第10話 ひとつ空いた場所
月曜日の放課後、県立青葉高校の文芸部室には、開け放した窓から少し湿った風が入り込んでいた。
梅雨入りを目前にした六月の空は朝から曇っており、校庭の上には厚い雲が広がっている。運動部の掛け声もいつもより遠く聞こえ、古い校舎の一角にある部室では、部員たちがそれぞれ好きな本を読んだり、文化祭へ向けた部誌の案について話したりしていた。
彩花は窓際の席で、一冊の小説を開いていた。
昨日、図書館から借りてきた本だ。
けれど十分ほど前から、ほとんどページが進んでいない。
「水瀬さん」
「……はい?」
呼ばれて顔を上げる。
二年生の部員が、向かいの机から不思議そうにこちらを見ていた。
「そこ、さっきから同じページじゃない?」
「えっ」
彩花は慌ててページ番号を見る。
確かに進んでいない。
「考え事?」
「いや……ちょっとだけ」
「珍しいね。水瀬さん、本読み始めると周り聞こえなくなるのに」
「今日は集中できなくて」
「眠いとか?」
「それかもしれません」
曖昧に笑う。
先輩はそれ以上気にせず、自分の本へ戻った。
彩花も視線をページへ落とす。
眠いわけではない。
昨日のことを思い出していた。
(九条君、もう読んでるかな)
自分の本棚から持ち出した短編集。
何度も読んだ、大切な一冊。
それが今は悠真のところにある。
昨日帰宅してから、空いた本棚の隙間が妙に目についた。
今朝も学校へ行く前、なぜか一度見た。
だからといって寂しいわけではない。
返ってくると分かっている。
むしろ、悠真がどの話を好きになるのかが楽しみだった。
(やっぱり三話目かな)
少し理屈っぽい主人公が、長い間疎遠だった幼馴染から届いた一通の手紙をきっかけに故郷へ戻る話。
悠真は登場人物の行動を細かく考える。
表面だけでなく、「どうしてそうしたのか」を気にする。
だから、あの話を好みそうだと思った。
(でも一話目もありそう)
考え始めると、また小説から意識が離れる。
「…………」
彩花は本を閉じた。
今日は駄目だ。
無理に読んでも頭に入らない。
鞄へしまおうとしたところで、机の反対側から別の声が飛んできた。
「水瀬、珍しいじゃん。本読むの諦めんの」
田辺大地だった。
文芸部員ではない。
教室へ忘れ物を取りに戻ったついでに、同じクラスの友人を呼びに来たらしい。部室の入口から顔を出し、そのまま勝手に中へ入ってきている。
「諦めたんじゃないよ。今日は集中できないだけ」
「腹減ってんじゃね?」
「田辺君じゃないんだから」
「俺なら腹減ってても本読まねえ」
「知ってる」
「そういやさ」
大地が机へ手をつく。
「また何か作らねえの?」
「何かって?」
「菓子」
「この前マドレーヌ作ったばっかりでしょ」
「あれ先週だろ」
「十分最近だよ」
「もう一週間経ってる」
「田辺君の中では、お菓子って毎週支給されるものなの?」
「水瀬が作ってくれるなら歓迎」
「作りません」
「即答!?」
近くの部員が笑う。
彩花も呆れながら笑った。
「今度、栗のパウンドケーキ作ってみたいとは思ってるけど」
「マジ?」
「田辺君のためじゃないよ」
「でも余るだろ?」
「余る前提なのやめて」
「じゃあ俺の分を最初から――」
「ない」
「最後まで言わせろよ」
大地が大げさに肩を落とす。
部室の空気が少し明るくなった。
彩花は笑いながら鞄を閉じる。
そのとき、ふと思った。
(栗のパウンドケーキ……九条君は好きかな)
すぐに続けて、昨日の会話を思い出す。
好きな食べ物。
苦手な食べ物。
悠真は極端に辛いものが苦手だと言っていた。
甘いものについては、マドレーヌを美味しいと言っていたくらいしか知らない。
(今度聞いてみよう)
自然にそう考えた。
次に会ったら聞けばいい。
それだけだった。
けれど彩花自身がまだ気づいていないところで、日常の中に「次に九条君へ話すこと」が増え始めていた。
一方、同じ時刻。
私立桜華学園高等部の生徒会室では、悠真が書類をまとめていた。
「九条、これ確認頼む」
「分かった」
二年生の生徒から渡された資料を受け取る。
来月予定されている校内行事について、各委員会から提出された希望備品を一覧にしたものだ。
悠真は項目を上から確認し、不自然な重複を見つける。
「これ、放送委員会と実行委員会で同じ延長コード申請してるけど、使用場所も同じ?」
「本当だ」
「時間帯が違うなら共有できるかもしれない。確認してから発注数決めた方がいいと思う」
「助かる。聞いてくる」
「あと、こっちは去年の在庫が残ってるはず。倉庫確認して、足りなかったら追加でいい」
「了解」
先輩が資料を持って出ていく。
悠真は次の書類へ移った。
学校にいるときは、図書館にいるときとは違う。
任された仕事を処理する。
分からないことは確認する。
先輩が相手でも必要な意見は言う。
入学してまだ数か月だが、生徒会内ではすでに「一年なのに妙に仕事が早い」という認識が定着しつつあった。
「お前、本当に一年か?」
隣の机で作業していた湊が言った。
「同じクラスだろ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何?」
「もっとこう、新入生らしく右往左往しろよ」
「何で?」
「俺が安心する」
「知らない」
悠真は資料へ視線を戻す。
湊は椅子の背へ寄りかかり、呆れたように息を吐いた。
「日曜は?」
「図書館」
「聞き方が雑でも普通に答えるようになったな」
「何が?」
「最初の頃、お前『別に水瀬さんに会いに行くわけじゃない』みたいな顔してたじゃん」
「顔でそこまで分かるのか?」
「分かるというか、お前が勝手に説明してた」
「……そうだったかもしれない」
「認めんのかよ」
湊の方が驚く。
悠真はペンを置いた。
「今は会えたら嬉しいから」
「…………」
「何?」
「いや」
湊は少しだけ真顔になった。
「お前、結構進んだな」
「何が?」
「自覚」
「別に好きだとか、そういう話はしてない」
「俺もそこまで言ってねえよ」
「…………」
「お前が先に言ったぞ」
悠真は黙った。
湊が笑いを堪える。
「九条」
「うるさい」
「まだ何も言ってない」
「言う顔してる」
「じゃあやめとく」
湊は本当にそれ以上言わなかった。
悠真も作業へ戻る。
自分でも分かっている。
以前より、彩花に会いたいという気持ちを否定しなくなった。
会えれば嬉しい。
話せれば楽しい。
もっと知りたい。
昨日は本人にもそう言った。
それが何という感情なのかは、まだ決めていない。
急いで決める必要もないと思っている。
ただ、一つだけ。
「榊原」
「ん?」
「人から本借りたときって、どのくらいで返す?」
「本?」
「小説」
「相手によるだろ。急ぎじゃないなら一、二週間?」
「そうだよな」
「水瀬さん?」
「うん」
「もうそこまで行ったのか」
「どこまで?」
「私物の貸し借り」
「本一冊だぞ」
「分かってるって」
湊は笑いながら手を振った。
「で、何で返却期間気にしてんの?」
「大事にしてる本みたいだから、あまり長く持っていたくない」
「なら読み終わったら返せばいいだろ」
「それはそうなんだけど」
「読み終わってんの?」
「昨日、一話目まで」
「じゃあまだじゃん」
「だから聞いただけ」
悠真は再び書類へ視線を落とした。
湊は横顔を見ながら、少しだけ笑う。
からかい甲斐はある。
けれど以前とは違う。
悠真は本当に楽しそうだった。
自分でも気づかないまま振り回されているだけではない。
誰かと会うことを楽しみにして、その相手から借りた本を大事に読んでいる。
なら今は、余計なことを言わない方がいい。
「九条」
「今度は何?」
「折るなよ、ページ」
「折るわけないだろ」
「知ってる」
「じゃあ言うな」
今度こそ湊は笑った。
水曜日の夜。
悠真は自室の机で、彩花から借りた短編集の三話目を読んでいた。
予想されている。
彩花は「九条君なら三つ目が好きそう」と言った。
だからこそ、なるべく意識せず読もうとしていた。
けれど読み進めるほど、その予想が当たっていることを認めざるを得なくなる。
主人公は、故郷を離れてから十年近く帰っていない。
幼馴染から届いた短い手紙。
そこには「帰ってきて」とも「会いたい」とも書かれていない。
ただ、昔二人で通った喫茶店が閉店するという知らせだけがある。
主人公は何日も迷い、結局その店が閉まる前日に故郷へ戻る。
理由を本人は最後まで「店を見ておきたかったから」と説明する。
けれど読者には、それだけではないと分かる。
「……好きだな、これ」
悠真は小さく呟いた。
彩花の予想通りだった。
少し悔しい。
同時に面白い。
(何で分かったんだろ)
本人へ聞いてみたい。
どこを見て、自分がこの話を好きだと思ったのか。
ページをめくる。
三話目を読み終え、そのまま四話目へ進もうとしたところで、扉が軽く叩かれた。
「兄様」
「どうぞ」
琴葉が入ってくる。
手にはカップが二つある。
「母様が紅茶を」
「ありがとう」
「こちらに置きますね」
琴葉は机へカップを置き、本へ視線を向けた。
「水瀬さんからお借りした本ですか?」
「ああ」
「面白いです?」
「面白い」
「水瀬さんのお薦め?」
「前に薦められた。昨日……じゃなくて日曜に借りた」
琴葉は兄の向かいへ立ったまま、表紙を見る。
「兄様が人から本を借りるの、珍しいですね」
「そうか?」
「家の本か図書館ばかりでしょう」
「言われてみれば」
「その本、水瀬さんの私物なのですよね?」
「ああ」
「大事にしてくださいね」
「全員同じこと言うな」
「誰に言われたのです?」
「榊原」
「榊原様は珍しくまともですね」
「本人の前で言うなよ」
「言いません」
琴葉は微笑む。
悠真は紅茶を一口飲んだ。
「琴葉」
「はい」
「自分が好きそうな話を、読んでない相手に当てられたことある?」
「突然ですね」
「水瀬さんに当てられた」
「なるほど」
琴葉は納得した。
「嬉しいのですか?」
「面白い」
「嬉しくは?」
「……少し」
「では、そういうことでは?」
「何が?」
「自分のことを見てもらえていたのが嬉しいのでしょう」
悠真は黙る。
それは考えていなかった。
彩花が、自分の読書傾向を覚えていた。
これまで話した内容から、三話目を好みそうだと予想した。
つまり、少なくとも本の話をしているときの自分を見ていたということになる。
「……そうかも」
「兄様」
「何?」
「今日は気持ち悪くないです」
「普段は何なんだ」
「分析を始めないので」
「お前、本当に俺を何だと思ってる?」
「兄様です」
「答えになってない」
琴葉は笑い、部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、悠真はもう一度本へ視線を落とした。
三話目の最後。
主人公は幼馴染と再会する。
劇的な告白はない。
ただ、閉店する喫茶店で昔と同じ飲み物を頼み、十年分の話を少しずつ始める。
悠真はその余韻をもう一度思い返した。
(これ、水瀬さんはどう読んだんだろう)
次に会ったら聞くことが、一つ増えた。
木曜日。
青葉高校の昼休み。
彩花は友人たちと机を囲みながら弁当を食べていた。
自分で作った卵焼き。
昨夜の残りの鶏肉。
ブロッコリー。
母が作ったきんぴら。
「水瀬、それ一個くれ」
大地が斜め前から卵焼きを指す。
「嫌」
「まだ何もしてねえじゃん」
「今くれって言ったでしょ」
「一個くらい」
「自分のお弁当あるじゃん」
「卵焼き入ってねえ」
「知らないよ」
「じゃあ今度――」
「田辺君」
「何だよ」
「自分で作れば?」
「無理」
「卵焼きくらい作れるよ」
「水瀬基準で言うなって」
周囲が笑う。
彩花も笑いながら弁当箱を少し遠ざけた。
大地は諦め、自分の唐揚げを食べ始める。
「そういや、栗のやつは?」
「まだ作ってない」
「いつ?」
「知らない」
「今週?」
「何で田辺君が予定決めるの」
「楽しみにしてんだよ」
「家族がね?」
「俺も」
「入ってないから」
そんなやり取りをしながら、彩花はふと考えた。
栗のパウンドケーキ。
今週末に作るのもいいかもしれない。
土曜日なら時間がある。
材料も買える。
(九条君、栗好きかな)
また思う。
今度は、そこで少し手が止まった。
(……私、最近九条君に食べ物のことばっかり考えてない?)
マドレーヌを渡した。
栗のパウンドケーキを作ろうと思った。
好きな食べ物を聞いた。
甘いものが好きか気になる。
別に特別な意味はない。
料理やお菓子作りが好きなのだから、知り合いの好みが気になることくらいある。
けれど。
「水瀬?」
「え?」
「箸止まってる」
「あ、ごめん」
「やっぱ眠いんじゃね?」
「何で毎回眠いことにするの」
「ぼーっとしてるから」
「考え事」
「何?」
「田辺君には関係ない」
「ひでえ」
彩花は卵焼きを食べる。
そこで考えるのをやめた。
悠真が甘いものを好きかどうかは、会ったときに聞けばいい。
それだけで十分だった。
土曜日の午後。
水瀬家のキッチンには、焼いた栗とバターの甘い香りが広がっていた。
「いい匂い」
紗月がオーブンの前へ来る。
「もう少しかな?」
「あと七分」
彩花はタイマーを見る。
今日は予定通り、栗のパウンドケーキを作っていた。
生地へ細かく刻んだ栗を混ぜ、上には少し大きめのものを並べている。
甘露煮を使ったので、砂糖は普段より少なめにした。
「初めてにしては綺麗ね」
「まだ焼けてないから分かんないよ」
「膨らみはいい感じ」
「真ん中割れてくれた」
「成功じゃない?」
「切るまで分かんない」
彩花はオーブンの中を覗く。
後ろから凛花がやって来た。
「何作ってるの?」
「栗のパウンドケーキ」
「食べていい?」
「焼けたらね」
「私の分ある?」
「家族のために作ってるんだからあるよ」
「よかった」
凛花は冷蔵庫から水を取り出す。
少しだけ間を置いてから、何気なく聞いた。
「九条君の分も?」
「……え?」
彩花が振り返る。
「何で九条君?」
「最近、お菓子渡したでしょう」
「マドレーヌはお祖父さんの本のお礼」
「今回は?」
「別に九条君のために作ってないよ」
「ならいいけど」
「何、その言い方」
「別に」
凛花は水を飲む。
彩花は少し眉を寄せた。
「余ったら持っていくかもしれないけど」
「そう」
「田辺君たちにも持っていくかもしれないし」
「そう」
「お姉ちゃん、絶対何か思ってるでしょ」
「何も」
「嘘」
「焼けるわよ」
「あっ」
タイマーが鳴った。
彩花は慌ててオーブンへ向き直る。
凛花はその背中を見ながら、ほんの少しだけ笑った。
九条君のためではない。
それは本当だろう。
けれど「余ったら渡す相手」の中へ、悠真が自然に入っている。
少し前まで、図書館でたまたま会う名前も知らない男の子だったのに。
変化は確実にある。
ただ、本人がまだ気づいていないだけだ。
焼き上がったパウンドケーキは成功だった。
粗熱を取ってから切ると、中には栗が均等に散っている。
彩花は端の一切れを味見した。
「うん」
「どう?」
紗月が尋ねる。
「美味しい。もう少しラム酒入れてもよかったかも」
「十分じゃない?」
「お姉ちゃん」
「何?」
「食べてみて」
凛花が一切れ受け取る。
口へ入れる。
「美味しい」
「本当?」
「うん」
「よかった」
「……これなら九条君も喜ぶんじゃない?」
「だから何で九条君基準なの」
「田辺君でもいいけど」
「その二択なの?」
「最近よく名前が出る男子」
「お姉ちゃん!」
紗月が横で笑いを堪えている。
「お母さんまで笑わないでよ」
「ごめんごめん」
「もう」
彩花は頬を少し膨らませる。
それでも結局、切り分けたパウンドケーキのうち数切れを小さな袋へ入れた。
家族用とは別。
学校へ持っていく分とも別。
日曜日に持っていく分。
誰に渡すのか。
そこは自分でも分かっている。
「……本借りてるし」
言い訳のように呟く。
「何か言った?」
「何でもない!」
彩花は袋を冷蔵庫へ入れた。
そして日曜日。
午後一時四十分。
青凪市立中央図書館の窓際には、悠真がいた。
机の上には彩花から借りた短編集。
すでに最後まで読み終えている。
返すために持ってきた。
その横には、先週悠真が読んでいた小説もある。
今度は彩花へ渡すためだ。
自分の鞄の中に、彩花へ渡す本がある。
それだけで、今日の図書館は少し違って感じられた。
悠真は時計を見ない。
来るかどうかを気にしていないわけではない。
ただ、来るまで自分の本を読めばいい。
会えれば嬉しい。
会えなければ次。
そのくらいの余裕はもう持てるようになった。
「九条君」
だから、声がした瞬間に顔を上げた。
彩花が立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
悠真は自然に笑う。
「来た」
「来ました」
彩花も笑う。
その手には鞄と、図書館で返す本。
さらに小さな紙袋がある。
悠真の視線がそこへ向いた。
「それは?」
「あとで」
「あと?」
「まず本」
「分かった」
彩花は向かいの席へ座った。
最近はもう、座っていいか聞かない。
そこが空いていれば座る。
悠真も何も言わない。
それが普通になっている。
「読みました?」
彩花が短編集を見る。
「読んだ」
「全部?」
「ああ」
「どれが一番好きでした?」
予想していた質問だ。
悠真は少しだけ間を置いた。
「三話目」
「やっぱり!」
彩花の顔が一気に明るくなる。
「当たった」
「何で分かった?」
「何となく」
「それじゃ分からない」
「九条君、理由を考える話好きそうだから」
「理由?」
「三話目の主人公って、ずっと『喫茶店が閉まるから帰った』って言うじゃないですか」
「ああ」
「でも絶対それだけじゃないでしょ」
「俺もそう思う」
「九条君、そういう『本人が言ってる理由と本当の理由がちょっと違う』みたいなの、好きそうだなって」
悠真は思わず黙った。
かなり正確だった。
「……何でそこまで分かる?」
「今まで話してたから?」
「それだけ?」
「それだけです」
彩花は不思議そうに首を傾げる。
「九条君、本の話すると『何でこの人こうしたんだろう』ってよく言うじゃないですか」
「言ってる?」
「言ってます」
「自覚なかった」
「私は結構覚えてますよ」
悠真が止まる。
今度は彩花が先に気づいた。
「あ」
「…………」
「九条君?」
「いや」
悠真は少し笑った。
「嬉しかっただけ」
「また?」
「また」
「最近それ多くないですか?」
「水瀬さんが嬉しいこと言うから」
「…………」
彩花の視線が僅かに逸れた。
「……そういう返し、ずるいですよ」
「ずるい?」
「何て返したらいいか分からないから」
「じゃあ返さなくていい」
「それも何か悔しい」
「難しいな」
「九条君のせいです」
「ごめん」
「また謝る」
二人とも笑う。
最初の頃なら、悠真だけが一人で動揺していた。
今は彩花も少しだけ困る。
それでも、その困り方は嫌悪でも警戒でもない。
まだ名前のない、小さな照れだった。
「水瀬さんは二話目だったよな」
「はい」
「何で?」
「私は……」
彩花は少し考えた。
二話目。
五人家族の真ん中の娘が主人公の話。
兄は優秀。
妹は人懐っこく、家族の中心。
主人公自身は何もできないわけではないのに、自分には目立つものがないと思っている。
最後まで大事件は起きない。
ある日、家族がそれぞれ主人公に助けられていた小さなことを知り、自分が思っていたより家の中に居場所を持っていたと気づく。
「……主人公が好きだから」
「どこが?」
「普通なところ」
悠真は黙って聞く。
彩花は本の表紙へ指を置いた。
「すごいことできるわけじゃないし、自分では何もないって思ってるんですけど、実はちゃんと周りの人のこと見てて。お兄ちゃんが疲れてたら飲み物置いといたり、妹が忘れ物したら届けたり」
「ああ」
「そういうのって、別に誰かに褒められるためにやってるわけじゃないじゃないですか」
「うん」
「だから好きです」
彩花は少し笑う。
「最後に家族が気づくところも好き」
悠真はすぐには答えなかった。
彩花がその主人公を好きな理由。
そこに、本人自身と重なるものがあるように感じた。
ただ、それを簡単に口にしていいとは思わなかった。
「俺も二話目、好きだった」
「本当ですか?」
「ああ」
「三話目より?」
「一番は三話目。でも二話目もかなり」
「よかった」
彩花の顔が柔らかくなる。
「好きな話を好きって言ってもらえると嬉しいですね」
「分かる」
「九条君にもそういう本あります?」
「ある」
「今度教えてください」
「持ってくる?」
「九条君の本?」
「嫌じゃなければ」
彩花の目が少し大きくなる。
今度は悠真の私物。
「借りていいんですか?」
「もちろん」
「じゃあ借りたいです」
「分かった」
また一つ、本の貸し借りが決まった。
今度は彩花からではなく悠真から。
どちらか一方が相手へ渡すだけではない。
好きなものを互いに渡し始めている。
「そうだ」
悠真は横へ置いていたもう一冊を持ち上げる。
「これ」
「あ」
「先週言ってたやつ」
「もう借りていいんですか?」
「ああ。返却期限は来週だけど、俺は読み終わってる」
彩花は受け取る。
「ありがとうございます」
「返すのは図書館に直接でもいい」
「でも感想言いたいです」
悠真の手が一瞬止まる。
「じゃあ、読んだら聞かせて」
「はい」
彩花は自分の鞄へ本をしまった。
互いの手元にあった本が入れ替わる。
それを見届けてから、ようやく紙袋を机へ置いた。
「あと、これ」
「何?」
「栗のパウンドケーキ」
悠真が紙袋を見る。
「作ったの?」
「昨日」
「もらっていいの?」
「九条君、甘いもの嫌いじゃないですよね?」
「好き」
「よかった。前に聞き忘れたから」
「俺が好きか気にしてた?」
「渡すなら気にするでしょ」
彩花は当然のように答えた。
悠真はそれ以上、意味を探さなかった。
「ありがとう」
「初めて作ったから、味は保証できませんけど」
「水瀬さんのお姉さんは?」
「美味しいって言ってました」
「じゃあ大丈夫そう」
「お姉ちゃん、味には結構正直ですよ」
「知ってる」
「何で?」
「学校で話したとき、そんな感じだった」
「ああ」
彩花は笑った。
「でもお姉ちゃん、料理できないから味見専門です」
「スクランブルエッグ」
「絶対本人の前で言わないでくださいね」
「言わない」
「本当に」
「分かったって」
悠真は紙袋を大切そうに鞄へしまう。
その動作を見て、彩花は少し安心した。
自分が作ったものを雑に扱わない。
本と同じだ。
そういう小さな部分を、彩花は以前より自然に見ている。
その日は、最初から長く話し続けなかった。
本を交換したあと、二人はそれぞれ読みたい本を探し、窓際の席へ戻った。
同じ机。
向かい合う席。
会話がなくても気まずくない。
悠真は歴史書を読み、彩花はさっき受け取った小説を開いた。
途中、彩花が一度だけ眉を寄せる。
悠真は気づいたが声をかけない。
数ページ後、今度は彩花が小さく笑う。
それにも何も言わない。
相手が隣にいるからといって、ずっと相手へ意識を向けている必要はない。
そのことを二人とも少しずつ覚えていた。
午後三時を過ぎた頃、彩花が栞を挟んだ。
「ちょっと休憩しません?」
「行こうか」
二人で席を立つ。
先週と同じ休憩スペースへ向かう。
自動販売機の前で、彩花はまた迷った。
「今日は何分?」
悠真が聞く。
「何が?」
「飲み物選ぶ時間」
「そんなに迷ってないですよ」
「先週結構迷ってた」
「三十秒くらいです」
「測ってないから分からない」
「じゃあ今日はすぐ決めます」
彩花は宣言し、ボタンを見る。
レモンティー。
ミルクティー。
ココア。
緑茶。
「…………」
「迷ってる」
「今考えてるだけです」
「同じじゃない?」
「違います」
結局、ミルクティーを選ぶまで四十秒ほどかかった。
悠真は何も言わない。
ただ口元が少し笑っている。
「何ですか」
「別に」
「絶対笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってます」
「水瀬さん、意外と負けず嫌い?」
「九条君にだけは言われたくないです」
「俺?」
「本の解釈違うと、結構粘るじゃないですか」
「議論してるだけ」
「私も選んでただけです」
「じゃあ同じか」
「同じです」
彩花は満足そうにミルクティーを取った。
空いているテーブルへ座る。
今日は周囲にも何組か利用者がいた。
資格試験のテキストを広げた若い女性。
新聞を畳んでコーヒーを飲む男性。
窓際では小学生くらいの女の子が母親と一緒にジュースを飲んでいる。
彩花はペットボトルの蓋を開けた。
「そういえば」
「うん?」
「ハク、元気ですか?」
「元気」
「写真、またあります?」
悠真は少しだけ黙った。
「ハクの?」
「はい」
「俺の写真より見たがるな」
彩花が目を瞬く。
「九条君の写真、見せてもらったことないですよ」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味?」
「……何でもない」
「変なの」
悠真はスマートフォンを取り出す。
昨日撮ったハクの写真を表示した。
「これ」
「可愛い!」
予想通りの反応だった。
庭でボールを咥えているハク。
次はソファの前で寝ている写真。
さらに、正樹の足元へ顎を乗せている写真。
「これ誰ですか?」
「父」
「足しか見えない」
「ハク撮ったから」
「お父さん、切れてますよ」
「別に父を撮りたかったわけじゃない」
彩花が笑う。
「ハク、本当に大きいですね」
「立つと結構ある」
「抱きつけそう」
「たぶん受け止める」
「いいなあ」
画面を見る彩花の顔が本当に楽しそうだ。
悠真は少しだけ複雑だった。
ハクに会わせたら、間違いなく喜ぶ。
それは嬉しい。
同時に、自分よりハクへ夢中になる未来も簡単に想像できる。
(……いや、犬相手に何考えてるんだ)
そこまでで止める。
分析する価値はない。
「九条君?」
「何?」
「次」
「まだ見るの?」
「あります?」
「あるけど」
「見たい」
悠真は次の写真へ送った。
彩花の顔がまた明るくなる。
「可愛い……!」
「水瀬さん」
「はい?」
「ハクのこと、本当に好きだな」
「だって可愛いですもん」
「まだ会ってないのに」
「写真だけでも分かります」
「そういうもの?」
「そういうものです」
断言された。
悠真は水を飲む。
「……俺、負けそうだな」
「何に?」
「何でもない」
「今日それ多いですよ」
「気にしないで」
「気になるんですけど」
彩花は不思議そうにしながらも、それ以上追及しなかった。
「そういえば九条君」
「うん?」
「前に、私のこともっと知りたいって言いましたよね」
「ああ」
「私も九条君のこと、もう少し知りたいって」
「言った」
「だから一個聞いていいですか?」
「どうぞ」
彩花は少し考える。
「九条君って、学校でどんな感じなんですか?」
「どんな感じ?」
「生徒会やってるのは知ってるけど、図書館にいるときと同じなのかなって」
「自分じゃ分からない」
「お姉ちゃんに聞いた方がいい?」
「水瀬先輩とはそんなに会わない」
「そっか」
「でも、たぶん図書館より仕事してる」
「それはそうでしょ」
彩花が笑う。
「真面目?」
「仕事中は」
「人気あります?」
悠真が少し止まる。
「何で?」
「桜華ってすごい人多いじゃないですか。その中で生徒会やってるなら、九条君も有名なのかなって」
「多少は家の名前で知られてると思う」
「女の子にも?」
「……たぶん」
「やっぱり」
彩花は納得したように頷いた。
嫉妬はない。
胸がざわつくこともない。
単純に「そうだろうな」と思っただけだ。
容姿は整っている。
背も高い。
話してみれば優しい。
家柄もいい。
学校では生徒会。
人気がない方がおかしい。
「九条君、モテそうですもんね」
あまりにも普通に言われ、悠真の方が困った。
「……そういう話、水瀬さんからされると思わなかった」
「何で?」
「分からないけど」
「告白されたりするんですか?」
「たまに」
「へえ」
彩花はミルクティーを飲む。
それだけ。
悠真は自分でもよく分からない小さな落胆を覚えた。
もう少し何か反応するかと思った。
けれど、何を期待していたのか。
そこまでは考えない。
「水瀬さんは?」
「何が?」
「告白」
「ないですよ」
即答だった。
「一回も?」
「ないです」
「本当に?」
「何でそんな疑うんですか」
「意外だから」
「何が意外なの?」
「……言わない」
「何で?」
「また困らせそうだから」
「それ余計気になるんですけど」
悠真は水を飲む。
彩花がじっと見る。
「九条君」
「何?」
「言ってください」
「嫌」
「何で」
「水瀬さんが困るから」
「困るかどうかは聞いてから決めます」
「……意外と押すな」
「九条君が途中で止めるからです」
彩花は本当に気になっているらしい。
悠真は少し迷った。
それから、余計な飾りをつけずに言った。
「水瀬さん、可愛いから」
彩花が止まった。
休憩スペースの音は変わらない。
自販機の低い機械音。
ページをめくる音。
遠くから聞こえる子供の声。
けれど彩花だけが、数秒間まったく動かなかった。
「…………」
「だから言いたくなかった」
「……ちょっと待ってください」
「うん」
「今の……」
「聞かなかったことにしてもいい」
「それはそれで無理です」
彩花は両手でミルクティーのボトルを持った。
頬が少し熱い。
自分でも分かる。
「九条君」
「うん」
「そういうの、普通に言うのやめた方がいいですよ」
「どうして?」
「誤解されます」
「誰に?」
「女の子に」
「水瀬さんも女の子だけど」
「そういう意味じゃなくて!」
思わず声が大きくなった。
近くの女性が一瞬こちらを見る。
彩花はすぐに口を閉じ、小さく頭を下げた。
「……声」
「ごめんなさい」
今度は囁く。
「とにかく、可愛いとか簡単に言わない方がいいです」
「簡単に言ってない」
「え?」
「誰にでも言ってるわけじゃない」
彩花はまた止まった。
「…………」
「…………」
「九条君」
「うん」
「今の方が駄目です」
「何で?」
「もっと誤解するから」
「俺は本当のこと言っただけだけど」
「そういうところです!」
今度は声を抑えたまま、強く言った。
悠真は少し困る。
嘘は言っていない。
彩花を可愛いと思う。
最初に笑顔を見たときから。
ただ、本人に言うことの影響を少し軽く考えていたかもしれない。
「嫌だった?」
悠真が真面目に聞いた。
彩花は答えようとして、止まった。
嫌だったか。
「……嫌じゃないです」
そこは正直だった。
「でも恥ずかしいです」
「ごめん」
「だから……」
彩花は少しだけ視線を下げた。
「もうちょっと、言う前に考えてください」
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「努力なんだ」
「水瀬さん相手だと、たまにそのまま出るから」
「…………」
「あ」
「…………」
「今のも?」
彩花が両手で顔を覆った。
「もういいです……」
悠真はさすがに反省した。
「ごめん」
「九条君、学校では絶対こんな感じじゃないですよね?」
「たぶん」
「何で私にはこうなるんですか」
それを聞かれ、悠真は答えられなかった。
答えが分からないのではない。
少しずつ分かり始めているからだ。
会えると嬉しい。
話したい。
もっと知りたい。
可愛いと思う。
他の男子の話が出ると少し気になる。
自分のことを覚えていてもらえると嬉しい。
ここまで揃っていて、いつまでも何も分からないふりをする方が不自然だった。
ただ、今ここで名前をつける必要はない。
「……俺も考えてる途中」
悠真はそう答えた。
「何を?」
「何で水瀬さんにはこうなるのか」
彩花は顔から手を離す。
「自分でも分からないんですか?」
「前よりは分かってる」
「じゃあ何です?」
「まだ言わない」
「ずるい」
「水瀬さんが困るから」
「またそれ」
「今度は本当に」
悠真が笑う。
彩花は納得していない顔をした。
それでも、それ以上は聞かなかった。
自分自身も、今の会話をどう受け止めればいいのか分からない。
ただ一つだけ。
(……可愛い、って)
その言葉が、思ったより長く胸の中へ残った。
休憩を終え、二人は再び閲覧席へ戻った。
けれど彩花はしばらく本へ集中できなかった。
ページを開く。
文字を追う。
数行進んだところで、さっきの言葉が戻ってくる。
『水瀬さん、可愛いから』
(……もう)
顔がまた熱くなりそうになり、本へ意識を戻す。
向かいでは悠真が普通に歴史書を読んでいる。
(何で普通なの)
言った本人は平然としている。
少し腹が立つ。
けれど、嫌ではない。
そこがもっと困る。
これまで親戚から「凛花ちゃんは美人ね」と言われる隣で、「彩花ちゃんは可愛らしいわね」と言われたことはある。
褒め言葉なのは分かる。
でも、その後に続く姉との比較まで含めて覚えているから、「可愛い」という言葉そのものに強く反応したことはなかった。
悠真は違った。
誰とも比べなかった。
凛花の名前も出さなかった。
ただ彩花を見て、可愛いと言った。
(……だからかな)
少しだけ分かった。
嬉しかった理由。
誰かと比べた結果ではなく、自分だけを見て言われたから。
そのことが、恋愛感情とは別の場所で胸へ残っている。
彩花はゆっくり息を吐き、ようやく本へ戻った。
午後四時過ぎ。
二人は図書館を出た。
空は曇っていたが雨はない。
今日は悠真の迎えが少し先の交差点へ来るため、途中まで一緒に歩く。
休憩スペースでの会話から一時間近く経ち、彩花も普段通りに戻っていた。
「九条君」
「うん?」
「さっきのことなんですけど」
「可愛いって言ったこと?」
「自分から言わないでください」
「ごめん」
「……それ」
彩花は少しだけ歩調を落とした。
「嫌だったわけじゃないですから」
悠真が横を見る。
「うん」
「ただ、慣れてないだけ」
「分かった」
「だから謝らなくていいです」
「分かった」
「あと」
「まだある?」
「誰にでも言わないでくださいね」
「言わない」
「本当に?」
「水瀬さん以外に言う予定ない」
「…………」
彩花が足を止めた。
悠真も二歩先で止まり、振り返る。
「九条君」
「……今のも駄目?」
「駄目です!」
「難しいな」
「難しくしてるの九条君ですから!」
彩花は本気で困った顔をしている。
けれど、その口元には少し笑いもあった。
悠真も笑った。
「気をつける」
「お願いします」
二人はまた歩き出す。
交差点へ着く。
「じゃあここで」
「はい」
「パウンドケーキ、ありがとう」
「まだ食べてないでしょ」
「帰ったら食べる」
「感想は正直にお願いします」
「分かった」
「あと本」
「来週、俺のも持ってくる」
「はい」
「水瀬さんが今読んでる方も、感想聞きたい」
「まだ最初ですけど、来週までにはたぶん」
「楽しみにしてる」
以前なら「また会えたら」と言って終わっていた。
今日も約束はしていない。
けれど、互いに来週の話をしている。
「じゃあ、また来週」
悠真が先に言った。
彩花は少しだけ目を瞬く。
それから笑った。
「はい。また来週」
もう「会えたら」は付かなかった。
悠真が家へ帰ると、玄関には当然のようにハクがいた。
「ただいま」
大きな白い頭を撫でる。
ハクの鼻が悠真の鞄へ向く。
「分かるのか?」
紙袋に入ったパウンドケーキ。
甘い香りが僅かに漏れているのかもしれない。
「これは駄目だぞ」
ハクが鞄を追う。
「お前のじゃない」
「何がハクのではないのですか?」
琴葉がリビングから顔を出す。
「最近お前、必ずいるな」
「家ですから」
「そうだけど」
悠真は靴を脱ぐ。
琴葉が紙袋に気づく。
「水瀬さんから?」
「ああ」
「今日は何を?」
「栗のパウンドケーキ」
「また手作りですか?」
「家で作った分を持ってきてくれた」
「兄様」
「何?」
「一人で食べるつもりではありませんよね?」
「……俺がもらったんだけど」
「家族への紹介責任があります」
「何だそれ」
「母様!」
「呼ぶな」
すでに遅かった。
「どうしたの?」
麗華が奥から現れる。
琴葉が即座に答える。
「水瀬さんから兄様へ、手作りの栗のパウンドケーキです」
「琴葉」
「あら」
麗華の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「それは素敵ね」
「家で作った分をもらっただけだから」
「ええ。分かっているわ」
「その顔、分かってないだろ」
「何も言っていないでしょう?」
正論だった。
悠真は何も返せない。
そのとき廊下の向こうから正樹まで現れた。
「何の話だ?」
「父様、水瀬さんの手作りパウンドケーキです」
「琴葉!」
「ほう」
正樹はそれだけ言った。
表情もほとんど変わらない。
しかし歩みが止まっている。
「父さんまで何なんだ」
「いや。別に」
「絶対何かあるだろ」
「ない」
正樹は落ち着いて答えた。
麗華だけが夫を見て微笑んでいる。
悠真は紙袋を抱え直した。
「俺のだからな」
「兄様」
「何?」
「ハクのことを笑えませんね」
「何でだよ」
結局、夕食後に家族で少しずつ食べることになった。
パウンドケーキは、しっとりしていた。
栗の甘さは強すぎず、生地にはバターの香りが残っている。
「美味しいわね」
麗華が言う。
「ええ」
琴葉も頷く。
「初めて作ったと聞かなければ分かりません」
正樹は一口食べたあと、静かにフォークを置いた。
「悠真」
「何?」
「きちんと感想を伝えなさい」
「言われなくても」
「ならいい」
それだけ。
けれど正樹の皿はすでに空だった。
悠真は自分の分を食べる。
本当に美味しい。
彩花が材料を量り、生地を混ぜ、栗を入れて焼いたもの。
その工程を想像する。
以前のようにそこから先の未来まで暴走することはない。
ただ、作っている彩花を少し見てみたいとは思った。
「兄様」
「何?」
「今、何を考えていました?」
「美味しいなって」
「それだけ?」
「あと、水瀬さんが作ってるところを少し見てみたい」
琴葉が固まる。
正樹が水を飲む手を止める。
麗華だけが変わらず微笑んでいる。
「何?」
「兄様」
「だから何だよ」
「今日はもう何も言いません」
「その言い方が一番気になる」
琴葉はパウンドケーキをもう一口食べた。
確かに美味しい。
(この人、以前より悪化しているのではなく、隠さなくなっているだけですね)
それはそれで大変かもしれなかった。
同じ頃。
水瀬家では、彩花が夕食後に凛花と一緒に食器を片づけていた。
「パウンドケーキ渡した?」
「うん」
「喜んでた?」
「まだ食べてなかったけど、ありがとうって」
「そう」
凛花は洗った皿を水切りかごへ置く。
「本は?」
「返してもらった」
「早いわね」
「全部読んでくれてた」
「どの話が好きだったの?」
「三話目」
「当たったの?」
「うん」
彩花の声が少し弾む。
「やっぱり九条君、ああいう話好きなんだよ」
「ずいぶん分かるようになったのね」
「本の好みだけだよ」
「そう?」
「そうだよ」
彩花は布巾で皿を拭く。
少ししてから、思い出す。
『水瀬さん、可愛いから』
手が止まりかける。
すぐ動かす。
「彩花?」
「何?」
「今止まった」
「止まってないよ」
「止まったわよ」
「気のせい」
凛花は妹を見る。
耳がほんの少し赤い。
「……何かあった?」
「何もない」
「九条君?」
「何で!?」
反応が速すぎた。
凛花の目が細くなる。
「彩花」
「本当に何もないって」
「なら何で赤いの」
「暑いから」
「今日二十一度よ」
「キッチンは暑いの!」
「そう」
凛花は追及しなかった。
けれど覚えた。
彩花は皿を拭きながら、少しだけ唇を尖らせる。
(九条君のせいだ)
思い出すだけで恥ずかしい。
それでも、不快ではない。
むしろ。
(……嬉しかったんだよね)
そこはもう否定しなかった。
可愛いと言われたこと。
自分が話したことを覚えていてもらえること。
自分の好きな本を読んでもらえたこと。
その全部が嬉しい。
ただ、それが恋なのかと聞かれたら、彩花はまだ首を傾げるだろう。
九条君は話しやすい。
本の話ができる。
一緒にいると時間が早い。
優しい。
少し変。
そして最近、ときどき困ることを言う。
今はまだ、それで十分だった。
夜。
彩花は自室の本棚へ短編集を戻した。
一週間だけ空いていた場所。
そこへ青い背表紙が収まる。
「……戻ってきた」
指で背を軽く押す。
いつも通りの本棚へ戻った。
なのに、その本は一週間前と少し違って見えた。
悠真が読んだ。
三話目を好きだと言った。
二話目も好きだったと言った。
自分の好きな理由を聞いてくれた。
同じ本なのに、そこへ新しい記憶が増えている。
彩花はしばらく背表紙を見てから、机へ戻った。
鞄の中には、今度は悠真から渡された小説が入っている。
そして来週、悠真は自分の好きな本を持ってくると言った。
「また来週、か」
今日、別れ際に交わした言葉。
会えたら。
そう付けなかった。
約束したわけではない。
時間も決めていない。
それでも二人とも、次の日曜日にまた会うつもりでいる。
彩花は机の上のカレンダーを見た。
日曜日まで、あと七日。
最初の頃なら、その数字に特別な意味はなかった。
今も、一週間を指折り数えるほどではない。
学校もある。
文芸部もある。
家族との時間もある。
読みたい本も、作りたいお菓子もある。
それでも来週の日曜日には、話したい相手がいる。
その事実だけが、彩花の日常へ静かに加わっていた。
九条家の自室では、悠真が本棚の前に立っていた。
「どれにするかな」
彩花へ貸す本。
自分が好きな一冊。
候補はいくつもある。
有名な作品。
読みやすいもの。
彩花が好きそうなもの。
そこまで考えて、手を止める。
「……違うな」
彩花が好きそうな本を選ぶのではない。
自分が好きな本を貸すと約束した。
なら、自分が本当に好きなものを渡せばいい。
悠真は棚の中段から一冊を抜いた。
何度も読んでいる。
派手な物語ではない。
小さな町で暮らす人々の日常を描いた連作小説。
誰かが誰かを助けても、それを大げさに語らない。
人と人との間にある、言葉にならないものを丁寧に拾っていく作品だった。
悠真は表紙を見た。
「これにしよう」
彩花が気に入るかは分からない。
それでいい。
自分が好きなものを知ってもらいたい。
ただそれだけだ。
机の上には、空になったパウンドケーキの袋がある。
本棚から選んだ一冊。
次の日曜日。
悠真はもう、その日を「偶然会えるかもしれない日」とは考えていなかった。
彩花もきっと来る。
自分も行く。
そこで会う。
待ち合わせの時間も、連絡先もないのに、不思議なくらいそれを自然に思える。
図書館で同じ一冊へ手を伸ばした日から、まだそれほど時間は経っていない。
名前すら知らなかった。
次に会える保証もなかった。
それが今では、互いの本が行き来し、食べ物の好みを知り、家族や学校の話をし、来週の話をしている。
関係に名前はない。
悠真も、まだつけようとは思わない。
ただ、以前より確かなことが一つある。
次の日曜日が楽しみだった。
そしてたぶん。
その理由はもう、図書館だけではなかった。




