第13話 友達になった、その次の日曜日
四章の話を始めてから、気づけば二十分以上が経っていた。
青凪市立中央図書館の窓際には、梅雨の合間から覗いた淡い日差しが差し込み、机の上に置かれた二冊の文庫本へ細長い影を落としている。少し前まで雨粒を抱えていた紫陽花は窓の向こうで重たそうに揺れ、空調の低い音に混じって、ときおり遠くから本を棚へ戻す小さな音が聞こえていた。
「最初は、お父さんと仲が悪かったから写真を見たくないんだと思ったんです」
彩花は声を抑えながら、開いた本の四章を指先で示した。
「でも途中から、嫌いだから見ないんじゃなくて、見たら自分が知らなかったものまで分かっちゃうのが怖かったのかなって。写真って、その瞬間に写ってるものだけじゃなくて、撮った人が何を見てたかも残るじゃないですか」
「うん。俺もそこが好きだった」
「やっぱり」
「そんなに分かりやすい?」
「九条君が?」
「俺が四章好きそうって」
「分かりやすいというより……」
彩花はそこで言葉を止め、悠真の顔を見た。
聞かれたから答えようとしただけなのに、理由を言葉へ直そうとすると少し難しい。
「九条君って、人が言わなかったことを結構気にするじゃないですか」
「そうかな」
「しますよ」
「例えば?」
「私が何か言って、すぐ聞き返したりしないところとか」
悠真の表情から、ほんの少し笑みが消えた。
彩花は気づかず続ける。
「普通なら『どうして?』って聞きそうなところでも、九条君って待つことあるでしょう? だから、四章みたいな話好きそうだなって」
「……そう見えてたんだ」
「違いました?」
「いや」
悠真は返ってきた本へ視線を落とした。
「合ってると思う」
「よかった」
彩花が笑う。
その笑顔を見ながら、悠真は少し不思議な気持ちになった。
自分は彩花を知りたいと思っている。
それは以前、凛花にも口にした。
彩花本人にも「もっと知りたい人」と伝えた。
けれど、知ろうとしているのは自分だけではなかったらしい。
彩花も、自分の言葉や行動を見ている。
どんな本を好みそうなのかまで考えている。
ただそれだけのことなのに、思っていたより嬉しかった。
「九条君?」
「何?」
「今度は九条君が止まってます」
「ちょっと考えてた」
「四章?」
「水瀬さんのこと」
言ってから、悠真は一瞬だけ口を閉じた。
彩花も止まった。
「……私?」
「今の話」
「ああ」
彩花は小さく息を吐く。
「びっくりした」
「ごめん」
「だから、すぐ謝る」
「今のは謝るところじゃない?」
「別に嫌じゃないので」
以前にも似たようなことを言った気がする。
彩花はそう思いながら、本のページへ目を戻した。
以前なら「嫌じゃない」と言ったあと、自分がどうしてそんな返事をしたのかまで考えていたかもしれない。
今はそれほど気にならない。
悠真が自分について考える。
そのこと自体に、少し慣れてきた。
「でも」
彩花が言う。
「私も九条君のこと、前より分かるようになってきたのかもしれませんね」
「そう?」
「少なくとも、好きな本一冊当てました」
「一章じゃなくて四章だけど」
「細かい」
「本好きだから」
「それ関係あります?」
「たぶん」
「便利ですね、本好き」
二人で小さく笑う。
話はそのまま五章へ移り、最後の場面へ進んだ。
彩花は、主人公が最後まで言葉にしなかったことについて話した。
悠真は、言葉にしなかったからこそ相手が自分で選べたのではないかと言った。
「告白しなかったから?」
「告白だけじゃなくて。『残ってほしい』って言ったら、相手はそれに引っ張られるかもしれないだろ」
「でも言わなかったら、伝わらないかもしれませんよ?」
「そうなんだよな」
「難しいですね」
「水瀬さんは、言ってほしい?」
「私?」
「もし自分だったら」
彩花は少し考えた。
物語の話だ。
自分ならどう思うか。
それだけ。
「……全部決められるのは嫌です」
「うん」
「でも、何も言われないのも困るかも」
「じゃあ?」
「気持ちは言ってほしいです。そのあとどうするかは、自分で考えたい」
悠真は黙った。
「九条君?」
「いや」
「何ですか」
「水瀬さんらしいなと思って」
「どこが?」
「ちゃんと自分で決めたいところ」
「普通じゃないですか?」
「そうかもしれない」
悠真はそれ以上言わなかった。
凛花から言われたことが頭をよぎったからだ。
『何かするときは、ちゃんと本人に聞いて』
そして今、彩花本人が言った。
気持ちは言ってほしい。
そのあとどうするかは自分で考えたい。
もちろん、小説についての話だ。
今の二人にそのまま当てはめるようなことではない。
それでも悠真は、忘れないようにしようと思った。
「九条君は?」
彩花に聞かれる。
「俺?」
「自分だったら」
「言うと思う」
「気持ちを?」
「うん。相手に何かしてほしいって言うんじゃなくて、自分がどう思ってるかは」
「へえ」
「何?」
「九条君、そういうのちゃんと言いそう」
「そう見える?」
「たまに言わなくていいことまで言いますけど」
「水瀬さん」
「褒めてます」
「どこが?」
「正直なところ」
「半分くらいしか褒められてない気がする」
「お姉ちゃんみたいなこと言いますね」
「水瀬先輩も同じこと言った?」
「前に九条君に半分くらいしか褒めてないって」
「姉妹だな」
「そこ似てるのかな」
彩花は少し嬉しそうに笑った。
姉と似ていると言われた。
以前なら、その言葉の後ろへ無意識に何かを探したかもしれない。
何が似ているのか。
どちらが上なのか。
自分も姉くらいできているのか。
けれど今の言葉は、ただ会話の癖が似ているというだけだった。
比べられた感じはしない。
だから、そのまま受け取れた。
悠真はその小さな変化までは知らない。
ただ、彩花が楽しそうにしているので、自分も少し笑った。
「そういえば」
彩花は机の端に置かれた小さな袋を見た。
「レモンケーキ、忘れないでくださいね」
「忘れないよ」
「帰って鞄開けたら潰れてたとか駄目ですから」
「そこまで雑に扱わない」
「九条君、本はすごく丁寧なのに食べ物は分からないから」
「何で?」
「クッキー一時間持ってた人なので」
「丁寧に扱いすぎた方じゃない?」
「確かに」
彩花は納得しかけてから、首を振る。
「でも食べ物は食べてください」
「今日は食べる」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあいいです」
ようやく満足したらしい。
悠真は袋を見る。
透明な包装の中に、小さな焼き菓子が二つ入っている。
一つではない。
(余ったって言ってたけど)
そこは触れない方がいい気がした。
わざわざ「二つある」と指摘して、彩花が一つ回収してしまったら困る。
悠真は何も言わず、袋を鞄の中の一番上へ丁寧に入れた。
「今、何考えました?」
「何も」
「怪しい」
「潰れないところに入れただけ」
「ならいいです」
危なかった。
悠真は小さく息を吐いた。
そのとき、館内放送が流れた。
午後三時から二階の小ホールで、先月入荷した郷土資料についての紹介会を行うらしい。
彩花が壁の時計を見る。
「あと十五分ですね」
「行く?」
「九条君、興味あります?」
「水瀬さんは?」
「ちょっと」
「じゃあ行こうか」
「はい」
返事は自然だった。
先週までなら、「一緒に行きますか」と一度考えたかもしれない。
今日は、友達だと互いに確認したばかりだったからなのかもしれない。
二人で同じ催しへ行くことに、以前より説明が要らなくなっていた。
◇
二階の小ホールには、三十席ほどの椅子が並べられていた。
集まっているのは年配の利用者が多く、高校生は彩花と悠真を含めても数人しかいない。前方には古い青凪市の地図や写真を映すスクリーンが用意され、司書が資料を並べていた。
二人は後ろから三列目へ座った。
「こういうの来るんですね」
彩花が小声で言う。
「水瀬さんが?」
「九条君が」
「俺?」
「もっと歴史の本を一人で静かに読む人かと思ってました」
「最初の頃の印象?」
「はい」
「今は?」
「意外と何でも付き合ってくれる人」
「何でも?」
「本屋も行ったし、読書案内も一緒に聞いたし」
「本関係ばっかりだな」
「本当に」
二人で声を抑えて笑う。
やがて紹介会が始まった。
古い青凪駅の写真。
今は商業施設になっている場所に、かつて小さな映画館があったこと。
中央図書館が建つ前、この周辺には市民会館と公園しかなかったこと。
海沿いではないのに「青凪」という名前になった由来について、複数の説が残っていること。
彩花は予想以上に面白く感じた。
スクリーンに昭和の商店街の写真が映ったとき、隣の悠真が少し身を乗り出す。
「九条君、こういうの好きです?」
声を落として聞く。
「好き」
「分かりやすい」
「何が?」
「今、ちょっと前に出たから」
「……見てた?」
「隣なので」
悠真が姿勢を戻す。
彩花は口元を押さえて笑った。
数日前。
自分は悠真の好きそうな章を当てた。
今は、彼が興味を持った写真も少し分かる。
小さなことだ。
それでも、人を知るというのはこういうことなのかもしれない。
紹介会が終わる頃には、四十分ほど経っていた。
参加者たちが席を立つ。
前方では司書が紹介した資料を自由に見られるよう並べ始め、何人かが集まっていた。
「見ていきます?」
彩花が聞く。
「もちろん」
「やっぱり」
「水瀬さんは?」
「私も見ます」
二人は人が減るのを少し待ってから前へ向かった。
古い写真集を一緒に覗く。
現在の駅前と見比べる。
「ここ、昨日行ったところですよね」
彩花が一枚を指した。
写真には、今の大型書店が建つ周辺が写っている。
「本屋の辺り?」
「そうです。全然違う」
「この道路も細いな」
「昨日、こんなに人いたのに」
「土曜だからな」
何気なく話してから、二人とも一度止まった。
昨日。
駅前。
姉妹で出かけていた彩花と、湊といた悠真。
偶然会った。
「昨日も会いましたね」
彩花が言う。
「うん」
「今日も会ってますね」
「そうだな」
「二日連続」
「珍しい?」
「前なら」
彩花は写真集を見ながら考える。
「図書館でしか会わなかったから」
「最近は外でも会うな」
「駅前とか、本屋とか」
「学校は違うけど」
「そうなんですよね」
彩花は顔を上げた。
「学校違うの、たまに変な感じします」
「どういう意味?」
「こんなに話してるのに、月曜から金曜は全然違う場所にいるから」
「ああ」
悠真にも分かる。
自分が授業を受け、生徒会で仕事をし、湊や琴葉と話している間、彩花は青葉高校にいる。
文芸部へ行く。
大地たちと話す。
自分の知らない一週間を過ごしている。
「水瀬さんの学校、見たことないな」
「普通の学校ですよ」
「また普通って言った」
「だって普通なんです」
「そういう意味じゃなくて」
彩花が少し笑う。
「分かってます」
以前なら、「普通」という言葉を拾われると少し構えていた。
今は、悠真が何を言いたいのか何となく分かる。
「でも、本当に普通ですよ。校舎があって、体育館があって、校庭があって」
「桜華も校舎と体育館と校庭はある」
「規模が違いそう」
「そこは違うかも」
「ほら」
「でも学校は学校だよ」
「……九条君が言うと説得力あるような、ないような」
「どっち?」
「半分」
「また半分」
話しながら写真集を閉じる。
次の人が待っていたので場所を譲った。
小ホールを出ると、廊下の窓から柔らかな午後の光が入っていた。
「戻ります?」
「うん」
一階へ向かう階段を下りる。
途中で、小学生くらいの女の子が母親と手をつないで上がってきた。女の子は大きな絵本を抱えており、階段を一段上がるたびに本が少しずつずれている。
彩花が気づいた。
「あ」
声を出すより早く、絵本が腕から滑った。
階段へ落ちる。
悠真が一段下で受け止めた。
「大丈夫?」
女の子が目を丸くする。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
悠真は絵本を両手で渡した。
「大きいから気をつけてね」
「うん」
母親も頭を下げる。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ」
親子が上へ向かう。
悠真は何事もなかったように階段を下り始めた。
彩花はその隣へ並ぶ。
「九条君」
「何?」
「やっぱりそれ、癖なんですね」
「何が?」
「本を両手で渡すの」
悠真が少し考える。
「……そうかも」
「私と初めて会ったときもそうでした」
「覚えてる」
「私、あれで九条君いい人だと思ったんですよ」
「本を両手で渡したから?」
「それだけじゃないですけど」
階段を下り切る。
彩花は少し照れたように続けた。
「大事にしてるものって、扱い方に出るじゃないですか」
「本が?」
「はい」
「水瀬さんも両手で渡すだろ」
「私は本好きなので」
「俺も本好きだけど」
「あ、そうでした」
「忘れてた?」
「忘れてません」
彩花が笑う。
悠真も笑った。
初めて会った日のことを、二人で普通に振り返れる。
あの頃は互いの名前さえ知らなかった。
それが今では、「友達」という言葉を二人とも受け入れている。
階段を降りた先で、彩花はほんの少しだけ歩調を緩めた。
友達。
昨日まで曖昧だった言葉が、今日はもう自然に思える。
それが嬉しかった。
◇
図書館を出たのは午後四時半を過ぎた頃だった。
空はまだ明るい。
朝の雨はすっかり上がり、濡れていた歩道もところどころ乾き始めている。駐輪場では高校生らしい男子二人が自転車の鍵を外しており、入口付近では親子連れが返却した本について話していた。
「今日は車ですか?」
彩花が聞く。
「うん。あと十分くらい」
「また?」
「また」
悠真が少し笑う。
先週も同じだった。
そのとき彩花は、車が来るまで一緒に待つことを自分から提案した。
「じゃあ」
彩花が入口横のベンチを見る。
「今日も待ちます?」
「いいの?」
「私、急いでないので」
「じゃあお願いしようかな」
「はい」
二人でベンチへ座る。
以前より少し自然だった。
彩花は鞄を膝の上へ置き、ふと中を見る。
「そうだ」
「何?」
「新しい本」
「今?」
「忘れそうなので」
「さっき交換しなかった?」
「九条君が持ってきた方だけ」
「あ」
二人とも忘れていた。
感想の話が長くなり、そのまま紹介会へ行ったせいだ。
彩花は鞄から一冊の短編集を取り出した。
「これ」
「また短編集?」
「前に貸したのとは全然違います」
悠真は受け取る前に表紙を見る。
「どんな話?」
「日常ものが多いです。ちょっと不思議なのもありますけど」
「水瀬さんのおすすめ?」
「はい」
「じゃあ読む」
即答だった。
「まだ何も説明してないですよ?」
「水瀬さんが薦めるなら読んでみたい」
「…………」
彩花は本を持ったまま止まった。
「また」
「何?」
「そういうこと普通に言う」
「駄目だった?」
「駄目じゃないです」
「じゃあ」
「でも、ちょっと待ってください」
「何を?」
「私が慣れるまで」
悠真が目を瞬く。
「慣れる?」
「九条君が、そういうの普通に言うことに」
「……分かった」
「本当に?」
「気をつける」
「いや、気をつけなくてもいいんですけど」
「どっち?」
「分かりません」
彩花は自分でもおかしくなって笑った。
悠真も困ったように笑う。
「水瀬さん、最近俺に難しいこと言うよな」
「九条君のせいです」
「俺?」
「はい」
「何した?」
「そういうところです」
「全然分からない」
「分からなくていいです」
彩花は本を差し出した。
悠真が受け取る。
今度も両手だった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「返すの、再来週でもいい?」
「全然いいですよ」
「来週までに読めるか分からないから」
「急がなくていいです。本は逃げないので」
「水瀬さんは?」
「何が?」
「俺が今日貸した方」
「たぶん来週までに読みます」
「早いな」
「読みたいので」
それも即答だった。
今度は悠真が少し黙った。
「九条君?」
「今、俺も慣れる時間いるかも」
「何に?」
「そういうの」
「何ですか、それ」
「水瀬さんが普通に嬉しいこと言うのに」
「私、何か言いました?」
「言った」
「本読みたいって言っただけですよ?」
「俺が選んだ本を、だろ」
「…………」
彩花は口を閉じた。
言われてみればそうだった。
自分が「読みたい」と言ったのは、悠真が選んだ本だからでもある。
「……お互い様ですね」
「そうみたい」
二人で笑った。
以前より少しだけ、会話の中に相手そのものが増えている。
本が面白い。
本の話が楽しい。
それだけだった場所へ、「九条君が選んだから」「水瀬さんが薦めるなら」という理由が自然に入るようになった。
彩花はまだ、それを恋愛とは考えない。
友達になったのだから、相手の好みに興味を持つのは普通だ。
そう思っている。
悠真も、今ここで別の名前をつける必要はないと思っていた。
ただ嬉しい。
それで十分だった。
「そういえば」
彩花が言う。
「古本市」
「ああ」
悠真も覚えていた。
先週、館内のポスターで見た。
来月、市民ホール前広場で開かれる古本市。
「日付、来月の第二土曜でしたよね」
「そうだったと思う」
「私、たぶん行きます」
悠真が少しだけ姿勢を変えた。
「行くんだ?」
「はい。予定まだないので」
「そうなんだ」
「九条君は?」
聞かれた。
先週は、自分から誘うのをやめた。
彩花が興味を持っているからといって、その場で予定を決める必要はないと思ったからだ。
けれど今は、彩花本人から聞かれている。
「俺も行きたい」
「じゃあ」
彩花はそこで少し止まった。
何かを考えている。
「……また会うかもしれませんね」
悠真は一瞬だけ笑いそうになった。
「それ、図書館と同じ?」
「え?」
「時間決めずに、会えたら?」
「あ」
彩花も気づいた。
来月の古本市。
広場。
三十店ほど出る。
図書館より人も多い。
そこで「会えたら」では、本当に会えない可能性もある。
「……それは」
「うん」
「さすがに難しいですかね」
「たぶん」
「じゃあ……」
彩花は鞄の持ち手へ指を絡めた。
少し考える。
連絡先はまだ交換していない。
それを選んだのは自分だ。
図書館で会える今の距離が心地よかったから。
けれど古本市へ一緒に行くなら、待ち合わせが必要になる。
時間を決めればいい。
場所を決めればいい。
それだけなら連絡先は必要ない。
「もし予定変わらなかったら」
彩花が言った。
「一緒に見ます?」
悠真はすぐに答えなかった。
聞き間違えていないか、一度だけ確かめたかった。
「一緒に?」
「はい」
彩花は少し不思議そうにする。
「九条君も行きたいんですよね?」
「行きたい」
「私も行きたいので」
「うん」
「だったら、友達だし、一緒に見てもいいかなって」
友達。
その言葉が、今度は別の形で使われた。
悠真の胸の奥が温かくなる。
けれど、そのまま喜びだけで先へ進まない。
「いいの?」
「何がですか?」
「二人で」
「……駄目ですか?」
「俺は嬉しい」
「じゃあいいじゃないですか」
「水瀬さんがいいなら」
「私から言ったんですけど」
「そうだった」
「九条君、たまに変な確認しますよね」
「大事だから」
「何が?」
「水瀬さんが嫌じゃないか」
彩花は少し黙った。
それから、ほんの少しだけ目元を柔らかくする。
「嫌だったら、言わないですよ」
「……うん」
「私、九条君が思ってるより、嫌なことは嫌って言えます」
「そう?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「そこはまだ自信ないですけど」
彩花は苦笑した。
「でも、古本市は行きたいです。一緒に見たら楽しそうだと思ったから」
「分かった」
悠真もようやく笑った。
「じゃあ、一緒に行こう」
「はい」
来月。
第二土曜日。
二人で古本市へ行く。
初めて、図書館で偶然会うのではなく、最初から二人で同じ場所へ行く予定ができた。
彩花はそのことを特別な「デート」だとは考えなかった。
本が好きな友達と古本市へ行く。
それだけだ。
少なくとも、今の彩花にとっては。
「待ち合わせ、どうします?」
「まだ一か月近くあるから、来週でも決められる」
「そうですね」
「予定変わるかもしれないし」
「じゃあ、また今度」
「うん」
急がない。
今日すべてを決める必要はない。
それでも約束は残る。
そのとき、道路の向こうから黒い車がゆっくり近づいてきた。
「あ」
悠真が立ち上がる。
「来た」
「本当だ」
彩花も立つ。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
今日は「会えたら」がつかなかった。
どちらも、そのことを口にはしなかった。
けれど彩花は悠真が車へ向かうのを見送りながら、少しだけ気づいていた。
以前は、日曜日に会えるかどうか分からないことも含めて楽しかった。
今は。
(……来週も会うんだ)
そう思う方が、自然になっていた。
◇
車の後部座席へ乗った悠真は、シートベルトを締めてから鞄を膝へ置いた。
「お帰りですか、悠真様」
「うん。お願いします」
運転手が車を発進させる。
図書館が窓の向こうへ遠ざかっていく。
悠真はしばらく黙っていた。
鞄の中には、彩花から借りた新しい短編集。
そしてレモンケーキが二つ。
さらに。
来月の予定が一つ。
(古本市)
彩花から言った。
一緒に見ないかと。
友達だから。
「…………」
口元が緩む。
運転席からは見えない。
たぶん。
「悠真様」
「はい?」
「何かございましたか?」
「……何も」
「左様でございますか」
運転手はそれ以上聞かなかった。
悠真は窓の外を見る。
今日は友達になった。
正確には、すでにそうだった関係を二人で確認した。
そしてその日のうちに、初めて二人で出かける予定までできた。
少し進みすぎたような気もする。
けれど不思議と焦りはなかった。
彩花自身が選んだことだからだ。
それが一番嬉しい。
◇
九条家へ着くと、玄関ホールの奥から白い塊が走ってきた。
「ハク、待って」
悠真が鞄を持ち上げる。
ハクが尻尾を大きく振りながら近づく。
「今日は駄目。水瀬さんの本入ってるから」
名前を聞いたからなのか、それとも単に鞄が気になるのか、ハクはさらに鼻を近づけた。
「だから駄目だって」
「兄様」
階段の途中から琴葉の声がした。
悠真が顔を上げる。
「何?」
「帰宅早々、ハクへ水瀬さんの名前を出すのはどうかと思います」
「本が入ってるから」
「そうですか」
「何その顔」
「別に」
琴葉は階段を下りてくる。
「今日はどうでした?」
「楽しかった」
「早いですね」
「何が?」
「回答が」
「もういいだろ、それは」
「はい。そこはもう安心しています」
「何の安心?」
「兄様が自分の感情を毎回会議にかけなくなったことです」
「前からそんなことしてない」
「していました」
「してない」
「では、今日は何があったんです?」
悠真は靴を脱ぐ。
「本の感想話した」
「はい」
「郷土資料の紹介会行った」
「はい」
「本交換した」
「いつも通りですね」
「来月、古本市に行く」
「それも以前おっしゃっていましたね」
「水瀬さんと」
琴葉が止まった。
ハクだけが尻尾を振っている。
「……二人で?」
「たぶん」
「兄様から誘ったんですか?」
「水瀬さんから」
琴葉は数秒黙った。
「兄様」
「何?」
「本当に?」
「何で疑うんだよ」
「いえ」
琴葉は口元へ手を当てた。
「少々、予想より早かったので」
「何が?」
「こちらの話です」
「言えよ」
「古本市ですか」
「ああ」
「よかったですね」
「うん」
「…………」
「何?」
「いえ」
琴葉は兄の顔を見る。
素直に嬉しそうだった。
以前のように、自分の気持ちを否定していない。
かといって、一度の外出を何か大げさなものへ変えようともしていない。
それならいい。
「ハク」
琴葉が白い犬を見る。
「少し状況が動きました」
「犬に報告するな」
「兄様もしているでしょう」
「俺はしてない」
「しています」
ハクが一度だけ吠えた。
「ほら」
「何が『ほら』なんだよ」
悠真は呆れながらリビングへ向かった。
「そうだ」
「何です?」
「水瀬さんからレモンケーキもらった」
「またですか?」
「余ったからって」
「何個?」
「二個」
琴葉の足が止まる。
「余った?」
「そう言ってた」
「二個?」
「うん」
「兄様」
「何?」
「一個ください」
「嫌だ」
返事は即答だった。
琴葉が目を細める。
「二個あるのに?」
「俺にもらったから」
「余ったものですよ?」
「それでも」
「家族へ分けるという発想は?」
「ない」
「パウンドケーキは分けたではありませんか」
「あれは大きかったから」
「今回は二個です」
「二個しかない」
「……兄様」
「何?」
「ハクに負ける以前に、兄様が食べ物でここまで狭量になるとは思いませんでした」
「何とでも言え」
「では、一口」
「駄目」
「半分」
「駄目」
「味の感想だけ聞かせてください」
「それならいい」
「腹立ちますね」
琴葉が珍しく眉を寄せる。
悠真は少し笑いながら鞄を抱え直した。
その足元でハクが再び鞄へ鼻を近づける。
「ハクも駄目」
白い尻尾が止まった。
「兄様」
「何?」
「ハクにまで?」
「レモンケーキは犬に食べさせないだろ」
「それはそうですけど」
琴葉はため息をついた。
それから兄の背中を見て、少しだけ笑う。
(……本当に楽しそう)
そのこと自体は、悪くなかった。
◇
一方、水瀬家では、彩花が玄関を開けた瞬間から凛花に捕まっていた。
「おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
「何が?」
「図書館」
「普通」
「最近その『普通』信用できない」
「何で?」
「毎回何か増えてるから」
「何も増えてないよ」
彩花は靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
凛花が後ろをついてくる。
「レモンケーキ渡した?」
「渡した」
「何個?」
「二個」
「二個」
「何?」
「いや」
「お姉ちゃんが二個にしろって言ったんでしょう」
「言ったけど、本当に二個にしたんだと思って」
「余ったから」
「はいはい」
「その言い方やめて」
リビングでは耕助がテレビを見ていた。
「おかえり、彩花」
「ただいま」
「図書館?」
「うん」
「また九条君いた?」
「いたよ」
父親の眉が少し動く。
「毎週いるな」
「お父さん」
「何だ?」
「変な顔しないで」
「してないぞ」
「してる」
凛花が横から言う。
「最近は友達になったらしいから」
「お姉ちゃん!?」
彩花が振り返る。
「何で知ってるんだ?」
耕助が聞く。
「今の彩花の顔」
「何それ!」
凛花が笑う。
彩花は顔を赤くして鞄を抱える。
「別に普通の友達だから!」
「分かってる」
「本の話する友達!」
「うん」
「学校も違うし!」
「そこは知ってる」
「だから!」
「彩花」
凛花が笑いを抑えながら言う。
「誰も何も言ってない」
「…………」
彩花は口を閉じた。
確かにそうだった。
「もう部屋行く」
「その前に手洗いなさい」
台所から紗月の声が飛んでくる。
「はーい」
彩花は洗面所へ向かう。
凛花が後ろからついてきた。
「何でついてくるの?」
「たまたま」
「絶対嘘」
「それで?」
「何?」
「今日は何したの?」
「本の話」
「うん」
「図書館の紹介会」
「うん」
「本交換」
「うん」
「……古本市行くことになった」
凛花が止まった。
彩花は手を洗う。
「誰と?」
「九条君」
「二人?」
「たぶん」
「いつ?」
「来月の第二土曜」
「…………」
「お姉ちゃん?」
彩花が振り返る。
凛花は静かな顔をしている。
外から見れば。
内側では。
(来た。ついに図書館の外で最初から二人で出かける予定が来た。落ち着いて私。古本市。古本市よ。映画でも遊園地でもない。本を見に行くだけ。友達。本人が友達って言ってる。止める理由はない。ないけど二人。最初から二人。待ち合わせするの? するわよね? 当然するわよね?)
「お姉ちゃん?」
「……楽しんできなさい」
「うん」
彩花が笑う。
その顔を見た瞬間、凛花の中の騒がしさが少しだけ静まった。
「彩花から誘ったの?」
「誘ったっていうか」
タオルで手を拭きながら、彩花は首を傾げる。
「二人とも行きたいなら一緒に見ればいいかなって」
「そう」
「友達だし」
また、その言葉。
彩花自身が、悠真を友達として自分の日常へ置き始めている。
凛花はそれ以上何も言わなかった。
「何?」
「別に」
「今日のお姉ちゃん変」
「いつも通りよ」
「絶対違う」
彩花は不思議そうにしながら階段へ向かう。
途中で振り返った。
「そうだ」
「何?」
「九条君、レモンケーキ二個とも自分で食べるかな」
「……何で?」
「家族に分けるかもしれないじゃん」
「前のパウンドケーキみたいに?」
「うん」
「別にいいでしょう」
「そうだけど」
彩花は少し考える。
「一個くらいは九条君に食べてほしいな」
凛花は黙った。
「お姉ちゃん?」
「……食べると思う」
「何で分かるの?」
「何となく」
「変なの」
彩花は階段を上がっていった。
凛花はその背中が見えなくなるまで動かなかった。
「一個くらいは、ね」
小さく呟く。
本人は気づいていない。
自分が作ったものを、誰が食べても同じではなくなり始めていることに。
それでも凛花は、今は何も言わなかった。
言えば彩花は考えすぎる。
今はまだ、自然に進めばいい。
◇
その夜。
彩花は自室の机で、今日悠真から借りた本を開く前にスマートフォンのカレンダーを開いた。
来月の第二土曜日。
まだ何も予定は入っていない。
そこへ指を置く。
入力欄が開く。
『古本市』
そこまで打つ。
少し迷ってから、
『九条君と古本市』
に変えた。
「…………」
文字を見る。
急に少しだけ恥ずかしい。
「いや、予定だから」
誰に言い訳しているのか分からない。
消そうか迷う。
でも、消す理由もない。
そのまま保存した。
カレンダーに予定が一つ増える。
来月。
九条悠真と、古本市。
友達と出かける予定。
それだけ。
彩花はスマートフォンを伏せ、借りた本を開いた。
一ページ目を読む。
二ページ目。
まだ何も起きていないのに、文章の雰囲気が少し好きだと思う。
(九条君、これ何で選んだんだろ)
次に会ったら聞こう。
そんなことを考えながらページをめくる。
一方。
同じ頃。
九条家の自室では、悠真がレモンケーキの袋を開けていた。
二個ある。
一個目を食べる。
レモンの酸味は強すぎず、蜂蜜の甘さが後から残った。
「……美味しい」
誰もいない部屋で口にする。
机の横ではハクが伏せている。
「駄目だぞ」
まだ何もしていないハクへ先に言う。
白い犬が顔を上げた。
「これは水瀬さんにもらったから」
言いながら、二個目へ手を伸ばしかける。
止める。
「…………」
今日食べると言った。
彩花からも、今日中に食べるよう言われた。
だから食べる。
そう思っていた。
けれど一個目がなくなると、二個目までなくなるのが急に惜しくなった。
「……いや」
食べ物だ。
残して眺めるものではない。
クッキーのときと同じことをしてどうする。
悠真は自分で苦笑する。
「食べる」
ハクへ宣言する。
そして二個目も口にした。
やはり美味しかった。
食べ終えてから、空になった袋を見る。
「…………」
ハクがこちらを見ている。
「何だよ」
白い尻尾が一度だけ床を叩いた。
「ちゃんと食べただろ」
誰に報告しているのか分からない。
悠真は袋を捨て、机へ戻る。
彩花から借りた短編集を手に取ろうとして、その横に置いたスマートフォンが目に入った。
来月の第二土曜日。
まだ先だ。
それでも忘れることはないと思う。
念のためカレンダーを開く。
『古本市』
と入力する。
そこで一度止まり、文字を足した。
『水瀬さんと古本市』
保存する。
「…………」
自分で入力しておきながら、少しだけ照れくさい。
けれど消さなかった。
机の横でハクがまた尻尾を動かす。
「友達だから」
悠真は言った。
ハクは何も答えない。
「……何で犬に言い訳してるんだ、俺」
自分で笑う。
それから彩花に借りた本を開いた。
別々の家。
別々の部屋。
連絡先さえ、まだ知らない。
それでも二人のスマートフォンには、同じ土曜日の予定が一つずつ増えていた。




