第12話
月曜日の朝、水瀬彩花が教室へ入ったとき、窓際の席では数人の男子生徒が昨日の野球中継について話していた。
梅雨の晴れ間は一日しか続かなかったらしく、青葉高校の窓の向こうには薄い雲が広がっている。雨こそ降っていないものの空気は湿っていて、開けられた窓から入る風もどこか生温かかった。
「おはよう、水瀬」
「おはよう」
席へ向かう途中、クラスメイトに声をかけられて返す。
鞄を机の横へ掛けようとして、彩花は一度だけ手を止めた。
中には、昨日悠真から借りた文庫本が入っている。
昨夜、夕食と入浴を終えてから少しだけ読むつもりだった。
少しだけ。
本当に、そのつもりだった。
ところが最初の一章を読み終えたところで続きが気になり、時計を見たときには午後十一時を過ぎていた。慌てて栞を挟んだものの、そのあと布団へ入ってからも登場人物の会話が頭に残り、結局いつもより眠るのが遅くなってしまった。
(九条君、これ四回読んだんだよね)
鞄から教科書を取り出しながら考える。
まだ全体の三分の一ほどしか読んでいない。
それでも、何となく分かる気がした。
派手な事件が起こる話ではない。
地方の小さな町を舞台に、古い写真館を継いだ青年と、そこを訪れる人たちの日常が描かれている。
誰かが大声で泣くわけでもない。
劇的な告白があるわけでもない。
けれど、登場人物が口にしなかったことが、視線や行動の中に残る。
彩花の好きなタイプの物語だった。
(……これ、私が好きそうだから選んだのかな)
そう思ってから、すぐに否定する。
悠真が四回も読んだ本なのだから、自分のために選んだわけではない。
彼が元々好きな本を貸してくれた。
それだけだ。
けれど、その「それだけ」が以前より少し大きく感じられる。
自分が好きな本を人へ貸すこと。
彩花自身も、少し前に悠真へ自分の短編集を貸した。
そのときは深く考えなかったが、実際に逆の立場になってみると分かる。
好きな本を貸すというのは、思っていたより少しだけ緊張する。
相手がどう読むのか。
面白いと思ってくれるのか。
好きな場面はどこなのか。
自分とは違うところを好きになるのか。
「水瀬」
「うん?」
「それ、何?」
突然横から声をかけられ、彩花は顔を上げた。
田辺大地が隣の机へ片手をつき、彩花の鞄から少しだけ覗いている文庫本を見ていた。
「本」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞かないでよ」
「いや、タイトル」
「これ?」
彩花は鞄から本を取り出す。
表紙を見せると、大地が眉を寄せた。
「知らねえ」
「田辺君、普段あんまり小説読まないでしょ」
「漫画なら読む」
「じゃあ知らなくても普通だよ」
「面白い?」
「まだ途中だけど、面白い」
「へえ」
大地が手を伸ばしかける。
彩花は反射的に本を自分の胸元へ引いた。
「触るなら手綺麗?」
「え?」
「これ借り物だから」
「ああ、図書室?」
「違うよ」
「文芸部?」
「違う」
「じゃあ友達?」
「…………」
彩花の返事が止まった。
大地が首を傾げる。
「何?」
「……何でもない」
「誰に借りたんだよ」
「知り合い」
「友達じゃないの?」
「うーん……」
「何でそこで悩むんだよ」
「田辺君には関係ないでしょ」
「まあ、ないけど」
大地はあっさり引いた。
それから本ではなく、彩花の机の上を見回す。
「今日、お菓子ない?」
「ないよ」
「何で?」
「毎日作ってると思わないで」
「昨日は?」
「作ってない」
「土曜は?」
「買った」
「何を?」
「レモンと蜂蜜の焼き菓子」
「美味かった?」
「美味しかった」
「いいな」
「自分で買って」
いつもの調子で会話が終わる。
大地は後ろから呼ばれ、別の男子の席へ移っていった。
彩花は手元の本を見る。
さっきまで気にしていなかった言葉が残った。
『じゃあ友達?』
「…………」
悠真は友達なのだろうか。
以前にも考えたことがある。
図書館で会う人。
本の話ができる人。
話しやすい人。
親切な人。
いい人。
そこから少しずつ言葉が増えていった。
今では互いの本を貸し借りしている。
学校の話もする。
家族の話も少し知っている。
お菓子を渡したこともある。
偶然街で会えば、そのまま普通に話す。
そして日曜日には、次の週にまた会うことまで分かっている。
(……これで友達じゃなかったら、何なんだろ)
そう考えると、逆に分からなくなった。
友達。
言葉にすれば簡単だ。
文芸部の同級生なら、普通に友達と言える。
小学校から付き合いのある子も友達だ。
大地だって、少なくともクラスでよく話す友達の一人に入るのだと思う。
けれど悠真に同じ言葉を当てはめようとすると、なぜか一度考えてしまう。
(学校が違うから?)
それはありそうだった。
毎日会うわけではない。
連絡先も知らない。
会うのは主に日曜日の図書館。
だから、普通の友達とは少し形が違うだけなのかもしれない。
「水瀬さん、おはよう」
「あ、おはよう」
同じ文芸部の女子生徒が隣の席へ鞄を置く。
彩花は本をしまった。
答えを出す必要はない。
少なくとも今は。
それでも、「知り合い」と答えたときにほんの少し違和感があったことだけは、朝のホームルームが始まってからも頭の隅に残っていた。
◇
同じ日の昼休み。
私立桜華学園高等部の中庭では、曇り空の下でも何組かの生徒がベンチを使っていた。
湿度は高いが雨の気配はまだない。校舎の窓から流れてくる話し声に混じり、テニスコートからボールを打つ乾いた音が響いている。
「兄様」
「何?」
「卵焼きを取らないでください」
「一個くらいいいだろ」
「それは私のです」
「まだ三個ある」
「個数の問題ではありません」
九条琴葉は、兄の箸から自分の弁当箱を守るように少し引き寄せた。
悠真が諦め、自分の弁当へ戻る。
向かいに座っていた女子生徒が、そのやり取りを見て小さく笑った。
「九条兄妹って、家でもそんな感じなの?」
「兄様が人のものを勝手に取ろうとするところは同じです」
「一個も取ってないだろ」
「未遂です」
「厳しいな」
「兄様にはこれくらいでちょうどいいんです」
琴葉の隣に座る女子生徒――一条玲奈は、紙パックの紅茶へストローを差しながら悠真を見る。
同じ一年生。
小等部から桜華学園へ通っており、琴葉とは長い付き合いになる。
背が高く、肩に届く髪をすっきりとまとめた姿は中性的な印象が強い。立ち居振る舞いも自然に洗練されており、女子生徒から冗談半分に「王子」と呼ばれることも珍しくなかった。
「それで?」
玲奈が言った。
「今日はどうして悠真君がいるの?」
「俺がいたら駄目?」
「駄目じゃないけど、いつも生徒会か榊原君と食べてるでしょう」
「湊が委員会」
「なるほど。妹で代用?」
「言い方」
「兄様なら否定できません」
「琴葉まで」
悠真はため息をつく。
今日は湊が昼休みに委員会の集まりへ出ており、生徒会も特に急ぎの仕事がなかった。食堂へ行こうとしたところで琴葉を見かけ、そのまま一緒に中庭へ来ただけだ。
玲奈とは昔から顔見知りなので、三人で昼食を取ること自体も初めてではない。
「そういえば兄様」
「今度は何?」
「昨日はどうでした?」
悠真の箸が止まった。
玲奈が二人を見比べる。
「昨日?」
「琴葉」
「何でしょう」
「その聞き方やめろ」
「何か問題でも?」
「ある」
「図書館へ行っただけでは?」
「そうだけど」
琴葉は涼しい顔で卵焼きを食べる。
玲奈の目が少し細くなった。
「図書館?」
「兄様、最近毎週日曜日に中央図書館へ通っているんです」
「昔から本は好きだったでしょう」
「それ自体はそうなのですが」
琴葉は一拍置く。
「最近は、本以外にも会いたいものがあるようです」
「人だよ」
「そこは訂正するんですね」
「もの扱いするな」
玲奈が悠真を見る。
「女の子?」
「……何で分かるんだよ」
「琴葉の顔」
「私ですか?」
「楽しそう」
琴葉は頬へ手を当てた。
「表に出ていました?」
「かなり」
「不覚です」
「そんな大げさな」
玲奈は笑う。
「で、どんな子?」
「玲奈」
「何?」
「お前まで乗るな」
「琴葉がこんなに楽しそうだから気になるだけ」
「兄様」
「何だよ」
「玲奈には話してもいいのでは?」
「何を」
「水瀬さんのことを」
「もう名字言ってるじゃないか」
「あ」
「琴葉……」
悠真が額を押さえる。
玲奈は少し考えた。
「水瀬?」
その名字に、悠真は顔を上げる。
「知ってる?」
「名字だけなら何人かいるけど」
「そうだよな」
「二年の水瀬凛花先輩なら有名でしょう。剣道部の」
「その妹」
「へえ」
玲奈の反応はそれだけだった。
家柄を聞くわけでもない。
学校を聞くわけでもない。
「どこで知り合ったの?」
「図書館」
「本?」
「ああ」
「悠真君らしい」
「そうか?」
「パーティーとか家同士の食事会で知り合ったって言われるより、ずっと」
玲奈はストローを指で回す。
「それで毎週会ってるの?」
「うん」
「付き合ってる?」
「違う」
返事は早かった。
「友達?」
「…………」
今度は返事が止まった。
琴葉が兄を見る。
玲奈も待っている。
「何でそこで黙るの?」
「いや」
「友達じゃないの?」
「そう言われると……」
悠真は少し考えた。
彩花とは何なのか。
初めて会ったときは名前すら知らなかった。
次に会って名前を知った。
何度も本の話をした。
傘へ入れた。
菓子をもらった。
自分の祖父へ贈る本を一緒に選んでもらった。
姉とも話した。
互いに好きな本を貸している。
そして次の日曜日も会うことになっている。
「友達……だと思う」
口にしてみる。
不思議と嫌ではない。
むしろ、かなりしっくりきた。
「何ですか、その自信のなさは」
琴葉が呆れる。
「本人と確認したことないから」
「友達になるときに契約書でも交わすんですか?」
「そういう意味じゃない」
「兄様なら本当に作りかねないので心配です」
「作らないよ」
玲奈が吹き出す。
「琴葉、悠真君に厳しいね」
「兄様は放っておくと時々おかしな方向へ進みますから」
「最近は気をつけてる」
「以前よりは」
「評価低いな」
「ですが」
琴葉は兄を見た。
「その方と友達だと思えるようになったのなら、少し進歩では?」
「何の進歩だよ」
「知りません」
「言った本人が?」
「兄様自身が分からないものを、私に説明させないでください」
悠真は言い返せなかった。
玲奈は二人のやり取りを眺めながら、少しだけ興味を持った。
悠真は昔から、誰に対しても感じがいい。
親しい相手には多少崩れるが、基本的には冷静で、誰か一人についてこれほど家族から面白がられるようなことはなかった。
その相手がどんな少女なのか。
純粋に気になる。
「いつか会ってみたいな」
玲奈が何気なく言った。
悠真が顔を上げる。
「水瀬さんに?」
「うん」
「何で?」
「琴葉が楽しそうだから」
「私が?」
「悠真君より琴葉の反応の方が面白い」
「玲奈」
「冗談」
玲奈は笑う。
ただ、その言葉が完全な冗談というわけでもなかった。
琴葉は普段、人付き合いが狭いわけではない。
けれど誰にでもすぐ心を開くタイプでもない。
そんな琴葉が、まだ会ったこともない少女の話をするときだけ妙に楽しそうなのだ。
「兄様」
「何?」
「私もいつかお会いしてみたいです」
「水瀬さんに?」
「はい」
「何で」
「兄様が毎週図書館へ行く理由を確認したいので」
「確認って何を」
「本当に本を読みに行っているのか」
「読んでるよ」
「本当に?」
「昨日も読んだ」
「何時間?」
「……全部で三時間くらい」
「そのうち水瀬さんと一緒だった時間は?」
「ほとんど」
「兄様」
「何だよ」
「それはもう『本を読みに行っている』だけではありません」
玲奈が肩を揺らして笑う。
悠真は反論しようとして、やめた。
確かにそうかもしれない。
図書館へ行く理由の中に、本以外のものが入っている。
今さら否定する必要もなかった。
「会える機会があればな」
悠真が言う。
琴葉の目が少し大きくなった。
「兄様からその言葉が出るとは思いませんでした」
「何で」
「以前なら『別に会わせる必要ないだろ』と言っていたかと」
「無理に会わせる必要はない」
「はい」
「でも自然に会うことがあれば、別にいい」
琴葉は兄の横顔を見た。
以前より少しだけ余裕がある。
彩花という少女を、自分だけの場所へ閉じ込めたいわけではないらしい。
家族や友人に知られることを過剰に避けてもいない。
それは琴葉にとって、少し安心できる変化だった。
「では、楽しみにしています」
「何を」
「自然な機会を」
「待つものじゃないだろ」
「待っていません」
「絶対待ってる」
「気のせいです」
琴葉は澄ました顔で弁当を食べる。
玲奈はそんな兄妹を見ながら、まだ会ったことのない「水瀬さん」へ少しだけ興味を深めていた。
◇
火曜日の放課後、青葉高校の文芸部室では文化祭用部誌の企画会議が行われていた。
黒板には仮のテーマ案がいくつか書かれている。
青春。
季節。
秘密。
出会い。
自由題。
窓の外では細かな雨が降り始め、グラウンドから戻ってくる運動部員たちの声が聞こえていた。
「水瀬さん、題材決まった?」
向かいの席から聞かれ、彩花はノートを見る。
「何となく」
「何書くの?」
「まだ内緒」
「恋愛?」
「違うって」
昨日から二度目だった。
彩花は苦笑する。
「人が知り合って、少しずつ話すようになる話」
「それ恋愛にできそうじゃない?」
「できるけど、恋愛じゃなくてもいいでしょ」
「まあね」
「友達になる話でもいいし」
口にしてから、彩花は少しだけ止まった。
友達。
昨日から気になっている言葉。
「水瀬さん?」
「ううん。何でもない」
ノートへ視線を戻す。
まだ物語の主人公すら決まっていない。
ただ、「知らない人だった相手が、少しずつ自分の日常の中へ入ってくる」という話を書いてみたいと思っていた。
きっかけは本でもいい。
落とし物でもいい。
同じ電車でもいい。
大切なのは、劇的な出来事ではない。
最初は知らなかったことを一つ知る。
次に会ったとき、前に聞いた話を覚えている。
また会う。
話す。
少しずつ、その人について知っていることが増える。
それだけ。
(……これ)
彩花はシャープペンシルを止めた。
(九条君みたい)
気づいた瞬間、少しだけ恥ずかしくなる。
別に悠真をモデルにするつもりはなかった。
ただ、最近自分の中で一番身近な「少しずつ知り合った人」が悠真だっただけだ。
「水瀬」
入口から声がした。
「今度は何?」
顔を上げる前に分かった。
大地だった。
「何で最初から嫌そうなんだよ」
「田辺君、文芸部員じゃないから」
「友達待ってる」
「その友達、毎日何してるの?」
「今日は委員会」
「昨日は?」
「先生に呼ばれてた」
「本当に?」
「本当だって」
大地は空いている椅子へ座る。
「で、何書くか決まった?」
「まだ」
「恋愛?」
「田辺君までそれ言うのやめて」
「昨日も聞いたっけ?」
「聞いた」
「じゃあミステリー」
「それも昨日聞いた」
「俺、会話の引き出し少ないな」
「自覚したなら増やして」
周囲から笑いが起こる。
大地も気にせず笑った。
そのとき、彩花の机の上に置かれた文庫本へ目を向ける。
「それ昨日の借り物?」
「そう」
「まだ読んでんの?」
「昨日より進んだよ」
「誰に借りたの?」
「また聞くの?」
「気になった」
「何で?」
「水瀬が『知り合い』って言って悩んでたから」
「…………」
部室にいた女子生徒の一人が、少しだけ顔を上げた。
「知り合い?」
「田辺君」
「何?」
「余計なこと言わないで」
「別に変なこと言ってないだろ」
「そうだけど」
彩花は困った。
隠すようなことではない。
悠真と会っていることは家族も知っている。
学校が違う。
図書館で知り合った。
それだけだ。
「他校の人だよ」
彩花は答えた。
「図書館で知り合った人」
「へえ」
「本が好きで、何回か話してるうちに貸し借りするようになっただけ」
「男?」
別の女子部員が聞いた。
彩花は一瞬だけ迷ってから頷く。
「うん」
「えっ」
今度は何人かが顔を上げた。
「何でそんな反応するの?」
「いや、水瀬さんから他校の男子の話出るの珍しいから」
「そう?」
「珍しいよ」
「普通に友達?」
また。
同じ言葉が来た。
昨日、大地に聞かれた。
そして今も。
彩花は手元の本へ視線を落とした。
「……たぶん」
「たぶん?」
「友達だと思う」
言った。
初めて。
九条悠真を、友達だと。
口にした瞬間、何かが大きく変わったわけではない。
心臓が跳ねるわけでもない。
恥ずかしくて仕方なくなるわけでもない。
むしろ、思っていたより自然だった。
「そっか」
女子部員はそれ以上追及しなかった。
「本友達みたいな感じ?」
「あ、それが近いかも」
彩花は少し笑う。
「同じ本読んで感想話すのが楽しいの」
「いいじゃん。私、読んでも感想そんな出てこない」
「それはそれでいいんだよ。面白かっただけでも」
「水瀬さん、そういうの細かそう」
「細かいって何」
「登場人物の目線がどうとか」
「……言うかも」
「ほら」
笑いが起きる。
話題はそのまま部誌へ戻っていった。
大地も「へえ」と言っただけで、それ以上何も聞かなかった。
けれど彩花の中には、さっき口にした言葉が残った。
(友達)
そう思っていいのだろうか。
たぶんいい。
自分はそう思っている。
問題は。
(九条君も、そう思ってるのかな)
そこだけが分からなかった。
これまで考えたことがなかった。
自分が悠真をどう呼ぶかだけではなく、悠真が自分をどう思っているのか。
もちろん嫌われてはいないと思う。
毎週会っている。
話している。
本も貸してくれた。
お菓子も美味しいと言ってくれる。
それでも「友達」と同じ言葉で考えているかは聞いたことがない。
(……聞く?)
次の日曜日。
いや。
急に「私たち友達ですか」と聞くのは、かなり変な気がする。
(何その確認)
想像しただけで恥ずかしくなった。
彩花はノートへ視線を落とし、部誌の構想を書き始める。
けれどその日のノートの隅には、本文とは関係のない小さな文字で、
『友達って、いつから?』
と書かれていた。
◇
水曜日の夕方。
九条家のリビングでは、ハクが大きな体をソファの前へ投げ出していた。
外は雨だった。
窓の向こうの庭はしっとりと濡れ、芝生の緑がいつもより濃く見える。室内には夕食前の静かな時間が流れており、キッチンの方からは使用人たちが準備をする小さな音が聞こえていた。
悠真はソファに座り、彩花へ貸したものとは別の本を読んでいた。
ページをめくる。
数行読む。
またページをめくる。
その足元で、ハクが顔を上げた。
「何?」
ハクは答えない。
当然だ。
ただ、悠真の膝へ顎を乗せようと少し体を動かす。
「重いって」
言いながらも拒まない。
大きな白い頭が膝へ乗る。
悠真は片手でその毛を撫でた。
「今頃どこまで読んでるかな」
口から出てから、ハクの耳が少し動いた。
「水瀬さん」
説明する必要はない。
ハクは分かっているかもしれない。
少なくとも最近、悠真がその名前をよく口にしていることくらいは。
「三分の一くらいかな」
昨日の時点で、彩花がどこまで読んでいるかは知らない。
急いで読んでほしいわけではない。
むしろゆっくりでいい。
ただ、感想は聞きたい。
「どこ好きになると思う?」
ハクの頭を撫でながら聞く。
白い犬は目を細めるだけだった。
「俺は四章なんだけど」
「兄様」
背後から声がした。
悠真は振り返らない。
「何」
「ハクに読書会を求めないでください」
「別にいいだろ」
琴葉がリビングへ入ってくる。
ソファの反対側へ座り、兄の膝へ顎を乗せているハクを見る。
「ハク、困っています」
「困ってない」
「顔に出ています」
「犬の顔読めるの?」
「兄様よりは」
「ひどいな」
琴葉はテーブルの上に置かれていた紅茶を取る。
「水瀬さんへ貸した本ですか?」
「何が?」
「今のお話」
「ああ」
「どんな本を?」
悠真はタイトルを言う。
琴葉の眉が少し上がった。
「兄様、あれ貸したんですか?」
「うん」
「珍しいですね」
「そう?」
「兄様、あの本は自室の棚にずっと置いているでしょう」
「本は普通棚に置くだろ」
「そういう意味ではありません」
琴葉は呆れたように兄を見る。
「何度も読み返している本を人へ貸すこと自体が珍しいと言っているんです」
「湊にも似たようなこと言われた」
「榊原さんに?」
「ああ」
「では、第三者から見てもそうなのですね」
「何が」
「兄様がその方へかなり心を許していることが」
悠真は少し黙った。
否定する必要はないと思った。
「そうかもな」
琴葉の手が止まる。
「……兄様」
「何?」
「今日は素直ですね」
「悪い?」
「いえ」
琴葉は紅茶を一口飲む。
「進歩です」
「だから何の進歩なんだよ」
「私にも分かりません」
「またそれか」
悠真は本を閉じた。
ハクの耳の後ろを撫でる。
「友達って、どこからだと思う?」
琴葉が今度こそ完全に止まった。
「はい?」
「友達」
「聞こえています」
「じゃあ答えて」
「兄様が私に人間関係の定義を尋ねる日が来るとは思いませんでした」
「そこまで大げさ?」
「何かあったんですか?」
「昼に玲奈から聞かれた」
「何を?」
「水瀬さんは友達かって」
「それで?」
「友達だと思うって答えた」
琴葉は兄をじっと見る。
「水瀬さん本人には?」
「言ってない」
「でしょうね」
「何だよ」
「いえ。兄様らしいなと」
「どういう意味?」
「一人で定義を確認して、本人とは確認していないところが」
「友達って確認するものなの?」
「だから私に聞かないでください」
琴葉は少し笑った。
「ですが、兄様が友達だと思っているなら、それでいいのでは?」
「相手がそう思ってなかったら?」
「その場合は兄様の片思いですね」
「友達で片思いって言う?」
「言葉の上では」
「ややこしいな」
「兄様が勝手にややこしくしているんです」
悠真は反論できなかった。
ハクが膝から頭を上げ、今度は琴葉の方へ移動する。
「あ」
「ハクも私の方が話が早いと判断したようです」
「違う。飽きただけ」
「それはそれで兄様が負けています」
「何に?」
「ハクに」
「……水瀬さんに会わせたくないな」
「何故です?」
「絶対ハクの方に行くから」
琴葉は数秒黙った。
それから、兄を見た。
「兄様」
「何?」
「その嫉妬は相手が犬でも発生するんですね」
「嫉妬じゃない」
「そうですか」
「絶対信じてないだろ」
「はい」
「即答するな」
琴葉はハクの頭を撫でる。
白い尻尾が床を叩いた。
「でも、ハクは水瀬さんを気に入るかもしれませんね」
「会ってもないのに?」
「兄様が好きな方なら」
「……好きって」
悠真の言葉が止まる。
琴葉も止まった。
二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちた。
「琴葉」
「はい」
「今の意味」
「人として、という意味です」
「……そう」
「兄様は何だと思ったんですか?」
「何でもない」
「そうですか」
琴葉はそれ以上追及しなかった。
以前なら面白がっていたかもしれない。
けれど今は、悠真自身が少しずつ自分の気持ちを受け入れていることを知っている。
外から急いで名前をつける必要はない。
「日曜日」
悠真が言った。
「うん?」
「水瀬さん、感想話すって」
「楽しみなんですね」
「ああ」
今度は迷わず答えた。
琴葉は兄を見てから、小さく笑う。
「それならよかったです」
「何が?」
「何でもありません」
ハクが大きくあくびをする。
雨音の続くリビングで、悠真はもう一度本を開いた。
けれど少しだけ、貸した本の四章を彩花がどう読むのか考えていた。
◇
木曜日の夜。
彩花は自室のベッドへ腰掛け、悠真から借りた本の最後のページを閉じた。
「……ああ」
思わず声が出た。
すぐに本を閉じきらず、指を最後のページへ挟んだまま天井を見る。
読み終わった。
予想していた終わり方とは少し違った。
主人公は、最後まで大きな言葉を口にしなかった。
ずっと写真館へ通っていた女性へ、自分の気持ちを告げることもない。
ただ、彼女が町を離れる朝。
以前撮った写真を一枚だけ渡す。
裏には日付だけ。
それだけだった。
けれど、その女性は電車へ乗る直前に戻ってくる。
何も説明しない。
主人公も聞かない。
二人で写真館の扉を開ける。
そこで物語は終わった。
「……ずるい」
彩花は小さく呟く。
言葉にしないのに、分かる。
むしろ言わないからこそ、そこまで積み重ねられた時間が最後の行に全部残る。
(九条君、四章が好きなのかな)
勝手に予想する。
四章では、主人公が亡くなった父親の残した写真を整理する。
父親とは生前あまり会話がなかった。
それでも写真の一枚一枚を見ていくうちに、自分が知らなかった父の視線を知る。
悠真がそこを好きだと言ったわけではない。
ただ何となく、そう思った。
人が言葉にしなかったものを拾う話。
悠真は、そういうところを読む気がする。
「……聞きたい」
口にしてから、彩花は少し笑った。
日曜日に聞けばいい。
もう、それが自然になっている。
ベッド脇の机へ本を置く。
その隣には、自分が書き始めた文化祭用短編のノートがあった。
まだ冒頭しかない。
主人公は高校生の女の子。
休日に同じ喫茶店へ通う。
そこで毎週会う人がいる。
最初は名前を知らない。
少しずつ話すようになる。
そこまで書いて、彩花は止まっていた。
(……図書館を喫茶店にしただけじゃない?)
さすがに似すぎている。
悠真へ見せる予定はないが、もし読まれたらすぐに気づかれそうだった。
「駄目だ」
ノートを開く。
設定を変える。
喫茶店もやめる。
同じ場所へ通うのもやめる。
もっと別の出会いにしよう。
そう考えながら、ふと昨日の部室でのことを思い出した。
『普通に友達?』
『友達だと思う』
自分で言った。
そのときは自然だった。
今もそう思う。
「……友達」
声にしてみる。
九条悠真。
自分の友達。
変ではない。
むしろ「知り合い」よりずっと近い。
ただ。
(九条君もそう思ってるのかな)
また同じところへ戻る。
彩花はシャープペンシルを置いた。
「聞かなくてもいいか」
友達なら友達。
違うなら違う。
今の関係が変わるわけではない。
そう思う。
それでも少しだけ気になる。
その「少し」が、日曜日まで残った。
◇
土曜日の午後。
水瀬家の台所には、甘い香りが広がっていた。
オーブンの中では、小さなレモンケーキが焼けている。
先週買ったレモンと蜂蜜の焼き菓子を参考に、彩花が自分なりに配合を変えて作ったものだった。
「いい匂い」
リビングから紗月が顔を出す。
「まだ焼いてる途中だから開けないでね」
「開けないわよ」
「お母さん前に開けたじゃん」
「あれは確認」
「焼いてる途中で確認しなくていいの」
「はいはい」
紗月が笑いながら戻る。
その直後、今度は凛花が台所へ入ってきた。
「何作ってるの?」
「レモンケーキ」
「食べていい?」
「焼けて冷めてから」
「何個?」
「十個」
「じゃあ二個」
「一個」
「何で?」
「お父さんとお母さんも食べるし、月曜に学校へ持っていく分もあるから」
「……日曜は?」
彩花の手が止まった。
凛花が見逃すはずもない。
「何?」
「別に」
「今、絶対何か考えたよね」
「日曜の分は?」
「…………」
「あるの?」
「一個くらいなら」
「誰に?」
「分かってるくせに聞かないで」
凛花の口元が少し上がる。
「九条君?」
「余ったら持っていくって言ったの」
「本人に?」
「うん」
「へえ」
「何その顔」
「何でもない」
「お姉ちゃん」
「でも十個でしょう?」
「そうだよ」
「お父さん一個、お母さん一個、私一個」
「お姉ちゃん二個食べようとしてたよね?」
「それは置いといて」
「置かないけど」
「月曜に学校へ何個?」
「四個くらい」
「残り三個」
「…………」
「九条君一個でも、あと二個余るね」
「計算しなくていいから!」
彩花が赤くなる。
凛花は笑いを堪える。
「別にいいじゃない。二個あげても」
「何で増やすの」
「美味しかったらもっと食べたいでしょう」
「九条君を田辺君みたいに言わないで」
「田辺君?」
「あ」
「誰?」
今度は彩花が止まった。
「クラスの子」
「男?」
「そうだけど」
「何でその子と九条君が同じ話に出てくるの?」
「お菓子よく食べるから」
「彩花の?」
「クラスのみんなに配ったときに三個食べたの」
「三個?」
「お姉ちゃんまでそこ反応するの?」
「いや、三個は多いでしょう」
「九条君も同じこと言ってた」
「……九条君、田辺君のこと知ってるの?」
「少し話しただけ」
凛花の目が細くなる。
「へえ」
「何?」
「何でもない」
「今日それ何回目?」
「気のせい」
オーブンが焼き上がりを知らせる音を鳴らす。
彩花は話を切り上げるようにミトンをはめた。
「開けるよ」
「うん」
扉を開く。
温かな空気と一緒に、レモンとバターの香りが台所へ広がった。
焼き色は悪くない。
表面も均一に膨らんでいる。
「成功?」
「見た目は」
「食べれば分かる」
「冷めるまで待って」
「一個くらい」
「駄目」
「彩花」
「駄目」
凛花が名残惜しそうにオーブンを見る。
彩花は焼き型を網へ並べた。
十個。
そのうち一つを見て、少し考える。
(九条君、レモン好きかな)
聞いていない。
甘いものが嫌いではないことは知っている。
マドレーヌもパウンドケーキも食べた。
けれどレモンは分からない。
(……まあ、嫌いだったら無理に食べなくていいし)
そう思いながらも、少しだけ蜂蜜を強めにした一つを目で追ってしまう。
「彩花」
「何?」
「今、どれにするか選んだ?」
「選んでない!」
「まだ何も言ってないけど」
「お姉ちゃん!」
凛花が笑いながら台所を出ていく。
彩花は頬を膨らませた。
けれど数分後、冷め始めたケーキを袋へ分けるとき。
家族用。
学校用。
そして日曜日用。
その三つを、最初から迷わず分けていた。
◇
日曜日の午後。
青凪市立中央図書館へ向かう道には、前夜の雨が残っていた。
歩道脇の紫陽花は雨粒を抱え、青や紫の花が重そうに頭を下げている。雲の隙間から時折薄い日差しが落ちるたび、水滴が小さく光った。
彩花の鞄には二冊の本が入っている。
一冊は悠真から借りた本。
もう一冊は自分が次に薦めたいと思った短編集。
それから、小さな袋に入れたレモンケーキ。
今日は会えるかどうかを考えなかった。
会う。
もうそう思っている。
図書館の自動ドアを抜ける。
冷房の効いた空気が肌に触れる。
いつものように館内へ入り、文学棚へ向かう途中。
「水瀬さん」
声がした。
彩花はすぐに振り返った。
「九条君」
悠真がいる。
それだけで、自然に笑顔になった。
「こんにちは」
「こんにちは」
「本、読み終わりました」
「本当?」
「はい。話したいところいっぱいあります」
悠真の表情が明るくなる。
「俺も聞きたい」
「あと」
彩花は鞄を少し持ち上げた。
「また本持ってきました」
「俺も」
「またですか?」
「水瀬さんが前の読み終わったらって思って」
「じゃあ今日、また交換ですね」
「そうなるな」
二人は顔を見合わせて笑った。
いつもの棚へ向かう。
その途中で、彩花は数日前から気になっていたことを思い出した。
友達。
聞くつもりはなかった。
わざわざ確認するのも変だと思っていた。
けれど。
「九条君」
「何?」
「ちょっと変なこと聞いていいですか?」
悠真が足を止める。
「いいよ」
「本当に変ですよ?」
「水瀬さんからそれ言われると気になる」
「何ですか、それ」
「俺、よく変って言われるから」
「それは九条君がたまに変だからです」
「否定できない」
彩花は少し笑った。
そのおかげで、聞きやすくなった。
「私たちって」
そこまで言って、ほんの少し迷う。
悠真は急かさなかった。
「……友達、でいいんですかね?」
言った。
思っていたより小さな声だった。
悠真が目を瞬く。
「友達?」
「はい」
「俺はそう思ってた」
「……本当ですか?」
「うん」
あまりにも普通に返ってきた。
彩花は少しだけ肩の力が抜ける。
「よかった」
「何で?」
「この前、学校で聞かれたんです。借りてる本は誰からかって」
「うん」
「それで最初『知り合い』って答えたら、何か違う気がして」
悠真は黙って聞いている。
「だから友達かなって思ったんですけど、九条君が違うと思ってたら勝手かなって」
「勝手じゃないよ」
「そうですか?」
「俺もこの前、友達かって聞かれた」
彩花が目を丸くする。
「誰に?」
「妹の友達」
「何て答えたんですか?」
「友達だと思うって」
「……同じだ」
「同じ?」
「私も『友達だと思う』って言いました」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
気まずくはなかった。
むしろ少しおかしくなって、彩花が先に笑った。
「何ですか、これ」
「俺も分からない」
「お互い別の場所で同じこと聞かれて、同じ答えしてたんですね」
「そうみたい」
「じゃあ」
彩花は少しだけ姿勢を正す。
冗談めかしているのに、どこか照れくさい。
「改めて、友達ってことで」
「うん」
悠真も笑う。
「よろしく、水瀬さん」
「よろしくお願いします、九条君」
名字で呼び合う。
今までと何も変わらない。
連絡先も知らない。
学校も違う。
会う場所も、ほとんどこの図書館だ。
それでも一つだけ、今まで曖昧だったものに名前がついた。
友達。
彩花はその言葉を、思っていたより素直に嬉しいと思った。
「そうだ」
少し歩いてから、悠真が言う。
「友達なら一個聞いていい?」
「何ですか?」
「田辺君って、よく水瀬さんのお菓子食べるの?」
「まだ気にしてたんですか?」
「いや、昨日妹と犬の話してたら思い出して」
「どういう流れですか、それ」
「説明すると長い」
「じゃあいいです」
彩花は笑いながら鞄を開く。
「田辺君のことより、こっち」
「何?」
小さな袋を取り出す。
「レモンケーキ作りました」
悠真の目が少し大きくなる。
「俺に?」
「余ったので」
「……余った?」
「何ですか、その顔」
「いや」
「本当に余ったんです」
「うん」
「家族と学校の分作って、その余り」
「分かった」
「何で笑ってるんですか」
「嬉しいから」
彩花の手が止まる。
「そういうの」
「一個ずつ」
「……覚えてる」
「約束したから」
「約束まではしてません」
「じゃあ気をつけるって言ったから」
悠真は袋を両手で受け取った。
「ありがとう」
「今日中に食べてくださいね」
「分かった」
「クッキーみたいに一時間眺めないでください」
「もうそれ忘れてくれない?」
「お姉ちゃんから聞いちゃったので無理です」
「水瀬先輩……」
悠真が小さく息を吐く。
彩花は楽しそうに笑った。
その声が静かな館内に大きく響かないよう、途中で慌てて口元を押さえる。
「すみません」
「俺に?」
「図書館に」
「なるほど」
「九条君には謝りません」
「友達になった途端に厳しくない?」
「前からです」
「確かに」
二人はまた笑う。
それから、いつもの窓際へ向かった。
今日はまず本の感想を話す。
そのあと、互いに持ってきた本を交換する。
時間があれば少し読む。
特別な予定はない。
けれど、それで十分だった。
窓の外では、雲の切れ間から柔らかな光が差し始めていた。
彩花は席へ座る前、鞄から悠真に借りた本を取り出す。
表紙を一度撫でてから、両手で差し出した。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「大事な本、貸してくれて」
「水瀬さんに読んでもらえてよかった」
悠真も両手で受け取る。
初めて会った日。
高い棚から取ってくれた一冊を、悠真は同じように両手で渡してくれた。
あのときは、名前も知らなかった。
今は知っている。
好きな本も少し知っている。
家族のことも少し。
学校でどんなことをしているのかも。
そして今日、一つだけ増えた。
友達。
「九条君」
「何?」
「四章、好きでした?」
悠真の目が少し大きくなった。
「……何で分かったの?」
「やっぱり」
「待って。本当に何で?」
「読みながら、九条君好きそうだなって思ったんです」
「俺が?」
「はい」
「どこで?」
「それを今から話します」
彩花は椅子を引いた。
悠真も向かいへ座る。
机の上には返ってきた本と、新しく交換する二冊。
その横には、彩花が作った小さなレモンケーキの袋。
まだ名字で呼び合う二人の間に、劇的な変化は何もない。
けれど彩花は、もう悠真の好きそうな物語を考えながら本を読んでいる。
悠真もまた、彩花ならどう読むだろうと思いながら本を選んでいる。
「じゃあ、四章から」
彩花が楽しそうに本を開いた。
「うん」
悠真はその言葉を待つように、少し身を乗り出した。
窓の外では、雨上がりの紫陽花から最後の雫が落ちた。




