第20話 待ち合わせの理由
日曜日の午後一時四十七分。
水瀬彩花は、青凪市立中央図書館へ向かう歩道を歩きながら、鞄の中でスマートフォンが震えたことに気づいた。
梅雨の合間とは思えないほど空は明るく、雲の切れ間から差し込む日差しが濡れた街路樹の葉を照らしている。昨日まで残っていた水滴はほとんど乾いていたが、風にはまだ湿気があり、日陰から出ると少しだけ蒸し暑かった。
彩花は人の流れを避けて歩道の端へ寄り、スマートフォンを取り出す。
表示されていた名前は、もう見慣れ始めている。
『九条悠真』
開くと、短い文章が一つだけ届いていた。
『着いた。いつもの棚の近くにいる。』
「……早い」
思わず声が漏れる。
時計を見る。
一時四十八分。
昨日の夜、二人は「二時くらい」と話した。
だから遅いわけではない。
むしろ悠真の方が早すぎる。
『私もあと五分くらいで着くよ。』
送信する。
すぐに既読がついた。
『分かった。ゆっくりでいいよ。』
「…………」
彩花は画面を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
以前なら、図書館へ着いて初めて悠真がいるかどうかを確認していた。
姿を見つければ嬉しい。
見つからなければ、少し待つ。
それも嫌いではなかった。
けれど今日は、図書館へ着く前から悠真がいると分かっている。
待っている人がいる。
ただそれだけなのに、歩く足がほんの少し軽くなった。
(でも、ゆっくりでいいって言われたし)
だから急ぐ必要はない。
彩花は走らなかった。
いつもの速さで歩く。
それでも図書館の建物が見えてくると、自然に入口へ視線が向いた。
◇
「こんにちは」
いつもの棚へ向かうと、悠真は一冊の本を手にしていた。
今日は白いシャツに黒いパンツという簡単な服装で、学校での姿をまだ見たことがない彩花にとっては、こちらの方がすっかり見慣れた九条悠真だった。
声をかけると、悠真がすぐに顔を上げる。
「こんにちは、水瀬さん」
「早かったね」
「水瀬さんも」
「私は二時くらい」
「俺も二時くらい」
「一時四十分台は二時くらいなの?」
「十分ちょっとなら誤差じゃない?」
「九条君、待ち合わせだと絶対早く来るタイプでしょう」
「……何で分かった?」
「やっぱり」
彩花は笑った。
「学校でも?」
「生徒会ならもっと早い」
「何分?」
「内容によるけど、準備あるなら三十分くらい」
「早い」
「遅れるよりいいだろ」
「それはそうだけど」
悠真は手にしていた本を棚へ戻した。
「水瀬さんは?」
「私は五分前くらい」
「今日十分以上前だったけど」
「九条君がもう着いたって送ってきたから」
「急いだ?」
「急いでないよ」
「ならよかった」
その返しがあまりに自然で、彩花は一瞬だけ悠真を見る。
「何?」
「ううん」
何でもない。
以前から悠真はこういう人だった。
自分が待っていたことより、彩花が急いだかどうかを気にする。
そういうところを何度も見てきた。
だから今さら驚くことではない。
けれど、知っている部分が増えるたびに「九条君らしい」と思えることが、少し嬉しかった。
「そうだ」
悠真が声を落とす。
「昨日、琴葉どうだった?」
「その聞き方、昨日もしたよ」
「昨日は完成したか聞いただけ」
「ちゃんと楽しかったって送ったでしょう?」
「送ってた」
「じゃあ何が聞きたいの?」
「……別に、何でも」
彩花は悠真の顔を見る。
少しだけ迷っている。
昨日、琴葉から言われたことを思い出した。
『明日、今日のことを全部聞かないでくださいね』
たぶん、悠真も同じようなことを言われたのだろう。
「琴葉さん、すごく真面目だったよ」
「それは想像できる」
「縫い目、一個ずつ確認してた」
「やりそう」
「糸が絡まったとき、すごい顔してた」
「見たかった」
「でも、自分でほどいたよ」
「水瀬さんがやったんじゃなくて?」
「うん。できそうだったから」
彩花は昨日の作業を思い出しながら話す。
「私が全部やったら琴葉さんが作ったことにならないし。困ったら手伝うけど、できそうなら自分でやってもらった方がいいかなって」
「……水瀬さん」
「何?」
「先生みたい」
「え?」
「ちゃんと教えてる」
「そうかな」
「うん」
また否定しそうになり、彩花は止めた。
「……結構、教えるのも楽しかったよ」
「そっか」
「琴葉さん、次も何か作りたいって」
「昨日ずっとブックカバー見てた」
「本当?」
「母さんにも見せてたし、俺にも見せてきた」
「可愛い」
「琴葉が?」
「うん」
悠真が一瞬黙る。
「何?」
「いや。琴葉に言ったら喜びそうだなって」
「じゃあ言っておいて」
「自分で言えば?」
「あ」
彩花は少し目を丸くした。
そうだった。
琴葉とはもう直接連絡できる。
悠真を通す必要はない。
「そうする」
「うん」
悠真も笑う。
ほんの数週間前までなら、琴葉について何か伝えるなら悠真を通すしかなかった。
今は違う。
彩花と琴葉の間には、二人だけの道がある。
そのことを悠真も当然のように受け入れている。
「九条君」
「何?」
「昨日、琴葉さんと友達になれてよかったって送ったでしょう?」
「うん」
「九条君が嬉しいって言ってくれたのも、ちょっと嬉しかった」
「……そっか」
「うん」
彩花は近くの棚へ視線を移す。
「九条君がきっかけだったけど、今は琴葉さんと普通に友達になれたから」
「俺も、それが嬉しい」
悠真の声は静かだった。
「琴葉、学校の外で新しく友達作ることってあんまりないから」
「そうなの?」
「ずっと桜華だから。昔から知ってる人が多いし」
「ああ」
「玲奈も小さい頃から一緒だし」
「じゃあ、私ちょっと珍しい?」
「かなり」
「何か緊張してきた」
「何で今?」
「大事にしないとって」
「もう大事にしてるだろ」
さらりと言われ、彩花は目を瞬いた。
「……そうかな」
「昨日一日付き合って、裁縫教えて、次の約束までしてるなら十分じゃない?」
「それもそうか」
「うん」
悠真はそこで話を終えた。
大げさに褒めるでもなく、彩花の不安を否定するでもない。
ただ、すでにできていることをそのまま言う。
その話し方にも、彩花は慣れてきた。
◇
二人でしばらく新刊棚を見たあと、彩花は文芸部で読むための本を探し、悠真は前回勧められた作家の別作品を手に取った。
途中で何度か小声で感想を交わし、それぞれ一冊ずつ選ぶ。
そこまでは、いつもの日曜日とあまり変わらなかった。
変化があったのは、閲覧席へ向かったときだった。
「あ」
彩花が小さく声を上げる。
いつも使う窓際の席が、ほとんど埋まっていた。
試験前なのか、高校生らしい利用者が多い。二人並んで座れそうな場所は見当たらず、少し離れた席なら一つずつ空いている程度だった。
「混んでるね」
「珍しいな」
「どうする?」
以前なら、それぞれ空いた席へ座って本を読んだかもしれない。
図書館なのだから、それでも何も困らない。
悠真は空席を確認してから言った。
「別々に座る?」
「うーん……」
彩花は少し考える。
本を読むだけなら、それでいい。
でも今日は、昨日の琴葉の話もしたい。
それから。
「古本市のこと、決めたかった」
「俺も思ってた」
「じゃあ、ここだと話しにくいね」
「そうだな」
二人は顔を見合わせた。
少しの沈黙。
先に口を開いたのは彩花だった。
「外、行く?」
「外?」
「近くにカフェあったでしょう?」
「ああ」
「そこで少し話す?」
言ってから、彩花は自分で少しだけ驚いた。
以前なら、図書館で席が空いていなければ、それで終わっていたかもしれない。
悠真と会う場所は図書館。
最初はそれだけだった。
けれど今は、駅前の書店でも会った。
雨の日には途中まで一緒に歩いた。
古本市へ行く約束もある。
図書館の外で話すことに、以前ほど特別な感じがしない。
「いいの?」
「うん」
「じゃあ行こうか」
悠真も必要以上に驚かなかった。
それがかえって彩花には楽だった。
「借りてから?」
「うん」
二人は貸出カウンターへ向かった。
◇
図書館から歩いて三分ほどのところに、小さなカフェがある。
彩花も店の前を通ったことは何度もあったが、入るのは初めてだった。
木製の扉を開けると、冷房の涼しい空気と一緒にコーヒーの香りが流れてくる。店内には二人掛けの席がいくつかあり、窓際では本を読んでいる客もいた。
「ここでいい?」
「うん」
二人は奥の席へ案内された。
彩花はアイスティー。
悠真はアイスコーヒー。
注文を終えると、彩花は鞄からスマートフォンを取り出した。
「古本市」
「うん」
「来月の第二土曜日でしょう?」
「そう」
「何時からだっけ」
「十時」
「九条君、絶対九時半にいるよね」
「何で?」
「今日一時四十分台にいたから」
「今日は図書館だから」
「関係ある?」
「……ないかも」
彩花が笑う。
「じゃあ十時?」
「開場から見る?」
「私はいいよ」
「俺も」
「じゃあ十時に……どこ?」
会場は市民ホール前広場。
二人とも場所は知っているが、入口はいくつかある。
「正面入口の時計のところは?」
「分かる」
「じゃあそこ」
「十時?」
悠真が確認する。
彩花は少し考えた。
「九時五十五分」
「細かいな」
「九条君が早く来すぎないように」
「五分で何が変わるんだよ」
「十時って言ったら九時半に来そう」
「来ない」
「九時四十五分?」
「……そのくらい」
「ほら」
「水瀬さんも五分前に来るだろ」
「私は九時五十分くらい」
「十分前じゃん」
「五分前の予定で早く着くの」
「同じじゃない?」
「九条君ほどじゃない」
どちらからともなく笑った。
そのタイミングで飲み物が運ばれてくる。
彩花はアイスティーのグラスを自分の前へ寄せ、スマートフォンの予定表へ入力した。
『古本市 10:00 市民ホール正面時計前』
打ってから、少しだけ指が止まる。
ただの予定だ。
けれど、文字にすると妙に形がある。
「入れた?」
「うん」
「俺も」
悠真もスマートフォンを操作している。
「……九条君」
「何?」
「予定の名前、何にした?」
「古本市」
「同じだ」
「他に何があるんだよ」
「分からないけど」
「水瀬さんは?」
「古本市」
「同じじゃん」
「だから言ったでしょう」
彩花は笑いながらアイスティーを飲んだ。
少しだけ冷たい。
外が蒸し暑かった分、喉に心地よかった。
「何軒くらい見る?」
悠真が聞く。
「三十店くらい出るんだよね」
「去年はそのくらいだったらしい」
「全部見たい」
「全部?」
「せっかくだし」
「結構時間かかるぞ」
「九条君、途中で疲れる?」
「俺は大丈夫」
「じゃあ全部」
「昼は?」
「……考えてなかった」
「朝から夕方まであるし、途中で食べる?」
「うん」
「近くで?」
「会場に何か出るかな」
「調べる?」
二人でイベント案内のページを見る。
軽食販売あり。
近隣店舗の出店も予定。
「何かありそう」
「じゃあ、そのとき決めようか」
「うん」
そこまで話して、彩花はふと気づいた。
朝から古本を見て。
途中で一緒に昼食を食べて。
また古本を見る。
思っていたより長い。
「……一日だね」
「何が?」
「古本市」
「うん」
「最初、ちょっと一緒に見るくらいかと思ってた」
「俺も」
「全部見るってなると、結構長いね」
「嫌?」
悠真の問いは短かった。
声色も変わらない。
ただ、決めつけずに確認している。
彩花は自分の気持ちを確かめる。
長い。
朝から午後まで。
二人で。
それを想像する。
「……嫌じゃないよ」
答えは自然に出た。
「むしろ楽しみ」
悠真が一瞬だけ黙る。
前にも似たことを言った。
そのときも耳が少し赤くなっていた。
今日も、ほんの少しだけ同じだった。
「九条君?」
「うん」
「また不意打ち?」
「……覚えてるんだ」
「この前言ってたから」
「そう」
悠真はアイスコーヒーを一口飲む。
「俺も楽しみ」
「うん」
「一日でも」
彩花はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「じゃあ決まり」
「決まり」
それだけだった。
恋人ではない。
デートと呼ぶつもりもない。
友達同士で、二人とも好きな古本を見に行く。
ただ、その時間が一日近くになることを、二人とも嫌だと思わなかった。
◇
古本市の話が一段落すると、会話は自然に別のものへ移った。
学校。
文芸部。
生徒会。
昨日の琴葉。
それから、彩花が文化祭へ向けて書いている短編。
「まだ完成してないけど」
「どんな話?」
「それは秘密」
「何で?」
「完成する前に話すと書けなくなりそうだから」
「そういうもの?」
「私はね」
「じゃあ聞かない」
「……すぐ引くね」
「秘密って言われたのに聞いたら嫌だろ」
「そうだけど」
彩花はストローを指先で少し動かした。
「でも、ちょっとだけなら話してもいい」
「どっち?」
「聞いてほしくないところは秘密」
「難しいな」
「頑張って」
「俺が?」
「うん」
悠真が少し笑う。
「じゃあ、話していいところだけ」
「友達になる話」
「友達?」
「最初は知らない人で、少しずつ話すようになって、友達になるの」
「へえ」
「でも、友達になったところで終わらない」
彩花は話しながら、自分の中でも整理していく。
「友達って名前がついたあとも、その人のこと知っていくでしょう?」
「うん」
「会ってないときに、これ話そうって思ったり。前に言ってたこと思い出したり。連絡したり」
そこまで言って、彩花は止まった。
悠真も気づいたらしい。
「……俺たちみたい?」
「ちょっと参考にはなってるかも」
「ちょっと?」
「全部じゃないよ」
「田辺君の傘とか?」
「それは書いてない」
「六百五十円」
「何でまだ覚えてるの?」
「数字だから」
「絶対違うと思う」
二人で笑う。
彩花は少ししてから、真面目な声へ戻した。
「でも、九条君と友達になってから分かったことはあるよ」
「何?」
「友達になったら完成じゃないんだなって」
悠真は黙って聞いている。
「名前を知ったときもそうだったし、友達って呼ぶようになったときもそうだった。何か一個変わったら、それで終わりじゃなくて、そのあとも変わるんだなって」
「……うん」
「琴葉さんともそう」
昨日の時間を思い出す。
「友達になったから昨日会ったんだけど、昨日会ったから前より琴葉さんのこと知った」
「どんなこと?」
「秘密」
「俺の妹なのに?」
「琴葉さんとの話だから」
「それ言われると何も言えない」
「九条君が最初に言ったんでしょう?」
「そうだけど」
悠真は困ったように笑った。
「返ってきた」
「いい言葉だったから使ってる」
「ならいいけど」
彩花は少しだけ考える。
「九条君のことも、まだ知らないこと多いし」
「俺?」
「うん」
「何知りたい?」
「それを聞かれると困る」
「水瀬さんが言ったんだろ」
「そうだけど」
彩花は視線を泳がせる。
何を知りたい。
学校での悠真。
生徒会での悠真。
家族といるとき。
ハクといるとき。
好きな本。
苦手なもの。
食べ物。
子どもの頃。
考え始めると、意外といくつも浮かんだ。
「……結構あるかも」
「そんなに?」
「九条君、学校だと今よりしっかりしてるんでしょう?」
「今もしっかりしてるけど」
「琴葉さんと玲奈さんは、学校だともっと隙がないって言ってた」
「何話してるんだよ」
「九条君の話」
「俺が知らないところで?」
「友達だから」
「便利だな、その言葉」
「九条君も使うでしょう?」
「使う」
悠真は少しだけ考えた。
「水瀬さんも学校だと違う?」
「どうだろ」
「文芸部のときとか」
「そんなに変わらないと思う」
「見たことないから分からない」
「私も九条君の生徒会見たことないよ」
「見たい?」
「前にも言ったけど、見たい」
「何か恥ずかしいな」
「何で?」
「水瀬さんに仕事してるところ見られるの」
「九条君でもそういうのあるんだ」
「あるよ」
「完璧な御曹司なのに?」
「やめて」
悠真が本気で嫌そうな顔をした。
彩花は吹き出した。
「ごめん」
「絶対面白がってる」
「ちょっと」
「水瀬さん、最初より俺に遠慮なくなったよな」
言われて、彩花は止まった。
「……そう?」
「うん」
「嫌?」
「何で?」
「だって遠慮ないって」
「嬉しいけど」
即答だった。
彩花は悠真を見る。
悠真は少しだけ照れたように視線をグラスへ落としたが、言い直さなかった。
「最初は、俺が何言っても『すみません』とか『大丈夫です』って感じだったから」
「そんなだった?」
「傘のときも、すごい気にしてた」
「あれは九条君が濡れてたから」
「今なら?」
「もっと真ん中入ってって言う」
「それは助かる」
「九条君、肩濡れてたもん」
「覚えてた?」
「覚えてるよ」
悠真が少し笑う。
「じゃあ、お互い変なところ覚えてる」
「私のは変じゃない」
「俺のマドレーヌも変じゃない」
「それは変」
「何で?」
「何週間言うの?」
「今日言い出したの水瀬さんだろ」
「……本当だ」
気づいて、二人で笑った。
最初の頃にはなかった会話だった。
相手の言葉へ少し強く返す。
冗談を言う。
からかう。
それで嫌われないと、どこかで分かっている。
彩花はその変化を、わざわざ言葉にしなかった。
ただ、居心地がよかった。
◇
カフェを出たのは、午後四時を少し回った頃だった。
「……結構いたね」
店の外へ出てから、彩花が時計を見る。
「二時間近い」
「そんなに?」
「古本市の話、三十分くらいで終わったのに」
「残り何話してた?」
「いろいろ」
「覚えてないな」
「私も」
話題はいくつも変わった。
どれも大きな話ではない。
それなのに、気づけば時間が過ぎていた。
図書館へ戻るには少し遅い。
借りたい本はすでに借りている。
「帰る?」
悠真が聞く。
「うん」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
午後の日差しは少し弱まり、建物の影が歩道へ長く伸びている。図書館の前では、自転車を押した親子が横断歩道を渡っていた。
しばらく歩いたところで、彩花が足を止めた。
「あ」
「どうした?」
「見て」
道路脇の植え込み。
白い紫陽花がまとまって咲いている。
雨続きだった数日前より花が大きく開き、まだ残った水滴が光を反射していた。
「綺麗」
「本当だ」
彩花は少し近づく。
青や紫の紫陽花はよく見るが、白だけが並んでいるのは珍しい。
「写真撮ろう」
スマートフォンを取り出す。
角度を変えながら二枚。
三枚。
「九条君、そこちょっと」
「え?」
「影入ってる」
「ごめん」
悠真が一歩下がる。
「そこ」
「ここ?」
「うん」
もう一枚。
「撮れた?」
「撮れた」
彩花は画面を確認する。
白い花。
緑の葉。
背景には少しだけ図書館の建物。
「いい感じ」
「見せて」
「うん」
悠真が隣から画面を覗く。
距離が近くなった。
肩が触れるほどではない。
けれど、いつもより少し近い。
彩花は特に気にせず写真を見せる。
「これが一番いいかな」
「俺は二枚目」
「何で?」
「こっちの方が花多い」
「でも光はこっちの方が綺麗じゃない?」
「本当だ」
二人で画面を見比べる。
そのとき、後ろから自転車が近づく音がした。
「危ない」
悠真が先に気づき、彩花の腕へ軽く手を添えて歩道の端へ寄せた。
「あ」
自転車が二人の横を通り過ぎる。
乗っていた男性が軽く頭を下げ、そのまま遠ざかっていった。
「ごめん」
悠真はすぐに手を離した。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
彩花も自転車が遠ざかる方を見る。
驚いた。
でも、それだけだった。
腕に触れられたことより、自転車へ気づかなかった自分の方が気になる。
「写真見すぎた」
「俺も」
「歩道で止まるとき気をつけないとね」
「うん」
悠真もそれ以上気にした様子はなかった。
二人はもう一度歩き始める。
少しして、彩花がスマートフォンを見た。
「九条君」
「何?」
「写真、送る?」
「欲しい」
「じゃあ送る」
以前なら、写真を渡すだけでも次に会うまで待つしかなかった。
今はその場で送れる。
数秒後、悠真のスマートフォンが震えた。
「来た」
「どれ送ったと思う?」
「水瀬さんが一番いいって言ったやつ」
「正解」
「二枚目も欲しい」
「九条君が好きって言った方?」
「うん」
「じゃあそれも」
もう一枚送る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。
それだけのことが、妙に自然だった。
◇
駅へ着くと、次の電車まで十二分ほどあった。
二人は改札近くの壁際で待つことにした。
休日の夕方で人は多く、買い物袋を持った家族や学生たちが行き交っている。構内放送が流れ、遠くから電車の到着を知らせる音が聞こえた。
「そういえば」
悠真が言う。
「来週の日曜、俺、午前中だけ学校ある」
「また?」
「今度は生徒会」
「忙しいね」
「昼には終わると思う」
「図書館は?」
彩花は自然に聞いた。
悠真も自然に答える。
「行けると思う。でも、遅くなるなら連絡する」
「うん」
そこで会話は終わる。
以前のように、来なかったらどうしようと考えなくていい。
連絡できる。
そのことがすっかり二人の間へ馴染み始めていた。
「水瀬さんは?」
「私はたぶん大丈夫」
「じゃあ、また二時くらい?」
「うん。来られたら」
「来られたら」
決まりきった約束ではない。
行かなければならないものでもない。
けれど、互いに行くつもりでいる。
その曖昧さが、今の二人にはちょうどよかった。
「電車来る」
彩花がホーム側を見る。
「うん」
「じゃあ」
「また来週」
「……あ」
彩花が少し止まる。
「何?」
「今、連絡先あるから」
「うん」
「『また来週』って言っても、来週まで話さないとは限らないんだね」
悠真も一瞬だけ目を丸くした。
「確かに」
「前は、本当に次の日曜までだったでしょう?」
「そうだった」
「何か変な感じ」
「じゃあ何て言う?」
「……またね?」
「普通だな」
「友達だから普通でいいでしょう?」
「そうだけど」
彩花は笑う。
「じゃあ、またね。九条君」
「うん。また、水瀬さん」
彩花は改札を通る。
数歩進んだところで一度振り返った。
悠真はまだそこにいた。
視線が合う。
彩花は小さく手を振った。
悠真も手を上げる。
それから今度こそホームへ向かった。
◇
夜。
夕食と入浴を終えた彩花は、自室の机で文芸部の原稿を開いていた。
文化祭へ出す短編。
少しずつ形になってきている。
知らない二人が出会う。
何度か話す。
相手を知る。
友達になる。
けれど、そこで終わらない。
彩花は前に書いた一文を読み返す。
『会っていない時間にも、話したいことは少しずつ増えていく。』
消さずに残していた。
今なら、もう少し先を書ける気がした。
シャープペンシルを持つ。
『友達になった日から、何かが完成したわけではなかった。むしろ、名前をつけたあとから知ることの方が多かった。』
書く。
少し考える。
『前より遠慮なく笑えること。知らなかった顔があること。相手にも、自分の知らない時間があること。』
そこで止まる。
「……うん」
悪くない。
今日、悠真と話したことをそのまま書いているわけではない。
でも、経験したから分かることはある。
琴葉とのこともそうだ。
友達になってから知った。
可愛い猫のボタンが好きなこと。
裁縫では思った以上に慎重なこと。
完成したものを何度も眺めるくらい嬉しかったこと。
悠真も同じだ。
友達と呼ぶようになってから、以前より遠慮なく話せるようになった。
少しくらいからかっても大丈夫だと思える。
連絡したいときには連絡できる。
日曜日以外の悠真を、少しずつ知っていく。
「……友達になってからの方が長いもんね」
当たり前のことだった。
けれど、今までの彩花は「友達になる」という線を妙に意識していた。
線を越えれば何かが決まるような気がしていた。
実際は違う。
線の向こうにも道は続いている。
彩花は続きを書こうとして、スマートフォンの通知に気づいた。
悠真から。
『今日の紫陽花、母さんにも見せた。』
彩花は写真を思い出す。
『何て言ってた?』
『綺麗って。誰が撮ったのって聞かれた。』
『九条君が撮ったって言った?』
少しして。
『何で俺の手柄にするんだよ。』
彩花は笑った。
『ちゃんと水瀬さんって言った。』
『麗華さん、私のこと知ってるんだよね。』
『かなり。』
「…………」
琴葉と同じ返答だった。
『琴葉さんは「多少」って言ってたよ。』
『嘘だな。』
『やっぱり?』
『うん。』
彩花は少し怖くなってくる。
『私、何を知られてるの?』
今度は少し間が空いた。
『本が好き。料理とお菓子作りする。裁縫得意。ハクに会いたがってる。』
そこまでならいい。
続けて。
『俺と図書館で会ってる。』
「…………」
『それくらい?』
『たぶん。』
『たぶん?』
『琴葉が何話してるかまでは知らない。』
彩花はベッドの上にいるわけでもないのに、何となく枕へ顔を埋めたくなった。
九条家。
まだ行ったこともない場所。
そこにいる人たちが、自分のことを知っている。
嫌ではない。
ただ、恥ずかしい。
『今度麗華さんに会ったら緊張する。』
送る。
悠真からはすぐに返ってきた。
『母さんは水瀬さんに会ったら喜ぶと思う。』
『それが緊張するの。』
『何で?』
『九条君には分からないよ。』
『分からない。』
素直だった。
彩花は笑う。
『九条家ってだけで緊張する。』
送信してから、少しだけ考えた。
前なら、もっと強くそう思っていた。
九条。
御曹司。
自分とは違う世界。
けれど今は、琴葉を知っている。
悠真を知っている。
麗華がどんな人なのか、少しだけ話も聞いている。
名前だけだった「九条家」に、少しずつ人の顔が増えている。
『でも前よりは大丈夫かも。』
追加で送った。
『琴葉さんのこと知ったから。』
少しして。
『俺もいるけど。』
「…………」
彩花は画面を見た。
『九条君は九条君でしょう?』
送る。
返信が少し遅れる。
『それ、前にも言われた。』
『うん。今も同じ。』
九条家の人だから悠真と話しているわけではない。
御曹司だから毎週会っているわけでもない。
最初は名前すら知らなかった。
ただ、同じ一冊へ手を伸ばした。
本の話をした。
それが始まりだった。
『だから九条君がいても、九条家はちょっと緊張する。』
『俺、役に立たない?』
『少しは。』
『少しなんだ。』
『ハクがいたらもっと。』
送った瞬間、彩花は笑ってしまった。
既読。
数秒。
『やっぱりハクに負けてる。』
『競争してたの?』
『してない。』
『琴葉さんに言おう。』
『やめて。』
『どうしようかな。』
『水瀬さん、最近本当に遠慮なくなった。』
今日、カフェでも言われた。
彩花は画面を見ながら考える。
嫌だとは言われなかった。
むしろ嬉しいと言っていた。
『嫌ならやめるよ。』
念のため送る。
返事はすぐだった。
『嫌じゃない。』
続けて。
『今の方が話しやすい。』
彩花の指が少し止まる。
胸の奥が温かくなった。
恋だとは思わない。
そんな言葉を探す必要もない。
ただ、自分も同じだった。
『私も。』
送る。
それ以上、何かを足す必要はなかった。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いた『私も。』をしばらく見ていた。
短い二文字。
それだけなのに、妙に嬉しい。
以前の自分なら、その理由を考え始めていただろう。
どうして嬉しいのか。
何を意味するのか。
彩花にとって自分は何なのか。
けれど今は、そこまで考えなくても分かることがある。
(話しやすいって思ってくれてるんだ)
それで十分だった。
最初の頃の彩花は、何かあるたびに謝った。
遠慮した。
自分のことを「普通」と言った。
今は、からかってくる。
琴葉と二人で遊ぶ。
裁縫が得意だと少しずつ言えるようになった。
自分からカフェへ行こうと誘う。
古本市を一日一緒に回ることを「楽しみ」と言う。
どれも、悠真が与えた変化だとは思わない。
彩花自身が選んでいる。
その変化を近くで見られることが、嬉しい。
机の上には、今日借りた本が置かれていた。
その横には、市販の黒いブックカバー。
昨日から少し気になっている。
(裁縫、か)
いつか教えてもらう。
急ぐ必要はない。
琴葉との時間へ割り込む必要もない。
次に自然な機会があれば、そのときでいい。
スマートフォンがもう一度震えた。
『原稿戻るね。』
彩花からだった。
悠真は笑う。
『うん。頑張って。』
送る。
『ありがとう。またね。』
『また。』
そこで終わった。
無理に続けない。
終わったからといって、次の日曜日まで何もないわけでもない。
話したいことができたら、また話せる。
悠真はスマートフォンを伏せ、借りた本を開いた。
◇
その頃、彩花もスマートフォンを机の端へ置いていた。
原稿へ戻る。
さっき書いた文章の続き。
『友達になった日から、何かが完成したわけではなかった。むしろ、名前をつけたあとから知ることの方が多かった。』
その下へ、もう一文を足す。
『近づくということは、同じ場所にずっといることではない。それぞれの日常を持ったまま、少しずつ相手のいる場所が増えていくことなのかもしれない。』
彩花は読み返した。
少し難しい。
高校一年生の短編としては、考えすぎている気もする。
けれど、今の自分が書きたいものには近かった。
悠真には悠真の学校がある。
生徒会がある。
家族がいる。
ハクがいる。
琴葉には琴葉の生活がある。
凛花にも。
大地にも。
文芸部の友人にも。
自分にも。
全部を共有する必要はない。
それぞれ別の時間を過ごしながら、ときどき交わる。
その交わる場所が、以前より少し増えた。
図書館。
メッセージ。
古本市の予定。
琴葉との土曜日。
そして今日、初めて二人で入った図書館近くのカフェ。
彩花はそこで、ふと手を止めた。
「……あれ?」
今日のことを順番に思い返す。
図書館で会った。
本を選んだ。
席がなかった。
自分からカフェへ誘った。
二時間近く話した。
古本市の待ち合わせを決めた。
紫陽花を撮った。
駅まで一緒に歩いた。
「…………」
改めて並べると、ずいぶん一緒にいた。
友達。
もちろん友達だ。
でも。
文芸部の友人と二人で休日に二時間カフェへ行くことはある。
大地と学校帰りに少し話すこともある。
それなのに、悠真との時間には何か少し違うものがあるような気がして、彩花は首を傾げた。
(何が違うんだろ)
答えは出ない。
胸が苦しくなるわけでもない。
恋愛小説の主人公のように、急に鼓動が速くなるわけでもない。
ただ。
会えると嬉しい。
話すと楽しい。
次に会う予定があると、それを少し楽しみにする。
何かあったら話したいと思う。
自分の作ったものを見せたい。
悠真の知らない顔も知りたい。
「……友達だから、かな」
声に出してみる。
間違っている感じはしない。
けれど、それだけで全部説明できた気もしなかった。
彩花は少しだけ考え、それ以上追いかけるのをやめた。
まだ分からないなら、分からないままでいい。
急いで名前をつける必要はない。
それは、悠真との関係の中で何度も覚えてきたことだった。
彩花はシャープペンシルを持ち直す。
原稿の続きを書く。
物語の中の二人にも、まだ答えを出さない。
友達になった。
けれど、その先にも道は続いている。
今はただ、その道を歩いているところを書けばいい。
机の端に置いたスマートフォンには、新しい通知はない。
それでよかった。
今日話したことは、もう十分に多い。
明日、何か話したくなれば送ればいい。
送らなくてもいい。
来週の日曜日には、また図書館で会うかもしれない。
その前に連絡するかもしれない。
そして来月には、朝から古本市を一緒に歩く。
少し前の彩花なら、それら一つ一つに「これは何なのだろう」と立ち止まっていたかもしれない。
今は、全部を決めなくても進める。
友達という名前を持ったまま。
その言葉では少し足りないような時間を、少しずつ増やしながら。
彩花は窓の外へ目を向けた。
夜の青凪市には、昼間の湿気を残した風が吹いている。
次の日曜日まで、あと七日。
けれど今は、その七日間も二人の関係から切り離された空白ではなかった。
平日のどこかで話すかもしれない。
何も話さない日もあるだろう。
それでも、次に会ったときには、その間にあった出来事をまた一つずつ話せる。
彩花は小さく笑い、原稿へ視線を戻した。
友達になってからの方が、知りたいことは増えている。
その理由を知るのは、まだずっと先でよかった。




