第22話
月曜日の放課後、県立青葉高校の廊下には、昼間の熱がまだ薄く残っていた。
梅雨の中休みは今日も続いていて、窓の外には白い雲の浮かぶ青空が広がっている。運動部の掛け声が校庭から途切れ途切れに届き、開け放たれた窓から入る風が、掲示板に貼られた文化祭準備の案内をかすかに揺らしていた。
水瀬彩花は文芸部の部室へ向かいながら、肩に掛けた鞄の位置を直した。
午前中、大地に言われた言葉が、まだ少しだけ頭に残っている。
『最近普通に名前出るよな』
言われるまで、自分では気づいていなかった。
九条君。
以前なら、誰かに悠真のことを話すたびに、一瞬だけ呼び方を迷っていた。
図書館で会う人。
本の話をする人。
桜華学園の人。
どれも間違いではなかったが、どこか説明が長い。
今は「友達」で済む。
それだけの変化なのに、思っていたより大きいらしい。
「水瀬さん、お疲れ」
「あ、お疲れさまです」
部室の前で三年生の女子部員とすれ違い、彩花は軽く頭を下げた。
「今日、原稿やる?」
「はい。そのつもりです」
「頑張ってね。私、図書室寄ってから行くから」
「分かりました」
先輩と別れ、引き戸を開ける。
文芸部の部室には、まだ二人しかいなかった。
窓際の机で二年生の部員が文庫本を読んでいて、もう一人はパソコンの前で文化祭用の部誌のレイアウトを確認している。棚には過去の部誌や寄贈された小説がぎっしり詰まり、窓際には誰が持ってきたのか分からない小さな観葉植物が置かれていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ、水瀬さん」
挨拶を返し、いつもの席へ座る。
机の上へ筆箱とノートを出し、文化祭用の原稿を広げた。
書き始めてから、少しずつ形になってきている。
恋愛小説ではない。
少なくとも、彩花はそのつもりで書いている。
最初は同じ場所にいるだけだった二人が、何度も顔を合わせるうちに話すようになり、相手がそこにいることを自然に前提にするようになる話。
劇的な事件はない。
誰かが誰かを救うわけでもない。
ただ、少しずつ距離が変わっていく。
以前なら、そんな話は地味すぎると思ったかもしれない。
けれど今は、変化というものは必ずしも大きな出来事だけで起こるわけではないと分かる。
彩花は昨日書いた一文を読み返した。
『同じ人でも、場所が変われば少し違う顔をする。その違いを知るたびに、前よりその人を知った気がした。』
「…………」
シャープペンシルの先が止まる。
(これ、やっぱり九条君っぽいかな)
昨日、桜華学園の制服姿を初めて見た。
玲奈たちと話す悠真も見た。
自分と話しているときより少し違うらしいと聞いた。
それをそのまま書いたわけではない。
物語の登場人物も、高校生ではない。
場所も図書館ではなく、小さな商店街にしている。
それでも、自分が最近感じたことが文章へ混ざっているのは間違いなかった。
「水瀬、難しい顔してんな」
突然、開いた扉の方から声がして、彩花は顔を上げた。
大地が立っていた。
「……田辺君」
「何?」
「ここ文芸部」
「知ってる」
「田辺君、文芸部じゃないよね?」
「知ってる」
「じゃあ何でいるの?」
「これ」
大地が持っていたプリントを掲げる。
「文化祭実行委員から。クラスごとの企画書、文芸部の先輩にも渡してって頼まれた」
「ああ」
「ついでに水瀬の原稿見ようかと」
「ついでがおかしい」
「まだ駄目?」
「駄目」
「ケチ」
「完成してないから」
大地は残念そうな顔をしたものの、それ以上しつこくは言わなかった。
パソコンの前にいた二年生へプリントを渡し、そのまま帰るのかと思ったが、彩花の机の横で一度足を止める。
「どんな話?」
「それも秘密」
「ジャンルだけ」
「……日常もの」
「恋愛?」
「違うと思う」
「思う?」
大地が眉を上げる。
「作者なのに?」
「書いてる途中で変わることもあるでしょう?」
「俺、小説書かないから分かんない」
「じゃあ聞かないでよ」
「気になるじゃん」
近くで本を読んでいた二年生が、ページから顔を上げて小さく笑った。
「田辺君、水瀬さんの作品楽しみにしすぎじゃない?」
「だって普段何書いてるか知らないし」
「前の部誌にも載ってるよ」
「マジですか?」
「ちょっと先輩」
彩花が止めるより早く、二年生が棚の上段を指さした。
「去年の秋号」
「探していい?」
「駄目」
「何で!?」
「恥ずかしいから!」
思わず声が少し大きくなり、部室にいた全員が笑う。
彩花は頬が熱くなるのを感じながら、大地が棚へ近づく前に立ち上がった。
「田辺君、用事終わったでしょう?」
「昔の水瀬作品が」
「帰って」
「横暴」
「文化祭で今の読めるから」
「じゃあ絶対読む」
「……感想は優しくして」
「そこ弱気になるんだ?」
「自分で書いたもの読まれるのは恥ずかしいの」
料理や裁縫とは違う。
作ったものを渡す点では似ていても、小説は自分の考えや感じ方が文章のどこかへ滲む。
特に今回の作品はそうだった。
悠真との関係をそのまま書いているわけではない。
けれど、何も影響されていないと言えば嘘になる。
「分かった。ちゃんと読む」
大地は珍しく茶化さずに答えた。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れ」
「九条にも読ませるの?」
「え?」
扉へ向かいかけた大地が、思い出したように振り返った。
彩花の手が止まる。
「……何で九条君?」
「本好きなんだろ?」
「そうだけど」
「水瀬が書いたやつなら読むんじゃない?」
「…………」
考えたことがなかった。
文化祭の部誌に載れば、部外の人間でも読める。
悠真に渡そうと思えば渡せる。
けれど、自分から読んでほしいと言うのは、何となく違う気がしていた。
「まだ分かんない」
「ふーん」
「何?」
「いや。完成したら考えれば?」
「……うん」
「じゃあ今度こそ帰る」
大地が手を上げ、部室を出ていった。
引き戸が閉まる。
彩花は自分の席へ戻った。
原稿を見る。
(九条君に、読んでもらう……)
想像しただけで落ち着かない。
感想を聞きたい気持ちはある。
悠真は本を読むとき、細かなところまでよく見ている。登場人物の気持ちについて話すときも、自分とは違うところを拾うことがある。
だから、読んでもらえたら嬉しい。
けれど。
(これ、九条君と話してて思ったこと、結構入ってるんだよね)
その事実に気づくと、急に渡しづらくなる。
彩花は原稿を一枚めくった。
登場人物が、相手の好きな飲み物を覚えている場面。
以前なら待ち合わせをしていなかった二人が、自然に同じ時間帯に店へ来るようになる場面。
相手がいない日に、いつも座っている場所を一度だけ見る場面。
「…………」
最後の部分は少し危ない。
先週の自分に近い。
「水瀬さん?」
「はいっ」
横から声をかけられ、彩花は慌てて原稿を伏せた。
先ほど図書室へ行っていた三年生の先輩が、怪訝そうに立っている。
「どうしたの?」
「何でもないです」
「すごい勢いで隠したけど」
「まだ途中なので」
「見ないよ」
「ありがとうございます……」
先輩は笑いながら向かいの席へ座った。
「でも、進んでる?」
「少しずつ」
「締切までまだあるし、焦らなくていいよ」
「はい」
「水瀬さん、前より楽しそうに書いてるね」
「え?」
思いがけない言葉だった。
「そうですか?」
「うん。前はもっと考え込んでた気がする」
「今も考えてますよ」
「それは見れば分かる」
先輩は鞄からノートを出しながら続ける。
「でも、止まってる感じじゃないっていうか。書きたいものがある人の悩み方してる」
「……書きたいもの」
「違った?」
彩花は原稿へ視線を落とした。
少しずつ近づいていく人たち。
名前がつく前と、ついたあと。
同じ人の違う顔。
会っていない時間にも、その人が自分の日常のどこかにいること。
書きたいもの。
「……あると思います」
「なら大丈夫」
先輩はそれ以上聞かなかった。
彩花も原稿へ戻る。
さっきまで気になっていた「悠真に読ませられるか」は、一度横へ置いた。
まず、自分が書きたいものを書く。
読ませるかどうかは、そのあと考えればいい。
シャープペンシルを持ち直す。
今度は、迷わず次の一文を書き始めた。
◇
同じ日の夕方。
桜華学園高等部の生徒会室では、開けた窓から運動部の声が聞こえていた。
九条悠真は机の上に広げた資料を確認し、文化祭関連の申請書を種類ごとに分けていた。
「一年の分、これで全部?」
向かいの席にいる二年生の生徒会役員へ尋ねる。
「たぶん。まだ出してないクラスある?」
「一組と五組は確認済みです。三組が企画内容を変更するって言ってたので、差し替えが来るかもしれません」
「じゃあ旧版捨てないで」
「分かりました」
「部活動の方は?」
「明日締切」
「未提出は?」
「四団体です」
「一覧あります?」
「今出す」
短いやり取りをしながら、悠真は資料の右上へ付箋を貼る。
昨日、駅で玲奈の友人に言われた。
『生徒会の九条君って、もっと固いよね』
自分では、そこまで違うつもりはない。
ただ、生徒会室では仕事をしている。
確認が必要なら確認するし、期限があれば守ってもらう。
図書館で彩花と本の話をしているときと同じ調子でいる方がおかしい。
「九条」
「何?」
横から湊が声をかける。
「これ、旧版?」
「どれ?」
「三組」
「旧版。差し替え予定」
「了解」
湊が資料を別の箱へ入れる。
それだけで会話は終わった。
悠真も作業へ戻る。
昨日、彩花は自分の制服姿を珍しそうに見ていた。
学校での自分にも興味があると言っていた。
それは嬉しかった。
けれど、だからといって生徒会室へ連れてきたいとは思わない。
ここにはここの日常がある。
彩花にも青葉高校で過ごす時間がある。
互いに全部を知る必要はない。
知らないものが少しずつ見えてくるくらいが、今はちょうどいい。
「九条」
「今度は何?」
「別に呼んだだけ」
湊が笑っている。
「暇なら未提出団体に確認してきて」
「怖いな、生徒会役員」
「お前もだろ」
「はいはい」
湊は立ち上がり、一覧表を持つ。
ところが扉へ向かう途中で、悠真の机を見て足を止めた。
「それ何?」
「何が?」
「スマホの横」
悠真も視線を落とす。
机の隅に、小さなメモ用紙が置いてある。
『生成り/紺/深緑』
「布?」
「……多分」
「多分?」
昼休みに、日曜日の文具店で見た布製の栞を思い出して書いたものだった。
彩花に裁縫を教えてもらう話。
まだ日程も決まっていない。
材料も一緒に選ぶ予定で、それすら「そのうち」だ。
なのに授業中、何色がいいか少し考えてしまった。
「何作るの?」
「栞」
「九条が?」
「悪い?」
「いや」
湊が妙な顔になる。
「買うんじゃなくて?」
「作る」
「誰と?」
悠真は一瞬だけ黙った。
湊の口元が上がる。
「水瀬さん?」
「……教えてもらうだけ」
「へえ」
「その反応やめろ」
「何も言ってないけど」
「顔に出てる」
「最近みんな顔読むよな」
「昨日も言った、それ」
「誰に?」
「玲奈たち」
「昨日会ったの?」
「駅で」
湊は少しだけ興味を示したが、すぐに肩をすくめた。
「まあいいや。栞、完成したら見せて」
「何で?」
「九条が縫ったやつ見たい」
「失敗前提みたいな顔するなよ」
「してないって」
「絶対してる」
悠真はメモを裏返した。
湊が笑いながら生徒会室を出ていく。
その背中を見送ったあと、悠真は再び資料へ目を戻した。
数分後には栞のことも彩花のことも意識から外れ、目の前の作業へ集中していた。
その方が自然だった。
学校にいる間ずっと彩花を考えているわけではない。
生徒会では仕事をする。
授業では授業を受ける。
友人とも話す。
ただ、ときどき思い出す。
何色にしようか。
次に会ったら何を話そうか。
それくらいの形で、彩花は悠真の日常の中へ入り始めていた。
◇
火曜日の昼休み。
彩花は青葉高校の中庭にあるベンチで、文芸部の同級生二人と昼食を食べていた。
梅雨とは思えない晴天が続いていたが、今日は昨日より雲が多い。校舎の影に入れば風もあり、教室より少し涼しかった。
「水瀬さん、昨日結構書いてたよね」
「うん。少し進んだ」
「何ページ?」
「まだ原稿用紙に直してないから分からない」
「パソコンじゃないんだ?」
「最初はノートに書く方が好き」
「分かる。消した跡とか残るし」
同級生が卵焼きを食べながら頷く。
彩花も弁当箱を開けた。
今日は紗月が作ったものではなく、自分で詰めた弁当だ。昨夜の照り焼きの残りと、ほうれん草の胡麻和え、小さな卵焼きが入っている。
「それ自分で作った?」
「詰めたのは私。照り焼きは昨日の残り」
「卵焼き綺麗」
「ありがとう」
以前なら、「これくらい普通だよ」と返していたかもしれない。
今日は、その言葉は出なかった。
ありがとう。
それだけで終える。
その方がずっと簡単だった。
「水瀬さん料理できるのいいなあ」
「好きだから」
「お菓子も作るんだっけ?」
「うん」
「文化祭で売れば?」
「食品は申請大変だよ」
「現実的」
三人で笑う。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが一度だけ震えた。
彩花はすぐには見なかった。
昼食中だ。
急ぎなら電話が来るだろうし、メッセージならあとでいい。
卵焼きを食べ、話の続きを聞く。
十分ほどして食事が終わり、同級生の一人が飲み物を買いに行ったところで、ようやくスマートフォンを確認した。
悠真からだった。
『日曜、図書館の近くの文具店で見た栞覚えてる?』
「あ」
思わず声が漏れる。
「どうしたの?」
隣の同級生が聞く。
「ううん。友達から」
そう答え、画面へ戻る。
『覚えてるよ。青い花のやつでしょう?』
送る。
すぐには既読にならない。
悠真も学校にいるのだから当然だ。
彩花はスマートフォンを伏せ、同級生との話へ戻った。
数分後、教室へ戻る途中で返信が届く。
『あれみたいな形なら、布何色がいいと思う?』
彩花は廊下の端へ寄った。
『九条君が使うんだから自分で決めた方がいいよ。』
『それはそうだけど、初心者でも縫いやすい布とかある?』
なるほど。
色そのものではなく、生地の種類まで考え始めたらしい。
『厚すぎない綿がいいと思う。伸びる布は最初は難しい。』
『分かった。』
少しして、もう一通。
『生成りか紺か深緑で迷ってる。』
「もう選んでる……」
彩花は小さく笑った。
昨日は「そのうち」と言っていたのに、色だけは考えているらしい。
『紺は糸が見えにくいから、最初なら生成りが縫いやすいかも。』
『失敗も見える?』
『見える。』
『厳しい。』
『先生なので。』
送信する。
今度はすぐに返事が来た。
『完成させるのが大事なんじゃなかった?』
昨日、自分が言ったことだ。
『ちゃんと覚えてるね。』
『水瀬さんが言ったから。』
その一文を見て、彩花の足が少しだけ遅くなった。
廊下では昼休み終了前の生徒たちが行き交っている。教室へ急ぐ男子生徒の足音や、階段の方から聞こえる笑い声が重なっていた。
彩花は画面を見たまま立ち止まらない。
以前なら、この一文だけで「どういう意味だろう」と考えたかもしれない。
今は少し違う。
悠真は、自分が言ったことを覚えている。
それが嬉しい。
そこまででいい。
『じゃあ生成りから挑戦してみる?』
『そうする。』
『まだ作る日決めてないけど。』
『色考えるくらいはいいだろ。』
『楽しみなの?』
送ってから、少しだけ笑う。
返事は短かった。
『楽しみ。』
彩花の頬が自然に緩んだ。
『じゃあちゃんと教えます。』
『お願いします、先生。』
そこで会話を終える。
教室へ戻ると、大地が自分の席でパンを食べていた。
「水瀬、何笑ってんの?」
「え?」
「廊下から笑ってた」
「そんなに?」
「ちょっと」
彩花はスマートフォンを鞄へしまった。
「友達と話してただけ」
「また九条?」
「何で分かるの?」
「最近そのパターン多いから」
「……そうかな」
「知らんけど」
「どっちなの」
「適当に言った」
「田辺君」
「怒んなって」
大地が笑う。
彩花も呆れながら自分の席へ座った。
否定しようとは思わなかった。
九条君と話していた。
その通りだから。
◇
その日の放課後、彩花は文芸部へ向かう前に図書室へ寄った。
文化祭用の作品を書くため、少し参考になりそうな短編集を探すつもりだった。
青葉高校の図書室は、市立中央図書館ほど広くない。
それでも壁際の棚には小説や資料集が並び、窓側には自習用の机が十数席置かれている。放課後すぐなので利用者はまだ少なく、カウンターでは図書委員の女子生徒が返却された本を整理していた。
彩花は短編集の棚へ向かった。
数冊背表紙を確認し、そのうち一冊を抜き出す。
「あ、水瀬」
横から声がした。
振り向くと、同じクラスの女子が立っていた。
「珍しいね」
「何が?」
「図書室。水瀬って市立の方行くって言ってなかった?」
「こっちも来るよ。学校にいるときは」
「そっか」
女子は手に進路関係の本を持っている。
「文化祭?」
「うん。文芸部の原稿」
「大変そう」
「楽しいよ」
「へえ」
相手が少し意外そうに笑う。
「水瀬って、そういうとき結構はっきり言うようになったよね」
「え?」
「前は『まあまあ』とか『普通』とか多くなかった?」
まただ。
悠真だけではない。
凛花だけでもない。
自分が少し変わったことを、周りの人も感じている。
「……そうだったかも」
「今の方が分かりやすい」
「前、分かりにくかった?」
「ちょっとね」
悪意はない。
相手は本当に軽い調子で言っている。
彩花も嫌な気持ちにはならなかった。
「じゃあ、今の方がいい?」
「私はね」
「そっか」
「何かあった?」
「何かって?」
「最近」
彩花は少し考えた。
いろいろあった。
図書館で悠真と出会った。
本を貸し借りした。
お菓子を渡した。
友達になった。
琴葉と知り合った。
玲奈とも話した。
凛花とも以前より少し、自分のことを話せるようになった。
けれど、それら全部を一つの理由にまとめることはできない。
「……いろんな人と話したからかも」
「何それ」
「私もよく分かんない」
「まあ、いいことならいいんじゃない?」
「うん」
女子は進路の棚へ戻っていった。
彩花は手にした短編集を見下ろす。
自分が変わった。
そう言い切るほど大きな変化ではないと思う。
苦手なものはまだある。
凛花と比べて落ち込むことも、きっとこれからある。
親戚に何か言われれば、昔と同じように胸が痛むかもしれない。
けれど。
『料理は好き』
『裁縫は得意かも』
『文芸部の原稿を書くのは楽しい』
そういう言葉を、自分で否定せずに口にできるようになっている。
それは確かだった。
彩花は借りる本をもう一冊選び、カウンターへ向かった。
◇
水曜日。
その日は朝から雨だった。
数日続いた梅雨の中休みが終わり、青凪市の空は厚い灰色の雲に覆われていた。
放課後になっても雨脚は弱まらず、青葉高校の昇降口には傘を広げる生徒が集まっている。
彩花は折り畳みではない、自分の傘を持っていた。
以前、突然の雨で悠真の傘へ入れてもらった日のことを少しだけ思い出す。
あの頃は、まだ連絡先も知らなかった。
今考えると、ずいぶん前のような気がする。
実際には、それほど経っていない。
「水瀬」
靴を履き替えていると、大地が隣へ来た。
「傘ある?」
「あるよ」
「俺も今日はある」
「成長したね」
「俺を何だと思ってんの?」
「六百五十円の人」
「まだ言う?」
「九条君も覚えてたよ」
「何でそいつまで知ってんだよ」
「前に話したから」
「俺の傘忘れ話を他校まで広めるなよ」
「大丈夫。九条君しか知らない」
「十分だろ」
大地は笑いながら自分の傘を開いた。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れ」
別方向へ歩いていく大地を見送り、彩花も昇降口を出る。
雨粒が傘を細かく叩く。
校門を出たところでスマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『雨大丈夫?』
彩花は屋根のある場所で一度立ち止まった。
『今日はちゃんと傘あります。』
少しして。
『よかった。』
それだけ。
けれど、彩花は笑った。
『九条君は?』
『ある。』
『田辺君も今日はあるって。』
送ったあと、返事まで少し間が空いた。
『それはよかった。』
「…………」
何となく文章が固い。
彩花は画面を見ながら笑う。
『何で急に固いの?』
『別に。』
『またそれ。』
『本当に別に。』
『六百五十円覚えてたくせに。』
既読。
少し間。
『数字だから。』
彩花はとうとう声を出して笑った。
通りかかった一年生の女子が一瞬こちらを見る。
彩花は少し恥ずかしくなり、傘を開いて歩き始めた。
『私と同じ言い訳。』
『水瀬さんが先に使った。』
『便利だった?』
『まあまあ。』
『普通じゃないんだ。』
『最近、水瀬さんが使わないから。』
また、見ていた。
小さな変化を。
彩花は歩道の水たまりを避けながら、片手で返信する。
『九条君、本当にそういうの気づくね。』
『話してるから。』
以前にも聞いた言葉だった。
けれど今回は、それ以上返さなかった。
スマートフォンを鞄へしまう。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
車が水を跳ねる音。
傘の内側へ響く雨粒。
悠真はここにはいない。
自分は一人で家へ帰っている。
それでも、ほんの数分だけ会話をした。
以前、文化祭の原稿に書いた言葉が浮かぶ。
『会っていない時間にも、その人がいる。』
あのときは、少し恋愛小説のように見えて迷った。
今なら、必ずしもそうではないと思う。
友達だってそうだ。
家族だってそうだ。
目の前にいない時間にも、相手を思い出すことはある。
何かを見て、話したいと思うこともある。
それが誰かと関わるということなのかもしれない。
彩花は傘を持つ手へ少し力を入れた。
文化祭の原稿。
続きを書けそうだった。
◇
木曜日の放課後。
文芸部の部室で、彩花は一時間近く原稿を書いていた。
雨は昨日のうちに上がり、窓の外には薄い夕日が差している。湿気を含んだ風がカーテンをゆっくり揺らし、遠くから吹奏楽部の音合わせが聞こえていた。
机の上には、火曜日に学校の図書室で借りた短編集と、書き込みの増えたノート。
彩花は一度ペンを置き、書いた部分を読み返す。
物語の中で、二人の登場人物はまだ友達と呼び合っていない。
けれど、以前より会話は増えている。
一方が雨の日に来なかった。
もう一方は理由を知らないまま、いつもの場所を一度だけ見る。
次に会ったとき、責めるのではなく、「この前いなかったね」と言う。
それだけの場面だ。
そこへ恋愛的な意味を付ける必要はない。
相手がいることを前提にし始めたから、いないことに気づく。
ただそれだけで十分だと思えた。
「水瀬さん」
「はい」
三年生の先輩が、向かいから声をかける。
「ちょっと読んでいい?」
彩花の手が止まった。
「……今のところですか?」
「嫌ならいいよ」
「…………」
以前なら断ったと思う。
完成するまで見せたくない。
自信がない。
変だったらどうしよう。
そう考えて。
今も恥ずかしい。
けれど、途中で誰かに読んでもらうことも悪くない気がした。
「少しだけなら」
「いいの?」
「はい。でも、本当に途中です」
「分かってる」
彩花は数枚の紙を揃え、先輩へ渡した。
自分の手から原稿が離れる。
その瞬間、胸の辺りが落ち着かなくなった。
先輩が読む。
ページをめくる。
表情は変わらない。
彩花は自分のノートを見るふりをしながら、何度も視線を上げそうになるのを堪えた。
数分後。
「水瀬さん」
「はい」
「これ、いいね」
すぐには意味を理解できなかった。
「……本当ですか?」
「うん」
先輩は原稿を机へ置く。
「派手な話じゃないけど、距離が変わっていく感じが分かる」
「……よかった」
「特にここ」
先輩が一か所を指さす。
『話したいことが増えるほど、次に会う日が少しだけ待ち遠しくなった。』
「これ好き」
彩花の頬が熱くなる。
「そこですか」
「駄目だった?」
「駄目じゃないです」
「実感ある感じする」
「…………」
「水瀬さん?」
「何でもないです」
先輩は不思議そうにしたが、追及しなかった。
「このまま書いていいと思うよ。恋愛にするならもっと寄せてもいいし、友情なら友情で成立する」
「まだ、決めてなくて」
「決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「登場人物がまだ分かってないなら」
彩花は先輩を見る。
「書いてるうちに、この人たちが自分で決めるかもしれないし」
「……そういうものですか?」
「私はそういうことあるよ」
先輩は原稿を返した。
「最初から名前つけなくてもいいと思う」
彩花は受け取った紙へ視線を落とす。
最初から名前をつけなくてもいい。
その言葉が、なぜか少しだけ胸へ残った。
もちろん、小説の話だ。
先輩もそれ以外の意味では言っていない。
「ありがとうございます」
「うん。続き楽しみにしてる」
「頑張ります」
今度は、素直にそう言えた。
◇
金曜日の夜。
水瀬家では、凛花がリビングのテーブルに参考書を広げ、彩花はその向かいで裁縫箱を整理していた。
紗月はキッチンで翌朝の下ごしらえをしていて、耕助はソファでテレビを見ている。窓の外では、雨上がりの庭から虫の声が聞こえていた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「これ、どっちがいいと思う?」
彩花が二枚の端切れを持ち上げる。
一枚は生成り。
もう一枚は深い緑。
凛花が参考書から顔を上げた。
「何に使うの?」
「栞」
「また作るの?」
「私じゃなくて」
凛花の目が細くなる。
「誰?」
「九条君」
数秒、沈黙が落ちた。
キッチンから包丁の音が続いている。
テレビでは天気予報が流れ、明日は晴れるとアナウンサーが話していた。
「……九条君?」
「うん」
「作ってあげるの?」
「違うよ。本人が作るの」
「本人が?」
「裁縫やってみたいって言うから、教えることになったの」
凛花はゆっくり参考書を閉じた。
「いつ?」
「まだ決めてない」
「どこで?」
「それも決めてない」
「二人で?」
「お姉ちゃん」
「何?」
「質問多い」
「確認してるだけ」
「何を?」
「いろいろ」
彩花は呆れながら、二枚の布をテーブルへ置いた。
「まだ何も決まってないよ。古本市もあるし、そのあとでもいいって話してるだけ」
「……そう」
「琴葉さんにも教えたでしょう? それと同じ」
「同じかしら」
「同じだよ」
「本当に?」
「何が違うの?」
凛花は答えなかった。
彩花は首を傾げる。
その様子をキッチンから見ていた紗月が、笑いを含んだ声を挟んだ。
「凛花、彩花の友達にいちいち面接しなくていいのよ」
「してない」
「してるように見えるけど」
「お母さん」
「はいはい」
紗月は楽しそうに料理へ戻った。
凛花は小さく息を吐く。
「それで、何で布選んでるの?」
「九条君が生成りか紺か深緑で迷ってるって言ってたから」
「本人に選ばせれば?」
「そう言ったよ。でも初心者なら生成りの方が縫い目見やすいから」
「じゃあ生成りでいいんじゃない?」
「やっぱり?」
「深緑は見づらそう」
「だよね」
彩花は生成りの布を手に取った。
「これくらいの厚さなら縫いやすいと思う」
「……楽しそうね」
「え?」
凛花は今度は、からかうような顔をしていなかった。
「教えるの」
「ああ」
彩花は布を指で撫でる。
「うん。ちょっと楽しみ」
その答えに迷いはなかった。
「琴葉さんに教えたのも楽しかったし。人に教えるの、思ったより好きかも」
「そう」
「私、裁縫できるの当たり前だと思ってたけど、できない人に教えると、ちゃんと覚えてること結構あるんだなって分かった」
凛花はしばらく妹を見ていた。
「彩花」
「何?」
「前より、自分のこと話すようになったわね」
また、同じようなことを言われた。
学校でも。
悠真にも。
凛花にも。
彩花は少し笑った。
「今日までに三人くらいに似たこと言われた」
「そうなの?」
「うん」
「嫌?」
「……ううん」
彩花は少し考えてから首を振る。
「多分、嬉しい」
以前なら、自分が変わったと言われることを怖がったかもしれない。
何が変わったのか。
いい方なのか、悪い方なのか。
考えすぎて。
今は少し違う。
「私、前より自分の好きなもの言えるようになった気がする」
凛花の表情が柔らかくなる。
「そうね」
「お姉ちゃんもそう思う?」
「思う」
「そっか」
彩花は生成りの布を裁縫箱へ戻した。
それから、ふと思い出す。
「そうだ。お母さんが言ってたやつ」
「何?」
「琴葉さん、今度うちに呼んでもいい?」
「私に聞くの?」
「だってお姉ちゃんも住んでるし」
「いいに決まってるでしょう」
凛花の返事は早かった。
「本当?」
「琴葉さんなら」
「九条君は?」
「…………」
「今の間何?」
「別に」
「お姉ちゃん」
「本人から呼ばれたなら、駄目とは言わないわよ」
「呼ぶ予定ないよ」
「なら問題ないでしょう」
「何で九条君だけ審査厳しいの?」
「男だから」
「田辺君なら?」
「もっと嫌」
「何で!?」
「知らないから」
「九条君は知ってるから少しましってこと?」
凛花は答えない。
彩花は目を丸くした。
「お姉ちゃん、九条君のこと結構信用してる?」
「警戒はしてる」
「それ、否定になってないよ」
「……彩花」
「何?」
「余計なところで鋭くならなくていいの」
「何それ」
彩花が笑う。
凛花も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
以前なら、悠真の名前が出るたびにもう少し張り詰めた空気になっていた。
今は違う。
警戒はしている。
けれど、拒絶ではない。
彩花にもそれが分かるくらいには、姉と悠真の関係も少しずつ変わっていた。
◇
土曜日の午後。
九条家のリビングでは、琴葉がソファに座って本を読んでいた。
向かいでは麗華が紅茶を飲み、窓際ではハクが床に長く伸びている。梅雨の晴れ間の日差しが大きな窓から入り、白い毛がいつも以上に明るく見えた。
悠真はハクの横へしゃがみ、首の辺りを撫でていた。
「明日、水瀬さんに写真送ろうかな」
何気なく言う。
琴葉が本から目を上げた。
「兄様」
「何?」
「以前、毎日ハクを口実に送るのはやめてくださいと言いましたよね」
「毎日じゃないだろ」
「確かに」
「明日は日曜だし」
「会うのでしょう?」
「多分」
「では直接見せればよいのでは?」
「それもそうか」
悠真はスマートフォンをしまった。
琴葉が少し意外そうに瞬きをする。
「何?」
「素直にやめるのですね」
「駄目なの?」
「いえ。よいことです」
「琴葉、最近俺を育ててるつもりになってない?」
「まさか」
「絶対なってる」
麗華がティーカップの向こうで小さく笑っている。
「母さんも笑わないでよ」
「ごめんなさい。でも、仲がいいなと思って」
「普通です」
「普通だよ」
兄妹の声が重なった。
今度は麗華が声を立てて笑う。
ハクだけが何も気にせず、悠真の膝へ鼻先を押しつけた。
「ハクは平和だな」
「兄様が勝手に競っているだけです」
「最近競ってないだろ」
「彩花さんに『ハクが先』と言われたそうですが」
悠真の手が止まる。
「……何で知ってるの?」
「母から」
「母さん」
悠真が振り返る。
麗華は優雅に紅茶を飲んだ。
「あなたが昨日、正樹さんと話していたでしょう?」
「父さんにも話してないけど」
「では、廊下で聞こえたのかしら」
「九条家怖いな」
「兄様が大きな声で話しているのでは?」
「普通だったよ」
「兄様の普通は信用できません」
「水瀬さんに言われたら傷つくけど、琴葉なら別に」
「その差は何ですか」
「分からない」
悠真は笑いながらハクの頭を撫でた。
琴葉は呆れたように本へ戻りかけたが、そこで何かを思い出したらしい。
「そういえば兄様」
「今度は何?」
「彩花さんから連絡がありました」
悠真の顔が上がる。
「琴葉に?」
「はい」
「いつ?」
「先ほど」
「連絡先交換したの?」
「昨日」
「聞いてない」
「報告する義務はありません」
「それはそうだけど」
悠真は少しだけ驚いた。
琴葉と彩花。
二人の間に、自分を通さない連絡手段ができた。
以前なら、もう少し複雑なことを考えたかもしれない。
今は、最初に出てきたのは単純な感想だった。
「……よかったな」
琴葉が目を瞬く。
「何ですか、その反応」
「嬉しいんだろ?」
「はい」
「ならよかった」
「兄様、内容を聞かないのですか?」
「聞いていいの?」
「駄目です」
「じゃあ何で聞くと思ったんだよ」
「一応」
「聞かないよ」
悠真は再びハクへ目を向ける。
少しだけ気になる。
何を話したのか。
どういう流れで連絡先を交換したのか。
けれど、それは琴葉と彩花の間の出来事だ。
自分が知らなくてもいい。
「……でも一個だけ」
「何ですか?」
「水瀬さん、元気?」
琴葉の表情が柔らかくなる。
「元気ですよ」
「ならいい」
「明日会うのでしょう?」
「そうだけど」
「半日待てないのですか」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
琴葉は本を閉じた。
「それと、彩花さんのお宅へ、今度お邪魔するかもしれません」
「へえ」
「反応が薄いですね」
「前に話してただろ」
「正式に誘われたのは今日です」
「よかったじゃん」
「はい」
「水瀬先輩もいる?」
「分かりません」
「……頑張って」
「なぜ私が頑張るのですか」
「水瀬先輩の家だから」
「兄様ほど警戒されていません」
「それ昨日も言われた気がする」
琴葉が少し笑う。
悠真も笑った。
羨ましくないと言えば嘘になる。
彩花の家がどんな場所なのか、興味はある。
父親や母親とも、いつか会うことがあるのかもしれない。
けれど、それを急いで自分から取りに行く必要はない。
琴葉が先に水瀬家へ行く。
それでいい。
「楽しんでこいよ」
「はい」
「水瀬さんのお母さんにもちゃんと挨拶して」
「分かっています。兄様に言われるまでもありません」
「あと水瀬先輩に」
「それも分かっています」
「お菓子出ても食べすぎないで」
「兄様」
「何?」
「父親ですか?」
「違う」
「でしたら黙っていてください」
「はい」
麗華がまた笑う。
ハクがその声に反応して顔を上げた。
土曜日の午後は、そのまま穏やかに過ぎていった。
◇
日曜日。
午後一時五十六分。
青凪市立中央図書館へ着いた彩花は、自動扉を抜ける前に一度だけ空を見上げた。
昨日に続いて晴れている。
ただし先週より雲が多く、風もある。
入口脇の植え込みでは、雨を受けて伸びた紫陽花がまだ色を残していた。
館内へ入る。
冷房の涼しさに肩の力が抜ける。
彩花は鞄の中のスマートフォンを確認しなかった。
悠真から「行けない」という連絡は来ていない。
それなら、たぶん来る。
いつもの棚へ向かう。
曲がり角を一つ越える。
今日は制服ではない。
薄い色のシャツに黒いパンツ。
いつもの私服姿の悠真が、棚の前に立っていた。
彩花はなぜか少し安心した。
「九条君」
呼ぶ。
悠真が振り向いた。
「水瀬さん。こんにちは」
「こんにちは」
近づく。
先週と同じ場所。
同じくらいの時間。
けれど、先週とは少し違う。
悠真の学校での姿を一つ知った。
平日に何度かメッセージをした。
琴葉とは、昨日正式に連絡先を交換した。
文化祭の原稿も進んだ。
一週間の間に、話したいことがまた増えている。
「今日は私服だ」
彩花が言う。
悠真が笑った。
「先週見ただろ」
「見たから言ってるの」
「水瀬さんは今日も私服」
「日曜日だからね」
「青葉の制服は?」
「まだです」
「ハクは?」
「まだです」
「どっちが先?」
「まだハク」
「強いな」
「ずっと会いたいって言ってるから」
「知ってる」
悠真は苦笑し、それから彩花の手元へ視線を落とした。
「それ何?」
「あ」
彩花は持っていた小さな紙袋を上げる。
「布」
「布?」
「栞の」
悠真が少し目を見開いた。
「もう?」
「作るわけじゃないよ。家に余ってるの持ってきただけ」
袋から、生成りと深緑の小さな端切れを出す。
「実際見た方が選びやすいでしょう?」
悠真は二枚の布を見たあと、彩花を見る。
「……覚えてたんだ」
「九条君が楽しみって言ったから」
言ってから、彩花は少しだけ首を傾げた。
悠真が黙ったからだ。
「何?」
「いや」
「また固まった」
「ちょっとだけ」
「不意打ち?」
「……それ」
「便利だから」
「最近水瀬さん強くない?」
「何が?」
「いろいろ」
「知らない」
彩花は笑い、二枚の布を悠真へ差し出した。
「どっちがいい?」
悠真はしばらく迷ってから、生成りの方へ指を触れた。
「こっち」
「やっぱり?」
「水瀬さんも初心者向きって言ってたし」
「うん。縫い目見やすいよ」
「失敗も?」
「よく見える」
「そこだけ不安」
「大丈夫。ちゃんと教えるから」
彩花はごく自然にそう言った。
悠真の指が、布の端で止まる。
それから、静かに笑った。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
まだ作る日は決めない。
今日は材料を見るだけ。
それでいい。
「そうだ」
悠真が布を返しながら言う。
「琴葉から聞いた」
「何を?」
「連絡先交換したって」
「ああ」
彩花はスマートフォンの入った鞄へ目を向ける。
「昨日したよ」
「よかったな」
「うん」
「水瀬さんから聞いた?」
「どっちからだったかな」
思い返す。
裁縫の話をしている途中で、次に会う予定を決めるなら直接連絡できた方が便利だという話になった。
どちらが最初に言ったのか、もう曖昧だった。
「自然にそうなった」
「そっか」
「九条君のときも、最後はそんな感じだったね」
「俺たちは一回断られてるけど」
「断ったんじゃないよ」
「分かってる」
「今のままがよかっただけ」
「うん」
悠真の返事は穏やかだった。
そこに不満はない。
彩花も安心して続ける。
「でも、今は交換してよかったと思ってる」
「俺も」
「琴葉さんとも」
「うん」
「昨日、お母さんにうちへ呼んでもいいって言われたから、それも話した」
「琴葉、嬉しそうだった」
「本当?」
「うん」
「よかった」
彩花の表情が明るくなる。
「今度、うちで裁縫するかも」
「聞いた」
「九条君は来ないよ」
「知ってるよ」
「お姉ちゃんが心配してた」
「…………」
悠真の顔が止まる。
彩花は吹き出した。
「やっぱり怖い?」
「怖いっていうか」
「怖いんでしょう?」
「……少し」
「大丈夫だよ」
「水瀬さんはそう言うけど」
「最近は九条君のこと結構信用してると思う」
「本当に?」
悠真が思った以上に真剣な顔になる。
「多分」
「多分か」
「お姉ちゃん本人じゃないから断言できないけど」
「そっか」
「でも前より全然違うよ」
「なら、よかった」
その言葉には、軽い冗談ではない安堵があった。
彩花は少しだけ不思議に思う。
「九条君、お姉ちゃんに信用されたいの?」
「されたいよ」
「何で?」
悠真は少し考えた。
以前にも似たことを湊へ話したことがある。
答えは変わっていない。
「水瀬さんが大事にしてる人だから」
彩花の呼吸が、一瞬だけ止まった。
「……そういうの」
「何?」
「急に言うよね」
「変だった?」
「変じゃないけど」
彩花は手にした紙袋の口を整える。
「不意打ち」
「それ俺の言葉」
「便利だから」
同じやり取り。
なのに、さっきより少しだけ声が小さくなった。
悠真はそれ以上何も言わない。
彩花も続きを求めない。
近くの棚では、小学生くらいの女の子が母親と本を選んでいる。窓の外では雲がゆっくり流れ、午後の日差しが床へ細長く落ちていた。
「本、見る?」
悠真が言う。
「うん」
二人は並んで棚へ向かった。
いつもの日曜日が始まる。
ただし、以前と全く同じではない。
それぞれの学校がある。
家族がいる。
友達がいる。
一人で過ごす時間もある。
その全部を相手へ見せるわけではない。
それでも、知らなかったものを一つ知るたびに、次に話したいことが少し増える。
彩花は棚から一冊の本を抜き、隣の悠真を見る。
「九条君」
「何?」
「文化祭の原稿、結構進んだよ」
「本当?」
「うん」
「どんな話になった?」
「まだ秘密」
「前も秘密って言ってなかった?」
「完成するまで」
「読ませてもらえる?」
やはり、その質問が来た。
大地に言われてから、何度か考えた。
悠真に読ませる。
自分が最近感じたことが混ざった物語を。
恥ずかしい。
今でもそう思う。
けれど。
「……完成したら」
彩花は答えた。
「いいの?」
「うん」
「読みたい」
「感想、厳しくしないでね」
「ちゃんと読むよ」
「それが一番怖いんだけど」
「じゃあ適当に読む?」
「それは嫌」
「どっち?」
「ちゃんと読んで、優しく言って」
「難しい注文だな」
「お願いします」
「分かりました」
悠真が笑う。
彩花も笑った。
まだ完成していない。
渡すのは先になる。
それでも、一つだけ新しい約束が増えた。
栞を作ること。
古本市へ行くこと。
文化祭の原稿を読んでもらうこと。
どれも今日すぐには起こらない。
だからこそ、今はそれでいい。
彩花は手にした本を開いた。
悠真も隣の棚へ視線を向ける。
静かな図書館の午後。
いつもの場所。
いつもの二人。
けれど一週間分だけ、互いの知らなかった時間を持ってここへ来ている。
その一週間を少しずつ交換するように、二人の会話は今日もゆっくり続いていった。




