第17話 今度は、ちゃんと連絡できるように
次の日曜日、青凪市立中央図書館の時計が午後一時五十分を指した頃、水瀬彩花はいつもの窓際の席に座っていた。
六月下旬の空は朝から薄曇りで、雨が降るほどではないものの、窓の向こうには灰色の雲が低く広がっている。館内には冷房の風と紙の匂いが静かに混じり、閲覧席では試験勉強らしい高校生たちがノートへ向かっていた。
彩花の前にも、一冊の文庫本が開かれている。
けれど、先ほどからページはほとんど進んでいなかった。
「…………」
ちらりと入口の方を見る。
すぐに視線を本へ戻す。
数行読む。
また、少しだけ顔を上げる。
(……先週と同じことしてる)
気づいてしまい、彩花は小さく息を吐いた。
先週の日曜日。
悠真は来なかった。
結局、午後三時を過ぎるまで図書館にいたが、姿を見ることはなかった。
何かあったのか。
体調を崩したのか。
家の用事だったのか。
学校関係だったのか。
一週間、ずっと心配していたわけではない。
月曜日には学校へ行き、文芸部の原稿を書いた。
火曜日には家庭科の課題を終わらせ、水曜日には凛花とテレビを見ながらアイスを食べた。
木曜日には部活で文化祭用の作品について話し合い、金曜日にはクラスメイトと昼休みに笑った。
土曜日には母の紗月と買い物へ行き、夕食の手伝いもした。
いつも通りの一週間だった。
それでも、ときどき思い出した。
(九条君、大丈夫だったかな)
それだけが、ずっと小さく残っていた。
だから今日は、いつもより少し早く家を出た。
別に急いだわけではない。
――と、自分では思っている。
「……十分早い」
時計を見る。
一時五十一分。
先週の自分たちが決めたのは、「日曜日、二時くらい」。
厳密な待ち合わせではない。
用事がある日は来なくていいし、来られなくても心配しすぎない。
そんな緩い決め方だった。
それでも彩花は、今日は来てほしいと思っている。
先週どうしたのか聞きたい。
大丈夫だったのか確認したい。
それから――。
鞄の中のスマートフォンを意識する。
(……連絡先)
今日は、その話もしたい。
以前、自分から「もう少しこのままでもいいですか」と言った。
あのときは本当にそう思っていた。
連絡先を交換してしまったら、何かが急に変わるような気がしたのだ。
毎日連絡を取るのか。
返信しなければいけないのか。
今まで図書館で会ったときだけ話していた関係が、急に日常の中へ入り込んでくるのか。
そう考えると、少しだけ怖かった。
けれど今は。
悠真のことは、すでに日常の中にいる。
学校で面白い本を見つければ、九条君は読むかなと思う。
お菓子を作れば、前に食べたときの感想を思い出す。
琴葉と会えば、悠真の妹だということだけではなく、琴葉自身とまた話したいと思う。
文芸部で人と人が仲良くなる話を書けば、自分たちのことが少し頭をよぎる。
連絡先を交換しないことで守ろうとしていた距離は、いつの間にか別の形へ変わっていた。
(だから、今日は――)
自動扉の開く音がした。
彩花は考えるより先に顔を上げた。
入口から、一人の少年が入ってくる。
白いシャツ。
濃い色のパンツ。
学校の制服ではない。
いつもの日曜日に近い服装だった。
悠真も、入ってすぐに窓際へ目を向けた。
視線が合う。
「…………」
彩花の胸から、息が抜けた。
自分でも分かるくらい、肩の力が緩んだ。
悠真も一瞬だけ足を止めたあと、こちらへ歩いてくる。
「水瀬さん」
「九条君」
声が重なった。
二人とも止まる。
「……先どうぞ」
「九条君から」
「いや、水瀬さんから」
「何それ」
彩花が笑う。
その笑顔を見て、悠真も少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ」
彩花は開いていた本を閉じる。
「先週、どうしたの?」
思っていたより真っ直ぐな言葉になった。
悠真の顔から笑みが少し消える。
「ごめん」
「謝る前に」
「うん」
「何かあった?」
彩花の声には責める響きがなかった。
心配。
悠真には、すぐに分かった。
「じいちゃんが体調崩したんだ」
「え」
彩花の表情が変わる。
「大丈夫なの?」
「大丈夫。念のため病院行ったけど、検査も問題なかった」
「本当に?」
「うん。もう普通にしてる」
彩花はしばらく悠真の顔を見た。
嘘をついている様子はない。
「……よかった」
小さく息を吐く。
その声に混じった安堵が、悠真の胸へ静かに届いた。
「学校の説明会が午前中にあって、そのあとじいちゃんのところに行ったんだ」
「説明会もあったの?」
「うん。生徒会で手伝い」
「じゃあ、忙しかったんだ」
「でも」
悠真は向かいの席へ座る前に、一度立ち止まった。
「水瀬さんに連絡できなかった」
「……うん」
「来てた?」
彩花は一瞬だけ迷った。
来ていた。
待っていた。
何度も入口を見た。
午後三時までいた。
そこまで全部言うのは、少し恥ずかしい。
「来てたよ」
「やっぱり」
「三時くらいまで」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって」
「でも待たせた」
「ずっと待ってたわけじゃないよ。本読んでたし」
「それでも」
「九条君」
彩花は少しだけ声を強くした。
「おじいさんが体調崩したんでしょう?」
「うん」
「だったら、そっちに行って当然だよ」
「……うん」
「だから、来なかったことは怒ってない」
そこで一度、言葉を切る。
「ただ」
悠真が待つ。
彩花はテーブルの上で指を重ねた。
「心配した」
静かな声だった。
図書館の空気に消えてしまいそうなくらい小さい。
けれど、悠真にははっきり聞こえた。
「何かあったのかなって。九条君が体調悪いのかなとか、学校で何かあったのかなとか」
「……そっか」
「うん」
「ごめん」
「また謝った」
「これは、心配させたから」
「それなら……まあ」
彩花は少しだけ頬を膨らませる。
「一回だけ」
「分かった」
「おじいさん、本当に大丈夫?」
「本当に。昨日も電話したけど元気だった」
「よかった」
もう一度同じ言葉を口にする。
今度は、さっきより柔らかかった。
悠真は向かいの席へ腰を下ろす。
先週の日曜日から胸の中に残っていたものが、ようやく一つ消えた気がした。
「水瀬さん」
「何?」
「俺も聞いていい?」
「うん」
「先週、俺が来なかったとき」
「うん」
「……残念だった?」
彩花の目が少し大きくなった。
「何で聞くの?」
「俺は会えなくて残念だったから」
「…………」
あまりに普通に言われた。
以前なら、悠真自身がその言葉を口にしたあとで固まっていたかもしれない。
今は違う。
会えなかった。
残念だった。
だからそう言った。
ただそれだけの顔をしている。
その自然さのせいで、彩花の方が困った。
「……ずるい」
「何が?」
「先に言うの」
「じゃあ聞かない方がよかった?」
「そうじゃなくて」
彩花は本の表紙へ視線を落とす。
自分も先週、同じことを思った。
認めた。
友達と会えなければ残念に思う。
何もおかしくない。
そう考えたはずだ。
「……残念だったよ」
言ってしまえば、思ったより簡単だった。
「会えると思ってたから」
悠真の目元が僅かに柔らかくなる。
「そっか」
「何、その顔」
「嬉しい」
「何で?」
「俺だけじゃなかったから」
彩花は返事に困り、口を閉じた。
胸の奥が少しだけむず痒い。
恋愛ではない。
友達だ。
友達なのだから、会えなくて残念でもおかしくない。
分かっている。
分かっているのに、悠真から「嬉しい」と言われると、どうしてこんなに落ち着かないのかは分からなかった。
「本、探してくる」
「今?」
「今」
「逃げた?」
「逃げてない」
立ち上がる彩花を見て、悠真が笑う。
「笑わないで」
「ごめん」
「絶対反省してない」
「してる」
「してない」
声を抑えながら言い返し、彩花は書架へ向かった。
数歩進んだところで、少しだけ息を吐く。
(……九条君、最近こういうこと普通に言う)
以前よりも、ずっと。
それが困る。
嫌ではない。
むしろ。
「…………」
そこから先を考えそうになり、彩花は目の前の本へ意識を戻した。
◇
その日は、すぐに連絡先の話にはならなかった。
二人とも、話そうと思っていた。
けれど一週間ぶりに会えば、先に話したいことがいくつもあった。
彩花が作った新しいブックカバー。
悠真が手伝った学校説明会。
文化祭へ向けて彩花が書いている短編。
琴葉が先週の初対面を喜んでいたこと。
俊治が体調を崩したあと、家族が集まったこと。
話題は一つから次へ自然に移り、気づけば一時間ほど経っていた。
「琴葉さん、本当にそう言ってたの?」
「うん」
「何て?」
「水瀬さんとまた話したいって」
彩花が少し嬉しそうに笑う。
「私も」
「言ってた」
「え?」
「水瀬さんも琴葉に言ってたって」
「本人に言ったのと、九条君に言うのは違うでしょう」
「違う?」
「……何となく」
「また何となく?」
「そういうこともあるの」
彩花は少し考えてから続ける。
「琴葉さん、本の話できるから楽しかった」
「俺もできるけど」
「知ってるよ」
「じゃあいいけど」
「何その張り合い」
「張り合ってない」
「ハクのときも同じこと言いそう」
悠真が黙った。
彩花は目を細める。
「言うんだ」
「……ハクは別」
「何が別なの?」
「水瀬さん、絶対ハクの方行くから」
「だって可愛いもん」
「ほら」
「九条君とハクならハクに決まってるでしょう」
「即答?」
「だって比べるものじゃないし」
「だったら即答しなくても」
悠真は少し不満そうだった。
彩花は笑いを堪えきれず、口元を手で覆う。
近くの席にいた女性がこちらを見たため、二人とも慌てて声を落とした。
「静かにしないと」
「水瀬さんが笑うから」
「九条君が変なこと言うからでしょう」
「俺?」
「ハクに張り合ってる」
「張り合ってない」
「はいはい」
「信じてないな」
そんな話をしているうちに、先週会えなかった一日が少しずつ遠くなる。
彩花はそれが不思議だった。
会えなかったときは、次の日曜日まで長いと思った。
けれど会ってしまえば、一週間分の距離が一気に戻ったような気がする。
それどころか。
会えなかったからこそ分かったこともある。
「九条君」
「何?」
今度こそ。
彩花は鞄へ手を伸ばした。
スマートフォンを取り出す。
テーブルの上へ置いた。
悠真がそれを見る。
「……あのね」
「うん」
「先週、ちょっと思ったことがあって」
心臓が少しだけ速くなる。
以前、自分から断った話だ。
だからこそ、今度も自分から言いたかった。
「前に、連絡先の話したでしょう?」
「したね」
「そのとき私、もう少し今のままがいいって言ったじゃん」
「うん」
悠真の返事は変わらない。
責める様子もない。
「それは、今も間違ってたと思ってないの」
「俺も」
「本当?」
「うん。あのとき水瀬さんがそう思ってたなら、それでよかったと思う」
「……ありがとう」
彩花は少し安心した。
それから、スマートフォンへ視線を落とす。
「でも」
「うん」
「先週、九条君が来なかったとき、連絡できないの不便だなって思った」
悠真の目が僅かに大きくなった。
「別に毎日連絡したいとか、そういう意味じゃなくて」
「分かる」
「急に行けなくなったとか、何かあったとか、それくらい分かったらいいなって」
「水瀬さん」
「何?」
「俺も同じこと考えてた」
彩花が止まる。
「……同じ?」
「先週、水瀬さんに今日は行けないって伝えたかった」
「うん」
「でも連絡できなかった」
「……うん」
「だから、今日もう一回聞こうと思ってた」
「え」
「連絡先、交換しない? って」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
周囲ではページをめくる音がしている。
少し離れた場所では、司書が返却された本を棚へ戻している。
窓の外では雲が流れ、薄い日差しが一瞬だけ机の端を明るくした。
彩花は悠真を見る。
悠真もこちらを見ている。
「……同じこと考えてたんだ」
「うん」
「先週?」
「先週」
「私も」
「そっか」
彩花は少し笑った。
何だか、おかしかった。
以前は一度話し合って、交換しないことを選んだ。
それなのに今度は、別々の場所で、同じ日に、二人とも交換したいと思った。
「じゃあ」
彩花がスマートフォンを持ち上げる。
「交換する?」
「うん」
悠真もスマートフォンを取り出した。
それだけのことだった。
学校の友達とは、もっと簡単に交換している。
クラス替えのあと。
グループ課題。
部活。
必要だから、と何となく交換することもある。
それなのに今は、画面を開くだけなのに妙に緊張した。
「どうする?」
「コード出す」
「じゃあ私読むね」
「うん」
悠真が画面を表示する。
彩花が自分のスマートフォンをかざす。
小さな電子音。
画面に、一人分の名前が増えた。
『九条悠真』
「…………」
彩花はその文字を見た。
ただ名前が表示されているだけ。
それなのに、不思議だった。
今まで何度も呼んできた名前が、自分のスマートフォンの中にある。
「できた?」
「うん」
「俺も」
悠真の画面にも、『水瀬彩花』が表示されている。
二人とも、なぜかすぐには画面を閉じなかった。
「……何か」
彩花が言う。
「うん」
「変な感じ」
「分かる」
「学校の友達と交換するとき、こんな感じしないのに」
「俺も」
「何でだろ」
「時間かかったからじゃない?」
「ああ」
彩花は納得した。
「確かに」
名前も知らないところから始まった。
何度も会って。
本を貸し借りして。
友達なのか迷って。
ようやく友達だと確認して。
それでも連絡先は知らなかった。
だから、たった一つ名前が増えただけなのに、そこまでの時間まで一緒に画面へ入ったように感じるのかもしれない。
「……九条君」
「何?」
「試しに何か送って」
「今?」
「ちゃんと届くか確認」
「分かった」
悠真が画面を操作する。
数秒後。
彩花のスマートフォンが震えた。
通知が一件。
開く。
『九条です』
「…………」
彩花は悠真を見る。
「何?」
「普通すぎない?」
「確認だから」
「もうちょっと何かないの?」
「じゃあ何送ればよかった?」
「知らないけど」
「水瀬さんなら?」
「え」
「送ってみて」
「……分かった」
彩花は少し考える。
文字を打つ。
送信。
今度は悠真のスマートフォンが震えた。
『水瀬です。届きました』
「同じじゃん」
「確認だから」
「普通すぎる」
「九条君に言われたくない」
二人とも笑った。
声を抑えたため、笑いは肩の動きだけになる。
「じゃあ」
悠真がもう一度文字を打つ。
彩花の画面に二通目が届いた。
『先週は連絡できなくてごめん。また来週。』
「……今、目の前にいるのに?」
「最初に送りたかったから」
「先週送りたかったやつ?」
「うん」
彩花はしばらく画面を見た。
それから返信する。
『大丈夫です。おじいさん元気でよかったです。』
少し考える。
もう一文。
『今日は会えてよかった。』
送る。
悠真のスマートフォンが震えた。
「…………」
今度は悠真が黙る番だった。
「何?」
「いや」
「何でもない?」
「……嬉しい」
彩花の頬が少し熱くなる。
「口で言ったのと同じでしょう」
「文字で残るから違う」
「残るって」
「消さなければ」
「消していいよ」
「消さない」
「即答しないで」
「何で?」
「何か恥ずかしいから」
「水瀬さんが送ったんだけど」
「分かってる!」
声が少し大きくなり、彩花は慌てて口を閉じた。
数席先の男性が一度だけこちらを見る。
「……静かに」
「ごめん」
「九条君のせい」
「俺?」
「そう」
彩花はスマートフォンを伏せる。
けれど、口元には少し笑みが残っていた。
◇
連絡先を交換したからといって、その場で何かが劇的に変わったわけではなかった。
二人はそのあとも普通に本を読んだ。
気になった箇所があれば話し、少し静かにしたくなればそれぞれの本へ戻る。
スマートフォンも鞄へしまった。
わざわざ目の前でメッセージを送り合う必要はない。
ただ、一度だけ。
彩花が書架へ本を探しに行ったとき、悠真は鞄の中のスマートフォンを意識した。
そこに彩花の連絡先がある。
それだけで、少し違う。
以前より近くなった。
そう表現すると大げさな気もする。
けれど、確実に一つ変わった。
連絡しようと思えばできる。
今日あったことを、次の日曜日まで待たずに伝えることもできる。
それは便利だ。
同時に、悠真は少し考えた。
(だからって、何でも送るのは違うよな)
彩花が以前、「今のままがいい」と言った理由。
連絡先を交換したことで、急に毎日やり取りを始めたら、あのとき彩花が大事にしたかった距離を無視することになるかもしれない。
必要なとき。
話したいことがあるとき。
無理のない範囲。
それでいい。
「九条君」
戻ってきた彩花が一冊の本を持っている。
「これ、見たことある?」
「どれ?」
「昔の青凪市の写真集」
「ない」
「面白そうじゃない?」
「見る」
「ここの図書館、昔もっと小さかったみたい」
「へえ」
彩花が隣へ座る。
二人で本を開く。
数十年前の青凪市。
今は駅ビルが建っている場所。
まだ整備される前の川沿い。
古い商店街。
見慣れた街なのに、知らない景色が並んでいる。
「ここ、市民ホール前じゃない?」
「本当だ」
「古本市やるところ」
「今と全然違うね」
「建物ない」
「昔は広場じゃなかったんだ」
自然に古本市の話になる。
来月。
二人で行く予定になっている。
彩花がページをめくりながら、ふと思い出した。
「そういえば」
「うん?」
「古本市の日、これで連絡できるね」
スマートフォンのことだと、悠真にもすぐ分かった。
「そうだね」
「待ち合わせで迷っても」
「迷う?」
「分からないじゃん。人多いかもしれないし」
「去年は結構いたよ」
「じゃあ必要じゃん」
「うん」
彩花は少し満足そうに頷いた。
「やっぱり交換してよかった」
その言葉に、悠真は一瞬だけ返事を忘れた。
「九条君?」
「うん」
「聞いてた?」
「聞いてた」
「なら返事して」
「俺もそう思う」
「……うん」
二人はまた写真集へ視線を落とした。
古い街並み。
知らない景色。
その中に、来月二人で行く場所がある。
以前なら、古本市当日に会えなければどうするのだろうという小さな問題が残っていた。
今はもうない。
必要なら連絡できる。
ただそれだけなのに、予定が少し現実に近づいたように感じた。
◇
夕方。
二人は図書館を出た。
空は相変わらず曇っていたが、雨は降っていない。昼間より少し涼しい風が吹き、図書館前の木々を揺らしている。
「今日は車?」
「うん。でも少し歩いてから呼ぶ」
「じゃあ駅まで?」
「水瀬さんが嫌じゃなければ」
「いいよ」
並んで歩く。
先週は、この道を彩花一人で帰った。
今日は隣に悠真がいる。
たったそれだけで、同じ道なのに少し違って見える。
「九条君」
「何?」
「先週さ」
「うん」
「帰るとき、来週まで長いなって思った」
言ってから、彩花は少し後悔した。
なぜわざわざ言ったのだろう。
けれど悠真は驚いたあと、すぐに笑った。
「俺も」
「本当に?」
「うん」
「おじいさんの家で?」
「帰る前くらいに」
「ちゃんとおじいさんと話してた?」
「話してたよ」
「ならいいけど」
「水瀬さんは?」
「本読んでた」
「集中できた?」
「途中から」
「途中までは?」
「……入口見てた」
悠真の足が少しだけ遅くなる。
彩花はすぐに気づいた。
「何?」
「何回くらい?」
「言わない」
「気になる」
「何回でもいいでしょう」
「俺が来るか見てた?」
「そうだけど」
答えたあと、彩花は自分で言葉の意味に気づいた。
顔が少し熱くなる。
「……友達だからね」
反射的に付け足した。
悠真は数秒黙った。
以前なら、その「友達だから」に少し複雑なものを感じたかもしれない。
今は違う。
「うん」
そのまま受け取る。
「俺も、水瀬さん来てるかなってずっと気になってた」
「お互い様じゃん」
「そうだね」
彩花は少し安心して、前を向いた。
友達。
その言葉は、今の二人にとって窮屈なものではない。
むしろ、安心して近づける場所になっていた。
駅前の交差点が見えてくる。
信号は赤。
二人は歩道の端で立ち止まった。
車の走る音が途切れず続いている。
「じゃあ」
彩花が鞄へ手を置く。
「今度から、行けないときは連絡しよう」
「うん」
「絶対じゃなくていいけど」
「忘れることもあるかもしれないしね」
「そう。あと返信も急がなくていい」
「分かった」
「学校とかあるし」
「水瀬さんも部活あるし」
「うん」
「夜遅かったら翌日でいい?」
「もちろん」
「何かルール決めてるみたいだな」
「確かに」
二人で笑う。
連絡先を交換したからといって、急に何でも共有する必要はない。
その距離を、二人とも同じように考えている。
それが彩花には心地よかった。
信号が青になる。
人の流れと一緒に横断歩道を渡った。
「じゃあ、ここで」
駅前で彩花が立ち止まる。
「うん」
「また来週」
言ってから、彩花は少し考えた。
「あ」
「何?」
「もう、来週まで待たなくても連絡できるんだ」
悠真も一瞬だけ止まる。
「……そうだね」
「変な感じ」
「水瀬さん、何か送る?」
「今は送らない」
「即答」
「だって今話したじゃん」
「確かに」
「九条君は?」
「俺も今はいい」
「じゃあまた」
「うん。また」
彩花は駅へ向かう。
悠真は反対側へ少し歩き、迎えの車を呼ぶためスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
連絡先の一覧。
『水瀬彩花』
そこにある名前を見て、少しだけ笑う。
何か送ろうか。
一瞬考える。
でも、今は送らない。
さっきまで話していた。
次に伝えたいことができたときでいい。
悠真は迎えを頼み、スマートフォンをポケットへ戻した。
◇
水瀬家へ帰った彩花がリビングへ入ると、凛花がソファに座っていた。
テーブルの上にはアイスティーが二つ。
「おかえり」
「ただいま」
「九条君いた?」
「いたよ」
凛花の目が少しだけ細くなる。
「先週は?」
「おじいさんが体調崩したんだって」
「大丈夫なの?」
「うん。検査も問題なかったって」
「そう」
凛花も安心したように息を吐いた。
彩花は鞄を置き、冷蔵庫から自分の麦茶を出そうとした。
「彩花」
「何?」
「そっち、彩花の」
テーブルのグラスを指される。
「あ、ありがとう」
ソファへ座る。
一口飲む。
冷たい紅茶が、歩いて少し火照った身体へ心地よかった。
「それで?」
「何が?」
「聞いたんでしょう?」
「何を?」
「連絡先」
「…………」
彩花がグラスを止める。
凛花はその反応だけで分かったらしい。
「交換したのね」
「……うん」
「よかったじゃない」
「うん」
「何でそんな顔してるの?」
「どんな顔?」
「ちょっと嬉しそう」
「普通だよ」
「普通?」
凛花が片眉を上げる。
彩花はすぐに言い直した。
「……嬉しいけど」
「へえ」
「何、その顔」
「別に」
「お姉ちゃん、絶対何か考えてる」
「考えてない」
「嘘」
「本当」
彩花は疑わしそうに姉を見る。
凛花は涼しい顔でアイスティーを飲んでいる。
内心では、かなり違った。
(連絡先交換した。ついに交換した。いや普通、友達ならする。するけど。彩花から聞いたの? 九条君から? どっち? 毎日連絡するの? いや彩花ならしない。九条君も無理にしないはず。たぶん。信じてる。警戒はするけど)
もちろん、一言も口には出さない。
「どっちから聞いたの?」
できるだけ普通の声で尋ねる。
「……同時みたいな感じ」
「同時?」
「私が言おうとしたら、九条君も先週同じこと考えてたって」
「そう」
(同時)
凛花はグラスを置いた。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「今、何かあった?」
「何もない」
「本当に?」
「本当に」
彩花はしばらく疑っていたが、やがて諦めた。
「でも、交換してよかったかも」
「どうして?」
「古本市の日も連絡できるし。行けない日も言えるし」
「そうね」
「前はなくてもよかったんだけど」
「今は?」
「ある方がいいかなって」
彩花はスマートフォンを取り出す。
画面を開く。
悠真とのやり取りは、まだ三通しかない。
『九条です』
『水瀬です。届きました』
『先週は連絡できなくてごめん。また来週。』
そして、自分の返信。
その下にある最後の一文。
『今日は会えてよかった。』
改めて見ると、少し恥ずかしい。
「何見てるの?」
「見ないで!」
彩花は反射的にスマートフォンを胸元へ引いた。
凛花が止まる。
「見てないわよ」
「今見ようとした」
「画面が見えただけ」
「駄目」
「分かったって」
凛花は両手を上げる。
彩花はスマートフォンを伏せた。
自分でも、なぜそこまで慌てたのか分からない。
別に見られて困るようなことは書いていない。
ただ。
悠真とのやり取りを、誰かに見られたくなかった。
(……何でだろ)
その疑問は、今はまだ答えのないまま残った。
◇
一方、九条家では。
「交換したんですか?」
夕食後。
リビングで琴葉に聞かれ、悠真は一瞬だけ止まった。
「何を?」
「連絡先です」
「何で知ってる?」
「兄様の顔です」
「顔?」
「はい」
「分かるわけないだろ」
「分かります」
琴葉は紅茶のカップを持ったまま、兄をじっと見る。
麗華は少し離れたソファで雑誌を読んでいる。
正樹は新聞を広げている。
二人とも会話へ参加していない。
ただし、明らかに聞いている。
「交換したよ」
悠真が答える。
新聞の向こうで、正樹の手がほんの僅かに止まった。
麗華はページをめくる速度が少し遅くなった。
琴葉だけが正面から頷く。
「ようやくですね」
「ようやくって何だよ」
「知り合ってから随分経ちましたので」
「別にいいだろ」
「悪いとは言っていません」
「なら何?」
「兄様にしては丁寧だなと」
「水瀬さんがそうしたかったから」
「今は?」
「二人とも交換したいと思ったから交換した」
「……二人とも?」
「うん」
琴葉の目が少しだけ細くなる。
「何?」
「いえ」
「絶対何かあるだろ」
「ありません」
「その顔で?」
「兄様」
「何?」
「よかったですね」
思いがけず普通の言葉だった。
悠真は少しだけ驚く。
「……うん」
「彩花さんとは連絡しましたか?」
「交換の確認だけ」
「その後は?」
「してない」
「なぜ?」
「今日ずっと話してたのに、帰ってすぐ何送るんだよ」
「それはそうですね」
「必要なときとか、話したいことがあるときでいい」
琴葉はしばらく兄を見る。
それから、小さく笑った。
「本当に普通になりましたね」
「何が?」
「以前の兄様なら、『最初のメッセージは何が正解か』と一時間くらい悩みそうです」
「……否定できないのが嫌だな」
「成長です」
「妹に言われると腹立つ」
「事実ですので」
そこで、新聞の向こうから正樹が口を開いた。
「悠真」
「何?」
「連絡先というのは、便利だからな」
「……父さん」
「何だ」
「ずっと聞いてた?」
「同じ部屋にいるから聞こえただけだ」
麗華が雑誌から顔を上げる。
「あなた、さっきから新聞の同じところを読んでいるわよ」
「麗華」
「三分くらい」
「…………」
琴葉が静かに紅茶を飲む。
悠真は父を見る。
正樹は新聞を一度畳み直した。
「別に、深い意味はない」
「俺も何も言ってないけど」
「そうか」
「父さん」
「何だ」
「顔」
「普通だ」
「絶対普通じゃない」
麗華がとうとう笑った。
琴葉も口元を隠している。
「何だよ」
「いいえ」
麗華は穏やかに首を振る。
「悠真が楽しそうでよかったと思って」
「連絡先交換しただけだよ」
「ええ」
「本当にそれだけ」
「分かっているわ」
分かっていると言いながら、母の目は少し楽しそうだった。
悠真は何となく居心地が悪くなり、立ち上がる。
「ハクのところ行ってくる」
「逃げましたね」
「逃げてない」
「兄様」
「何?」
「彩花さんに、ハクの写真を送りすぎないように」
「送らないよ」
「本当に?」
「……一枚くらいなら」
「早速ではありませんか」
「まだ送るって言ってない」
琴葉の笑い声を背に、悠真はリビングを出た。
◇
庭へ続くサンルームで、ハクは冷たい床に腹をつけて寝ていた。
悠真が近づくと、白い尻尾だけがゆっくり動く。
「お前の写真送るなって言われた」
ハクは顔を上げる。
「別に送ってもいいよな」
スマートフォンを取り出す。
カメラを向ける。
ハクは何も知らず、大きな口を開けて欠伸をした。
その瞬間を撮る。
画面には、妙に間の抜けた顔のハクが写っていた。
「……これは駄目だな」
撮り直す。
今度は少しだけ首を傾げた。
白い毛。
黒い目。
背景には夕方の庭。
かなり可愛く撮れている。
「…………」
悠真は写真を見る。
彩花なら喜ぶだろう。
『今日のハク』
それくらいなら。
送信画面を開く。
彩花の名前を選ぶ。
指が止まった。
(……話したいことがあるときでいい)
さっき自分で言った。
これは話したいことに入るのだろうか。
数秒だけ考える。
「入るか」
写真を添付する。
『今日のハク。』
送信。
「…………」
送ってから、悠真は画面を見た。
すぐに返事は来ない。
当然だ。
帰宅して夕食を食べているかもしれない。
風呂かもしれない。
家族と話しているかもしれない。
返信は急がなくていい。
今日、二人で決めた。
「よし」
スマートフォンを閉じる。
そのとき。
震えた。
「……早い」
開く。
彩花からだった。
『可愛い!!』
その下に、すぐ二通目。
『今日の写真?』
悠真は笑う。
『今撮った。』
送る。
数秒。
『いいなあ。触りたい。』
「…………」
ハクを見る。
ハクは悠真が何をしているのか分からず、また床へ顎を置いている。
『そのうち。』
送る。
また返事。
『前もそれ言ってた。』
「覚えてるのか」
思わず声が出た。
『覚えてた?』
送ってから、少し変な質問だったかと思う。
けれどすぐに返ってきた。
『覚えてるよ。ハクに会いたいから。』
悠真は画面を見る。
それからハクを見る。
「……やっぱりお前なんだよな」
ハクが尻尾を振る。
スマートフォンがまた震えた。
『でも琴葉さんにもまた会いたい。』
「…………」
今度は少し嬉しい。
『琴葉もまた話したいって言ってた。』
『本当?』
『うん。』
『じゃあ嬉しい。』
そこで一度、やり取りが止まった。
悠真はスマートフォンを見ながら、気づく。
連絡先を交換したら、何かが急に変わるのかと思っていた。
けれど実際は、図書館でしている会話の続きが少しだけ家へ伸びただけだった。
無理に話題を作らなくていい。
終わるときは終わればいい。
返信を急がなくてもいい。
思っていたより自然だった。
「兄様」
背後から声がして、悠真は振り返った。
琴葉がサンルームの入口に立っている。
「何?」
「ハクの写真、送りましたね」
「何で分かった?」
「兄様がハクを撮影していたので」
「見てたの?」
「通りかかったら見えました」
「一枚だけ」
「返信は?」
「来た」
「早いですね」
「ちょうどスマホ見てたんじゃない?」
「何と?」
「そこまで言う必要ある?」
「ありません」
琴葉は素直に引いた。
その反応が意外で、悠真の方が少し驚く。
「聞かないんだ」
「彩花さんとのやり取りでしょう?」
「うん」
「でしたら、お二人のものです」
琴葉はそう言ってから、ハクの頭を撫でた。
「ただし」
「何?」
「ハクを使って毎日連絡するのは禁止です」
「何で琴葉が決めるんだよ」
「兄様ならやりかねないので」
「やらない」
「本当に?」
「……たぶん」
「今の間で信用を失いました」
悠真は苦笑する。
スマートフォンがもう一度震えた。
画面を見る。
『九条君』
短い一文だけ。
続けてもう一通。
『今日は会えて、本当によかった。』
昼間にも同じようなことを言われた。
最初の確認メッセージでも送られた。
それでも。
悠真はしばらく画面を見た。
「兄様」
「何?」
「顔」
「何だよ」
「少し気持ち悪いです」
「何もしてないだろ」
「嬉しそうすぎます」
「……悪い?」
琴葉が止まった。
以前なら、悠真は誤魔化した。
否定した。
何でもないと言った。
今は違う。
「嬉しいよ」
悠真は画面へ視線を戻す。
「会えてよかったって言われたから」
琴葉は兄をしばらく見ていた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「そうですか」
「何?」
「いいえ」
「気持ち悪いって言ったくせに」
「訂正します」
「何に?」
「今日は、気持ち悪くありません」
「褒めてる?」
「かなり」
「基準がおかしいだろ」
琴葉は答えず、ハクを撫でながら小さく笑った。
悠真はもう一度、彩花への返信画面を開く。
何を書くか。
今回は迷わなかった。
『俺も。』
送る。
それだけで十分だった。
◇
水瀬家の自室で、彩花はベッドへ座っていた。
スマートフォンの画面には、悠真から届いた短い返信がある。
『俺も。』
たった三文字。
それなのに、なぜか何度も見てしまう。
「……短い」
小さく呟く。
でも、嫌ではない。
むしろ悠真らしいと思う。
長く説明しなくても、何に対する「俺も」なのか分かる。
今日は会えてよかった。
自分も。
それだけ。
彩花は画面を閉じようとした。
けれど、その前にもう一度だけ開く。
ハクの写真。
可愛い。
本当に可愛い。
画面いっぱいに表示して眺める。
「会いたいなあ」
ハクに。
琴葉にも。
それから。
今日会った悠真の顔が浮かぶ。
先週の事情を話したとき。
自分が「心配した」と言ったとき。
連絡先を交換したとき。
そして「俺も会えなくて残念だった」と言ったとき。
「…………」
彩花は枕を一つ抱えた。
(友達だから)
そうだ。
友達だから、会えなくて残念だった。
友達だから、連絡先を交換した。
友達だから、帰ったあとにも少し話す。
全部、何もおかしくない。
けれど。
画面の中に増えた「九条悠真」という名前は、クラスメイトの連絡先とは少し違って見える。
理由はまだ分からない。
今は分からなくてもいい気がした。
スマートフォンを枕元へ置く。
数秒後。
また手に取る。
「……別にいいよね」
誰に言うでもなく呟く。
メッセージ画面を開く。
『おやすみ。』
打つ。
一度消す。
『おやすみなさい。』
少し固い。
また消す。
結局。
『じゃあ、またね。おやすみ。』
送った。
すぐに返事は来なかった。
けれど、もう気にならない。
返信を急がなくていい。
二人でそう決めた。
彩花はスマートフォンを伏せ、ベッドから立ち上がった。
歯を磨き、明日の学校の準備をする。
十分ほどして戻ると、画面に通知が一つ増えていた。
『うん。また。おやすみ。』
彩花はそれを読んで、少しだけ笑った。
次の日曜日まで、あと七日。
けれど今度は、その七日が前ほど遠く感じなかった。
会えない時間にも、必要なら言葉を届けられる。
だからといって、毎日話さなくてもいい。
次に会ったときに話すことも残しておける。
図書館で始まった二人の関係は、図書館の外へほんの少しだけ広がった。
まだ「友達」という名前のまま。
けれど、その名前の中に入っているものは、出会った頃よりずっと増えていた。




