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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第9話 貸した本、借りた本

日曜日の朝、水瀬彩花が自室で鞄の中身を確認したのは、出かけるまでまだ二時間近くある頃だった。


 財布。


 スマートフォン。


 ハンカチ。


 ティッシュ。


 折り畳み傘。


 最後の一つについては、先日の失敗以来、玄関ではなく普段使う鞄の中へ入れたままにしている。母の紗月からも姉の凛花からも「その方がいい」と言われ、彩花自身も反論できなかった。


 それらを確認してから、机の横へ置いていた一冊の短編集を手に取る。


 淡い青色の表紙。


 高校へ入る少し前に買った本で、これまで三度読み返している。五つの短編が緩やかにつながっていて、最初に読んだときと二度目では好きな話が変わった。


 悠真へ薦めたのは、まだ互いの名前を知って間もない頃だった。


 そのときは「読んでみようかな」という話で終わっていた。


 それを今日、自分の本棚から持ち出す。


「…………」


 彩花は表紙を確認し、裏返す。


 汚れてはいない。


 折れもない。


 念のためページの間に何か挟まっていないか確かめる。


 以前使ったレシートやメモが残っていたら恥ずかしい。


 一通り確認して問題がないことを確かめると、本を透明なブックカバーへ入れた。


「よし」


 そのまま鞄へ入れる。


 少し考え、取り出した。


「……いや、これでいいよね?」


 もう一度確認する。


 問題はない。


 また入れる。


 そこで、自分が妙に慎重になっていることへ気づいた。


(別に、普通に本貸すだけなのに)


 文芸部でも本の貸し借りはする。


 友達へ漫画を貸したこともある。


 こんなに何度も状態を確認した記憶はない。


 ただ今回は、相手が悠真だからというより、彼が自分の大切にしている本を初めて読むから気になるのだと思う。


(好きな本貸すときって、ちょっと緊張するし)


 自分の好きなものを相手へ渡す。


 気に入ってもらえたら嬉しい。


 合わなかったら少し残念。


 本好き同士なら珍しくもない感覚だった。


 彩花はそう納得し、今度こそ鞄を閉じた。


 一階へ下りると、リビングでは耕助がテレビを見ていた。


 日曜午前の情報番組で、青凪市内に新しくできた飲食店が紹介されている。キッチンでは紗月が冷蔵庫の中を整理しており、凛花はダイニングテーブルで英語の問題集を開いていた。


「おはよう」


「おはよう、彩花」


 紗月が冷蔵庫から顔を出す。


「今日も午後から図書館?」


「うん」


「お昼どうする?」


「家で食べてから行く」


「分かった」


 会話はそれだけで終わりかけた。


 以前なら、図書館という言葉に続いて悠真の名前が出ていたかもしれない。


 最近は家族側も少し慣れたらしい。


 彩花自身も、それが楽だった。


「彩花」


 凛花だけが問題集から顔を上げる。


「何?」


「傘」


「入ってるよ」


「今日は降らないと思うけど」


「この前忘れたから、ずっと入れてる」


「ならいいわ」


「お姉ちゃん、お母さんみたいになってるよ」


「あなたが忘れるからでしょう」


「一回だけじゃん」


「一回あれば十分よ」


 彩花は苦笑し、冷蔵庫から麦茶を取り出した。


 凛花は再び問題集へ視線を落とす。


 その横顔を見ながら、彩花は少し迷った。


「今日、本持ってくんだ」


「図書館なんだから本は持っていくでしょう」


「そうじゃなくて。九条君に貸すやつ」


 凛花のシャープペンシルが止まる。


 ほんの一瞬。


 彩花には気づかれない程度だった。


「この前言ってた短編集?」


「うん」


「そう」


 それ以上は何も言わない。


 彩花が少し不思議そうにする。


「それだけ?」


「何か言ってほしいの?」


「いや、お姉ちゃんなら『ちゃんと返してもらいなさい』とか言うかなって」


「九条君なら返すでしょう」


「……信用してるじゃん」


「本を返すかどうかに関してはね」


「私と同じこと言ってる」


 彩花が笑う。


 凛花は少し眉を寄せた。


「何?」


「九条君に『本に関しては信用してる』って言ったら、限定されたって言われた」


「それは限定されるでしょう。まだ知り合って二か月も経ってないんだから」


「だよね」


 彩花は麦茶を飲む。


 凛花は問題集へ戻りながら、内心だけで少し考えた。


 私物の本を貸す。


 大きなことではない。


 けれど返却という理由ができる。


 会うことを完全な偶然へ任せていた二人の間に、「次」が一つ増える。


(……まあ、彩花がいいなら)


 以前なら、そこへ口を挟みたくなったかもしれない。


 今はしなかった。


 悠真本人と話したことで、少なくとも彩花が嫌がる方向へ無理に進める人間ではないと分かり始めている。


 何より、彩花自身が楽しそうだ。


 それなら今は見ていればいい。


 ただし。


(何かしたら話は別だけど)


 その部分だけは一切変わっていなかった。


 午後一時二十分。


 九条家の玄関ホールでは、悠真が靴を履いていた。


 足元にはハクがいる。


 大きな白い体を横たえながら、悠真の動きをじっと見ていた。


「行ってくる」


 ハクの頭を撫でる。


 尻尾が床を二度叩く。


「今日は本を借りる予定なんだ」


 言ってから、悠真は手を止めた。


 誰に説明しているのか。


 もちろんハクである。


 そしてハクは何も聞いていない。


「……まあいい」


「何がよろしいのですか?」


 後ろから琴葉の声がした。


 悠真は振り返らなかった。


「いつからいた?」


「今来たところです」


「本当か?」


「『今日は本を借りる予定なんだ』からです」


「最初からじゃないか」


 琴葉が階段を下りてくる。


 今日は外出の予定がないらしく、淡い色のワンピース姿だった。


「図書館ですか?」


「ああ」


「水瀬さんから本を?」


「この前、貸してくれるって言ってた短編集」


「会えることは確定しているのですか?」


「してない」


「では、いらっしゃらなかったら?」


「普通に本を読む」


 悠真は立ち上がった。


 琴葉が少しだけ目を細める。


「以前よりまともになりましたね」


「何が?」


「会えなかった場合のことまで普通に受け入れています」


「最初から受け入れてた」


「初期の兄様なら、午後二時を三分過ぎただけで『今日は来ない可能性が』などと考え始めそうでしたが」


「そこまでじゃない」


「似たようなことはしていたのでしょう?」


「…………」


「していたのですね」


 琴葉は小さく息を吐く。


 ハクが二人を交互に見る。


「でも」


 琴葉の声が少し柔らかくなった。


「本を貸していただけるのは、よかったですね」


「ああ」


 悠真は素直に頷いた。


「楽しみだ」


「本が?」


「本も」


 琴葉が止まった。


 悠真はそのまま玄関の扉へ向かう。


「行ってくる」


「……行ってらっしゃいませ」


 扉が閉まる。


 琴葉はしばらく玄関を見たあと、足元のハクへ視線を落とした。


「ハク」


 白い犬が見上げる。


「兄様、最近たまにこちらが困るくらい素直ですね」


 ハクは何も答えず、大きくあくびをした。


 午後一時五十二分。


 青凪市立中央図書館の入口を通った彩花は、最初に貸出カウンターではなく窓際の閲覧席へ目を向けた。


 すぐに見つかった。


 悠真が座っている。


 開いた本の横にはノートが一冊置かれ、何かを書き留めながら読んでいた。


(いた)


 その瞬間、彩花の口元が少し緩んだ。


 今日は本を持ってきている。


 だから会えなければ困るという実用的な理由もある。


 それでも、「渡せるからよかった」だけではない気がした。


 見つけたこと自体が少し嬉しい。


 先週、自分が悠真を探していなかったときとは違う。


 それを恋愛へ結びつける発想はまだない。


 仲のいい人を見つけたときに嬉しくなるのと同じだと思った。


 彩花は返却する本をカウンターへ出してから、悠真のいる席へ向かった。


「九条君」


 小声で呼ぶ。


 悠真が顔を上げた。


 表情が明らかに柔らかくなる。


「水瀬さん」


「こんにちは」


「こんにちは」


 彩花は向かいの空いている席を指す。


「ここ、座っていいですか?」


「もちろん」


 以前なら、同じ閲覧席に座るにも少し遠慮があった。


 今は自然だった。


 彩花は椅子を引き、鞄を膝の上へ置く。


「何読んでたんですか?」


「この前借りたやつ」


「あ」


 彩花が悠真の手元を見る。


 第8話で「先に読んで」と渡した、人間関係の描写が丁寧だと評判の小説だった。


「もう半分くらい?」


「もう少し。三分の二くらい」


「早いですね」


「昨日結構読んだから」


「面白い?」


「面白い」


「どんな感じです?」


 彩花が少し身を乗り出す。


 悠真は本を閉じた。


「まだ水瀬さんも読むなら、どこまで言っていいか迷う」


「ネタバレなしで」


「難しい注文だな」


「感想だけ」


「人間関係が丁寧って言ってた意味は分かった」


「本当?」


「ああ。大きなことが起きてるわけじゃないのに、会話の一言で前と関係が変わってる」


「へえ」


「あと、本人たちより周りの人間の方が先に気づいてる感じがある」


「何に?」


「そこは言わない」


「気になる」


「読むときの邪魔になる」


「九条君、こういうところちゃんとしてますよね」


「褒められてる?」


「褒めてます」


 彩花は楽しそうに笑った。


 悠真はその顔を見てから、本を脇へ置く。


「それより」


「はい?」


「本」


「あ、そうだった」


 彩花が鞄を開ける。


「ちゃんと持ってきました」


 透明なカバーに入れた短編集を取り出す。


 悠真の視線がそこへ向いた。


「これです」


 彩花は両手で渡した。


 悠真も両手で受け取る。


 その瞬間、彩花が少し笑った。


「何?」


「やっぱり」


「何が?」


「最初と同じだなって」


「最初?」


「初めて会った日」


 悠真が少し考える。


「あの高い棚の本?」


「はい。九条君、あのときも両手で渡してくれたから」


「水瀬さん、前も言ってたな」


「そうでしたね」


 彩花は本へ視線を落とす。


「あのときは、名前も知らなかったんですよね」


「ああ」


「何か変な感じ」


「まだ二か月も経ってないけど」


「そうなんですけどね」


 彩花は周囲へ迷惑にならないよう、声をさらに落とした。


「今は、九条君がどういう本好きかちょっと分かるし、お祖父さんが歴史好きなのも知ってるし、お姉ちゃんとも話してるし」


「水瀬さんが料理好きなのも知ってる」


「あとお菓子作り」


「裁縫も」


「覚えてたんですか?」


「話したことは結構覚えてる」


 悠真は自然に答えた。


 彩花が少しだけ黙る。


「……記憶力いいですね」


 最終的にはそこへ着地した。


「たぶん、それだけじゃない」


 悠真は思ったまま口にした。


「え?」


「水瀬さんが話したことだから覚えてるんだと思う」


「…………」


 彩花の瞬きが一度遅れた。


 悠真も、言ったあとで自分の言葉を認識する。


 以前ならここから頭の中で何段階も理由を探していた。


 今日はしない。


 実際、そうなのだ。


 彩花が話したことだから覚えている。


 ただ、それを本人へ言うのは少し直接的だったかもしれない。


「……九条君」


「うん」


「そういうこと、さらっと言いますよね」


「この前も言われた」


「言いました」


「嫌だった?」


「嫌じゃないです」


 彩花はすぐに答えた。


 それから少し考える。


「ただ、ちょっと困るというか」


「困る?」


「どう返したらいいか分からなくなるんです」


「ごめん」


「謝らなくていいですって」


 彩花は小さく笑った。


 胸が高鳴るほどではない。


 けれど、悠真の言葉を受けると、ときどき自分の中に置き場所の分からない感覚が生まれるようになった。


 嫌ではない。


 むしろ嬉しい。


 でも、家族や友達に褒められたときとは少し違う。


(……何でだろ)


 そこへ答えを出す前に、彩花は本を指した。


「とりあえず、それ読んでください」


「ああ」


「私は二話目が一番好きです」


「前は三つ目って言ってなかった?」


「九条君が好きそうなのは三つ目。私は二つ目」


「そういうことか」


「読んだら分かります」


「楽しみにしてる」


「返すのは急がなくていいですよ」


「でも水瀬さんの本だから、あまり長く借りないようにする」


「一週間でも二週間でも大丈夫です」


 彩花は何気なく言った。


「どうせまた会うでしょうし」


 言ったあと、自分で少し止まった。


 悠真も止まる。


 ほんの短い沈黙。


「……たぶん」


 彩花が付け足した。


「日曜に来てれば」


「うん」


 悠真は笑った。


「また会うと思う」


 それ以上は言わなかった。


 待ち合わせではない。


 けれど、二人の中ではもう「次」がかなり自然なものになっている。


「水瀬さん」


「はい?」


「今日は何読む?」


「この前借りたやつです」


 彩花も鞄から本を取り出す。


「ここで読む?」


「そのつもりです」


「じゃあ俺も続き読む」


「はい」


 会話が終わる。


 二人は向かい合ったまま、それぞれ本を開いた。


 以前にも同じ空間で別々に本を読んだことはある。


 けれど今日は、どちらからともなく同じ席を選んだ。


 話すためだけではない。


 隣にいること自体を、もうそれほど特別なものとして扱わなくなり始めていた。


 ページをめくる音。


 遠くで椅子を引く音。


 貸出カウンターから聞こえる小さな案内の声。


 空調の低い音が一定に続く。


 彩花は本へ集中していた。


 悠真も同じだった。


 二十分。


 三十分。


 会話はない。


 それでも気まずくない。


 彩花が一度姿勢を変えたとき、向かいの悠真がまだ真剣に本を読んでいるのが目に入った。


(九条君、本当に読むの速いな)


 そう思って自分の本へ戻る。


 悠真もページをめくる途中で一度顔を上げた。


 彩花は片手を頬へ添え、完全に本へ入り込んでいる。


 表情が時々変わる。


 少し眉を寄せる。


 数ページ後には口元が緩む。


 それを眺め続けるのは失礼だと思い、自分の本へ戻った。


 以前なら「今笑った」「何を読んでいるのか」「どこが面白かったのか」と頭の中が忙しくなっていた。


 今は、楽しそうに読んでいるなと思うだけでいい。


 二人の間にある静かな時間は、思った以上に心地よかった。


 一時間近く経った頃、彩花が先に本を閉じた。


 栞を挟み、軽く伸びをする。


 もちろん図書館なので腕を大きく上げたりはしない。


 肩を回す程度だ。


 悠真も気づいて本から顔を上げた。


「休憩?」


「ちょっとだけ。九条君は?」


「ちょうど一区切り」


「読み終わった?」


「あと少し」


「早いなあ」


 彩花は窓の外を見る。


 雲の隙間から日が差し始め、図書館前の木々の葉が明るく見える。


「何か飲みたい」


「自販機行く?」


「行きます」


 二人は本を置いたままにはせず、それぞれ鞄へしまって席を立った。


 図書館一階の休憩スペースには飲み物の自動販売機が二台置かれている。


 館内より少し話しやすい場所で、丸いテーブルが四つ並んでいた。


 子供連れの家族が一組と、参考書を広げた高校生が二人いる。


 彩花は自販機の前で迷った。


「紅茶……ミルクティー……」


「いつも迷う?」


「飲み物は結構迷います」


「本は?」


「もっと迷います」


「知ってる」


「何でですか」


「棚の前で長いから」


「見てたんですか?」


「一緒にいたとき」


「ああ」


 彩花は最終的にレモンティーのボタンを押した。


 悠真は水を選ぶ。


「水?」


「うん」


「九条君、そういうところまで真面目っぽい」


「水を選ぶと真面目なの?」


「何となく」


「水瀬さんの中の俺、だいぶ偏ってない?」


「親切で、本好きで、真面目で、たまに止まる人」


「増えたな」


「あと御曹司」


「それは最後でいい」


「嫌なんですか?」


「嫌ではないけど、それで見られるのはあまり好きじゃない」


 彩花がペットボトルの蓋へ手をかけたまま、悠真を見る。


「どうして?」


「家の名前を知った途端に、態度が変わる人もいるから」


 重く言ったわけではない。


 ただの事実として口にした。


 彩花はすぐには返さなかった。


 九条家がどれほどの家なのか、自分は詳しく知らない。


 けれど桜華学園に通う凛花でさえ名前を知っていた。


 駅前へ迎えの車が来る。


 運転手が「悠真様」と呼ぶ。


 自分とは違う世界にいることだけは分かる。


「私も変わりました?」


 彩花が尋ねた。


 悠真は少し考えた。


「いや」


「ならよかった」


「どうして水瀬さんが安心するの?」


「だって、急に変に気を遣うようになったら、話しにくいでしょ」


「それはそうだけど」


「九条君は九条君だし」


 前にも聞いた言葉だった。


 彩花はレモンティーを一口飲む。


「私にとっては、九条家の人っていうより、図書館で会った九条君の方が先だから」


 悠真は黙った。


 今度は思考が暴走したからではない。


 その言葉を、そのまま受け取っていた。


 家名より先に、自分自身を知っている。


 それは悠真にとって、思っていた以上に嬉しいことだった。


「ありがとう」


「何でお礼?」


「嬉しかったから」


「……またそういうこと言う」


「駄目?」


「駄目じゃないです」


 彩花は少しだけレモンティーのボトルを持ち上げ、口元を隠すように飲んだ。


 視線は悠真から外れている。


 その仕草を見て、悠真は初めて気づく。


 最近、彩花が自分の言葉に少し困ることがある。


 嫌がってはいない。


 ただ、以前のように全部を「九条君って変な人」で処理しなくなっている。


 だからといって、何かを期待するつもりはなかった。


 今はまだ、この変化を覚えておくだけでいい。


「九条君は?」


 彩花が聞いた。


「何が?」


「私のこと。最初と変わりました?」


 思いがけない質問だった。


「かなり」


「えっ」


 彩花が目を丸くする。


「そんなに?」


「ああ」


「最初どう思ってたんですか?」


 悠真は五月の図書館を思い出した。


 高い棚。


 一冊の本。


 背伸びしていた女の子。


 笑顔。


「本を取りたそうな人」


「ひどい」


「まだ話す前だから」


「それはそうですけど」


「話したあとは、本が好きな人」


「普通ですね」


「笑うと――」


 そこで一度だけ言葉を止めた。


 彩花が待っている。


 ここまで言って誤魔化す方が不自然だ。


「……よく笑う人だと思った」


「そうですか?」


「うん」


「自分では分かんないです」


「よく笑うよ」


「九条君が変なこと言うからじゃないですか?」


「それだけじゃないと思う」


「本当かなあ」


 彩花は自分の頬へ軽く触れた。


「じゃあ今は?」


 続けて尋ねる。


 悠真は今度こそ考えた。


 何と答えるかではない。


 自分が彩花をどう見ているか。


 本が好き。


 料理や菓子作りが好き。


 裁縫もする。


 姉を尊敬している。


 自分の得意なことを得意と言うのが少し苦手。


 誰かに何かを渡すときは、その人が喜ぶかを気にする。


 本を読んでいると表情が変わる。


 話していると楽しい。


 会えると嬉しい。


 いろいろ知っている。


 それでも、まだ知らないことの方が多い。


「もっと知りたい人」


 口から出たのは、それだった。


 彩花が完全に黙った。


 休憩スペースの向こうで、自動販売機が低く唸っている。


 小学生くらいの男の子が母親からジュースを受け取り、嬉しそうに椅子へ戻っていく。


 参考書を広げていた高校生がペンを置き、友人と小声で話し始める。


 周囲は何も変わらない。


 けれど彩花の中では、今の言葉だけが少し長く残った。


「……私を?」


「ああ」


 悠真は視線を逸らさなかった。


 自分でも、かなり直接的なことを言ったと思う。


 ただし、嘘ではない。


「まだ知らないこと多いから」


「それは……私もですけど」


 彩花はレモンティーを両手で持った。


「九条君のこと、知らないこといっぱいあるし」


 口にしてから、少し考える。


 学校での悠真。


 家での悠真。


 家族。


 友人。


 好きな本以外の趣味。


 食べ物の好み。


 苦手なもの。


 確かに知らない。


「私も、九条君のことはもう少し知りたいかも」


 悠真の目が僅かに大きくなる。


「……本当に?」


「何でそんな驚くんですか」


「いや」


「だって最近、知らない九条君がちょっとずつ増えてるから」


「知らない俺?」


「学校では生徒会ちゃんとやってるとか、家だと車で迎えに来てもらうとか、お祖父さんのプレゼント真剣に選ぶとか」


 彩花は指を折るように挙げていく。


「図書館で会う九条君しか知らなかったから、ほかにもあるんだなって」


「それを知りたい?」


「ちょっと」


 彩花は素直に頷いた。


 恋愛相手をもっと知りたいという感情ではない。


 仲良くなり始めた相手への興味。


 今の彼女にとっては、それが一番近かった。


 それでも悠真にとって、その「ちょっと」は十分大きい。


「じゃあ」


 悠真は言いかけ、止めた。


「何ですか?」


「いや、何でもない」


「気になる」


「また今度でいい」


「何それ」


「俺にも言わないことくらいある」


「九条君、結構何でも言うのに」


「水瀬さん相手だとそうかも」


「…………」


「また困らせた?」


「少し」


「ごめん」


「だから謝らなくていいです」


 二人とも笑った。


 さっきまでより、少しだけ照れの混じった笑いだった。


 休憩を終えて閲覧席へ戻る途中、入口近くの掲示板の前を通った。


 地域イベントや講座の案内が並んでいる。


 彩花がその中の一枚へ目を留めた。


「古本市」


 来月、市民ホール前の広場で開催されるらしい。


 市内の古書店や個人出店者が参加し、文庫から児童書、専門書まで並ぶと書かれている。


「面白そう」


 悠真も隣から見る。


「行ったことある?」


「ないです。九条君は?」


「俺もない」


「結構大きいみたいですね」


「去年は三十店舗って書いてある」


「そんなに」


 彩花はポスターを読む。


 開催日は土曜日。


 午前十時から午後四時。


 図書館とは別の場所だ。


「行ってみたいな」


 何気なく言った。


 悠真の中で、一つの選択肢が浮かぶ。


 一緒に行かないか。


 誘う。


 それはできる。


 けれど、すぐには言わなかった。


 第8話で彩花は、まだ連絡先を交換せず、図書館で会う今の関係が好きだと言った。


 だから誘ってはいけないわけではない。


 ただ、今日すぐ次の約束まで作る必要もない。


「来月ならまだ先だな」


「そうですね」


 彩花はスマートフォンを取り出し、ポスターの日付を写真に撮った。


「忘れそうだから」


「行くつもり?」


「予定なかったら」


「そっか」


 悠真も日付だけ覚える。


 それで終わった。


 同じイベントへ興味を持った。


 今はそれだけでいい。


 閲覧席へ戻り、再び本を読む。


 悠真はほどなくして小説を読み終えた。


 最後のページを閉じる。


 しばらく余韻を置く。


 向かいでは彩花がまだ読んでいる。


 声はかけない。


 十分ほどして、彩花が栞を挟んだ。


「読み終わりました?」


「ああ」


「どうでした?」


「面白かった」


「それだけ?」


「水瀬さん、次に読むんだろ?」


「あ」


「感想言ったら邪魔になる」


「確かに」


「でも」


 悠真は表紙を見る。


「水瀬さんが好きそうって言ってた理由は分かった」


「じゃあ期待していい?」


「たぶん」


「楽しみ」


 彩花が手を差し出しかける。


 悠真も本を渡そうとして、止まった。


「今借りる?」


「……あ」


 彩花は自分の鞄を見る。


 今日はすでに二冊借りる予定がある。


「どうしよう」


「重い?」


「ちょっとだけ」


「じゃあ次でいい」


「でも九条君、返却しないと」


「期限まだあるから」


「じゃあ……来週でもいいですか?」


「ああ」


「忘れないでくださいね」


「水瀬さんこそ」


「私は忘れません」


「本当に?」


「傘と一緒にしないでください」


 悠真が笑う。


「一回なのに」


「九条君までお姉ちゃんと同じこと言う」


「俺は何も言ってない」


「顔が言ってます」


 彩花も笑った。


 結果として、また一つ「次に渡す本」が増えた。


 悠真の手元には彩花から借りた短編集。


 彩花が次に読む予定の本は、まだ悠真の手元にある。


 返す。


 渡す。


 そのためにはまた会う。


 約束ではないはずなのに、少しずつ次回の輪郭ができていく。


 午後四時前。


 二人は図書館を出た。


 今日は前回より少し早い。


 空は明るく、風も穏やかだった。


「今日も途中まで?」


 彩花が尋ねる。


「今日は迎え、図書館まで来る」


「あ、そうなんですね」


「もう少しかかるけど」


「じゃあここで待つんですか?」


「ああ」


「そっか」


 彩花はそこで別れようとした。


 数歩進みかける。


 止まる。


 振り返る。


「九条君」


「何?」


「迎え、あとどれくらい?」


「十分くらい」


「……じゃあ、それまでいます?」


 悠真はすぐに答えなかった。


 聞き間違えてはいない。


「水瀬さんが?」


「はい」


「どうして?」


「一人で待つより、話してた方が早いかなって」


 彩花自身、それ以上の理由は持っていなかった。


 帰宅を急いでいない。


 天気もいい。


 悠真と話すのは楽しい。


 なら十分くらい一緒にいてもいい。


「迷惑ですか?」


「まったく」


 今度は即答だった。


「じゃあ待つ」


「はい」


 二人は図書館前のベンチへ移動した。


 並んで座る。


 正面には小さな広場があり、幼い子供が父親と手をつないで歩いている。駐輪場では高校生らしい男子が自転車の鍵を外し、道路の向こうでは路線バスが停留所へ入っていった。


 図書館の中とは違い、普通の声量で話せる。


「何話します?」


 彩花が聞く。


「急に言われると困るな」


「九条君、私のこともっと知りたいって言ったじゃないですか」


「言った」


「じゃあ何か聞けばいいですよ」


「何でも?」


「答えられる範囲なら」


 悠真は少し考える。


 家族。


 学校。


 趣味。


 聞きたいことはいくつもある。


 けれど最初に出てきたのは、かなり普通のものだった。


「好きな食べ物は?」


 彩花が笑った。


「普通」


「悪い?」


「もっと難しいこと聞かれるかと思った」


「例えば?」


「分かんないですけど」


 彩花は少し考える。


「好きな食べ物……ハンバーグかな」


「作る?」


「作ります」


「自分で作るものが一番?」


「お母さんのも好きですよ。でも最近は一緒に作ること多いです」


「味は?」


「デミグラスも好きだけど、家だと和風が多いかな。大根おろしとポン酢」


「覚えた」


「何で覚えるんですか」


「水瀬さんのことだから」


「……そうでした」


 自分で質問させたのだから文句は言えない。


「九条君は?」


「何だろう」


「自分で聞いておいて?」


「好き嫌いあまりないから」


「一番」


「祖母が作る炊き込みご飯」


「へえ」


 彩花の顔に興味が浮かぶ。


「九条君の家でも、お祖母さんが料理するんですか?」


「父方の祖母。たまに祖父の家へ行くと作ってる」


「何の炊き込みご飯?」


「季節で変わる。秋なら栗とかきのこ」


「美味しそう」


「美味しい」


「いいなあ」


 彩花は少し想像する。


 九条家と聞くと豪華な料理ばかり浮かんでいた。


 けれど悠真の好きな食べ物が祖母の炊き込みご飯だと聞くと、急に身近に感じる。


「何か意外」


「何が?」


「九条君、もっと高そうなの言うかと思ってました」


「高そうな食べ物って何?」


「フランス料理とか」


「料理名じゃない」


「じゃあ……フォアグラ?」


「毎日食べたくない」


「キャビア」


「同じ」


「トリュフ」


「水瀬さんの中の金持ち像、古くない?」


 彩花が吹き出した。


「だって分かんないんですもん」


「普通にご飯食べるよ」


「お味噌汁も?」


「食べる」


「納豆は?」


「食べる」


「卵かけご飯」


「食べる」


「……九条君、本当に普通ですね」


「最初から言ってる」


「ちょっと安心しました」


「何に?」


「九条家でも納豆食べるんだなって」


「そこ?」


 二人で笑う。


 話題はそのまま、好きな食べ物から苦手な食べ物へ移った。


 彩花はセロリが少し苦手。


 悠真は極端に辛いものが苦手。


 彩花は朝が弱い。


 悠真は比較的早起き。


 悠真は運動自体は嫌いではないが、特定の運動部に所属した経験はない。


 彩花は小学生の頃に一度だけ水泳教室へ通い、半年でやめた。


 どれも、知らなくても困らない情報だった。


 だからこそ面白かった。


 相手の輪郭が、学校名や家族構成ではない小さな部分から少しずつ増えていく。


「じゃあ次、水瀬さんから」


 悠真が言った。


「私?」


「俺ばっかり聞いてる」


「確かに」


 彩花は考える。


「九条君……」


「うん」


「休みの日、本読む以外に何してるんですか?」


「犬の散歩」


「犬いるんですか!?」


 今日一番大きな反応だった。


 悠真が驚く。


「言ってなかった?」


「聞いてないです!」


「そうだったか」


「何犬ですか?」


「サモエド」


「サモエド!?」


 また声が大きくなる。


 幸い外なので誰にも咎められない。


「白くて大きい?」


「かなり大きい」


「ふわふわ?」


「ふわふわ」


「写真あります?」


「あるけど」


「見たいです」


 彩花が一気に距離を詰める。


 悠真はスマートフォンを取り出し、写真フォルダからハクの写真を探した。


「これ」


「わあ……!」


 画面には庭で寝転がるハク。


 真っ白な毛。


 黒い鼻。


 大きな体。


「可愛い!」


「そう?」


「めちゃくちゃ可愛いです!」


 彩花は画面へ夢中だった。


「名前は?」


「ハク」


「ハク君?」


「呼び捨てでいいと思う」


「ハク……可愛い……」


 悠真ではなく、ハクに完全に心を奪われている。


 別の写真へ切り替える。


 今度は玄関で座っているハク。


「これも可愛い!」


「こっちは散歩の前」


「顔が嬉しそう」


「分かる?」


「分かりますよ。絶対楽しみにしてる顔」


 次。


 芝生の上で仰向けになっている。


「可愛い……」


「さっきからそれしか言ってない」


「だって可愛いんですもん」


 彩花が笑う。


「いいなあ。触りたい」


 悠真の指が止まった。


「……触りたい?」


「はい。サモエドって実物見たことないんですよ」


「人は好きだから、たぶん水瀬さんにも懐くと思う」


「本当ですか?」


「ああ」


「いいなあ」


 彩花はもう一度写真を見る。


「会ってみたい」


 その言葉が、悠真の中へ入った。


 家へ来る?


 言おうと思えば言える。


 けれど今は早い。


 彩花自身も、九条家へ行きたいと言ったのではない。


 ハクに会いたいと言っただけだ。


 そこを勝手につなげない。


「いつか機会があったら」


 悠真はそれだけ答えた。


「はい」


 彩花もそれで満足した。


 まだ知らない。


 この一言が、いずれ彩花が九条家を訪れるきっかけの一つになることを。


 黒い車が道路の向こうから近づいてきた。


「あ」


 悠真が立ち上がる。


「迎え来た」


「本当だ」


 彩花も立つ。


 車が図書館前の乗降スペースへ停まった。


「待っててくれてありがとう」


「十分くらいですから」


「楽しかった」


「私もです」


 彩花は鞄へ視線を落とす。


「本、よろしくお願いします」


「大事に読む」


「はい」


「来週までに読み終わると思う」


「急がなくていいですよ」


「感想話したいから」


「……じゃあ、楽しみにしてます」


 彩花が笑った。


 悠真も頷く。


「また」


「また来週。……会えたら」


「ああ。会えたら」


 最後まで約束にはしなかった。


 車へ乗った悠真を見送り、彩花は家へ向かって歩き出した。


 今日は少し不思議だった。


 本を貸した。


 好きな食べ物を聞いた。


 苦手なものも知った。


 犬がいることも知った。


 ハク。


「可愛かったなあ」


 思い出すだけで頬が緩む。


(触りたいな)


 九条家へ行けば会える。


 そこまで考えた瞬間、彩花は少しだけ歩みを遅くした。


 九条家。


 駅前で迎えの車を見ただけでも、自分とは違う世界だと感じた場所。


 そこへ自分が行くところは、まだ想像できない。


「……まあ、いつか機会があったら、だよね」


 悠真が言った通りだ。


 今すぐ考える必要はない。


 彩花は再び歩き出した。


 九条家へ戻った悠真を、ハクはいつも通り玄関まで迎えに来た。


「ただいま」


 白い頭を撫でる。


 ハクが悠真の手へ鼻を寄せる。


「今日、お前の話をした」


 尻尾が動く。


「水瀬さんが会ってみたいって」


 ハクには分からない。


 それでも悠真は少し笑った。


「たぶん、お前はすぐ懐くだろうな」


「兄様」


 また声がした。


 今日はリビングの方からだった。


 悠真はもう驚かなかった。


「琴葉」


「水瀬さんが、ハクに?」


「ああ。写真見せた」


「それで会いたいと?」


「言ってた」


 琴葉はハクを見る。


 ハクは何も知らず、悠真の足元へ座っている。


「兄様」


「何?」


「負ける未来が見えます」


「何に?」


「ハクに」


「何の話だ」


「今は分からなくて結構です」


 琴葉は静かにハクの頭を撫でた。


「あなた、強敵になりそうですね」


 ハクは嬉しそうに尻尾を振った。


 その夜。


 悠真は自室の机で、彩花から借りた短編集を開いた。


 最初のページ。


 図書館の本とは違う。


 彩花が自分で買い、何度も読んだ本。


 透明なカバー越しに、丁寧に扱われてきたことが分かる。


 悠真はページをめくった。


 一話目。


 読み進める。


 彩花は二話目が一番好き。


 悠真には三話目が合いそうだと言っていた。


 先入観を持ちすぎないようにしながら読む。


 それでも、時々考える。


 ここを彩花はどう読んだのか。


 この台詞を好きだと思っただろうか。


 以前なら、そんな自分を一つずつ分析していた。


 今はただ読む。


 感想を話す相手がいる読書は、少し違う。


 その違いを楽しめるようになっていた。


 一方、水瀬家。


 夕食後のリビングで、彩花は凛花へスマートフォンを向けていた。


「見て、お姉ちゃん」


「何?」


「ハク」


 画面いっぱいに白いサモエドが映っている。


 悠真から写真を送ってもらったわけではない。


 帰宅後、犬種が気になって検索した画像だった。


「九条君の家、サモエド飼ってるんだって」


「へえ」


「すごい可愛いの。写真見せてもらった」


「そう」


「ハクっていうんだって」


「詳しくなったわね」


「今日聞いたから」


 彩花は楽しそうに画面をスクロールする。


「触ってみたいなあ」


「九条家へ行けばいるんじゃない?」


 凛花は何気なく言った。


 彩花の指が止まる。


「……お姉ちゃんまで同じこと言う」


「九条君も言ったの?」


「言ってない。『いつか機会があったら』って」


「そう」


 凛花は少しだけ考えた。


 そこで「じゃあ来れば」と言わなかったらしい。


 やはり、急がない。


「なら、そのうち会えるんじゃない?」


「そうかな」


「縁があればね」


「何、その言い方」


 彩花が笑う。


 凛花もほんの少し口元を緩めた。


 今のところ、九条悠真は約束を守っている。


 そして彩花は、自分から少しずつ彼のことを知ろうとしている。


 姉が動かす必要はなかった。


 彩花は自室へ戻ると、今日借りた本を机へ置いた。


 自分の本棚には、短編集があった場所だけ小さな隙間ができている。


 いつもならそこにある一冊。


 今は悠真のところにある。


 たったそれだけのことなのに、空いた場所が少し目についた。


(九条君、どの話好きかな)


 考える。


 三話目という予想は当たるだろうか。


 二話目も好きだと言ってくれたら嬉しい。


 でも違う話でも、その理由を聞くのは楽しそうだ。


 彩花はその隙間をしばらく見てから、今日借りた本を開いた。


 次の日曜日に話すことが、もういくつかある。


 短編集の感想。


 悠真から受け取る予定の小説。


 今日の続き。


 もしかしたらハクの話もするかもしれない。


 以前は図書館へ行き、偶然会えば話していた。


 今は、会ったときに話したいことが先に増えていく。


 それでもまだ、二人は待ち合わせをしていない。


 連絡先も知らない。


 だから次の日曜日に本当に会えるかは、誰にも分からない。


 けれど彩花は、本棚の一冊分の隙間を見るたび、きっと少しだけ思い出す。


 その本が今、誰の手元にあるのかを。

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