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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第15話 話に聞いていた人

 日曜日の午後、青凪市立中央図書館の大きな窓には、薄い雲を透かした六月の光が広がっていた。


 梅雨の合間らしく湿気は残っているものの、朝から雨は降っていない。館内では空調が静かに動き、ページをめくる音や貸出機の電子音が、ときどき遠くから聞こえてくる。


 彩花は窓際の席で、借りていた本を閉じた。


 目の前には悠真がいる。


 いつもの日曜日。


 そう言ってしまえば、それだけだった。


 けれど以前とは少し違う。


「読み終わった?」


「うん」


「どうだった?」


「……九条君が好きなの、ちょっと分かったかも」


 彩花がそう言うと、悠真は本へ伸ばしかけていた手を止めた。


「本当に?」


「何でそんなに驚くの?」


「いや」


 悠真は少しだけ視線を逸らした。


「俺が好きな本だから」


「知ってるよ。だから読んだんだけど」


「……うん」


「何?」


「何でもない」


 彩花は首を傾げる。


 悠真は誤魔化すように、自分の前へ置いていた文庫本を閉じた。


 自分が好きな本を彩花が読んだ。


 それだけなら、以前にも似たようなことはあった。


 ただ今回は少し違う。


 おすすめだから貸したのではない。


 自分が好きだから渡した。


 彩花も、そのことを知ったうえで読んでくれた。


「私、この三話目が一番好きだった」


「三話目?」


「うん。駅員さんの話」


「ああ」


「九条君は?」


「俺は最後」


「やっぱり」


「何で分かった?」


「何となく」


 悠真が眉を寄せる。


「それ、水瀬先輩もよく言う」


「お姉ちゃんが?」


「うん」


「九条君も言うって聞いた」


「……水瀬家で俺の話、どのくらいしてるの?」


「それはこっちの台詞なんだけど」


「え?」


「琴葉さん、私のこと知ってるんでしょう?」


 今度は悠真が止まった。


 彩花は少し笑う。


「お姉ちゃんから聞いた」


「ああ……」


「本とか、お菓子とか、ハクとか」


「そこまで?」


「九条君が話したんじゃないの?」


「話したけど」


「じゃあ何で驚くの」


「改めて聞くと、結構話してるなと思って」


「私も言われた」


「誰に?」


「クラスの子」


「何て?」


「最近、九条君の話増えたねって」


「…………」


 悠真が黙る。


「何、その顔」


「いや」


「また何でもない?」


「うん」


「最近多くない?」


「水瀬さんも多いよ」


「私?」


「何でもないって言う」


「そうかな」


「言う」


「……じゃあお互い様?」


「たぶん」


 二人で小さく笑った。


 近くの席にいた男性が一度こちらへ視線を向けたため、彩花は慌てて口元を押さえる。


「静かにしないと」


「水瀬さんが笑うから」


「九条君も笑ったでしょう」


「水瀬さんが先」


「子供みたいなこと言わないで」


「ごめん」


 声を抑えて話しながら、彩花は借りていた本を悠真の方へ差し出した。


「ありがとう」


「もう返す?」


「うん。読み終わったから」


「もう少し持っててもいいけど」


「大丈夫。ちゃんと読んだよ」


 悠真は受け取る。


 表紙には傷一つ増えていない。


 彩花が丁寧に扱ってくれたことは、それだけで分かった。


「じゃあ、感想もう少し聞いていい?」


「もちろん」


 それから二人は、しばらく本の話をした。


 三話目の主人公が最後に選んだ行動。


 最終話で、それまで別々に見えていた人物たちの生活がほんの少しだけ重なるところ。


 同じ場面でも、悠真が気に入っていた部分と彩花が気になった部分は違う。


 それが面白かった。


 同じだから話せるのではない。


 違うからこそ聞きたくなる。


「九条君って、結構人の関係を見るよね」


「そう?」


「うん。この人が何をしたかより、何でこの人にはそれを言えたのかとか」


「ああ……それは気になるかも」


「私は逆に、言えなかった方が気になる」


「どうして?」


「言いたいのに言えないことってあるでしょう?」


「あるね」


「だから、その人が何で言わなかったのかなって考える」


「言わなかったんじゃなくて、言えなかったかもしれない?」


「そう」


 彩花が頷く。


「そこ、結構違うと思う」


 悠真は少し考えてから、もう一度本を見る。


「……確かに」


「でしょう?」


「読み返したくなった」


「持ち主なのに?」


「水瀬さんの話聞いたから」


 あまりに普通の声で言われたため、彩花は一拍遅れて瞬きをした。


「私の?」


「うん」


「……そう」


「何?」


「何でもない」


「ほら」


「あ」


 指摘されて、彩花が笑う。


「本当だ」


「多い」


「九条君もだからね」


「分かってる」


 また笑いそうになって、今度は二人とも同時に口を閉じた。


 それがおかしくて、結局肩だけが小さく揺れた。


 窓の外では、雲の隙間から少しだけ青空が見えている。


 日曜日の午後。


 同じ図書館。


 同じ席。


 何度も繰り返してきた時間なのに、彩花には不思議と飽きる感じがなかった。


 むしろ最近は、前より話したいことが増えている。


 本だけではない。


 学校のこと。


 家のこと。


 姉のこと。


 悠真の妹のこと。


 犬のこと。


 何でも話すわけではないし、知らないことの方がまだ多い。それでも「図書館で会う人」だった頃とは、もう明らかに違っていた。


「そういえば」


 彩花が声を落とす。


「琴葉さんって、今日も家?」


「たぶん」


「たぶん?」


「朝はいたけど、午後から出るって言ってた」


「そうなんだ」


「友達と買い物じゃないかな」


「へえ」


 彩花は何となく、悠真の妹について想像する。


 凛花によれば、綺麗で落ち着いた子。


 悠真によれば、かなり容赦がない。


 その二つがどうにも結びつかない。


「何?」


「琴葉さんって、本当に九条君に『気持ち悪い』って言うの?」


「言う」


「本当に?」


「何回も」


「……想像できない」


「何で?」


「お姉ちゃんが、上品で綺麗な子だったって言ってたから」


「外ではそうだよ」


「外では?」


「俺にも基本はそうだけど、たまに遠慮がなくなる」


「仲いいんだね」


「普通だと思う」


「九条君、妹さんの話するとき結構楽しそう」


「そう?」


「うん」


 言われて、悠真は少し考える。


 特別意識したことはない。


 琴葉は生まれたときから近くにいた。


 口ではあれこれ言われるが、困っていれば助けるし、悠真が困っていれば琴葉もなんだかんだ手を貸す。


「水瀬さんと水瀬先輩も仲いいよね」


「うん」


 彩花の返事は早かった。


「お姉ちゃんのこと好きだから」


「知ってる」


「……知ってる?」


「話してると分かる」


「そんなに?」


「うん」


 彩花は少し照れくさそうに笑う。


「よく喧嘩もするけどね」


「俺と琴葉もするよ」


「九条君、負けそう」


「何で?」


「琴葉さん強そうだから」


「会ってないのに?」


「お姉ちゃんから聞いた感じ」


「水瀬先輩、琴葉と何話したんだ……」


 悠真が本気で気にしている。


 彩花はその様子がおかしくて、また笑いそうになった。


     ◇


 二人が図書館を出たのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。


 自動ドアが開くと、館内よりも湿った空気が肌へまとわりつく。雨の匂いは残っているが、空は明るく、傘を差している人はいない。


「蒸し暑いね」


「うん」


「朝は涼しかったのに」


「水瀬さん、傘持ってきた?」


「今日はちゃんと折り畳み」


 彩花がバッグを軽く叩く。


「学習したので」


「偉い」


「何、その言い方」


「褒めた」


「子供扱いしてない?」


「してない」


「本当に?」


「本当に」


 二人は並んで歩き出した。


 図書館前の広場には、子供を連れた家族や、自転車を押す学生がいる。道路沿いの植え込みでは、雨粒を残した紫陽花が重そうに頭を垂れていた。


 以前なら、ここで別れることも多かった。


 最近は少しだけ歩く。


 車が来るまで。


 駅へ向かう途中まで。


 その日の都合によって長さは違う。


 わざわざ「一緒に帰ろう」と確認することもない。


 それが自然になっていた。


「水瀬さん、今日このあと?」


「特にないよ。帰るだけ」


「夕飯作る?」


「今日はお母さん」


「そっか」


「九条君は?」


「家に帰る」


「生徒会ないもんね」


「日曜だから」


「そうだった」


 彩花は笑う。


 学校が違うため、悠真の一週間の予定を全部知っているわけではない。それでも生徒会が忙しい日があることや、土曜日にも学校関係の用事が入ることがあるくらいは知るようになった。


「学校の九条君、やっぱり見てみたいな」


 何気なく口にすると、悠真がこちらを見る。


「何で?」


「お姉ちゃんが言ってたから」


「何を?」


「学校だともっと真面目で、頼られてるって」


「普通だよ」


「絶対普通じゃない」


「水瀬さんまで」


「だって生徒会でしょう?」


「役員なだけ」


「それが普通じゃないんだって」


「水瀬さんの裁縫と同じじゃない?」


「え?」


「自分では普通だと思ってるけど、他の人から見たら違う」


 彩花の足が少しだけ遅くなった。


 土曜日。


 姉にも似たようなことを言われた。


 最近、少しずつ自分でも認めてみようと思っている。


「……それ、ずるい」


「何が?」


「私に言ったこと使うの」


「使ってない」


「使ってるよ」


「じゃあ、水瀬さんが料理とか裁縫得意なの認めたら、俺も生徒会頑張ってるって認める」


「何その交換条件」


「公平」


「公平かなあ」


 彩花は考える。


「……でも」


「うん?」


「裁縫は、得意かも」


 悠真が止まりかけた。


「本当に?」


「何で九条君がそんなに驚くの」


「前は否定してたから」


「最近、ちょっとだけ思うようになったの」


「そっか」


 悠真の表情が柔らかくなる。


「いいと思う」


「……うん」


「料理も?」


「それも、まあ」


「お菓子は?」


「しつこい」


「全部聞こうと思って」


「お姉ちゃんと同じことするのやめて」


「水瀬先輩も聞いた?」


「昨日」


「じゃあ俺はやめとく」


「もう聞いてるじゃん」


「確かに」


 彩花が笑う。


 その横顔を見ながら、悠真も少しだけ笑った。


 以前、自分が言ったことを彩花が覚えていたのかは分からない。


 自分の言葉だけで変わったとも思わない。


 家族や友人との時間。


 彩花自身が積み重ねてきたもの。


 その中で、少しだけ自分を認められるようになったのなら、それでいい。


 悠真はそれ以上、理由を聞かなかった。


「じゃあ九条君も」


「何?」


「生徒会、頑張ってる?」


「……頑張ってるよ」


「よろしい」


「何で上から?」


「公平だから」


「それ公平?」


「公平」


 二人はまた歩き出した。


     ◇


 駅へ向かう大通りへ出る少し手前で、彩花が足を止めた。


「あ」


「どうした?」


「糸」


「糸?」


「昨日ブックカバー作ってたら、白がなくなりそうだったの思い出した」


 視線の先には、小さな手芸用品店がある。


 大型店ほど品揃えはないが、彩花は何度か利用したことがあった。


「寄る?」


「うん。でも九条君、車待たせるなら先に――」


「まだ呼んでない」


「そうなの?」


「今日は駅の方まで歩こうと思ってたから」


「じゃあ、少しだけいい?」


「もちろん」


 二人で店へ入る。


 入口のベルが軽く鳴った。


 店内には色とりどりの布や糸、ボタン、リボンが並んでいる。外の湿気とは違う、布と木製棚の乾いた匂いがした。


 彩花は迷わず糸の棚へ向かう。


 悠真は少し遅れて後ろを歩いた。


「いっぱいある」


「糸?」


「うん」


「普通じゃない?」


「俺、手芸店ほとんど来ないから」


「そうなんだ」


「水瀬さんは?」


「たまに来るよ」


 彩花は棚の前でしゃがみ、白い糸をいくつか見比べる。


「全部白に見える」


 悠真が言った。


「違うよ」


「違う?」


「これは少し生成り。こっちは真っ白。こっちはちょっと青みがある」


「…………」


「何?」


「本当だ」


「分かった?」


「言われたら」


「でしょう?」


 彩花は少し得意そうだった。


 その顔を見て、悠真は笑う。


「何?」


「いや」


「また?」


「水瀬さん、本当に好きなんだなと思って」


「裁縫?」


「うん」


 彩花は棚へ視線を戻した。


「好きだよ」


 その返事には迷いがない。


「小さい頃から?」


「うん。最初はお母さんに教えてもらったの。巾着とか」


「へえ」


「でも最初すごかったよ。縫い目曲がってるし、紐通すところまで縫っちゃって」


「それは使えないね」


「使えなかった」


 彩花が笑う。


「お姉ちゃんにあげようと思って作ったのに」


「水瀬先輩に?」


「うん」


「何て言われた?」


「『可愛いから飾る』って」


「優しい」


「今思うと、使えなかっただけだと思う」


「それでも飾ったんだ」


「しばらく机の横にあった」


 その記憶を話す彩花の声は柔らかい。


 悠真は聞きながら、少しずつ増えていく彩花の話を大切に受け取る。


 幼い頃のこと。


 好きなもの。


 家族とのこと。


 全部を知る必要はない。


 話してくれるものを、その都度聞けばいい。


「これにしよう」


 彩花が一つ選ぶ。


「買ってくるね」


「ああ」


 悠真は店の入口近くで待った。


 そのとき。


 ベルが鳴った。


「ありがとうございました」


 店員の声と重なるように、二人の女子高校生が入ってくる。


「玲奈、リボンを見るだけですよ」


「分かってるって」


「先ほども同じことをおっしゃって、ヘアピンを二つ購入しました」


「必要だったから」


「一つでよかったのでは?」


「色違いは別物」


「私には同じに見えます」


「琴葉だって――」


 そこで声が止まった。


 悠真も振り向く。


「…………」


「…………」


 数秒。


 兄妹が互いを見る。


「兄様」


「琴葉」


 琴葉の隣にいた玲奈が目を瞬いた。


「あれ。九条……じゃなくて、悠真君?」


「何で言い直した?」


「琴葉といると九条が二人になるから」


「確かに」


「兄様」


「何?」


 琴葉の視線が、悠真の横を通り過ぎる。


 ちょうど会計を終えた彩花が、こちらへ歩いてきていた。


「九条君?」


 彩花も琴葉たちへ気づく。


 そして足を止めた。


「友達?」


「ああ」


 悠真が答えようとしたところで、琴葉と彩花の視線が合った。


 琴葉は一瞬だけ黙る。


 青葉高校の制服。


 肩より少し長い髪。


 手には買ったばかりらしい白い糸の入った小袋。


 派手ではない。


 兄が通う桜華学園にいる華やかな女子たちとは、雰囲気がかなり違う。


 けれど、兄の隣に立っている姿には妙な違和感がなかった。


(……この方が)


 何度も話に出てきた。


 水瀬彩花。


 兄が毎週図書館で会う人。


 本を貸し借りする人。


 お菓子を作る人。


 兄が「友達」と迷わず呼んだ人。


 琴葉はすぐに表情を整えた。


「初めまして」


 彩花が少し驚く。


 悠真が口を開く。


「水瀬さん、妹の琴葉」


「……え?」


 彩花の目が大きくなる。


 琴葉が丁寧に頭を下げた。


「九条琴葉です」


「あ……!」


 彩花も慌てて頭を下げる。


「水瀬彩花です。初めまして」


「存じています」


「え?」


「あ」


 琴葉が止まる。


 悠真が額へ手を当てた。


「それ、湊もやった」


「榊原さんも?」


「俺が話してるから知ってるって」


「…………」


 琴葉が兄を見る。


「兄様」


「何?」


「私のせいではありません」


「分かってるよ」


 彩花は二人を交互に見る。


 そして、思わず笑った。


「本当に兄妹なんですね」


「どこで分かったの?」


 悠真が聞く。


「何となく」


「またそれ?」


「だって似てる」


「顔?」


「そこもだけど」


 彩花は琴葉を見る。


「話し方は違うのに、空気がちょっと似てる」


「そうでしょうか」


 琴葉が悠真を見る。


「似てないと思うけど」


「私も兄様ほど変ではないと思います」


「琴葉」


「ほら」


 彩花が笑う。


「仲いい」


「普通です」


「普通だよ」


 兄妹がほぼ同時に答えた。


 彩花がさらに笑った。


 琴葉も一瞬だけ目を見開いたあと、口元を緩める。


「……確かに、今のは少し似ていましたね」


「認めるの?」


「事実ですので」


 そこで玲奈が小さく手を上げた。


「私、いつ入ればいい?」


「あ」


 琴葉が振り向く。


「申し訳ありません、玲奈」


「いいよ。面白かったから」


 玲奈は彩花へ向き直った。


「初めまして。一条玲奈です。琴葉の友達」


「水瀬彩花です」


「知ってる」


「玲奈まで」


 琴葉が言う。


「だってさっき聞いたから」


「それはそうですね」


 玲奈が笑う。


 彩花は少し緊張しながらも、つられて笑った。


 凛花から聞いていた通り、琴葉は綺麗な子だった。


 長い黒髪。


 整った姿勢。


 話し方も丁寧で、最初に見たときは少し構えた。


 九条家の人。


 そう思えば、自分とは住む世界が違うようにも感じる。


 けれど。


「水瀬さん」


「はい」


「その糸は、何かお作りになるのですか?」


「え?」


 琴葉が彩花の手元を見ている。


「あ、これは補充で。昨日ブックカバー作ってたらなくなりそうになって」


「ブックカバーを?」


「うん」


「ご自分で作られるのですね」


「簡単なものだけど」


 そこまで言って、彩花は少し止まった。


 昨日、姉に言われた。


 今日、悠真にも言われた。


 簡単。


 普通。


 すぐそう言う。


「……裁縫、好きだから」


 言い直した。


 悠真が隣で何も言わず、少しだけ笑った。


 琴葉はそれに気づかなかったのか、彩花へ視線を向けたままだ。


「素敵ですね」


「琴葉さんは?」


「私は最低限です」


「最低限?」


「ボタン付けなどはできますが、自分から何かを作ろうとはあまり」


「じゃあ九条君よりできる?」


「兄様よりは」


「俺と比べるなよ」


「兄様はできますか?」


「ボタンくらいなら」


「最後に?」


「……中学?」


 彩花が吹き出した。


「お姉ちゃんと同じ!」


「水瀬先輩もですか?」


「昨日まったく同じ会話した」


「そうなの?」


 悠真まで笑う。


 彩花は頷きながら、琴葉を見る。


 想像していたより話しやすい。


 もっと静かで、近寄りがたい人なのかと思っていた。


 もちろん上品ではある。


 けれど悠真に対する返しは思ったより遠慮がなく、そこに兄妹らしさがあった。


 一方、琴葉も似たことを感じていた。


(……兄様が話しやすいと言う理由は分かる気がします)


 彩花は、自分をよく見せようとする感じがない。


 九条という名字を聞いて態度を変える様子も、必要以上に遠慮する様子も、今のところ見えなかった。


 そして兄に対しても自然だった。


「九条君」


「何?」


「琴葉さん、本当に九条君に厳しいね」


「でしょう?」


「兄様が妙なことをするからです」


「俺、今日何かした?」


「先ほど私を紹介するとき、一瞬説明に迷いました」


「迷ってない」


「間がありました」


「一秒もなかっただろ」


「ありました」


「水瀬さん」


「私に振らないで」


 彩花が笑う。


「でも」


 琴葉が少しだけ首を傾げる。


「兄様が水瀬さんとお話ししているところを見るのは初めてですが」


「うん?」


「確かに学校とは少し違いますね」


 悠真が嫌な顔をした。


「琴葉」


「何でしょう」


「余計なこと言うなよ」


「まだ何も申し上げていません」


「これから言う顔してる」


「兄様は、学校ではもう少し静かです」


「それ、お姉ちゃんにも聞いた」


 彩花の目が少し明るくなる。


「やっぱりそうなんだ」


「はい」


「琴葉」


「事実です」


「どう違うの?」


「水瀬さん」


 悠真が止めようとする。


「いいじゃん。気になる」


「俺は今ここにいるんだけど」


「だから本人の前で聞いてる」


「それはそれで嫌だな」


 玲奈が横から笑う。


「諦めた方がいいよ、悠真君」


「一条まで」


「学校だともう少し隙がない感じ」


 玲奈が答えた。


「仕事してると特に」


「へえ」


「生徒会のときとか、すごくちゃんとしてる」


「見たい」


 彩花が即答した。


 悠真がこちらを見る。


「そんなに?」


「だって今と違うんでしょう?」


「本人は同じだよ」


「それはそうだけど」


「水瀬さんの学校での姿だって俺は知らない」


「あ」


「文芸部で書いてるところとか」


「それは……普通だよ」


「また普通って言った」


「今のはいいでしょう!」


「俺も学校では普通」


「九条君の普通は信用できない」


「ひどい」


 四人の間に笑いが広がる。


 店内だったことを思い出し、全員が少し声を落とした。


 店員がこちらを見て微笑んでいる。


「外へ出ましょうか」


 琴葉が言った。


「そうだね」


 玲奈も頷く。


 それぞれ買うものを済ませ、四人は店の外へ出た。


     ◇


 雲は少し薄くなっていた。


 歩道を吹く風が先ほどより涼しい。


「水瀬さんは、これから駅ですか?」


 琴葉が尋ねる。


「うん。そのつもり」


「私たちもです」


「そうなんだ」


「では途中までご一緒しても?」


「もちろん」


 返事は彩花から自然に出た。


 悠真が横を見る。


 彩花は気づいて首を傾げる。


「何?」


「いや」


「また?」


「今日は本当に何でもない」


「怪しい」


 結果として、四人で駅へ向かうことになった。


 歩道は横に広く、琴葉と彩花が前、悠真と玲奈が少し後ろを歩く形になる。


 それは誰かが決めたわけではない。


 琴葉が彩花の持っていた布製バッグに気づき、「それもご自分で?」と尋ねたところから、自然に二人の会話が始まっただけだった。


「これは市販だよ」


「そうなのですね」


「全部作ってるわけじゃないよ」


「ですが、ブックカバーは作られるのでしょう?」


「うん。簡単な形なら」


 彩花は今度、「簡単だから大したことない」とは続けなかった。


「本によって大きさが違うので、よく読むサイズに合わせて作ると使いやすいの」


「なるほど」


「琴葉さんも本読む?」


「読みます。兄様ほどではありませんが」


「どんなの?」


「随筆や古典が多いでしょうか。小説も読みます」


「古典!」


 彩花の声が少し明るくなる。


「何読むの?」


「最近は――」


 そこから会話が続いた。


 作者。


 現代語訳。


 装丁。


 文庫版と単行本。


 彩花は少しずつ緊張を忘れていく。


 琴葉も質問するだけではなく、自分が好きな本の話をする。


 後ろを歩いていた悠真は、その様子を見ていた。


「よかったな」


 玲奈が小声で言う。


「何が?」


「仲良くなれそうで」


「……うん」


「琴葉、結構楽しそう」


「そうだね」


「悠真君も?」


「何が?」


「嬉しそう」


 悠真は前を見る。


 彩花が何か言った。


 琴葉が笑う。


 兄として、琴葉が自分の友達と自然に話しているのは嬉しい。


 彩花が琴葉と楽しそうなのも嬉しい。


「嬉しいよ」


「素直だね」


「最近よく言われる」


「昔は違った?」


「琴葉に聞くと余計なことまで言うからやめた方がいい」


「もう十一年くらい知ってるけど」


「じゃあ知ってるだろ」


「でも妹視点は違うから」


「聞かなくていい」


 玲奈が笑う。


 その前で、琴葉が振り返った。


「兄様」


「何?」


「水瀬さんから伺いました」


「何を?」


「レモンケーキを二つとも一人で召し上がったそうですね」


「水瀬さん」


 悠真が彩花を見る。


「え?」


「何で言うの?」


「話の流れ」


「どんな流れ?」


「お菓子作りの話です」


 琴葉が答える。


「兄様には関係ありません」


「俺の話なのに?」


「兄様」


「何?」


「美味しかったですか?」


「その質問、月曜にもされた」


「直接作った方がいらっしゃるので、改めて」


 彩花が少し笑う。


「どうでした?」


 今度は彩花から聞かれた。


 悠真は一瞬だけ言葉に詰まる。


 月曜、琴葉には答えた。


 けれど作った本人から聞かれると少し違う。


「美味しかった」


「本当?」


「うん。レモンの酸味と蜂蜜の甘さがちょうどよかった」


「あ」


「何?」


「月曜と同じ感想です」


「琴葉」


「正確ですね」


「何で採点されてるんだよ」


 彩花が笑う。


「よかった」


「また作る?」


 言ってから、悠真は少しだけ早かったかと思った。


 けれど彩花は困らなかった。


「たぶん。そのうち」


「そっか」


「でも次は別のもの作りたいかも」


「何?」


「まだ決めてない」


「決まったら教えて」


「うん」


「兄様」


「何?」


「自然ですね」


「何が?」


「いえ」


「言えよ」


「何でもありません」


「絶対あるだろ」


 琴葉は答えず、彩花へ向き直った。


「水瀬さん」


「はい?」


「兄様は家でもだいたいこのような感じです」


「そうなんだ」


「信じるなよ」


「でも何となく分かる」


「また何となく」


 駅前が近づく。


 人通りが増え、四人は少し歩幅を狭めた。


 信号の手前で赤になる。


 立ち止まったところで、彩花が琴葉へ尋ねた。


「琴葉さん」


「はい」


「今日、会えてよかった」


 琴葉が目を瞬く。


「私もです」


「お姉ちゃんから話聞いてたから、ちょっと気になってたの」


「私も水瀬先輩から」


「……お姉ちゃん、何言った?」


「彩花さんなら私と話が合うかもしれないと」


「そんなこと言ったの?」


「はい」


 彩花は少し驚く。


 姉がそう思っていたとは知らなかった。


「当たっていたかもしれません」


 琴葉が続ける。


「え?」


「私も、お話ししていて楽しいです」


 あまり飾らない言葉だった。


 彩花は一瞬だけ黙ったあと、笑った。


「私も」


 信号が青になる。


 四人で歩き出す。


 悠真は少し後ろから二人を見る。


 何かを取り持ったわけではない。


 紹介しようと計画したわけでもない。


 たまたま会った。


 そして、二人が自分たちで話し始めた。


 それがよかった。


     ◇


 駅前で、四人は一度立ち止まった。


 琴葉と玲奈は、このあと駅ビルへ寄るらしい。


 彩花はそのまま電車へ。


 悠真は少し離れた場所から車を呼ぶことになっていた。


「では、水瀬さん」


「うん」


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


 彩花は少し迷ってから、笑う。


「また会えたら話そうね」


 琴葉の表情が僅かに柔らかくなった。


「はい。ぜひ」


 それだけだった。


 その場で次の予定を決めるわけでもない。


 連絡先を聞くわけでもない。


 けれど、初めて会った相手との別れとしては十分だった。


「玲奈さんも」


「うん。またね、水瀬さん」


「また」


 玲奈が手を振る。


 琴葉も小さく会釈をした。


 二人が駅ビルの方へ歩いていく。


 彩花はその背中を見送った。


「……本当に綺麗な子だった」


「琴葉?」


「うん」


「本人に言えば喜ぶと思う」


「今度会ったら言う」


「また会う前提なんだ」


 悠真が言った。


 彩花は彼を見る。


「駄目?」


「いや」


 悠真はすぐに首を振った。


「嬉しい」


「九条君が?」


「うん」


「何で?」


「琴葉と水瀬さんが仲良くなれそうだから」


 彩花は少しだけ目を丸くした。


 それから、柔らかく笑った。


「私も嬉しい」


「そっか」


「九条君がよく話す人だから、会ってみたかったし」


 悠真はその言葉を聞き、少しだけ胸の奥が温かくなる。


 自分が彩花を知りたいと思ったように。


 彩花も、自分の周りにいる人へ興味を持ってくれている。


 それを大げさに考える必要はない。


 友達なら、そういうこともある。


 ただ。


「水瀬さん」


「何?」


「ありがとう」


「何が?」


「琴葉と普通に話してくれて」


「普通にって」


「九条家だからって構えなかったから」


 彩花は少し黙った。


「……最初はちょっと緊張したよ」


「やっぱり?」


「だって九条君の妹だし」


「それは俺の妹だから?」


「それもあるけど」


 彩花は言葉を探す。


「九条家の人っていうのも、少し」


「うん」


「でも話したら琴葉さんだった」


 悠真が瞬きをした。


「琴葉さんは琴葉さんだったっていうか」


 彩花は自分でも少し変な言い方だと思ったらしく、困ったように笑う。


「分かる?」


「分かる」


 悠真はすぐに答えた。


 彩花は水瀬凛花の妹ではなく、水瀬彩花だ。


 琴葉も九条家の娘というだけではなく、九条琴葉だ。


「九条君もそうだったから」


「俺?」


「最初、すごい家の人だって知ったときはびっくりしたけど」


「ああ」


「今は九条君は九条君だから」


 悠真は何も言わなかった。


 彩花は気づかず続ける。


「だから琴葉さんも、話してたら普通の女の子だった」


「本人が聞いたら普通ってところに引っかかりそう」


「褒めてるの!」


「分かってる」


「本当に?」


「うん」


 悠真は笑った。


 彩花にとって、自分はもう「九条家の御曹司」より先に「九条君」なのだろう。


 それが嬉しかった。


 理由を掘り下げなくても、その事実だけで十分だった。


「じゃあ、私こっちだから」


 改札へ向かうところで彩花が立ち止まる。


「ああ」


「またね」


「うん。また」


 一度歩き出した彩花が、数歩先で振り返った。


「九条君」


「何?」


「琴葉さんに、今日は楽しかったって言っておいて」


「自分で言ってたじゃん」


「それとは別」


「分かった」


「じゃあまた」


「また」


 彩花は今度こそ改札へ向かった。


 悠真はその姿が人の流れへ混ざるまで見送り、スマートフォンを取り出して迎えの車を頼む。


 画面を閉じたところで、少しだけ笑った。


(琴葉、たぶん帰ったら色々言うんだろうな)


 何を言われるかは想像できる。


 それでも今日は、あまり嫌ではなかった。


     ◇


「琴葉」


 駅ビルの雑貨店で、玲奈が呼んだ。


「何です?」


「機嫌いいね」


「そうですか?」


「うん」


「普通です」


「九条家、みんな普通って言うの?」


「兄様と一緒にしないでください」


 琴葉は棚に並んだ便箋を見ている。


 玲奈が隣から覗き込む。


「水瀬さん、いい子だったね」


「はい」


 返事が早い。


「気に入った?」


「その表現は少し違う気がしますが」


「じゃあ仲良くなりたい?」


 琴葉は少し考える。


「そうですね」


「へえ」


「何です?」


「琴葉が初対面の子にそこまで言うの珍しい」


「話しやすかったので」


「お兄さんと同じこと言ってそう」


「……確かに兄様も言っていました」


「やっぱり」


 玲奈が笑う。


 琴葉は少しだけ不満そうな顔をしたが、否定はしなかった。


 彩花は想像していた人と少し違った。


 兄から聞く話だけでは、もっと大人しい少女を想像していた。


 実際には穏やかだが、よく笑う。


 兄へ言い返すこともある。


 好きなものの話になると、声が少し明るくなる。


 そして何より、兄の前で無理をしているようには見えなかった。


(兄様も)


 学校とは少し違った。


 家とも違う。


 彩花の言葉をよく聞き、よく笑い、自然に返す。


 以前なら、その一つ一つについて本人が最も混乱していたはずだ。


 今は違う。


 楽しいから話す。


 会いたいから会う。


 友達だから大切。


 少しずつ、兄自身がそれをそのまま受け入れるようになっている。


「でも」


 玲奈が便箋を一つ手に取る。


「思ったより普通だった」


「水瀬さんが?」


「うん。いい意味で」


「兄様の相手だから、何か特殊な方を想像していましたか?」


「ちょっと」


「失礼ですよ」


「琴葉もでしょ?」


「…………」


「ほら」


「私は」


 琴葉は少し考える。


「もう少し緊張するかと思っていました」


「自分が?」


「はい」


「何で?」


「兄様が大事にしている方ですから」


 玲奈が横を見る。


「それ、お兄さんに言った?」


「言いません」


「何で?」


「調子に乗るので」


「乗るかな」


「乗らなくても、変な顔はします」


「どんな?」


「兄様の顔です」


「説明になってない」


 玲奈が笑う。


「でも安心した?」


「はい」


 琴葉は今度は迷わなかった。


「兄様が楽しそうな理由が、少し分かりました」


     ◇


 九条家へ戻った悠真を最初に迎えたのは、ハクだった。


「ただいま」


 玄関へ入るなり、大きな白い体が近づいてくる。


 悠真はしゃがみ、頭を撫でた。


「今日な」


 ハクが尻尾を振る。


「水瀬さんに会った」


 いつものことだ。


 日曜日なのだから。


「あと琴葉も会った」


 ハクには分からないはずなのに、悠真はそのまま話す。


「偶然」


 白い耳が少し動く。


「結構楽しそうだった」


 撫でながら、昼間の光景を思い出す。


 彩花と琴葉。


 自分が何かしなくても、二人で話していた。


「よかったよ」


 ハクが悠真の手へ鼻先を押しつける。


「でもお前はまだ」


 悠真は笑う。


「そのうちな」


 ハクは当然、返事をしなかった。


 ただ尻尾だけは機嫌よく床を叩いていた。


 そこへ廊下から足音がする。


「兄様」


 悠真が振り返る。


 琴葉だった。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


「水瀬さん、琴葉に今日は楽しかったって言っておいてって」


 琴葉の表情が少し変わった。


「そうですか」


「うん」


「私も楽しかったです」


「そっか」


「はい」


 そこで会話が一度止まる。


 悠真はハクを撫で続ける。


 琴葉は兄を見る。


「兄様」


「何?」


「水瀬さん」


「うん」


「素敵な方ですね」


 悠真の手が止まった。


 琴葉はそれを見逃さない。


「何です、その顔」


「いや」


「嬉しいのですか?」


「……まあ」


「そうですか」


「何?」


「いえ」


 琴葉は小さく笑う。


「兄様が毎週図書館へ行く理由が、少し分かりました」


「本を読みに行ってるんだけど」


「はいはい」


「本当だって」


「分かっています」


「絶対分かってないだろ」


「本も読みに行っているのでしょう?」


「『も』をつけるな」


「では、私は着替えてまいります」


「逃げるなよ」


「何からでしょう」


 琴葉は涼しい顔で階段へ向かう。


 その途中で、一度だけ振り返った。


「兄様」


「今度は何?」


「水瀬さんと、またお会いしても?」


 悠真は少し驚いた。


「俺に聞くこと?」


「一応」


「水瀬さんが嫌じゃなければ、俺が決めることじゃないだろ」


「そうおっしゃると思いました」


「じゃあ聞くなよ」


「確認です」


「何の?」


「兄様が変な独占欲を発揮しないかの」


「しないよ」


「本当に?」


「水瀬さんの友達を俺が決めるわけないだろ」


 琴葉は兄を数秒見る。


 それから、柔らかく笑った。


「そうですね」


「何だよ」


「何でもありません」


「それ今日何回目だ?」


「兄様もよくおっしゃるので、お互い様です」


 琴葉は今度こそ二階へ上がっていった。


 悠真は小さく息を吐く。


 足元のハクを見る。


「何か、増えたな」


 何が、とは自分でもうまく言えない。


 彩花と出会った。


 話すようになった。


 友達になった。


 その姉と自分が話すようになった。


 今度は、自分の妹と彩花が出会った。


 最初は図書館の棚の前に二人しかいなかった。


 同じ一冊へ手を伸ばした。


 ただそれだけだった。


 それが今は、互いの周囲へ少しずつ広がっている。


 悠真はそれを急いで何かの形にしたいとは思わなかった。


 今日のように、自然に増えていけばいい。


     ◇


 同じ頃。


 水瀬家では、彩花が自室の机へ今日買った白い糸を置いていた。


 隣には、昨日作ったばかりのブックカバーがある。


 糸を裁縫箱へしまいながら、今日のことを思い返す。


「琴葉さんかあ……」


 声に出してみる。


 綺麗だった。


 上品だった。


 でも、思っていたよりずっと話しやすかった。


 悠真に対して少しだけ容赦がないところも面白かった。


(本の話、もっとしたいな)


 琴葉が好きだと言っていた本の中に、彩花も読んだことのある作品がいくつかあった。


 今日は駅までの短い時間だったため、深くは話せなかった。


 次に会えたら、その続きを話してみたい。


 そう思う。


 そこで彩花は、少しだけ不思議に感じた。


 悠真と出会ったときも、最初は同じだった。


 また会えたら。


 次に会えたら。


 そんなところから始まった。


 もちろん、琴葉との関係は悠真とは違う。


 比べる必要もない。


 ただ、人と仲良くなるのはこういうことなのかもしれないと思った。


 最初から「友達になろう」と決めるわけではない。


 話して。


 楽しかったから、また話したいと思う。


 その繰り返し。


「彩花ー」


 一階から凛花の声がした。


「何ー?」


「今日、琴葉さんに会ったんでしょう?」


 彩花の動きが止まる。


「何で知ってるの!?」


「さっき琴葉さんから聞いた!」


「連絡取ってるの!?」


「学校関係!」


「本当に!?」


「何よその疑い!」


 彩花は思わず笑いながら、部屋を出た。


 階段を下りると、リビングから凛花が顔を出す。


「どうだった?」


「何が?」


「琴葉さん」


「楽しかったよ」


「それだけ?」


「本の話した」


「うん」


「あと裁縫」


「うん」


「九条君が学校だと真面目だって聞いた」


「それ私も言ったでしょう」


「琴葉さんから聞くとまた違うの」


「何が?」


「妹だから」


「よく分からない」


「私も」


 彩花は笑う。


 凛花はその顔を見る。


「仲良くなれそう?」


「うん」


 迷いのない返事だった。


「また会いたい」


「そう」


 凛花も少しだけ笑う。


「よかった」


「お姉ちゃんが?」


「だって、合いそうだと思ったから」


「本当に言ったんだ」


「何を?」


「琴葉さんに。私と話合いそうって」


「言ったけど」


「勝手に」


「外れてなかったでしょう?」


「……まあ」


「じゃあいいじゃない」


「そうだけど」


 彩花はソファへ座る。


 凛花も隣へ腰を下ろした。


「九条君もいたんでしょう?」


「いたよ」


「どうだった?」


「何が?」


「妹と彩花が話してる間」


「玲奈さんと後ろ歩いてた」


「玲奈さん?」


「琴葉さんの友達。一条玲奈さん」


「一条さんもいたの?」


「知ってる?」


「顔は」


「すごい綺麗な人だった」


「有名よ」


「やっぱり」


 彩花は今日会った二人を思い出す。


 桜華学園。


 悠真の学校。


 凛花の学校。


 以前は自分とは関係のない場所だった。


 今でも自分が通っているわけではない。


 けれど、そこにいる人の顔が少しずつ増えている。


「お姉ちゃん」


「何?」


「九条君の学校、ちょっと面白そう」


「何で?」


「知ってる人増えたから」


「まだ数人でしょう」


「でも前はお姉ちゃんしかいなかったもん」


「……そうね」


 凛花は少しだけ考える。


「でも、桜華だからって特別に考えなくていいからね」


「分かってる」


「本当に?」


「うん」


 彩花は頷く。


「九条君も九条君だし、琴葉さんも琴葉さんだったから」


 凛花が黙った。


「何?」


「いや」


「お姉ちゃんまで何でもない?」


「ちょっと思い出しただけ」


「何を?」


「九条君のこと」


「何で?」


「秘密」


「何それ」


 彩花は不満そうにする。


 凛花は笑って誤魔化した。


『水瀬先輩と水瀬さんは別の人なので』


 あの日、悠真が言った言葉。


 そして今、彩花も同じように人を見ている。


 九条家だからではなく。


 悠真だから。


 琴葉だから。


 そうやって人を見ることが、少しずつ彩花自身にも返ってくればいい。


 いつか。


 姉と比べず。


 誰かの妹でもなく。


 自分自身を「水瀬彩花」として見られるようになればいい。


「お姉ちゃん」


「何?」


「何か今、難しいこと考えてた?」


「別に」


「顔がそうだった」


「夕飯のこと」


「嘘」


「本当」


「今日何?」


「知らない」


「絶対考えてなかったじゃん」


 二人で笑う。


 キッチンから紗月が「今日はカレーよ」と声をかけてきた。


 彩花は「やった」と返し、凛花と一緒に立ち上がる。


 その途中。


 彩花はふと思った。


 来週の日曜日。


 悠真とは、また図書館で会うだろう。


 琴葉とは分からない。


 一条玲奈とも分からない。


 けれど、今日の別れ際に言った「また会えたら」は、以前ほど遠い言葉には感じなかった。


 図書館で一人の少年と出会ってから、自分の周りに少しずつ知らなかった人が増えている。


 それを今は、不安よりも楽しいと思える。


 まだ名前をつけるほどではない、小さな変化だった。


 けれど彩花は、その変化を嫌いではなかった。

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