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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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24/100

第24話

日曜日の朝。


 九条家のダイニングには、いつもと変わらない朝食の時間が流れていた。


 大きな窓から入る朝の光が長いテーブルの上へ差し込み、庭の木々を揺らす風が、閉じたガラス越しに葉の影だけを動かしている。正樹は新聞へ目を落とし、麗華は紅茶を飲みながら今日の予定を確認し、俊治は少し離れた席で静かに食事を進めていた。


 悠真も普段通りだった。


 少なくとも、本人はそのつもりだった。


「それで琴葉」


 麗華がカップを置く。


「彩花さんをご招待するお話だけれど」


 悠真のフォークが止まった。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、向かいに座る琴葉は見逃さなかった。


「はい」


「昨日、先方のお宅へ伺ったばかりでしょう? あまり急いでお誘いすると、彩花さんも気を遣うかもしれないわ」


「私もそう思っています」


「古本市もあるのでしょう?」


「はい。兄様と彩花さんが行く予定です」


 正樹の新聞が、わずかに下がった。


 悠真はそちらを見る。


「父さん」


「何だ?」


「今、新聞下げた?」


「ページをめくろうとしただけだ」


「めくってないけど」


「これからだ」


 正樹は新聞を持ち直した。


 隣で麗華が微笑んでいる。


「あなた、前にも同じことをしていたわね」


「何の話だ」


「悠真が彩花さんと連絡先を交換したとき」


「記憶にないな」


「私はあります」


 琴葉が淡々と加わった。


「琴葉」


「事実ですので」


 俊治だけは何も言わず、味噌汁の椀を置いた。


 しかし、古本市という言葉が出てから箸の動きがほんの少し遅くなっていることを、悠真は知っている。


(全員、気にしてるだろ)


 以前なら、その視線の意味を考えて余計に落ち着かなくなったかもしれない。


 今はもう慣れ始めていた。


 家族が彩花に興味を持っている。


 それ自体は分かっている。


 ただし。


「母さん」


「なあに?」


「もし水瀬さんが来ることになっても、普通にしてね」


 麗華が目を瞬いた。


「普通に?」


「うん」


「私はいつも普通よ」


「父さんも」


「なぜ私まで言われる」


「祖父さんも」


「……私は何もしていないが」


 三方向から返事が来る。


 悠真は少し考えた。


「それが逆に不安なんだけど」


「兄様」


 琴葉がパンへジャムを塗りながら言う。


「一番普通にできるか心配なのは兄様です」


「俺?」


「はい」


「何で?」


「彩花さんが玄関へ入っただけで、ずっと後ろをついて歩きそうです」


「しないよ」


「ハクと彩花さんの間に座りそうです」


「……それは」


「考えましたね」


「ハクが飛びついたら危ないだろ」


「兄様」


「何?」


「ハクは人へ飛びつかないよう躾けられています」


「最初は興奮するかもしれない」


「その場合、兄様ではなく私か父様が対応します」


「俺でもいいだろ」


「彩花さんとハクの初対面を邪魔しないでください」


「俺、邪魔する前提なの?」


「はい」


 即答だった。


 悠真が言葉を失う。


 正樹の新聞の向こうから、小さな咳払いが聞こえた。


「父さん、今笑った?」


「笑っていない」


「絶対笑っただろ」


「新聞を読んでいる」


「内容入ってる?」


「当然だ」


「今どの記事?」


 短い沈黙。


「……経済面だ」


「そこ一面だけど」


 麗華が口元を押さえた。


 琴葉も俯く。


 俊治だけは表情を変えなかった。


 ただ、悠真には祖父の目元がほんの少し緩んだように見えた。


「もういいよ」


 悠真は諦めてパンを一口食べた。


 麗華が楽しそうに紅茶を飲む。


「でも、本当に急がなくていいのよ」


「分かっています」


 琴葉が頷く。


「彩花さんにも、まだ日程は決めなくてよいと伝えました」


「それならいいわ」


「俺も急がなくていいと思う」


 悠真も言う。


 麗華が息子を見る。


「そうなの?」


「何、その反応」


「すぐにでも来てほしいのかと思っていたわ」


「来てくれたら嬉しいけど」


 言葉は自然に出た。


 そこで止める理由もなかった。


「水瀬さんにも予定あるし。古本市もあるし、琴葉とも遊ぶだろ。来られるときでいいよ」


「……そう」


 麗華の笑みが少し深くなる。


「何?」


「いいえ」


「その顔、琴葉と同じだから」


「親子ですもの」


「便利だな、それ」


 悠真はため息をつく。


 足元では、何も知らないハクがテーブルの下から白い顔を出していた。


 悠真と目が合う。


「お前はいいよな」


「わふ」


「何も知らなくて」


 尻尾が床を叩く。


 琴葉がその様子を見る。


「ハクは知ったら一番喜ぶと思います」


「水瀬さんのこと?」


「兄様が何度も名前を出していますので、音くらいは覚えているかもしれません」


「そんなに言ってないだろ」


「言っています」


「どのくらい?」


「ハクへ『水瀬さんが会いたいって』と話しかけていたくらいには」


 悠真の手が止まった。


 麗華がゆっくり息子を見る。


 正樹の新聞がまた一センチ下がった。


 俊治まで視線を上げる。


「……琴葉」


「何でしょう」


「それ今言う必要あった?」


「事実ですので」


「お前、最近俺に厳しくない?」


「以前からです」


 ハクだけが嬉しそうに尻尾を振っていた。


     ◇


 同じ頃。


 水瀬家では、彩花がキッチンで卵を割っていた。


「一個、二個……」


 ボウルへ落とし、殻が入っていないことを確認する。


 その横では紗月が味噌汁を温めている。


「今日も図書館?」


「うん」


「九条君に会うの?」


「多分」


「多分なの?」


「毎週絶対って決めてるわけじゃないから」


「そうだったわね」


 紗月はそれ以上聞かなかった。


 彩花は卵を溶きながら、昨日のことを思い返す。


 琴葉が家へ来た。


 一緒に裁縫をした。


 凛花とも話した。


 そして帰り際、今度は九条家へ来ないかと言われた。


 昨夜には麗華から了承をもらったことも聞いている。


(九条君の家かあ)


 やはり、考えると少し緊張する。


 琴葉の家だと思えば行きたい。


 ハクにも会いたい。


 麗華とはまだきちんと会ったことがない。


 正樹や俊治に至っては、話でしか知らない。


 しかも。


 九条家。


 青凪市でも知られている家だ。


 悠真が運転手付きの車に乗る姿を初めて見た日の驚きは、今も覚えている。


「彩花」


「え?」


「卵」


「あ」


 混ぜすぎていた。


 紗月が笑う。


「考え事?」


「ちょっと」


「昨日のこと?」


「うん」


 隠す必要もないので頷く。


「琴葉さんから、今度は家に来ないかって言われた」


「あら、いいじゃない」


 紗月の反応は軽かった。


「……お母さん」


「何?」


「九条家だよ」


「そうね」


「それだけ?」


「他に何があるの?」


「いや、だって」


 彩花は菜箸を持ったまま言葉を探す。


「九条家って、結構すごい家なんでしょう?」


「私は詳しく知らないけど、そうみたいね」


「緊張しない?」


「私が行くわけじゃないもの」


「そうだけど」


 紗月は味噌汁の火を止めた。


「彩花は、九条家に招待されたの?」


「え?」


「それとも琴葉ちゃんの家に遊びに来ないかって誘われたの?」


 彩花は少し黙る。


「……琴葉さんの家」


「じゃあ、それでいいんじゃない?」


「…………」


「もちろん、ご家族に失礼のないようにはしないといけないけどね。でも、最初から『九条家へ伺う』って構えすぎたら、琴葉ちゃんだって困るでしょう?」


「……そっか」


「昨日だって、琴葉ちゃんはうちに来たでしょう」


「うん」


「この家を見て、『水瀬家は普通の家ですね』なんて言わなかったでしょう?」


「言わないよ」


「なら同じよ」


 簡単な言葉だった。


 けれど、彩花の肩から少しだけ力が抜ける。


 九条家と水瀬家が同じだという意味ではない。


 家の大きさも、暮らしも、きっと違う。


 それでも、友達の家へ行くという部分まで別物にする必要はない。


「お母さん、たまにいいこと言うね」


「たまに?」


「いつもです」


「遅い」


 紗月が笑う。


 そこへ、寝起きらしい凛花がキッチンへ入ってきた。


「おはよう」


「お姉ちゃん遅い」


「休みだからいいでしょう」


「ご飯できるよ」


「ありがとう」


 凛花は冷蔵庫から水を取り出し、一口飲んだ。


「何の話?」


「琴葉さんの家」


 彩花が答える。


 凛花の目が少し細くなる。


「行くの?」


「まだ日程決まってないよ」


「そう」


「琴葉さんが、お母さんに聞いてくれたって」


「九条さんに?」


「麗華さん」


「……そう」


 凛花はコップを置く。


「行きたいの?」


「うん」


 彩花はすぐに答えた。


「琴葉さんの家見てみたいし」


 一拍。


「ハクにも会いたい」


「そこなのね」


「大事だよ」


「九条君は?」


「いるんじゃない?」


「その程度?」


「だって九条君の家でもあるでしょう?」


「そうだけど」


 凛花は何か言いたそうな顔をした。


 けれど、結局やめた。


「まあ、彩花が行きたいならいいんじゃない」


「お姉ちゃん、止めないんだ」


「何で止めるのよ」


「九条君の家だよ?」


「琴葉さんの家でもあるでしょう」


「……お母さんと同じこと言ってる」


「何?」


「今、同じ話した」


 凛花が少しだけ嫌そうな顔をする。


「お母さんと同じならいいでしょう」


「うん」


 彩花は笑う。


 以前なら、凛花が九条家訪問に警戒するかもしれないと思った。


 今も悠真への警戒がなくなったわけではない。


 それでも、琴葉との友情まで止めようとはしない。


 そのことも嬉しかった。


「ただし」


「何?」


「九条君と二人きりになるとかなら話は別」


「何で?」


「何ででも」


「お姉ちゃん」


「琴葉さんがいるならいいわ」


「意味分からない」


「分からなくていい」


 紗月が横で吹き出した。


「凛花も大変ね」


「何が?」


「お姉ちゃんするの」


「……別に」


 凛花は少しだけ顔を逸らした。


     ◇


 午後一時五十分。


 青凪市立中央図書館。


 彩花がいつもの棚へ向かうと、悠真はまだ来ていなかった。


 珍しい。


 そう思ったものの、時計を見ればまだ二時前だ。


 来ると決まっているわけでもない。


 彩花は棚から一冊取り出し、裏表紙のあらすじを読む。


 最近気になっていた短編集だった。


 数ページ立ち読みしていると、鞄の中でスマートフォンが震えた。


『少し遅れる。十分くらい。』


 悠真からだった。


 彩花はすぐに返す。


『分かった。先に本見てる。』


『ごめん。』


『急がなくていいよ。』


 送信。


 スマートフォンをしまう。


 それだけで済む。


 以前なら、来るのかどうか分からないまま入口を気にしていた。


 今は連絡がある。


 十分遅れる。


 その間に本を見ていればいい。


(やっぱり便利だな)


 連絡先を交換してよかった。


 今では、それをわざわざ特別なこととして考えることも減ってきた。


 彩花は別の棚へ移り、文庫本を二冊手に取った。


 やがて十分ほど経った頃。


「水瀬さん」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 悠真が少しだけ息を弾ませて立っていた。


 今日は私服だ。


 白いTシャツの上に薄い青のシャツを羽織り、黒いパンツを合わせている。


「走った?」


「ちょっと」


「急がなくていいって送ったでしょう?」


「駅からだけ」


「それでも」


「ごめん」


「謝るところじゃないよ」


 言ってから、彩花は少し笑った。


「何?」


「最初の日も似たようなこと言ったなって」


「最初?」


「九条君が本取ってくれた日」


 悠真も思い出したらしい。


「ああ」


「私が『そこ謝るところじゃないですよ』って」


「……覚えてる」


「私も」


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


 最初の日。


 名前も知らなかった。


 同じ本へ手を伸ばしただけだった。


 今は遅れることを連絡し合っている。


 友達になった。


 来月には古本市へ行く。


 そして、いつか互いの家で裁縫をする話まである。


「結構変わったね」


 彩花が言う。


「何が?」


「最初から」


「……うん」


 悠真は少しだけ笑った。


「でも、ここで本見てるのは変わってない」


「確かに」


 彩花は手にしていた二冊を見せる。


「どっちがいいと思う?」


「俺が選ぶの?」


「迷ってるから」


「じゃあ見る」


 悠真が自然に隣へ立つ。


 いつもの日曜日が始まった。


     ◇


 しばらく本を見たあと、二人は窓際の閲覧席へ座った。


 彩花は先ほど選んだ短編集。


 悠真は歴史を題材にした小説。


 二十分ほど静かに読んでいたが、彩花は一つの短編を読み終えたところで栞を挟んだ。


 隣を見る。


 悠真はまだ読んでいる。


 話しかけるほどではない。


 彩花はスマートフォンを取り出し、時間を確認した。


 二時四十分。


 そこで、昨夜の琴葉との会話を思い出す。


 九条家。


 まだ日程は決めなくていいと言われている。


 悠真にも昨夜、行ってみたいとは伝えた。


 けれど、直接はまだ話していない。


「九条君」


 小声で呼ぶ。


 悠真が本から顔を上げた。


「何?」


「昨日の話」


「琴葉?」


「うん」


 彩花は声を抑えたまま続ける。


「本当に、お邪魔しても大丈夫?」


「もちろん」


「ご家族、迷惑じゃない?」


「全然」


「即答」


「母さんは歓迎するって言ってたし」


「……お母さんには、私のことどのくらい知られてるの?」


 悠真が止まった。


「…………」


「その間何?」


「どのくらいって言われると」


「九条君」


「名前は当然知ってる」


「うん」


「青葉高校の一年で、本が好きで」


「うん」


「料理とお菓子と裁縫が得意で」


「……うん」


「日曜に図書館で会ってて」


「うん」


「琴葉とも友達で」


「うん」


「ハクに会いたがってて」


「そこまで?」


「家族みんな知ってる」


「何で?」


「俺と琴葉が話すから」


 彩花は額を押さえた。


「結構知られてる」


「嫌だった?」


「嫌じゃないけど」


 少し考える。


「私、まだ麗華さんともちゃんと会ったことないのに」


「母さんは会いたがってると思う」


「……怖いこと言わないで」


「何で?」


「緊張するから」


「母さんは怖くないよ」


「九条君のお母さんだからじゃなくて」


「じゃあ何?」


「友達のお母さんに初めて会うのって普通に緊張するでしょう?」


「ああ」


 悠真はそこで納得した。


「それは分かる」


「九条君、うち来ることになったら緊張しない?」


「…………」


「今想像した?」


「水瀬先輩がいた」


「お姉ちゃんだけ?」


「玄関に立ってた」


「何で?」


「分からない」


「怖がりすぎだよ」


「水瀬さんは知らないから言えるんだよ」


「私のお姉ちゃんだよ?」


「だからだよ」


 彩花は笑いを堪える。


「でも、うちのお父さんもいるよ」


「……お父さん」


 悠真の顔がさらに真面目になる。


「何その顔」


「いや」


「九条君?」


「まだ行く話決まってないから考えない」


「逃げた」


「今考える必要ないだろ」


「最近そういう切り替え上手くなったね」


「水瀬さんにも言われるのか」


「琴葉さんにも?」


「うん」


 悠真は小さく息を吐いた。


「とにかく、水瀬さんが来るのは大丈夫」


「うん」


「ただ、無理に早く決めなくていいから」


「分かってる」


「古本市もあるし」


「うん」


 彩花はそこで少し考えた。


 古本市。


 来月の第二土曜日。


 もうそれほど遠くない。


「古本市のあとがいいかな」


「家?」


「うん。予定いっぱいにすると疲れそうだし」


「俺もそれがいいと思う」


「じゃあ、古本市終わってから考える?」


「うん」


 あっさり決まった。


 九条家訪問はする。


 でも、今すぐではない。


 古本市のあと。


 具体的な日付は、そのとき考える。


「これでいいね」


「うん」


 彩花は本へ戻ろうとする。


 そこで悠真が小さく言った。


「ハク、喜ぶと思う」


 彩花の顔がすぐに上がる。


「本当?」


「人好きだから」


「触っていい?」


「もちろん」


「いっぱい?」


「……多分」


「抱きついていい?」


「ハクが嫌がらなければ」


「写真撮っていい?」


「いいよ」


「一緒に?」


「うん」


「楽しみ」


 彩花の声が少し大きくなった。


 近くの席の男性が一瞬こちらを見る。


「あ」


 彩花は口元を押さえ、小さく頭を下げた。


 悠真が笑いを堪えている。


「何?」


「いや」


「笑ってる」


「ハクの話だけ急に声大きくなるから」


「だって」


「分かってるよ」


「九条君が写真見せるからでしょう?」


「俺のせい?」


「そう」


「じゃあ見せなければよかった?」


「それは駄目」


「理不尽だな」


 彩花は小さく笑う。


 悠真も笑った。


 そのまま本へ戻る。


 けれど悠真は数ページ読むまで、少しだけ時間がかかった。


 彩花が自分の家へ来る。


 そのことより、今はハクの話であれだけ喜んでいる。


 以前なら少し拗ねたかもしれない。


 今も全く何も思わないわけではない。


(まあ、いいか)


 ハクを好きになってくれるなら、それも嬉しい。


 自分の家で彩花が楽しめる理由が一つ増える。


 それでいい。


     ◇


 午後三時半。


 二人は休憩スペースへ移動した。


 今日は自動販売機で、彩花は桃の紅茶、悠真は水を選ぶ。


「九条君」


「何?」


「今日遅れたの、何かあった?」


「ああ」


「聞いて大丈夫?」


「全然」


 悠真がペットボトルの蓋を開ける。


「祖父さんに呼ばれてた」


「俊治さん?」


「うん」


「体調?」


「違う。もう元気」


「よかった」


「父さんと仕事の話してて、俺も少し聞いてただけ」


「仕事?」


「会社の」


「……九条君も?」


「将来関係するかもしれないから」


 彩花は紅茶を持ったまま、少しだけ姿勢を正した。


「そういう話するんだ」


「たまに」


「高校一年生なのに?」


「今すぐ何か決めるわけじゃないよ」


「でも、聞くんだ」


「うん」


 悠真はごく普通に答える。


「祖父さんも父さんも、継げって強制するつもりはないって言ってるけど」


「そうなの?」


「選ぶなら、何を選ぶか知ってから選べって」


 彩花は少し驚いた。


 九条家の跡取り。


 そういう家なら、悠真の将来は最初から決められているものだと思っていた。


「九条君は、どうしたいの?」


「まだ分からない」


 返事は迷いがなかった。


「会社のことも興味はあるし、嫌ではない。でも、まだ高校一年だから」


「そっか」


「水瀬さんは?」


「私?」


「将来」


「……全然」


「やりたいことない?」


「ないっていうか」


 彩花は桃の紅茶を一口飲む。


「本に関わる仕事とか、ちょっといいなって思うことはある」


「出版社とか?」


「図書館とか、本屋さんとか。文芸部だから編集とかも少し気になるけど」


「いいじゃん」


「でも、まだ本当に何となくだよ」


「俺も同じ」


「九条君と?」


「何でそんなに意外そうなの」


「もっと全部決まってるのかと思ってた」


「決まってないよ」


「九条君でも?」


「俺でも」


 悠真が笑う。


 彩花は少しだけ安心した。


 学校では生徒会。


 家では九条家の息子。


 将来の話も聞いている。


 それでも、まだ分からないことはある。


 十六歳。


 自分と同じ。


「……何か安心した」


「俺が将来迷ってると?」


「そう言うと失礼だけど」


「失礼だな」


「ごめん」


「いいけど」


 悠真は笑ったままだ。


「水瀬さん、俺のこと最初どう思ってた?」


「最初?」


「家のこと知ったとき」


「……住む世界違うのかなって」


 正直に答える。


 悠真の笑みが少し薄くなった。


「そっか」


「でも」


 彩花は続ける。


「今は、そこまで思わない」


「何で?」


「九条君だから」


 言ってから、彩花は少し首を傾げた。


 説明になっていない。


「何それって顔してる」


「してない」


「してるよ」


「もう少し聞きたいだけ」


「うーん」


 彩花は言葉を探す。


「九条家がすごい家なのは変わらないんだと思う」


「うん」


「私の家とは全然違うだろうし」


「多分」


「でも、九条君と話すときに毎回それ考えないでしょう?」


「……うん」


「本の話して、学校の話して、ハクの話して」


「ハク多いな」


「大事だから」


「はい」


「そうしてると、九条君は九条君だなって」


 悠真はしばらく何も言わなかった。


 彩花が少し不安になる。


「変だった?」


「いや」


「じゃあ何?」


「嬉しかっただけ」


 また、それだった。


 嬉しい。


 そのまま言う。


 彩花は少しだけ視線を落とした。


「……そっか」


「うん」


「ならよかった」


 それ以上、話を大きくする必要はなかった。


 彩花も悠真も、飲み物へ口をつける。


 休憩スペースの向こうを、小さな子どもを連れた母親が通っていく。


 日曜日の図書館。


 いつもの場所。


 けれど今日は、今まで知らなかった悠真の将来の話を少しだけ知った。


 九条家が、少しだけ「すごい家」以外の形を持ち始めた。


     ◇


 その日の夕方。


 九条家へ戻った悠真は、玄関でハクに迎えられた。


「ただいま」


 白い尻尾が激しく振られる。


 悠真がしゃがみ、首元を撫でる。


「お前、まだ先だって」


「わふ」


「水瀬さん来るの」


 ハクの耳が動く。


「分かってる?」


「わふ」


「絶対分かってないだろ」


「兄様」


 後ろから琴葉の声がした。


 振り返る。


「何?」


「帰宅直後からハクへ彩花さんの話ですか」


「違うよ」


「今、聞こえました」


「今日、話したから」


「何を?」


「家に来る時期」


 琴葉が少しだけ興味を示す。


「決めたのですか?」


「古本市のあとに考えるって」


「それがよいと思います」


「うん」


「彩花さん、何か仰っていましたか?」


「ハクに会いたいって」


「でしょうね」


「抱きつきたいって」


「ハクが嫌がらなければ問題ありません」


「写真も撮りたいって」


「よいのでは?」


「……俺よりハクの話長かった」


 琴葉が兄を見る。


「兄様」


「何?」


「張り合わないでください」


「張り合ってない」


「では、その顔は何ですか」


「普通」


「悪い方の普通ですね」


「そんな分類ないだろ」


「彩花さんなら分けます」


「水瀬さんを基準にするなよ」


 琴葉は小さく笑った。


「それで?」


「何が?」


「ほかには」


「祖父さんと父さんの仕事の話してたって言ったら、将来の話になった」


「へえ」


「水瀬さんは本に関わる仕事がちょっと気になるって」


「それは似合いそうですね」


「俺も思った」


「図書館司書などでしょうか」


「本屋とか出版社も言ってた」


「彩花さんらしいです」


「うん」


 自然に返してから、悠真は少しだけ考える。


 彩花の将来。


 今まであまり話したことがなかった。


 学校の先。


 高校を卒業したあと。


 まだずっと先のことだ。


 そこへ自分を置く必要はない。


 今はただ、彼女がどんなものへ興味を持っているのか知れたことが嬉しい。


「兄様」


「何?」


「また考えていますか?」


「考えてるけど」


「面倒な方ですか?」


「普通に、水瀬さんに本関係の仕事似合いそうだなって」


「……本当に改善しましたね」


「何で褒められてるのに腹立つんだろ」


「日頃の行いでは?」


「琴葉、それ好きだな」


 ハクが二人の間へ鼻先を差し込む。


 悠真がその頭を撫でる。


「お前もそのうち会えるって」


 今度は、ハクの尻尾がさらに大きく揺れた。


     ◇


 それから二週間。


 九条家訪問の話は、それ以上進めなかった。


 日曜日には図書館で会った。


 平日には、ときどきメッセージをした。


 琴葉と彩花も本や裁縫の話を続けている。


 そして、六月最後の週が過ぎた頃。


 彩花のスマートフォンのカレンダーには、一つの予定が近づいていた。


『青凪古本市』


 来月の第二土曜日。


 以前は「いつか行けたらいい」と話していた場所。


 今はもう、悠真と一緒に行くことが決まっている。


 ただし。


「……待ち合わせ、まだ決めてない」


 金曜日の夜。


 自室の机でカレンダーを見ながら、彩花は呟いた。


 古本市まで一週間ほど。


 そろそろ決めてもいい。


 スマートフォンを開く。


 悠真とのトーク画面。


 最後のやり取りは昨日。


 おすすめされた本を読み始めたという話だった。


『古本市の待ち合わせ、そろそろ決める?』


 打つ。


 送る。


 数分後、返事。


『俺も今日聞こうと思ってた。』


 彩花は少し笑う。


『また同じこと考えてた。』


『連絡先のときもだったな。』


『そうだった。』


『何時がいい?』


 古本市は午前十時から午後四時。


 全部見るなら午前からでもいい。


 でも、六時間ずっといる必要はない。


『十一時くらい?』


『俺は大丈夫。』


『駅?』


『市民ホール前の入口でもいいけど、水瀬さん分かる?』


『行ったことあるよ。』


『じゃあ入口に十一時?』


『うん。』


 決まった。


 あまりにも簡単だった。


 以前なら、約束一つにも少し緊張した。


 今は予定を確認し、場所を決め、それで終わる。


『楽しみ。』


 彩花が送る。


 少しして。


『俺も。』


 それだけ。


 でも十分だった。


 彩花はカレンダーの予定へ追記する。


『11:00 市民ホール前入口』


 保存。


 スマートフォンを置こうとしたところで、もう一通届く。


『雨だったらどうする?』


「あ」


 梅雨。


 忘れていた。


『古本市って雨だと?』


『規模縮小して屋内らしい。』


『じゃあ行く?』


『水瀬さんが嫌じゃなければ。』


 彩花はすぐに返す。


『行きたい。』


 少し考えて。


『晴れてほしいけど。』


『俺も。』


 そこで会話は終わった。


 彩花は机の横に置いてある文庫本を見る。


 古本市。


 悠真と二人で行く。


 友達として。


 その認識は変わっていない。


 それでも、カレンダーに時間まで入った予定を見ると、少しだけ楽しみが形になった気がした。


 日曜日の図書館とは違う。


 偶然から始まった場所でもない。


 二人で決めて、二人で出かける。


 その違いを、彩花はまだ特別な名前では呼ばなかった。


 ただ。


「晴れるといいな」


 そう思いながら、窓の外を見る。


 夜空には雲が広がっていた。


     ◇


 そして一週間後。


 土曜日の朝。


 彩花がカーテンを開けると、青凪市の空は綺麗に晴れていた。


「……晴れた」


 窓から入る光が、部屋の床まで伸びている。


 時計は午前八時十二分。


 待ち合わせは十一時。


 まだ十分に時間がある。


 彩花はベッドから降り、伸びをする。


 今日は古本市。


 悠真と約束した日。


 何を着よう。


 朝食を食べてから決めればいい。


 そう思って部屋を出ようとして。


 一度、鏡の前で止まった。


「…………」


 髪を触る。


 寝癖が少しついている。


「まず直そう」


 別に特別な日ではない。


 友達と古本市へ行くだけ。


 けれど、せっかくなら。


 少しくらい、ちゃんとして行きたい。


 その程度の気持ちなら、きっとおかしくない。


 彩花はまだ、自分が鏡の前でいつもより少し長く立っている理由を深く考えなかった。

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