第23話
土曜日の午前十時過ぎ。
水瀬彩花は自室の中央に立ち、腕を組んだまま部屋の中を見回していた。
机の上には教科書と文芸部の原稿。窓際の小さな棚には読み終えた文庫本が並び、その隣には裁縫箱と何種類かの布が重ねてある。ベッドの上には何もなく、床にも物は落ちていない。
昨日の夜にも片づけた。
今朝も掃除機をかけた。
だから、客を呼べないほど散らかっているわけではない。
「……大丈夫だよね」
誰に聞くでもなく呟く。
今日の午後、琴葉が来る。
先週、母の紗月から「今度うちにも呼べば?」と言われたあと、彩花は琴葉へその話をした。
返ってきたのは、思っていた以上に嬉しそうな返事だった。
『よろしいのですか?』
『もちろん。お母さんが、裁縫するなら家の方が道具あるでしょうって。』
『ぜひ、お邪魔したいです。』
そこから互いの予定を確認し、今日の午後一時半に琴葉が水瀬家へ来ることになった。
駅で待ち合わせをしてもよかったが、以前一緒に歩いたことがあるため、琴葉は最寄り駅から水瀬家の近くまで自分で来られるという。とはいえ家そのものは知らないので、近所の洋菓子店の前で待ち合わせることにした。
問題はない。
何もおかしくない。
友達を家へ呼ぶだけだ。
「…………」
彩花はもう一度部屋を見る。
そして机の上に置かれていた文庫本を一センチだけ右へ動かした。
「彩花」
「わっ」
開いたままだった扉から声がして、肩が跳ねる。
振り返ると、凛花が立っていた。
「何してるの?」
「片づけ」
「さっきもしてなかった?」
「したけど」
「十分綺麗でしょう」
「そうかな」
「本、一センチ動かして何が変わるの?」
「見てたの?」
「見えたから」
凛花は部屋へ入り、机の周りを軽く見回した。
「琴葉さん、一時半?」
「うん。洋菓子屋さんの前で待ち合わせ」
「迎えに行くの?」
「もちろん」
「なら十二時半くらいにお昼食べれば?」
「そうする」
凛花はベッドの端へ腰を下ろした。
今日は剣道部の練習がないらしく、薄い灰色のTシャツに黒いパンツという家着に近い格好をしている。学校で見れば隙のない桜華学園の優等生だが、今は髪も後ろで簡単にまとめているだけだった。
「お姉ちゃん」
「何?」
「今日、家にいるんだよね」
「いるけど」
「……普通にしてね」
「どういう意味?」
「琴葉さんに変なこと聞かないでね」
「聞かないわよ」
「九条君のこととか」
「聞かない」
「本当に?」
「彩花」
凛花が少し呆れた顔をする。
「琴葉さんは彩花の友達として来るんでしょう?」
「うん」
「なら、九条君の情報を聞くために呼ぶわけじゃないでしょう」
「……そうだけど」
「私だってそこは分かってるわよ」
返事は思っていたより真面目だった。
彩花は少しだけ目を丸くする。
凛花はそんな妹の顔を見て、眉を寄せた。
「何?」
「いや。お姉ちゃん、ちゃんとしてるなって」
「私を何だと思ってるの?」
「九条君のことになるとちょっと怖いお姉ちゃん」
「…………」
「否定しないんだ」
「警戒してるだけ」
「最近そればっかり」
「間違ってないもの」
彩花は笑いながら机の椅子へ座った。
「でも、琴葉さんとお姉ちゃんって学校で話したことあるんでしょう?」
「少しだけね。千尋も一緒だったけど」
「どんな感じだった?」
「普通よ」
「また普通」
「この普通はいいんでしょう?」
「……最近みんな使い分けてくる」
凛花の口元が少し緩む。
「琴葉さん、ちゃんとした子よ」
「うん」
「それに、彩花のことを兄の――」
凛花が途中で言葉を止めた。
「何?」
「何でもない」
「今、何か言おうとしたでしょう?」
「別に」
「お姉ちゃん」
「琴葉さんは、彩花自身と友達になってると思うって言おうとしただけ」
「あ……」
彩花は少しだけ黙った。
それなら、自分も感じている。
最初は九条悠真の妹だった。
悠真から話を聞き、凛花からも名前を聞き、会ってみたいと思った。
実際に会ったあとも、最初はそこから始まっている。
けれど今は違う。
好きな布の色。
読みたい本。
裁縫。
学校の話。
兄や姉の話をしない時間も増えた。
昨日の夜には、琴葉から「最近読んで面白かった本があります」とメッセージが来て、二十分ほどその本について話した。
悠真は一度も話題に出なかった。
「……うん。私もそう思う」
「ならいいじゃない」
「うん」
彩花は机の端に置いてある裁縫箱へ手を伸ばした。
「今日は、この前のブックカバーの続きを少しやるのと、余った布で小さい巾着作る予定」
「巾着?」
「琴葉さんが作ってみたいって」
「教えられる?」
「多分」
「多分なの?」
「作るのと教えるのは違うから」
「そうね」
「でも、この前よりは教え方分かってきたかも」
口にしてから、自分で少し嬉しくなる。
以前なら、「私なんかが教えるなんて」と考えたかもしれない。
今は、できるかどうかを現実的に考えている。
分からないところがあれば一緒に調べればいい。
失敗したら直せばいい。
それだけだ。
「彩花」
「何?」
「楽しみ?」
凛花が尋ねた。
「うん」
返事はすぐに出た。
「すごく楽しみ」
「そう」
凛花はそれだけ言い、立ち上がった。
部屋を出る前に、机の上を一度見る。
「もう片づけなくていいわよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……あと机だけ」
「変わってないじゃない」
凛花が呆れた声を残して部屋を出ていく。
彩花は笑いながら、さっき一センチ動かした文庫本を元の位置へ戻した。
◇
午後一時二十分。
彩花は家を出て、待ち合わせ場所の洋菓子店へ向かった。
空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はない。道路沿いの植え込みからは湿った土の匂いがして、遠くでは蝉にはまだ少し早い虫の声が聞こえている。
家から店までは歩いて七分ほど。
第一話の日曜日にも前を通った店だ。
あのとき、ショーウインドウに並んでいた「レモンと蜂蜜」の新作を見て、あとで作ってみたいとスマートフォンへメモした。
それから何度も前を通っている。
悠真と出会った日。
まだ名前すら知らなかった頃。
今は、その悠真の妹を自分の家へ呼ぼうとしている。
(……変なの)
嫌な意味ではない。
数か月前の自分に話しても、きっと信じないだろう。
店が見えてくる。
そして、その前に立っている少女もすぐに分かった。
淡い水色のブラウスに、膝下まである紺色のスカート。長い黒髪は背中へまっすぐ流れ、両手には小さな紙袋を持っている。
「琴葉さん」
呼ぶと、琴葉が振り向いた。
すぐに表情が柔らかくなる。
「彩花さん」
「ごめん、待った?」
「いいえ。私も今来たところです」
「本当?」
「はい」
「九条君も同じこと言いそう」
琴葉が一瞬黙った。
「……兄様なら、十分前でも『今来た』と言いそうですね」
「でしょう?」
「私は本当に二分ほど前です」
「ならよかった」
二人で笑う。
彩花は琴葉の持っている紙袋へ目を向けた。
「それ、何?」
「お邪魔するので」
「え?」
「母が、手ぶらで伺うのはよくないと」
「そんなのよかったのに」
「そう申し上げたのですが」
琴葉が紙袋を少し持ち上げる。
「母と父と祖父が、それぞれ別のものを持たせようとしましたので、一つに絞る方が大変でした」
「……三人?」
「はい」
「九条家、何してるの?」
「私もそう思います」
琴葉は遠い目をした。
「祖父は最初、果物を箱で持たせようとしていました」
「箱?」
「母が止めました」
「止めてくれてよかった……」
「父は焼き菓子の詰め合わせを」
「それくらいなら」
「大箱でした」
「やっぱり止めて」
「最終的に母が選んだ小さな焼き菓子になりました」
琴葉が持っている袋は確かに小さい。
それでも、店名を見ると青凪市では有名な洋菓子店のものだった。
「気を遣わなくていいのに」
「母も『次からは普通でいいのよ』と言っていました」
「次がある前提なんだ」
「……そうですね」
二人は顔を見合わせる。
琴葉の頬が少しだけ緩んだ。
「私は、あると嬉しいです」
その言葉に、彩花も笑う。
「私も」
ごく自然に返せた。
「じゃあ行こうか」
「はい」
二人は並んで水瀬家へ向かった。
◇
「ただいま」
「お邪魔します」
玄関を開けると、キッチンの方から紗月の声が返ってきた。
「おかえり。琴葉ちゃん?」
「はい」
琴葉の背筋が目に見えて伸びる。
彩花は靴を脱ぎながら、その横顔を見た。
「緊張してる?」
「少し」
「琴葉さんでも緊張するんだ」
「しますよ」
「九条君よりしなさそう」
「兄様と比べないでください」
「あ、ごめん」
「……今のは冗談です」
「分かりにくいよ」
「兄様にも言われます」
「やっぱり兄妹だね」
「それは否定しづらいです」
そんな話をしているうちに、紗月が玄関まで出てきた。
「いらっしゃい」
琴葉がすぐに頭を下げる。
「初めまして。九条琴葉と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくて大丈夫よ」
紗月が柔らかく笑う。
「彩花の母の紗月です。いつも彩花と仲良くしてくれてありがとう」
「こちらこそ、彩花さんにはとてもよくしていただいています」
「お母さん、琴葉さん緊張してるから」
「あら、ごめんなさい」
「いえ」
琴葉は持っていた紙袋を差し出した。
「母からです。皆様で召し上がってください」
「まあ。気を遣わなくていいのに」
「私もそう言ったんだけど」
「次からは本当に手ぶらで来てね」
紗月は自然にそう言った。
琴葉がわずかに目を見開く。
「……次から」
「友達の家に遊びに来るのに、毎回お土産持ってきたら大変でしょう?」
「……はい」
琴葉の返事が少しだけ柔らかくなった。
そのとき、廊下の奥から凛花が姿を見せた。
「いらっしゃい」
「水瀬先輩。お邪魔します」
「学校じゃないんだから、そんなに固くしなくていいわよ」
「……努力します」
「努力するものなの?」
彩花が笑う。
凛花も少しだけ口元を緩めた。
「彩花の部屋?」
「うん」
「お茶あとで持っていく」
「ありがとう」
琴葉はもう一度紗月と凛花へ頭を下げ、彩花について階段を上がった。
二階へ着いたところで、小さく息を吐く。
「緊張した?」
「しました」
「お母さん普通だったでしょう?」
「とてもお優しそうな方ですね」
「うん」
「水瀬先輩も」
「お姉ちゃんは家だとあんな感じ」
「学校より柔らかいです」
「九条君と同じ?」
琴葉が足を止めた。
「……確かに」
「場所が変わると違うんだね」
「彩花さんも違うのでしょうか」
「私?」
「学校と家と図書館で」
考えたことがなかった。
「どうだろ」
「兄様の前では?」
「何でそこだけ聞くの?」
「何となくです」
「九条君と話してるときも普通だよ」
「その『普通』はどちらの普通ですか?」
「琴葉さんまで!」
琴葉が笑う。
彩花も笑いながら自室の扉を開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
琴葉が部屋へ入る。
最初に本棚を見た。
次に机。
窓際の裁縫箱。
ベッドの上。
何も特別なものはない。
一般的な高校生の部屋だ。
それなのに、琴葉はしばらく静かに見回していた。
「……何か変?」
「いいえ」
「本当に?」
「彩花さんのお部屋だなと思って」
「どういう意味?」
「本が多くて、布があって」
琴葉が机の端に置かれた小さな缶を見る。
「これは?」
「ボタン」
「たくさんありますね」
「可愛いの見つけると買っちゃうから」
「使わないのですか?」
「いつか使う」
「兄様の『そのうち』と同じですね」
「一緒にしないで」
「同じでは?」
「私のボタンはちゃんと使う予定あるから」
「兄様もハクに会わせる予定はあると思います」
「……じゃあ同じかも」
二人で顔を見合わせ、笑った。
琴葉が本棚へ近づく。
「あ」
「何?」
「これ、兄様が好きな作家ですね」
「うん。九条君に教えてもらった」
「こちらは?」
「それは私が好きな方」
「読んでもよろしいですか?」
「もちろん」
琴葉が背表紙を指でなぞる。
その横顔を見ながら、彩花は少し不思議な気持ちになった。
九条琴葉が、自分の部屋にいる。
でも、もう「御曹司の妹が一般家庭へ来ている」という感覚はあまりない。
友達が遊びに来た。
それだけに近い。
「裁縫、始める?」
「はい」
「今日は巾着だったよね」
「よろしくお願いします、先生」
「九条君と同じこと言ってる」
「兄様も先生と?」
「この前メッセージで」
「……兄様、裁縫の件、本当に楽しみにしているようですね」
「そうなの?」
「布の色を考えていました」
「知ってる。私にも聞いてきたから」
「生成り、紺、深緑」
「琴葉さんにも言ってた?」
「リビングでメモを見ました」
「何でそんなに真剣なの」
「兄様ですので」
「説明になってないよ」
「私にも分かりません」
琴葉はそう言いながら、どこか楽しそうだった。
◇
二人は床へ低い折り畳み机を出し、その上に布や糸、裁ちばさみを並べた。
今日使うのは、琴葉が前回選んだ深い緑の布。
小さな巾着なので必要な量は少ない。
「最初に大きさ決めようか」
「何を入れるかで変わりますか?」
「うん。何か入れたいものある?」
「……特には」
「じゃあ何で巾着作りたいって言ったの?」
「作ってみたかったので」
「目的がない」
「完成してから考えます」
「それでもいいけど」
彩花は笑いながら型紙用の紙を出した。
「最初はこれくらいにしようか。小物入れくらい」
「はい」
「縫い代を取るから、完成より少し大きく切るよ」
「分かりました」
琴葉は真剣に聞いている。
前回ブックカバーを作ったときより、彩花も教えることに慣れていた。
最初から全部説明しない。
一つずつ。
琴葉が自分で手を動かしてから、次を伝える。
「そこ、線まっすぐで大丈夫」
「ずれていませんか?」
「二ミリくらい」
「二ミリ」
「大丈夫だよ」
「ですが」
「縫ったら分からないから」
「彩花さん、意外と大胆ですね」
「裁縫はそれくらいでいいの」
「兄様にも同じことを?」
「九条君は二ミリで騒ぎそう」
「騒ぐと思います」
二人の意見が一致する。
「『水瀬さん、ここずれてない?』って」
「言いますね」
「『大丈夫だよ』って言っても測りそう」
「定規を出すと思います」
「面倒くさい」
「兄様ですので」
「またそれ」
笑いながら作業を続ける。
しばらくすると、琴葉の手つきも落ち着いてきた。
針を持つ指。
布を押さえる手。
糸を引く力加減。
前回より確実に上手くなっている。
「琴葉さん、上手くなったね」
「本当ですか?」
「うん。前より縫い目揃ってる」
琴葉が自分の縫った部分を見る。
「……嬉しいです」
「こういうの好き?」
「好きかもしれません」
「じゃあまた何か作ろうよ」
彩花は何気なく言った。
琴葉の手が止まる。
「また?」
「うん。次はもう少し難しいのでもいいし」
「……はい」
「何作ろうか」
「考えておきます」
「私も」
それだけの会話だった。
けれど琴葉は、再び針を動かし始めるまで少しだけ時間がかかった。
彩花は気づいていない。
琴葉にとって、「また何かしよう」と友達から当然のように言われることが、思っていた以上に嬉しかった。
桜華学園には幼い頃から知っている人間が多い。
玲奈のように、本当に気を許せる友人もいる。
それでも、家柄も学校も関係なく、新しく知り合った相手から「また」と言われる経験は多くない。
「琴葉さん?」
「はい」
「止まってるよ」
「少し考え事を」
「疲れた?」
「いいえ」
琴葉は小さく笑った。
「次に作るものを考えていました」
「早い」
「彩花さんが言ったので」
「まだ今日の完成してないよ」
「では、まずこちらを完成させます」
「うん」
また針が動き始める。
窓の外から、近所を走る車の音が聞こえた。
階下ではテレビの音と、紗月が食器を動かす音がする。
特別ではない水瀬家の午後。
その中へ琴葉が自然に混ざり始めていた。
◇
三時前。
「休憩しない?」
彩花が言うと、琴葉は針を針山へ戻した。
「そうですね」
「結構進んだし」
巾着は半分以上できている。
あと少し縫い、紐を通せば完成だ。
ちょうどそのとき、扉がノックされた。
「彩花、入るわよ」
「どうぞ」
凛花が盆を持って入ってくる。
上には冷たい麦茶と、小さく切ったパウンドケーキが載っていた。
「ありがとうございます」
琴葉がすぐに姿勢を正す。
「だから固くしなくていいって」
「すみません」
「謝らなくてもいいわよ」
凛花は机へ盆を置き、床に広がる布を見る。
「進んでる?」
「見て、お姉ちゃん」
彩花が琴葉の巾着を持ち上げる。
「ここまで琴葉さんが縫った」
「綺麗ね」
「本当ですか?」
「ええ」
琴葉の顔が少し明るくなる。
「彩花さんに教えていただきました」
「彩花、教えるの上手い?」
凛花が尋ねる。
「はい。とても」
「ちょっと、本人の前で聞かないでよ」
「いいでしょう」
「恥ずかしい」
「でも本当です」
琴葉が続ける。
「失敗してもすぐ直さず、どこが違うか考えさせてくださいますし」
「……そんなに考えてやってないよ」
「できてるならいいじゃない」
凛花が言う。
彩花は少しだけ頬を掻いた。
「……じゃあ、得意なのかも」
以前なら出なかった言葉。
凛花は何も大げさに言わず、ただ「そうね」と答えた。
それが彩花にはちょうどよかった。
「パウンドケーキ、お母さん?」
「彩花が昨日作ったやつでしょう」
「あ」
冷蔵庫に入れておいたものだ。
蜂蜜とレモンを使ったパウンドケーキ。
第一話の日に洋菓子店で見かけて以来、何度か作り方を調整してきた。
「琴葉さん、よかったら」
「彩花さんが作ったのですか?」
「うん」
「いただきます」
琴葉は一口食べる。
数秒、静かになる。
「……おいしいです」
「本当?」
「はい。とても」
「よかった」
「兄様が毎回持ち帰ったお菓子を家族へ分けたがらない理由が分かりました」
「え?」
彩花の手が止まる。
凛花も琴葉を見る。
「分けたがらないの?」
「最終的には分けます」
「最終的には?」
「一度、自室へ持っていこうとします」
「…………」
彩花は以前、栗のパウンドケーキを渡した日のことを思い出した。
九条家のみんなで食べたとは聞いている。
「九条君、そんなことしてるの?」
「最近は諦めていますが、最初の頃は」
琴葉が麦茶を飲む。
「クッキーをいただいた日は、一時間近く袋を開けなかったと聞いています」
「ちょっと待って」
彩花の頬が熱くなる。
「何で?」
「私に聞かれましても」
「食べればいいのに」
「兄様ですので」
「またそれで終わらせる」
「便利です」
「それ九条君の『気のせい』みたいになってるよ」
琴葉が少し笑う。
凛花は黙っていた。
彩花が気づく。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「怖い顔してない?」
「してない」
「九条君がお菓子開けなかった話で?」
「してないって言ってるでしょう」
「水瀬先輩」
琴葉が静かに口を開く。
凛花が見る。
「兄様は、彩花さんからいただいたものを粗末にしたことはありません」
「……別に疑ってないわ」
「そうですか」
「ただ」
凛花が少し言葉を選ぶ。
「一時間眺めるのは、ちょっと気持ち悪いと思っただけ」
「その点は同意します」
「琴葉さん!?」
彩花が思わず声を上げる。
凛花が吹き出した。
琴葉も口元を押さえる。
「兄様には内緒にしてください」
「言わないけど」
「何で私が九条君を庇ってるの?」
「彩花だからじゃない?」
凛花がさらりと言う。
「何それ」
「何でもない」
「今日のお姉ちゃん変だよ」
「いつも通りよ」
「その言い方、九条君と似てる」
「やめて」
今度は琴葉が声を立てて笑った。
凛花が少し不満そうに眉を寄せる。
けれど、本気で怒ってはいない。
部屋の空気は思っていたよりずっと軽かった。
◇
休憩が終わっても、凛花はすぐには部屋を出なかった。
彩花の机の椅子へ座り、琴葉が巾着の続きを縫う様子を見ている。
「水瀬先輩は裁縫なさらないのですか?」
琴葉が尋ねた。
「最低限はできるわ」
「お姉ちゃん、ボタン付けとかはできるよ」
「家庭科で習う程度だけど」
「料理は?」
琴葉が聞いた瞬間、彩花が止まる。
凛花も止まる。
短い沈黙。
「……苦手よ」
凛花が答えた。
琴葉は特に笑わなかった。
「そうなのですね」
「兄から聞いてない?」
「兄様は、水瀬先輩の料理について詳しく話したことはありません」
実際には卵焼きとフライパンが喧嘩した話を知っている可能性はあるが、琴葉は言わなかった。
凛花が少し意外そうにする。
「琴葉さんは?」
「簡単なものなら」
「お兄さんは?」
「兄様も一応できます」
「一応なんだ」
彩花が笑う。
「凝ったものは作りませんので」
「九条君、料理できるんだ」
「目玉焼きと炒め物程度ですが」
「今度聞いてみよう」
彩花は自然にそう言った。
凛花の視線が動く。
琴葉はそれに気づいたが、何も言わない。
「水瀬先輩」
「何?」
「剣道は、いつからなさっているのですか?」
話題が変わった。
「小学生の頃から」
「彩花さんは?」
「私はやってないよ」
「誘われなかったのですか?」
彩花の手がほんの少し止まった。
昔なら、ここで心がざわついたかもしれない。
姉は剣道が得意。
自分は運動が苦手。
その違いを説明するだけで、無意識に自分を下へ置いていた。
「一回だけ体験したけど、私には合わなかったの」
今は、それだけ言えた。
「防具重いし、声出すのも苦手だったし」
「彩花、最初の体験で竹刀を自分の足に当てたのよ」
「お姉ちゃん、それ言わなくていい!」
「痛かった?」
琴葉が真面目に聞く。
「痛かったよ」
「それはやめたくなりますね」
「でしょう?」
「でも、そのあと裁縫とか料理の方が楽しくなったから」
彩花は針山を整えながら続ける。
「多分、私はそっちの方が好きだったんだと思う」
「うん」
凛花が静かに頷いた。
「彩花は昔から、家の中で何か作ってる方が好きだった」
「お姉ちゃんは外で動いてる方が好きだったね」
「そうね」
同じ家で育った姉妹。
違うものが好きだった。
ただそれだけ。
そこに優劣をつける必要はない。
琴葉は二人の会話を聞きながら、少しだけ微笑んだ。
「いいですね」
「何が?」
「お二人が違うことを好きなのが」
彩花と凛花が同時に琴葉を見る。
「私と兄様もかなり違いますので」
「そうなの?」
「はい。兄様は昔から、一つ気になるとそこへ集中します。私はもう少し広く見たい方です」
「でも本は二人とも好きだよね」
「好きな本も違います」
「へえ」
「兄様は余白が多いものを好みますが、私は文章が綺麗な作品を選ぶことが多いです」
「分かる」
「彩花さんは?」
「私は人物の気持ちが丁寧な話が好きかな」
凛花が少し笑う。
「三人とも違うじゃない」
「本当だ」
彩花も笑った。
好きなものが違う。
得意なものも違う。
それでも一緒にいられる。
むしろ違うからこそ、話せることが増える。
当たり前のことなのかもしれない。
けれど彩花にとっては、少しずつ実感として分かり始めたことだった。
◇
「できた」
午後四時を少し過ぎた頃。
琴葉が小さく声を上げた。
深緑の布で作った巾着が、机の上に置かれている。
縫い目には少しだけ不揃いなところがある。
紐を通す部分も、左右で数ミリ高さが違う。
それでも、きちんと袋になっていた。
「完成」
彩花が笑う。
「どう?」
琴葉は両手で巾着を持ち上げる。
「……嬉しいです」
「よかった」
「自分で作ったのですね」
「ほとんど琴葉さんだよ」
「彩花さんが教えてくださったので」
「でも作ったのは琴葉さん」
彩花はそう言ってから、ふと気づいた。
以前、悠真に似たことを言われた。
好きで続けて、人に渡せるものを作れるなら、それは得意と言っていいのではないか。
誰かに教わったから価値がないわけではない。
手伝ってもらったから、自分がやったことにならないわけでもない。
「琴葉さんが作ったんだから、琴葉さんのだよ」
「……はい」
琴葉は巾着を見つめる。
「何を入れよう」
「まだ決めてなかったんだ」
「今から決めます」
「何がいいかな」
「本に関係するものなら……」
「付箋とか?」
「いいですね」
「栞入れには大きいか」
「兄様が作る栞を入れましょうか」
「九条君の取るの?」
「完成度を確認してからです」
「厳しい妹」
「兄様ですので」
「便利だなあ、それ」
二人で笑う。
凛花は少し前に部屋を出ていた。
今はまた二人きりだ。
「彩花さん」
「何?」
「今日は、ありがとうございました」
「そんなに改まらなくていいよ」
「でも」
琴葉は完成した巾着を膝の上へ置く。
「とても楽しかったです」
「私も」
「お宅へ呼んでいただいたことも」
「うん」
「……嬉しかったです」
声が少しだけ小さくなった。
彩花は琴葉を見る。
普段の琴葉は落ち着いている。
悠真へ容赦なく突っ込むときも、玲奈と話しているときも、どこか余裕がある。
今は少し違った。
「また来てね」
彩花は言った。
難しく考える必要はなかった。
「お母さんも言ってたでしょう? 次から手ぶらでって」
「……はい」
「今度は何作ろうか」
「考えておきます」
「本読むだけでもいいし」
「それもいいですね」
「お菓子作る?」
「私でもできますか?」
「簡単なのなら」
「では、それも」
「やりたいこと増えたね」
「はい」
琴葉の笑顔が、いつもより少し幼く見えた。
彩花も嬉しくなる。
九条君の妹だからではない。
御曹司の家の娘だからでもない。
琴葉といるのが楽しい。
また会いたい。
ただ、それだけだった。
◇
午後四時半過ぎ。
琴葉が帰る時間になり、二人は一階へ下りた。
紗月が玄関まで出てくる。
「もう帰るの?」
「はい。本日はありがとうございました」
「また来てね」
「……はい」
「今度は本当に何も持ってこなくていいから」
「母に伝えます」
「お母様にもよろしくね」
「はい」
凛花もリビングから顔を出した。
「気をつけて」
「ありがとうございます、水瀬先輩」
「学校ではそれでいいけど」
凛花が少しだけ迷う。
「ここでは凛花でいいわよ」
彩花が目を丸くした。
琴葉も同じだった。
「……よろしいのですか?」
「彩花の友達にずっと先輩って呼ばれるのも変でしょう」
「では……凛花さん」
「うん」
「今日はありがとうございました」
「私は何もしてないけど」
「お話しできて楽しかったです」
「私も」
短いやり取り。
けれど、彩花にはそれが少し嬉しかった。
「駅まで行くよ」
靴を履きながら言う。
「大丈夫ですよ」
「私が行きたいの」
「では、お願いします」
二人で家を出る。
夕方の風は、昼より少し涼しくなっていた。
住宅街を並んで歩く。
琴葉は紙袋ではなく、自分で作った巾着を大事そうに鞄へ入れている。
「彩花さん」
「うん?」
「お母様、とても素敵な方ですね」
「そう?」
「はい」
「普通のお母さんだよ」
言ってから、彩花は笑う。
「今の普通はいいやつ」
「先に説明されました」
「最近面倒なんだよね、この言葉」
「兄様が喜びそうです」
「何で?」
「彩花さんが自分で区別しているので」
「九条君、そんなことまで喜ぶ?」
「喜ぶと思います」
「……琴葉さん、九条君のことよく分かってるね」
「兄妹ですので」
「仲いいよね」
「普通です」
「それどっち?」
「よい方です」
二人は笑った。
しばらく歩いたところで、琴葉が少しだけ足を緩める。
「彩花さん」
「何?」
「今日のこと、兄様へ話してもよろしいですか?」
「え?」
「全部ではありません」
「別にいいよ」
「私が水瀬家へ伺ったことは知っていますが」
「うん」
「楽しかった、と」
彩花は少し考えた。
「もちろん」
「ありがとうございます」
「でも、何で私に聞くの?」
「彩花さんのお宅でのことですから」
「……琴葉さん、そういうところ九条君に似てる」
「どこがですか?」
「勝手に話していいか考えるところ」
悠真もそうだった。
凛花から彩花の過去を聞ける機会があっても、本人が話したいなら本人から聞くと言った。
琴葉も、二人のメッセージは二人のものだと考えている。
「九条家って、そういう家なの?」
「……どうでしょう」
「でもいいと思う」
「そうですか?」
「うん。安心するから」
琴葉が少しだけ笑った。
「では、兄様には『楽しかった』とだけ伝えます」
「それだけ?」
「気になるでしょうから」
「ちょっと意地悪」
「妹ですので」
「それも便利」
洋菓子店の前まで来る。
ここから駅までは琴葉も分かる。
「じゃあ、またね」
彩花が言う。
以前なら「また会えたら」だった。
今は違う。
連絡先がある。
会おうと思えば予定を決められる。
「はい。また」
琴葉も自然に返した。
「巾着、使ってね」
「もちろんです」
「次、何作るか考えておいて」
「彩花さんも」
「うん」
琴葉が数歩進む。
それから振り返った。
「彩花さん」
「何?」
「今度、私の家にも」
そこで琴葉が止まった。
彩花も瞬きをする。
「……琴葉さんの家?」
「はい」
九条家。
その言葉が頭へ浮かんだ。
悠真の家。
琴葉の家。
麗華の家。
正樹の家。
そして。
「ハク」
思わず声が出た。
琴葉が数秒黙った。
そのあと、肩を震わせる。
「そこですか?」
「だって!」
「兄様より先にハクが出ましたね」
「会いたいってずっと言ってるから!」
「知っています」
「本当に行っていいの?」
「まだ母にも確認していません」
「あ」
「ですので、正式なお誘いではありません」
「そっか」
「ただ」
琴葉は少しだけ微笑んだ。
「今度は私がお招きできたらと思っただけです」
彩花はすぐに頷いた。
「行きたい」
「……即答ですね」
「琴葉さんの家も見てみたいし」
一拍置いて。
「ハクにも会いたい」
「やはりハク」
「そこは譲れない」
「兄様が聞いたら落ち込みますね」
「何で九条君が落ち込むの?」
「本人に聞いてください」
「またそれ」
笑い合う。
「では、母に相談してみます」
「うん。でも無理に急がなくていいからね」
「分かっています」
「また今度で」
「はい」
琴葉は今度こそ駅の方へ歩いていった。
彩花はその背中が角を曲がるまで見送る。
それから家へ戻りながら、さっきの話を思い返した。
九条家。
初めて悠真が運転手付きの車へ乗るところを見たとき、自分とは住む世界が違うのだと少しだけ思った。
今でも、きっと水瀬家とは全然違う家なのだろう。
緊張しないと言えば嘘になる。
でも。
(琴葉さんの家なんだよね)
そう考えると、以前ほど遠く感じなかった。
そして。
(ハク……)
白くて大きなサモエド。
写真で何度も見た。
会いたいと何度も言った。
彩花の足取りが、少しだけ軽くなる。
◇
同じ頃。
九条家の玄関が開いた。
「ただいま戻りました」
琴葉が靴を脱いでいると、廊下の奥からハクが走ってくる。
「ハク。ただいま」
白い頭を撫でる。
その向こうから、悠真も姿を見せた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「楽しかった?」
「はい」
それだけ。
悠真は数秒待った。
琴葉は靴を揃える。
「……終わり?」
「何がですか?」
「いや」
「楽しかったですよ」
「それは聞いた」
「では十分では?」
「十分だけど」
琴葉が顔を上げる。
兄の表情を見て、少しだけ笑った。
「兄様」
「何?」
「気になりますか?」
「ちょっと」
「素直ですね」
「最近そればっかり言われる」
「では、一つだけ」
「うん」
琴葉は鞄から深緑の巾着を取り出した。
「作りました」
「それ、水瀬さんと?」
「彩花さんに教わって、私が作りました」
「へえ」
悠真が手に取ろうとする。
琴葉が引く。
「何で?」
「私のです」
「見るだけだよ」
「手に持つ必要はありません」
「厳しい」
「兄様も自分で作るのでしょう?」
「栞な」
「生成りにしたのですか?」
「何で知ってる?」
「以前メモを見ました」
「九条家、本当に秘密ないな」
「隠していませんでしたから」
琴葉は巾着を鞄へ戻す。
「彩花さんのお母様も、凛花さんも、とてもよい方でした」
「凛花さん?」
「家ではそう呼んでよいと」
「……琴葉だけ?」
「はい」
「俺は水瀬先輩なのに」
「学校の後輩ですので」
「琴葉もだろ」
「私は彩花さんの友達です」
「それ強いな」
「事実です」
悠真は苦笑する。
けれど、嫌ではない。
琴葉が楽しそうなのが分かる。
「水瀬さんは?」
「楽しそうでした」
「そっか」
それで十分だった。
悠真がハクの頭を撫でようとしたとき、琴葉がもう一つ付け加える。
「それから」
「何?」
「まだ母へ確認していませんが」
「うん」
「今度、彩花さんをこちらへお招きしてもよろしいでしょうか」
悠真の手が止まった。
ハクがその手へ鼻先を押しつける。
「……え?」
「ですから」
「聞こえた」
「ではなぜ聞き返すのですか」
「いや」
悠真は一度だけ視線を逸らした。
彩花が、この家へ来る。
玄関から入る。
このリビングに座る。
ハクに会う。
家族と話す。
そこまで想像してから、止めた。
まだ決まっていない。
「水瀬さん、来たいって?」
「はい」
「……そっか」
「ただし」
「何?」
「最初に出たのはハクでした」
「…………」
琴葉の口元が上がる。
「私が『今度、私の家にも』と申し上げたところ」
「うん」
「『ハク』と」
「俺の家でもあるんだけど」
「知っています」
「水瀬さん、俺のこと忘れてない?」
「忘れてはいないと思います」
「思います?」
「ハクに会いたいそうです」
「それはずっと知ってる」
悠真は足元のハクを見る。
ハクは何も知らず、尻尾を振っている。
「お前、強いな」
「わふ」
「返事するな」
琴葉が笑う。
その声を聞きつけたのか、リビングから麗華が顔を出した。
「琴葉、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、母様」
「楽しかった?」
「はい」
「よかったわ」
琴葉は少し間を置いてから、母へ向き直る。
「母様」
「なあに?」
「今度、彩花さんをこちらへお招きしてもよろしいでしょうか」
麗華の動きが止まった。
本当に、ほんの一瞬だけ。
悠真には分かった。
母の内側で何かが大きく動いた。
けれど表情は穏やかなままだ。
「もちろんよ」
「母さん、即答」
「琴葉のお友達でしょう?」
「はい」
「なら歓迎するわ」
「ありがとうございます」
「予定が決まったら教えてね」
「はい」
麗華はそれだけ言い、再びリビングへ戻っていく。
悠真はその背中を見る。
「……母さん、絶対嬉しいだろ」
「でしょうね」
「父さんと祖父にはいつ言う?」
「直前でよいのでは?」
「何で?」
「早く伝えると騒がしくなります」
「……賛成」
兄妹の意見が珍しく完全に一致した。
ハクだけが二人の間で嬉しそうに尻尾を振っている。
「でも」
悠真が小さく言う。
「水瀬さん、来るのか」
「まだ日程も決まっていません」
「分かってる」
「兄様」
「何?」
「余計なことをしないでくださいね」
「しないよ」
「ハクを前日に洗うなど」
「それはするかも」
「なぜですか」
「綺麗な方がいいだろ」
「いつも綺麗です」
「ブラッシングはする」
「普段からしてください」
「してるよ」
「では普段通りで」
「分かったって」
琴葉は満足したように頷いた。
悠真はもう一度ハクを見る。
彩花がハクを見たら、きっと喜ぶ。
写真だけでもあれだけ反応するのだから、実際に会えばもっとだろう。
自分より先にハクへ駆け寄る姿も、簡単に想像できた。
「……絶対俺、負けるな」
「今さらですか?」
「まだ会ってないから」
「会う前から負けています」
「ひどい」
琴葉が笑う。
悠真もつられて笑った。
水瀬家へ琴葉が行った。
次は、彩花が九条家へ来るかもしれない。
家族同士が何かを決めたわけではない。
大げさな意味もない。
友達の家へ遊びに行ったから、今度はこちらへ。
ただ、それだけ。
その自然さが、悠真には嬉しかった。
◇
夜。
彩花は自室のベッドへ座り、スマートフォンを手にしていた。
琴葉からメッセージが届いている。
『今日は本当にありがとうございました。巾着、大切に使います。』
『こちらこそ楽しかった。また作ろうね。』
『はい。』
そのあと、少し間が空いた。
新しいメッセージ。
『母に確認しました。』
彩花の指が止まる。
『こちらへお招きしてよいそうです。』
「……本当に?」
声に出る。
続けて届く。
『まだ日程は決めなくて大丈夫です。古本市などもありますので。』
琴葉らしい。
急がない。
すぐに予定を詰めない。
彩花は少し考え、返信する。
『ありがとう。行ってみたい。』
少しだけ迷ってから、もう一つ。
『ハクにも会いたい。』
既読。
返ってきたのは。
『兄様が少し拗ねます。』
「何で?」
彩花は笑う。
『なんで?』
『本人に聞いてください。』
『教えてよ。』
『秘密です。』
『琴葉さん最近ちょっと意地悪。』
『兄様ほどではありません。』
『九条君、意地悪かな?』
『彩花さんには甘いので分かりにくいかもしれません。』
「…………」
彩花の指が止まった。
甘い。
どういう意味だろう。
優しいということなら、悠真は誰にでも優しいと思う。
けれど、以前凛花や玲奈たちからも、似たようなことを言われた。
自分と話すときの悠真は、学校より柔らかい。
それを思い出す。
『そうかな。』
送る。
琴葉からの返事は短かった。
『そうです。』
それ以上は説明しなかった。
彩花も追及しない。
少しだけ胸の奥に残ったが、今すぐ答えを出す必要はない。
そのとき、別の通知が表示された。
悠真。
『琴葉から聞いた。今日はありがとう。』
彩花は少し笑った。
『なんで九条君がお礼言うの?』
『妹がお世話になったので。』
『お兄ちゃんみたい。』
『兄だから。』
『そうだった。』
少しして。
『楽しかった?』
彩花は迷わず打つ。
『すごく楽しかったよ。』
『よかった。』
『琴葉さん、巾着完成した。』
『見せてもらった。触らせてもらえなかった。』
『琴葉さんのだからね。』
『水瀬さんまで。』
『九条君も自分で作ればいいでしょう?』
『先生、お願いします。』
『ちゃんと練習してください。』
『はい。』
そこで一度会話が止まる。
彩花は画面を見ながら、琴葉から聞いたことを思い出した。
九条家へ。
悠真のいる家へ。
ハクのいる家へ。
『琴葉さんから聞いたよ。』
送る。
『家のこと?』
『うん。』
『無理しなくていいからな。』
返事は早かった。
彩花は少しだけ目を細める。
やっぱり悠真らしい。
来てほしい、と先に言わない。
断りづらくならないようにしている。
だから彩花も、自分の気持ちをそのまま返した。
『行ってみたいよ。』
既読。
少し間。
『そっか。』
さらに数秒。
『嬉しい。』
たった三文字だった。
彩花はその言葉をしばらく見つめた。
以前なら、悠真はもう少し回りくどかったかもしれない。
今は、嬉しいなら嬉しいと言う。
それが少しだけ自分へ移ったのかもしれない。
『私も楽しみ。』
送る。
そして、忘れてはいけない。
『ハクに会えるの。』
すぐに既読。
『そこなんだ。』
『そこも。』
彩花は笑いながら、少し考える。
今度は消さずに続けた。
『九条君の家がどんなところか見るのも楽しみだよ。』
送信。
返事が来るまで、少しだけ時間がかかった。
『それならよかった。』
短い。
けれど、画面の向こうで悠真が少し固まったのではないかと、なぜか想像できた。
『また不意打ち?』
送る。
『最近分かっててやってない?』
『やってないよ。』
『本当に?』
『本当。』
『ならいいけど。』
彩花は笑った。
それからスマートフォンを枕元へ置く。
今日は一日、琴葉と過ごした。
裁縫をした。
本の話をした。
凛花とも三人で話した。
琴葉が帰ったあとも、その楽しさはちゃんと残っている。
そこへ最後に、九条家へ行くかもしれないという新しい話が増えた。
以前なら。
九条家。
その名字だけで、自分には縁のない場所だと思ったかもしれない。
今は少し違う。
琴葉の家。
悠真の家。
麗華の家。
そして、ハクのいる家。
そう考えると、まだ緊張はしても、遠すぎる場所には思えなかった。
彩花はベッドへ横になり、天井を見る。
自分の家へ友達を呼んだ。
次は、自分が友達の家へ行くかもしれない。
ただそれだけのことなのに、少し楽しみだった。
そして、その「友達」の中に、今は琴葉も悠真もいる。
誰かの妹だから。
誰かの兄だから。
そんな繋がりから始まっても、その先で別々の関係ができていく。
彩花は目を閉じた。
今日作った深緑の巾着。
琴葉の嬉しそうな顔。
凛花の「ここでは凛花でいい」という言葉。
紗月の「また来てね」。
思い出すたび、胸の奥が少し温かくなる。
友達を家に呼ぶ日。
それは彩花が思っていたよりずっと普通で、ずっと嬉しい一日だった。
そして次は。
自分が、九条家の玄関をくぐる日が来るのかもしれない。




