本当に」


「はい」


「水瀬さんが見たい店全部回るつもり」


「兄様も全部見たいのでしょう?」


「うん」


「でしたら、ちょうどよいではありませんか」


「そうだな」


「それと」


「まだあるの?」


「彩花さんが疲れていないかは見てあげてください」


「分かってる」


「兄様は体力ありますから」


「琴葉よりは」


「私と比較しないでください」


「水瀬さんみたいなこと言うな」


「正しいので」


 琴葉は満足したらしい。


 扉へ向かう。


「行ってらっしゃいませ」


「まだ早いけど」


「兄様、どうせ早く着くでしょう?」


 悠真が黙る。


 琴葉は小さく笑った。


「では」


「……行ってきます」


 扉が閉まる。


 悠真は時計を見る。


 十時十七分。


「まだ早いな」


 そう呟きながら、鞄を持った。


     ◇


 一階へ下りると、リビングに正樹と麗華がいた。


 麗華は息子を見るなり微笑む。


「行くの?」


「うん」


「古本市でしょう?」


「そう」


「楽しんでいらっしゃい」


「ありがとう」


 正樹も新聞から顔を上げた。


「市民ホールか」


「うん」


「車を出そうか?」


「電車で行く」


「そうか」


「水瀬さんも電車だと思うし」


 正樹の新聞が少しだけ下がる。


 悠真はすぐに気づいた。


「父さん」


「何だ」


「今何か考えた?」


「何も」


「絶対何か考えた」


「電車もたまにはいいと思っただけだ」


「普段から乗ってるよ」


「そうだったな」


 麗華が笑う。


「あなた、悠真に見抜かれるようになったわね」


「麗華まで何を言っている」


「父さんも分かりやすくなってるんじゃない?」


「誰のせいだ」


「俺?」


「さあな」


 正樹は新聞へ戻った。


 悠真は少し呆れながら玄関へ向かう。


 そこへ白い大きな影が走ってきた。


「ハク」


 ハクが悠真の足元で止まり、尻尾を振る。


「今日はお前は留守番」


「わふ」


「水瀬さんに会うけど」


 尻尾がさらに激しくなる。


「……本当に名前覚えてる?」


「わふ!」


「絶対偶然だろ」


「悠真」


 後ろから麗華が呼ぶ。


「何?」


「彩花さんによろしくね」


「うん」


「古本をたくさん買って、持ちきれなくなったら持ってあげるのよ」


「母さんまで同じこと言うの?」


「誰と?」


「いや、何でもない」


 悠真は靴を履く。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


「気をつけてな」


「わふ!」


 家族と一匹に見送られ、玄関を出た。


 空は快晴。


 雲は少ない。


 日差しは強いが、風はある。


 古本市にはちょうどよさそうな天気だった。


     ◇


 午前十時三十二分。


 彩花は家を出た。


 待ち合わせは十一時。


 市民ホールまでは電車と徒歩で二十分ほど。


 少し早い。


 けれど、家にいても落ち着かなかった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 紗月の声。


 リビングから耕助も「気をつけてな」と言う。


 凛花は部活でまだ帰っていない。


 彩花は玄関を出た。


 夏に近づいた空気が身体を包む。


 日傘を開く。


 白いブラウスに水色のロングスカート。


 足元は歩きやすい白のスニーカー。


 生成りのトートバッグ。


 鏡を何度か確認した。


 変ではない。


(大丈夫)


 何が大丈夫なのかは分からない。


 ただ、そう思う。


 駅まで歩き、電車へ乗る。


 休日の午前中なので、車内はそれほど混んでいなかった。


 窓際の席へ座る。


 スマートフォンを見る。


 悠真からはまだ何も来ていない。


 待ち合わせは十一時。


 まだ二十分以上ある。


(九条君も早く来そう)


 何となくそう思う。


 先週の日曜日は遅れてきたが、普段の悠真は早い。


 図書館でも、彩花より先にいることが多い。


 古本市でも同じかもしれない。


 電車が駅へ着く。


 彩花は降り、市民ホールへ向かって歩いた。


 駅前の大通りには、古本市の小さな案内看板が立っている。


『青凪古本市 本日開催』


 矢印に従って進む。


 歩いて五分ほど。


 市民ホールの建物が見えてきた。


 その前の広場には、すでに多くの人が集まっている。


 白や青の簡易テント。


 長机の上に並べられた本。


 段ボール箱。


 手書きの値札。


 古書店の名前が入ったのぼり。


 紙の匂いと、近くの軽食販売から漂ってくる焼き菓子の甘い匂いが混じっている。


「……すごい」


 思ったより大きい。


 彩花の歩く速度が自然に上がる。


 正面入口の時計が見えた。


 十時四十四分。


 そして。


「…………」


 その下に、悠真がいた。


 予想通り。


 もう来ている。


 柱の近くに立ち、スマートフォンを見ていた。


 まだ彩花には気づいていない。


(早い)


 自分も早いのに。


 彩花は少しだけ笑う。


 そのまま近づこうとして。


 足が一度だけ止まった。


 私服姿の悠真。


 何度も見ている。


 図書館でも、カフェでも、書店でも。


 珍しくない。


 それなのに今日は、少しだけ違って見えた。


 図書館で待っている人ではない。


 自分と出かけるために、ここで待っている人。


 その違いだけだった。


「…………」


 彩花は自分の考えに少し困る。


(何考えてるんだろ)


 別におかしいことではない。


 約束したのだから待っている。


 自分だって同じだ。


 そう思いながら歩き出す。


 あと十メートルほど。


 そこで悠真が顔を上げた。


 目が合う。


 表情が変わった。


 ほんの少し。


 でも、彩花には分かった。


「水瀬さん」


 悠真がこちらへ来る。


「おはよう」


「おはよう」


「早いね」


「水瀬さんも」


「まだ十五分あるよ」


「俺は十分くらい前に来た」


「じゃあ九条君の方が早い」


「そうだな」


 二人は笑う。


 そこで悠真の視線が、彩花の服へ一度だけ動いた。


 顔へ戻る。


「……今日、いつもと雰囲気違う」


「え?」


「服」


 彩花は自分を見る。


「変?」


「違う」


 悠真はすぐに否定した。


「似合ってる」


「…………」


 今度は彩花が黙る番だった。


「何?」


「いや」


「変だった?」


「違うよ」


 彩花は少しだけ髪を耳へかける。


「ありがとう」


「うん」


「……九条君も」


「俺?」


「似合ってるよ」


「何が?」


「今日の服」


 悠真も一瞬黙る。


 彩花はそれを見て、少し笑った。


「また不意打ち?」


「……それ、まだ使うの?」


「便利だから」


「俺の言葉なのに」


「もう私の言葉でもある」


「勝手に共有されてる」


「友達だからいいでしょう?」


 言う。


 悠真は少しだけ目を細めた。


「……うん」


「何?」


「いや。いいと思う」


 時計を見る。


 十時四十七分。


 まだ開始前だが、店によってはすでに本を見られるようになっているらしい。広場には少しずつ人が増えている。


「どうする?」


 悠真が聞く。


「もう見られるみたいだけど」


「全部見るんでしょう?」


「全部」


「じゃあ端から?」


「うん」


「どっちから?」


 彩花は広場を見る。


 右側には文学や文庫本を多く並べた店が見える。


 左側には絵本や雑誌、専門書らしい棚がある。


「右」


「即答」


「小説ある」


「本当に分かりやすいな」


「九条君も見たいでしょう?」


「見たい」


「じゃあ決まり」


 二人は並んで歩き出した。


     ◇


 一軒目は、市内で長く営業している古書店だった。


 テントの下に長机が三台並び、その上には文庫本と単行本がぎっしり置かれている。値札は百円から千円ほどまで幅があり、中には古い装丁の本も混じっていた。


 彩花の目がすぐに変わる。


「九条君」


「うん」


「これ」


 開始して一分も経っていない。


 悠真が隣へ寄る。


「古いな」


「昭和四十年代」


「状態いい」


「ね」


 彩花が手にしたのは、今では新装版しか出ていない小説の旧版だった。


 表紙には少し焼けがある。


 背表紙も色が薄くなっている。


 それでもページの状態は悪くない。


「四百円」


「買う?」


「……まだ一軒目」


「三十軒くらいある」


「そうなの」


「でも欲しいんだろ?」


「欲しい」


「じゃあ買えば?」


「最初から飛ばしたら帰り大変になる」


「そのための鞄じゃないの?」


 悠真が彩花のトートバッグを見る。


「見抜かれた」


「結構大きいから」


「九条君のは?」


「俺も一応」


 悠真が肩に掛けた黒いバッグを見せる。


「本入る」


「買う気あるじゃん」


「水瀬さんと同じ」


「見るだけじゃなかったの?」


「そんなこと言った?」


「言ってない」


「じゃあ買う」


 二人で笑う。


 彩花はもう一度本を見る。


「……買おうかな」


「うん」


「でも九条君、止めてよ。私が買いすぎそうになったら」


「何冊から?」


「十冊」


「基準高くない?」


「古本市だよ?」


「じゃあ十五冊」


「増やさないで」


 店主の年配男性が、二人の会話を聞いて笑った。


「今日はまだ始まったばかりだからね。ゆっくり見ていきな」


「はい」


 彩花が少し恥ずかしそうに頭を下げる。


「その本、好きならいいよ。三百円で」


「え?」


「若い子が読んでくれるなら」


「でも」


「持っていきな」


「……ありがとうございます」


 彩花の顔が明るくなる。


 悠真はその横顔を見る。


 自分が何かをしたわけではない。


 ただ、本一冊でこんなに嬉しそうになる。


 それを見るのが、思った以上に楽しい。


「九条君」


「何?」


「これも見て」


「もう二冊目?」


「買うとは言ってない」


「顔が欲しそう」


「……分かる?」


「最近は」


「みんな顔で分かりすぎ」


 彩花が少し頬を膨らませる。


 悠真は笑った。


「それ、俺も言った」


「知ってる」


 結局、一軒目で彩花は二冊。


 悠真は一冊買った。


 開始から十分。


「…………」


 店を出たところで、彩花が紙袋を見る。


「九条君」


「何?」


「このペースまずい」


「まだ二冊」


「三十軒ある」


「全部で六十冊」


「買わないよ!」


 悠真が笑う。


「じゃあ次から厳選」


「うん」


「本当に?」


「頑張る」


「俺も」


「九条君も一冊買ってるからね」


「まだ一冊」


「同罪」


「二冊と一冊は違う」


「古本市では誤差です」


「どんな理屈?」


 二人は次の店へ向かう。


 まだ十一時にもなっていない。


 けれど、もう楽しかった。


     ◇


 三軒目。


 彩花は買わなかった。


 四軒目。


 悠真が二冊買った。


「九条君」


「何?」


「私より買ってる」


「合計三冊ずつだろ」


「本当だ」


「同罪」


「使ったね」


「便利だから」


「私の言葉なのに」


「元は俺のだろ」


「もう共有」


「友達だから?」


「そう」


 五軒目は、海外文学を多く扱う店だった。


 悠真の足が止まる。


 彩花はすぐに気づいた。


「好きそう」


「うん」


「ゆっくり見ていいよ」


「水瀬さんは?」


「私も見る」


 二人で棚の前へ並ぶ。


 悠真は翻訳小説の背表紙を一冊ずつ確認し、彩花は少し離れたところにある古いエッセイ集を手に取った。


 同じ店にいる。


 でも、ずっと同じ本を見る必要はない。


 それぞれ好きな棚へ行く。


 気になるものを見つければ呼ぶ。


「水瀬さん」


「何?」


「これ、前に話してたやつじゃない?」


 呼ばれて行く。


「あ!」


 以前、図書館で話題にした絶版の短編集だった。


「ある」


「状態も悪くない」


「……高い」


 二千八百円。


 今日見た中ではかなり高い。


 彩花が本を持ったまま悩む。


「欲しい?」


「欲しいけど」


「予算は?」


「今日は五千円くらいにしようと思ってた」


「今いくら?」


「九百円」


「なら買える」


「でもまだ五軒目」


「悩むな」


「すごく」


 悠真は何も言わず待つ。


 買えばいいとも、やめた方がいいとも言わない。


 彩花は本を開き、目次を見る。


 閉じる。


 もう一度値札を見る。


「……一周して残ってたら買う」


「全部見て戻る?」


「うん」


「分かった」


 本を棚へ戻す。


 少し惜しい。


 けれど、それも古本市の楽しさなのかもしれない。


 次に戻ったとき、まだあるか。


 誰かが買っているか。


「売れたら?」


 悠真が聞く。


「縁がなかったって思う」


「後悔しない?」


「するかも」


「するんだ」


「でも、今すぐ決めるよりいい」


「そっか」


「九条君なら?」


「欲しいなら買う」


「即決派?」


「予算内なら」


「強い」


「水瀬さんが慎重すぎるんじゃない?」


「本って増えるから」


「それは分かる」


「家の本棚、もう結構いっぱい」


「うちも」


「九条君の部屋、どのくらい本あるの?」


「数えたことない」


「本棚何個?」


「三つ」


「大きい?」


「壁一面のが一つと、小さいの二つ」


 彩花が止まる。


「壁一面?」


「うん」


「……見たい」


 言葉が先に出た。


 悠真も止まる。


「俺の部屋?」


「あ」


 彩花はようやく気づく。


 九条家へ行く話はある。


 でも、悠真の部屋へ行く話ではない。


「違う、変な意味じゃなくて。本棚」


「分かってる」


「本当に?」


「うん」


 悠真は少しだけ笑った。


「いつか家に来たら、見てもいいよ」


「……いいの?」


「水瀬さんなら」


 短い言葉だった。


 彩花の胸が、ほんの少しだけ落ち着かなくなる。


 水瀬さんなら。


 そこにどんな意味があるのかは考えない。


「じゃあ、本棚だけ」


「部屋にあるけど」


「それはそうだね」


「本棚だけ廊下に出す?」


「無理でしょう?」


「多分」


 二人で笑う。


 少しだけ生まれた妙な空気は、それで消えた。


 ただ。


 九条家へ行く。


 ハクに会う。


 琴葉と話す。


 麗華たちに挨拶する。


 そこへ、悠真の本棚を見るという小さな楽しみが一つ増えた。


     ◇


 十一時五十分。


 十二軒目を見終えたところで、彩花は腕時計を確認した。


「もう一時間経ってる」


「本当だ」


「まだ半分行ってない」


「予定通りだな」


「どこが?」


「全部見るなら午後までかかるって話してただろ」


「……そうだった」


 広場は開始直後より混んでいた。


 親子連れ。


 年配の夫婦。


 学生。


 大きなリュックを背負った古書好きらしい男性。


 店と店の間を行き交う人の数が増え、人気の店には小さな列までできている。


「暑くない?」


 悠真が聞く。


「ちょっと」


「休む?」


「九条君は?」


「俺は大丈夫。でも水瀬さん、朝から歩いてるだろ」


「九条君も同じでしょう?」


「体力はある方だから」


「生徒会なのに?」


「生徒会関係ないだろ」


「運動部じゃないって意味」


「昔から一応運動はしてるよ」


「何?」


「水泳とか」


「初めて聞いた」


「今はたまにしかやらないけど」


「九条君、まだ知らないこといっぱいあるね」


 何気なく言った。


 悠真が少しだけ目を細める。


「水瀬さんも」


「私?」


「うん」


「そんなにないよ」


「ある」


「例えば?」


「青葉でどんな感じなのか、まだちゃんと知らないし」


「この前少し話したでしょう?」


「文芸部とか大地の話は聞くけど、見たことない」


「私も九条君の学校見たことない」


「じゃあ同じ」


「……そうだね」


 知らないことがある。


 それを以前なら距離だと思ったかもしれない。


 今は、少し違う。


 これから知れるものが残っている。


 そんな感じがする。


「とりあえず休もう」


 悠真が言う。


「うん」


 広場の端には休憩用のベンチと、簡易テーブルが並べられている。


 軽食の屋台もある。


 焼きそば。


 サンドイッチ。


 焼き菓子。


 コーヒー。


 冷たい飲み物。


 二人は日陰になっているテーブルを一つ見つけた。


「座ってて」


 悠真が言う。


「何で?」


「飲み物買ってくる」


「私も行く」


「席取られるかもしれない」


「ああ」


 周囲を見る。


 確かに空席はほとんどない。


「じゃあお願いしていい?」


「何がいい?」


「レモンティー」


「冷たいのでいい?」


「うん」


「分かった」


「お金」


「あとでいいよ」


「駄目」


「戻ってからでいいって意味」


「あ、そっち」


「何だと思ったの?」


「奢るって言うのかと」


「飲み物くらいなら別にいいけど」


「自分で払います」


「はい」


 悠真が笑いながら列へ向かう。


 彩花は椅子へ座った。


 足元には紙袋。


 現在、彩花四冊。


 悠真五冊。


「九条君の方が多い」


 少し嬉しい。


 自分だけが浮かれて買っているわけではない。


 悠真も同じように楽しんでいる。


 彩花は麦茶を一口飲む。


 少し離れた列に並ぶ悠真を見る。


 背が高いので、人の中でも見つけやすい。


 順番が来る。


 何か注文している。


 店員に言われ、少し横へ移動する。


「…………」


 自分は何を見ているのだろう。


 彩花は視線を戻した。


 テーブルの上へ買った本を一冊出す。


 最初の店で買った旧版。


 表紙を撫でる。


「楽しそうですね」


 突然、隣から声をかけられた。


「え?」


 見ると、年配の女性が隣のテーブルへ座っていた。


 手には古書店の紙袋。


「本、お好きなのね」


「あ、はい」


「私も昔はよく来たのよ」


「そうなんですか?」


「今は目が疲れるから、少しだけ」


 女性は穏やかに笑う。


「彼氏さんも本がお好きなの?」


「え?」


 彩花の思考が止まった。


「…………」


「違った?」


「あ、いえ、違います」


 声が少し上ずる。


「友達です」


「あら、ごめんなさい」


「いえ!」


 女性は本当に深い意味なく尋ねただけらしい。


 すぐに自分の紙袋へ視線を戻す。


 彩花は固まったまま座っていた。


(彼氏)


 違う。


 友達。


 すぐに答えられた。


 間違っていない。


 それなのに、なぜか心臓が少し速い。


(びっくりしただけ)


 そうだ。


 突然そんなことを言われたから。


「水瀬さん?」


「っ」


 悠真が戻っていた。


 手にはレモンティーとアイスコーヒー。


「どうした?」


「何でもない」


「顔赤くない?」


「暑いから」


「日陰だけど」


「さっきまで歩いてたから」


「気分悪い?」


「違うよ」


 悠真の顔が少し心配そうになる。


「本当に?」


「本当」


 彩花は受け取ったレモンティーを頬へ当てる。


 冷たい。


「ありがとう」


「うん」


「いくら?」


「二百五十円」


 彩花は財布から硬貨を出す。


 悠真が受け取る。


 その間、隣の女性は何も言わなかった。


 助かった。


「何かあった?」


 悠真が座りながら聞く。


「ないよ」


「……ならいいけど」


 追及しない。


 それも助かった。


 彩花はストローを刺し、レモンティーを飲む。


 冷たさが喉を通る。


 少しずつ落ち着く。


 友達。


 そう答えた。


 それでいい。


 なのに。


 彩花は自分の膝の上へ視線を落とした。


(何でこんなに恥ずかしいんだろ)


 答えは出さなかった。


     ◇


 休憩を終え、二人は再び店を回り始めた。


 十三軒目。


 十四軒目。


 十五軒目。


 少しずつ見るペースが上がる。


 何でも手に取るのではなく、自分の好きな棚を先に探すようになったからだ。


「水瀬さん」


「何?」


「これ」


 悠真が一冊差し出す。


「……料理?」


「お菓子」


 古い焼き菓子のレシピ本だった。


 彩花の目が変わる。


「見ていい?」


「もちろん」


 受け取る。


 ページを開く。


 写真は少ない。


 今のレシピ本より文章が多く、材料の説明も簡素だ。


「面白い」


「作れそう?」


「多分。でも今と材料の規格違うかも」


「そういうのもあるんだ」


「バターとか小麦粉とか、今と同じ感覚で使えないレシピもあるよ」


「へえ」


「……欲しい」


「また増える」


「九条君が見つけたんでしょう?」


「俺のせい?」


「そう」


「じゃあ責任持って持つ?」


 彩花が顔を上げる。


 悠真は冗談っぽく言っただけだった。


「……まだ持てる」


「本当に?」


「うん」


 紙袋は少し重くなっている。


 でも、まだ大丈夫。


「重くなったら言って」


「自分の本は自分で持つよ」


「無理になったら」


「そのときは」


 彩花は少しだけ笑う。


「お願いします」


「うん」


 素直に頼めた。


 それも以前なら、少し違ったかもしれない。


 人に頼ることと、できないことを認めること。


 それは同じではない。


 自分で持てる間は持つ。


 疲れたら頼る。


 それでいい。


 彩花はレシピ本を買った。


     ◇


 午後一時。


 二十軒目まで見たところで、二人は昼食を取ることにした。


 軽食の屋台を見て回り、最終的にサンドイッチとスープを選ぶ。


 ちょうど空いたテーブルへ座る。


「あと十軒くらい?」


 彩花が聞く。


「少し増えてる」


「増えてる?」


「朝なかった店が二つある」


「途中参加?」


「多分」


「じゃあ十二軒」


「全部見る?」


「見る」


「即答」


「九条君は?」


「見る」


 二人で笑う。


 彩花はサンドイッチの包みを開く。


 卵とハム。


 悠真はローストチキン。


「一口いる?」


 悠真が聞く。


「え?」


「チキン」


「……いいの?」


「うん」


「じゃあ、卵いる?」


「交換?」


「その方がいいでしょう?」


「いいよ」


 二人はそれぞれ一切れずつ交換する。


 ただ、それだけ。


 友達同士なら不自然ではない。


 琴葉とだって食べ物を分けることはある。


 彩花はそう思いながら、悠真からもらったサンドイッチを食べる。


「おいしい」


「こっちも」


「どっちが好き?」


「迷う」


「私はチキン」


「交換した意味」


「一個全部は重いから」


「なるほど」


 食べながら、買った本の話をする。


 どの店がよかった。


 まだ戻りたい店がある。


 例の短編集が残っているか。


 悠真が買った海外小説の版が珍しい。


 話題はほとんど本だった。


 それで十分に時間が過ぎる。


「そういえば」


 悠真がスープを飲んだあとで言う。


「さっき、何で赤くなってたの?」


「…………」


 忘れていなかった。


「暑かったから」


「それは聞いた」


「じゃあ終わり」


「何か言われてなかった?」


「聞こえてたの?」


「話してるのは見えた」


「…………」


「言いたくないならいいけど」


 悠真はそれ以上踏み込まない。


 彩花は少し迷う。


 言わなくてもいい。


 でも、隠すほどのことでもない。


「……隣にいた人に」


「うん」


「彼氏さんも本好きなのって聞かれた」


 悠真が止まった。


 完全に。


「…………」


「九条君?」


「ごめん」


「何が?」


「いや」


 悠真は一度だけ水を飲む。


「それで?」


「友達ですって言った」


「……うん」


「それだけ」


「そっか」


「何?」


「何でもない」


「九条君も赤くない?」


「暑いから」


「ここ日陰だよ」


「さっきまで歩いてたから」


 彩花が目を細める。


「それ私が言ったやつ」


「便利だったから」


「そういう使い方する?」


「する」


 二人とも少し黙る。


 そして。


 彩花が先に笑った。


 悠真も耐えきれず笑う。


「何これ」


「分からない」


「変なの」


「うん」


 笑ってしまえば、少し楽になった。


 彼氏。


 彼女。


 そう見えた人がいた。


 それだけ。


 今の二人は友達だ。


 その事実は何も変わらない。


 ただ。


 否定したあとに残る、説明しづらい何かまで無理に消す必要もない。


「食べよう」


 彩花が言う。


「うん」


 二人は昼食へ戻った。


     ◇


 午後一時四十分。


 古本市後半戦。


 二十一軒目では何も買わなかった。


 二十二軒目で悠真が一冊。


 二十三軒目で彩花が文芸誌の古い号を二冊。


 二十四軒目。


「……重い」


 彩花がとうとう言った。


 悠真がすぐに紙袋を見る。


「貸して」


「でも」


「言ってって言っただろ」


「半分」


「全部でいい」


「半分」


「何で?」


「九条君も持ってるから」


「じゃあ重い方」


「同じくらいにする」


「細かいな」


「大事」


 二人はベンチの端で紙袋を開き、本を分けた。


 彩花の本のうち、重い単行本三冊を悠真のバッグへ移す。


「入る?」


「余裕」


「……本当に大きいね」


「こうなると思ってたから」


「私の本持つこと?」


「自分も買うと思ってた」


「そっちか」


「水瀬さんのも想定してたけど」


「してたの?」


「十冊超えたら重いだろ」


「今八冊」


「あと四軒以上ある」


「…………」


「十冊行くな」


「まだ分からないよ」


「行く顔してる」


「最近、本当に顔読むね」


「水瀬さん限定かも」


 悠真が何気なく言った。


 彩花の手が止まる。


「……限定?」


「他の人の顔、そんなに見てないから」


「…………」


 悠真も自分の言葉に気づいたらしい。


 一瞬だけ黙る。


 けれど、言い直さなかった。


「行こうか」


「……うん」


 二人は立ち上がる。


 彩花の紙袋は軽くなった。


 代わりに、胸の辺りが少しだけ落ち着かない。


 自分限定。


 他の人の顔はそんなに見ていない。


(九条君、最近こういうこと普通に言う)


 本人も分かっているのだろうか。


 分かっているのかもしれない。


 それでも言うようになった。


 彩花は隣を歩く悠真を見る。


「何?」


 すぐに気づかれた。


「……何でもない」


「本当に?」


「うん」


「ならいいけど」


 また前を見る。


(本当に見てる)


 少しだけ可笑しくなった。


     ◇


 午後二時半。


 最後の店まで見終えた。


「全部見た」


 彩花が広場を振り返る。


「見たな」


「何軒?」


「三十二」


「増えたね」


「うん」


「何冊?」


「俺?」


「うん」


 悠真が数える。


「七冊」


「私、九冊」


「あと一冊で十」


「買わないよ」


「戻るんだろ?」


「…………」


 例の短編集。


 二千八百円。


「戻る」


「じゃあ十冊になるかも」


「残ってたらね」


 二人は五軒目だった店へ戻る。


 途中、彩花は少しだけ緊張している自分に気づいた。


 あるだろうか。


 売れているだろうか。


 店が見える。


 海外文学の棚。


 短編集を置いた場所。


「あ」


 彩花の足が止まる。


 ない。


「売れた?」


 悠真も棚を見る。


「……多分」


 少しだけ残念だった。


 思った以上に。


「そっか」


 彩花は棚の前へ近づく。


 別の本が置かれている。


 縁がなかった。


 そう思うつもりだった。


「残念?」


「うん」


 素直に答える。


「結構」


「そっか」


「買えばよかったかな」


「それは結果論だろ」


「そうなんだけど」


「でも、そのとき水瀬さんは一周してから決めたかったんだろ?」


「うん」


「なら、それでいいんじゃない」


 悠真の声は穏やかだった。


「次見つけたら、今度は買えばいい」


「……そうだね」


「探す楽しみ残ったし」


 彩花は少しだけ笑う。


「九条君、そういう考え方するんだ」


「変?」


「ううん」


 むしろ、いいと思った。


 手に入らなかった。


 だから終わりではない。


 また探せる。


 次に出会えるかもしれない。


「じゃあ、今日は九冊」


「十分多い」


「九条君七冊」


「二冊差」


「誤差」


「古本市では?」


「そう」


 二人は笑った。


     ◇


 午後三時前。


 まだ古本市は続いている。


 終了は四時。


 けれど、二人は全部の店を見終えていた。


「どうする?」


 悠真が聞く。


「もう一周する?」


「危険」


「本増える?」


「絶対増える」


「じゃあやめる?」


 彩花は広場を見る。


 まだ帰りたくない。


 古本市をもっと見たいというより。


 今日が、もう少し続いてほしい。


 その感覚に気づき、少しだけ戸惑う。


「……近く、何かある?」


 彩花が尋ねる。


「近く?」


「カフェとか」


「あると思う」


「ちょっと休んでから帰らない?」


 言ったあと、悠真を見る。


 悠真は一瞬だけ目を丸くした。


 それから。


「うん」


 笑った。


「行こう」


 返事が早かった。


「本重いしね」


「俺はまだ大丈夫」


「私の三冊持ってるでしょう?」


「それ込みで」


「じゃあお礼に飲み物奢る」


「いいよ」


「持ってもらってるから」


「じゃあ半分だけ」


「飲み物に半分ある?」


「何か食べるなら」


「……九条君、お腹空いてる?」


「ちょっと」


「私も」


「昼食べたのに」


「歩いたから」


「じゃあ何か食べよう」


「うん」


 古本市の広場を出る。


 朝十一時に待ち合わせた。


 もう四時間近く一緒にいる。


 それでも、話すことはなくならなかった。


 むしろ、買った本についてまだ話したいことがある。


 さっき見た店についても。


 売れてしまった短編集についても。


 次に読みたい本についても。


 彩花は悠真の隣を歩きながら、ふと朝の自分を思い出す。


 鏡の前で服を選んでいた。


 何を着るか迷った。


 少しくらいちゃんとして行きたいと思った。


 あのときは、その理由を深く考えなかった。


 今も、まだ分からない。


 ただ。


「九条君」


「何?」


「今日、まだ帰りたくないかも」


 言ってから、自分で驚いた。


 悠真も足を止めかける。


「……古本市から?」


 少しだけ慎重な聞き方だった。


 彩花はその意味を考える。


 古本市から。


 それだけなのか。


 自分でもよく分からない。


「今日が楽しいから」


 だから、今言えることだけ言った。


「もうちょっと話したい」


 悠真は何も言わなかった。


 ほんの数秒。


 けれど、その顔は困っていなかった。


「俺も」


 それだけ答えた。


 彩花の胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「じゃあカフェ探そう」


「うん」


 二人はまた歩き出す。


 隣同士。


 紙袋には、今日見つけた本が何冊も入っている。


 待ち合わせの理由は古本市だった。


 けれど、全部の店を見終わっても。


 二人でいる理由は、まだなくならなかった。

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