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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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18/100

第18話 平日の中にも、少しだけ

 月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、枕元のスマートフォンには新しい通知はなかった。


 カーテンの隙間から差し込む光は薄く、梅雨らしい灰色の空が窓の向こうに広がっている。階下からは母の紗月が朝食を用意する音が聞こえ、廊下では凛花が自室の扉を閉める気配がした。


 彩花は布団の中で一度だけ画面を確認し、そのままスマートフォンを伏せた。


「……うん」


 何も届いていない。


 それでいい。


 昨日、悠真とは連絡先を交換した。


 帰宅後にはハクの写真が届き、少しだけやり取りをした。最後は「おやすみ」で終わった。


 だからといって、今日から毎朝何か届くわけではない。


 彩花自身、悠真へ「おはよう」と送るつもりもなかった。


(学校で毎日会う友達にも、朝から連絡なんてしないし)


 そう考えながら身体を起こす。


 連絡先を交換したからといって、急に関係を変えなくてもいい。


 昨日二人で話した通り、必要なときや話したいことがあるときに使えばいいのだ。


 それが一番自然だと思う。


 ただ。


 ベッドから降りる前に、彩花はもう一度だけスマートフォンへ目を向けた。


 通知のない画面を見て、少し笑う。


(私、何を確認したかったんだろ)


 自分でも分からない。


 けれど、嫌な感じではなかった。


     ◇


「彩花、今日パンでいい?」


 一階へ下りると、紗月がキッチンから顔を出した。


「うん」


「目玉焼きあるよ」


「食べる」


「凛花、牛乳出して」


「もう出してる」


「早い」


「お母さんが遅いだけ」


「朝から厳しい」


 いつものやり取りが続く。


 耕助はすでに食卓へ座り、ニュース番組を見ながらコーヒーを飲んでいた。


「おはよう、彩花」


「おはよう」


「今日は降るらしいぞ」


「夕方?」


「昼過ぎから」


「傘持っていかないと」


「玄関に折り畳みあるよ」


 彩花は椅子へ座った。


 向かいには凛花がいる。


 視線が合う。


「何?」


「別に」


「今、スマホ見たでしょう」


「見てない」


「見た」


 彩花は反射的に自分のスマートフォンへ手を置いた。


「何も来てないよ」


「聞いてないけど」


「…………」


 凛花の口元がほんの少し動く。


「お姉ちゃん」


「何?」


「わざと?」


「何が?」


「もういい」


 彩花はトーストを取った。


 その様子を、耕助が不思議そうに見ている。


「何の話だ?」


「何でもないよ、お父さん」


 凛花が即座に遮った。


「そうか?」


「うん」


「ならいいけど」


 耕助は深く追及せず、テレビへ視線を戻す。


 紗月も目玉焼きを運んできただけで、娘たちの会話には入らなかった。


 彩花は少しだけ安心してトーストをかじる。


 別に隠しているわけではない。


 悠真と連絡先を交換したことは、凛花には話している。


 両親に知られて困ることでもない。


 ただ、朝食の席で家族全員に話題にされるのは何となく嫌だった。


 昨日、凛花にメッセージ画面を見られそうになったときも同じだった。


 見られて困る内容はない。


 それでも、見られたくない。


(九条君との話だから、かな)


 ふと、以前悠真が言っていた言葉を思い出した。


『水瀬さんとの話だから』


 琴葉に自分とのやり取りを見せないと言ったときも、悠真は似たようなことを言っていた。


 そのときは、そういうものなのだろうと思った。


 今なら少し分かる。


 秘密ではない。


 でも、自分と相手の間だけに置いておきたいものはある。


 彩花はその感覚を、今までより少しだけ身近に感じながら朝食を続けた。


     ◇


 県立青葉高校へ着く頃には、空がさらに暗くなっていた。


 教室では窓際の生徒たちが「絶対降る」「体育まで持つかな」と空を見上げている。湿気のせいで髪がまとまりにくいと嘆く女子もいて、いつもより朝から少し騒がしかった。


 彩花は自分の席へ鞄を置き、教科書を机へ移していく。


「水瀬、おはよ」


 後ろから声がして振り返ると、大地がコンビニのパンを片手に立っていた。


「おはよう」


「今日雨だって」


「知ってる」


「傘持ってきた?」


「折り畳み」


「俺ない」


「何で?」


「朝晴れてなかった?」


「曇ってたよ」


「俺の中では晴れ」


「田辺君の中の天気は知らないよ」


 近くにいた女子が吹き出した。


 大地は不満そうにパンの袋を開ける。


「帰り降ったらどうしよう」


「買えば?」


「傘に六百円払いたくない」


「じゃあ濡れるしかないね」


「水瀬、最近ちょっと冷たくない?」


「普通だよ」


「普通って便利な言葉だよな」


 その単語に、彩花の指が一瞬止まった。


 以前なら、自分について「普通」と言うことに何も感じなかった。


 今は少しだけ違う。


 裁縫。


 料理。


 お菓子作り。


 全部「普通」と片づけずに、少し得意かもしれないと思えるようになった。


 まだ堂々と口にするのは難しい。


 けれど、何でもかんでも「普通」に戻さなくてもいい。


「……田辺君は普通より傘忘れると思う」


「急に攻撃された」


「事実でしょう」


「水瀬が強くなってる」


「何それ」


 彩花は笑いながら席へ座った。


 ホームルームが始まる。


 午前中は、いつも通りに過ぎた。


 数学。


 現代文。


 体育は雨が降り始める前に外で終わり、四時間目の途中から窓ガラスへ細かな水滴が当たり始めた。


 昼休みになる頃には、本格的な雨になっていた。


「ほら」


 彩花は窓の外を指す。


「降った」


「見れば分かる」


 大地が絶望したような顔をする。


「六百円……」


「まだ言ってる」


「昼休みに購買で傘売ってないかな」


「売ってるんじゃない?」


「見てくる」


 大地は立ち上がり、そのまま友人と教室を出ていった。


 彩花は弁当箱を開く。


 母が作った卵焼きと、小さなハンバーグ。


 友人たちと机を寄せ、いつものように昼食を始める。


 その途中だった。


 制服のポケットの中で、スマートフォンが一度だけ震えた。


「…………」


 彩花は箸を止める。


 学校では昼休みならスマートフォンを使ってもいい。


 珍しいことではない。


 家族かもしれない。


 文芸部の連絡かもしれない。


 そう思いながら取り出した。


 画面に表示された名前を見て、指が少しだけ止まる。


『九条悠真』


「…………」


「水瀬?」


「何?」


「卵焼き持ったまま止まってる」


「あ、ごめん」


 慌てて箸を置く。


 通知を開く。


 届いていたのは短い文章だった。


『そっちも雨?』


 それだけ。


 彩花は一瞬、画面を見つめた。


(……そっちも?)


 桜華学園と青葉高校は、同じ青凪市内でも少し離れている。


 悠真の学校でも雨が降っているのだろう。


 窓の外を見る。


 校庭はすでに濡れ、軒下へ逃げ込む生徒の姿が見える。


 彩花は写真を撮ろうかと思った。


 でも、わざわざ校庭の写真を送るほどでもない。


『降ってるよ。結構強い。』


 送る。


 少し考えて、もう一文。


『九条君のところも?』


 送信。


 スマートフォンを机へ置く。


「誰?」


 隣の女子が何気なく聞いた。


「友達」


 彩花は普通に答えた。


 答えてから、自分で少し驚く。


 以前なら「知り合い」と言ったかもしれない。


 今は迷わなかった。


「他校?」


「うん」


「へえ」


 それ以上は聞かれなかった。


 女子はすぐ別の話題へ戻り、昨日見たドラマについて話し始める。


 彩花も会話へ戻る。


 少ししてスマートフォンが震えた。


『こっちも。昼休みになった途端強くなった。』


 続いて。


『傘持ってきた?』


 彩花は思わず笑った。


『持ってきたよ。田辺君は忘れた。』


 送ってから、少し迷う。


 田辺君。


 悠真は知っている。


 以前、手作りのマドレーヌを三個食べた話で妙に引っかかっていた相手だ。


(……別にいいよね)


 クラスメイトの話だ。


 隠す必要はない。


 返信は少しだけ間を置いて届いた。


『田辺君、前も何か食べてなかった?』


「…………」


 彩花は口元を押さえた。


 覚えている。


『マドレーヌ。今日は傘の話。』


『覚えてた。』


『何でそこ覚えてるの?』


 今度はすぐには返ってこなかった。


 一分。


 二分。


 昼休みなのだから、悠真も誰かと食事をしているのだろう。


 彩花は弁当へ戻る。


 数分後。


『三個って多いなと思ったから。』


「……まだ言ってる」


 小さく呟く。


「何が?」


「何でもない」


 友人へ答え、彩花は返信する。


『九条君も二個食べたことあるでしょう。』


『三個じゃない。』


『一個しか違わないよ。』


『その一個が大きい。』


 思わず笑ってしまった。


「水瀬、さっきから楽しそうだね」


 向かいの女子に言われ、彩花は顔を上げる。


「え?」


「スマホ」


「そう?」


「うん」


「……友達が変なこと言うから」


「へえ」


 女子はそれだけ言って、また弁当へ戻った。


 彩花も画面へ視線を落とす。


 変なこと。


 確かに変だ。


 マドレーヌの個数を、何週間も覚えている。


(九条君って、意外とこういうところあるよね)


 図書館で本の話をしているときは落ち着いている。


 学校ではもっとしっかりしているらしい。


 それなのに、ハクには張り合うし、マドレーヌの数まで覚えている。


 彩花は最後に一つ送った。


『田辺君、今日は傘買うかどうかで悩んでるよ。』


 悠真から返ってきたのは。


『それは買った方がいいと思う。』


 ごく普通の答えだった。


 彩花はまた笑いそうになった。


     ◇


 同じ頃。


 桜華学園の教室では、悠真がスマートフォンを伏せた。


「何笑ってんの?」


 向かいに座っていた湊が、箸を止める。


「笑ってない」


「笑ってた」


「気のせい」


「九条」


「何?」


「お前、最近その返し多いぞ」


「何が」


「気のせい」


 悠真は昼食へ視線を戻した。


 隣では琴葉が静かにサンドイッチを食べている。


 今日は玲奈が委員会の用事で別の教室へ行っているため、昼食は三人だった。


「兄様」


「何?」


「彩花さんですか?」


「何で分かるんだよ」


「分かりやすいので」


「どこが?」


「顔です」


「昨日もそれ言われた」


「昨日も分かりやすかったので」


 湊が目を細める。


「連絡先交換したの?」


 悠真の手が止まる。


「……何で湊まで」


「今の流れで交換してなかったら逆に怖いだろ」


「昨日した」


「おお」


「その反応やめろ」


「別に普通じゃん」


「普通なら反応するな」


「いや、だって長かったから」


 湊は笑いながらペットボトルの水を飲む。


「それで? 朝からずっと連絡してんの?」


「してない」


「じゃあ今が今日初?」


「うん」


「何送った?」


「雨」


「雨?」


「そっちも雨かって」


 湊が数秒黙る。


「……普通だな」


「普通でいいだろ」


「いや、いいんだけど」


「何を期待してるんだよ」


「九条が最初の平日メッセージに三十分くらい悩んで、結局送れないとか」


「何でそんな面倒なやつだと思われてるんだ」


 琴葉が紅茶を一口飲む。


「以前の兄様ならあり得ました」


「琴葉まで」


「ですが、雨なら自然ですね」


「だろ?」


「はい」


 琴葉は頷いたあと、少しだけ首を傾げた。


「ただ、なぜ雨を?」


「窓見たら急に降ってきたから」


「それで彩花さんを?」


「……向こうも降ってるかなって思った」


 答えてから、悠真は箸を動かす。


 以前なら、ここから考え込んだかもしれない。


 なぜ雨を見て彩花を思い出したのか。


 どうしてメッセージを送りたくなったのか。


 今はそれほど難しくない。


 話したいと思ったから送った。


 それだけだ。


「なるほど」


 琴葉も、それ以上は追及しなかった。


 湊が少し面白そうに悠真を見る。


「何?」


「いや」


「絶対何かあるだろ」


「連絡先って便利だなと思って」


「昨日から知ってる」


「そうじゃなくて」


 湊は箸を置いた。


「今までなら、日曜に会ったとき『そういえば月曜雨だったな』って話すしかなかっただろ」


「まあ」


「今は月曜の雨を月曜に話せる」


「……そうだな」


「だから距離変わるんだよ」


 悠真は少しだけ考えた。


 距離。


 確かに、変わる。


 ただ、急に近くなったという感じではない。


 日曜日だけ開いていた小さな窓が、平日にも一つ増えたような感覚だった。


「でも毎日やるつもりはないよ」


「何で俺に宣言するんだ」


「そういう顔したから」


「どんな顔だよ」


「面白がってる顔」


「正解」


 湊が笑う。


 悠真は呆れながら弁当へ戻った。


 そのとき、スマートフォンがまた一度震えた。


 画面を見る。


『田辺君、今日は傘買うかどうかで悩んでるよ。』


「…………」


 田辺大地。


 あのマドレーヌを三個食べたクラスメイト。


 以前なら、その名前を見た瞬間に胸の奥へ生まれた小さな引っかかりを、あれこれ分析していた。


 今は。


(傘は買った方がいいだろ)


 それしか出てこなかった。


 返信する。


『それは買った方がいいと思う。』


 送ってスマートフォンを伏せる。


「終わった?」


 湊が聞く。


「たぶん」


「短い」


「昼休みだし」


「もっと話したくない?」


「話したいことがあれば話す」


「へえ」


「何?」


「いや。お前、本当に少しまともになったな」


「前は何だったんだよ」


「面倒な九条」


「今は?」


「ちょっと面倒な九条」


「変わってないじゃん」


「改善はしてる」


 琴葉が小さく笑った。


 教室の窓を雨粒が流れていく。


 悠真はもう一度だけ外を見た。


 同じ雨が、少し離れた青葉高校にも降っている。


 そのことを今、彩花と話せる。


 思ったより、それは楽しかった。


     ◇


 放課後になっても、雨は止まなかった。


 彩花は文芸部室の窓際で、文化祭用の短編を書いていた。


 今日は朝から少しずつ文章が進んでいる。


 主人公たちは、すでに「友達」と呼べる関係になった。


 けれど、そこで物語を終わらせる気にはならなかった。


 友達になったあとにも、変化はある。


 相手の好きなものを知る。


 苦手なことを知る。


 会っていないときに思い出す。


 何かあれば伝えたくなる。


 それは恋愛でなくても、人と仲良くなる過程として書ける気がした。


 彩花はノートへ文章を足していく。


『雨が降った。彼女は窓を見て、あの人の町にも降っているだろうかと思った。』


 そこまで書いて、手が止まる。


「…………」


 消す。


「水瀬?」


「何?」


「今、すごい勢いで消したね」


 向かいの部員が笑っている。


「ちょっと違ったから」


「何が?」


「何か……近すぎた」


「主人公たち?」


「うん」


 本当は、別の意味でも近かった。


 今日の昼休み、そのままだ。


(危ない)


 別に自分の経験を小説へ使ってはいけないわけではない。


 けれど、そのまますぎるのは恥ずかしい。


 彩花は少し考え、別の文章へ書き直す。


『会っていない時間にも、話したいことは少しずつ増えていく。』


 以前、余白へ書いた言葉と似ている。


 でも今度は、前より意味が分かる。


「水瀬」


「うん?」


「それ、いいんじゃない?」


 覗き込んでいた部員が言う。


「本当?」


「うん。何か分かる」


「分かる?」


「仲良い子と会ってないときに、これ後で話そうって思うことあるじゃん」


「ああ」


「そういう感じ」


「……うん」


 彩花は少し笑った。


 それでいい。


 特別なことではない。


 誰かが自分の日常へ少しずつ入ってくる。


 それを丁寧に書けばいい。


 窓の外では雨が続いている。


 昼休みに悠真と交わした短いやり取りを思い出した。


 あれからメッセージは来ていない。


 自分も送っていない。


 でも、不満はなかった。


 むしろ、そのくらいがちょうどいい。


 話したいことがあったから話した。


 終わったから、それぞれの時間へ戻った。


 次に何かあれば、また話せる。


 その安心感だけが残っている。


「……よし」


 彩花はシャープペンシルを持ち直した。


 今日はもう少し書けそうだった。


     ◇


 部活が終わった頃には、雨脚が少し弱くなっていた。


 彩花は昇降口で折り畳み傘を開く。


 校門へ向かう途中、前方で大地が透明なビニール傘を差しているのが見えた。


「あ」


 大地も気づく。


「水瀬」


「買ったんだ」


「六百五十円」


「五十円増えてる」


「俺の昼飯一回分くらい」


「濡れるよりいいでしょう」


「まあな」


 大地はまだ少し悔しそうだ。


「何でそんなに傘にお金払いたくないの?」


「家に三本あるから」


「じゃあ持ってくればよかったじゃん」


「それを朝の俺に言ってくれ」


「無理だよ」


 校門まで一緒に歩く。


 大地は途中で別方向へ曲がるらしく、横断歩道の前で立ち止まった。


「じゃあな」


「うん。また明日」


「水瀬」


「何?」


「今度から朝雨降りそうだったら教えて」


「何で私が?」


「今日ちゃんと傘持ってたから」


「天気予報見て」


「冷たい」


「普通」


「また普通って言った」


 大地が笑う。


 彩花も笑って手を振った。


 一人になり、駅へ向かって歩き始める。


 雨音が傘の上で細かく響いている。


 昼休みのやり取りを思い出す。


『それは買った方がいいと思う。』


「……買ったよ」


 誰もいないのに呟く。


 その瞬間。


 伝えたくなった。


 彩花は少し迷ってから、商店の軒下へ入った。


 スマートフォンを取り出す。


『田辺君、傘買ったよ。650円だった。』


 打つ。


「…………」


 送信。


 送ってから、彩花は自分で笑ってしまった。


(何の報告なんだろ)


 別に必要ではない。


 悠真が知らなくても何も困らない。


 でも昼休みに話した続きを、何となく伝えたかった。


 すぐに返信は来なかった。


 彩花は気にせずスマートフォンを鞄へ戻し、再び歩き始めた。


     ◇


 その頃、桜華学園では生徒会の仕事が続いていた。


 悠真は会議室の長机で、来月の行事予定表を確認している。


「九条、こっちの提出期限、水曜じゃなくて木曜」


「本当だ」


「去年のデータそのままになってる」


「直します」


 先輩から指摘された箇所を修正し、隣の資料と照らし合わせる。


 昼休みとは違い、悠真の表情は仕事へ完全に切り替わっていた。


 生徒会室には数人の役員が残っており、それぞれパソコンや資料へ向かっている。窓の外からは雨音が聞こえるものの、室内ではキーボードを打つ音と紙をめくる音の方が大きい。


「九条」


「はい」


「これも確認お願い」


「分かりました」


 追加の資料を受け取る。


 そのまま三十分ほど集中した。


 机の端に置いていたスマートフォンが一度震えたが、悠真はすぐには見なかった。


 急ぎなら電話が来る。


 そうでなければ、仕事が終わってからでいい。


 資料の確認を終え、先輩へ戻す。


「ありがとう。今日はここまでで大丈夫」


「お疲れさまでした」


「九条も早く帰れよ。雨強くなるらしいから」


「はい」


 役員たちが少しずつ片づけを始める。


 悠真も鞄へ資料をしまい、そこで初めてスマートフォンを手に取った。


 通知。


『水瀬彩花』


「…………」


 開く。


『田辺君、傘買ったよ。650円だった。』


 悠真は数秒、画面を見た。


 それから笑った。


「九条?」


 近くにいた先輩が振り返る。


「何でもないです」


「珍しいな」


「何がですか?」


「スマホ見て笑ってるの」


「そうですか?」


「そうだよ」


 先輩は特に深く聞かず、鞄を持って出ていった。


 悠真は返信画面を開く。


『買ったんだ。』


 それだけでは少し味気ない。


『昼より50円上がってる。』


 送る。


 少しして。


『そこ気づいた?』


『覚えてた。』


『九条君、変なところ覚えてるよね。』


 悠真はその文を見て、少し考える。


 変なところ。


 マドレーヌ三個。


 傘六百円が六百五十円。


 確かに、どうでもいいと言えばどうでもいい。


 でも、彩花が話したことは案外覚えている。


『水瀬さんが話したことだから。』


 そこまで打つ。


 指が止まる。


「…………」


 少しだけ考えた。


 重いだろうか。


 いや。


 事実だ。


 ただ、わざわざ言うほどのことでもない気がする。


 悠真は一度消した。


 代わりに。


『数字は覚えやすいから。』


 送る。


 すぐに。


『マドレーヌ三個も?』


『それは数字だから。』


『まだ根に持ってる。』


『持ってない。』


『絶対持ってる。』


「……持ってないって」


 悠真は小さく呟く。


「兄様?」


 生徒会室の入口から琴葉の声がした。


 悠真は顔を上げる。


「琴葉?」


「終わりましたか?」


「今終わった」


「母の車が来ています。雨なので一緒に帰るようにと」


「分かった」


 琴葉は兄の手元を見る。


「彩花さんですか?」


「……毎回当てるのやめない?」


「当たっているのですね」


「うん」


「何のお話を?」


「傘」


「傘?」


「琴葉には関係ない」


「聞いたのは兄様でしょう」


「説明すると長い」


「では結構です」


 琴葉はあっさり引いた。


 悠真はスマートフォンを鞄へしまう。


「そういえば」


 琴葉が言う。


「何?」


「私も彩花さんへ連絡していいでしょうか」


 悠真は一瞬だけ意味が分からなかった。


「何で俺に聞くの?」


「兄様のお友達ですので、一応」


「琴葉の友達でもあるだろ」


 琴葉が目を瞬く。


「……はい」


「だったら俺に許可取る必要ないじゃん」


「それは、そうなのですが」


「水瀬さんも琴葉とまた話したいって言ってたよ」


「本当ですか?」


「うん」


 琴葉の表情が、ほんの少し明るくなる。


 外から見れば大きな変化ではない。


 けれど兄には分かる。


「何送るの?」


「秘密です」


「俺には聞いたくせに」


「私と彩花さんの話ですので」


「……それ俺が前に言ったやつ」


「よく覚えていましたね」


「覚えてるよ」


 琴葉が少しだけ笑う。


「では、兄様には関係ありません」


「分かったよ」


 悠真は肩をすくめた。


 不思議と嫌ではなかった。


 最初は、自分がきっかけだった。


 琴葉が彩花に興味を持ったのも、自分が毎週図書館へ行くようになったからだ。


 でも今は違う。


 二人は自分がいなくても話せる。


 自分が知らない話もする。


 それでいい。


 むしろ、その方がいいと思う。


「兄様」


「何?」


「今、少しだけ寂しいと思いましたか?」


「……何で?」


「顔です」


「思ってない」


「本当に?」


「ちょっとだけ」


「正直ですね」


「でも嬉しい方が大きい」


「なぜですか?」


「二人とも大事だから」


 悠真は鞄を肩へ掛ける。


「仲良くなったなら、それでいい」


 琴葉は一瞬だけ黙った。


 そのあと、いつもの落ち着いた顔へ戻る。


「では遠慮なく」


「何するつもり?」


「秘密です」


「気になるんだけど」


「兄様には関係ありません」


「二回言った」


「大事なことですので」


 二人は並んで生徒会室を出た。


     ◇


 夜八時過ぎ。


 夕食を終えた彩花は、自室の机で新しいブックカバーの端を縫っていた。


 先週作ったものとは別で、今度は少し厚めの文庫本にも使えるよう幅を調整している。


 白い布に、淡い青色の糸。


 派手ではない。


 でも自分では気に入っている。


 机の上には型紙と糸切りばさみが置かれ、横には途中まで読んだ小説が伏せてあった。


「ここ、もう少し……」


 布を折り返す。


 縫い目を確認する。


 以前なら、完成しても「これくらい誰でもできる」と思ったかもしれない。


 今は。


(……結構きれいかも)


 自分でそう思える。


 まだ「すごく上手」とまでは言えない。


 でも、好きだ。


 得意かもしれない。


 それで十分だと、少しずつ思えるようになってきた。


 スマートフォンが震えた。


「九条君?」


 反射的にそう思ってから、彩花は手を止めた。


 画面を見る。


『九条琴葉』


「あ」


 思わず声が出る。


 琴葉とは、前に会ったあと連絡先を交換している。


 ただ、これまで長いやり取りはしていなかった。


 開く。


『こんばんは。突然すみません。今、お時間大丈夫ですか?』


 琴葉らしい。


 きちんとしている。


 彩花は少し笑いながら返信した。


『こんばんは。大丈夫だよ。どうしたの?』


 少しして。


『先日、彩花さんが使っていたブックカバーのことを聞きたくて。』


「ブックカバー?」


 彩花は自分の手元を見る。


『手作りのやつ?』


『はい。とても綺麗だったので、少し気になっていました。』


 指が止まる。


 綺麗。


 以前なら、すぐに「そんなことない」と返していたかもしれない。


 画面の上に文字を打つ。


『ありがとう。』


 送る。


 それだけ。


 否定しなかった。


「…………」


 自分で少し驚いた。


 でも、嫌ではない。


 琴葉から次のメッセージが届く。


『自分の本に合わせて作れるのですか?』


『作れるよ。文庫本ならそんなに難しくないし、厚さも少し調整できる。』


 送ってから、「そんなに難しくない」と書いたことに気づく。


 また自分の得意を小さく言っている気がした。


 少し迷って、もう一通送る。


『私、裁縫は結構好きだから慣れてるのもあるけど。』


 琴葉から返事が来る。


『以前お話しした「好きで続けているからできる」ですね。』


「……覚えてたんだ」


 彩花は小さく笑う。


『うん。最近、少しだけ得意って思っていいのかなって思えるようになった。』


 送信したあと、胸の奥が少し落ち着かなくなった。


 家族以外へ、ここまではっきり言ったのは初めてかもしれない。


 琴葉の返信は、すぐには来なかった。


 数十秒。


『それは、とても素敵だと思います。』


 続けて。


『私も一票入れます。』


 彩花は笑った。


 以前、琴葉がケーキについて言ってくれた言葉と同じだ。


『票が増えた。』


『凛花先輩、兄様、私で三票でしょうか。』


『お母さんたちも入れたらもっといるよ。』


『では、もう多数決では勝てませんね。』


『何と戦ってるの?』


『彩花さんの「普通です」と戦っています。』


「…………」


 彩花は声を出さずに笑った。


 琴葉は上品で落ち着いている。


 最初に会ったときは、やはり九条家の人なのだと思うくらい綺麗で、少し緊張した。


 でも話してみれば、思っていたよりずっと面白い。


 兄への言葉は容赦がないし、時々真顔で妙なことを言う。


『琴葉さん、九条君に似てるね。』


 送る。


 すぐに。


『どの部分でしょうか。』


『真面目な顔で変なこと言うところ。』


 今度は少し間が空いた。


『不本意です。』


『ごめん。』


『彩花さんに言われると強く否定しづらいです。』


『九条君なら否定する?』


『全力で。』


 彩花はまた笑う。


 しばらくして、琴葉から本題らしいメッセージが来た。


『実は、私もブックカバーを作ってみようかと思いまして。』


『琴葉さんが?』


『はい。買ったものしか使ったことがないので。』


『いいと思う!』


 彩花は少し前のめりになる。


『初めてなら難しくない形あるよ。』


『教えていただけますか?』


『もちろん。』


 そこまで打って、彩花は少し考える。


 文章だけで説明することもできる。


 型紙の写真を送ってもいい。


 けれど。


『今度、一緒に作る?』


 指が止まる。


 送っていいのかな。


 琴葉は九条家の人だ。


 桜華学園の生徒。


 自分とは生活する場所も違う。


 でも。


(友達なんだよね)


 前に、二人でそう決めた。


 彩花は送信した。


 しばらく返信が来ない。


「……あれ」


 早かったかな。


 困らせたかな。


 そう思い始めたところで、画面が震えた。


『ぜひ。』


 その下に。


『とても嬉しいです。』


 彩花の口元が自然に緩む。


『じゃあ、予定合う日にしよう。』


『はい。兄様抜きで。』


「……そこ大事なんだ」


 彩花は笑う。


『九条君、拗ねない?』


『拗ねたら放置します。』


『可哀想。』


『では彩花さんが慰めてあげてください。』


「…………」


 指が止まる。


 何と返せばいいのか分からない。


 琴葉から、すぐ追加が来た。


『冗談です。』


「絶対楽しんでる」


 彩花は小さく呟いた。


 それから。


『琴葉さん、結構九条君で遊ぶよね。』


『兄ですので。』


『理由になってないよ。』


 そこから数往復。


 話題は悠真から離れ、今度は琴葉が普段どんな小物を使うのかという話になった。


 琴葉は派手な柄より、落ち着いた色を好むらしい。


 深い緑。


 紺。


 生成り。


 刺繍を入れるなら、小さな植物模様。


 彩花は手元の布を見ながら、どんなものが似合うだろうと考える。


(琴葉さんなら、深い緑かな)


 黒髪に合いそうだ。


 そんなことを考えていると、メッセージが来た。


『彩花さん。』


『うん?』


『今度、生地も一緒に見ていただけますか?』


『もちろん。』


 迷わず返した。


 琴葉から可愛らしい小さなスタンプが届いた。


「……琴葉さん、こういうの使うんだ」


 意外だった。


 でも、少し嬉しい。


 知らなかった一面を一つ知った。


 それは悠真について知るのとは違う楽しさだった。


 九条琴葉。


 悠真の妹だからではない。


 自分の友達として、もっと知りたい。


 彩花はスマートフォンを机へ置き、縫いかけのブックカバーへ戻った。


 数分後。


 ふと気づく。


(……九条君、今日のこと知らないんだ)


 琴葉とブックカバーを作る約束をした。


 以前なら、悠真に話すことなのか迷ったかもしれない。


 でも今は。


(別に、今すぐ言わなくてもいいか)


 琴葉との話だ。


 次に会ったとき、自然に話題になれば話せばいい。


 全部を悠真へ報告する必要はない。


 それは、悠真を遠ざけるという意味ではなかった。


 むしろ逆だった。


 琴葉との関係が、悠真を通さなくても続いていく。


 そのことが、彩花には嬉しかった。


     ◇


 翌日の火曜日。


 昼休みの桜華学園。


 悠真はいつものように琴葉たちと昼食を取っていた。


 今日は玲奈もいる。


 窓の外は昨日と違い、雲の切れ間から日差しが差している。雨上がりの校庭が光を反射し、教室の中まで少し明るかった。


「そういえば琴葉」


 玲奈がサンドイッチを片手に言う。


「昨日、ずっとスマホ見てなかった?」


「ずっとではありません」


「珍しいなと思って」


「友人と話していました」


「へえ」


 玲奈が笑う。


「誰?」


「彩花さんです」


 悠真の箸が止まる。


 琴葉がそれを見る。


「兄様」


「何?」


「何も言っていません」


「俺も何も言ってない」


「顔が『何の話?』と言っています」


「……何の話?」


「聞くんですね」


 玲奈が楽しそうに二人を見る。


「彩花さんって、前に話してた水瀬先輩の妹さん?」


「はい」


「琴葉、連絡取るようになったんだ」


「友達ですので」


「いいね」


 玲奈は素直に頷いた。


 悠真は少しだけ迷ってから聞く。


「何話してたの?」


「秘密です」


「やっぱり?」


「はい」


「俺の話?」


「少しだけ」


「したんだ」


「ですが、ほとんど別の話です」


「何?」


「兄様には関係ありません」


「それ昨日も言われた」


「今日も同じです」


 玲奈が笑いを堪えている。


「九条、妹に置いていかれてる?」


「置いていかれてない」


「琴葉の方が彩花さんと仲良くなるの早かったりして」


「別に競争じゃないし」


「お」


 玲奈の目が少しだけ細くなる。


「何?」


「いや。普通の答えだなって」


「何を期待してるんだよ」


「もっと『俺の方が先に知り合った』とか言うかと思った」


「言わないよ」


 悠真は水を飲む。


「琴葉と水瀬さんが仲良くなるのは嬉しいし」


「本当に?」


「うん」


「ちょっとも寂しくない?」


「ちょっとは」


 琴葉が顔を上げる。


 玲奈も一瞬黙った。


「でも、それと嬉しいのは別だろ」


 悠真は続ける。


「二人が俺抜きで話せるくらい仲良くなったなら、いいことだと思う」


「……九条」


「何?」


「大人になったね」


「同い年だろ」


「そういう意味じゃなくて」


「兄様」


 琴葉が静かに口を開く。


「何?」


「昨日、彩花さんと約束をしました」


「約束?」


「今度、一緒にブックカバーを作ります」


「…………」


「兄様抜きで」


「最後の一言いる?」


「重要です」


「何で?」


「女子同士ですので」


「別に行きたいって言ってないだろ」


「本当ですか?」


「……ちょっと見たいけど」


「駄目です」


「即答」


「兄様は裁縫できますか?」


「ボタンくらいなら」


「では必要ありません」


「厳しくない?」


 玲奈がとうとう声を出して笑った。


 周囲の生徒が一瞬こちらを見る。


 玲奈は片手を上げて謝るような仕草をし、声を落とした。


「ごめん。でも面白い」


「何が?」


「九条、本当に置いていかれてる」


「だから競争じゃないって」


「琴葉、楽しみ?」


「はい」


 琴葉は迷わず答えた。


「彩花さんに教えていただきます」


「そっか」


 悠真も笑う。


「よかったな」


 その一言に、琴葉が少しだけ目を細めた。


「はい」


 それ以上、悠真は聞かなかった。


 いつ会うのか。


 どこへ行くのか。


 何を作るのか。


 気にはなる。


 でも、琴葉と彩花の約束だ。


 自分が全部知る必要はない。


「玲奈さんも、いつか彩花さんとお会いしますか?」


 琴葉が尋ねる。


「会ってみたいけどね」


 玲奈は頬杖をつく。


「でも急がなくていいよ。琴葉がせっかく友達になったんだし」


「そうですか?」


「うん。私まで一気に入ったら、水瀬さん疲れるかもしれないし」


 悠真は玲奈を見る。


 少し意外だった。


「何?」


「いや」


「私だって空気くらい読むよ」


「何も言ってない」


「顔に出てる」


「最近みんなそれ言うな」


「九条が分かりやすいんじゃない?」


 玲奈は笑った。


 そのまま話題は別のものへ移っていく。


 悠真も昼食へ戻った。


 琴葉と彩花。


 自分の知らないところで、二人の関係が少しずつ進んでいる。


 それを思うと、ほんの少しだけ置いていかれたような気もする。


 でも。


(……いいか)


 日曜日に彩花と話す時間は、自分と彩花のものだ。


 琴葉には琴葉との時間がある。


 その方が自然だ。


 悠真はそこで考えるのをやめた。


     ◇


 水曜日の放課後。


 彩花は文芸部室で原稿を書き終えたあと、鞄から昨日完成したブックカバーを取り出した。


 白地に淡い青の糸。


 表面には、小さな葉の刺繍を一つだけ入れてある。


「水瀬、それ作ったの?」


 隣にいた部員が気づいた。


「うん」


「見せて」


「いいよ」


 手渡す。


 部員は表と裏を確認し、縫い目までじっと見た。


「すご」


「…………」


「これ普通に売れるんじゃない?」


 以前なら。


『そんなことないよ』


 すぐにそう言っていた。


 彩花は口を開きかける。


 でも、止めた。


 凛花。


 悠真。


 琴葉。


 家族。


 いろいろな人が、自分の作るものを褒めてくれた。


 そのたびに「簡単だから」「誰でもできるから」と返してきた。


 けれど。


 好きで続けた。


 何度も作った。


 失敗もした。


 縫い目が曲がったこともある。


 布を切り間違えたこともある。


 今は、前より綺麗に作れる。


 それを自分で認めてもいい。


「……裁縫は」


 声が少し小さくなる。


 部員が待っている。


「結構、得意かも」


 言った。


 胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。


「だよね」


 相手は驚かなかった。


 当然のように頷いた。


「前から思ってた」


「そうなの?」


「うん。文化祭で何か作って売れば?」


「文芸部なのに?」


「しおりとかブックカバーなら本関係じゃん」


「ああ」


「部誌とセット」


「勝手に決めないでよ」


 二人で笑う。


 それだけだった。


 誰も「凛花より上手」とは言わなかった。


 誰かと比べもしなかった。


 ただ、彩花が裁縫を得意だと言った。


 相手が、それを普通に受け取った。


(……こんな感じなんだ)


 もっと大きなことだと思っていた。


 自分の得意を認めたら、何か変わってしまうような気がしていた。


 でも、何も壊れない。


 誰かを下げることにもならない。


 姉を否定することにもならない。


 自分が得意なものを得意と言うだけだった。


「水瀬?」


「何?」


「また考えてる」


「ううん」


 彩花はブックカバーを受け取る。


「ちょっと嬉しかっただけ」


 今度は、その言葉も素直に出た。


     ◇


 帰宅後。


 彩花は自室の机へブックカバーを置き、少し眺めた。


 今日のことを、誰かに話したいと思った。


 最初に浮かんだのは凛花だった。


 帰ってきたら話そう。


 母にも見せたい。


 琴葉にも、今度会ったとき見せよう。


 それから。


 悠真。


「…………」


 スマートフォンを見る。


 月曜日に雨の話をした。


 その後は連絡していない。


 昨日も今日も、悠真からメッセージはなかった。


 自分も送っていない。


 でも、今は少し話したい。


 彩花はブックカバーを机の上へ置き、写真を一枚撮った。


 送る前に確認する。


 机の端に余計なものが写っていたので撮り直す。


「……何してるんだろ」


 少し恥ずかしくなる。


 でも、送る。


『新しいの完成した。』


 写真を添える。


 送信。


 すぐに返信は来ない。


 彩花はそのまま制服から着替え、洗面所へ行った。


 戻ると通知があった。


『すごい。前に作ってたやつ?』


『そう。今日部活に持っていった。』


 少し迷う。


 今日の出来事も書く。


『部員の子に褒められて、裁縫は得意かもって言えた。』


 送信。


 今度は返信を待ってしまった。


 一分ほど。


 画面が震える。


『それ、すごくいいと思う。』


 続いて。


『前より「普通だから」って言わなくなった?』


 彩花は少し驚いた。


 悠真は覚えている。


 自分が何度も「普通」と言っていたこと。


『少しだけ。』


 送る。


『まだ言うけど。』


『少しずつでいいんじゃない?』


「…………」


 悠真らしい。


 無理に「もっと自信持って」とは言わない。


 できたことだけを受け取ってくれる。


 彩花は画面を見ながら、小さく笑った。


『琴葉さんにも今度ブックカバー教えることになった。』


 送る。


 返信。


『聞いた。』


「早い」


『もう知ってるの?』


『昨日琴葉に言われた。俺抜きでって強調された。』


 彩花は声を出して笑った。


『やっぱり拗ねた?』


『拗ねてない。』


『本当に?』


『ちょっとだけ。』


「正直」


 彩花は笑いながら打つ。


『じゃあ今度、九条君にも何か作る?』


 送信しようとして。


 指が止まった。


「…………」


 何か作る?


 九条君に?


 手作りのものを?


 以前、クッキーやケーキは渡している。


 それなのに、なぜかブックカバーとなると少し違う気がした。


 長く残るからだろうか。


 悠真が使うところを想像したからだろうか。


(別に友達に作ってもおかしくないよね)


 でも。


 頼まれていない。


 突然言うのも変かもしれない。


 彩花は一度文章を消した。


 代わりに。


『九条君も裁縫やってみる?』


 送る。


 すぐに返事が来た。


『ボタン付けくらいしかできない。』


『琴葉さんにも同じこと言った?』


『言った。必要ありませんって言われた。』


『厳しい。』


『水瀬さんまで笑ってる?』


『ちょっと。』


『ひどい。』


 やり取りはそこで一度止まった。


 彩花はスマートフォンを置く。


 さっき消した文章が、少しだけ頭に残った。


(何か作る、か)


 ブックカバー。


 悠真は本をよく読む。


 使う機会は多いだろう。


 どんな色が似合うだろう。


 濃い青。


 灰色。


 深い緑も合いそうだ。


「…………」


 そこまで考えて、彩花は首を振った。


「まだ頼まれてないから」


 誰に言い訳しているのか分からない。


 机の上の白いブックカバーを手に取る。


 それでも頭の片隅には、悠真が本を読む姿と、その手元に自分の作ったものがある光景が、しばらく残っていた。


     ◇


 同じ夜。


 悠真は自室で、彩花から送られてきた写真をもう一度見ていた。


 白いブックカバー。


 淡い青の刺繍。


 以前、図書館で見たものより少し大きい。


「……上手いよな」


 独り言が漏れる。


 彩花が自分で「得意かも」と言えたことも嬉しかった。


 以前は、褒めるたびに「普通」「簡単」と返していた。


 それが少しずつ変わっている。


 自分が変えたとは思わない。


 そんな大げさなものではない。


 凛花。


 家族。


 琴葉。


 学校の友人。


 いろいろな人の言葉と、彩花自身が積み重ねてきたものがある。


 自分は、その中の一人でいい。


 スマートフォンを閉じる。


 机には、今読んでいる文庫本が置かれている。


 市販の黒いブックカバーがかかっている。


「…………」


 さっき彩花から。


『九条君も裁縫やってみる?』


 と聞かれた。


 自分が作る。


 たぶん悲惨なことになる。


 琴葉に見せたら笑われるだろう。


 でも。


(……水瀬さんに教えてもらうなら、ちょっとやってみたいかも)


 そう思う。


 裁縫に興味があるというより、一緒に何かをする時間に興味がある。


 それは自分でも分かる。


 ただし、琴葉との約束へ割り込む気はない。


 あれは二人の時間だ。


「別の日なら……」


 そこまで考えて、悠真は少し笑った。


 以前なら、この時点で「二人で裁縫?」「家?」「どこで?」と先の先まで考えていたかもしれない。


 今は。


(今度聞けばいいか)


 それで終わる。


 次の日曜日。


 図書館で会ったとき。


 覚えていれば聞く。


 忘れたなら、それはそれでいい。


 悠真は本を開いた。


 数ページ読み進める。


 スマートフォンは鳴らない。


 でも、気にならなかった。


 月曜日には雨の話をした。


 水曜日にはブックカバーの話をした。


 毎日ではない。


 朝から夜まででもない。


 それでも、以前なら次の日曜日まで知らなかったはずの彩花の日常を、少しだけ知った。


 そして彩花も、自分の平日の中へ少しだけ入ってきた。


 そのくらいが、今はちょうどよかった。


     ◇


 金曜日の夕方。


 水瀬家のリビングで、凛花は彩花が完成させたブックカバーを手に取っていた。


「綺麗」


「本当?」


「うん」


 彩花は隣に座る。


「今日じゃなくて、水曜日に部活でも褒められた」


「そう」


「それでね」


 少しだけ間を置く。


「裁縫は得意かもって言えた」


 凛花の指が止まった。


 彩花は気づかず続ける。


「何か、言ってみたら普通だった」


「普通?」


「あ、違う。そういう普通じゃなくて」


 彩花は自分で笑う。


「大変なことじゃなかったって意味」


「うん」


「得意って言ったからって、お姉ちゃんより私が上とか、誰かより上とか、そういう話じゃないんだね」


「……うん」


「私が得意。それだけでいいんだなって」


 凛花はブックカバーへ視線を落とした。


 胸の奥に、いくつもの記憶が浮かぶ。


 幼い彩花。


 親戚に自分と比べられて、それでも笑っていた妹。


『お姉ちゃんすごいね』


 そう言いながら、自分の作ったものを後ろへ隠したこともあった。


 凛花は知っていた。


 全部ではない。


 けれど、気づいていた。


 だからこそ、今の言葉が嬉しかった。


「彩花」


「何?」


「それでいいのよ」


「うん」


「本当に」


 少し声が強くなった。


 彩花が姉を見る。


「お姉ちゃん?」


「何でもない」


「何か泣きそう?」


「泣いてない」


「本当?」


「本当」


 凛花はブックカバーを返した。


 彩花は受け取りながら、少し不思議そうにしている。


「そういえば」


 凛花が話題を変える。


「琴葉さんに教えるんだって?」


「うん。今度ね」


「連絡取ってるの?」


「取ってるよ」


「九条君抜きで?」


「うん」


 凛花は少し笑った。


「何?」


「別に」


「お姉ちゃんも最近それ多いよ」


「何が?」


「別に」


「そう?」


「そう」


 彩花はブックカバーを膝へ置く。


「琴葉さんと話すの楽しいよ」


「よかったじゃない」


「うん。最初は九条君の妹だから会ってみたいって思ったけど」


 少し考える。


「今は、琴葉さんだからまた会いたい」


 凛花は静かに頷いた。


「それが友達なんじゃない?」


「……そっか」


「九条君関係なく会いたいんでしょう?」


「うん」


「なら、そういうことでしょ」


 彩花は少し笑った。


 友達が増えた。


 別の学校に。


 悠真。


 琴葉。


 始まりは同じ場所だったかもしれない。


 でも、今はそれぞれ違う関係になっている。


「お姉ちゃん」


「何?」


「何か、不思議」


「何が?」


「前まで桜華って、お姉ちゃんの学校だったのに」


「今は?」


「九条君と琴葉さんがいる学校でもある」


 凛花は一瞬だけ黙った。


 彩花の世界が広がっている。


 自分が先にいた場所へ、妹が自分とは別の道から繋がっていく。


 少し寂しい。


 でも、それ以上に嬉しい。


(彩花の世界に、私が知らない人が増えていくんだ)


 姉としては複雑だ。


 けれど、それはきっと、喜ぶべきことなのだろう。


 凛花はそんな自分の気持ちを胸の奥へしまい、膝の上に置かれた彩花の手へ視線を落とした。そこには、さっきまでブックカバーを持っていたせいか、淡い青色の糸が一本だけ絡んでいる。


「彩花、糸ついてる」


「え?」


「ここ」


 凛花が指先で取ってやると、彩花は自分の手を見てから小さく笑った。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 たったそれだけのやり取りだった。


 けれど凛花は、幼い頃から何度も見てきた妹の笑顔が、最近ほんの少し変わったような気がしていた。誰かに褒められたあと、それを打ち消すための言葉を探すことが減った。何かを好きだと言うときにも、以前より声がまっすぐになった。


 もちろん、すべてが変わったわけではない。


 今でも彩花は自分を「普通」と呼ぶことがあるし、誰かと比べられれば昔の癖が顔を出すだろう。長い時間をかけて身についたものが、数週間で消えるはずもなかった。


 それでも。


(ちゃんと、進んでる)


 凛花はそう思った。


 そして、その変化の中に九条悠真の言葉があることも、もう否定するつもりはなかった。


 少し前なら、それだけで複雑な気分になっていたかもしれない。妹へ近づく男というだけで警戒し、その一言一言に余計な意味がないか探していただろう。


 今も警戒がなくなったわけではない。


 ただ、悠真が彩花を自分と比べず、彩花自身を見ていることは分かってきた。


 何より、急がない。


 連絡先の交換ひとつ取っても、彩花が「今ならいい」と思うまで待った。そのことを知ってから、凛花の中にあった棘のようなものは少しだけ丸くなっている。


(……まあ、まだ認めたわけじゃないけど)


 何を認めるのかは、自分でもあえて考えなかった。


「お姉ちゃん?」


「何?」


「また難しい顔してる」


「してない」


「してるよ」


 彩花が覗き込んでくる。


 凛花はわずかに身体を引いた。


「彩花の気のせい」


「九条君もよくそれ言う」


「…………」


 凛花の眉が動いた。


「何でそこで九条君が出てくるの?」


「え?」


「今の話に必要だった?」


「同じこと言うなって思っただけだけど」


「そう」


「……お姉ちゃん?」


「何でもない」


 彩花が怪訝そうな顔をする。


 凛花は平静を装ってテレビへ視線を向けた。


(会話の比較対象に自然に出てくるようになってる……)


 それが良いことなのか、警戒すべきことなのか。


 姉としての判断はまだ保留にしておくことにした。


     ◇


 土曜日の午後。


 雨上がりの青凪市は、雲の隙間から久しぶりに明るい日差しが差していた。


 道路脇の植え込みには水滴が残り、風が吹くたびに葉の先から小さな雫が落ちていく。梅雨の湿気は残っているものの、連日の雨に比べれば外を歩きやすい日だった。


 彩花は駅前の手芸店で、布地が並ぶ棚を眺めていた。


「……これもいいな」


 深い緑色の布を手に取る。


 無地。


 少し厚めで、触ると柔らかい。


 琴葉に似合いそうだと思った。


 まだ一緒にブックカバーを作る日は決めていない。今日は自分の買い物で来ただけだが、棚を見ていると自然に琴葉のことを考えてしまう。


(でも、本人に選んでもらった方がいいよね)


 彩花は布を棚へ戻した。


 せっかくなら、一緒に見たい。


 深い緑が似合うと思っても、琴葉自身が別の色を気に入るかもしれない。


 以前の自分なら、相手に似合うものを先回りして用意した方が親切だと思ったかもしれない。けれど、悠真と話しているうちに、相手が選ぶ余地を残すことも大切なのだと少しずつ感じるようになっていた。


 彩花は自分用の糸だけを籠へ入れた。


 会計を済ませ、店を出る。


 スマートフォンを確認すると、琴葉から一件だけメッセージが届いていた。


『先ほど母に予定を確認しました。来週の土曜日でしたら午後から空いています。彩花さんはいかがでしょうか。』


「あ」


 彩花は店先から少し離れ、人通りを避けて建物の脇へ寄った。


 来週土曜日。


 頭の中で予定を確認する。


 文芸部は休み。


 家族との予定もない。


 ただ。


「……あれ?」


 何かあったような気がする。


 数秒考えて、思い出した。


 古本市。


 悠真と一緒に行く約束をしているのは、そのさらに先の第二土曜日だった。


「大丈夫だ」


 小さく呟く。


 最近、週末の予定が以前より増えた。


 少し前までなら、土曜日は家で本を読むか、お菓子を作るか、文芸部があれば学校へ行くくらいだった。日曜日に図書館へ行くことだけは昔から変わらないが、そこに誰かと会う約束が重なることはほとんどなかった。


 今は違う。


 日曜日には悠真と会うことが増えた。


 来週は琴葉と手芸店を見る。


 その先には悠真と古本市へ行く予定もある。


(……何か、忙しい人みたい)


 彩花は少し笑った。


 忙しいと言っても、世間一般から見れば大した予定ではない。


 それでも自分にとっては新鮮だった。


『大丈夫だよ。私も午後空いてる。』


 返信する。


 すぐには返事が来なかったので、彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。


 駅前の通りを歩き始める。


 その途中、洋菓子店の前を通った。


 ショーウィンドウには季節限定の菓子が並んでいる。


 レモン。


 蜂蜜。


「……あ」


 第十八話ではない、もっと前の日曜日。


 悠真と初めて会った日。


 図書館へ向かう途中で見かけた組み合わせだった。


 あの日は、帰ったら作ってみようかと考えていた。


 ずいぶん前のことのように感じる。


 実際には、まだそれほど長い時間は経っていない。


(あのときは、名前も知らなかったんだよね)


 高い棚の本を取ってもらった。


 同じ本を読みたかった。


 少し話した。


 それだけだった。


 次の週にまた会う保証さえなかった。


 今は、スマートフォンの中に『九条悠真』という名前がある。


 明日も、互いに都合が悪くなければ午後二時頃に図書館へ行く。


 来月には一緒に古本市へ行く。


 変わった。


 けれど、急に変わったわけではない。


 一つずつ増えたのだ。


 本の感想。


 名前。


 学校。


 好きなもの。


 貸し借りした本。


 友達という呼び方。


 連絡先。


 そして、会っていない平日にも交わす短い言葉。


 彩花は歩きながら、鞄の中のスマートフォンへそっと触れた。


(……明日、会えるかな)


 そう思ったあと、自分の中に浮かんだ言葉をわざわざ打ち消そうとはしなかった。


 会えたら嬉しい。


 それだけなら、もう認めてもいい気がした。


     ◇


 日曜日の午後一時五十分。


 青凪市立中央図書館の窓際には、梅雨の合間の白い光が差し込んでいた。


 冷房はまだ強くなく、館内には紙の匂いと、わずかに湿った外気の名残が混じっている。休日らしく利用者は多かったが、話し声は低く抑えられ、ときどき本を棚へ戻す音が静かな空間へ響いていた。


 悠真はいつもの棚の前で、一冊の文庫本を手にしていた。


 時計を見る。


 一時五十分一分。


「…………」


 早い。


 自分でも分かっている。


 約束ではない。


 二時頃。


 来られる日に来る。


 そう決めただけだ。


 それなのに今日は、少し早く家を出てしまった。


(まあ、本見る時間増えるし)


 理由としては十分だと思うことにした。


 棚へ視線を戻す。


 数分後、入口の方から聞き慣れた声がした。


「こんにちは」


 悠真は振り返る。


 彩花が、返却カウンターの職員へ頭を下げているところだった。


 肩にはいつもの鞄。


 手には返却する本が二冊。


 悠真が声をかけるより先に、彩花がこちらを見た。


 視線が合う。


 その表情が、ふっと緩んだ。


 ほんの少しだけ。


 けれど悠真には十分だった。


「九条君」


「こんにちは、水瀬さん」


「早いね」


「水瀬さんも」


 彩花は壁の時計を見る。


「まだ二時前だった」


「俺も今来たところ」


「本当?」


「……十分くらい前」


「それ、今?」


「図書館基準なら」


「何その基準」


 彩花が笑う。


 悠真もつられて口元を緩めた。


 月曜日には雨の話をした。


 水曜日にはブックカバーの写真を見た。


 平日の間にも少しだけ会話があった。


 そのせいなのか、一週間ぶりという感じが以前より薄い。


「返却してくるね」


「うん」


 彩花がカウンターへ向かう。


 悠真はその背中を見送り、それから手元の本へ視線を戻した。


 数分後、彩花が戻ってくる。


「お待たせ」


「全然」


「九条君、何見てたの?」


「これ」


 表紙を見せる。


「あ、それ」


「知ってる?」


「読んだことある」


「面白かった?」


「私は好きだったよ。でも九条君なら、たぶんこっちの方が好きかも」


 彩花は隣の棚へ手を伸ばし、一冊を抜き取った。


「同じ作家なら、こっち」


「何で?」


「九条君、登場人物が全部説明してくれる話より、ちょっと余白ある方が好きでしょう?」


 悠真は本を受け取る。


「……よく分かったな」


「何回も本の話してるから」


「そっか」


「違った?」


「合ってる」


 悠真は表紙を見る。


 彩花が自分の好みを知っている。


 以前なら、その事実だけで頭の中にいくつもの意味を並べていたかもしれない。


 今は素直に嬉しかった。


「じゃあ、こっち借りようかな」


「私のせいで面白くなかったらごめんね」


「そのときは感想言う」


「正直に?」


「正直に」


「ちょっと怖い」


「勧めたの水瀬さんだろ」


「そうだけど」


 二人は声を抑えて笑った。


 そのまま棚をゆっくり見ていく。


 少しして、悠真が思い出したように言った。


「そういえば、ブックカバー」


「うん?」


「琴葉に教えるんだろ?」


「来週の土曜日に会うことになったよ」


「もう日程決まったんだ」


「昨日決めた」


「早いな」


「九条君、また拗ねてる?」


「拗ねてない」


 彩花が横から顔を覗き込む。


「本当に?」


「……ちょっと羨ましいだけ」


「何が?」


「水瀬さんに裁縫教えてもらえるの」


 彩花は瞬きをした。


「九条君もやりたいの?」


「少し」


「ボタンしか付けられないのに?」


「琴葉から聞いた?」


「聞いた」


「情報共有されてる」


「友達だから」


「俺の情報だけ共有しすぎじゃない?」


 彩花が口元を押さえて笑う。


 悠真は少し不満そうな顔を作ったが、本気で嫌なわけではない。


「でも、本当にやってみたいなら教えるよ」


「いいの?」


「うん。そんなに難しいのじゃなければ」


 彩花はそこで一度言葉を止めた。


 少し前なら「誰でもできる」と続けていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


「私、教えるくらいならできると思う」


 悠真が彩花を見る。


 すぐには何も言わなかった。


 その沈黙に、彩花の方が少し落ち着かなくなる。


「……何?」


「いや」


「変だった?」


「逆」


 悠真は小さく笑った。


「今の、すごくいいなと思って」


「…………」


「前だったら『簡単だから』って言ってた気がする」


「……言ってたかも」


「だから」


 悠真はそれ以上、大げさに褒めなかった。


「教えてもらえるなら、楽しみにしてる」


「うん」


 彩花も、それだけで十分だった。


 少し照れくさくて、棚の背表紙へ視線を戻す。


「じゃあ、いつかね」


「いつか」


「琴葉さんとの練習が終わってから」


「俺、二番目?」


「競争じゃないでしょう?」


「それ琴葉にも言われた気がする」


「九条君、結構競争したがるよね」


「ハク以外とはしてない」


「田辺君のマドレーヌ三個」


「…………」


「ほら」


「それは競争じゃない」


「じゃあ何?」


「多いなと思っただけ」


「まだ覚えてるし」


「水瀬さんだって覚えてるだろ」


「九条君がずっと言うからだよ」


 彩花が笑う。


 悠真も言い返そうとして、やめた。


 たしかに、そこは自分が悪い。


「……もう言わない」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


 二人の間に、柔らかな笑いが残った。


 近くの棚で本を探していた年配の男性が一度だけこちらを見たため、二人はほとんど同時に声を小さくする。


「図書館だった」


「忘れてた」


「九条君のせい」


「俺?」


「マドレーヌの話するから」


「水瀬さんも乗ってたじゃん」


 囁くような声で言い合いながら、二人は棚の奥へ移動した。


 窓の外には、久しぶりの青空が少しだけ見えている。


 月曜日から金曜日までの間に、二人が交わしたメッセージは多くない。


 雨のこと。


 傘のこと。


 ブックカバーのこと。


 それだけだった。


 けれど、日曜日に会ったとき、話の続きがいくつも残っていた。


 会っていない時間が途切れていたのではなく、互いの日常がほんの少しだけ繋がっていた。


「水瀬さん」


「うん?」


「連絡先、交換してよかったな」


 悠真が本棚を見たまま言った。


 彩花は少しだけ目を見開いた。


 その言葉に、何か大きな意味を探す必要はなかった。


 月曜日の雨。


 水曜日のブックカバー。


 それがなければ、今日まで知らなかったこと。


 彩花は手にしていた本の背を指先でなぞりながら、ゆっくり頷いた。


「うん。私もそう思う」


 声にしてみても、恥ずかしさは思ったほどなかった。


「毎日じゃなくてもいいし」


「うん」


「何かあったときに話せるの、いいね」


「俺も、そのくらいが好き」


「じゃあ今のままで」


「今のままで」


 二人は顔を見合わせた。


 何かを決めたというほど、大げさな会話ではない。


 連絡する回数を約束したわけでもなければ、毎日何時に話すと決めたわけでもない。


 それでも、二人には十分だった。


 少しずつ増えたものを、急に大きくしない。


 居心地がいいと思える速度を、そのまま大事にする。


 彩花はそれから、棚の一番下に見覚えのないタイトルを見つけてしゃがみ込んだ。


「あ、これ」


「何?」


「古本市に出てるお店の一つ、前にこの出版社の古い本を扱ってた気がする」


 悠真も隣へ少し身を屈める。


「来月の?」


「うん」


「楽しみ?」


 何気ない問いだった。


 彩花は本を棚から抜きながら答える。


「楽しみだよ」


 そこで一度だけ言葉を切り、悠真を見る。


「九条君と一緒に見るのも」


 悠真の動きが止まった。


「…………」


「九条君?」


「いや」


「どうしたの?」


「今のは、ちょっと不意打ちだった」


「何が?」


「何でもない」


「またそれ」


「本当に何でもない」


 耳が少し赤い。


 彩花は不思議そうに見ていたが、それ以上は追及しなかった。


 自分が言った言葉を頭の中でもう一度思い返す。


(九条君と一緒に見るのも楽しみ)


 おかしなことを言っただろうか。


 友達と出かけるのを楽しみにするのは普通だ。


 そう考えたところで、彩花は少しだけ笑った。


 今度の「普通」は、自分を小さくするための言葉ではなかった。


 ただ、本当にそう思っただけだ。


「九条君」


「何?」


「その本、借りる?」


「借りる」


「じゃあ、読んだら感想聞かせて」


「うん」


 悠真は本を手に取った。


 彩花も別の一冊を選ぶ。


 二人は並んで貸出カウンターへ向かった。


 最初の日曜日と同じ図書館。


 同じように本を選び、同じように感想を話す。


 それなのに、あの日とは少し違う。


 名前を知っている。


 好きな本を知っている。


 友達だと知っている。


 会えない日にも、少しだけ話せる。


 来週の日曜日に必ず会えるとは限らない。


 それでも、もう「次に会えるか分からない人」ではなかった。


 平日の中にも、少しだけ。


 相手のいる場所ができていた。

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