第11話 同じ名字の向こう側
六月半ばの火曜日、私立桜華学園高等部では、昼休みを告げるチャイムが鳴るより少し前から雨が降り始めていた。
朝の予報では夕方からとなっていたはずなのに、三時間目が終わる頃には空がすっかり暗くなり、昼前には校舎の大きな窓へ細かな雨粒が斜めに流れている。中庭の石畳は薄く濡れ、昼食のため外へ出ようとしていた生徒たちも、今日は校舎内で過ごすことを早々に決めたらしい。
普段より人の多い廊下を、九条悠真は数枚の書類を抱えて歩いていた。
午前中、担当教員から生徒会へ追加の確認事項が届いた。昼休みのうちに各部へ確認しておけば放課後の作業が減るため、悠真は自分から書類を受け取って回っている。
「九条君、昼休みまで仕事?」
すれ違った同じ一年の女子生徒に声をかけられ、悠真は足を止めた。
「少しだけ。すぐ終わるよ」
「大変だね」
「これくらいなら」
「ちゃんとお昼食べなよ?」
「ありがとう。そうする」
軽く会釈をして通り過ぎる。
数歩進んだところで、背後から女子生徒たちの声が小さく聞こえた。
「やっぱり九条君って感じいいよね」
「分かる。あれで生徒会までちゃんとやってるのずるい」
聞こえなかったことにする。
こうした反応には慣れていた。
九条という名字だけで注目されることも、入学前から知っている相手が多いことも、この学園では珍しくない。小等部から通っていれば、家同士の付き合いで幼い頃から顔を合わせている生徒もいる。
だから、自分について噂されること自体は気にならなかった。
ただ。
『九条君、モテそうですもんね』
日曜日に彩花から言われた言葉だけは、妙に鮮明に思い出せた。
悠真は歩きながら小さく息を吐く。
(本当に何とも思ってなかったな)
感心するくらいだった。
告白されたことがあると答えても、彩花は「へえ」と頷いただけだった。
不機嫌にもならない。
気にする様子もない。
質問したのも、自分が学校でどんなふうに過ごしているのか知りたかったからだろう。
それはそれで嬉しい。
ただ、ほんの少しくらい何かあってもよかったのではないかとも思う。
(……何を期待してたんだ、俺は)
そこから先は考えなかった。
彩花に恋愛感情がないことは分かっている。
少なくとも今は。
それを不満に思って距離を詰めるようなことはしたくない。
今の関係は楽しい。
なら、まずはそれでいい。
悠真は角を曲がり、階段へ向かった。
二階から三階へ上がったところで、前方に人だかりができていた。
十人ほどの生徒が廊下の一角へ集まり、その中心で一年生らしい男子生徒が床へしゃがみ込んでいる。周囲には大量の紙が散らばり、開いたファイルやクリアケースまで落ちていた。
「大丈夫?」
「す、すみません……!」
男子生徒は真っ赤になって紙を拾っている。
どうやら階段を上がったところで誰かとぶつかり、抱えていた資料をすべて落としたらしい。
通行する生徒が避けるたび、床に広がった紙が靴や風で動く。
悠真は抱えていた書類を窓際の棚へ置いた。
「踏まれる前に端から集めよう」
「あ、九条君……」
「順番はあとで戻せる。今は紙を避ける方が先」
「う、うん」
近くにいた生徒たちも手伝い始める。
「こっちにもあるよ」
「これ同じ資料かな?」
「表紙どれ?」
「青い紙です!」
悠真は床へ膝をつき、紙を拾った。
ページ番号が振られている。
「番号あるから大丈夫。集めてから並べれば戻せる」
「本当だ」
「九条、こっちも」
「ありがとう。そこへ重ねて」
人の流れが滞らないよう、壁側へ資料を寄せる。
数分もしないうちに散らばっていた紙はすべて集まった。
「すみません、本当に……」
男子生徒が何度も頭を下げる。
「俺に謝らなくていいよ。ぶつかった相手は?」
「向こうも急いでて……俺も前見てなかったから」
「怪我は?」
「ないです」
「ならよかった」
悠真は集めた資料を受け取り、ページ番号を確認する。
「これ、どこへ持っていくの?」
「進路指導室です」
「同じ階だな。途中まで持つよ」
「え、でも九条君も仕事が」
「俺のもこの先だから」
半分ほど資料を受け取る。
男子生徒が恐縮しながらも頭を下げた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
人だかりがほどけていく。
悠真は自分の書類も取り、男子生徒と歩き始めた。
その様子を、廊下の反対側から見ていた二人がいた。
「……へえ」
橘千尋が短く声を漏らした。
隣では水瀬凛花が、悠真たちの背中を見ている。
二人は購買から教室へ戻る途中だった。
凛花の手にはサンドイッチと小さな紙パックの紅茶。千尋はパンを二つ抱えている。
「何?」
凛花が視線を戻す。
「いや。ちゃんとしてるなと思って」
「九条君?」
「そう」
千尋は人が減った廊下を歩き出す。
「もっと御曹司っぽい人かと思ってた」
「どういう意味よ」
「困ってる人がいても、周りが勝手に助けるタイプ」
「偏見じゃない?」
「偏見だよ」
悪びれずに答える。
凛花も歩き出した。
窓の向こうでは雨脚が少し強くなり、校舎の軒先から細い水の筋が落ちている。
「でも、評判いい理由は分かるかも」
「……そうね」
凛花も否定しなかった。
悠真について調べたわけではない。
ただ同じ学校にいれば、名前くらいは自然と耳に入る。
九条家の長男。
内部進学。
成績上位。
一年生ながら生徒会役員。
教師からの信頼も厚く、同級生にも上級生にも態度を変えない。
女子生徒から人気がある。
少なくとも、悪い噂は聞かない。
そして今見た行動も、周囲の目を意識して行ったようには見えなかった。
「凛花」
「何?」
「顔怖い」
「普通だけど」
「妹に近づく男を査定する姉の顔してる」
「してない」
「してる」
千尋は笑った。
「最近、九条君のこと気にしすぎじゃない?」
「彩花が関わってるから」
「それを気にしてるって言うんだけど」
「違うわ」
「何が?」
「彩花が男の人と親しくなること自体を嫌がってるわけじゃない」
凛花は少しだけ声を落とした。
近くを歩く生徒たちがいる。
聞かせる話ではない。
「相手がちゃんとした人なら、私が口を出すことじゃないと思ってる」
「ほう」
「何よ」
「成長したね」
「何目線?」
「幼稚園から娘を見守ってきた母親」
「気持ち悪い」
「親友にそれ言う?」
千尋が笑う。
凛花も僅かに口元を緩めた。
けれどすぐに、先ほど悠真が消えた廊下の先へ視線を向ける。
「ただ……彩花は」
そこで言葉が止まる。
「うん」
「自分のことになると、変なところで引くから」
千尋の表情から笑いが薄れた。
凛花が何を言っているのか分かっている。
昔からそうだった。
姉が褒められる。
その隣で彩花も笑う。
誰かが悪意なく「お姉ちゃんみたいになれるといいね」と言う。
彩花は「うん」と答える。
そして、少しずつ自分を後ろへ下げる癖がついた。
「九条君が悪い人かどうかだけじゃないのね」
「うん」
凛花は紙パックの角を指でなぞった。
「相手がどれだけいい人でも、彩花が勝手に『私じゃ釣り合わない』って思ったら意味ないから」
「……ありそう」
「でしょう?」
「かなり」
千尋はため息をついた。
「というか、もう思ってそう」
「まだそこまでじゃないと思う」
「恋愛として?」
「たぶん」
凛花は少し考える。
最近の彩花は、悠真の話をよくする。
本。
図書館。
雨の日の傘。
学校。
貸し借り。
それでも「好き」という空気ではない。
むしろ本人は、悠真との時間が増えていることを驚くほど自然に受け入れている。
「彩花の方は、まだ九条君を『すごく話しやすい人』くらいに思ってるんじゃないかな」
「じゃあ九条君は?」
「…………」
「その間、何?」
「知らない」
「凛花」
「知らないって」
「知ってる顔してる」
「本人じゃないんだから分からないわよ」
千尋は横目で親友を見る。
凛花の歩調がほんの少し速くなっている。
「で?」
「何?」
「この前の日曜は?」
「何が」
「彩花ちゃんと九条君」
「……会ったみたい」
「やっぱり」
「本の貸し借りしたって」
「おお」
「あと、彩花がパウンドケーキ渡した」
千尋が足を止めた。
凛花は二歩進んでから振り返る。
「何?」
「待って」
「何よ」
「手作り?」
「家で作った栗のパウンドケーキ」
「九条君に?」
「余った分」
「本当に?」
「……たぶん」
千尋の口元がゆっくり上がる。
「へえ」
「その顔やめて」
「いやいや。いいじゃん」
「何が」
「彩花ちゃん、順調に距離縮まってるなって」
「別に九条君のために作ったわけじゃない」
「それ本人が言った?」
「言ってた」
「じゃあ余ったから?」
「……日曜に持っていく分として別に包んでた」
「九条君用じゃん」
「うるさい」
「凛花」
「何」
「耳赤いよ」
「私が赤くなる意味ないでしょう!」
思わず声が大きくなり、近くを歩いていた一年生が驚いて振り返った。
凛花は咳払いをして声を落とす。
「……彩花が変な男に引っかからないか心配なだけ」
「今見た感じ、変な男ではなさそうだけど」
「それは認める」
「認めるんだ」
「事実は事実でしょう」
凛花は教室へ向かって歩き出す。
千尋が隣へ並ぶ。
「だったら何が問題?」
「問題とは言ってない」
「じゃあ何で見張ってるの?」
「見張ってない」
「観察?」
「それも違う」
「監視?」
「悪化してる」
千尋は肩を揺らして笑った。
「まあ、いいけど」
「何が」
「凛花が本気で嫌ってるわけじゃないなら」
その言葉に、凛花は少し黙った。
嫌ってはいない。
むしろ今のところ、悠真に対する評価は悪くなかった。
彩花が傘を忘れたとき、家まで送ると押し切らず、コンビニまでという選択肢を出した。
本を貸し借りするようになっても、彩花が嫌がっている様子はない。
学校で見ても、他人へ横柄な態度を取るような人間ではなかった。
だからこそ、少し困る。
(……ちゃんとした人なのよね)
もっと分かりやすく問題があれば、姉として止めやすい。
けれど悠真がまともで、彩花も楽しそうなら、凛花が口を挟む理由はない。
「難しい顔してる」
「してない」
「してるって」
「千尋」
「はい」
「昼ご飯、教室戻ったら一口ちょうだい」
「話逸らしたうえに私のパン取るの?」
「クリームパン」
「嫌だよ」
「一口」
「自分で買えばよかったじゃん」
「迷ったの」
「彩花ちゃんみたい」
凛花の足が止まった。
「……何?」
「飲み物とかお菓子選ぶとき、彩花ちゃん結構迷うじゃん」
「可愛いでしょう」
「急に顔変わるな」
「だって彩花の話だから」
「はいはい」
千尋は呆れながら歩き出す。
凛花も追う。
妹を心配する姉。
普段は隠しているつもりなのに、千尋の前ではほとんど隠せていなかった。
その日の放課後。
雨はまだ止んでいなかった。
生徒会室の窓は灰色に染まり、ガラスへ当たる雨音が一定のリズムを作っている。室内では数人の役員が資料を確認し、プリンターの作動音と紙をめくる音が静かに重なっていた。
悠真は午前中に集めた確認事項を一覧へ反映していた。
「九条、体育館使用の方終わった?」
「今まとめてる。あと五分くらい」
「じゃあ終わったらこっちも見て」
「分かりました」
先輩から渡された付箋を机へ置く。
キーボードを打つ。
重複していた備品。
使用時間。
保管場所。
必要数。
順番に整理していく。
こういう作業は嫌いではない。
情報が散らばっている状態から、必要なものだけを拾い、誰が見ても分かる形へ整える。
それだけなら得意だった。
「九条」
隣から湊の声がした。
「今度は何?」
「何で最初から面倒くさそうなんだよ」
「お前が仕事中に話しかけるから」
「休憩の提案」
「あと三分」
「きっちりしてんな」
湊は諦めて自分の椅子へ戻った。
本当に三分ほどして、悠真はファイルを保存する。
「終わった」
「早」
「休憩するんだろ」
「おう」
二人は生徒会室の後ろにある小さな休憩スペースへ移った。
悠真が自動販売機で水を買う。
湊は缶のカフェオレ。
「そういや」
プルタブを開けながら湊が言った。
「昼に水瀬先輩見たぞ」
悠真の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……どこで?」
「食いつくなあ」
「水瀬さんのお姉さんだから」
「分かってるよ。三階」
「俺も昼は三階にいた」
「そうなの?」
「書類届けてた」
「じゃあすれ違ってたかもな」
悠真はペットボトルの蓋を開ける。
水瀬凛花。
彩花の姉。
同じ学校にいる以上、会うこと自体は珍しくない。
以前、彩花について短く話したこともある。
それでも「水瀬先輩」と聞くと、以前より意識が向くようになっていた。
「何か話した?」
「俺が?」
「ああ」
「話すわけないだろ。向こう二年だぞ」
「そうか」
「何だよ」
「いや」
「気になる?」
「多少」
「姉に認められたいとか?」
「……認められるって何を?」
「それは俺が聞きたい」
湊が笑う。
悠真は少し考えた。
「嫌われたくはない」
「もう家族まで?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「水瀬さんが大事にしてる人だから」
湊が口を閉じた。
悠真は水を一口飲む。
「水瀬さん、お姉さんの話よくするだろ」
「そうなの?」
「うん。料理できないとか」
「そこ?」
「それだけじゃないけど」
「九条」
「何?」
「お前、水瀬さんから姉の料理下手情報を仕入れてんの?」
「本人にもスクランブルエッグの話した」
「本人に!?」
「怒られた」
「当たり前だろ」
湊は笑いを堪えられなかった。
休憩スペースにいた三年生がちらりとこちらを見る。
湊は声を抑える。
「お前、よく水瀬先輩相手にそれ言えるな」
「知らなかったから」
「何を?」
「水瀬さんのお姉さんだって」
「最悪のタイミングじゃん」
「後から分かった」
「で、今も生きてると」
「普通に話せる」
「水瀬先輩、優しいな」
「だと思う」
悠真は素直に頷いた。
凛花が彩花を大切にしていることは、少し話しただけでも分かる。
彩花自身も姉を嫌ってはいない。
むしろ好きなのだろう。
尊敬している。
自慢にも思っている。
ただ、時折。
姉の話をするときだけ、彩花の笑顔の奥に何かが混じる。
ほんの少し。
言葉にできないほど小さなもの。
「九条?」
「何?」
「急に黙るなよ」
「ちょっと考えてた」
「水瀬さん?」
「ああ」
「即答するようになったな」
「もうそこはいいだろ」
「俺もそう思う」
湊はカフェオレを飲む。
「日曜はまた図書館?」
「たぶん」
「たぶん?」
「行くつもりではいる」
「水瀬さんも?」
「来ると思う」
「約束した?」
「してない」
「連絡先は?」
「知らない」
「……それで来ると思うの?」
「先週、また来週って言ったから」
湊がしばらく黙った。
「それ約束じゃないの?」
「時間決めてない」
「でも来週会う前提だろ?」
「まあ」
「じゃあ約束だろ」
「そうなのか?」
「俺に聞くな」
悠真は考える。
正式に待ち合わせたわけではない。
何時に行くとも言っていない。
それでも「また来週」と言い、彩花も「はい」と答えた。
(……約束)
その言葉にすると、少しだけ意味が変わる。
偶然ではない。
ただ習慣が重なっているだけでもない。
互いに、来週も会うつもりで別れた。
「何か嬉しそうだな」
「そうか?」
「今、口元ちょっと緩んだ」
「……気のせい」
「そこはまだ隠すのかよ」
「全部言う必要ないだろ」
「それもそうだな」
湊は笑った。
以前ならここからさらに追及していただろう。
今はやめる。
悠真自身が、少しずつ自分の感情へ追いついている。
外から名前をつける必要はない。
休憩を終え、生徒会室へ戻ってしばらくした頃だった。
扉が二度ノックされた。
「失礼します」
聞き覚えのある声。
悠真が顔を上げる。
扉の前に凛花が立っていた。
その隣には千尋もいる。
「剣道部の申請書を持ってきました」
「ああ、水瀬さん。ありがとう」
三年生の役員が応対する。
凛花は書類を渡し、いくつか確認事項を聞いている。
悠真は自分の作業へ戻ろうとした。
けれど、少しだけ意識が向く。
(……水瀬さんのお姉さん)
同じ名字。
当然なのに、頭の中でそう結びつく。
横顔は彩花とあまり似ていない。
凛花は輪郭がすっきりしていて、立っているだけでも姿勢がいい。剣道部で鍛えているからなのか、動きにも迷いがなく、周囲から見れば「何でもできる人」という印象を持つのも分かる。
彩花が何度か言っていた。
『お姉ちゃんは何でもできるから』
その声を思い出す。
自慢するようでいて、ほんの少しだけ遠い。
「九条」
「ん?」
湊が小声で呼ぶ。
「見すぎ」
「見てない」
「見てる」
「水瀬さんのお姉さんだから」
「はいはい」
悠真は資料へ視線を戻した。
申請書の確認が終わる。
「ありがとうございます」
「いえ。追加で何かあれば剣道場へ連絡してください」
凛花が頭を下げる。
そのまま千尋と出ていくかと思った。
けれど扉へ向かう途中で足を止めた。
「九条君」
生徒会室の中で、数人が顔を上げた。
「はい」
悠真も立ち上がる。
凛花は少しだけ周囲を見た。
「少しいい?」
「大丈夫です」
何の話か。
悠真には何となく分かった。
凛花は廊下を示す。
「外で」
「はい」
湊の視線が背中へ刺さる。
絶対に面白がっている。
悠真は無視して、生徒会室を出た。
廊下にはまだ雨音が響いていた。
放課後なので生徒はいるが、昼休みほど多くない。部活へ向かう生徒が時折通り過ぎ、そのたびに凛花へ「お疲れさまです」と声をかけていく。
千尋は少し離れた窓際で待っていた。
凛花は悠真と向き合う。
「急にごめんなさい」
「いえ」
「この前のこと、ちゃんとお礼言ってなかったから」
「この前?」
「雨の日。彩花」
「ああ」
悠真はすぐに分かった。
「コンビニまで傘に入れただけです」
「それでも。ありがとう」
凛花は頭を下げた。
「妹、結構うっかりしてるところあるから」
「傘、家に置いてきたって言ってました」
「朝、お母さんに絶対持っていけって言われてたのに」
「そうだったんですか」
「帰ってから怒られてた」
「……それは言わない方がいいですね」
「何を?」
「水瀬さんが『九条君が言ったから』って怒りそうなので」
凛花が少し目を瞬いた。
それから、ほんの少し笑う。
「分かってきたのね、彩花のこと」
「少しは」
「そう」
短い返事。
けれど、その言葉をどう受け取るべきか、悠真には分からなかった。
雨が窓を打つ。
遠くで運動部の掛け声が響く。
屋外練習ができない部が廊下で基礎運動をしているらしく、時折スニーカーが床を擦る音も聞こえた。
「九条君」
「はい」
「彩花、最近楽しそうなの」
予想していなかった言葉だった。
「……そうですか?」
「うん」
凛花は窓の外を見る。
「本の話をする相手ができたって」
悠真の胸の奥が、静かに温かくなる。
彩花本人から「楽しい」と言われるのも嬉しい。
けれど、家で姉にもそんなふうに話していると知るのは、少し違った。
「俺も楽しいです」
考える前に答えていた。
凛花がこちらを見る。
「そう」
「はい」
「……九条君」
「何ですか?」
「正直ね」
「嘘つく理由がないので」
「そういうところ、ちょっと彩花と似てるかも」
「水瀬さんと?」
「変なところで正直」
「褒められてます?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「心配」
「俺が?」
「二人とも」
悠真は少し笑った。
「何となく分かります」
「分かるの?」
「水瀬さんも、思ったことそのまま言うことありますから」
「例えば?」
「俺のこと、ちょっと変わってるって」
「……それはごめんなさい」
「何で水瀬先輩が謝るんですか」
「姉だから?」
「本人は悪口のつもりじゃなかったと思います」
「ならいいけど」
凛花の表情が少し柔らかくなる。
千尋は少し離れた場所から二人を見ていた。
(普通に話してるじゃん)
もっと緊張感のある会話になるかと思っていた。
妹を溺愛する凛花。
その妹と毎週のように図書館で会っている男子。
条件だけ聞けば、もう少し殺伐としてもおかしくない。
けれど実際には、凛花も悠真も落ち着いている。
それどころか。
(凛花、結構気に入ってない?)
少なくとも嫌ってはいない。
千尋は口元を緩める。
面白い。
かなり面白い。
ただ、今割り込めば確実に凛花に怒られるので、黙っておく。
「そういえば」
凛花が言った。
「パウンドケーキ、どうだった?」
「美味しかったです」
悠真の返事は早かった。
「家族にも好評でした」
「家族で食べたの?」
「はい」
「……そう」
凛花は少しだけ驚いた。
彩花が作ったものが九条家の食卓へ上がった。
ただのお裾分け。
それ以上ではない。
分かっている。
それでも、想像すると妙な感じがした。
「彩花、料理は得意なの」
「聞いてます」
「お菓子もよく作るし」
「マドレーヌも美味しかったです」
「……マドレーヌ?」
凛花の眉が僅かに動いた。
悠真は止まる。
「あ」
「初耳なんだけど」
「前に一度」
「いつ?」
「お祖父さんの本のお礼に」
「ああ……」
凛花は思い出した。
彩花が以前、図書館で知り合った人へ何かお礼をすると言っていた気がする。
それが悠真だったらしい。
「そういうこと」
「はい」
「ならいいけど」
「何がですか?」
「何でもない」
悠真は少し不思議そうにする。
凛花は話を戻した。
「パウンドケーキ、美味しかったって本人に言ってあげて」
「もちろん」
「彩花、ああいうの結構気にするから」
「分かりました」
「初めて作るものだと、家族が美味しいって言っても『家族だからじゃない?』って疑うし」
悠真は少し笑った。
「水瀬さんらしいですね」
「そう?」
「褒めても、すぐ全部受け取らないところ」
凛花の表情が止まった。
悠真はそれに気づく。
「……すみません」
「何で謝るの?」
「何か変なこと言いました?」
「違う」
凛花は一度視線を落とした。
廊下の窓枠へ雨粒が弾ける。
「気づいてるんだと思って」
「何をですか?」
「彩花が、自分のことあんまり高く評価しないの」
悠真はすぐには答えなかった。
知っている、とは言えない。
彩花本人から詳しく聞いたわけではない。
ただ、本の話をしているとき。
姉の話をするとき。
自分の得意なことを「普通」と言うとき。
何度か感じた。
「少しだけ」
悠真は慎重に答えた。
「そういうところあるのかな、とは思ってました」
「やっぱり」
「でも理由までは知りません」
「それでいい」
凛花は顔を上げる。
「私から話すことじゃないから」
「はい」
悠真はそれ以上聞かなかった。
凛花はその反応を見ていた。
「聞かないのね」
「水瀬さんが話したいなら本人から聞きたいです」
「……そう」
「嫌なことなら、聞かなくてもいいと思ってます」
凛花は黙った。
予想していた答えではなかった。
もっと知りたい。
そう思っているなら、家族から情報を得ようとする人もいる。
悪意がなくても。
好きな相手について知りたいという気持ちが先に立てば、本人の知らないところで話を聞くこともあるだろう。
けれど悠真は、そこで止まった。
本人が話したいなら。
本人から。
(……そういう人なのね)
雨の日も同じだった。
家まで送るのではなく、コンビニまで。
彩花が断りやすい距離を最初から提示した。
今も、知りたいことを無理に聞かない。
凛花は胸の中で、小さく息を吐いた。
「九条君」
「はい」
「一つだけ」
「何ですか?」
「彩花は、私じゃないから」
悠真は瞬きをした。
意味を測る。
凛花は続ける。
「学校も違うし、得意なことも違う。性格も違う」
「はい」
「だから……」
言葉を選ぶ。
こんなことを言う必要があるのか。
まだ二人は付き合っているわけでもない。
彩花自身、恋愛として悠真を見ているかすら分からない。
それでも。
「私と比べないであげて」
凛花は静かに言った。
悠真の表情が変わる。
驚いたような。
少し困ったような。
そして、すぐに真面目になる。
「比べたことないです」
凛花が目を上げる。
「一度も?」
「はい」
「本当に?」
「水瀬先輩と水瀬さんは別の人なので」
あまりにも当たり前のように答えた。
凛花は言葉を失う。
悠真は少しだけ首を傾げた。
「それに」
「……何?」
「俺が知りたいのは、水瀬さんのことです」
雨音の向こうで、誰かの足音が遠ざかっていく。
凛花は何も言わなかった。
悠真も続けなかった。
言った本人は、それがどれほど凛花の胸へ刺さったのか分かっていない。
比べない。
別の人。
知りたいのは彩花。
凛花がずっと、周囲へそうしてほしいと思っていたことだった。
自分が優秀だと言われるたび、その横で彩花が小さくなっていく。
親戚に悪意はなかった。
両親にもなかった。
誰も彩花を嫌っていなかった。
それでも比較は残った。
だから凛花は、時々考える。
自分が姉でなければ。
もう少し普通だったら。
彩花は自分を「普通」と言わずに済んだのだろうか。
「……そう」
やっと、それだけ答えた。
「変でした?」
「ううん」
凛花は首を振る。
「ありがとう」
「何がですか?」
「今の答え」
悠真には完全には分からない。
けれど、凛花が冗談で言っているのではないことは分かった。
「俺は、本当にそう思ってます」
「うん」
「水瀬さんは水瀬さんです」
凛花は小さく笑った。
「それ、本人にも言ってあげて」
「機会があれば」
「今すぐ言うと、たぶん『何の話?』ってなるから」
「なりそうですね」
二人とも少し笑う。
張り詰めていたものが、ほんの少し緩んだ。
「凛花」
少し離れたところから千尋が呼ぶ。
「そろそろ剣道部」
「あ」
時計を見る。
「ごめん、九条君。長くなった」
「大丈夫です」
「仕事中だったでしょう?」
「少しくらいなら」
「じゃあ戻って」
「はい」
凛花は一度歩き出す。
けれど数歩進んでから振り返った。
「九条君」
「はい?」
「パウンドケーキの感想」
「ちゃんと言います」
「よろしく」
今度こそ千尋の方へ向かう。
悠真はその背中をしばらく見送ってから、生徒会室へ戻った。
扉を開ける。
数人が作業を続けている。
湊も机へ向かっていた。
悠真が座る。
「何?」
湊が顔を上げる。
「何が?」
「水瀬先輩」
「少し話した」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞くな」
「内容」
「言わない」
「何で?」
「水瀬さんのことだから」
「なるほど」
湊は意外にもあっさり引いた。
「分かった」
「聞かないの?」
「お前がそう言うなら」
「……ありがとう」
「気持ち悪」
「何でだよ」
「素直に礼言うから」
「お前も琴葉みたいになってきたな」
「誰?」
「妹」
「俺、九条妹と同類扱い?」
「会ったら気が合うかもな」
「絶対嫌だ」
悠真は少し笑い、パソコンへ向き直った。
けれどすぐには作業を再開しなかった。
『彩花は、私じゃないから』
凛花の言葉が残っている。
当たり前だと思った。
彩花と凛花は別人だ。
比較する理由がない。
けれど凛花は、わざわざそれを言った。
そこには何か理由がある。
それを今、自分が知る必要はない。
いつか彩花が話したいと思ったら聞けばいい。
話したくないなら、それでもいい。
ただ。
(俺が知りたいのは、水瀬さんなんだよな)
口にしてから、その言葉が自分の中へ少し深く残った。
本が好き。
料理が好き。
お菓子を作る。
飲み物を選ぶのに迷う。
傘を忘れる。
本が濡れることを自分より心配する。
笑うと目元が柔らかくなる。
褒めると困る。
自分のことを普通だと言う。
姉を尊敬している。
そして、時々その姉を見上げるような言い方をする。
知っていることは増えた。
それでもまだ、知らないことの方がずっと多い。
そのことが嫌ではなかった。
むしろ、これから少しずつ知っていけることが嬉しい。
悠真はようやくキーボードへ手を戻した。
一方、剣道場へ向かう渡り廊下で、千尋はずっと黙っていた。
凛花がちらりと見る。
「何?」
「別に」
「絶対何かあるでしょう」
「いやあ」
「何よ」
「九条君、いい子だね」
「……そうね」
千尋が足を止めかけた。
「認めた」
「何を?」
「今、普通に認めたよね」
「だって悪い人ではないでしょう」
「評価上がってる」
「事実を言っただけ」
「へえ」
「その顔やめて」
雨の渡り廊下には、湿った風が入り込んでくる。
剣道場からは竹刀が打ち合う乾いた音が聞こえていた。
「で?」
千尋が再び歩き出す。
「何話してたの?」
「彩花のこと」
「それは見れば分かる」
「九条君も同じこと言ってた」
「何が?」
「何でもない」
「気になる」
「言わない」
「何で?」
「彩花のことだから」
今度は千尋が黙った。
少しして、笑う。
「似てるじゃん」
「誰と誰が?」
「凛花と九条君」
「どこが」
「彩花ちゃんのことになると口が堅いところ」
「……嫌な共通点」
「でもあるよ」
凛花は返事をしなかった。
剣道場の入口へ着く。
靴を脱ぐ前に、凛花は一度だけ雨の向こうの校舎を振り返った。
悠真がいる生徒会室は見えない。
それでも、さっきの言葉はまだ耳に残っている。
『俺が知りたいのは、水瀬さんのことです』
「…………」
「凛花?」
「何でもない」
凛花は前を向く。
嬉しかった。
そのことを認めるのは少し癪だった。
悠真が彩花を特別に思っているらしいことを歓迎するかどうかは、まだ別の話だ。
姉として警戒する気持ちも消えていない。
彩花が傷つく可能性があるなら、相手が誰であろうと黙っているつもりはない。
けれど。
(少なくとも、彩花を私の妹としてしか見てない人じゃない)
そこだけは、信じてもいいのかもしれない。
凛花は竹刀袋を持ち直し、道場へ入った。
翌日の水曜日。
青葉高校の放課後。
文芸部室では、彩花が机の上へ原稿用紙を広げていた。
文化祭用の部誌に載せる短編。
まだ題材は決まっていない。
窓の外では昨日から続いた雨がようやく上がり、雲の切れ間から薄い光が差し込んでいる。濡れた校庭では野球部員がグラウンド整備を始め、遠くからトンボを引く音と声が聞こえてきた。
「うーん……」
彩花はシャープペンシルを指の間で回す。
書きたいものがないわけではない。
むしろいくつかある。
けれど、一つに決められない。
「水瀬、まだ決まんねえの?」
入口から大地が顔を出した。
「田辺君、最近ここ来すぎじゃない?」
「友達待ってんの」
「毎回そう言うよね」
「本当だって」
「文芸部入れば?」
「本読むの?」
「読む部活ではあるけど、それだけじゃないよ」
「じゃあお菓子出る?」
「出ない」
「ならいいや」
「帰って」
部員たちが笑う。
大地は気にせず部室へ入ってきた。
「何書くの?」
「まだ決めてない」
「恋愛もの」
「何で決めるの」
「女子高生が書くなら恋愛だろ」
「偏見」
「じゃあミステリー」
「急に振り幅大きいね」
「殺人事件」
「文化祭の部誌だよ?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど、私が書ける気しない」
彩花は苦笑し、原稿用紙を見る。
「普通の話がいいかな」
「普通?」
「大きな事件が起きないやつ」
「面白いの?」
「面白くできたら」
「例えば?」
大地に聞かれ、彩花は少し考える。
「……誰かと知り合って、その人と少しずつ話すことが増えるとか」
「恋愛じゃん」
「何で!?」
即座に顔を上げる。
大地は驚いた。
「いや、今の言い方だとそうじゃね?」
「友達でもあるでしょ」
「まああるけど」
「だったら決めつけないで」
「何でそんな必死なんだよ」
「必死じゃない!」
また部室で笑いが起きる。
彩花は少し赤くなりながら原稿用紙へ視線を戻した。
(……九条君のせいだ)
日曜日に可愛いと言われてから、「恋愛」という言葉へ少しだけ反応しやすくなっている。
だからといって、自分と悠真を恋愛として考えているわけではない。
ただ、あの言葉を思い出す。
それだけ。
「水瀬?」
「何?」
「またぼーっとしてる」
「してない」
「してる」
「田辺君、友達待ってるなら廊下で待ってて」
「追い出された」
「最初から部員じゃないでしょ」
大地は笑いながら出ていった。
彩花は小さく息を吐く。
机の端には、悠真から借りた本がある。
日曜日から少しずつ読み進め、もう半分ほどまで来ていた。
面白い。
主人公の考え方について、悠真と話してみたいところもいくつかある。
付箋を貼るほどではない。
でも頭の中には残っている。
(九条君はここ、どう思ったんだろ)
以前なら、同じ本を読んだ相手と感想を話したいと思うだけだった。
今は少し違う。
九条悠真ならどう読むのか。
そこが知りたい。
相手が誰でもいいわけではなくなっている。
彩花はまだ、その変化を特別なものだとは思わなかった。
ただ、話したい相手の顔が具体的になっただけ。
そう考えている。
部活が終わり、彩花が家へ帰ったのは午後六時前だった。
玄関には凛花の靴がある。
「ただいま」
「おかえり」
リビングから紗月の声。
続いて凛花も顔を出した。
「おかえり、彩花」
「お姉ちゃん今日早いね」
「自主練なしの日」
「そっか」
彩花は靴を脱ぎ、リビングへ入る。
テーブルには買ってきたらしいシュークリームが並んでいた。
「これ食べていい?」
「手洗ってからね」
「はーい」
洗面所へ向かう。
戻ってくると、凛花が紅茶を用意していた。
「珍しい」
「何が?」
「お姉ちゃんが淹れてる」
「紅茶くらいできるわよ」
「料理じゃないもんね」
「彩花」
「ごめんなさい」
笑いながら座る。
凛花も向かいへ座った。
紗月は夕食の準備へ戻っている。
「学校どうだった?」
「普通」
「文芸部は?」
「文化祭の部誌、そろそろ書くもの決めないと」
「何書くの?」
「まだ決めてない」
「彩花なら日常ものとか向いてそう」
「私もそれ考えてた」
「そう?」
「大きい事件より、人がちょっとずつ仲良くなる話とか」
凛花が紅茶へ伸ばした手を止めた。
「……へえ」
「何?」
「何でもない」
「今絶対何か思った」
「思ってない」
「お姉ちゃん最近それ多いよ」
彩花がシュークリームを一口食べる。
「美味しい」
「駅前の新しい店」
「今度私も行きたい」
「行こう」
「土曜?」
「午前は部活」
「じゃあ午後」
「いいよ」
姉妹の予定が一つ決まる。
彩花は嬉しそうに笑った。
凛花はその顔を見て、少し迷う。
言うべきか。
言わなくてもいい気もする。
けれど隠すほどの話でもない。
「昨日ね」
「うん?」
「九条君と話した」
彩花の目が少し大きくなった。
「学校で?」
「うん」
「何話したの?」
反応が早い。
凛花はそこへ触れない。
「雨の日のお礼」
「ああ」
「あとパウンドケーキ」
「えっ」
「美味しかったって」
彩花の顔が明るくなる。
「本当?」
「家族にも好評だったって」
「家族!?」
今度は別の意味で声が上がる。
「家族で食べたみたい」
「……九条君の家族が?」
「そう言ってた」
「ええ……」
彩花はシュークリームを持ったまま固まる。
「何?」
「急に恥ずかしくなってきた」
「何で?」
「だって九条君だけだと思ってたから」
「数切れ入れたんでしょう?」
「そうだけど……」
まさか九条家の家族へ回るとは思っていなかった。
御曹司の家。
以前より悠真本人には慣れた。
けれど「九条家」という単語にすると、途端に遠い世界へ感じる。
「変じゃなかったかな」
「何が?」
「普通のパウンドケーキだよ?」
「美味しかったって言ってたでしょう」
「でも」
「彩花」
凛花の声が少しだけ強くなる。
彩花が顔を上げる。
「九条家だろうが何だろうが、美味しいものは美味しいでしょ」
「……うん」
「彩花が作ったんだから、もっと自信持ちなさい」
「お姉ちゃんはそう言うけど」
「私には作れないし」
「それは本当にね」
「そこは否定しなさいよ」
「無理」
二人とも笑った。
重くなりかけた空気がほどける。
「九条君、他に何か言ってた?」
彩花が聞く。
凛花は紅茶を飲む。
「言ってた」
「何?」
「教えない」
「何で!?」
「本人から聞きなさい」
「気になる」
「私から話すことじゃないから」
「私のこと?」
「そう」
「余計気になるんだけど」
「日曜に聞けば?」
「……そうする」
彩花は少し不満そうだった。
それでも、凛花が言わないなら無理に聞かない。
シュークリームをもう一口食べる。
「でも」
「何?」
「お姉ちゃん、九条君のこと嫌いじゃなくなった?」
今度は凛花が止まった。
「最初から嫌いとは言ってない」
「警戒してたじゃん」
「今もしてる」
「してるんだ」
「姉だから」
「関係ある?」
「ある」
凛花は即答した。
彩花が笑う。
「九条君、悪い人じゃないよ」
「それは分かってる」
「優しいし」
「それも」
「本の話ちゃんと聞いてくれるし」
「うん」
「変なこと言うときあるけど」
「それも何となく分かってきた」
「何話したの?」
「教えない」
「ずるい」
彩花は頬を膨らませる。
凛花はそんな妹を見て、小さく笑った。
「でもね」
「うん?」
「九条君、彩花のことちゃんと見てると思う」
彩花の表情が止まる。
「……何それ」
「そのまま」
「何で急に」
「話してて思っただけ」
「…………」
日曜日の言葉が蘇る。
『水瀬さん、可愛いから』
頬が熱くなる。
「彩花?」
「何でもない」
「赤いけど」
「シュークリーム食べたから」
「シュークリームにそんな効果ないわよ」
「あるの!」
「ない」
「お姉ちゃんうるさい!」
彩花は残りを口へ入れた。
凛花は妹の耳まで赤くなっているのを見逃さなかった。
(……何言ったの、九条君)
少しだけ警戒が戻った。
ただ、それと同時に。
彩花が嫌そうではないことにも気づいていた。
その夜。
彩花は自室で、悠真から借りた本を開いた。
けれど数ページ読んだところで、凛花の言葉が浮かぶ。
『九条君、彩花のことちゃんと見てると思う』
「…………」
栞を挟む。
ベッドの上へ仰向けになる。
天井を見る。
(ちゃんと見てるって何)
意味は分かる。
でも、凛花がわざわざそう言った理由は分からない。
昨日、二人は何を話したのだろう。
自分のこと。
どこまで。
(お姉ちゃん、変なこと言ってないよね)
例えば昔の失敗。
料理中に小麦粉を床へぶちまけたこと。
小学生の頃、図書館で閉館時間に気づかず母に電話されたこと。
そういう話ならまだいい。
(いや、よくない)
恥ずかしい。
彩花は枕を抱える。
そのとき、別のことに気づいた。
悠真と凛花が、自分の知らないところで自分について話した。
普通なら少し嫌かもしれない。
けれど、不思議と強い不安はなかった。
凛花なら、自分が嫌がることを勝手に話さない。
悠真も、無理に聞くような人ではない。
そう思える。
(……信じてるんだ)
二人とも。
そのことに気づくと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
恋愛とは違う。
もっと単純な安心感。
大切な姉と、最近よく話すようになった人。
その二人が、少なくとも嫌い合ってはいない。
「よかった」
小さく呟く。
それから本を開き直した。
今度はちゃんと文字が頭へ入った。
金曜日の昼休み。
桜華学園の食堂は、雨続きだった数日間とは違って明るい日差しに満ちていた。
大きな窓から中庭が見える。
悠真は湊と向かい合って昼食を取っていた。
「そういや九条」
「何?」
「水瀬先輩、その後何かあった?」
「何も」
「昨日廊下ですれ違ったけど、普通だった」
「普通だろ」
「いや、お前が妹に変なことしてたら竹刀で殴られるかと」
「してない」
「分かってる」
湊は唐揚げを食べる。
「でもお前、何話したの?」
「まだ気にしてたのか」
「気になるだろ」
「水瀬さんのこと」
「それは聞いた」
「それ以上は言わない」
「はいはい」
悠真は箸を進める。
しばらくして、湊が思い出したように言った。
「明日どうすんの?」
「明日?」
「土曜」
「特に予定ない」
「街行かね?」
「何しに?」
「本屋。あと服見たい」
「本屋なら行く」
「服は?」
「ついでなら」
「何で本屋だけ食いつくんだよ」
「欲しい本がある」
「水瀬さんに貸すやつ?」
「それは家にある」
「じゃあ何?」
「新刊」
「普通に自分用か」
「当たり前だろ」
悠真は水を飲む。
「何時?」
「昼過ぎ」
「分かった」
「お前、日曜は図書館だもんな」
「ああ」
自然に答える。
湊はもうからかわなかった。
それが今の悠真の日常になりつつあるのだと理解している。
土曜日の午後。
青凪駅前の商業地区は、梅雨の晴れ間を楽しむ人で混み合っていた。
駅ビル前の広場には家族連れや学生が多く、道路沿いのカフェからはコーヒーの香りが流れてくる。数日前まで降り続いた雨の名残で街路樹の葉は濃い緑色をしており、日差しを受けた水滴が時折きらりと光った。
「暑いな」
湊が言う。
「雨よりいいだろ」
「湿度高い」
「六月だからな」
「アイス食おうぜ」
「本屋先」
「お前、本当に本好きだな」
二人は駅前の大型書店へ向かう。
休日なので店内も混んでいた。
新刊コーナー。
文庫。
漫画。
雑誌。
参考書。
悠真は目当ての新刊を手に取り、裏表紙の紹介を確認する。
「これ?」
湊が横から覗く。
「ああ」
「面白い?」
「前作がよかった」
「へえ」
「貸そうか?」
「俺、読むの遅いぞ」
「別にいい」
「水瀬さんには?」
「別のを貸す」
「使い分け?」
「何が?」
「いや」
湊は笑う。
「お前が水瀬さんに何貸すのか気になってきた」
「何で」
「自分の好きな本なんだろ?」
「ああ」
「それって結構、自分の中身見せる感じしない?」
悠真の手が止まる。
「……本一冊で?」
「本好きなやつほどそうじゃね?」
考えたことがなかった。
自分が好きな本。
何度も読み返した本。
そこには当然、自分が好きな価値観や場面が含まれている。
彩花がどう読むか。
気に入るか。
何を感じるか。
急に少しだけ緊張してきた。
「榊原」
「何?」
「余計なこと言うな」
「何で俺怒られた?」
「意識しただろ」
「知らねえよ!」
湊が笑う。
悠真も苦笑しながら本を持ち直した。
会計を終え、二人が書店を出たときだった。
少し離れた洋菓子店の前に、見覚えのある姿があった。
「……あれ」
悠真の足が自然に止まる。
「何?」
湊が視線を追う。
二人の女子高校生。
一人は桜華学園で見慣れた水瀬凛花。
もう一人。
淡い色のブラウスに紺色のスカート。
肩から小さな鞄を提げ、店頭の看板を見ながら楽しそうに話している。
水瀬彩花だった。
「水瀬さん」
悠真が呟く。
湊が横を見る。
「……あれが?」
「ああ」
「へえ」
湊は初めて実物を見る。
想像していたより普通の女の子だった。
桜華学園で目立つ令嬢たちのような派手さはない。
けれど表情が柔らかい。
姉と話しているとき、よく笑う。
「行かないの?」
「何が?」
「声かけるとか」
悠真は少し考えた。
日曜に会う。
今日は姉妹で出かけている。
わざわざ邪魔する必要はない。
「今日はいい」
「いいの?」
「水瀬さん、お姉さんと出かけてるから」
「なるほど」
「明日会うし」
その言葉が自然に出た。
湊は何も言わなかった。
ただ少し笑う。
悠真は彩花たちから視線を外そうとした。
その瞬間。
「……九条君?」
聞こえた。
悠真が振り返る。
彩花がこちらを見ていた。
目が合う。
一瞬、彩花の顔に驚きが浮かんだあと、すぐに柔らかな笑顔へ変わった。
「やっぱり九条君だ」
隣にいた凛花も、彩花の視線を追って悠真へ気づく。火曜日に生徒会室の前で話したばかりなので、こちらは驚くというより、少し意外そうに目を細めただけだった。
「こんにちは、九条君」
「こんにちは、水瀬先輩」
ここまで気づかれてしまえば、そのまま立ち去る方が不自然だ。悠真は湊と一緒に二人の方へ歩いていった。
近づくにつれて、彩花の手に洋菓子店の小さな紙袋があることに気づく。店頭には季節限定のレモンと蜂蜜を使った焼き菓子の写真が並んでおり、彩花はどうやらそれを買ったらしい。
「九条君も買い物ですか?」
「うん。本屋に来てた」
悠真が持っていた書店の袋を少し持ち上げると、彩花の視線がすぐにそちらへ向いた。
「本買ったんですか?」
「一冊だけ。新刊」
「いいなあ。私も本屋寄ろうか迷ったんですけど、お姉ちゃんとお菓子買いに来たから今日は我慢しました」
「我慢したの?」
「積んでる本が増えてるので」
「それは俺も人のこと言えないな」
「ですよね」
彩花が笑う。
たったそれだけのやり取りだったが、湊は隣で静かに二人を見比べていた。
(なるほど)
悠真から話だけは何度も聞いている。
正確には、本人はそれほど話しているつもりがないのだろうが、図書館へ行った、本を貸した、菓子をもらった、感想を話したと断片的に聞かされてきた。それらを積み重ねれば、湊の中にも「水瀬彩花」という人物の輪郭くらいはできていた。
けれど実際に会ってみると、悠真が彼女と話すときの方が分かりやすい。
声が少し柔らかい。
表情も普段より緩んでいる。
そして何より、彩花が何を話してもきちんとそちらへ意識を向けている。
(こいつ、思ってたよりだいぶだな)
口には出さない。
今ここで言えば、悠真より先に凛花から何か飛んできそうだった。
「九条君」
彩花が悠真の隣へ視線を向けた。
「そちらは、お友達ですか?」
「ああ。同じクラスの榊原湊」
紹介された湊は軽く会釈する。
「初めまして。榊原です」
「初めまして。水瀬彩花です」
「話は聞いてます」
「え?」
彩花の目が丸くなった。
悠真が隣から湊を見る。
「おい」
「本の話する人がいるって程度だよ」
「本当に?」
「本当だって」
湊が苦笑すると、彩花は少し安心したように胸を撫で下ろした。
「びっくりした……」
「何を話されてると思ったの?」
凛花が横から聞く。
「分かんないけど、九条君たまに変なこと言うから」
「俺が?」
「この前だって可愛いって急に言ったじゃないですか」
数秒、誰も喋らなかった。
言ってから、彩花自身も気づいたらしい。
「あ」
悠真も固まる。
凛花の視線がゆっくり悠真へ向いた。
湊は口を閉じたまま、ほんの少しだけ顔を逸らした。笑えば確実に何かが起きると判断したらしい。
「……九条君」
凛花の声は穏やかだった。
だからこそ悠真は背筋を伸ばした。
「はい」
「何て?」
「いや、あれは」
「可愛いって言ったの?」
「……言いました」
「彩花に?」
「はい」
「急に?」
「流れはありました」
「どんな流れなら急に妹を可愛いって言うことになるの?」
「お姉ちゃん!」
彩花が慌てて止める。
「別に変な意味じゃないから!」
「彩花、それ本人が決めることじゃないでしょう」
「九条君もそう言ってたけど!」
「言ったの?」
「言いました」
「九条君、今だけは正直じゃなくてもよかったのよ」
「すみません」
「何で九条君が謝るの!?」
彩花の声が一番大きくなった。
近くを歩いていた買い物客がちらりとこちらを見る。
凛花が気づき、軽く咳払いした。
「……ごめん。ここ店の前だった」
「お姉ちゃんのせいだからね」
「彩花が急に言うからでしょう」
「だって榊原君に何話してるのか聞かれたから」
「聞いてないよ!?」
とうとう湊が耐えきれずに口を挟んだ。
「俺、一言もそこまで聞いてないからね?」
「……そうでした」
「水瀬さん、自分から言ってたよ」
「忘れてください」
「努力します」
「今の間、絶対忘れない人の間でしたよね?」
「善処します」
「九条君の友達って感じします」
「それどういう意味?」
湊が笑う。
悠真は額へ手を当てたくなった。
明日、図書館で会う予定だった。
そこでパウンドケーキの感想を伝え、貸していた本の話をして、自分が持っていく本を渡すつもりだった。それだけなら、いつもの日曜日の延長だったはずだ。
まさか前日に街で偶然会い、しかも本人の口から「可愛いと言われた」と姉と友人へ公開されるとは思っていなかった。
(……でも)
彩花を見る。
恥ずかしそうにはしている。
けれど嫌そうではない。
そこだけ確認できれば十分だった。
「そういえば水瀬さん」
「はい?」
「その店、前にも気にしてなかった?」
悠真が店頭の看板を見る。
彩花も振り返った。
「覚えてたんですか?」
「最初に会った日の話で、レモンと蜂蜜のパウンドケーキが気になるって言ってた気がする」
「……言いましたっけ」
「たぶん」
「私、そんな話までしてたんだ」
彩花は自分の紙袋を見る。
「これです。今日やっと買いました」
「どうだった?」
「まだ食べてません。家でお母さんたちと食べようと思って」
「じゃあ感想は明日?」
「そうですね」
何気なく答えてから、彩花が一度瞬きをした。
悠真も同じタイミングで気づく。
明日。
互いに図書館へ行くことが、説明も確認もなく会話の前提になっていた。
先週までは「会えたら」だった。
その前は、ただ同じ時間に図書館へ行っていただけだった。
今は違う。
明日会う。
少なくとも二人とも、そのつもりでいる。
彩花はそこに深い意味を見つけた様子もなく、紙袋を持ち直した。
「九条君も、買った本のこと教えてくださいね」
「うん」
「面白そうだったら私も読みたいです」
「読み終わったら貸そうか?」
「でも今、九条君から一冊借りてるから」
「返してからでいいよ」
「じゃあ、面白かったらお願いします」
「分かった」
自然に次の貸し借りまで決まる。
凛花は黙って二人を見ていた。
火曜日に悠真と話したときとは違う。
彩花と一緒にいる悠真を、こうして近くで見るのは初めてだった。
悠真は彩花を急かさない。
話の途中で遮らない。
彩花が何気なく言ったことを覚えている。
そして彩花も、そんな悠真を相手にするときは肩の力が抜けていた。
(……思ってたより自然)
それが凛花にとって一番意外だった。
御曹司と普通の女子高生。
桜華学園と青葉高校。
家柄も環境もまるで違う。
言葉にすれば、いくらでも距離がある。
けれど今の二人を見ていると、そんなものは会話の中へほとんど入ってこない。
本を読む。
感想を話す。
美味しかったものの話をする。
また貸す。
次に会ったら続きを話す。
彩花が望んでいたのは、たぶんこういう関係なのだ。
誰かの妹ではなく。
自分の好きなものを、自分の言葉で話せる相手。
「彩花」
「何?」
「そろそろ行かないと、お母さんに頼まれたもの買う時間なくなるよ」
「あっ」
彩花がスマートフォンで時刻を見る。
「本当だ。ごめん、お姉ちゃん」
「別にいいけど」
凛花は悠真と湊へ向き直る。
「じゃあ、私たちはこれで」
「はい」
「榊原君も、また学校で」
「はい。水瀬先輩」
彩花も小さく頭を下げる。
「榊原君、今日は初めましてなのに変な話しちゃってすみません」
「大丈夫。九条からもっと変な話聞いてるから」
「榊原」
「冗談だって」
「本当ですか?」
彩花が不安そうに悠真を見る。
「ほとんど話してないよ」
「ほとんど?」
「図書館で本の話する人がいるとか、それくらい」
「……ならいいです」
「信用ないな」
「九条君、たまに私が思ってない方向に話進めるから」
「最近は気をつけてる」
「知ってます」
彩花はそこで笑った。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
それだけ言って、姉妹は歩き出した。
人混みの中へ入る直前、彩花が一度だけ振り返る。悠真たちがまだ同じ場所にいることに気づくと、小さく手を振ってから凛花の隣へ戻っていった。
悠真も軽く手を上げる。
やがて二人の姿が見えなくなった。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
悠真は隣を見る。
湊がこちらを見ていた。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「想像以上だった」
「何が?」
「お前ら」
「何がだよ」
「普通に仲いいじゃん」
悠真は否定しようとして、やめた。
彩花と仲がいい。
そう言われることが、嫌ではなかった。
「……まあ、前よりは」
「しかも明日会うんだろ?」
「ああ」
「約束して」
「先週した」
「さっき次の本貸す話もして」
「ああ」
「好きな菓子の話まで覚えてて」
「最初に会った日に聞いたから」
「可愛いとも言った」
「それはもういい」
「よくねえよ。そこ一番大事だろ」
湊が笑い出す。
悠真は歩き始めた。
「服見るんだろ」
「逃げた」
「時間なくなるぞ」
「はいはい」
湊も追いかける。
少し歩いてから、悠真は持っていた書店の袋へ視線を落とした。
明日会える。
昨日までも分かっていたことだった。
それでも今日、街で偶然会って言葉を交わしたことで、明日が少し近く感じる。
以前のように、会えるかどうかを一週間考えていた頃とは違う。
会うことそのものが、少しずつ日常の中へ入ってきている。
その変化を、悠真は素直に嬉しいと思った。
一方、彩花と凛花は駅ビルの地下へ向かっていた。
「ねえ、彩花」
「何?」
「九条君と、いつから明日会う約束してたの?」
「先週」
「聞いてない」
「言ってないもん」
「何で?」
「言うほどのことじゃないから」
「毎週会ってる相手と、ついに次に会う約束までしてるのに?」
「ついにって何」
「偶然じゃなくなったでしょう」
彩花は少し考えた。
「……そうなのかな」
「そうでしょう」
「でも図書館だよ?」
「場所の問題じゃないと思う」
「時間も決めてないよ?」
「来ることは分かってるんでしょう?」
「うん」
「それを約束って言うの」
火曜日に湊が悠真へしたのと、ほとんど同じ説明だった。
彩花はしばらく黙って歩いた。
「……約束か」
口に出してみる。
不思議な響きがした。
毎週のように会っていた。
けれどこれまでは、会えるかどうか分からなかった。
今度は違う。
悠真は来る。
自分も行く。
互いにそれを知っている。
「嫌なの?」
凛花が聞く。
「何が?」
「約束って言われるの」
「ううん」
彩花は首を振った。
「嫌じゃないよ」
むしろ少しだけ嬉しい。
そこまで考えてから、彩花は首を傾げた。
何が嬉しいのだろう。
本の感想を話せるから。
借りた本について聞きたいことがあるから。
今日買ったレモンと蜂蜜の焼き菓子の感想も話せる。
理由はいくつも思いつく。
だから、一つに決める必要はないと思った。
「明日、借りた本返すの?」
「まだ読み終わってないから、もう少し借りる」
「じゃあ何するの?」
「話す」
「本の?」
「たぶん」
「本以外は?」
「そのとき話したいことがあれば」
「……そう」
凛花は前を向いた。
以前の彩花なら、もう少し限定したかもしれない。
本の話をするだけ。
図書館で会うだけ。
友達というほどでもない。
けれど今は、「そのとき話したいことがあれば」と言った。
彩花自身は変化に気づいていない。
だから凛花も指摘しなかった。
「お姉ちゃん」
「何?」
「さっきから何か考えてない?」
「考えてない」
「絶対嘘」
「夕飯何かなって」
「それなら私も気になる」
あっさり話題が変わる。
凛花は小さく笑った。
駅ビルの地下へ降りると、食品売り場の匂いと人の声が一気に増えた。彩花は母から頼まれた牛乳とヨーグルトを思い出し、凛花と一緒に売り場を探し始める。
少し前まで話していた悠真のことも、そのうち夕飯の献立や新しい菓子の話に混ざっていった。
それでいいのだと思う。
まだ今は。
日曜日。
青凪市立中央図書館の窓からは、久しぶりに青い空が見えていた。
梅雨の合間の晴れ間だからか、いつもより利用者が多い。児童書コーナーでは親子連れが絵本を選び、閲覧席も半分以上が埋まっている。
彩花が図書館へ着いたのは午後一時五十分だった。
入口を抜ける。
いつものように返却カウンターの横を通り、本棚の並ぶ奥へ向かう。
今日は探さなかった。
いるかどうか確認するために、いつもの棚を覗く必要もなかった。
来ると分かっている。
その違いは、自分が思っていたより小さくて、それでいて確かだった。
文学棚の近くまで来たところで、向こうから悠真が歩いてくる。
手には一冊の本。
目が合った。
「水瀬さん」
「九条君」
二人とも、昨日も会ったばかりだった。
それなのに彩花は自然に笑った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「昨日ぶりですね」
「そうだな」
「毎週会ってるのに、昨日も会ったから変な感じ」
「俺も思った」
悠真は少し笑う。
「昨日のお菓子、どうだった?」
「あ、美味しかったです!」
彩花の声が少し大きくなり、近くで本を選んでいた女性がこちらを見る。
「あ」
「小さめで」
「はい……」
二人で声を落とす。
彩花は恥ずかしそうに笑った。
「レモンが結構強くて、でも蜂蜜の甘さもあって。私が作るなら、もう少し生地しっとりさせたいなって思いました」
「食べながら作る側のこと考えてるんだ」
「癖なんです。美味しいお菓子食べると、どうやって作ってるんだろうって」
「今度作る?」
「たぶん」
「食べてみたい」
「……またさらっと言いますね」
「駄目?」
「駄目じゃないですけど」
彩花は少し考える。
「上手くできたら」
「楽しみにしてる」
「期待しすぎないでくださいね」
「パウンドケーキもマドレーヌも美味しかったから無理かも」
「そういうの困るんですって」
困ると言いながら、彩花は笑っている。
悠真はそれ以上褒めなかった。
代わりに、持っていた本を少し持ち上げる。
「これ、昨日買ったやつ」
「あ、見せてください」
彩花が近づく。
表紙を見るため、自然と二人の距離が縮まった。
悠真は本を彩花が読みやすい角度へ傾ける。
「この作者、知ってます」
「読んだことある?」
「一冊だけ。短編集」
「俺もそれ読んだ」
「本当ですか?」
「三話目が好きだった」
「あっ、私もです」
彩花の顔が明るくなる。
「最後の手紙の話ですよね?」
「そう」
「私、あれ読み返しました」
「分かる。最初と最後で意味変わるから」
「そうなんです!」
そこから数分、昨日買ったばかりで悠真自身もまだ読んでいない本を前に、二人は作者の別作品について話した。
以前なら、これだけでも十分だった。
本をきっかけに会話が始まり、そのまま本の話だけをして別れる。
けれど今日は、少し違った。
「そういえば」
彩花が言う。
「昨日の榊原君って、九条君と仲いいんですね」
「小等部から一緒だから」
「そんなに長いんだ」
「家も知ってるし、向こうの親も知ってる」
「幼馴染みたいな感じ?」
「近いかも」
「いいですね」
「水瀬さんは?」
「私?」
「昔からの友達」
「小学校からの子はいるけど、高校別れちゃって。今も連絡は取ってますけど」
「そっか」
「青葉では文芸部の子と話すこと多いかな。あと田辺君とか」
悠真の中で、聞き覚えのある名字が引っかかった。
「田辺君?」
「クラスの子です。前に話した、私のお菓子よく食べる人」
「ああ」
思い出す。
名前を聞くのは初めてだが、存在は知っていた。
彩花が作った菓子を何度も食べている男子。
「仲いいの?」
「普通ですよ」
「普通」
「クラスでよく話すくらい。文芸部にも勝手に入ってくるし」
「入部してるの?」
「してないです」
「何で入ってくるの?」
「友達待ってるって言って」
「毎回?」
「最近多いですね」
悠真は頷いた。
「そうなんだ」
それだけだった。
彩花が少し不思議そうに見る。
「何ですか?」
「何が?」
「今、何か考えませんでした?」
「考えた」
「何を?」
悠真は少し迷ってから答えた。
「その田辺君、文芸部に入りたいんじゃないかと思って」
「絶対違いますよ。お菓子出るか聞いてきましたもん」
「それ目当て?」
「たぶん」
「じゃあ俺と同じか」
「え?」
「水瀬さんのお菓子食べたい」
「…………」
彩花が黙った。
悠真も、自分が何を言ったのか数秒遅れて理解する。
「いや」
「九条君」
「はい」
「最近、そういうの増えてません?」
「……気をつけます」
「嫌とは言ってないです」
悠真が顔を上げる。
彩花は本棚へ視線を向けたままだった。
「ただ、急に言うからびっくりするだけで」
「うん」
「だから……別に、食べたいって言うくらいなら」
声が少し小さくなる。
「作ったとき、余ったら持ってきます」
「ありがとう」
「余ったらですからね」
「分かった」
「九条君用に作るわけじゃないですから」
「そこまで言わなくても分かってる」
「ならいいです」
彩花はようやくこちらを見る。
頬が少し赤い。
悠真はそれに気づいたが、何も言わなかった。
今ここで「赤い」と指摘すれば、確実に話がややこしくなる。
少しは学んでいる。
「そうだ」
悠真は話題を変えた。
「水瀬先輩から、パウンドケーキの感想ちゃんと言えって言われてた」
「お姉ちゃんが?」
「うん」
「昨日聞きました。九条君と話したって」
「何て?」
「教えないって言われました」
彩花が少しだけ唇を尖らせる。
「私の話なのに」
「俺も全部は言わない方がいいと思う」
「やっぱり何か話したんですね」
「少しだけ」
「気になる」
「水瀬さんが嫌がるようなことは聞いてないよ」
彩花の表情が変わる。
悠真は続けるか迷った。
凛花との会話を、そのまま伝えるつもりはない。
ただ一つだけ、言っておきたいことがあった。
「あと」
「はい」
「水瀬先輩と話してて思ったんだけど」
「何ですか?」
悠真は目の前の彩花を見る。
昨日、凛花へ言った言葉。
機会があれば本人にも。
凛花にそう言われた。
今がその機会なのかは分からない。
けれど、変に飾る必要もないと思った。
「水瀬さんって、自分のこと普通ってよく言うだろ」
「……言いますね」
「俺はあんまりそう思ってない」
彩花が瞬きをする。
「何で?」
「本の話してると、俺が気づかなかったところ見つけるし」
「それは読み方が違うだけで」
「料理できるし」
「それは好きだから」
「お菓子も作れる」
「それも好きだからです」
「裁縫もできるって言ってた」
「……九条君」
「何?」
「何で急に褒めるんですか」
困ったような顔。
けれど悠真は、そこでやめなかった。
「褒めたいからじゃなくて、俺が知ってることを言ってるだけ」
「でも、お姉ちゃんはもっと――」
彩花の口から、ほとんど反射的に言葉が出た。
そこで止まる。
悠真も黙った。
凛花が言っていた。
『彩花は、私じゃないから』
『私と比べないであげて』
理由が、少しだけ見えた気がした。
「水瀬さん」
「……はい」
「水瀬先輩の話はしてないよ」
彩花が顔を上げる。
「今、俺が話してるのは水瀬さんのこと」
「…………」
「お姉さんが何できるかは関係ない」
図書館の中には、人の気配がある。
遠くで本を棚へ戻す音がする。
子どもの小さな笑い声。
カウンターから聞こえる貸出機の電子音。
いつもと同じ場所なのに、彩花には一瞬だけ、それらが遠くなったように感じられた。
「……九条君」
「うん」
「昨日、お姉ちゃんと本当に何話したんですか」
悠真は少しだけ笑った。
「それは言わない」
「今ので絶対何か話したって分かりました」
「ごめん」
「ずるい」
「でも今言ったのは、前から思ってた」
「…………」
彩花は返事をしなかった。
自分の手元を見る。
何を言えばいいのか分からない。
褒められると、いつも困る。
料理もお菓子も、好きだからやっているだけ。
本を読むのもそう。
凛花ならもっと上手くできることがたくさんある。
自分より勉強ができる。
剣道も強い。
運動もできる。
人前でも堂々としている。
だから、自分が褒められると、ついどこかで比べてしまう。
けれど悠真は、そこへ凛花を入れなかった。
最初から。
『今、俺が話してるのは水瀬さんのこと』
胸の奥に、小さなものが残る。
痛くはない。
むしろ温かい。
でも、どう扱えばいいのか分からない。
「……ありがとうございます」
ようやく出たのは、それだけだった。
「うん」
「でも、まだちょっと恥ずかしいので」
「何が?」
「そんなに一気に言わないでください」
「分かった」
「一個ずつにしてください」
「一個ならいいの?」
「……そこ拾います?」
「大事かなと思って」
「九条君」
「はい」
「やっぱりちょっと変です」
彩花はそう言って、笑った。
悠真も笑う。
以前なら「変」と言われたことを気にしたかもしれない。
今はもう、その言葉が彩花なりの親しさを含んでいると分かっていた。
二人はそのあと、閲覧席へ移った。
今日は長く話し続けなかった。
彩花は借りていた本の続きを読み、悠真は昨日買った新刊を開く。同じ机ではなく、少し離れた席だったが、時折どちらかが本から顔を上げれば、相手がそこにいるのが見えた。
それだけで不思議と落ち着いた。
午後三時を少し過ぎた頃、彩花が本を閉じる。
ちょうど悠真も顔を上げた。
目が合う。
彩花は借りていた本を持ち上げ、小さく口を動かした。
「読み終わりました」
声を出さずに伝える。
悠真も小さく頷いた。
二人は荷物をまとめ、閲覧席を離れた。
窓際の少し人が少ない場所へ移動する。
「どうだった?」
「面白かったです」
「それだけ?」
「待ってください。今から話します」
「はい」
「まず最後なんですけど――」
彩花が話し始める。
悠真は聞く。
そこからの時間は、これまでと同じようで、少し違っていた。
感想を言い合う。
意見が違えば理由を聞く。
同じところが好きなら笑う。
それだけなのに、彩花は以前より悠真の言葉そのものを待つようになっていた。
この本を読んだ人の感想ではなく。
九条悠真が、どう思ったのか。
その違いはまだ、彩花自身にも名前をつけられるほど大きくはない。
ただ確かに、相手はもう誰でもよくなかった。
「そうだ」
話が一区切りついたところで、悠真が鞄を開く。
「今度はこれ」
一冊の文庫本を取り出した。
彩花が受け取る。
「九条君が好きな本?」
「うん」
「何回くらい読みました?」
「四回」
「そんなに?」
「たぶん一番多い」
彩花は表紙を見る。
以前、悠真が好きだと言っていた作家の作品だった。
「……これ、借りていいんですか?」
「そのために持ってきた」
「大事な本じゃないですか」
「大事だけど、水瀬さんなら大丈夫だと思ってる」
彩花は本を持つ手へ少し力を込めた。
ただの文庫本。
書店へ行けば買える。
けれど、悠真が何度も読んだ一冊。
そう思うと、さっきまでとは違って見えた。
「絶対綺麗に読みます」
「そこまで緊張しなくていいよ」
「でも四回も読んでるんですよね?」
「うん」
「じゃあ大事にします」
「ありがとう」
彩花は自分の鞄へ、借りた本を丁寧に入れた。
その様子を見ながら、悠真は昨日湊に言われたことを思い出す。
『自分の好きな本なんだろ?』
『それって結構、自分の中身見せる感じしない?』
昨日は余計なことを言われたと思った。
今も少しだけそう思う。
けれど、彩花がこの本をどう読むのか知りたい気持ちは変わらなかった。
好きになってほしい、とは少し違う。
同じ感想でなくてもいい。
むしろ違っていたら、その理由を聞きたい。
自分が大切にしているものを渡して、彩花が何を受け取るのか知りたい。
そのことが、少し楽しみだった。
「九条君」
「何?」
「これ、いつまでに返せばいいですか?」
「いつでも」
「また来週でも?」
「ああ」
答えてから、二人とも一瞬だけ黙った。
また来週。
今週と同じように。
誰かが誘ったわけでもない。
時間を決めたわけでもない。
けれど、その言葉はもう偶然を期待するものではなかった。
「じゃあ」
彩花が少し笑う。
「また来週、感想話します」
「楽しみにしてる」
「私も」
彩花はそこまで言ってから、ほんの少しだけ目を瞬いた。
何を「私も」と言ったのか。
感想を話すこと。
たぶん、それで合っている。
それ以上考える前に、館内放送が流れた。
午後四時を知らせる案内だった。
「あ、もうこんな時間」
「帰る?」
「今日は夕飯手伝うって言ってるので」
「何作るの?」
「鶏肉のトマト煮です」
「美味しそう」
「九条君、食べ物の話すると反応早いですよね」
「水瀬さんの話だからじゃない?」
「…………」
「ごめん」
「だから急にそういうこと言わないでください!」
声を抑えながら抗議される。
悠真は素直に謝った。
「気をつける」
「本当に?」
「一個ずつ」
「そこ覚えてるんですか」
「言われたから」
「忘れてください」
「無理」
「もう……」
彩花は困ったように笑う。
それでも、先に歩き出した悠真の隣へ自然に並んだ。
二人は図書館の出口まで一緒に歩く。
外へ出ると、六月の午後の日差しがまだ明るく残っていた。雨上がりの地面からは湿った土と草の匂いが上がり、駐輪場の屋根から残った雫がぽつりぽつりと落ちている。
「じゃあ、九条君」
「うん」
「また来週」
「また来週」
彩花は軽く手を振り、家へ向かう道を歩き出した。
鞄の中には、悠真から借りた本がある。
何度も読んだという、大事な一冊。
少し歩いたところで、彩花は鞄へそっと手を添えた。
今日、悠真から言われた言葉も思い出す。
『今、俺が話してるのは水瀬さんのこと』
自分だけを指して言われた言葉。
姉と比べず。
誰かの妹としてでもなく。
水瀬彩花について。
「……変な人」
小さく呟く。
嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
そこまではもう認めてもいい気がした。
ただ、その嬉しさが何なのかまでは、まだ考えなくていい。
彩花は歩きながら、次の日曜日までに借りた本をどこまで読めるだろうと考えた。
今度はきっと、読み終えたあとに話したいことがたくさんできる。
そして、その感想を聞いてほしい相手も、もう決まっていた。




