第8話 いつもより少し長い午後
日曜日の午前十一時過ぎ、水瀬家のリビングには焼いたパンの香りが残っていた。
朝から雲の多い日だったが、雨が降る気配はない。薄い灰色の光がレースのカーテンを通して床へ落ち、テレビでは昼前の情報番組が流れている。キッチンでは紗月が昼食用のスープを温めており、その隣で彩花は洗ったマグカップを布巾で拭いていた。
「彩花、今日も図書館?」
ソファで新聞を読んでいた耕助が尋ねた。
「うん。返す本あるし」
「最近毎週だな」
「前から結構行ってるよ」
「そうだったか?」
「お父さんが覚えてないだけ」
「そうかもしれない」
耕助は素直に新聞へ視線を戻した。
彩花もマグカップを棚へしまう。
嘘は言っていない。
もともと休日に図書館へ行くことは珍しくなかったし、今日は返却期限の近い本が一冊ある。駅前の書店で見つけた小説も探したい。
ただ、以前とは一つだけ違う。
九条悠真も今日、図書館へ行くつもりだと知っている。
(いるかな)
頭へ浮かんだのは、ごく自然な疑問だった。
これまでも「会えたら本の話をしたい」と考えたことはある。
けれど今日は、相手も自分が来る可能性を知っている。
約束はしていないのに、そのことが妙に意識へ残っていた。
「お昼食べてから行く?」
紗月が鍋を混ぜながら振り返った。
「そのつもり」
「じゃあパン切るね」
「私やるよ」
彩花が包丁を取る。
バゲットを食べやすい厚さへ切り分けていると、二階から足音が聞こえてきた。
凛花が階段を下りてくる。
今日は剣道部の練習が午後からだった。
「おはよう」
「もう十一時だよ」
「起きてたわよ。課題してたの」
「珍しいね、お姉ちゃんが日曜の午前中ずっと家にいるの」
「午後から部活だから」
凛花は冷蔵庫を開け、水を取り出した。
そのまま彩花の服装へ目を向ける。
薄い色のブラウスにロングスカート。
特別なおしゃれではない。
彩花が休日によく着る服だった。
「図書館?」
「うん」
「そう」
それだけ言って、凛花はグラスへ水を注いだ。
彩花が少し意外そうに見る。
「何?」
「いや」
「何よ」
「今日は九条君のこと聞かないんだなって」
「聞いてほしいの?」
「そういう意味じゃないよ」
「なら聞かない」
凛花は水を飲む。
彩花は少し笑った。
学校で悠真と直接話してから、凛花の反応はほんの少し変わった。
警戒していること自体は変わらない。
ただ、以前のように名前が出るたび「男?」と反応するほどではなくなった。
「お姉ちゃん、今日九条君と学校で会わなかった?」
「毎日会うほど接点ないわよ」
「そっか」
「どうして?」
「別に。学校の九条君ってどんな感じなのかなって思っただけ」
凛花の目が彩花へ向く。
彩花はパンを切りながら続けた。
「この前、本屋で会ったとき、迎えの車が来たんだよね」
「聞いた」
「九条君って、本当に私と全然違う生活してるんだなって」
「それで?」
「それだけ」
「……そう」
「でも話してると普通なんだよね」
彩花は切ったパンを皿へ並べる。
「学校では生徒会やってて、家では車のお迎えが来て、図書館では本読んでて。何か、人って場所によって全然違うんだなって思った」
「彩花だってそうでしょう」
「私?」
「学校と家じゃ違うじゃない」
「そうかな」
「違うわよ」
凛花は当然のように答えた。
「家ではもっとだらしないし」
「そっち?」
「本読みながら寝るし」
「それはたまにでしょ」
「お菓子作るとき鼻歌歌ってるし」
「えっ、私歌ってる?」
「歌ってる」
「嘘」
「本当よ」
「知らなかった……」
彩花が本気で驚いている。
凛花は少し笑った。
「九条君だって、あなたが知らないところでは違う顔があるんでしょうね」
「うん」
彩花は頷く。
そのことを、もっと知りたい。
そこまではまだ思わなかった。
ただ、少し面白いとは思う。
自分が知っている九条悠真が、その人の全部ではない。
そんな当たり前のことを、最近になって実感するようになった。
昼食を終え、彩花が家を出たのは午後一時十五分だった。
青凪市立中央図書館までは徒歩でおよそ二十分。
五月に悠真と初めて会ったときと同じ道を歩く。
途中には、あの日新作の「レモンと蜂蜜」の菓子を見つけた洋菓子店がある。季節が進み、ショーケースのおすすめは栗と洋梨を使ったものへ変わっていた。
「美味しそう」
足を少し緩める。
栗のタルト。
洋梨のパウンドケーキ。
紫芋のモンブラン。
(今度、栗のパウンドケーキ作ってみようかな)
スマートフォンへ軽くメモを残す。
そのまま歩き出した。
悠真のために作ろうとは考えない。
家族が食べる。
学校へ持っていってもいい。
もし余って、たまたま会えば悠真にも渡すかもしれない。
今の彩花にとって手作りの菓子は、そういうものだった。
図書館が見えてくる。
彩花はいつも通り自動ドアを抜けた。
館内へ入った瞬間、外より少し低い温度と、紙や木の棚が混じった馴染みの匂いに包まれる。
日曜日の午後なので利用者は多かった。
児童書コーナーから小さな子供の声が聞こえ、新聞閲覧席には高齢の男性が何人も座っている。窓際の閲覧席も半分以上埋まり、貸出カウンターには数人が並んでいた。
彩花はまず返却カウンターへ向かった。
本を返す。
「ありがとうございました」
職員へ頭を下げる。
そこから文芸書の棚へ向かおうとして、ほんの少しだけ歩みが遅くなった。
(九条君……)
無意識に周囲を見た。
先週までなら、お礼を渡す用事があった。
今日は違う。
特に渡すものもない。
聞きたいことならある。
マドレーヌが美味しかったか。
お祖父さんへの本を渡したか。
駅前で話した本のこと。
けれど、どれも急ぎではない。
(……まだ来てないのかな)
窓際。
いつも悠真がいることの多い席。
いない。
別の男性が新聞を読んでいる。
彩花はそこで初めて、自分が少しだけ残念に思ったことへ気づいた。
「…………」
立ち止まりそうになり、歩き直す。
(別に、会う約束したわけじゃないし)
それは言い訳ではなく事実だった。
ただ、今日は会えるかもしれないと思って来た。
だからいなければ、少し残念。
それくらいは普通だろう。
彩花はその感情を無理に消そうとはせず、文芸書の棚へ向かった。
駅前の書店で見つけた本は、すぐに見つかった。
「あった」
背表紙へ手を伸ばす。
貸出中ではなかったことに安堵し、一冊抜き出す。
その場で数ページ確認する。
やはり面白そうだ。
借りることを決め、腕へ抱える。
そのとき、すぐ近くの棚の向こうから声がした。
「見つかった?」
「え?」
彩花が顔を上げる。
棚の端から悠真が姿を見せた。
「九条君」
「こんにちは」
「いつ来たんですか?」
「十分くらい前」
「いたんだ」
「歴史書の方にいたから」
「ああ」
それなら見つからなかったのも当然だった。
彩花の口元が自然に緩む。
「会えましたね」
「ああ」
悠真も笑った。
「会えた」
その返事が妙にまっすぐで、彩花は一瞬だけ目を瞬いた。
けれど深く考えず、腕に抱えた本を見せる。
「この前言ってた本、ありました」
「それか」
「はい」
「買わなくて正解だったな」
「本当に。ちょっと得した気分です」
「その分、別の本買える」
「そういうこと言うと本当に買っちゃいますよ」
「俺のせいになる?」
「少しだけ」
「理不尽だな」
小声で笑い合う。
近くで本を探していた女性がこちらをちらりと見たので、二人とも自然に声を落とした。
図書館ではもう何度も話している。
その距離感にも少し慣れてきた。
「そうだ」
彩花が思い出す。
「マドレーヌ」
「美味しかった」
質問する前に答えられた。
「早い」
「次に会ったら自分で言えって、水瀬先輩に言われたから」
「お姉ちゃんらしい」
「だから先に言った」
「本当に美味しかったですか?」
「本当に」
「お世辞じゃなく?」
「何でそこまで疑うんだ?」
「九条君、優しいから」
悠真は少し困った。
以前なら、どう伝えれば信用してもらえるか細かく考えたかもしれない。
今回はもっと単純にした。
「また食べたいと思った」
彩花が止まる。
「……それなら信じます」
「基準そこ?」
「だって、美味しくなかったらまた食べたいとは思わないでしょ」
「確かに」
彩花の顔に嬉しさが滲む。
「よかった」
「田辺君が三個食べたのも分かる」
「…………」
「…………」
今度は彩花が悠真を見る番だった。
「覚えてたんですか?」
「何となく」
「田辺君のこと?」
「三個の方」
「そっち?」
「たぶん」
自分でも完全には説明できない。
彩花は不思議そうにしたあと、くすっと笑った。
「田辺君、食べ物あるとすごいんですよ」
「そうなんだ」
「昨日も『また作って』って言ってました」
「…………」
胸の奥へ、小さな引っかかり。
前と同じ感覚だった。
今回は少しだけ輪郭がある。
彩花と親しい同年代の男子。
自分の知らない学校生活の中で、彼女の手作り菓子を普通にもらえる相手。
それが気になる。
理由はまだ決めない。
「九条君?」
「うん」
「今また考えてました?」
「少し」
「田辺君のこと?」
思ったより直接聞かれた。
悠真は嘘をつかなかった。
「少し」
「何で?」
「それが分からない」
「また分からないんだ」
「悪い」
「謝ることじゃないですけど」
彩花は首を傾げた。
それ以上追及しない。
悠真も助かったと思った。
今の感情へ名前をつけるには、まだ材料が足りない。
「九条君は何探してたんですか?」
彩花が話題を変えた。
「祖父に渡した本と同じ時代の資料。選んでたら俺も少し気になった」
「お祖父さん、本喜んでくれました?」
「ああ」
「もう渡したんですね」
「昨日、家族で食事したから」
「よかった」
「水瀬さんが書簡集を選んだって言った」
「えっ」
彩花の声が少し大きくなった。
すぐに口元を押さえる。
近くにいた利用者が一人だけ振り向き、彩花は申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「何で言ったんですか」
今度は囁くような声だった。
「隠す理由もなかったから」
「知らない高校生に選んでもらったって言われても困るって言ったじゃないですか」
「困ってなかった」
「何て言ってました?」
「『その子は面白い本の選び方をするな』って」
「…………」
彩花の表情が少し変わった。
「それだけ?」
「あと、読書が好きなのかって」
「九条君、何て?」
「好きだと思うって」
「……そうですけど」
「間違ってた?」
「間違ってないです」
彩花は本の表紙を指で撫でた。
会ったこともない人に、自分の選び方を面白いと言われた。
大したことではないのかもしれない。
それでも少し嬉しい。
「お祖父さん、優しいですね」
「優しいというか……」
悠真は俊治を思い浮かべた。
外では極めて落ち着いた人物だ。
昨日も本を受け取ったときは「ありがとう」と静かに言っただけだった。
ただしその後、悠真が「知り合いの女の子に候補を見てもらった」と話した瞬間だけ、カップを置く動きが止まった。
正樹も止まった。
麗華だけが微笑んだ。
あの数秒間に何が起きていたのか、悠真には分からない。
「……たぶん優しい」
「たぶん?」
「うん」
「家族なのに?」
「家族だから分からないこともある」
「それは分かるかも」
彩花は凛花を思い出して笑った。
「お姉ちゃんも外では完璧な人みたいに思われてますけど、家だと全然違いますから」
「卵焼きがスクランブルエッグになる」
「それ、本人には絶対言わないでくださいね」
「言わない」
「本当に怒りますから」
「覚えておく」
二人はまた小さく笑った。
そこで会話が一度途切れた。
彩花は借りる本を持っている。
悠真には探している資料がある。
いつもなら、ここでそれぞれの本棚へ戻ってもいい。
彩花もそうしようとした。
「じゃあ、私――」
「あの」
悠真の声と重なる。
二人とも止まる。
「九条君からどうぞ」
「いや、水瀬さんから」
「私は本読もうかなって」
「ああ」
「九条君は?」
「……少し聞こうと思ってた」
「何をですか?」
悠真は一度だけ息を整えた。
大げさなことではない。
凛花に言われたことを思い出したからでもない。
ただ、今までとは少し違う。
偶然同じ場所にいたから、その場で話すのではない。
自分から、この後も一緒にいたいと伝える。
「もし水瀬さんがよければ、少し一緒に本を見ない?」
彩花は目を瞬いた。
「一緒に?」
「うん。水瀬さんが借りる本も見たいし、俺が探してる方も、興味があれば」
「…………」
「読みたいなら、そっち優先でいい」
断れる余地を残す。
言ってから答えを待つ。
彩花は腕の中の本を見る。
今すぐ読みたい。
けれど家へ帰ってからでも読める。
悠真と本棚を見るのも楽しそうだ。
以前、第2話で一緒に棚を見たことはある。
ただ、あのときは会話の流れで自然にそうなった。
今日は違う。
今、悠真から「一緒に」と誘われた。
(……どうしよう)
嫌ではない。
むしろ。
「いいですよ」
答えはすぐに出た。
「私も九条君が何探してるか見たいです」
悠真の表情が少し緩む。
「じゃあ行こう」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
最初に向かったのは歴史書の棚だった。
悠真が探していたのは、祖父へ贈った書簡集と同じ十九世紀末から二十世紀初頭を扱った一般向けの本だった。
「九条君、歴史好きだったんですか?」
「嫌いじゃないけど、祖父ほどじゃない」
「じゃあ何で気になったんです?」
「手紙を読んだら、その時代の背景が分かった方が面白そうだったから」
「おお」
「何?」
「ちゃんと影響されてる」
「誰に?」
「私に」
彩花が少し得意そうに言った。
悠真は否定しなかった。
「そうかも」
「認めるんだ」
「水瀬さんが書簡集を選ばなかったら、たぶん探してないから」
「それなら私の影響ですね」
「うん」
彩花は嬉しそうだった。
自分が面白いと思ったものを誰かが気にしてくれる。
その感覚は、好きな本を薦めて読んでもらったときに近い。
「じゃあ、責任持って一緒に探します」
「責任まで取らなくていいけど」
「言ってみただけです」
棚の前で二人は背表紙を追った。
図書館の歴史書コーナーは文芸書ほど混んでいない。少し離れた場所では中年の男性が大型本を開いており、通路の端では大学生らしい女性がノートへ何かを書き写していた。
彩花は一冊ずつ題名を見る。
「これとかどうです?」
「どれ?」
「当時の新聞記事から見る……ってやつ」
悠真が隣へ寄る。
二人で同じ背表紙を見るため、肩の距離が少し近くなった。
彩花は気にしない。
悠真は気づいたが、必要以上に意識しないよう本へ集中した。
「面白そう」
「手紙とはまた違いますけど、その時代の人が何を読んでたか分かるんじゃないですか?」
「確かに」
悠真が本を抜き出す。
中を確認する。
当時の新聞広告や投書欄まで収録されている。
「これ借りる」
「早い」
「水瀬さんの選び方、当たりが多いから」
「そんな何冊も選んでないですよ」
「今のところ外れてない」
「それ、期待値上げないでください」
「じゃあ今のなし」
「もう遅いです」
彩花が笑う。
静かな棚の間で、その笑い声だけが少し明るく聞こえた。
次は文芸書の棚へ戻った。
彩花がすでに抱えている本とは別に、悠真が気になっている作品があるという。
「これ」
悠真が一冊抜く。
彩花は表紙を見る。
「あ、知ってます」
「読んだ?」
「まだです。でも文芸部で話題になってました」
「どんな感じ?」
「人間関係がすごく丁寧らしいです」
「水瀬さん好きそう」
「私もそう思って気になってました」
「じゃあ先に読む?」
「九条君が見つけたのに?」
「別に早い者勝ちじゃないだろ」
「でも一冊しかないですよ」
「俺は別の読むから」
「うーん」
彩花は少し迷った。
受け取ればいい。
悠真が譲ると言っている。
けれど、何となくそれだけでは面白くない気がした。
「じゃあ九条君が先に読んでください」
「いいの?」
「はい」
「どうして?」
「読んだら感想聞けるから」
悠真が黙った。
彩花は続ける。
「それで面白そうだったら、次に私が借ります」
「……次に?」
「はい」
「俺が返したあと?」
「そうです」
「分かった」
悠真は本を自分の腕へ重ねた。
その返事だけは平静だった。
けれど内側では、一つの言葉が残っている。
次に。
彩花は自然に、悠真が読み終えた後の話をしている。
次に会うこと。
その次に本を借りること。
それを特別な約束だと思っていない。
だからこそ嬉しかった。
「ちゃんと読んでくださいね」
「読む」
「適当な感想は禁止です」
「今まで適当に言ったことある?」
「ないです」
「じゃあ信用して」
「分かりました」
彩花は満足そうに頷いた。
二人で棚を見始めてから、三十分ほど経っていた。
時間を確認したのは彩花だった。
「もう二時半」
「本当だ」
「結構見てましたね」
「まだ三十分だけど」
「一人で棚見てる三十分より早かったです」
彩花は何気なく言った。
悠真が横を見る。
「俺も」
「ですよね」
彩花はそのまま歩き出す。
そこに深い意味はない。
ただ、一緒に本を見ている時間が楽しかった。
悠真も、それ以上の意味を無理に求めなかった。
今日の目的はもう十分達成されている。
自分から誘った。
彩花が受けてくれた。
一緒に本を見て、楽しかった。
それでいい。
閲覧席へ向かう途中、館内放送が流れた。
『本日、二階多目的室にて午後三時より、青凪市読書交流会による「十代のための読書案内」を開催いたします。参加は自由です――』
彩花の足が止まった。
「そんなのあるんだ」
悠真も案内板を見る。
入口近くに、小さなポスターが貼られていたらしい。
「知らなかった?」
「全然」
「俺も」
彩花が時計を見る。
あと二十分ほど。
「ちょっと面白そう」
「行く?」
「九条君も興味あります?」
「ああ」
答えてから、悠真は一つ付け加えた。
「水瀬さんが行くなら、俺も聞いてみたい」
彩花が悠真を見る。
「じゃあ行きます?」
「うん」
今度は彩花からだった。
偶然見つけた催し。
それを一緒に見る。
予定にはなかった時間が、さらに少し伸びることになった。
二階の多目的室には、三十脚ほどの椅子が並べられていた。
前方には長机と小さなホワイトボードがあり、司書らしい女性と、読書交流会の名札をつけた男性が資料を準備している。
参加者はまだ十人ほどだった。
中学生らしい親子、高校生二人組、年配の女性など、年齢もばらばらだ。
彩花と悠真は後方寄りの席へ並んで座った。
「こういうの参加したことあります?」
彩花が小声で尋ねる。
「ない」
「私もです」
「文芸部でありそうだけど」
「学校だと部員同士で本紹介するくらいですね」
「水瀬さんは何紹介するの?」
「最近なら……」
彩花は少し考え、以前悠真へ薦めた短編集の名前を挙げた。
「やっぱりそれ好きなんだ」
「好きです。何回か読み返してるので」
「今度読んでみようかな」
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ貸しましょうか?」
言ってから、彩花自身が止まった。
悠真も目を瞬く。
「水瀬さんの本?」
「はい。家にあります」
これまで二人の間にあった本は、すべて図書館のものだった。
彩花自身が持っている本を悠真へ貸す。
それはほんの少しだけ性質が違う。
「……嫌じゃなければ」
彩花が付け加えた。
「嫌じゃない」
悠真はすぐに答えた。
「借りたい」
「じゃあ、今度持ってきます」
「ありがとう」
「でも返してくださいね」
「当然だろ」
「九条君なら大丈夫だと思ってますけど」
「信用されてる?」
「本に関しては」
「限定された」
「だってまだそんなに知らないですし」
あっさり言われた。
悠真は少し笑った。
「それもそうだな」
「でも、本を雑に扱わない人なのは分かります」
「それは?」
「最初に会ったとき」
「最初?」
「私が取ろうとしてた本、ちゃんと両手で渡してくれたから」
悠真は覚えていなかった。
高い棚から本を取り、彩花へ渡した。
そのとき自分がどう持っていたかなど意識していない。
「そんなところ見てたの?」
「本好きな人って、そういうところ見ますよ」
「知らなかった」
「私だけかもしれないですけど」
彩花は小さく笑った。
悠真は少し驚いていた。
自分が彩花の細かな言葉や表情を覚えていることは自覚している。
けれど彩花も、自分の何気ない行動を一つ覚えていた。
もちろん恋愛的な意味などないだろう。
それでも、少し嬉しい。
前方で司会者がマイクを持ったため、二人は会話をやめた。
読書案内は、想像していたより面白かった。
有名な作品を並べるのではなく、「自分と違う価値観を持つ登場人物の本」「一日で読める本」「途中で読むのをやめてもいい本」など、少し変わった切り口で作品が紹介される。
途中、司会者が参加者へ問いかけた。
「皆さんは、本を選ぶときに何を一番重視しますか? 表紙、あらすじ、作者、誰かのおすすめ。いろいろありますよね」
何人かが手を挙げる。
彩花は挙げなかった。
けれど隣で小さく呟く。
「私は最初の数ページかな」
悠真が横を見る。
「読むの?」
「図書館なら。文章が合うか気になるので」
「俺はあらすじかも」
「九条君っぽい」
「どういう意味?」
「先に情報集めそう」
「否定できない」
彩花は笑いを堪えた。
前方の人が話しているので声は出さない。
肩が少し揺れる。
悠真も口元を緩めた。
こうして同じものを聞きながら、時々小さく感想を交わす。
それは今までの読書談義とはまた違った。
四十分ほどで催しは終わった。
参加者が立ち上がり始める。
前方には紹介された本の一覧が置かれており、人が集まっていた。
「もらいます?」
「うん」
二人も列へ並ぶ。
彩花が一覧を一枚取る。
「結構知らないのある」
「俺も」
「これ気になりません?」
「さっき紹介してたやつ?」
「はい」
「読んでみたい」
話しながら部屋を出る。
階段を下りる頃には、午後四時近くなっていた。
「……結構長くいましたね」
彩花が時計を見る。
「水瀬さん、時間大丈夫?」
「はい。今日は夕飯作る日じゃないので」
「普段作るの?」
「お母さんと一緒に。毎日じゃないですけど」
「すごいな」
「普通ですよ」
反射的に出た言葉だった。
悠真はすぐには否定しなかった。
以前なら「普通じゃない」「得意と言っていい」と重ねたかもしれない。
けれど、同じことを何度も言う必要はない。
「今度、何作るか聞いてもいい?」
「そんなの聞いて面白いですか?」
「水瀬さんの話なら」
そこまで言ってから、悠真自身が僅かに止まった。
言葉が思ったより直接的だった。
彩花も一瞬だけ目を瞬く。
「……料理の話なら、いくらでもできますよ」
結局、そう受け取った。
悠真は少しだけ安堵し、同時にほんの少し残念なのかもしれないと思った。
ただ、その理由は追わなかった。
「じゃあ聞く」
「長いですよ?」
「大丈夫」
「本当に長いですよ。最近、栗のパウンドケーキ作ろうかなって考えてて――」
彩花はもう話し始めていた。
洋菓子店で見たもの。
栗を生地へ混ぜるか、ペーストにするか。
甘露煮を使うなら甘さをどう調整するか。
悠真はそれを聞く。
本の話をしているときと同じように、彩花の声が少し弾んでいる。
好きなものを話している顔だ。
「……ごめんなさい」
数分後、彩花が突然止まった。
「何が?」
「本当にずっと話してた」
「聞くって言っただろ」
「でも九条君、お菓子作らないですよね」
「作らない」
「退屈じゃないですか?」
「全然」
「本当に?」
「ああ」
悠真は迷わず答えた。
「水瀬さん、楽しそうに話すから」
「…………」
彩花の声が止まった。
今度は悠真ではない。
彩花の方だった。
「水瀬さん?」
「……九条君って」
「うん」
「たまに、そういうこと普通に言いますよね」
「どういうこと?」
「何でもないです」
彩花は少しだけ視線を逸らした。
頬が赤くなったわけではない。
胸が高鳴ったわけでもない。
ただ、少し照れた。
自分が楽しそうに話していることを見られていた。
しかも、それを退屈ではないと言われた。
(……何か恥ずかしい)
それだけだった。
けれど悠真に対して、今までとは少し違う反応をした最初の瞬間でもあった。
一階へ戻ると、窓の外は午後の光が傾き始めていた。
彩花は借りる本を二冊。
悠真も二冊。
貸出カウンターへ向かう。
今日はそれぞれ別々に会計するようなものもなく、ただカードを出して本を借りるだけだ。
手続きを終え、エントランスへ出る。
そこで彩花が立ち止まった。
「今日、結構一緒にいましたね」
「そうだな」
「何時に会いましたっけ?」
「一時半くらい」
「もう四時過ぎてる」
二時間半ほど。
ずっと話していたわけではない。
本棚を見た。
催しを聞いた。
その合間に話した。
けれど、今まで二人で過ごした中では一番長い。
「疲れた?」
悠真が尋ねる。
「全然」
彩花は即答した。
そのあと、自分の返事の早さがおかしかったのか少し笑う。
「むしろ、早かったです」
「俺も」
「本屋のときもそうでしたけど、九条君と本見てると時間早いですね」
今度は悠真も、すぐに返した。
「水瀬さんといると、俺も早い」
「じゃあ同じですね」
「ああ」
彩花は何気なく言った。
「九条君と話すの、楽しいですし」
悠真が止まった。
完全に。
彩花は数秒待つ。
「……九条君?」
「聞こえてる」
「久しぶりですね、これ」
「自分でも分かってる」
「今日は止まらないと思ってたのに」
「今のは仕方ない」
「何がですか?」
「…………」
説明できない。
いや、できる。
嬉しかった。
それだけだ。
「嬉しかった」
悠真は正直に言った。
今度は彩花が少し黙った。
「……そうですか」
「ああ」
「なら、よかったです」
彩花は小さく笑った。
いつもの自然な笑顔だった。
悠真はそれを見ても、もう止まらなかった。
二人は図書館を出た。
今日は雨もない。
空は薄い雲に覆われているが、西の方だけ淡い金色になっている。
玄関前で別れることもできた。
彩花の家と、悠真の迎えが来る方向は途中まで同じだった。
「九条君、迎えですか?」
「今日は少し先の交差点で待ってもらってる」
「じゃあ途中まで一緒ですね」
「ああ」
どちらから誘ったわけでもなく、二人は並んで歩き始めた。
図書館から続く歩道には、同じように帰る利用者が何人かいる。親子連れが前を歩き、自転車の高校生がベルを鳴らさず脇を抜けていった。
「そういえば」
彩花が鞄を軽く叩く。
「短編集」
「ん?」
「さっき貸すって言ったやつ」
「ああ」
「次に持ってきますね」
「ありがとう」
「でも、いつ持ってくればいいんだろ」
彩花が首を傾げる。
「次の日曜?」
「俺は来るつもり」
「私もたぶん来ます」
「じゃあそのときで」
「でも、会えなかったら持って帰ることになりますよね」
「そうだな」
「重くはないけど」
そこで会話が止まった。
今までなら、それで終わったかもしれない。
会えたら渡す。
会えなければ次。
それで困ることはない。
けれど今日は、彩花の方が少しだけ考えた。
「九条君」
「何?」
「……連絡先って」
悠真の足が僅かに遅くなった。
彩花も自分で言ってから、少し迷う。
「交換した方が便利なんですかね?」
恋愛的な響きはなかった。
純粋に、本を貸すための実務として考えている。
悠真にもそれは分かった。
だからこそ、すぐ「交換しよう」とは言わなかった。
「水瀬さんは、交換したい?」
凛花の言葉を思い出したわけではない。
もう、自分の中でそう聞くことが自然になり始めていた。
「うーん……」
彩花は歩きながら考える。
連絡先。
交換すれば、日曜日に会えるか確認できる。
本の感想も送れる。
便利だ。
けれど、なぜか少しだけ、それをすると今までと関係が変わる気がした。
学校の友人なら何も考えず交換する。
悠真とは、図書館で偶然会うところから始まった。
その曖昧さが嫌なわけではない。
「……もう少し、このままでもいいですか?」
彩花は正直に言った。
悠真は一瞬だけ胸の奥に小さな落胆を感じた。
けれど、それより先に頷いた。
「もちろん」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「別に九条君と連絡取りたくないとかじゃなくて」
「うん」
「何て言えばいいんだろ」
彩花は困ったように笑う。
「今、図書館で会って話す感じが結構好きなんです」
悠真は何も言わず聞いた。
「連絡先交換したら、たぶん『今日行く?』とか聞けるじゃないですか」
「ああ」
「便利なんですけど……今は、行ったら九条君がいるかもしれない、くらいが楽しいっていうか」
彩花自身、説明しながら少し不思議だった。
効率だけなら交換した方がいい。
それでも、まだそうしたくない。
会う約束をしていないからこそ、図書館で見つけたときに少し嬉しい。
その感覚を、もう少し残しておきたかった。
「変ですか?」
「変じゃない」
悠真は答えた。
「俺も、それでいい」
本当は連絡先を知りたい。
それははっきりしている。
けれど、彩花が今の関係を心地よいと思っているなら、それを急いで変える必要はない。
「本は、会えたときに貸して」
「はい」
「会えなかったら次でいい」
「そうします」
彩花の表情がほっと緩んだ。
「ありがとうございます」
「だから何でお礼?」
「九条君、こういうとき無理に言わないから」
「嫌がることしたくないだけ」
彩花が少しだけ悠真を見る。
「……やっぱり優しいですね」
「それ、最初からずっと言われてる気がする」
「だってそう思うから」
「なら受け取っておく」
「はい」
二人はまた歩き出した。
交差点が近づく。
ここで悠真は迎えを待ち、彩花はそのまま直進する。
「じゃあ、ここで」
「うん」
「来週、本持ってきます」
「ああ」
「会えたら」
「会えたら」
二人とも少し笑った。
以前と同じ言葉。
けれど意味は少し変わっている。
最初は、本当に偶然の再会を願うだけだった。
今は互いに日曜日へ行くつもりだと知っている。
それでもあえて、約束にはしない。
今の二人には、その距離がちょうどよかった。
「じゃあまた」
「また」
彩花が歩き出す。
十歩ほど進んだところで振り返った。
「九条君」
「何?」
「今日、楽しかったです」
悠真が答える。
「俺も」
「じゃあ今度こそ、また」
「ああ。また」
彩花は手を小さく振り、今度は振り返らず歩いていった。
悠真はその後ろ姿が交差点の向こうへ消えるまで見送らなかった。
数秒だけ見て、それから迎えの車が来る方向へ向き直る。
今日は十分だった。
会えた。
自分から一緒に本を見ようと誘った。
彩花は受けてくれた。
二時間以上を一緒に過ごし、楽しかったと言ってくれた。
そして連絡先は交換しなかった。
少し残念ではある。
けれど、不満ではなかった。
『今、図書館で会って話す感じが結構好きなんです』
その言葉の方が、今は大きかった。
彩花にとっても、この時間が心地よい。
それを知れただけで十分だと思えた。
水瀬家へ帰った彩花は、玄関で靴を脱いだところで凛花と鉢合わせた。
剣道部から帰ってきたばかりらしく、凛花はジャージ姿だった。
「おかえり」
「ただいま。お姉ちゃんも今?」
「十分くらい前」
「そっか」
彩花は靴を揃える。
「九条君いた?」
「いたよ」
以前なら凛花の表情を確認したかもしれない。
今日は普通に答えた。
「今日は一緒に本見て、図書館の読書案内も聞いてきた」
「……ずいぶん長く一緒にいたのね」
「二時間半くらいかな」
凛花の動きが一瞬だけ止まる。
しかし何も言わない。
「楽しかった?」
「うん」
彩花は迷わなかった。
「九条君と話すの、楽しい」
凛花は妹を見る。
恋をしている顔ではない。
それは分かる。
けれど以前より一段、悠真が彩花の日常へ入ってきていることも分かった。
「そう」
「あと、今度本貸すことになった」
「あなたの?」
「うん。前に話してた短編集」
「大事にしてるやつでしょう?」
「九条君ならちゃんと扱ってくれると思うから」
その言葉に、凛花は少しだけ目を細めた。
信用。
恋愛ではない。
けれど、人との距離が縮まるときに必要なものではある。
「連絡先は?」
「交換してないよ」
「そう」
「交換した方が便利かなって話にはなったんだけど」
凛花が今度こそ彩花を見る。
「あなたから?」
「うん。でも、まだいいかなって」
「九条君は?」
「いいって」
「……そう」
「図書館で会えたときに本渡す」
彩花はそれだけ言い、階段へ向かう。
「着替えてくるね」
「ええ」
凛花はその背中を見送った。
連絡先を欲しがって押さなかった。
彩花が「まだこのままがいい」と言えば、そのまま受け入れた。
生徒会室で交わした約束を、悠真は彩花が知らないところでも守っているらしい。
(……本当に真面目ね)
警戒を解くつもりはない。
ただ、評価する材料がまた一つ増えた。
その夜、彩花は借りてきた本を机の上へ置き、本棚から一冊の短編集を抜き出した。
何度も読んだ本なので、表紙の角がほんの少し柔らかくなっている。
ページを開く。
書き込みはない。
栞も抜いてある。
悠真へ貸す。
そう思うと、いつも自分の部屋にある本が少し違って見えた。
「……ちゃんと返してくれるよね」
すぐに自分で笑う。
そこは心配していない。
むしろ、どの話を好きだと言うのかが気になった。
(九条君なら、三つ目かな)
予想する。
でも外れるかもしれない。
それが楽しみだった。
彩花は短編集を通学鞄ではなく、日曜日に使う鞄の横へ置いた。
六日も先なのに。
そこまでしてから、自分の行動に気づく。
「……忘れないように、だから」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
そして少し笑った。
九条家では、悠真が今日借りた小説を開いていた。
彩花が「先に読んで」と言った本。
読み終えたら、次は彼女が借りる。
そのことが、いつもより少しだけページをめくる楽しみを増やしている。
感想を話す相手がいる。
次に渡す相手がいる。
その「次」を、互いに当然のように想像し始めている。
悠真はページをめくった。
机の端には、今日の読書案内でもらった一枚のリストが置いてある。
その中の一冊に、小さな印がついていた。
彩花が「これ気になる」と言った本だった。
自分でも読みたいと思ったから印をつけた。
それだけだ。
けれど、以前の悠真なら、その理由をさらに何段階も分析していたかもしれない。
今はしない。
水瀬彩花と本の話をするのが楽しい。
次に会うのが楽しみだ。
その二つは、もう否定する必要のない事実だった。
そして次の日曜日。
彩花の鞄には、自分が読むための本とは別に、悠真へ貸す一冊が入る。
約束した待ち合わせではない。
連絡先もない。
それでも彼女は、その本を持って図書館へ行く。
誰に渡すためなのかは、もう分かっていた。




