第14話 兄様の友達が気になります
月曜日の朝、私立桜華学園高等部の昇降口には、梅雨らしい湿った空気が残っていた。
雨そのものは降っていないものの、夜のうちに濡れた舗装路はまだ乾き切っておらず、登校してきた生徒たちの靴底が薄く水気を拾っている。開け放たれた昇降口からは土と濡れた木々の匂いが入り込み、校舎内では傘を持ってくるべきだったかと話す声や、一週間の始まりを惜しむような欠伸があちこちで聞こえていた。
「兄様」
上履きへ履き替えていた悠真は、背後から呼ばれて顔を上げた。
「何?」
少し離れた女子生徒用の靴箱の前に、琴葉が立っている。
腰まで届く黒髪をいつものように整え、制服にも乱れがない。月曜の朝から姿勢まで綺麗なのはさすがだと悠真は思うが、本人へ言えば「兄様もでしょう」と返されそうなので黙っておいた。
琴葉は上履きへ履き替えると、こちらへ歩いてきた。
「昨日のレモンケーキ、美味しかったですか?」
「朝一番で聞くことか?」
「昨日、一口もいただけませんでしたので、せめて感想くらいは聞いてもよろしいかと」
「美味しかったよ」
「具体的には?」
「レモンの酸味が強すぎなくて、蜂蜜の甘さも重くなかった」
「なるほど」
「何でそんな真面目に聞くんだよ」
「水瀬さんのお菓子作りの腕前を確認しています」
「何のために?」
「興味です」
琴葉は平然と答えた。
「以前のパウンドケーキも美味しかったですし、兄様が一人占めしたレモンケーキも好評となると、かなりお上手なのでしょうね」
「一人占めって言うな」
「二個とも食べたのでしょう?」
「俺がもらったからな」
「はい。狭量でした」
「まだ言うのか」
悠真が靴箱を閉める。
周囲には登校してきた生徒が何人もおり、九条兄妹の姿に気づいて軽く会釈をする者もいた。悠真と琴葉もそのたび自然に挨拶を返しながら、並んで廊下を歩き始める。
途中まで同じ方向だった。
「それで、兄様」
「まだあるの?」
「古本市」
悠真の足取りは変わらなかった。
「うん」
「水瀬さんから一緒に行こうとおっしゃったのですよね?」
「正確には『一緒に見ます?』だったけど」
「ほぼ同じでは?」
「まあ」
「お二人で?」
「そのつもり」
「待ち合わせは?」
「まだ決めてない」
「連絡先は?」
「知らない」
琴葉が横を見る。
「……まだ?」
「まだ」
「交換する予定は?」
「今のところない」
「古本市へ一緒に行くのに?」
「来週か、その次に時間と場所を決めればいいだろ」
「確かに可能ではありますが」
琴葉は少し考えるように視線を前へ戻した。
兄と彩花は、毎週のように図書館で会っている。
互いの本を貸し借りする。
手作りのお菓子をもらう。
兄は彼女を「もっと知りたい人」と認識しているらしく、ついには「可愛い」とまで本人へ言ったらしい――そこまでは兄から直接聞いていないが、最近の様子を見ていれば何かしら進んでいることは分かる。
そして今度は、図書館以外で二人きりの予定までできた。
なのに、連絡先は知らない。
「兄様」
「何?」
「やはり進行が独特です」
「またそれ?」
「悪いとは申し上げていません」
「じゃあ何だよ」
「興味深いです」
「観察対象みたいに言うな」
「半分くらいは」
「琴葉」
「冗談です」
そう言った琴葉の口元には、ほとんど冗談に見えない微笑が浮かんでいた。
階段前へ着く。
悠真は二階。
琴葉の教室は反対側だ。
「じゃあ」
悠真が曲がろうとする。
「兄様」
「今度は本当に何?」
琴葉は少しだけ首を傾げた。
「水瀬さんとは、もう友達なのですか?」
悠真が止まる。
日曜日。
図書館の窓際。
互いに、今の関係へ言葉を置いた。
友達。
曖昧だったものが、ようやく自然にそこへ収まった。
「うん」
悠真は答えた。
「友達だよ」
琴葉が僅かに目を見開く。
「そうですか」
「何?」
「いえ」
その返事が思っていた以上に迷いなく出てきたことが、少し意外だった。
以前の兄なら、ここから「友達ってどこからだと思う?」などと始めてもおかしくなかった。
今は違う。
彩花との間で確認した言葉を、そのまま受け取っている。
「よかったですね」
「うん」
「…………」
「だから何?」
「本当に普通になりましたね」
「前から普通だよ」
「そこだけは同意できません」
「朝から失礼だな」
「では、放課後に」
「ああ」
二人は別れる。
琴葉は数歩進んでから、ふと振り返った。
悠真はすでに階段を上がっている。
(友達、ですか)
何度か名前を聞いた。
兄が楽しそうに話す相手。
兄が借りた本を特別丁寧に扱う相手。
兄が手作りのお菓子を家へ持ち帰る相手。
そして、今度二人で古本市へ行く相手。
琴葉はまだ、その水瀬彩花という少女を直接知らない。
(……少し、お会いしてみたいですね)
兄のためだけではなく。
以前から、そう思い始めていた。
◇
「九条さん、聞いてる?」
「聞いています」
「本当に?」
「来月の交流会で使うテーブルクロスの候補ですよね」
「そうそう。白と紺ならどっちがいいと思う?」
「会場が明るいので、紺の方が資料は見やすいと思います。ただ、全卓を濃色にすると重くなるので、受付だけ白でもいいかもしれません」
「なるほど。じゃあそれで先生に聞いてみる」
昼休み。
琴葉は教室の窓際で、クラスメイトから渡された二枚の見本写真を見比べていた。
桜華学園では、学外の系列校や近隣校との交流行事が年間にいくつかある。今回クラスメイトが関わっているのは来月の小規模な文化交流会で、琴葉自身は実行委員ではないものの、こうして意見を求められることは多かった。
「ありがとう、九条さん」
「いえ」
クラスメイトが友人の席へ戻っていく。
その直後。
「琴葉」
横から落ち着いた声がした。
「玲奈」
机の横へ立ったのは、一条玲奈だった。
同じ一年生。
すらりと背が高く、短すぎない髪を耳へかけた姿は、制服のスカートを着ていてもどこか中性的な印象を与える。整った顔立ちと自然な立ち居振る舞いのせいで、入学してまだ数か月だというのに、廊下で下級生――同学年しかいない高等部一年に「先輩みたい」と囁かれることすらあった。
小等部から琴葉と同じ桜華学園へ通っている、長い付き合いの友人でもある。
「お昼、行かない?」
「ええ」
「今日は中庭無理そうだね」
玲奈が窓を見る。
雨は降っていないものの、外のベンチはまだ濡れている。
「食堂にしましょうか」
「混んでそう」
「では空き教室?」
「それがいい」
二人は弁当を持って教室を出た。
廊下を歩けば、すれ違う女子生徒の何人かが玲奈へ視線を向ける。
「一条さん、おはよう」
「もう昼だよ」
「あ、そうだった」
声をかけた女子が友人と笑う。
玲奈も笑って手を振った。
琴葉は隣で何も言わない。
昔から見慣れた光景だ。
「何?」
玲奈がこちらを見る。
「何も」
「また見てたでしょ」
「人気がありますね」
「琴葉に言われたくないな」
「私は玲奈とは種類が違います」
「どこが?」
「私は『九条さん』です。玲奈は『玲奈様』になりかけています」
「やめてよ」
玲奈が本気で嫌そうな顔をした。
琴葉は少し笑う。
空いていた特別教室へ入り、窓際の机を二つ向かい合わせにする。
玲奈が弁当箱を開けた。
「それで?」
「何です?」
「朝から何か考えてるでしょ」
「分かりますか?」
「何年一緒にいると思ってるの」
「十一年ほどでしょうか」
「具体的に数えなくていい」
玲奈は卵焼きを箸でつまむ。
「家のこと?」
「いいえ」
「学校?」
「違います」
「じゃあ、お兄さん?」
琴葉の箸が止まった。
玲奈が笑う。
「当たり?」
「なぜ兄様になるのです?」
「最近たまに九条先輩のこと考えてる顔するから」
「同学年でしょう」
「分かってるけど、何となく先輩って感じするんだよね」
「同じ一年です」
「年上のお兄さんだからじゃない?」
「数か月しか違いません」
「でも兄は兄でしょ」
玲奈は気にせず続ける。
「何かあった?」
「兄様に友達ができました」
「…………」
「玲奈?」
「待って」
「はい」
「その言い方だと、今まで友達いなかったみたいになるよ」
「榊原さんなどはいます」
「じゃあ何でわざわざ?」
「女の子です」
玲奈の目が少し細くなった。
「ああ」
「何です、その納得した顔」
「なるほどね」
「まだ何も説明していませんが」
「お兄さんに女の子の友達ができて、琴葉が気にしてる」
「そうです」
「好きな子?」
「兄様が?」
「うん」
「本人はまだそういう言葉にはしていません」
「へえ」
玲奈は興味を持ったらしい。
ただし、騒ぎ立てる様子はない。
「どんな子?」
「私も会ったことがありません」
「そうなの?」
「県立青葉高校の一年生です」
「他校なんだ」
「図書館で知り合ったそうです」
「いい出会い方するね」
「そうでしょうか」
「少なくとも廊下でぶつかってパンツ見たとかよりいい」
「玲奈」
「漫画の話」
「分かっています」
琴葉はため息をつく。
「水瀬彩花さんといいます」
「水瀬?」
玲奈が少し考えた。
「二年の水瀬凛花先輩と同じ?」
「妹さんです」
「ああ」
「ご存じですか?」
「有名じゃない? 剣道部の水瀬先輩。成績もすごいって」
「ええ」
「妹さんは青葉なんだ」
「はい」
玲奈はしばらく弁当を食べながら考えていた。
「で、琴葉は何が気になってるの?」
「何が、とは?」
「お兄さんの友達がどんな子か知りたいだけ?」
「それもあります」
「他には?」
琴葉は箸を置く。
「兄様が、随分楽しそうなのです」
「いいことじゃない」
「そうですね」
「嫌なの?」
「まさか」
それは即答できた。
兄が誰かと出会い、楽しそうにしている。
嫌なはずがない。
「では、なぜ気になるのでしょう」
「私に聞くの?」
「玲奈なら分かるかと」
「雑な信頼だなあ」
玲奈は苦笑する。
「会ってないからじゃない?」
「……どういうことです?」
「琴葉って、お兄さんのこと結構好きでしょ」
「家族としてなら」
「うん。だから、そのお兄さんが最近よく話す人が、自分の知らない人だから気になるんじゃない?」
琴葉は少し黙った。
兄の生活には、自分の知っている人が多い。
父。
母。
祖父母。
学校の友人。
幼い頃から付き合いのある家の人々。
けれど彩花だけは、ある日突然、兄の話の中へ現れた。
自分の知らない図書館で。
自分の知らない会話を重ね。
自分の知らない表情を兄から引き出している。
それが嫌なわけではない。
ただ、知りたい。
「……そうかもしれません」
「会ってみたい?」
「はい」
「じゃあ会えば?」
「そう簡単には」
「お兄さんに紹介してって言えばいいじゃん」
「それは嫌です」
「何で?」
「兄様の友達なのに、妹が『会わせてください』と出ていくのは不自然でしょう」
「古い家のお見合いみたいになるね」
「そうなのです」
「そこまで?」
「少なくとも兄様は嫌がると思います」
「確かに」
玲奈は笑う。
「じゃあ自然に会えるまで待つしかないね」
「そうですね」
「そのうち会うでしょ」
「そうでしょうか」
「お兄さんがその子と仲良くしてるなら」
琴葉は返事をしなかった。
けれど、その言葉は不思議と納得できた。
兄が彩花と関わり続けるなら、いつか自分とも接点ができる。
急ぐ必要はない。
「ところで」
玲奈が言う。
「お兄さん、その子とどこまで進んでるの?」
「どこまで、とは?」
「連絡先とか」
「知りません」
「え?」
「兄様は水瀬さんの連絡先を知りません」
「友達なんだよね?」
「昨日、確認したそうです」
「昨日?」
「はい」
「知り合ってどのくらい?」
「一か月半ほどでしょうか」
「毎週会ってる?」
「ほぼ」
「連絡先なしで?」
「はい」
「……面白いね」
「玲奈まで」
「いや、悪い意味じゃなくて」
玲奈は肩を揺らして笑った。
「すごく丁寧なんだね」
琴葉が顔を上げる。
「丁寧?」
「だって、連絡先聞けば簡単じゃん。でも聞かないで毎週会って、少しずつ仲良くなってるんでしょ?」
「一度、水瀬さんから交換の話は出たそうです」
「出たんだ」
「でも、今のままがいいと」
「お兄さんは?」
「了承しました」
「へえ」
玲奈の笑みが少し柔らかくなった。
「いいんじゃない?」
「そう思いますか?」
「うん。その水瀬さんって子がそうしたいなら」
「兄様も同じことを言うと思います」
「じゃあ大丈夫でしょ」
玲奈は残っていたご飯を口へ運ぶ。
「ますます会ってみたくなったけど」
「玲奈までですか?」
「琴葉がこんなに誰かの話するの珍しいから」
「兄様の話です」
「でも水瀬さんの話でもあるでしょ」
「…………」
「ほら」
琴葉は反論しなかった。
確かに最近、彩花について聞くことが増えている。
お菓子。
本。
図書館。
ハクに会いたがっていること。
古本市。
本人と会ったことはないのに、少しずつ人物像ができていた。
「いつか会えたらいいですね」
「うん」
「そのときは」
「何?」
「兄様が普段どれだけ気持ち悪いかは、すぐには言わないようにします」
「そこは黙っててあげなよ」
「検討します」
「可哀想になってきた」
玲奈の笑い声が、静かな教室へ小さく響いた。
◇
同じ日の放課後。
県立青葉高校の文芸部室では、窓が少しだけ開けられていた。
雨の気配が遠のいた午後は蒸し暑く、扇風機が首を振るたび、机の上の原稿用紙がかすかに浮く。校庭からは運動部の掛け声が聞こえ、廊下を通る生徒の笑い声が開いた扉からときどき入り込んでいた。
彩花はノートへ数行書き、消しゴムをかけた。
「違うなあ……」
先週から考えている文化祭用の短編。
大きな事件は起こらない。
二人の人間が出会い、少しずつ話すようになる。
そんな話を書きたいと思っていた。
けれど、いざ書き始めると難しい。
ただ会話させるだけでは、二人が仲良くなっているように見えない。
何を覚えているか。
相手の何に気づくか。
以前ならしなかったことを、いつから自然にするようになるのか。
そういう細かなところを書かないと、変化が伝わらない。
「水瀬」
「うん?」
向かいの席にいた同じ文芸部の女子生徒が顔を上げる。
「また消してる」
「うん」
「今日だけで何回目?」
「数えてない」
「題材変えたら?」
「でも、これ書きたいんだよね」
「そんなに?」
「うん」
彩花はノートを見る。
書きかけの文章には、主人公が駅で偶然同じ人と何度か会う場面がある。
最初は会釈だけ。
次は天気の話。
その次は、相手が持っていた本の話。
少しずつ言葉が増える。
(……図書館にしたら、そのまますぎるし)
だから駅にした。
別に悠真とのことを書いているわけではない。
似ているだけ。
「ねえ水瀬」
「何?」
「その二人、最終的に付き合うの?」
「まだ決めてない」
「恋愛じゃないの?」
「恋愛でもいいけど、恋愛じゃなくてもいいかなって」
「どういうこと?」
「仲良くなること自体を書きたいの」
自分で言ってから、彩花は少しだけ納得した。
そうだ。
今書きたいのは、告白でも付き合う瞬間でもない。
誰かが「知らない人」ではなくなっていく過程。
いつの間にか、会えれば嬉しい相手になる。
次に話すことを考える。
自分の好きなものを教えたくなる。
そういう時間だ。
「水瀬、何かあった?」
「え?」
「妙に具体的だから」
「何もないよ」
「本当に?」
「本当」
「ふうん」
疑うような目を向けられる。
彩花はノートを少し手前へ寄せた。
「見ないで」
「見てないよ」
「今見ようとした」
「気のせい」
「絶対見た」
笑いながらノートを閉じる。
そのとき、廊下から聞き慣れた声がした。
「水瀬ー」
「また来た」
部員の誰かが笑う。
田辺大地が入口から顔を出した。
「何で『また』なんだよ」
「最近よく来るから」
「友達待ち」
「その友達、本当にいる?」
「いるって!」
「一回連れてきて」
「何で証明しないといけないんだよ」
大地は不満そうにしながらも部室へ入ってくる。
「水瀬、今日何かない?」
「何が?」
「食べ物」
「ない」
「即答」
「毎日作ってないよ」
「昨日は?」
「作ってない」
「日曜は?」
彩花の手が少し止まる。
「……レモンケーキ」
「あるじゃん!」
「もうないよ」
「誰が食った?」
「家族と」
そこで一瞬だけ迷った。
「あと、友達」
「ずる」
「何が?」
「俺も友達だろ」
「田辺君は人のお菓子目当てで文芸部来るから」
「友情に差をつけるなよ」
「つけてない」
「じゃあ次くれ」
「余ったらね」
「約束な」
「してない」
部員たちが笑う。
大地も笑っている。
彩花も普通に笑った。
けれど、ほんの少しだけ気になった。
今、悠真のことを「友達」と言った。
名前は出していない。
それでも、口にした瞬間に日曜日の会話が思い出された。
(……本当に友達になったんだな)
妙な感じだった。
何か劇的な出来事があったわけではない。
昨日から急に関係が変わったわけでもない。
ただ、今まで曖昧だった場所に名前がついた。
その名前を自分以外の人がいる場所で使ってみると、思った以上にしっくりきた。
「水瀬?」
「何?」
「何か嬉しそう」
「え?」
「ケーキの話?」
「違う!」
「じゃあ何?」
「何でもない」
「怪しい」
「田辺君、友達来たんじゃない?」
「あ」
廊下から男子生徒が大地を呼んでいる。
「じゃ、またな」
「はいはい」
「次お菓子な」
「約束してないから!」
大地が笑いながら出ていく。
彩花は小さく息を吐いた。
向かいの部員がこちらを見ている。
「何?」
「別に」
「その顔何?」
「友達ねえ」
「田辺君?」
「そっちじゃなくて」
「…………」
彩花はノートを開いた。
「原稿書く」
「逃げた」
「締切近いの!」
「はいはい」
からかわれながら、彩花はシャープペンシルを持つ。
けれど書き始める前に、ノートの余白へ小さく一行だけ書いた。
『名前がついてから、前より意識することもある。』
書いてから、少し考える。
恋愛ではない。
少なくとも、主人公たちはまだ。
彩花はその一文を消さずに残した。
◇
火曜日の昼休み。
桜華学園の廊下で、凛花は後輩に呼び止められた。
「水瀬先輩」
「はい?」
振り返る。
そこにいたのは九条琴葉だった。
直接話したことはほとんどない。
顔と名前は知っている。
九条悠真の妹で、同じ一年生。
入学してすぐから学年内で目立つ存在でもあり、凛花も何度か校内で見かけていた。
「少しよろしいですか?」
「大丈夫だけど」
「ありがとうございます」
琴葉は丁寧に頭を下げる。
凛花の隣には千尋がいた。
千尋は琴葉を見て、それから凛花を見る。
「私、先行ってようか?」
「別にいいけど」
琴葉も頷いた。
「私も構いません」
「じゃあいる」
「何で聞いたのよ」
「気になったから」
凛花が呆れる。
三人は通行の邪魔にならないよう窓際へ寄った。
「それで?」
凛花が尋ねる。
「兄様から、水瀬先輩が彩花さんのお姉様だと伺いました」
凛花の眉が少し動く。
「……彩花さん?」
「はい」
「会ったことあるの?」
「まだありません」
「まだ」
その一語を凛花は聞き逃さなかった。
琴葉も自分で気づいたらしく、少しだけ目を伏せる。
「兄様から何度かお話を聞いていますので」
「何を?」
反応が速かった。
千尋が隣で口元を押さえる。
「凛花」
「何?」
「圧」
「普通に聞いただけ」
「普通じゃない」
琴葉は少し目を丸くしたあと、わずかに笑った。
「本がお好きなことや、お菓子作りがお上手なことです」
「それだけ?」
「ハクに会いたがっていることも」
「ハク?」
「家の犬です」
「ああ」
凛花は思い出す。
彩花が以前、スマートフォンでサモエドの写真を見せながら「九条君の家にハクっていう犬がいるんだって」と嬉しそうに話していた。
「彩花、かなり会いたがってる」
「兄様も申しておりました」
「そう」
「ハクは人が好きですので、彩花さんにも懐くと思います」
「……そうでしょうね」
なぜ自分は、妹と九条家の犬が仲良くなる未来について悠真の妹と話しているのだろう。
凛花は少し不思議な気分になった。
「それで、私に何か?」
「はい」
琴葉は一度だけ間を置く。
「兄様は、ご迷惑をおかけしていませんか?」
凛花が瞬きをした。
千尋も黙る。
「……九条君が?」
「はい」
「彩花に?」
「はい」
「何で?」
「最近、少々浮かれておりますので」
「浮かれてるの?」
「本人は認めると思います」
「認めるんだ」
「以前よりは」
凛花の頭に、先週生徒会室の前で話した悠真が浮かぶ。
『俺が知りたいのは、水瀬さんのことです』
確かに。
あれを平然と言うくらいには、以前より隠さなくなっているのかもしれない。
「迷惑はかけてないと思う」
「そうですか」
「少なくとも彩花は楽しそう」
琴葉の表情が少し柔らかくなる。
「それならよかったです」
その変化を凛花は見た。
兄のことを気にしている。
それだけではない。
彩花が楽しんでいると聞いて、安心した顔をした。
「九条さん」
「琴葉で構いません」
「じゃあ琴葉さん」
「はい」
「彩花のこと、気になる?」
琴葉は少し考えた。
「はい」
誤魔化さなかった。
「兄様がよく話す方だから、というのが最初でした」
「今は?」
「まだお会いしていませんので、何とも」
「そうよね」
「ただ」
琴葉は窓の外へ少し視線を向けた。
雲の切れ間から日が差し、濡れた中庭の木々が明るく見えている。
「兄様が本当に楽しそうなので、どんな方なのだろうとは思っています」
「…………」
「それと、兄様が大事にしている方なら、私も雑には扱いたくありません」
凛花は黙った。
隣で千尋も少しだけ表情を変える。
悠真と似ている。
口調も性格も違う。
けれど、大事にしている人の大事なものを尊重しようとするところが似ていた。
「兄妹ね」
「何がですか?」
「何でもない」
凛花は小さく笑った。
「彩花も、琴葉さんに会ったらたぶん喜ぶと思う」
「私に?」
「九条君の妹だからっていうのもあるだろうけど」
「はい」
「彩花、女の子の友達と話すの好きだし」
そこで凛花は少し考えた。
「あと、琴葉さんみたいな人、たぶん好き」
「私みたいな?」
「落ち着いてるけど、話すと結構面白い人」
琴葉が目を瞬く。
「まだほとんど話していませんが」
「何となく」
「水瀬先輩も、兄様と似たことをおっしゃるのですね」
「九条君が?」
「『何となく分かる』というようなことをよく」
「……嫌な共通点が増えた」
「嫌なのですか?」
「ちょっと」
千尋がついに吹き出した。
「凛花、九条兄妹と相性いいんじゃない?」
「やめて」
「何で?」
「何となく」
「便利だね、その言葉」
凛花が千尋を睨む。
琴葉は口元へ手を添えて笑った。
その笑い方は上品なのに、どこか楽しそうだった。
「では」
琴葉が言う。
「いつか、自然な機会があればお会いしてみたいです」
「うん」
「兄様に無理に紹介してもらうつもりはありません」
「その方がいいと思う」
「ですよね」
「彩花、構えちゃうかもしれないから」
「九条家の人間だから、でしょうか」
凛花はすぐには答えなかった。
琴葉もその沈黙を急かさない。
「……少しは」
やがて凛花は言った。
「九条君本人には、だいぶ慣れたみたいだけど」
「はい」
「家となると、まだ別だと思う」
「そうですか」
「だから急がないであげて」
「分かりました」
琴葉は素直に頷いた。
凛花はその返事に、また少し安心する。
「でも」
「はい?」
「ハクに会いたい気持ちは本物だと思う」
「そこですか」
「すごかったから」
「兄様が負ける未来が見えます」
「……何に?」
「ハクに」
凛花は数秒黙ったあと、笑った。
「それはあるかも」
「ですよね」
「彩花、犬好きだし」
「ハクも人好きです」
「じゃあ駄目ね」
「兄様には頑張っていただきましょう」
「何を?」
「さあ」
二人の間に、初めて少しだけ共犯めいた空気が生まれた。
千尋は隣でその様子を見ながら、眉を上げる。
「ちょっと待って」
「何?」
凛花が振り向く。
「今、普通に九条君の妹と妹トークで盛り上がってなかった?」
「盛り上がってない」
「盛り上がってましたね」
琴葉があっさり認める。
「琴葉さん」
「事実ですので」
「この兄妹、本当に正直ね……」
凛花が額へ手を当てる。
予鈴が鳴った。
「あ」
「戻らないと」
千尋が時計を見る。
琴葉が二人へ頭を下げる。
「お時間ありがとうございました」
「ううん」
「また機会があれば」
「ええ」
琴葉は一年生の教室がある方へ歩いていく。
凛花と千尋も反対方向へ向かった。
数歩進んだところで、千尋が口を開く。
「いい子だったね」
「そうね」
「即答」
「事実でしょう」
「九条家への警戒、どんどん下がってない?」
「家全体は知らないわよ」
「でも妹は合格?」
「何の試験よ」
「彩花ちゃん友達候補試験」
「勝手に作らないで」
「でも、会ったら仲良くなりそうって思ったでしょ」
「……まあ」
凛花は否定しきれなかった。
琴葉は落ち着いている。
無理に踏み込まない。
それでいて、話してみれば思ったより表情も豊かだった。
彩花となら、案外すぐ話せるかもしれない。
(……九条君の妹、か)
また一つ、悠真の周囲が彩花へ近づいた。
不思議な感覚だった。
まだ悠真と彩花は恋人でもない。
ようやく友達だと確認したばかり。
それなのに、少しずつ互いの周囲まで線が伸び始めている。
「凛花?」
「何?」
「また考えてる」
「授業のこと」
「嘘」
「うるさい」
千尋の笑い声を背中に受けながら、凛花は教室へ戻った。
◇
その日の夕方。
九条家のダイニングでは、食後の紅茶が用意されていた。
正樹は仕事から戻るのが少し遅くなるらしく、今いるのは麗華、悠真、琴葉の三人だけだった。窓の外はまだ薄明るく、庭では雨上がりの葉が夕方の風に揺れている。
「琴葉」
悠真が紅茶を飲みながら言った。
「今日、水瀬先輩と話した?」
琴葉の手が止まる。
「なぜご存じなのです?」
「廊下で聞いた」
「誰に?」
「知り合いが見たって」
「この学校、狭すぎませんか?」
「目立つんだろ。水瀬先輩も琴葉も」
「兄様ほどではありません」
「何話した?」
「言いません」
「何で?」
「彩花さんのことですので」
悠真が黙った。
どこかで聞いた返しだった。
「……それ、水瀬先輩と同じこと言ってる」
「そうなのですか?」
「この前、俺が話したとき」
「兄様も榊原さんへ同じことをおっしゃったのでは?」
「…………」
「どうしました?」
「何で知ってるんだよ」
「予想です」
琴葉が涼しい顔で紅茶を飲む。
麗華は二人のやり取りを静かに聞いていた。
「琴葉ちゃん」
「はい、お母様」
「彩花さんのお姉様とお話ししたの?」
「はい」
「まあ」
麗華の目元が少しだけ明るくなる。
悠真は嫌な予感がした。
「母さん」
「何も言っていないでしょう?」
「顔が」
「普通よ」
「琴葉と同じこと言うな」
「私は本当に普通よ」
麗華は微笑んだままカップを置く。
「それで、どんな方だった?」
「水瀬先輩ですか?」
「ええ」
「とても妹思いの方でした」
「そう」
「彩花さんのことを大切になさっているのがよく分かりました」
「素敵なお姉様ね」
「はい」
悠真は二人の会話を聞きながら、少しだけ居心地が悪くなる。
「俺の知らないところで水瀬家の話が増えてない?」
「兄様が最初に始めたのでは?」
「そうだけど」
「でしたら仕方ありません」
「仕方ないのか?」
「悠真」
麗華が穏やかに呼ぶ。
「何?」
「あなたが大切にしている人のことを、家族が気にするのはそんなに不思議?」
悠真の動きが止まった。
「……大切って」
「違うの?」
優しい声だった。
からかっているようには聞こえない。
だからこそ、悠真はすぐ否定できなかった。
彩花は友達だ。
会えると嬉しい。
話すのが楽しい。
もっと知りたい。
嫌なことはしたくない。
傷つけたくない。
自分が選んだ本を読んでほしい。
彼女が作ったものをもらえば嬉しい。
来月、一緒に古本市へ行くことが楽しみだ。
それをまとめて何と呼ぶかは、まだ考えている途中だ。
けれど。
「……大切じゃないとは思わない」
悠真は答えた。
琴葉が僅かに目を見開く。
麗華はただ微笑んだ。
「そう」
「友達だから」
「ええ」
「昨日、そういう話になった」
「友達になったの?」
「前からそうだったのかもしれないけど、ちゃんと話したのは昨日」
「よかったわね」
「うん」
悠真は素直に頷いた。
麗華はそれ以上何も言わなかった。
友達だから大切。
今はそれでいい。
その言葉の先を、母親が決める必要はない。
「ところで兄様」
琴葉が口を開く。
「何?」
「彩花さんは、ハクに会いたがっているのですよね?」
「うん」
「水瀬先輩も、本当にかなり会いたがっているとおっしゃっていました」
「水瀬先輩とハクの話したの?」
「しました」
「何で?」
「話の流れです」
「どんな流れだよ」
「兄様には関係ありません」
「俺の犬だぞ」
その言葉に、足元で伏せていたハクが顔を上げた。
麗華が笑う。
「ハクはハクでしょう?」
「それはそうだけど」
「悠真の所有物ではないわ」
「母さんまで」
琴葉はハクへ視線を落とす。
「彩花さんがいらしたら、きっと喜びますね」
悠真の手が止まった。
「……来たら?」
「いつか機会があれば、です」
「ああ」
「兄様」
「何?」
「今、一瞬想像しましたね」
「してない」
「しました」
「してない」
「ハクへ抱きつく彩花さんを」
「…………」
「兄様」
「うるさい」
琴葉が小さく笑う。
麗華もカップへ口をつけながら、目元だけで笑っていた。
悠真は窓の外へ顔を向ける。
けれど、もう遅い。
白い毛へ顔を埋める彩花。
『ハクー!』
容易に想像できてしまった。
(……絶対俺よりハク見るだろうな)
そこまで考えて、悠真はやめた。
以前なら、ここから犬に嫉妬する自分について延々考えていたかもしれない。
今は一つだけ。
(でも、見てみたい)
それで終わった。
◇
水瀬家では、その日の夕食に冷しゃぶが並んでいた。
「暑くなってきたからね」
紗月が大皿を中央へ置く。
薄切りの豚肉とレタス、きゅうり、トマト。彩花が用意した胡麻だれとポン酢も並び、耕助は早速どちらにするか迷っている。
「両方使えば?」
彩花が言う。
「最初ポン酢で次胡麻にする」
「最初からそうしようと思ってた」
「今迷ってたじゃん」
「迷ってない」
「お父さん、彩花と同じこと言ってる」
凛花が笑う。
「何で私?」
「飲み物選ぶとき迷うでしょう」
「それ九条君にも言われた」
何気なく口にした。
食卓が一瞬だけ静かになる。
「…………」
「何?」
彩花が顔を上げる。
「いや」
耕助が箸を持ったまま言う。
「自然に九条君出てくるなと思って」
「何で!?」
「本当にね」
紗月まで笑う。
「普通の話でしょ!」
「そうね」
「お母さんもその顔やめて!」
「どんな顔?」
「何か楽しそうな顔!」
凛花は冷しゃぶを取りながら黙っている。
自分まで笑えば彩花がさらに騒ぐと思ったからだ。
「そういえば彩花」
「何?」
「今日、九条君の妹さんと話した」
彩花の箸が止まった。
「妹?」
「琴葉さん」
「あ」
名前は悠真から聞いたことがある。
九条琴葉。
一つ下ではなく同じ高校一年生で、年子の妹。
悠真がたびたび「琴葉に言われた」と話す相手。
「どんな人だった?」
「気になる?」
「だって九条君の妹でしょう?」
即答してから、彩花は少しだけ声を落とす。
「……話は聞いてるし」
「綺麗な子よ」
「やっぱり?」
「やっぱりって?」
「九条君の妹だから」
「それは関係あるの?」
「ありそう」
彩花の頭には、悠真をそのまま女の子にしたような姿が浮かぶ。
「似てる?」
「顔?」
「うん」
「兄妹だし、似てるところはあるけど……雰囲気は結構違うかな」
「へえ」
「琴葉さんの方が柔らかい感じ」
「九条君も柔らかいよ?」
また即答した。
凛花が目を細める。
「彩花から見ると?」
「え?」
「九条君、柔らかいんだ」
「話しやすいし」
「学校だと結構しっかりしてるわよ」
「それ、前も言ってたね」
彩花は少し考える。
図書館の悠真。
学校の悠真。
生徒会役員として動いている姿を自分はまだ見たことがない。
「見てみたいかも」
「何を?」
「学校の九条君」
耕助の箸がまた止まった。
「お父さん」
「何も言ってないぞ」
「顔」
「普通だ」
「絶対違う」
紗月が笑う。
凛花は彩花を見ながら、昼間の琴葉との会話を思い出した。
「琴葉さんも」
「うん?」
「彩花に会ってみたいって」
「……私に?」
彩花が目を丸くする。
「うん」
「何で?」
「九条君がよく話すからじゃない?」
「…………」
今度は彩花が完全に止まった。
「私のこと?」
「そう」
「九条君が?」
「そう言ってた」
「何を話してるの?」
「本とかお菓子とか、ハクとか」
「ハク!」
そこだけ反応が違った。
凛花は呆れる。
「やっぱりそこなの?」
「だってハク可愛いもん」
「会ったことないでしょう」
「写真で分かるよ」
「九条君より?」
「何が?」
「何でもない」
凛花は水を飲む。
危ない。
琴葉と同じようなことを言いかけた。
「でも」
彩花は少し落ち着いてから、箸を置いた。
「琴葉さん、私に会ってみたいんだ」
「みたいよ」
「…………」
「嫌?」
「全然」
彩花は首を振る。
「私も会ってみたい」
その答えは素直だった。
「九条君がよく話すから」
凛花は昼間と同じ言葉を聞いた気がした。
琴葉は兄がよく彩花を話すから、会ってみたい。
彩花は悠真がよく琴葉を話すから、会ってみたい。
「似た者同士かも」
「誰と誰?」
「彩花と琴葉さん」
「会ってないのに?」
「何となく」
「お姉ちゃんもそれ言うようになったね」
「誰のせいよ」
「知らない」
彩花は笑った。
そのあと、夕食の話題は学校のことへ移った。
けれど彩花の頭には、まだ会ったことのない琴葉の姿が残った。
九条悠真の妹。
彼が家で話す相手。
自分のことも少し知っている人。
(どんな子なんだろ)
以前なら、九条家の人間だと聞くだけで少し構えたかもしれない。
今も緊張がないわけではない。
けれど、それ以上に興味があった。
悠真のことを、もう少し知りたい。
その気持ちは、彼の家族へも少しずつ広がっているらしい。
◇
木曜日。
青葉高校は朝から曇っていた。
昼前には細い雨が降り始め、教室の窓は白く霞んでいる。昼休みになると、彩花は弁当を食べ終えてから、悠真に借りた本を机の中から取り出した。
残りは五十ページほど。
「また読んでる」
隣の席の女子が言う。
「うん」
「それ、図書館の友達に借りたやつ?」
彩花の手が止まった。
「何で知ってるの?」
「この前言ってたじゃん」
「言ったっけ」
「言った」
「そうだったかな」
「最近、水瀬その人の話増えたよね」
「そう?」
「うん」
彩花は本の表紙を見る。
自覚はあまりない。
でも言われてみれば、以前より話しているかもしれない。
本を借りた。
お菓子を渡した。
古本市へ行く。
姉が学校で会った。
妹の話を聞いた。
話題になる出来事が増えているのだから、当然とも思える。
「友達になったから」
彩花は答えた。
「他校の?」
「うん」
「男の子だよね?」
「そうだけど」
「へえ」
「何?」
「別に」
「その顔やめて」
「どんな顔?」
「何か言いたそうな顔」
「だって他校の男子と毎週図書館で会って、本貸し借りしてるんでしょ?」
「そうだよ」
「今度古本市も行くんだっけ?」
「……何で知ってるの?」
「昨日言ってた」
「私、話しすぎじゃない?」
「今気づいた?」
友人が笑う。
彩花は本で口元を隠した。
「でも友達だから」
「分かったって」
「本当に」
「うん」
「何で笑うの」
「水瀬が必死だから」
「必死じゃない」
「はいはい」
彩花は本を開いた。
けれど、すぐには読み始められなかった。
(私、九条君の話そんなにしてる?)
家ではする。
姉が悠真を知っているから話しやすい。
文芸部でも、本の話題から名前が出ることがある。
友達。
そう確認してから、むしろ名前を出しやすくなった気もする。
それだけだ。
そう思う。
けれど、ページをめくる指が少しだけ落ち着かない。
「水瀬」
「何?」
「顔赤いよ」
「暑いから!」
「今日涼しいけど」
「教室は暑いの!」
「そういうことにしとく」
彩花は本へ顔を近づけた。
文字は見える。
内容も頭には入る。
それでも、友人の笑いを完全に無視できるようになるまで、少し時間がかかった。
◇
金曜日の放課後。
桜華学園の生徒会室では、翌月の学校説明会に向けた資料確認が進んでいた。
窓の外では雨が上がり、低い雲の下に薄い夕焼けが覗いている。室内には印刷したばかりの紙の匂いが残り、机の上には学内案内図や部活動紹介の原稿が広げられていた。
「九条、この案内図どう思う?」
三年生の役員が一枚の紙を差し出す。
悠真は受け取って目を通した。
「体育館への矢印、ここだと中等部棟へ入るように見えるかもしれません」
「あ、本当だ」
「こっちへ少しずらした方が分かりやすいです」
「助かる。直してくる」
先輩がパソコンへ戻る。
悠真も自分の担当へ視線を戻した。
「九条」
向かいから湊が呼ぶ。
「何?」
「日曜どうすんの?」
「図書館」
「即答」
「何で毎週聞くんだよ」
「いや、最近お前の一週間、日曜を基準に回ってない?」
「回ってない」
「月曜に借りた本気にして、火曜に次何話すか考えて、金曜に日曜の確認してる」
「最後はお前が聞いてるだけだろ」
「確かに」
湊は笑った。
「今週も水瀬さん来る?」
「来ると思う」
「約束?」
「先週、また来週って言った」
「もうそれは約束扱いでいいと思うぞ」
「……そうだな」
以前はそこを細かく考えた。
今は、確かに約束でいいと思える。
日曜に会う。
時間までは決めていない。
それでも互いに来るつもりでいる。
「で、古本市も約束したんだろ?」
「何で知ってる?」
「お前が月曜に言った」
「言ったっけ」
「嬉しそうにな」
「余計なところ足すな」
「事実」
湊は書類を揃える。
「連絡先どうすんの?」
「またそれ?」
「待ち合わせするなら必要じゃね?」
「時間と場所決めればいい」
「当日何かあったら?」
悠真の手が止まった。
「……確かに」
「ほら」
「でも、だから交換しようって言うのも違う気がする」
「何で?」
「水瀬さんが前に、もう少し今のままがいいって言ったから」
湊は少し考える。
「そのときと今で変わってる可能性は?」
「あるかもしれない」
「じゃあ聞けば?」
「何て?」
「それは自分で考えろよ」
「役に立たないな」
「俺は恋愛相談窓口じゃない」
「恋愛相談してない」
「そこはまだ言うんだ」
湊は笑ったが、それ以上は追及しなかった。
悠真は書類へ視線を戻す。
連絡先。
以前は、彩花自身から話題にした。
そのときは交換しないことを選んだ。
今は友達になった。
古本市へ一緒に行く予定もある。
状況は少し変わっている。
(でも、急いで聞く必要はないか)
日曜日に会う。
そのとき、必要なら話せばいい。
交換するかどうかは、彩花が決められる形にすればいい。
そこまで考えて、悠真は手元の資料へ戻った。
「九条」
「何?」
「今の、何分会議?」
「三十秒」
「成長したな」
「うるさい」
湊の笑いを聞き流しながら、悠真は赤ペンを走らせた。
◇
土曜日の午後。
水瀬家のリビングには、テレビから流れる旅番組の音と、裁縫箱を開ける小さな金属音が混じっていた。
彩花はソファの前のローテーブルへ、白い布製のブックカバーを広げている。
「何作ってるの?」
凛花が覗き込む。
「ブックカバー」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かないで」
「誰の?」
「私の」
「本当に?」
「何で疑うの」
彩花は針へ糸を通す。
以前使っていたブックカバーの端が擦れてきたため、新しく作ろうと思っただけだ。
白地に小さな青い葉の模様。
派手ではない。
本を持ち歩くにはちょうどいい。
「九条君にあげるのかと思った」
「何で!?」
「最近本貸し借りしてるから」
「作らないよ!」
「そんなに否定しなくても」
「だって違うもん」
凛花は笑いながら隣へ座る。
「でも彩花、こういうの本当に上手よね」
「これくらい普通だよ」
「出た」
「何?」
「普通」
「だって簡単だもん」
「私には無理」
「お姉ちゃんは針に糸通すところから怪しいもんね」
「それはできる」
「ボタン付けは?」
「……できる」
「間があった」
「できるって」
「最後にやったのいつ?」
「中学」
「三年以上前じゃん」
「できるものはできる」
彩花は笑いながら縫い進める。
凛花はその手元を見る。
布端は綺麗に折られ、縫い目もほぼ一定だ。
料理もそう。
お菓子もそう。
彩花は自分が好きで続けていることを、すぐ「これくらい」と言う。
「ねえ彩花」
「何?」
「それ、簡単じゃないと思うけど」
「ブックカバー?」
「うん」
「慣れればできるよ」
「その慣れるまでやったのが彩花でしょう」
針を動かしていた手が止まる。
彩花は姉を見る。
「……どうしたの、急に」
「何となく」
「九条君みたい」
凛花の眉が動く。
「何でそこで九条君?」
「似たようなこと言われたから」
「何て?」
「好きで続けて、人に渡せるもの作れるなら得意って言っていいんじゃないかって」
以前、悠真に言われた言葉。
今でも覚えている。
凛花も覚えていた。
「そう」
「うん」
「じゃあ得意って言えば?」
「……裁縫は得意かも」
小さな声だった。
凛花が目を見開く。
彩花は照れくさそうに視線を手元へ戻した。
「料理も?」
「料理も……まあ」
「お菓子作りは?」
「それも」
「全部?」
「お姉ちゃん、しつこい」
「だって珍しいから」
「何が?」
「彩花が自分で得意って言うの」
彩花は黙った。
針先を布へ通す。
糸を引く。
確かに。
以前なら、もっと強く否定していたかもしれない。
姉ほどじゃない。
誰でもできる。
趣味だから。
そんな言葉を先に並べていた。
「……得意って言ってもいいのかなって」
彩花は手元を見ながら言う。
「最近、ちょっと思うだけ」
「いいに決まってるでしょう」
「お姉ちゃんはそう言うよね」
「九条君も言ったんでしょう?」
「うん」
「じゃあ二票」
「多数決なの?」
「お父さんとお母さんにも聞く?」
「やめて。絶対四票になるから」
「じゃあ決まり」
「だから何が」
「彩花は料理とお菓子作りと裁縫が得意」
「勝手に決めないで」
口ではそう言いながら、彩花は笑っていた。
凛花も笑う。
その笑顔を見ながら、胸の奥が少しだけ熱くなった。
大きな変化ではない。
たった一言。
「得意かも」と言っただけ。
それでも、凛花にとっては嬉しかった。
(……九条君)
あの言葉だけは、礼を言ってもいいかもしれない。
もちろん本人には言わない。
今言えば、きっと「何がですか」と本気で分からない顔をする。
「そういえば」
彩花が糸を切る。
「琴葉さんって、どんな本読むのかな」
「知らない」
「聞かなかったの?」
「そこまで話してないから」
「そっか」
「気になるの?」
「うん」
「会ってみたい?」
「会ってみたいよ」
彩花は出来上がりかけたブックカバーを裏返す。
「九条君、妹の話するとき結構普通のお兄ちゃんなんだよね」
「普通のお兄ちゃん?」
「『琴葉に気持ち悪いって言われた』とか」
「何して言われたの?」
「分からない」
「絶対何かしたでしょう」
「私もそう思う」
二人で笑う。
「でも仲良さそう」
「琴葉さんも、兄様って呼んでたわね」
「兄様?」
彩花の手が止まった。
「うん」
「本当に?」
「本当に」
「……すごい」
「何が?」
「九条家っぽい」
「どういうイメージよ」
「だって兄様だよ?」
彩花は想像する。
黒髪の上品な女の子。
『兄様』
その相手が悠真。
「…………」
「何?」
「ちょっと見たい」
「何を?」
「九条君が兄様って呼ばれてるところ」
「そこ?」
「だって図書館では絶対見られないもん」
彩花は楽しそうに笑った。
凛花はその顔を見ながら、思う。
彩花は少しずつ、図書館の外の悠真へ興味を広げている。
学校。
家族。
犬。
普段の生活。
まだ恋とは呼んでいない。
けれど、知りたい相手ではある。
それなら今は、そのくらいがちょうどいい。
◇
日曜日の朝。
青凪市には、珍しく朝から青空が広がっていた。
梅雨の雲が一時的に切れ、カーテン越しの日差しが水瀬家のリビングへ明るく差し込んでいる。窓を少し開けると湿気を含んだ風が入り、庭先から雀の声が聞こえた。
彩花は朝食を終え、自室へ戻った。
鞄の中を確認する。
財布。
ハンカチ。
スマートフォン。
返す本。
そして、昨日完成した新しいブックカバーをつけた自分用の文庫本。
「よし」
ファスナーを閉める。
時計は十時を少し過ぎたところ。
いつもより早い。
図書館へ行くのは午後でもいい。
それなのに、朝から準備している。
「…………」
彩花は鞄をベッドへ置いた。
(早すぎる)
自分でも分かる。
別に待ち合わせ時間があるわけではない。
昼食を食べてから出れば十分だ。
それでも準備だけ先にしたかった。
理由は簡単だった。
今日は悠真へ本の感想を話したい。
琴葉のことも少し聞きたい。
古本市のことも、待ち合わせをどうするかそろそろ考えるかもしれない。
話すことが増えている。
(友達になったから)
その言葉を置くと、すんなり納得できる。
彩花は机へ座り、借りた本をもう一度開いた。
昨夜読み終えている。
返す前に、気になった場面だけ見返すつもりだった。
ページをめくる。
悠真は、この場面をどう読んだのだろう。
ここは好きだったのか。
主人公が最後に選んだ行動を、どう思ったのか。
聞きたいことがいくつも浮かぶ。
以前より、本を読む時間の中に悠真がいる。
それを彩花はまだ不思議だと思わなくなっていた。
◇
同じ頃。
九条家の庭では、ハクが朝の散歩から戻って水を飲んでいた。
悠真はリードを片づけ、玄関へ入る。
「兄様」
リビングから琴葉が呼ぶ。
「何?」
「今日は図書館ですね」
「うん」
「何時に?」
「昼過ぎ」
「そうですか」
悠真が顔を向ける。
「何?」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「水瀬さんへ、私が会いたがっていると水瀬先輩がお話しした可能性があります」
「……何で?」
「会話の流れです」
「またそれ?」
「便利な言葉ですね」
「自分で言うな」
悠真は少し考える。
「水瀬さん、何て?」
「私は知りません」
「そりゃそうか」
「ただ、水瀬先輩は『彩花も会ったら喜ぶと思う』と」
「そうなんだ」
悠真の表情が少し緩む。
「兄様」
「何?」
「今、私を利用して水瀬さんを家へ呼ぶ方法を考えませんでしたか?」
「考えてない」
「ハクもいます」
「考えてないって」
「お母様も会いたがっています」
「それは知ってる」
「お父様も」
「たぶんそうだろうな」
「お祖父様は?」
「絶対面倒になるからまだ言うな」
琴葉が小さく笑う。
「では、私は自然な機会を待ちます」
「そうして」
「兄様も」
「何が?」
「自然な機会を待ってくださいね」
悠真は一瞬黙った。
琴葉は、兄が彩花を家へ招くこと自体を止めているわけではない。
ただ、彩花がまだ九条家というものに少し構える可能性を、凛花から聞いたのだろう。
「分かってる」
悠真は答えた。
「水瀬さんが来たいと思ったらでいい」
「はい」
「ハクには会わせたいけど」
足元でハクが顔を上げる。
「そこは兄様よりハクの方が早く実現させそうですね」
「どうやって」
「散歩中に偶然」
「そんな都合よく会わないだろ」
「図書館では何度も偶然会っていたではありませんか」
「それは……」
悠真は言葉を止める。
今ではもう、偶然ではない。
今日も。
きっと彩花は来る。
自分も行く。
「兄様?」
「何でもない」
「そうですか」
悠真は階段へ向かう。
途中で振り返った。
「琴葉」
「はい?」
「水瀬さんに、会いたいって言ってたって伝えてもいい?」
琴葉は少し驚いた。
それから穏やかに頷く。
「はい」
「分かった」
「ただし」
「何?」
「兄様の都合で話を進めないでください」
「分かってるよ」
「水瀬さんが『いつか』とおっしゃったなら、いつかです」
「……分かってる」
「なら結構です」
悠真は苦笑して階段を上がった。
自室へ戻る。
机の上には、彩花から借りた短編集がある。
まだ半分ほど。
今日は返さない。
その代わり、前回貸した自分の本の感想を聞けるかもしれない。
琴葉の話もする。
古本市の待ち合わせについても、必要なら話す。
連絡先については。
「…………」
一度だけ考える。
それから、やめた。
会ってからでいい。
必要なら聞く。
必要でなければ、まだ聞かなくてもいい。
今はそれで困っていない。
悠真は本を鞄へ入れた。
◇
午後一時四十七分。
青凪市立中央図書館。
彩花は自動ドアを抜け、館内へ入った。
外の明るさに慣れていた目には、図書館の柔らかな照明が少し暗く感じられる。冷房の効いた空気が肌へ触れ、外でわずかに汗ばんでいた首筋が心地よく冷えた。
返却カウンターへ本を一冊返す。
そのあと。
以前なら「本を探すため」と自分へ言い訳しながら向けていた視線を、今は素直に窓際へ向ける。
いつもの席。
まだ誰もいない。
「あれ」
彩花は小さく呟いた。
時計を見る。
一時四十九分。
別に遅くない。
待ち合わせもしていない。
自分が少し早く来ただけだ。
(まだかな)
そう思う。
以前なら、その感情に気づいたあとで「本を読めばいい」と自分へ言い聞かせたかもしれない。
今日は違った。
(じゃあ先に本見てよう)
それだけ。
彩花は新刊棚へ向かった。
数冊手に取る。
一冊目。
少し気になる。
二冊目。
これは悠真も好きそう。
三冊目。
表紙が綺麗。
そんなふうに棚を見ていると、数分後。
「水瀬さん」
背後から声がした。
彩花は振り返った。
悠真が立っている。
肩にはいつもの鞄。
少しだけ息が上がっているように見えた。
「九条君」
「早かった?」
「私が?」
「うん」
「ちょっとだけ」
「ごめん」
「何で謝るんですか」
彩花は笑った。
「待ち合わせじゃないですよ」
「そうだけど」
「私が勝手に早く来ただけなので」
「待った?」
「五分くらい」
「それ待ってる」
「本見てたから待ってません」
「どっち?」
「本を見ながら、九条君まだかなって思ってました」
言ってから。
彩花が止まった。
悠真も止まった。
周囲では本棚の間を利用者が静かに行き来している。
少し離れたところで、子どもが母親へ絵本を見せていた。
「…………」
彩花の頬がゆっくり熱くなる。
「今の」
「うん」
「変な意味じゃないです」
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
「友達だから」
「うん」
「来ると思ってたから」
「俺も水瀬さん来ると思ってた」
「…………」
「だから、少し急いだ」
彩花が目を瞬く。
「急いだんですか?」
「家出るのが少し遅くなったから」
「別に急がなくても」
「待たせたくなかった」
「待ち合わせじゃないのに?」
「でも来ると思ってたから」
今度は彩花が黙った。
似たようなことを、二人ともしている。
時間は決めていない。
連絡先も知らない。
それでも、相手が来ると思っている。
来たら話したいと思っている。
「……変ですね」
彩花が小さく笑う。
「何が?」
「私たち」
「そう?」
「待ち合わせしてないのに、待ち合わせみたい」
悠真も少し笑った。
「じゃあ次から時間決める?」
彩花はすぐに答えなかった。
嫌だからではない。
その言葉を聞いた瞬間、自分たちの関係がまたほんの少し形を変える気がしたからだ。
「……日曜日?」
「うん」
「毎週?」
「毎週じゃなくてもいいけど」
「…………」
彩花は本棚へ視線を向ける。
今までのように、行けばいるかもしれない。
その偶然が楽しかった。
だから以前は連絡先を交換しなかった。
けれど今は。
来ると思っている。
実際、今日も悠真を待った。
だったら。
「二時くらい?」
彩花が言った。
悠真が少し目を見開く。
「いいの?」
「はい」
「毎週?」
「来られる日は」
「分かった」
「でも」
「何?」
「絶対じゃないです」
「うん」
「用事あったら来ないし」
「俺も」
「来なかったからって心配しない」
「分かった」
「それなら」
彩花は少し笑った。
「日曜日、二時くらい」
「うん」
また一つ。
二人の間に、小さな約束が増えた。
連絡先はまだ知らない。
恋人でもない。
けれど、偶然だけに任せていた日曜日へ、初めて時間の目安が置かれた。
「それで」
彩花は少し照れを隠すように、手に持っていた本を悠真へ見せた。
「これ、九条君好きそうです」
「いきなり本?」
「図書館なので」
「そうだけど」
「見ます?」
「見る」
二人は並んで棚の前へ立つ。
彩花が差し出した本を、悠真が受け取る。
いつものように両手で。
その仕草を見て、彩花は少しだけ笑った。
「何?」
「何でもないです」
「絶対何かある」
「本当に何でもない」
今度は彩花が先に歩き出す。
悠真もその隣へ並ぶ。
図書館の中では、誰も二人へ特別な注意を向けていなかった。
ただ本を見ている高校生が二人。
少し前までは、名前も知らなかった。
それが今では、互いを友達と呼び、来週会う時間まで決めている。
彩花はまだ知らない。
悠真の妹が、自分へ会いたがっていることを。
悠真もまだ知らない。
彩花がその妹へ、同じように興味を持っていることを。
その二つが重なるまで、もうそれほど遠くはなかった。




