第16話 会えない日曜日
月曜日の放課後、県立青葉高校の文芸部室には、窓から入り込む湿った風と、何人かの部員が原稿用紙をめくる音が混じっていた。
六月も半ばを過ぎ、梅雨らしい曇り空が続いている。今日は朝から雨こそ降っていなかったものの、校庭の土はまだ濃い色を残しており、運動部の掛け声も普段より少し遠く聞こえた。
彩花は窓際の席でノートを開き、文化祭へ向けて書いている短編の続きを考えていた。
主人公は、駅で何度も顔を合わせる相手と少しずつ話すようになっている。
最初は会釈だけだった。
次に天気の話をして、その次には相手が持っていた本について話した。今は、会えば自然に隣へ立つくらいの関係になっている。
そこまで書いたところで、彩花はシャープペンシルを止めた。
(……ここから、どうしよう)
付き合う話ではない。
少なくとも、今のところはそのつもりで書いている。
知らない人だった相手が、少しずつ自分の中で名前のある人になっていく。会わなくても困らないはずなのに、会えると少し嬉しい。何か面白いことがあったとき、次に会ったら話そうと思う。
そんな変化を書きたかった。
けれど、いざ文章にすると難しい。
「水瀬、また止まってる」
斜め向かいの部員から声をかけられ、彩花は顔を上げた。
「考えてるの」
「十分くらい同じところ見てない?」
「そんなに?」
「たぶん」
時計を見ると、確かに思っていたより時間が経っている。
彩花は苦笑して、ノートへ視線を戻した。
「何かさ」
「うん?」
「前より、その二人が仲良くなった感じする」
「本当?」
「する。最初の方、ちょっと会話が説明っぽかったけど」
「うっ」
「今は自然」
「最初の方も頑張ったんだけど」
「悪いって言ってないよ」
笑いながら言われ、彩花もつられて笑った。
確かに最初は、二人を仲良くさせようとしていた気がする。
何を話せば距離が縮まるのか。どういう出来事があれば次の段階へ進めるのか。そんなことばかり考えていた。
今は少し違う。
会ったら話す。
前に話したことを覚えている。
相手が好きそうなものを見つけたら、ふと思い出す。
それだけでも、人と人との距離は変わっていくのだと分かるようになった。
(……何で分かるようになったんだろ)
考えかけて、答えになりそうな顔が一人浮かんだ。
図書館の窓際で本を読む横顔。
こちらの話を急かさず聞く声。
昨日、手芸店で琴葉たちと会ったとき、自分たちの会話へ無理に入ってこなかった悠真。
『水瀬さんの友達を俺が決めるわけないだろ』
琴葉にそう言ったときの声も思い出す。
「…………」
「水瀬?」
「何?」
「今、絶対別のこと考えてた」
「考えてないよ」
「嘘」
「原稿のこと」
「本当に?」
「本当」
彩花はノートを少し自分の方へ引き寄せた。
疑うような視線を向けられたが、それ以上追及されることはなかった。
もう一度、書きかけの文章を見る。
主人公たちは友達になった。
では、友達になったあとに何が変わるのか。
会話が急に増えるわけではない。
何でも話せるようになるわけでもない。
けれど、以前より少しだけ、相手のことを考える時間が増える。
彩花はノートの余白に、小さく書いた。
『会っていない時間にも、その人がいる。』
そこまで書いてから、しばらく文字を見つめた。
(……ちょっと恋愛っぽいかな)
消そうか迷う。
けれど結局、消しゴムには手を伸ばさなかった。
恋愛でなくても、そういうことはあると思う。
友達だって、家族だって。
誰かと仲良くなるというのは、会っている時間だけの話ではないのかもしれない。
「水瀬ー」
廊下から声が飛んできた。
部室にいた何人かが、ほとんど同時に入口を見る。
「また田辺?」
「またって言うなよ」
大地が開いた扉から顔を出し、不満そうに眉を寄せた。
「今日は本当に友達待ちだからな」
「毎回言ってる」
「今日はそこにいる」
大地が廊下を指すと、少し離れた場所で男子生徒がスマートフォンを見ながら待っていた。
「あ、本当にいた」
「だからいるって言ってただろ!」
「疑ってごめん」
「軽いな!」
部員たちが笑う。
彩花も笑いながらノートを閉じた。
「今日は何?」
「いや、友達が先生に呼ばれてるから暇で」
「じゃあ廊下で待ってれば?」
「冷たくない?」
「原稿書いてるから」
「そういえば例のやつ?」
「例のって?」
「少しずつ仲良くなる二人」
「そう」
大地は近くの空いている椅子の背へ手を置いたが、座るまではしなかった。
「付き合った?」
「付き合ってない」
「まだ?」
「まだって何」
「そういう話じゃないの?」
「仲良くなる話」
「仲良くなったら終わり?」
「それも考えてるところ」
「難しいな」
「田辺君が考えなさすぎなの」
「俺、仲良くなったら普通に連絡先聞くけど」
何気ない一言だった。
彩花の指先が、閉じたノートの端で止まった。
「……連絡先?」
「うん。友達なら」
「別に知らなくても友達でしょう」
「そりゃそうだけど」
大地は不思議そうに首を傾げる。
「学校で毎日会うならいらないけど、会わない相手なら不便じゃない?」
「…………」
「何?」
「何でもない」
「小説の話だよな?」
「そうだよ」
「ならいいけど」
ちょうどそのとき、廊下から大地を呼ぶ声がした。
「お、終わったみたい。じゃあな」
「うん」
「文化祭で読ませろよ」
「完成したらね」
「楽しみにしとく」
大地は友人のところへ走っていった。
その背中を見送ってから、彩花は閉じたノートへ視線を落とす。
連絡先。
以前、一度だけ悠真と話したことがある。
交換した方が便利なのだろうかと、自分から言った。
けれど悠真に「交換したい?」と聞かれて、そのときの彩花は「もう少し、このままでもいいですか」と答えた。
日曜日に図書館へ行けば、会えるかもしれない。
会えなかったら、また次。
そんな関係が心地よかった。
悠真も、何も言わずに受け入れてくれた。
(今も、嫌じゃないんだよね)
連絡先を知らないことが不安なわけではない。
むしろ、日曜日に会って話す今の関係は好きだ。
ただ、以前とは少し違う。
あのときは「図書館でよく会う人」だった。
今は友達だ。
古本市へ一緒に行く予定もある。
琴葉や玲奈とも会った。
関係が変われば、必要なものも変わるのだろうか。
「水瀬」
「うん?」
「今度は何考えてるの?」
向かいの部員が笑っている。
彩花は少し迷ってから、ノートを開いた。
「……主人公たち、連絡先知らないことにしようかなって」
「何で?」
「その方が、書いてみたいことができそうだから」
「へえ」
彩花は新しいページを開く。
まだ答えは決めなかった。
知らないからこそ分かることも、きっとある。
◇
金曜日の夕方。
桜華学園の生徒会室では、日曜日に予定されている学校説明会の最終確認が行われていた。
普段なら在校生が登校する行事ではないが、生徒会から数名が案内補助として参加することになっている。悠真もその一人だった。
「九条、日曜よろしくね」
三年生の役員が、確認表を机の上へ置いた。
「はい。九時集合ですよね」
「そう。受付は十時からだけど、案内板と資料の確認があるから」
「分かりました」
「午前で終わると思う。長引いても十二時半くらいかな」
悠真は頷いた。
説明会自体は以前から決まっていた。
参加することにも問題はない。
図書館へ行くのはいつも午後だからだ。
十二時半に終われば十分間に合う。
「九条」
隣で資料を束ねていた湊が顔を上げる。
「日曜、説明会終わったらそのまま図書館?」
「たぶん」
「制服で?」
悠真が自分の制服を見る。
「……一回帰る時間あるかな」
「家まで戻って着替えて中央図書館だと、微妙じゃね?」
「別に制服でもいいだろ」
「水瀬さんに学校の九条君見せられるじゃん」
「何だよ、それ」
「いや、前に水瀬先輩が言ってたから。学校だとお前しっかりしてるって」
「それは学校だからだろ」
「図書館だとしっかりしてないの?」
「そういう意味じゃない」
湊が笑う。
悠真は資料へ視線を戻した。
制服のまま図書館へ行くこと自体は、別におかしくない。
彩花も青葉高校の帰りに図書館へ寄ることはあるだろう。
ただ、日曜日に制服で現れたら少し驚くかもしれない。
(説明会だったって言えばいいか)
それだけのことだ。
むしろ、話すことが一つ増える。
「何時くらいに行くの?」
「いつも二時前後」
「待ち合わせしてないんだよな」
「してない」
「それで毎週会えてるの、地味にすごいよな」
「大体同じ時間に行くから」
「でも十分くらいずれたら?」
「待ってる」
「どっちが?」
「……たぶん、どっちも」
答えてから、悠真は少し笑った。
以前なら、その事実について何か理由を考えていたかもしれない。
今は必要ない。
自分は彩花が来るまで待つ。
たぶん、彩花も同じように少し待ってくれる。
友達なのだから、それくらいは不思議ではない。
「九条、そこ終わった?」
先輩に呼ばれ、悠真は顔を上げた。
「はい。今持っていきます」
資料を揃えて席を立つ。
日曜日も、いつも通り会える。
その時点では、本当にそう思っていた。
◇
日曜日の朝、九条家のダイニングに電話の着信音が響いたのは、悠真が朝食を食べ終えようとしていた頃だった。
時計は七時四十分を少し過ぎている。
窓の外には久しぶりに青空が見え、梅雨の晴れ間らしい強い日差しが庭の濡れた緑を照らしていた。ハクは冷たい床を選ぶようにテーブルから少し離れた場所で伏せており、ときどき尻尾だけをゆっくり動かしている。
正樹が電話へ出た。
最初は仕事関係かと思った。
しかし数分後、戻ってきた父親の表情を見て、悠真は箸を置いた。
「どうしたの?」
「俊治さんが、昨夜少し体調を崩したらしい」
「じいちゃんが?」
琴葉も顔を上げる。
「大丈夫なのですか?」
「大事ではないそうだ。今朝はもう普通に話しているらしい」
麗華が静かに息を吐いた。
「病院へは?」
「念のため診てもらう。母さんが付き添っているが、本人が『家族を呼ぶほどではない』と言っているらしい」
「それ、一番信用できないやつじゃない?」
悠真が言うと、正樹も苦笑した。
「私もそう思う」
九条俊治は、滅多なことで弱音を吐かない。
だからこそ、「大丈夫」という言葉だけで済ませる気にはなれなかった。
「父さん、行く?」
「ああ。病院へ寄って、そのあと実家へ行くつもりだ」
「俺も行く」
ほとんど考える前に言葉が出た。
正樹が悠真を見る。
「学校説明会があるんじゃないか?」
「九時から」
「なら、そちらへ行きなさい。俊治さんは本当に大事ではないらしい」
「でも」
「説明会が終わってからでも間に合う」
悠真は少し迷った。
祖父の顔を見たい。
けれど学校の役目もある。
今日の説明会は、自分一人がいなくても回るだろう。それでも、担当すると決めた仕事を「祖父が少し体調を崩した」というだけで放り出すのは、俊治本人が一番嫌がりそうだった。
「……分かった」
「終わったら連絡しなさい」
「うん」
そのときだった。
悠真の頭に、もう一つの予定が浮かんだ。
午後。
中央図書館。
彩花。
「…………」
「兄様?」
琴葉がこちらを見る。
「何でもない」
説明会は十二時半には終わる。
そのあと祖父のところへ行くなら、図書館には行けないだろう。
行くべきではない、とも思う。
今日は祖父の顔を見たい。
そこに迷いはなかった。
問題は別だった。
(……水瀬さんに言えない)
悠真はカップへ手を伸ばしかけ、止めた。
連絡先を知らない。
彩花の家の電話番号も、もちろん知らない。
青葉高校へ電話するなど論外だ。
凛花へ伝言を頼むこともできなくはない。学校の名簿か生徒会のつながりを使えば連絡手段を探すこと自体は難しくないだろう。
けれど、それは違う。
彩花が自分へ渡していない連絡先を、別の経路から手に入れるようなことはしたくなかった。
「兄様」
「何?」
「今度は本当に何かありますね」
琴葉がじっと見ている。
悠真は数秒迷ったあと、正直に言った。
「今日、図書館行けないなと思って」
「ああ」
琴葉もすぐ事情を理解したらしい。
「彩花さんとお約束でしたか?」
「時間を決めてるわけじゃないけど、先週また来週って言った」
「そうでしたね」
「連絡できない」
「……そうですね」
琴葉もそこで黙った。
以前なら、「ですから連絡先を交換しておけば」と言っていたかもしれない。
けれど、交換しなかったのは二人が選んだことだ。
それを責めるのは違う。
「凛花さんへお伝えしますか?」
「いや」
悠真はすぐに首を振った。
「水瀬さんが知らないところで連絡網作るみたいで嫌だ」
「そこまで大げさではないと思いますが」
「分かってる。でも、今日は仕方ない」
琴葉は少しだけ考え、頷いた。
「では、次にお会いしたとき謝るしかありませんね」
「うん」
「彩花さんなら怒らないと思います」
「怒らないだろうけど」
それでも、待たせる。
自分が来ると思って図書館へ行くかもしれない。
そのことが引っかかった。
「悠真」
麗華が呼ぶ。
「何?」
「行けないことと、行きたくないことは違うでしょう?」
悠真は母を見る。
「……うん」
「なら、次に会ったとき、そのまま話せばいいんじゃないかしら」
「そうする」
それしかない。
いや、それでいいのだと思う。
何もかも予定通りにできるわけではない。
友達なら、会えない日だってある。
それでも悠真は、いつもより少し重い気持ちで席を立った。
足元のハクが顔を上げる。
「今日は水瀬さんに会えない」
何となくそう言うと、ハクは意味が分かっているのかいないのか、尻尾を一度だけ床へ打ちつけた。
「……お前は家にいていいな」
「兄様」
「何?」
「ハクへ八つ当たりしないでください」
「してない」
琴葉の呆れた声を背中に受けながら、悠真は学校へ向かう準備を始めた。
◇
午後一時四十分。
青凪市立中央図書館の自動扉をくぐった彩花は、冷房の効いた空気に触れて小さく息を吐いた。
外は朝から晴れていた。
梅雨の途中とは思えないほど日差しが強く、家から歩いてきただけでも額に薄く汗が浮いている。入口脇の傘立ては久しぶりに空いており、窓から差し込む光も、雨の日とは比べものにならないほど明るかった。
日曜日の図書館は普段より人が多い。
児童書の区画では親子連れが本を選び、新聞閲覧席には年配の利用者が並んでいる。カウンターの向こうでは司書が返却された本を仕分けしており、時折、小さな台車の車輪が床を転がる音が聞こえた。
彩花はいつものように一般書架の方へ歩いた。
その途中で、無意識に窓際を見る。
「…………」
いない。
まだ早かったかな、と思う。
いつもきっちり時間を決めているわけではない。
自分が先の日もあれば、悠真が先の日もある。
彩花は気にせず、返却する本をカウンターへ持っていった。
今日は悠真から借りた本ではない。
それは先週返した。
自分で借りていたエッセイを返し、新しく読む本を探す。
料理の棚。
小説。
手芸。
先週買った白い糸で作り始めた小物に使えそうな図案集があり、彩花は一冊手に取った。
十分ほど経った。
窓際を見る。
まだいない。
(今日は少し遅いのかな)
そう思いながら、本をもう一冊選ぶ。
十五分。
二十分。
普段なら、すでにどこかで顔を合わせている時間だった。
彩花は窓際の席へ座った。
手元の本を開く。
数ページ読んだところで、入口の方から足音が聞こえた。
顔を上げる。
知らない男性だった。
「…………」
また本へ視線を戻す。
少しして、今度は学生らしい二人組が入ってきた。
また顔を上げる。
どちらも悠真ではない。
(私、何回見てるんだろ)
気づいた途端、少し恥ずかしくなった。
待ち合わせではない。
何時に来るとも聞いていない。
そもそも、今日は来ると明確に約束したわけでも――。
そこまで考えて、彩花は首を傾げた。
『また来週』
『うん。また来週』
言った。
約束だ。
以前、湊にも言われた。
互いに来るつもりで交わしているなら、それは十分約束なのだと。
(……何かあったのかな)
今度は、違う感情が混じった。
来ないことへの不満ではない。
心配だった。
体調を崩したのかもしれない。
家の用事かもしれない。
学校の予定が入った可能性もある。
悠真は生徒会役員だ。
凛花から、学校ではかなり忙しそうにしていると聞いたことがある。
(そういえば、学校の九条君見てみたいって思ったんだっけ)
数日前の食卓を思い出す。
そんなことを考えながら、彩花はまた一ページめくった。
内容が入ってこない。
同じ段落を二度読んでいることに気づき、本を閉じた。
「……集中できない」
声は、図書館の静けさへ溶ける程度の小さなものだった。
窓の外を見る。
青空。
白い雲。
木々の葉が風に揺れている。
先週は、この図書館を出たあとに悠真と手芸店へ寄った。
そこで琴葉と玲奈に会った。
琴葉とは、思っていたよりずっと自然に話せた。
読んでいる本のこと。
裁縫のこと。
今度また会えたら話したいと思った。
あれから一週間。
悠真に話したいこともいくつかあった。
作り始めたブックカバーが完成したこと。
文芸部の短編が少し進んだこと。
琴葉と話せて嬉しかったこと。
古本市で、どの辺りから見たいか。
どれも急ぎではない。
今日でなくてもいい。
次に会ったときでいい。
それなのに。
(……ちょっと、残念だな)
彩花は、そこでようやく自分の気持ちを認めた。
会えると思っていた。
だから残念なのだ。
それだけ。
それ以上の意味を探す必要はない。
友達と会う約束をしていて、会えなければ残念に思う。
何もおかしくない。
そう考えると、少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、心配は残った。
(連絡先、知らないんだよね)
月曜日に大地が言っていた言葉が蘇る。
『会わない相手なら不便じゃない?』
そのときは、小説の話に重ねて考えた。
今は違う。
本当に不便だった。
来ない理由を聞きたいわけではない。
ただ、「今日は行けない」と一言分かれば、それで済む。
逆もある。
自分が急に図書館へ来られなくなる日だってある。
そのとき、悠真も待つのだろうか。
(……待つよね、たぶん)
自分が今しているように。
そう思ったら、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
彩花はスマートフォンを鞄から取り出した。
画面には家族や学校の友人、文芸部のグループなど、いつもの連絡先が並んでいる。
当然、その中に「九条悠真」はない。
以前は、それでよかった。
今も、それが嫌になったわけではない。
ただ。
「……変わったのかな」
小さく呟く。
何が、と聞かれたら、うまく説明できない。
関係が。
自分が。
必要なものが。
少しずつ。
彩花はスマートフォンを閉じた。
今日はもう来ないのかもしれない。
そう考えたあとも、すぐには帰らなかった。
せっかく図書館へ来たのだから、本を読みたい。
それも本当だった。
だから図案集を開き、今度こそ集中する。
三十分ほど経つ頃には、少しずつ内容も頭へ入るようになった。
それでも自動扉が開く気配がすると、何度か顔を上げてしまった。
午後三時を過ぎたところで、彩花は本を閉じた。
「今日は、いないか」
寂しい、というほど大げさではない。
けれど、いつもの日曜日より少しだけ物足りなかった。
借りる本を二冊抱え、カウンターへ向かう。
手続きを済ませて外へ出ると、強かった日差しは少し傾いていた。
歩道に落ちる木々の影が長くなっている。
彩花は家へ向かって歩きながら、一度だけ振り返った。
図書館の建物が見える。
(来週、聞こう)
何かあったのか。
大丈夫だったのか。
それから。
(……連絡先のことも)
今度は、自分から話してもいいかもしれない。
以前とは状況が違う。
あのとき交換しなかったことを後悔しているわけではない。
あのときは、あれでよかった。
だからこそ今、もう一度考えられる。
彩花は前を向いた。
来週まで七日。
以前より、少し長く感じそうだった。
◇
同じ頃。
悠真は祖父・俊治の家の縁側に座っていた。
「だから、大したことはないと言っただろう」
庭を眺めながら、俊治が呆れたように言う。
午前中に病院で検査を受け、幸い大きな異常はなかった。昨夜、少し立ちくらみを起こしたため念のため受診しただけで、医師からも今日はゆっくり休むよう言われたらしい。
それでも家族が集まったことが不満なのか、俊治は朝から何度も同じことを言っている。
「大したことないならよかっただろ」
悠真は麦茶のグラスを置いた。
「それを確認しに来たんだから」
「学校の用事があったのではないのか」
「午前で終わった」
「そのあとは?」
「別に」
答えた瞬間、少し間が空いた。
俊治が横を見る。
「何だ」
「何が?」
「今、何か隠しただろう」
「隠してない」
「私を誰だと思っている」
「じいちゃん」
「そういう意味ではない」
低い声なのに、どこか呆れている。
悠真は少し笑った。
俊治は九条家の中でも特に表情を崩さない。
外ではなおさらだ。
けれど家族には、案外細かいところまでよく気づく。
「図書館へ行くつもりだっただけ」
「図書館?」
「うん」
「本ならここにもある」
「そういう話じゃない」
俊治が黙る。
数秒。
「……ああ」
「何だよ」
「そういうことか」
「何が?」
「いや」
俊治は麦茶を飲んだ。
顔はいつも通りだ。
何も変わらない。
ただ、ほんの僅かに口元が緩んだように見えた。
「じいちゃん」
「何だ」
「何か笑ってない?」
「笑っていない」
「絶対笑った」
「気のせいだ」
悠真は眉を寄せた。
俊治はそれ以上何も言わない。
もし正樹なら、もう少し分かりやすく反応する。
母なら穏やかに聞いてくる。
琴葉なら容赦なく突いてくる。
祖父は何も言わない。
だから余計に気になる。
「図書館に誰かいるのか」
しばらくして俊治が尋ねた。
「友達」
「そうか」
「それだけ?」
「何を期待している」
「別に」
「ならいいだろう」
また庭へ視線を戻す。
風が植木の葉を揺らし、軒先の風鈴が一度だけ鳴った。
悠真も庭を見る。
時刻は三時を過ぎている。
今から中央図書館へ向かっても、着く頃には四時近い。
彩花がまだいる保証はない。
それに、祖父のところへ来たのに、顔を見ただけですぐ帰るのも違うと思った。
今日は行かない。
そう決めた。
決めたのに、気にはなる。
(待ってるかな)
たぶん。
いや、もしかしたら今日は彩花も来ていないかもしれない。
家の用事があるかもしれない。
それなら、お互い様だ。
けれど。
(来てたら、悪いな)
その気持ちは消えなかった。
「悠真」
「何?」
「帰りたいなら帰って構わないぞ」
俊治が言う。
悠真は少し驚いて祖父を見る。
「何で?」
「先ほどから時計を見ている」
「……そんな見てた?」
「三度」
「数えてたの?」
「目についただけだ」
俊治は淡々としている。
「私は元気だ。お前がここに座っていたところで、さらに元気になるわけでもない」
「でも」
「顔は見た。それで十分だ」
悠真は黙った。
行こうと思えば、まだ行ける。
四時前に着く。
彩花がいれば会える。
けれど、今から急いで行くのは何か違う気もした。
祖父が元気だから用が済んだ、ということではない。
家族に会う時間も大事だ。
図書館へ行く時間も大事だ。
どちらかを雑に扱いたくはなかった。
「今日はいるよ」
「そうか」
「来週会えるから」
俊治は何も言わなかった。
ただ一度だけ頷く。
悠真は庭へ視線を戻した。
来週会える。
その言葉を口にすると、少し安心した。
けれど同時に、七日という時間がいつもより長く感じられた。
◇
夕方、水瀬家へ戻った彩花は、リビングのソファで本を読んでいた凛花に声をかけられた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は遅かったね」
「図書館いたから」
「九条君と?」
彩花は鞄を置きながら首を振った。
「今日は会わなかった」
凛花が本から顔を上げる。
「珍しい」
「うん」
「来なかったの?」
「たぶん」
「何か聞いてないの?」
「連絡先知らないもん」
「ああ」
凛花はそこで初めて思い出したような顔をした。
「まだ交換してなかったんだっけ」
「うん」
「不便じゃない?」
「今日ちょっと思った」
彩花は凛花の向かいへ座った。
母の紗月は夕食の買い物へ出ており、耕助もまだ帰っていない。テレビは消えていて、開いた窓から近所の子どもが遊ぶ声だけが入ってくる。
「前に一回、交換するかって話にはなったんだけど」
「知ってる」
「言ったっけ?」
「聞いた」
「最近、私いろいろ話しすぎじゃない?」
「今さら?」
「学校でも言われた」
彩花はクッションを抱えた。
「そのときは、今のままでいいって思ったの」
「うん」
「九条君もいいって言ってくれたし」
「うん」
「でも今日、何かあったのかなって思っても聞けなかった」
凛花は何も言わず、続きを待った。
「別に、全部知りたいわけじゃないよ」
「分かってる」
「今日行けない、とか。それくらい」
「うん」
「私が行けない日もあるだろうし」
「そうね」
彩花はクッションの端を指でなぞる。
「……交換してもいいのかな」
その声は、相談というより自分へ確認しているようだった。
凛花はすぐに答えなかった。
以前の彩花なら、姉に「どうしたらいい?」と答えを求めたかもしれない。
今は違う。
自分で考えている。
「彩花は、どうしたいの?」
だから凛花も、同じように返した。
彩花は少し考える。
「前よりは、交換したいかも」
「じゃあ、そう言えば?」
「変じゃない?」
「何が?」
「前は私から今のままがいいって言ったのに」
「そのときはそう思ったんでしょう?」
「うん」
「今は変わった。それだけじゃない?」
彩花が顔を上げる。
「変わっていいの?」
「駄目な理由ある?」
「……ないけど」
「ならいいでしょう」
凛花は再び本を開いた。
それ以上、背中を押すこともしない。
彩花はしばらく黙っていた。
以前と今。
違う。
悠真が変わったというより、自分たちの関係が変わった。
名前も知らなかった。
図書館で会う人になった。
本の話ができる人になった。
九条君になった。
会うのが楽しみな人になった。
そして今は、友達だ。
(だったら、変わってもいいんだ)
以前決めたことに、ずっと縛られる必要はない。
「来週、聞いてみようかな」
「そうしたら?」
「……うん」
彩花は小さく頷いた。
「でも、その前に今日どうしたのか聞く」
「そうね」
「体調悪かったら心配だし」
「うん」
「何でもなかったら、それでいいけど」
凛花は本へ視線を落としたまま、少しだけ笑った。
彩花は気づかなかった。
◇
その夜。
九条家へ戻った悠真は、自室の机に置いたスマートフォンを見ていた。
風呂も済ませ、時計は十時を回っている。
祖父は本当に大丈夫だった。
夕食まで一緒に食べ、帰る頃には「次はこんなことで集まるな」と言われたくらいだ。
安心した。
学校説明会も問題なく終わった。
今日やるべきことは、きちんとできたと思う。
ただ一つ。
「…………」
スマートフォンを手に取る。
連絡先の一覧を開く。
当然、そこに彩花の名前はない。
昼間から分かっていたことなのに、改めて見ると妙に空白が目についた。
以前は、それを空白だと思わなかった。
必要がなかったからだ。
日曜日に図書館へ行く。
会えたら話す。
それで十分だった。
今も、その時間は好きだ。
何でもスマートフォンで繋がっている必要はないと思う。
けれど今日、自分は彩花へ一言伝えたかった。
今日は行けない。
祖父は大丈夫。
また来週。
それだけ。
長いやり取りをしたいわけではない。
毎日メッセージを送りたいかと聞かれれば、まだ分からない。
ただ、必要なときに伝えられる方法があればいいと思った。
机の横で、ハクが伏せている。
「今日、水瀬さん来てたと思う?」
白い耳が動く。
「分からないよな」
悠真は苦笑した。
ハクは答えない。
代わりに立ち上がり、悠真の膝へ鼻先を押しつけた。
「何だよ」
頭を撫でる。
柔らかい毛が指の間を抜けていく。
「来週、謝らないとな」
待っていたなら。
いや。
待っていたかどうかに関係なく、言おう。
行けなかった。
連絡できなくてごめん。
それから――。
悠真はスマートフォンへ視線を戻した。
(連絡先のこと、もう一回聞いてみてもいいかな)
以前とは違う。
あのとき彩花が「今のままがいい」と言ったことを、変えさせたいわけではない。
今もそう思っているなら、それでいい。
ただ、今日のことを話したうえで、もう一度だけ聞いてみたい。
自分は交換したいと思っている。
それを伝えて、彩花がどう思うか聞く。
それでいい。
以前なら、その一つの結論へ辿り着くまで、もっと長く考えていた気がする。
「……よし」
悠真はスマートフォンを閉じた。
ハクがまた尻尾を振る。
「来週な」
誰に言ったのか、自分でも分かっている。
今日は会えなかった。
だからこそ、分かったことがあった。
会えない日があること。
会えないと、残念に思うこと。
そして、次に会うまでの間に一言伝えたいと思うくらいには、もう二人の関係が以前とは変わっていること。
同じ頃、青凪市の別の家でも、彩花がベッドの中でスマートフォンを見ながら、ほとんど同じことを考えていた。
けれど二人は、まだそのことを知らない。
次の日曜日まで、あと七日あった。




