第19話 それぞれの土曜日
土曜日の朝、水瀬彩花は自室の床に座り込み、開いた裁縫箱の中身を一つずつ確認していた。
窓の外には薄い雲が広がっているものの、雨は降っていない。梅雨の時期らしい湿気は残っていて、開けた窓から入る風も少し重たかったが、ここ数日続いていた雨を思えば外出には十分な天気だった。
「針、糸、チャコペン……」
口に出しながら、小さな布製のポーチへ道具を入れていく。
今日は琴葉と会う。
目的はブックカバー作りだ。
以前、偶然一緒になった手芸店で琴葉と初めて話し、それから連絡を取るようになった。今日は駅前で待ち合わせて、まず二人で生地を選び、そのあと市民交流センターにある貸出用の作業室を使うことになっている。
場所を決めるまでには少しだけ相談した。
彩花の家でもいい。
琴葉の家でもいい。
ただ、どちらも初めて二人だけで会う場所としては少し落ち着かない。
特に九条家については、彩花が「ちょっと緊張するかも」と正直に伝えたところ、琴葉からすぐに『私も最初から家へお招きするつもりはありません』と返ってきた。
そのあとに続いた一文は、
『兄様とハクがいますので。』
だった。
ハクはともかく、なぜ悠真まで同じ扱いなのだろう。
彩花はそのときも笑ってしまった。
「彩花」
扉の外から声がした。
「うん?」
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開き、凛花が顔を覗かせる。
今日は剣道部の練習が午後かららしく、まだ私服だった。白いTシャツに細身のパンツという簡単な格好なのに、彩花からするとやはり妙に整って見える。
「準備?」
「うん。だいたい終わった」
「何持っていくの?」
「裁縫道具と、型紙。あと見本」
彩花は机の上に置いていたブックカバーを持ち上げた。
白地に淡い青色の糸で、小さな葉を刺繍したものだ。
「これ見ながらの方が分かりやすいかなって」
「そうね」
凛花は部屋へ入り、床に並んでいる道具を見る。
「ずいぶん本格的」
「そう?」
「私なら針と糸しか持っていかない」
「それだと布切れないよ」
「ハサミを忘れてた」
「お姉ちゃん、本当に裁縫やらないよね」
「ボタンが取れたら?」
「お母さんか彩花に頼む」
「自分でやろうよ」
「彩花がいるのに?」
「そういう問題じゃないでしょう」
彩花が呆れると、凛花は少しだけ笑った。
料理ほど壊滅的ではないが、凛花は裁縫にもほとんど興味がない。学校で必要だった最低限の課題は難なくこなしたらしいが、自分から何かを作ろうと思ったことはないという。
勉強も運動もできる姉が、こういうところだけは妙に潔い。
「でも」
凛花が、彩花の作ったブックカバーを見ながら言った。
「教える側なんでしょう?」
「たぶん」
「たぶん?」
「人にちゃんと教えたことないから」
「できるわよ」
「……そうかな」
「自分で作れるのと教えるのは違うけど、彩花は説明するとき丁寧だし」
「お姉ちゃんに裁縫教えたことないよ」
「料理はある」
「あれは……」
彩花は言葉を濁した。
以前、凛花に卵焼きを教えようとしたことがある。
結果として、なぜか卵焼き器から煙が出た。
「料理は参考にならないと思う」
「私のせい?」
「ほぼ全部」
「ひどい」
「事実だよ」
二人で笑う。
そのあと、凛花は壁の時計へ目を向けた。
「何時に待ち合わせ?」
「十一時」
「駅前?」
「うん」
「お昼も一緒?」
「その予定。先に生地見て、それからどこかで食べて、午後に作る」
「結構一日がかりね」
「初めてだから、急がない方がいいかなって」
彩花は道具をポーチへ収めながら答えた。
自分なら一時間か二時間もあれば作れる。
けれど、それは何度も作ってきたからだ。
初めての琴葉に同じ速さを求めるつもりはない。
生地を選ぶ時間だって楽しみたい。
もし今日中に完成しなくても、次に続きをすればいい。
「……楽しそうね」
「うん」
彩花は迷わず頷いた。
「楽しみ」
その答えに、凛花の表情がわずかに柔らかくなる。
「なら、よかった」
「何が?」
「別に」
「またそれ」
「いいでしょう」
凛花は立ち上がり、部屋を出ようとする。
扉の前で一度だけ足を止めた。
「彩花」
「何?」
「気をつけて行ってきなさい」
「うん」
「あと、琴葉さんによろしく」
「分かった」
扉が閉じる。
彩花は残った道具を鞄へ入れながら、少しだけ笑った。
姉が琴葉のことを自然に名前で呼ぶようになっている。
自分の友達を、凛花も知っている。
そのことが何となく嬉しかった。
◇
午前十時五十五分。
青凪駅前の時計塔の下へ着くと、琴葉はすでに待っていた。
淡い生成り色のブラウスに、紺色のロングスカート。学校の制服とは違う柔らかな雰囲気だったが、背筋の伸びた立ち姿のせいか、人混みの中でもすぐに見つけられた。
琴葉の方も彩花へ気づく。
「彩花さん」
「琴葉さん、おはよう」
「おはようございます」
互いに軽く頭を下げたあと、彩花は少し笑った。
「何か、学校じゃないのに『おはようございます』って変な感じするね」
「そうでしょうか」
「うん。友達と遊ぶときって、もっと適当だから」
「では……」
琴葉が少し考える。
「おはようございます」
「変わってないよ」
「難しいですね」
「そんな真剣に考えなくていいのに」
彩花が笑うと、琴葉もわずかに口元を緩めた。
初めて会ったときより、緊張はずっと少ない。
連絡を取り合うようになったからかもしれない。
それでも、二人だけで待ち合わせるのは今日が初めてだ。
「行こうか」
「はい」
二人は駅前の通りを並んで歩き始めた。
休日の午前中ということもあり、歩道には買い物客や家族連れが多い。通り沿いの飲食店からは昼の仕込みをする匂いが漂い、少し離れた広場では子どもたちが噴水の周りを走っていた。
「道具、持ってきた?」
「はい」
琴葉が肩に掛けた鞄へ手を添える。
「家にあった裁縫道具を一通り」
「家にあるんだ」
「母が時々使います。私はほとんど触ったことがありませんが」
「麗華さんが?」
名前を口にしてから、彩花は一瞬だけ不安になった。
「……お母さんのこと、麗華さんって呼んで大丈夫?」
「もちろんです。母もその方が喜ぶと思います」
「そうなの?」
「はい。おそらく」
「おそらくなんだ」
「母は、彩花さんのことをかなり気にしていますので」
「え?」
彩花の足がわずかに遅くなる。
琴葉も合わせて歩調を落とした。
「気にしてるって……」
「悪い意味ではありません」
「びっくりした」
「兄様が毎週図書館へ行くようになった理由ですから」
「…………」
「そして、最近は私も会っています」
「私、九条家でそんなに話題になってるの?」
琴葉は少し考えた。
「多少は」
「多少?」
「はい」
その返答が妙に曖昧だった。
彩花は横目で琴葉を見る。
「本当に多少?」
「…………」
「琴葉さん?」
「生地を見に行きましょう」
「今、逃げたよね?」
「お店はもうすぐです」
「絶対逃げた」
琴葉は前を向いたままだったが、耳が少しだけ赤くなっている。
彩花は追及しようか迷い、やめた。
九条家で自分がどんなふうに話されているのか、気にならないと言えば嘘になる。
けれど、今日の目的はそこではない。
何より、琴葉と会うたびに悠真の話だけをするのは違う気がした。
「じゃあ今日は聞かない」
「助かります」
「いつか聞くけど」
「……覚えていたらでお願いします」
「覚えてると思う」
そんな話をしながら、二人は以前偶然会った手芸店へ入った。
自動ドアが開くと、店内の涼しい空気が肌に触れる。棚には色とりどりの布や糸、リボン、ボタンが並び、奥には季節の作品見本が吊るされていた。
「まず生地から見ようか」
「お願いします」
彩花は自然に布地の棚へ向かった。
「琴葉さん、好きな色は?」
「紺や深い緑が好きです」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「前に聞いたときもそう言ってたし、似合いそうだなって思ってた」
「彩花さんは?」
「私は青系が多いかな。でも本によって変えるよ」
「本によって?」
「うん。明るい話なら薄い色とか、落ち着いた話なら暗めとか。完全に気分だけど」
「面白いですね」
琴葉は棚へ視線を移した。
深い緑だけでも、何種類もある。
青みの強いもの。
黄みのあるもの。
黒に近いもの。
素材も違う。
「こんなにあるとは思いませんでした」
「迷うでしょう?」
「はい」
「ゆっくりでいいよ」
彩花は急かさなかった。
自分なら、琴葉にはこの色が似合うと思うものがいくつかある。
でも、それを最初から押しつける気はない。
琴葉は何枚かの布を手に取り、光へかざしたり、指先で触ったりしている。
「これはどうでしょう」
選んだのは、深い緑色の綿麻だった。
彩花が昨日見ていたものより、ほんの少し青みが強い。
「いいと思う。琴葉さんっぽい」
「私っぽい?」
「うん。落ち着いてるけど、暗すぎない感じ」
琴葉は布へ視線を落とした。
「では、これにします」
「早い」
「彩花さんが似合うと言ってくださったので」
「私の意見だけで決めていいの?」
「私も気に入りました」
「ならいいけど」
彩花は少し嬉しくなる。
「裏地はどうする?」
「必要なのですか?」
「なくても作れるけど、あった方が丈夫だし、開いたときに可愛いよ」
「なるほど」
「こっちは?」
彩花が生成り色の薄手の布を合わせる。
深い緑との相性がいい。
琴葉は二枚を並べて見比べた。
「好きです」
「じゃあ候補」
「はい」
次に糸。
さらに小さな刺繍を入れるかどうか。
最初はブックカバーを一つ作るだけのつもりだったのに、選ぶものは意外と多い。
それでも琴葉は面倒そうにはしなかった。
むしろ、少しずつ表情が楽しそうになっていく。
「刺繍もできますか?」
「できるよ。最初は簡単な方がいいけど」
「植物がいいです」
「葉っぱとか?」
「はい」
「じゃあ、私の見本と少し似るね」
「嫌ですか?」
「全然」
彩花は笑った。
「むしろ嬉しい」
琴葉も小さく笑う。
店員が近くを通ったため、彩花は必要な長さを確認しながら布を裁断してもらった。
その間、琴葉は隣の棚に並んだボタンを眺めている。
「琴葉さん」
「はい」
「ブックカバーには使わないよ」
「見ているだけです」
「可愛いのあった?」
「これ」
琴葉が指したのは、小さな白い猫の形をしたボタンだった。
「…………」
「可愛い」
「はい」
「琴葉さん、こういうの好きなんだ」
「変でしょうか」
「全然。意外だっただけ」
琴葉は少しだけ迷い、それから一袋を手に取った。
「買うの?」
「何かに使えるかもしれません」
「何に?」
「考えます」
彩花は笑った。
以前、琴葉から可愛らしいスタンプが送られてきたときと同じ感覚だった。
綺麗で、落ち着いていて、何でもきちんとしている。
それだけではない。
可愛いものが好きで、兄には容赦がなくて、思ったより冗談も言う。
話すたびに、知らなかった部分が増えていく。
それが楽しい。
◇
買い物を終えた二人は、駅前から少し離れたカフェへ入った。
昼時を少し過ぎていたため、店内は満席ではない。窓際の二人席へ案内され、彩花はオムライス、琴葉はサンドイッチのセットを頼んだ。
「結構時間かかったね」
「一時間以上いました」
「布見るだけで終わると思ってた?」
「三十分ほどかと」
「手芸店って危ないんだよ」
「危ない?」
「見てると欲しいもの増えるから」
彩花は琴葉の紙袋へ目を向けた。
目的だった布と糸のほかに、猫のボタンまで入っている。
「すでに増えてるし」
「……否定できません」
「私も予定になかった糸買ったから同じだけど」
「彩花さんでもそうなるのですね」
「なるよ」
「少し安心しました」
「何で?」
「彩花さんは手芸店では迷わないのかと思っていました」
「すごく迷うよ。むしろ知ってるから増える」
「なるほど」
飲み物が運ばれてくる。
彩花はアイスティーへストローを差しながら、向かいに座る琴葉を見た。
最初に会ったときは、悠真の妹だと思って緊張した。
今は、二人で昼食を取っている。
「琴葉さん」
「はい?」
「何か不思議だね」
「何がでしょう」
「最初に会ったの、ここじゃないけど近くの手芸店だったでしょう?」
「はい」
「そのときは、こんなふうに二人で会うと思ってなかった」
琴葉は一度瞬きをした。
「私もです」
「だよね」
「兄様のお友達に、一度お会いしてみたいと思っていただけでしたから」
「私も、九条君の妹さんに会ってみたいって思ってた」
「今は?」
問いかけられ、彩花は少し考える。
でも、答えはすぐに出た。
「琴葉さんに会いたかったよ」
琴葉の目が少しだけ大きくなる。
「九条君の妹だからじゃなくて」
彩花は続けた。
「ブックカバーの話もしたかったし、普通に琴葉さんと話したかった」
口にしてから、少し照れくさくなる。
けれど、取り消したいとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
琴葉の声が、いつもよりわずかに柔らかい。
「私も同じです」
「本当?」
「はい」
琴葉はグラスへ手を添えながら、少しだけ視線を落とした。
「最初は、兄様が毎週図書館へ行くほど気にしている方がどんな方なのか、確認したいという気持ちが強かったです」
「確認」
「はい」
「やっぱり九条君、監視されてたんだ」
「多少は」
「多少?」
「かなり」
「正直になった」
二人で笑う。
「ですが今は、兄様がいなくても彩花さんとお話ししたいと思っています」
琴葉はそこで顔を上げた。
「今日も楽しみにしていました」
「……私も」
彩花の胸の奥が温かくなる。
友達。
その言葉は、悠真との関係を考えたときにはずいぶん迷った。
どこから友達なのか。
勝手にそう思っていいのか。
相手も同じように思っているのか。
けれど琴葉とは、少し違った。
話したい。
また会いたい。
一緒に何かをしたい。
その積み重ねの中で、いつの間にか自然に「友達」と思えるようになっていた。
「彩花さん」
「うん?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「兄様とは、普段どのようなお話をされているのですか?」
「九条君と?」
「はい」
彩花は少し考えた。
「本の話が多いかな」
「やはり」
「あと、お菓子とか。学校のこととか。ハクのこととか」
「ハク」
琴葉の口元が少し動く。
「兄様よりハクの話の方が楽しそうです」
「だってハク可愛いでしょう?」
「兄様が聞いたら落ち込みます」
「この前も写真送ってくれたよ」
「頼まれて?」
「ううん。連絡先交換した日に、最初に」
琴葉が数秒黙った。
「兄様」
「何?」
「今、兄様いないよ」
「失礼しました」
「何で呼んだの?」
「少し気持ち悪いと思いまして」
「本人いないのに?」
「いなくても気持ち悪いものは気持ち悪いので」
「厳しい」
彩花は笑った。
そこで注文した料理が運ばれてきたため、会話はいったん途切れる。
湯気の立つオムライスから、バターと卵の匂いがする。
「いただきます」
「いただきます」
二人で食べ始める。
しばらくは料理の話になった。
琴葉は簡単なものなら作れるらしい。
凛花とは違う。
「お姉ちゃん、本当に料理できないから」
「凛花先輩にも苦手なものがあるのですね」
「あるよ。すごくある」
「少し意外です」
「みんなそう言う」
彩花はスプーンでオムライスを切りながら笑った。
「でも、できないことあってもお姉ちゃんはお姉ちゃんなんだよね」
口にしてから、自分で少しだけ驚く。
琴葉は急かさず、続きを待っている。
「前は、お姉ちゃんって何でもできるって思ってたから」
「はい」
「今もすごいとは思ってるよ。でも、できないこともあるし、私の方が得意なこともある」
以前なら、ここで「たまたまだけど」と付け足したかもしれない。
今日は言わなかった。
「裁縫と、お料理ですね」
「うん。お菓子も」
「三つもあります」
「……そうだね」
彩花は少し笑った。
自分から数えたことはなかった。
琴葉はそれを特別大げさに褒めることもなく、普通にサンドイッチを一口食べた。
その自然さが、ありがたかった。
「琴葉さんは?」
「何がでしょう」
「苦手なこと」
「あります」
「例えば?」
「球技」
「意外」
「兄様より苦手です」
「九条君、球技できるの?」
「一通りは」
「何でもできるんだ」
何気なく言ったあと、彩花は少しだけ考えた。
以前なら、そこで自分との差を意識したかもしれない。
桜華学園。
九条家。
勉強もできて、生徒会にも入っていて、運動もできる。
自分とは違う。
けれど、今はそれだけだった。
「でも裁縫はボタンなんだよね」
「はい」
「ちょっと安心した」
「兄様にも苦手なものはあります」
「何?」
「恋愛」
「…………」
彩花のスプーンが止まった。
琴葉も止まる。
数秒。
「……ごめんなさい」
「琴葉さん?」
「今のは忘れてください」
「急にどうしたの?」
「何でもありません」
「何か顔赤くない?」
「気のせいです」
「それ九条君もよく言う」
「やめてください」
琴葉は珍しく本気で困った顔をした。
彩花は意味が分からないまま、それ以上は聞かなかった。
ただ、九条兄妹はやはり似ている。
そう思って少しだけ笑った。
◇
午後一時半。
二人は市民交流センターの小さな作業室へ入った。
予約制の部屋には四人掛けの机が二つあり、壁際にはホワイトボードと小さな流し台がある。今日は他の利用者がおらず、窓から差し込む柔らかな光の中で、二人だけで作業できることになった。
「まず、布を広げようか」
「はい」
彩花が持ってきた見本と型紙を机へ置く。
琴葉も買ったばかりの布を紙袋から取り出した。
「最初に本の大きさを決めるんだけど、何に使いたい?」
「これです」
琴葉が鞄から一冊の文庫本を出した。
少し古い随筆集だった。
「好きな本?」
「はい。祖母からいただいたものです」
「千鶴さん?」
「母方の祖母です」
「大事な本なんだね」
「はい」
彩花は本を受け取る前に、琴葉へ確認する。
「測るために触ってもいい?」
「もちろんです」
本を丁寧に開き、縦と横、厚みを測る。
「このくらいなら、少し余裕持たせれば大丈夫」
「お願いします」
「琴葉さんも測ってみる?」
「私が?」
「今日は琴葉さんが作るんだから」
「……そうでした」
「私が全部やったら意味ないよ」
「確かに」
彩花はメジャーを渡した。
琴葉が本へ当てる。
「ここから?」
「うん。強く引っ張らなくていいよ」
「十八・四……」
「じゃあ縫い代入れて」
彩花は紙へ簡単な図を描く。
琴葉はそれを覗き込んだ。
「彩花さん」
「何?」
「教えるの、お上手ですね」
「そう?」
「はい。分かりやすいです」
また反射的に否定しそうになる。
でも、彩花は少しだけ考えてから答えた。
「ありがとう」
琴葉が微笑む。
それだけで終わる。
次は裁断。
定規を当て、チャコペンで線を引く。
琴葉の手つきは慎重だった。
「曲がりました」
「これくらい大丈夫」
「ですが」
「縫い代の中だから見えなくなるよ」
「本当に?」
「うん」
「……失敗したかと思いました」
「最初から全部きれいにできる人なんて、そんなにいないよ」
彩花は自然に言った。
「私も最初はすごかったから」
「以前、凛花先輩に作った巾着のお話ですね」
「覚えてた?」
「はい。使えないほど小さかったと」
「本当に小さかったよ」
思い出して笑う。
「ハンカチ一枚入れたら終わりだった」
「それでも凛花先輩は飾っていた」
「うん」
「素敵ですね」
「……うん」
彩花は少しだけ目を細めた。
子どもの頃。
自分が姉よりできないことばかり見ていた時期にも、凛花は自分が作ったものを大切にしてくれた。
あの頃は、その意味を今ほど考えられなかった。
「お姉ちゃん、ずっと優しかったんだよね」
ぽつりと漏れる。
琴葉は手を止めず、静かに聞いている。
「私が勝手に比べてた部分もあるし、周りから比べられたこともあったけど……お姉ちゃん自身は、あんまり比べなかった」
「はい」
「むしろ嫌がってた気がする」
彩花は裁断した布の端を整えながら続けた。
「最近、ちょっとずつ分かるようになった」
「何がですか?」
「お姉ちゃんがすごいことと、私が何かできることって、別なんだなって」
琴葉の手が止まった。
彩花も自分が何を言ったのか分かっている。
少し前なら、こんな言葉は出なかった。
「……まだ、たまに比べるけどね」
「それでもいいのではないでしょうか」
「そうかな」
「はい。急に全部変わる方が不自然です」
「琴葉さん、そういうところ九条君に似てる」
「またですか?」
「うん」
「どこが?」
「無理に『そんなことない』って言わないところ」
琴葉は少し考える。
「兄様もそうですか?」
「うん」
彩花は針へ糸を通しながら笑った。
「私が『お姉ちゃんみたいじゃないから』って言ったとき、九条君、『お姉さんの話はしてない』って言ったことがある」
「……兄様が」
「うん」
「珍しく良いことを言いますね」
「珍しく?」
「兄ですので評価は厳しくなります」
「琴葉さん、本当に容赦ないよね」
二人の笑い声が、小さな作業室へ広がった。
◇
作業は、思ったよりゆっくり進んだ。
琴葉は丁寧だったが、慎重すぎて一つの工程に時間がかかる。
最初の直線縫いでは、針を刺すたびに縫い目の幅を確認していた。
「琴葉さん」
「はい」
「そこまで揃えなくても大丈夫だよ」
「ですが、彩花さんのは揃っています」
「慣れてるから」
「私も揃えたいです」
「今日初めてでしょう?」
「だからこそです」
「真面目だなあ」
「兄様にも言われます」
「似てる」
「今のは否定できません」
彩花は笑いながら、琴葉の手元を見る。
少しずつ進んでいる。
縫い目はまだ不揃いだが、最初より安定してきた。
「上手くなってるよ」
「本当ですか?」
「うん。最初より針の間隔揃ってる」
琴葉が自分の縫い目を見る。
表情がほんの少し明るくなった。
「……嬉しいですね」
「でしょう?」
「はい」
「私も最初、そこが嬉しかった」
「彩花さんも?」
「うん。昨日より上手くできたとか、前より真っ直ぐ縫えたとか」
彩花は見本のブックカバーを手に取る。
「そういうのが楽しくて続けてたら、いつの間にか結構作れるようになった」
「好きで続けたから、ですね」
「うん」
今度は迷わず頷けた。
時計を見ると、午後三時を回っている。
まだ完成までは少しかかりそうだ。
「休憩する?」
「大丈夫です」
「琴葉さん、二時間近く集中してるよ」
「もうそんなに?」
「うん」
「……では少しだけ」
二人は針を置いた。
彩花が持ってきた小さなペットボトルのお茶を飲む。
琴葉も紅茶を一口飲み、椅子の背へ少し身体を預けた。
「疲れた?」
「少し」
「今日は途中でもいいよ」
「完成させたいです」
「無理しなくても」
「無理ではありません」
琴葉は作りかけのブックカバーを見る。
「楽しいので」
その言葉に、彩花は笑った。
「なら、もう少しやろうか」
「はい」
休憩を終え、作業へ戻る。
今度は刺繍。
小さな葉を一枚だけ入れる。
彩花が紙へ簡単な図を描き、最初の一針だけ見本を見せた。
「ここから斜めに」
「こうですか?」
「そう。次は反対側」
「……難しいですね」
「ゆっくりでいいよ」
琴葉が何度か針を刺す。
途中で糸が絡まった。
「あ」
「大丈夫」
彩花が手を伸ばしかける。
でも、一度止めた。
「自分でほどいてみる?」
「はい」
「難しかったら言って」
琴葉は絡んだ部分を指先で少しずつ緩める。
一度失敗して、さらに絡まりそうになる。
「……これは」
「こっちの糸を少し引いて」
「こちら?」
「うん。強くしないで」
数十秒かけて、結び目がほどけた。
「あ」
「取れた」
琴葉が小さく息を吐く。
「こういうのも自分でできると楽になるよ」
「彩花さん」
「何?」
「今、すぐ直してくださらなかったのは、わざとですか?」
「うん」
「なぜ?」
「私が全部やったら、琴葉さんが作ったことにならないから」
琴葉は少しだけ目を見開いた。
彩花は何気なく言ったつもりだった。
「失敗しても、自分で直せた方が次に困らないでしょう?」
「……はい」
「それに」
彩花は作りかけのブックカバーを見る。
「ちょっと曲がってても、琴葉さんが作った方がいいと思う」
その言葉のあと、琴葉はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「私も、そう思います」
そこからの作業は、さらにゆっくり進んだ。
けれど彩花は急かさなかった。
琴葉も途中から、失敗するたびにすぐ彩花を見ることが減った。
自分で一度考える。
それでも分からなければ聞く。
そうして午後四時半を過ぎた頃。
「……できました」
琴葉の前に、一つのブックカバーが置かれた。
深い緑色の表地。
生成りの裏地。
隅には、小さな葉の刺繍。
縫い目は完全には揃っていない。
刺繍も、彩花のものより少し歪んでいる。
それでも、ちゃんとブックカバーになっている。
「できたね」
「はい」
琴葉はしばらく自分の作品を見つめていた。
持ってきた随筆集を入れる。
少しだけ余裕がある。
表紙を閉じる。
「ぴったり」
「……本当に」
「どう?」
琴葉は両手で本を持った。
「嬉しいです」
「よかった」
「思っていたより、ずっと」
声は落ち着いている。
けれど、その表情はいつもより分かりやすかった。
彩花も嬉しくなる。
自分が作ったときとは違う。
誰かが作れるようになるのを手伝った。
それも、こんなに楽しいのだと初めて知った。
「彩花さん」
「うん?」
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「また、教えていただけますか?」
彩花はすぐに頷いた。
「もちろん」
「次はもう少し難しいものを」
「いきなり難しくするの?」
「少しだけ」
「じゃあ、今度考えよう」
「はい」
琴葉はブックカバーを撫でた。
その様子を見ながら、彩花は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
◇
市民交流センターを出た頃には、午後五時を過ぎていた。
昼間より雲が増えていたが、雨の気配はない。西の空には薄い夕日が残り、建物のガラスへ淡い橙色が映っている。
二人は駅へ向かって並んで歩いた。
「今日はありがとう」
彩花が言う。
「お礼を言うのは私です」
「私も楽しかったから」
「私もです」
少し歩く。
休日の夕方らしく、駅へ向かう人の流れが増えている。
「琴葉さん」
「はい?」
「今度は、裁縫じゃなくても遊ぼうね」
琴葉が足を少しだけ緩めた。
「……はい」
「本屋とかでもいいし」
「ぜひ」
「玲奈さんも誘って」
その名前に、琴葉が彩花を見る。
「よろしいのですか?」
「うん。前に会ったとき、ちゃんと話せなかったし」
「玲奈も喜ぶと思います」
「本当?」
「はい。彩花さんに興味を持っていますので」
「……またそれ?」
「今回は兄様だけが理由ではありません」
「今回は?」
「以前は多少」
「正直」
彩花は笑った。
「でも、会ってみたい」
「伝えておきます」
「うん」
駅前へ着く。
琴葉は迎えの車が来るらしく、彩花とはここで別れる。
「では、また」
「うん。またね」
彩花は手を振る。
琴葉も一瞬だけ迷ったあと、小さく手を振り返した。
その仕草が少し意外で、彩花は笑う。
「何ですか?」
「ううん。何でもない」
「気になります」
「琴葉さん、手振るんだなって」
「私を何だと思っているのですか」
「九条君の妹」
「最初に戻っています」
「冗談」
また二人で笑う。
今度こそ別れ、彩花は駅の改札へ向かった。
電車へ乗り、空いた席へ座る。
鞄を膝へ置いたところで、スマートフォンが震えた。
琴葉からだった。
『今日は本当にありがとうございました。』
その下には、完成したブックカバーを付けた随筆集の写真。
彩花は少し笑う。
『こちらこそ。すごく上手にできてたよ。』
送る。
すぐに返事が来る。
『次はもう少し上手く作ります。』
『最初から十分上手だったよ。』
『彩花さんに褒めていただけると嬉しいです。』
「…………」
彩花は画面を見つめた。
自分が誰かを褒める。
その言葉を、相手が嬉しいと言ってくれる。
少し前まで、自分は褒められる側としてどう受け取るかばかり考えていた。
今は違う。
自分にも、誰かへ渡せるものがある。
裁縫を教えること。
言葉をかけること。
一緒に時間を過ごすこと。
(……私にもあるんだ)
大げさなものではない。
でも、確かにある。
彩花は窓の外へ目を向けた。
夕方の街が流れていく。
そのとき、スマートフォンがもう一度震えた。
今度は別の名前。
『九条悠真』
「あ」
開く。
『琴葉、ちゃんと完成した?』
「…………」
彩花は思わず笑った。
(気になってたんだ)
朝から一度も連絡はなかった。
途中で様子を聞いてくることもなかった。
でも、終わった頃を見計らったように連絡が来た。
『完成したよ。すごく上手だった。』
送る。
少しして。
『よかった。朝から珍しく緊張してたから。』
「琴葉さんが?」
『そうなの? 全然分からなかった。』
『家では何回も裁縫道具確認してた。』
彩花は笑った。
今朝、自分も同じことをしていた。
『私も何回も確認したよ。』
『水瀬さんも?』
『人に教えるの初めてだったから。』
『じゃあ二人とも緊張してたんだ。』
『そうみたい。』
そこで一度、やり取りが途切れる。
電車が次の駅へ停まる。
何人かの乗客が降り、代わりに学生らしい二人組が乗ってきた。
発車してしばらくすると、また悠真から届く。
『楽しかった?』
彩花は迷わず打った。
『うん。すごく。』
続けて。
『琴葉さんと友達になれてよかった。』
送信する。
返信は少し遅かった。
『そっか。』
そのあと。
『俺も嬉しい。』
短い。
でも、悠真がどういう顔で送ったのか、少し想像できた。
たぶん、図書館で穏やかに笑うときと同じ顔だ。
『九条君、ちょっと寂しかった?』
送る。
『何で?』
『兄様抜きで、だったから。』
数十秒。
『ちょっとだけ。』
「やっぱり」
彩花は声を出さずに笑った。
『でも琴葉が楽しそうだったからいい。』
『九条君、今日は素直だね。』
『今日は?』
『いつも素直じゃないみたいになった。』
『水瀬さんが言ったんだけど。』
『ごめん。』
『明日は図書館来る?』
彩花の指が止まった。
明日。
日曜日。
いつもの二時頃。
連絡先を交換する前なら、互いに行ってみるまで分からなかった。
今は、聞ける。
彩花は予定を思い返す。
特にない。
『行くよ。二時くらい。』
送る。
『俺も。』
たったそれだけ。
それなのに、明日会えることがはっきりした。
彩花はスマートフォンを膝の上へ置く。
(……便利だな)
最初に浮かんだのは、それだった。
でも、それだけではない気もした。
会えるかどうか分からないまま図書館へ向かう時間も、嫌いではなかった。
会えたときに少し嬉しくなる。
それも楽しかった。
今は、明日会えると分かっている。
その状態で今日の残りを過ごす。
それも、少し違う楽しさがある。
彩花は窓の外へ視線を向けた。
夕方の雲の向こうに、薄い青空が残っている。
明日は晴れるだろうか。
それを見て、ふと一週間前の雨を思い出した。
雨を見て、悠真が自分へメッセージを送った。
今なら、その気持ちが少しだけ分かる。
何かを見たとき。
何かがあったとき。
誰かに話したくなる。
それは、特別な名前を付けなくても存在するものなのかもしれない。
◇
同じ頃。
九条家では、悠真がリビングのソファに座っていた。
向かいでは琴葉が、完成したブックカバーを母の麗華へ見せている。
「まあ、素敵」
「彩花さんに教えていただきました」
「琴葉が作ったの?」
「はい」
「初めて?」
「まともに作ったのは初めてです」
麗華はブックカバーを付けた随筆集を受け取り、刺繍へ目を向ける。
「この葉も?」
「自分で刺しました」
「上手じゃない」
「少し曲がっています」
「それがいいのよ」
「そうでしょうか」
「自分で作ったものだもの」
琴葉は少しだけ嬉しそうに本を受け取った。
悠真はその様子を離れたところから見ている。
「兄様」
「何?」
「見ますか?」
「いいの?」
「見たい顔をしているので」
「そんな顔してた?」
「はい」
琴葉から本を受け取る。
深い緑。
生成りの裏地。
隅に小さな葉。
「すごいじゃん」
「ありがとうございます」
「本当に初めて?」
「はい」
「水瀬さん、教えるの上手かった?」
「とても」
「そっか」
悠真は本を返した。
自分もいつか教えてもらう。
昨日までは、その程度に考えていた。
今、実際に琴葉が作ったものを見ると、少しだけ興味が増す。
「兄様」
「何?」
「参加したくなりましたか?」
「……ちょっと」
「駄目です」
「何で?」
「これは私と彩花さんの時間です」
「今日の話だろ? 次からは」
「次もです」
「厳しいな」
「兄様は別の日にしてください」
「それならいいんだ?」
「彩花さんがよろしければ」
悠真は少し笑った。
「じゃあ今度聞いてみる」
「はい」
「でも」
悠真は琴葉のブックカバーをもう一度見る。
「楽しそうでよかった」
「楽しかったです」
「水瀬さんも?」
「はい」
琴葉は迷わず答えた。
「とても」
「そっか」
それだけで悠真も満足だった。
麗華が二人を見ながら、柔らかく笑っている。
「何?」
悠真が気づく。
「いいえ」
「母さん、絶対何かあるだろ」
「何もないわ」
「琴葉と同じこと言ってる」
「親子ですもの」
「そういうところだけ?」
「悠真」
「何?」
「明日も図書館?」
「……行くけど」
「そう」
麗華はそれ以上聞かなかった。
ただ、口元にはまだ微かな笑みが残っている。
悠真は何となく居心地が悪くなり、スマートフォンへ視線を落とした。
彩花との最後のやり取り。
『行くよ。二時くらい。』
明日は会える。
それだけ分かっている。
以前なら、そこから明日何を話すかまで考えていたかもしれない。
今は特に決めなくていいと思えた。
琴葉のブックカバーの話。
今日どうだったか。
それから、本の話。
話したいことは会えば自然に出てくる。
スマートフォンを閉じる。
「兄様」
「何?」
「明日、今日のことを全部聞かないでくださいね」
「何で?」
「私と彩花さんの話です」
「分かってるよ」
「本当に?」
「水瀬さんが話したいことだけ聞く」
琴葉は兄の顔を少しだけ見つめた。
それから、小さく頷く。
「なら、いいです」
悠真はソファの背へ身体を預けた。
窓の外では、夕方の光が庭の木々を照らしている。
彩花と知り合ったことで、自分の日曜日が変わった。
そして今度は、琴葉の土曜日まで少し変わったらしい。
けれど、それを自分のものだとは思わなかった。
彩花と琴葉がそれぞれ選んで、話して、友達になった。
自分は、その始まりに少し関わっただけだ。
明日になれば、自分には自分の時間がある。
午後二時頃。
いつもの図書館。
そこで会える人がいる。
それだけで、今は十分だった。




