第21話 いつもと違う日曜日
日曜日の午後一時五十二分。
青凪市立中央図書館の自動扉を抜けた水瀬彩花は、冷房の効いた館内へ入ったところで足を緩めた。
外は朝からよく晴れていた。梅雨の中休みらしく日差しは強く、家から二十分ほど歩いてきただけでも首筋にうっすら汗が浮かんでいる。入口近くの傘立てには数本しか傘がなく、窓から差し込む光も先週よりずっと明るかった。
彩花は鞄からハンカチを取り出して額を軽く押さえ、それからスマートフォンを確認する。
悠真からの連絡はまだない。
先週、彼は「来週の日曜、午前中だけ学校がある」と言っていた。生徒会の仕事で、昼には終わると思うが、遅くなるようなら連絡すると話していた。
今のところ何も届いていない。
(じゃあ、来られるのかな)
そう思いながらスマートフォンをしまい、いつもの棚へ向かう。
連絡先を交換する前なら、悠真が来るかどうかは実際に姿を見るまで分からなかった。今は、来られなくなれば連絡があるだろうという安心がある。
だから、先に本を見ていればいい。
そう思っていた。
「あ」
棚の角を曲がったところで、彩花の足が止まった。
悠真は、もう来ていた。
ただし、いつもの悠真ではない。
白い半袖のシャツ。
胸元には桜華学園の校章。
きちんとした濃紺のスラックスに、学校指定らしい黒い鞄。
日曜日の図書館で何度も会ってきた私服姿とは違い、そこにいたのは明らかに「私立桜華学園高等部の生徒」としての九条悠真だった。
本人は棚の前で一冊の本を開き、特に気にした様子もなく目次を確認している。
彩花は数秒、その場から動かなかった。
(……制服)
当たり前だ。
高校生なのだから制服くらい着る。
自分だって平日は青葉高校の制服で過ごしている。
それなのに、妙に新鮮だった。
これまで彩花が知っている悠真は、図書館で本を読んでいる人だった。
駅前の書店で会ったこともある。
カフェにも行った。
メッセージもするようになった。
けれど、桜華学園の制服を着ている悠真を見るのは初めてだった。
以前から興味はあった。
琴葉や玲奈は、学校にいる悠真は今より「隙がない」と言っていた。生徒会の仕事も真面目にしていて、後輩から頼られる姿を凛花も見ている。
その世界にいる悠真の一部が、制服一枚で急に目の前へ現れたような気がした。
「水瀬さん?」
悠真が顔を上げた。
目が合う。
「……こんにちは」
「こんにちは」
悠真は本を閉じながら首を傾げた。
「どうした?」
「え?」
「そこから動かないから」
「あ……」
彩花はようやく歩き出した。
悠真の前まで来る。
近くで見ると、ますます見慣れない。
「制服」
「うん」
「本当に桜華の制服着てる」
「本当にって何?」
「いや、桜華の生徒なのは知ってるんだけど」
「一応、毎日着てるよ」
「それも知ってる」
「じゃあ何でそんなに珍しそうなんだよ」
悠真が笑う。
彩花は改めて彼の姿を見た。
「だって、初めて見たから」
「ああ」
悠真もそこで納得したらしい。
「水瀬さん、俺が制服着てるところ見たことなかったか」
「ないよ。九条君は私の制服見たことある?」
「……ない」
「でしょう?」
「確かに」
悠真が自分のシャツを見下ろす。
「別に面白くないだろ」
「面白いとかじゃなくて」
何と言えばいいのだろう。
似合っている。
それは間違いない。
元々、姿勢がよく、きちんとした服装が似合う人だ。桜華学園の制服は派手ではないが、濃紺を基調とした端正な作りで、悠真が着ると妙に完成されて見える。
けれど、それをそのまま言うのは少し照れくさい。
「……ちゃんと学生なんだなって」
「水瀬さん、俺のこと何だと思ってたの?」
「図書館にいる人」
「ひどい」
「最初は本当にそうだったでしょう?」
「まあ、そうだけど」
彩花は笑った。
「でも、似合ってるよ」
結局、言った。
悠真が一瞬黙る。
「……ありがとう」
「何でちょっと固まったの?」
「急だったから」
「制服似合うくらい普通に言うでしょう?」
「水瀬さんから言われたことなかったし」
「初めて見たんだから当たり前だよ」
「それもそうか」
悠真はそう答えたが、耳の上がほんの少し赤い。
彩花はそれを見つけ、先週カフェで「不意打ち」と言われたことを思い出した。
「また不意打ち?」
「……最近それ覚えて使ってるだろ」
「便利だから」
「俺の言葉なのに」
「いい言葉だったから使ってる」
「琴葉にも同じことしてなかった?」
「してたかも」
「兄妹で使われてる」
悠真が困ったように笑う。
その顔は、制服姿なのにいつもの悠真だった。
それだけで彩花の中にあった妙な新鮮さが少し和らいだ。
「学校、終わったの?」
「十二時半くらいに」
「そのまま来た?」
「うん。着替えに帰ると遅くなるから」
「でも二時前だよ」
「昼食べてきたから」
「どこで?」
「学校の近く」
「一人?」
「湊と、生徒会の先輩二人」
「あ、榊原君」
「うん」
以前なら、湊の名前も「悠真の友人」として聞くだけだった。
今は一度会ったことがある。
少しずつ、悠真の学校側にいる人の顔も増えている。
「榊原君も今日学校だったの?」
「生徒会だから」
「そっか」
「終わったあと、『そのまま図書館行くの?』って聞かれた」
「知られてる」
「前から知られてるよ」
「……私が?」
「水瀬さんが、というか。日曜に図書館行ってることは」
「でも榊原君、私のこと知ってたよね」
「それは……」
悠真の視線がわずかに逸れる。
彩花は思い出した。
初めて湊と会ったとき、彼は彩花の名前を聞く前から「知ってる」と口にしてしまった。
「九条君が話してたから」
「……うん」
「何を?」
「またそれ聞く?」
「だって気になる」
「本の話とか」
「本だけ?」
「お菓子とか」
「他は?」
「……いろいろ」
「いろいろって便利だね」
「水瀬さんの『普通』くらい便利」
「最近あんまり言わなくなったよ」
「知ってる」
即座に返され、彩花は少しだけ目を丸くした。
悠真も気づいたらしい。
「何?」
「ううん。知ってるんだなって」
「そりゃ、話してるから」
「……そっか」
その言葉が思ったより嬉しくて、彩花は棚へ視線を移した。
自分が少し変わったこと。
それを悠真も見ていた。
わざわざ大げさに褒められるより、その事実の方が今は心地よかった。
◇
その日の図書館は、先週ほど混んでいなかった。
窓際の閲覧席にも空きがあり、二人はいつもの辺りへ並んで座った。
彩花は文芸部で参考にするため借りた短編集を開き、悠真は先ほど棚から選んだ海外小説を読み始める。大きな窓の外では街路樹の葉が風に揺れ、館内には空調の低い音と、ときどきページをめくる乾いた音だけが続いていた。
隣にいる悠真は、制服姿でも本を読み始めるといつもと変わらない。
ページを読む速さ。
気になったところで一度指を止める癖。
少しだけ眉を寄せて文章を読み返すところ。
彩花は自分の本へ視線を戻しながら、何度か横の気配を意識した。
(制服が違うだけなのに)
何となく、学校の教室にいる悠真を想像しやすい。
机に座っているところ。
生徒会室で資料を確認しているところ。
後輩に声をかけられているところ。
凛花が見たという、困っている一年生を助けていた姿。
「…………」
気づけば同じ一文を二回読んでいた。
彩花は小さく息を吐き、本へ集中し直す。
制服が珍しいだけだ。
それ以上ではない。
三十分ほど読んだところで、悠真が本を閉じた。
彩花も栞を挟む。
「休憩?」
「うん。水瀬さんは?」
「私も」
二人は声を抑えながら立ち上がり、閲覧席から少し離れた休憩スペースへ移った。
自動販売機の近くには親子連れが一組いて、小さな男の子が紙パックのジュースを両手で持っている。反対側の席には年配の男性が新聞を読んでいた。
彩花は水を買い、悠真は無糖の紅茶を選んだ。
「九条君、コーヒーじゃないんだ」
「毎回飲むわけじゃないよ」
「先週カフェで飲んでたから」
「学校でもたまに飲むけど」
「高校生なのに大人っぽい」
「水瀬さんは飲まない?」
「苦い」
「砂糖入れれば?」
「そこまでして飲みたいと思わない」
「それもそうか」
ベンチへ座る。
悠真の学校鞄が足元へ置かれた。
彩花はそこに付いている小さな校章を見た。
「桜華って、やっぱり鞄も指定なんだね」
「青葉は違う?」
「自由だよ。色とか大きさに決まりはあるけど」
「へえ」
「お姉ちゃんもそれ持ってる」
「同じ学校だからな」
「でも、お姉ちゃんのはもっと傷ついてる」
「剣道部だから?」
「多分。扱いが結構雑」
「水瀬先輩、意外だな」
「学校だと完璧に見える?」
「かなり」
「家だと普通だよ」
「料理以外?」
「料理の話はしないであげて」
「そこまで?」
「この前も卵焼きでフライパンと喧嘩してた」
「どうやって?」
「本人に聞いて」
悠真が声を殺して笑う。
休憩スペースなので大声は出せない。それでも肩が少し揺れている。
「何?」
「いや、水瀬先輩にも苦手なことあるんだなって」
「あるよ」
「水瀬さんは何が苦手?」
「え?」
不意に質問され、彩花はペットボトルの蓋を閉めながら考えた。
「運動」
「全般?」
「全般」
「体育は?」
「嫌いではないけど、得意じゃない」
「走るのは?」
「遅い」
「泳ぐのは?」
「普通」
言ってから、彩花は止まった。
悠真も気づいた。
「今言った」
「これは本当に普通なの」
「どのくらい?」
「二十五メートルは泳げる」
「それだけ?」
「五十も泳げるよ」
「じゃあ普通か」
「でしょう?」
「でも、何でも『普通』って言ってた頃とは違うな」
「……うん」
彩花は水のボトルへ視線を落とした。
「前は、得意じゃないものも、得意なものも、全部普通にしてた気がする」
「今は?」
「苦手なのは苦手。得意なのは……得意かもって」
「いいじゃん」
「うん」
以前なら、こういう話をするとき、必ず姉の姿が頭に浮かんだ。
凛花ならもっと速い。
凛花ならもっと上手い。
今も完全に消えたわけではない。
体育の成績を見れば、姉ならきっともっとよかったと思うこともある。
けれど、自分の得意を話すときまで、必ず凛花を隣へ置く必要はないのだと少しずつ分かってきた。
「九条君は?」
「何が?」
「苦手なこと」
「あるよ」
「何?」
悠真が考え込む。
「……裁縫」
「それはできないだけでしょう?」
「できないなら苦手じゃない?」
「やったことある?」
「小学校の家庭科」
「何作った?」
「巾着」
「できた?」
「一応」
「じゃあできるじゃん」
「琴葉の方が上手かった」
「琴葉さんと比べないの」
言ってから、彩花は自分で止まった。
悠真も一瞬黙る。
それから、ゆっくり笑った。
「……水瀬さんに言われるとは思わなかった」
「私も」
「でも、そうだな」
「うん」
「俺は俺か」
「そう」
口にした瞬間、胸の奥へ小さな温かさが広がった。
以前、悠真が何度も自分へ向けてくれた言葉だった。
姉は関係ない。
今、話しているのは水瀬彩花のことだ。
その考え方を、今度は自分が誰かへ向けている。
相手が悠真なのは少しおかしくて、彩花は笑った。
「何?」
「九条君に教えてもらったことを、九条君に言ってる」
「じゃあ返ってきた」
「そうかも」
「でも、俺は琴葉と比べて落ち込んでないよ」
「分かってるよ」
「ならいいけど」
「ただ、九条君も自分ができるかどうかで考えればいいでしょう?」
「……うん」
悠真は少しだけ考え、それから紅茶を一口飲んだ。
「じゃあ今度、本当に教えて」
「裁縫?」
「うん」
彩花は目を瞬く。
第20話の前後、メッセージで一度だけ似た話をした。
自分から「九条君も裁縫やってみる?」と聞いたこともある。
そのときは冗談に近い流れで終わった。
「やりたいの?」
「ちょっと」
「何作る?」
「いきなりそこから?」
「作りたいものないと教えにくいよ」
「水瀬さん、先生みたい」
「琴葉さんにも言われた」
「何なら初心者向き?」
「しおりとか」
「布の?」
「うん。ブックカバーより簡単」
「じゃあそれ」
「本当にやるの?」
「水瀬さんが嫌じゃなければ」
彩花は悠真の手を見る。
本を読む手。
長い指。
生徒会では書類を扱っているのだろう。
その手で針を持っている姿を想像すると、少し面白い。
「……九条君、指刺しそう」
「最初から信用ないな」
「琴葉さんは一回刺したよ」
「刺したの?」
「ほんのちょっと」
「言ってなかった」
「琴葉さんとの話だから」
「またそれ」
「秘密にしてって言われてないから、今言ったけど」
「じゃあ俺も刺したら琴葉に言われる?」
「多分」
「嫌だな」
「じゃあ刺さないように頑張って」
「教える側の責任は?」
「ありません」
「厳しい」
彩花は笑った。
「でも、本当にやるなら教えるよ」
「うん」
「いつかね」
「いつか」
具体的な日程は決めなかった。
今すぐ決める必要もない。
古本市もある。
琴葉とまた裁縫をする約束もある。
そのどこかで、自然に時間ができればいい。
以前なら「いつか」は何も決まっていない言葉だった。
今は少し違う。
連絡先がある。
来週も会えるかもしれない。
予定を合わせようと思えば合わせられる。
だから「いつか」は、前より少し現実に近かった。
◇
午後三時を回った頃、二人は再び閲覧席へ戻った。
彩花は短編集の続きを読み、悠真は海外小説へ戻る。
窓の外を流れていた雲が少し増え、先ほどまで強かった日差しが柔らかくなっていた。館内の利用者も少しずつ入れ替わり、近くの席には大学生らしい女性がノートパソコンを開いている。
彩花は一つの短編を読み終え、巻末の解説まで目を通した。
悪くない。
文化祭の作品へ直接使えるわけではないが、人物同士の距離を会話だけでなく行動の変化で見せているところが参考になる。
ノートへ短くメモをする。
『相手のために何かする、ではなく、相手がいる前提で行動が変わる。』
書いてから、少し考える。
例えば。
日曜日の午後二時。
図書館へ行けば、悠真がいるかもしれないと思う。
来られないなら連絡があると思う。
面白い本を見つければ、あとで話せると思う。
何かを作れば、見せようと思う。
それは「悠真のために」一日を過ごしているわけではない。
自分の日常の中に、話す相手として彼がいる。
(こういうことかな)
文化祭の短編にも使えそうだった。
ただ、そのまま書くと自分と悠真に近くなりすぎる。
彩花は別の形を考えながら、ノートの端へ小さく丸を付けた。
隣から紙の擦れる音がする。
悠真がページをめくった。
制服の袖から見える腕。
机の横に置かれた桜華の鞄。
やはり、いつもと少し違う。
彩花は自分の本へ視線を戻そうとして、ふと気づいた。
(学校では、こういう感じなのかな)
もちろん授業中に小説を読んでいるわけではないだろう。
それでも、机へ向かっている姿は少し想像しやすい。
「水瀬さん」
突然小声で呼ばれ、彩花は肩を揺らした。
「な、何?」
「さっきから同じページじゃない?」
「…………」
見られていた。
「考え事」
「原稿?」
「うん」
「邪魔した?」
「してないよ」
「ならいいけど」
悠真はそれ以上聞かず、本へ戻った。
彩花は少しだけ頬を押さえた。
自分が制服姿を見て学校の悠真を想像していたことは、言わなくていい。
嘘はついていない。
原稿のことも考えていた。
(……何で隠したんだろ)
別に知られて困る内容でもない。
けれど、「制服見てた」と言うのは少し恥ずかしい。
彩花は一度だけ息を整え、今度こそ本へ集中した。
◇
午後四時前。
二人は本を片づけ、図書館を出た。
外へ出ると、昼間の暑さは少しだけ和らいでいた。雲が増えたおかげで直射日光は弱くなっているが、舗装された歩道にはまだ熱が残っている。
「今日、カフェ行かなくてよかったね」
彩花が言う。
「席空いてたからな」
「先週は結局二時間くらいいたけど」
「図書館より話してた」
「古本市のこと決めたから」
「それ三十分くらいだったけど」
「残りは?」
「いろいろ」
「先週も同じ話したね」
「した」
二人は笑いながら駅の方向へ歩く。
少し進んだところで、悠真のスマートフォンが震えた。
「ごめん」
「うん」
悠真が画面を見る。
「琴葉?」
「何で?」
「何となく」
「母さん」
「麗華さん?」
「迎えいるかって」
「ああ」
悠真は短く返信する。
「迎え来るの?」
「頼めば来ると思うけど、今日は電車で帰る」
「いいの?」
「水瀬さんと駅まで行くし」
あまりに自然に言われ、彩花は一歩だけ遅れた。
悠真が気づいて振り返る。
「どうした?」
「……ううん」
「暑い?」
「違う」
彩花は追いつく。
「九条君って、そういうの普通に言うよね」
「何が?」
「今みたいなの」
「駅まで行くって?」
「うん」
「だって行くし」
「そうなんだけど」
説明しづらい。
悠真は事実をそのまま言っただけだ。
彩花と駅まで歩くから、迎えはいらない。
それだけ。
なのに、九条家の迎えより自分と歩く方を選んだように聞こえて、少しだけ落ち着かなくなった。
「嫌だった?」
「違うよ」
彩花はすぐに否定する。
「嫌じゃない」
「ならいいけど」
「……九条君、本当にそういうところある」
「何?」
「分かってないならいい」
「気になるんだけど」
「教えない」
「何で?」
「私も説明できないから」
悠真は納得していない顔をしている。
それでも追及はしなかった。
彩花も自分の中で答えを探さない。
今はまだ、そういうことが時々ある。
悠真の言葉に少しだけ引っかかる。
嫌ではない。
むしろ嬉しい。
でも、なぜ嬉しいのかを細かく考えようとすると、うまく言葉にならない。
分からないなら、そのままでいい。
最近はそう思えるようになった。
◇
駅へ向かう途中、二人は商店街の入口で立ち止まった。
小さな文具店の店頭に、夏向けの便箋や栞が並べられている。
「あ」
彩花が足を止める。
「どうした?」
「これ」
手に取ったのは、透明な袋に入った細長い布製の栞だった。
生成りの布に、小さな青い花の刺繍が入っている。
「さっき話してたやつに近い」
「布の栞?」
「うん。これなら初心者でも作れると思う」
悠真も横から見る。
「縫うところ少ない?」
「ブックカバーよりは。二枚合わせて縫って、上に紐つけるくらい」
「刺繍は?」
「最初から欲張らない方がいい」
「先生厳しい」
「まず完成させるのが大事です」
「琴葉にもそう言った?」
「琴葉さんは最初からブックカバー作るって決めてたから」
「俺は栞」
「九条君は初心者だから」
「琴葉も初心者だっただろ」
「琴葉さんは器用だったよ」
「また比べられた」
「あ」
彩花は口を押さえた。
悠真が笑う。
「今度は水瀬さんが比べた」
「ごめん」
「別に傷ついてないけど」
「じゃあ九条君もブックカバーにする?」
「……栞でお願いします」
「ほら」
「完成しない方が嫌だから」
「それでいいと思う」
店頭の商品を元へ戻す。
「材料は?」
悠真が聞いた。
「家に結構あるよ」
「使っていいの?」
「栞一個分くらいなら」
「でも水瀬さんのだろ」
「余ってる布もあるし」
「じゃあ糸とか必要なものは俺が買う」
「そんなに使わないよ」
「それでも」
悠真の声が少し真面目になる。
「教えてもらうのに、全部水瀬さんに出してもらうのは違うだろ」
「……九条君らしいね」
「そう?」
「うん」
彩花は少し考える。
「じゃあ、作るときに一緒に選ぶ?」
「材料?」
「そう。色とか自分で選んだ方が楽しいよ」
「分かった」
「まだ日も決めてないけどね」
「うん」
「古本市のあとでもいいし」
「急がないよ」
その返事に、彩花は少し安心した。
何か新しい約束ができても、すぐ次の日程を埋める必要はない。
会いたいから毎日会う。
話したいから一日中連絡する。
そんな関係ではない。
日曜日の図書館。
来月の古本市。
いつかの裁縫。
一つずつでいい。
「そのうちね」
彩花が言う。
「そのうち」
悠真も同じ言葉を返した。
◇
青凪駅へ着くと、休日の夕方らしく改札前は人が多かった。
部活動帰りらしい中学生の集団が通り過ぎ、買い物帰りの家族が券売機の前で立ち止まっている。構内の冷房が外から入った身体には心地よく、彩花は少しだけ息をついた。
「水瀬さん」
「うん?」
「電車、何分?」
「えっと……」
時刻表を見る。
「八分後」
「俺は十一分」
「じゃあ私の方が先だ」
「うん」
二人は改札近くの邪魔にならない場所へ移動した。
そこで彩花は、もう一度悠真の制服姿を見る。
「何?」
「やっぱり見慣れない」
「まだ?」
「うん」
「今日ずっと着てたけど」
「図書館にいる九条君は私服のイメージだから」
「じゃあ水瀬さんが制服で図書館来たら、俺も変な感じするかな」
「するんじゃない?」
「見てみたい」
悠真が何気なく言った。
「青葉の制服」
「…………」
「何?」
「いや」
自分がさっき悠真へ言ったことと同じだ。
制服を見てみたい。
学校にいる姿を知りたい。
それだけなのに、今度は自分が言われる側になると少し恥ずかしい。
「今度、部活帰りに来れば見られるかも」
「来るの?」
「分からない」
「じゃあ待たないでおく」
「待たれたら困るよ」
「連絡してくれたら?」
「制服見せるためだけに?」
「それはちょっと変だな」
「でしょう?」
二人で笑う。
そのとき、改札の向こうから数人の女子高校生が歩いてきた。
桜華学園の制服だった。
彩花は凛花や琴葉が着ているので見慣れている。
三人組のうち一人が、こちらへ視線を向けた。
次の瞬間、その子の歩く速さがわずかに落ちる。
「……九条君?」
小さな声だった。
悠真も気づいた。
「あ」
三人のうち二人は彩花の知らない顔だったが、一人だけは見覚えがある。
「一条さん」
玲奈だった。
私服で会ったときも背が高く目立っていたが、桜華の制服姿ではさらに中性的な雰囲気が強い。短めの髪と端正な顔立ちのせいか、近くを歩いていた女子が一度振り返るほどだった。
「水瀬さん」
玲奈の表情が明るくなる。
「こんにちは。久しぶり」
「こんにちは」
玲奈と一緒にいた二人の女子が、彩花と悠真を交互に見る。
「一条さん、知り合い?」
一人が尋ねた。
「うん。琴葉の友達」
玲奈はそれだけ答えた。
悠真の友達ではなく、琴葉の友達。
彩花はその紹介を聞いて、少しだけ嬉しくなる。
自分と琴葉の関係が、悠真を通さないものとして玲奈にも認識されている。
「今日は学校だったんですか?」
彩花が尋ねる。
「私は部活。九条は生徒会でしょう?」
「うん」
「終わってから図書館?」
「そう」
玲奈は一度悠真を見て、それから彩花を見る。
口元が少しだけ笑った。
「何?」
悠真が警戒する。
「何も言ってないけど」
「その顔、絶対何かあるだろ」
「九条、最近顔読むようになったね」
「周りが顔に出すから」
「自分も出てるよ」
「玲奈までそれ言う?」
「みんな言うなら本当なんじゃない?」
隣にいた女子たちが小さく笑う。
悠真は少しだけ眉を寄せた。
彩花もつられて笑ってしまう。
「水瀬さんまで」
「ごめん」
「絶対ごめんと思ってない」
「ちょっとは」
「ちょっとなんだ」
そのやり取りを見ていた玲奈の友人の一人が、少し驚いたように悠真を見る。
「九条君って、そういう話し方するんだ」
その言葉に、彩花が反応した。
「やっぱり?」
「え?」
「学校だと違うんですか?」
聞いてから、初対面の相手へ急に質問してしまったことに気づく。
「あ、ごめんなさい」
「全然」
女子は笑った。
「違うっていうか、もっと……ちゃんとしてる感じ?」
「今もちゃんとしてるよ」
悠真が抗議する。
「そういう意味じゃなくて」
もう一人も会話へ入る。
「生徒会の九条君って、もっと固いよね」
「固いって何?」
「仕事してるとき」
「それは仕事だからだろ」
「ほら、今みたいに『何?』とかあんまり言わないし」
「普通に言うけど」
「私たちには敬語のときあるじゃん」
「学年違ったら敬語使うだろ」
「私同じ学年」
「……そうだった」
「ひどい」
周囲に小さな笑いが起こる。
彩花はその会話を聞きながら、少しだけ目を丸くしていた。
琴葉。
玲奈。
凛花。
湊。
みんなが言っていた。
学校での悠真は、図書館にいるときより隙がない。
今、その一端を別の生徒からも聞いている。
「水瀬さん」
玲奈が彩花を見る。
「何?」
「九条、図書館だと結構しゃべるでしょう?」
「うん」
「やっぱり」
「玲奈」
「いいじゃん。悪いこと言ってない」
玲奈は楽しそうだ。
「学校でも話すけど、こんなに柔らかくないよ」
「柔らかい?」
「うん。表情とか」
彩花は思わず悠真を見る。
悠真もこちらを見た。
「……何?」
「いや」
「玲奈の言うこと全部信じなくていいから」
「でも琴葉さんも似たようなこと言ってた」
「琴葉まで」
「榊原君も言ってなかった?」
「湊まで?」
「九条、包囲されてるね」
玲奈が笑う。
そのとき、ホームへ向かう電車の案内放送が流れた。
彩花が時計を見る。
「あ、私そろそろ行かないと」
「本当だ」
悠真も時刻を確認する。
「じゃあ、水瀬さん。また」
「うん。またね」
玲奈にも頭を下げる。
「一条さんも、また」
「うん。また会おうね」
玲奈の友人たちにも軽く会釈し、彩花は改札へ向かった。
交通系カードをかざし、ゲートを抜ける。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
悠真は玲奈たちと何か話していた。
学校の制服を着た四人。
その中にいる悠真は、やはり自分が普段見ている姿とは少し違って見える。
けれど。
彩花に気づいた悠真が、小さく手を上げた。
その瞬間だけは、いつもの九条君だった。
彩花も手を振り返し、今度こそホームへ向かった。
◇
「……で?」
彩花の姿が見えなくなったあと、玲奈が悠真を見る。
「何?」
「図書館」
「何が?」
「毎週あんな感じ?」
「どんな感じだよ」
「普通に楽しそう」
「楽しいよ」
悠真は特に迷わず答えた。
玲奈が一瞬黙る。
一緒にいた女子二人も、少しだけ視線を交わした。
「何?」
「いや」
玲奈が笑う。
「前なら、そこでもう少し変な間があった気がする」
「琴葉にも似たこと言われる」
「改善したんだ」
「何で昔の俺がそんなに面倒な扱いなんだよ」
「自覚ないんだ」
「ない」
悠真は肩をすくめた。
「それより玲奈、部活だったの?」
「うん。助っ人」
「また?」
「頼まれたから」
玲奈は運動部から臨時の助っ人を頼まれることが多い。今日はバスケットボール部だったらしく、制服に着替えているものの、大きなスポーツバッグを肩に掛けていた。
「琴葉は?」
「今日は家じゃない?」
「水瀬さんと何かしてないよな」
「昨日会ったばっかりでしょう」
「そうだけど」
「気になる?」
「別に」
「ちょっと?」
「……ちょっと」
「素直」
玲奈が笑う。
「でも聞かないんでしょう?」
「琴葉と水瀬さんの話だから」
「それでいいと思う」
玲奈は少しだけ声を柔らかくした。
「琴葉、楽しそうだよ」
「水瀬さんと?」
「うん。新しい友達って、琴葉には珍しいから」
「俺もそう思う」
「九条がきっかけでも、今はもう琴葉の友達だね」
「うん」
悠真は迷わず頷いた。
そのことに寂しさが全くないわけではない。
けれど、前にも考えた通り、それ以上に嬉しい。
彩花の世界に琴葉がいる。
琴葉の世界にも彩花がいる。
自分が間へ入り続けなくても、二人の関係が続いていく。
それでいい。
「九条」
「何?」
「電車来るよ」
「あ」
「彩花さん見送って、自分の忘れてた?」
「忘れてない」
「本当?」
「……ちょっと忘れてた」
玲奈が声を上げて笑った。
「一条さん、笑いすぎ」
一緒にいた女子が言う。
「だって九条が」
「もういいから」
悠真は時刻表を確認し、玲奈たちへ手を上げる。
「じゃあ俺も行く」
「うん。また明日」
「また」
改札を抜けながら、悠真は少しだけ笑った。
学校の友人と彩花が同じ場所にいる。
以前なら、それだけで妙に落ち着かなかったかもしれない。
今日は違った。
少し恥ずかしくはある。
でも、嫌ではない。
自分が学校で過ごしている時間と、彩花と図書館で過ごす時間。
これまで別々だった二つが、少しだけ触れた。
そのくらいの変化だった。
◇
夜七時過ぎ。
水瀬家の食卓には、紗月が作った鶏肉の照り焼きと冷ややっこ、わかめと豆腐の味噌汁が並んでいた。
耕助はテレビのニュースを見ながら箸を動かし、凛花は明日の小テストについて母に聞かれ、「別に大丈夫」と短く答えている。
彩花は味噌汁を一口飲んだところで、凛花へ視線を向けた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「今日、九条君の制服初めて見た」
凛花の箸が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「そう」
「今日、生徒会で学校だったんだって」
「日曜なのに?」
「うん。午前中だけ」
「それで図書館に?」
「そのまま来た」
耕助がテレビから顔を上げる。
「九条君?」
「……友達」
彩花が答える。
「前に言ってた図書館の?」
紗月が先に思い出した。
「うん」
「ああ、本の話する子か」
耕助も納得したように頷いた。
彩花は少しだけ目を丸くする。
「覚えてたの?」
「そりゃ覚えてるよ」
「そうなんだ」
「男の子だろ?」
「うん」
「桜華なのか」
「そうだよ」
耕助はそれ以上何も言わず、また照り焼きを食べ始めた。
紗月も特に追及しない。
「桜華の制服って凛花と同じ?」
「男子だから違うよ、お母さん」
「そりゃそうか」
「校章とか色は同じだけど」
「似合ってた?」
紗月の問いに、彩花は何も考えず答えた。
「似合ってたよ」
凛花がこちらを見る。
「何?」
「別に」
「お姉ちゃん、その『別に』絶対何かあるでしょう」
「ないわよ」
「今見た」
「見ただけ」
紗月が娘二人を見比べ、少し笑った。
「彩花、友達増えたね」
「え?」
「最近、別の学校の子の話よくするでしょう。九条君とか、琴葉ちゃんとか」
「あ……うん」
「いいことじゃない」
その言葉は、とても普通だった。
九条家だから。
桜華だから。
御曹司だから。
そんな話は一つもない。
ただ、友達が増えた。
母にとっては、それだけなのだろう。
「うん」
彩花は小さく笑った。
「琴葉さんとは昨日も会ったよ」
「裁縫教えた子?」
「そう」
「楽しかった?」
「うん。すごく」
「じゃあ今度うちにも呼べば?」
「え?」
彩花だけでなく、凛花も顔を上げた。
紗月は冷ややっこへ薬味を乗せながら、ごく普通の調子で続ける。
「一緒に裁縫するなら、外より家の方が道具あるでしょう?」
「……そうだけど」
「部屋片づければ?」
「お母さん」
「何?」
「急だよ」
「今度って言っただけよ」
「でも」
彩花は少し考える。
琴葉を家へ呼ぶ。
九条琴葉。
あの九条家の娘を、水瀬家へ。
言葉だけにすると急に大きなことに思える。
けれど、昨日一緒に裁縫をしていた相手として考えれば、それほど不自然でもない。
「琴葉さんが嫌じゃなければ……いいのかな」
「友達なんでしょう?」
「うん」
「なら聞いてみれば?」
「……うん」
彩花はまだ少し戸惑いながら頷いた。
凛花は黙って味噌汁を飲んでいる。
その横顔はいつも通りだったが、内心では別のことを考えていた。
(琴葉さんが来る)
それ自体は問題ない。
むしろ歓迎したい。
彩花が自分の友達を家へ呼ぶことも嬉しい。
ただし。
(九条君までついてくるとかはないわよね)
そこだけは確認が必要かもしれない。
けれど、口には出さなかった。
琴葉と彩花の約束へ、悠真が勝手についてくるような性格ではないことも、今の凛花は知っている。
「お姉ちゃん」
「何?」
「今、九条君のこと考えた?」
凛花の箸が止まった。
「考えてない」
「絶対考えた」
「どうして?」
「顔」
「……最近みんな顔で分かりすぎじゃない?」
彩花が吹き出した。
「九条君も今日同じこと言ってた」
「何で?」
「一条さんたちに言われてたから」
「玲奈さん?」
「うん。駅で会った」
凛花はそこで少しだけ興味を示した。
「玲奈さんもいたの?」
「桜華の友達と一緒だった。九条君、学校だともっと固いって言われてたよ」
「それはそうでしょうね」
「お姉ちゃんもそう思う?」
「生徒会で何度か見てるけど、図書館で彩花と話してるときよりは固いと思う」
「やっぱり」
「……何で嬉しそうなの?」
「え?」
凛花に言われ、彩花は自分の顔へ手を当てた。
「嬉しそう?」
「少し」
「何でだろ」
「知らないわよ」
「お姉ちゃんが言ったんでしょう?」
「私は顔を見ただけ」
凛花はそう言って食事へ戻った。
彩花も少し考えたあと、照り焼きを口へ運ぶ。
学校では少し違う。
図書館では柔らかい。
自分と話しているときの悠真を、学校の人たちは少し珍しいと思う。
そのことが、なぜか嬉しい。
理由はよく分からなかった。
けれど今夜も、無理に答えを探すことはしなかった。
◇
自室へ戻ったあと、彩花は机の上に文化祭用の原稿を広げた。
今日は少しだけ続きを書くつもりだった。
けれど、シャープペンシルを持つ前にスマートフォンが震える。
悠真だった。
『今日は制服のこと見すぎ。』
「…………」
彩花は思わず笑った。
『気づいてたの?』
『途中から。』
『言ってよ。』
『言ったら見なくなると思った。』
指が止まる。
「何それ」
小さく呟く。
『見られたかったの?』
送る。
既読がつく。
少し間があった。
『嫌ではなかった。』
彩花は画面を見たまま、頬が少し熱くなるのを感じた。
何と返せばいいのだろう。
悠真は最近、こういうところで以前ほど逃げない。
嬉しいなら嬉しい。
嫌ではないなら嫌ではない。
それをそのまま言う。
彩花の方が困ることが増えた気がする。
『桜華の制服、珍しかっただけだよ。』
送る。
すぐに返ってくる。
『似合ってるって言ってた。』
『言ったよ。』
『ありがとう。』
『どういたしまして。』
これで終わると思った。
ところが、もう一つ届いた。
『水瀬さんの制服も、そのうち見てみたい。』
「…………」
駅でも言われた。
彩花は自分の部屋のハンガーへ掛かっている青葉高校の制服を見る。
毎日着ている。
自分にとっては何も珍しくない。
けれど、悠真にとってはまだ知らない自分の一部なのだろう。
『そのうちね。』
送る。
『ハクと同じ。』
「え?」
意味を理解して笑う。
悠真がハクについて何度も使ってきた言葉だ。
いつか。
そのうち。
機会があれば。
『じゃあ九条君も待ってて。』
『ハクに会うのとどっちが先?』
『ハク。』
送信してから一秒も経たないうちに既読がついた。
『即答。』
『だってハクにはずっと会いたいって言ってるから。』
『俺の制服より?』
『九条君の制服は今日見たでしょう。』
『そうだった。』
『何と競ってるの?』
少しして。
『分からない。』
彩花は声を出して笑った。
その笑い声が廊下まで聞こえたのか、扉の外を通りかかった凛花の足音が一瞬止まった。
けれど、ノックはない。
そのまま遠ざかっていく。
彩花は気づかず、もう一通打つ。
『今日、一条さんたちに会えてちょっと面白かった。』
『俺は恥ずかしかった。』
『学校の九条君、もっと見たくなった。』
送ってから、少しだけ迷う。
消すには遅い。
既読がついた。
返事はすぐには来なかった。
十秒。
二十秒。
(変だったかな)
ただ学校での姿を見たいという意味だ。
以前から言っている。
それなのに、返信を待つ間だけ妙に落ち着かない。
やがて画面が震えた。
『じゃあ、いつか見られる機会あるといいな。』
彩花はほっとした。
『うん。』
それだけ返す。
悠真も具体的な機会を作ろうとはしなかった。
学校へ来て。
生徒会を見に来て。
そんな話にはならない。
まだそのくらいでいい。
今日、制服姿を見た。
学校の友人といるところを少し見た。
それだけで、今まで知らなかった悠真が一つ増えた。
彩花はスマートフォンを机へ置き、原稿へ視線を戻す。
少し考えてから、一文を書き足した。
『同じ人でも、場所が変われば少し違う顔をする。その違いを知るたびに、前よりその人を知った気がした。』
読み返す。
今度は消さなかった。
◇
同じ頃。
九条家では、悠真が自室の椅子へ座ったまま、彩花とのやり取りを終えたところだった。
『学校の九条君、もっと見たくなった。』
その文章が少しだけ頭に残っている。
嬉しい。
理由は難しくない。
彩花が、自分の知らない部分にも興味を持っている。
それが嬉しい。
以前なら、そこから何か意味を探したかもしれない。
今は探さない。
悠真はスマートフォンを伏せ、机の上の本を開こうとした。
そのとき、扉が二度ノックされた。
「兄様」
「どうぞ」
琴葉が入ってくる。
手には、見覚えのあるブックカバーがあった。
「それ、また持ってるの?」
「使うために作ったのですから当然です」
「いや、昨日からずっと見せてくるから」
「兄様が見ているだけでしょう」
「見えるところに持ってくるからだろ」
琴葉は気にせず、机の上に一冊の文庫本を置いた。
彩花と一緒に作ったブックカバーがぴったり収まっている。
「どうですか?」
「似合ってる」
「本にですか?」
「琴葉に」
琴葉が少しだけ目を丸くした。
「……ありがとうございます」
「何で急に素直なんだよ」
「兄様が珍しく普通に褒めたので」
「俺、普段どんな兄だと思われてるの?」
「彩花さんのことになると少し面倒な兄です」
「最近はまともって言ってただろ」
「以前よりは」
「基準低くない?」
琴葉は小さく笑った。
「それより兄様」
「何?」
「母から聞きました。今日、制服のまま図書館へ行ったそうですね」
「母さん何で知ってるの?」
「迎えが必要か連絡したと」
「ああ」
「彩花さん、何か言っていましたか?」
「何で?」
「初めて見たのでしょう?」
「……似合ってるって」
琴葉が黙る。
「何?」
「いえ」
「絶対何かあるだろ」
「兄様、嬉しかったですか?」
「嬉しかったよ」
悠真は普通に答えた。
琴葉は一瞬だけ瞬きをして、それから小さく頷いた。
「最近、本当に素直ですね」
「その方が楽だから」
「それはよいことです」
「琴葉に言われると腹立つな」
「なぜですか」
「上からだから」
「気のせいです」
「それ俺が使ってたやつ」
「便利ですので」
今度は悠真が笑った。
「そういえば、水瀬さんの家に行くの?」
琴葉の表情がわずかに変わる。
「なぜご存じなのですか?」
「知らないけど」
「では、なぜ?」
「何となく。裁縫するなら家とかになるのかなって」
「……まだ決まっていません」
「そっか」
「彩花さんから誘われたら行きたいとは思っています」
「うん」
「兄様」
「何?」
「ついてこないでくださいね」
「行かないよ」
即答すると、琴葉が少し意外そうにする。
「何?」
「いえ。以前の兄様なら『ハクの写真持っていけば?』などと何か理由を作りそうだと思いまして」
「そんなことしない」
「本当に?」
「水瀬さんの家だろ」
悠真は少しだけ真面目になる。
「琴葉が友達として呼ばれたなら、俺が勝手についていくのは違う」
「……そうですね」
「俺が行くことがあるなら、水瀬さんから呼ばれたときでいい」
言ってから、自分で少しだけ想像する。
彩花の家。
父親。
母親。
そして凛花。
「…………」
「兄様?」
「やっぱり水瀬先輩が怖い」
琴葉が吹き出した。
「そこですか?」
「絶対いるだろ」
「ご実家なのですから、いる可能性はあります」
「まだ先でいい」
「賢明ですね」
「琴葉はいいよな」
「私は彩花さんの友達ですので」
「俺も友達なんだけど」
「姉の警戒対象ではありません」
「ずるい」
「日頃の行いです」
「俺、何もしてないだろ」
「彩花さんへ『可愛い』とは言ったそうですね」
「……水瀬先輩から聞いた?」
「母からです」
「何で母さんまで知ってるんだよ」
「兄様」
琴葉は静かな目で兄を見る。
「九条家に秘密が残ると思わない方がよいかと」
「怖いこと言うなよ」
悠真は額を押さえた。
琴葉は満足そうに自分のブックカバーを持ち上げる。
「では、私は戻ります」
「それ見せに来ただけ?」
「はい」
「昨日も見た」
「今日は本を入れた状態です」
「違いが細かい」
「大事です」
扉へ向かいかけた琴葉が、ふと振り返る。
「兄様」
「何?」
「彩花さんに裁縫を教わるのでしたら、最初は本当に簡単なものにしてください」
「聞いてたの?」
「廊下で母から少し」
「何で全部筒抜けなんだよ」
「兄様が分かりやすいからでは?」
「関係ないだろ」
琴葉は笑いを残して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
悠真はしばらくそれを見たあと、机の上の市販の黒いブックカバーへ目を落とした。
いつか。
彩花に裁縫を教わる。
その予定も少しずつ形になり始めている。
けれど急ぐ必要はない。
来月には古本市がある。
来週には、また図書館で会えるかもしれない。
その間にも学校があり、生徒会があり、家族との時間がある。
彩花にも青葉高校と文芸部と水瀬家の日常がある。
今日、その二つの日常が駅でほんの少しだけ重なった。
それだけで十分だった。
◇
翌朝。
県立青葉高校の教室へ入った彩花は、鞄を机へ置いたところで大地に声をかけられた。
「水瀬、おはよ」
「おはよう」
「今日暑くない?」
「暑い」
「もう夏じゃん」
「まだ梅雨だよ」
「俺の中では夏」
「田辺君の中の天気とか季節、本当に信用できないね」
「傘の件まだ引っ張る?」
「六百五十円」
「何で値段まで覚えてんの?」
その言葉に、彩花は一瞬だけ止まった。
悠真も覚えていた。
マドレーヌ三個。
傘六百五十円。
「……数字だから」
彩花が答える。
「何その理由」
「九条君が言ってた」
「九条?」
「うん」
大地は少し考え、それから「ああ」と声を上げた。
「図書館の友達」
「そう」
「最近普通に名前出るよな」
「え?」
「前は『他校の人』とか『図書館で会う人』だったじゃん」
彩花の手が止まる。
大地は深い意味なく言ったらしく、自分の席へ鞄を置きながら続ける。
「友達になったんだっけ?」
「うん」
「なら普通か」
「……うん」
大地はそれで話を終え、隣の男子へ昨日のテレビ番組の話を始めた。
彩花は自分の席へ座る。
窓から朝の光が差し込み、机の上に四角い影を作っている。教室では部活動の朝練を終えた生徒たちが水筒を飲み、前方では女子二人が提出課題を確認していた。
(最近普通に名前出る、か)
自分では気づいていなかった。
以前は、悠真のことをどう説明すればいいのか分からなかった。
図書館で会う人。
本の話ができる人。
他校の人。
今は違う。
九条君。
友達。
それで説明できる。
だから会話の中にも普通に出てくる。
昨日、制服姿を見たこと。
学校では少し違うらしいこと。
裁縫を教える話。
来月の古本市。
話せることは、以前よりずっと増えている。
「水瀬」
「何?」
大地が再び振り返る。
「今日文芸部?」
「うん」
「文化祭のやつ進んでる?」
「少しずつ」
「完成したら読ませて」
「部誌に載ったらね」
「先に」
「駄目」
「何で?」
「まだ直すから」
「厳しい」
「普通です」
言ってから、彩花は笑った。
「あ」
「何?」
「今の普通はいいの」
「何の話?」
「こっちの話」
大地は分からないまま首を傾げる。
彩花は教科書を机へ出した。
窓の外には、青葉高校の校庭が広がっている。
自分が毎日過ごす場所。
悠真の知らない自分がいる場所。
昨日までは「九条君の学校での姿を見たい」とばかり考えていた。
けれど、逆も同じなのだ。
悠真も、自分の制服を見たことがない。
文芸部で原稿を書いている姿も知らない。
大地や部員たちと話している日常も、ほとんど知らない。
それぞれに、まだ知らない時間がある。
全部を一度に見せる必要はない。
知らない部分があるからこそ、これから知っていける。
彩花はそんなことを考えながら、ホームルームの準備を始めた。
机の中へスマートフォンをしまう前に、一度だけ画面を見る。
悠真から新しい連絡はない。
自分も今は送らない。
昨日は十分に話した。
今日は今日の学校生活がある。
それでいい。
それでも、桜華学園の制服を着た悠真の姿は、昨日まで自分が知っていた「九条君」の中へ、もう自然に加わっていた。
図書館にいる九条君。
メッセージをする九条君。
琴葉の兄である九条君。
生徒会で働く九条君。
まだ見たことのない顔も、きっとたくさんある。
そしてたぶん、悠真から見た自分も同じなのだろう。
友達になったから全部を知ったのではない。
友達になったからこそ、知らないものが前より目に入るようになった。
始業を知らせるチャイムが鳴る。
彩花はスマートフォンをしまい、前を向いた。
次の日曜日に何を話すのかは、まだ決めていない。
決めなくても、きっと何かが増えている。
そう思えることが、今は少しだけ楽しみだった。




