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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第7話 いつもと違う場所で


 水曜日の放課後、県立青葉高校の文芸部室には甘い菓子の匂いが残っていた。


 窓の外では九月の夕方らしい淡い日差しが校舎の壁を照らし、グラウンドから運動部の掛け声が途切れ途切れに届いている。開け放した窓から入る風は昼間よりいくらか涼しく、机の上に積まれた原稿用紙の端をときどき小さく揺らしていた。


「水瀬、これもう一個食っていい?」


「駄目」


「何で!?」


「田辺君、もう三個食べたでしょ」


「まだ三個だろ?」


「三個も、だよ」


 彩花は空になりかけた保存容器を田辺大地の手が届かないところへ移した。


 今日持ってきたのは、一口サイズの小さなマドレーヌだった。先週のクッキーと同じく、特定の誰かのためではない。新しい型を買ったので試しに焼き、家族だけでは食べきれないから学校へ持ってきたものだ。


 昼休みにクラスメイトへいくつか配り、残りを文芸部へ持ってきた。


 その結果、大地がなぜか文芸部室までついてきた。


「そもそも田辺君、文芸部じゃないじゃん」


「食べ物の前に部活の壁なんてない」


「あるよ」


「水瀬、冷たいな」


「三個食べた人に言われたくない」


 近くで原稿を読んでいた二年生の先輩が吹き出した。


「田辺君、もう入部すれば?」


「マドレーヌ出ます?」


「出ない」


「じゃあやめときます」


「帰って」


「はい」


 即答だった。


 大地は立ち上がり、鞄を肩へかける。


「ごちそうさまでした。水瀬、また何か作ったらよろしく」


「毎回もらえると思わないでよ」


「期待は自由だろ」


「それはそうだけど」


「じゃあな」


「うん、また明日」


 大地が文芸部室を出ていく。


 扉が閉まると、先輩が笑いながら彩花を見る。


「田辺君、ほんと食べるね」


「食べ物あるとすぐ来るんですよ」


「仲いいよね」


「クラス同じですから」


「そういう意味じゃなくて」


「?」


 彩花が首を傾げる。


 先輩は数秒その顔を見たあと、何でもないと笑った。


「水瀬さんって、そういうところあるよね」


「どういうところですか?」


「そのうち分かる」


「何ですか、それ」


 教えてくれそうにない。


 彩花は少し不満だったが、追及するほどでもないので残ったマドレーヌへ視線を戻した。


「先輩、もう一個いります?」


「もらう」


「田辺君と同じじゃないですか」


「私は部員だから」


「その理屈はずるいです」


 笑いながら一つ渡す。


 容器にはあと二つ残った。


 家へ持ち帰ればいい。


 そう思って蓋を閉めかけたところで、ふと日曜日のことが頭に浮かんだ。


 悠真へ渡したクッキー。


 美味しかったと凛花から聞いた。


(……今度会ったら、本当に美味しかったか聞こうと思ってたんだっけ)


 その「今度」がいつになるかは分からない。


 連絡先も知らない。


 次の日曜日に図書館へ行けば、また会う可能性は高いだろう。


 けれど、必ず会うわけではない。


 五週続いた偶然が六週目にも続く保証などなかった。


「水瀬さん?」


「あ、はい」


「蓋」


「え?」


「閉めるなら閉めないと乾燥するよ」


「あっ」


 手が止まっていた。


 慌てて容器の蓋を閉める。


「ごめんなさい」


「何で私に謝るの」


「確かに」


 先輩が笑った。


 彩花もつられて笑い、容器を鞄へしまった。


 そのまま原稿の整理へ戻る。


 悠真のことを考えていた時間は、ほんの数十秒だった。


 その日の文芸部は、いつもより少し遅く終わった。


 来月発行する部誌の校正作業が予定より長引き、彩花が校門を出た頃には午後五時半を過ぎていた。


 空はまだ明るいものの、太陽はかなり低い。


 家へ帰るには駅前を通る。


 彩花は歩きながらスマートフォンを確認し、紗月から連絡が来ていないことを確かめた。


 今日は買い物を頼まれていない。


 そのまま帰ってもいい。


 けれど、昨日駅前の書店で買った本を読み始めたら、同じ作家の別作品も気になってしまった。


(書店、寄ろうかな)


 数分迷い、結局足を駅前へ向ける。


 こういう寄り道は珍しくない。


 本屋へ入り、気になった本を眺める。


 買わなくても楽しい。


 図書館とは違い、新刊が並んでいるのも好きだった。


 青凪駅前の商業通りは、帰宅時間と重なって人通りが増えている。制服姿の高校生、仕事帰りらしい会社員、買い物袋を持った親子連れが行き交い、駅前のロータリーからはバスの発車を知らせる音が聞こえていた。


 彩花は横断歩道を渡り、書店が入っている商業ビルへ向かった。


 同じ頃。


 私立桜華学園から青凪駅へ向かう道を、悠真は一人で歩いていた。


 今日は生徒会がない。


 普段なら学校から家へ直接戻るところだが、麗華から珍しく頼まれ事をされていた。


『駅前へ行くなら、お祖父様への誕生日の品を一緒に見てきてくれない?』


 来週、俊治の誕生日がある。


 家族で贈るものとは別に、麗華が個人的に本を贈りたいらしい。


 ただし本人が選ぶと、以前贈ったものと重複しそうなので、悠真に確認してほしいという話だった。


 俊治の書斎にある本は、悠真もある程度把握している。


 そのため断る理由もなかった。


 駅前へ着き、商業ビルへ入る。


 エスカレーターで三階へ上がる。


 書店の自動ドアを通ったところで、冷房の空気と紙の匂いが混じった独特の感覚がした。


 図書館より明るい。


 新刊の帯や平積みされた表紙が視界へ入る。


 悠真はスマートフォンに入れてきた候補リストを確認し、歴史関係の棚へ向かった。


 俊治は近代史が好きだ。


 ただ、専門書に近いものは本人が先に買っている可能性が高い。


「これは……あるな」


 一冊手に取り、戻す。


 別の新刊を見る。


 帯の内容を確認。


 これはまだ書斎では見ていない。


 候補に入れてもいい。


 スマートフォンへ書名を入力していると、少し離れた場所から女性の声が聞こえた。


「すみません、この作家の前の作品って、どの辺にありますか?」


 聞き覚えがあった。


 悠真の指が止まる。


 顔を上げる。


 新刊コーナーの向こう。


 店員へ何かを尋ねている女子高校生がいる。


 県立青葉高校の制服。


 肩までの髪。


 横顔。


 見間違える理由がなかった。


(……水瀬さん)


 日曜日ではない。


 図書館でもない。


 それだけで、見慣れた相手が少し違って見えた。


 悠真はその場で一歩動きかけ、止まった。


 声をかけていいのか。


 考える。


 彩花は店員と話している。


 なら、今は待った方がいい。


 以前ならここで「偶然会った意味」まで考え始めていたかもしれない。


 しかし今は、そこまで広げなかった。


 単純に嬉しい。


 それだけで十分だった。


「こちらですね」


「ありがとうございます」


 店員に案内され、彩花は文芸書の棚へ向かった。


 探していた作家の名前を見つける。


「あった」


 背表紙を順に見る。


 昨日買った作品より二年前に出た小説。


 文芸部の先輩によれば、こちらも面白いらしい。


 買うかどうか迷う。


 図書館にあるかもしれない。


(次の日曜に探してみようかな)


 そう考え、本を一度棚へ戻した。


 そこで隣の通路へ目を向ける。


 見覚えのある人がいた。


「……九条君?」


 声に出す。


 悠真がこちらを向いた。


「水瀬さん」


「えっ」


 彩花は思わず笑った。


「何でいるんですか?」


「本屋だから」


「それはそうですけど」


 答えが真面目すぎて、余計におかしい。


「そうじゃなくて。ここで会うと思わなかったから」


「俺も」


 悠真も少し笑った。


「学校帰り?」


「はい。文芸部がちょっと遅くなって。九条君は?」


「今日は生徒会がないから、祖父へのプレゼントを見に来た」


「お祖父さんに?」


「来週誕生日なんだ」


「へえ。何を買うんですか?」


「本」


「九条君らしい」


「俺が読むわけじゃないけど」


「でも、本をプレゼントに選ぶところが」


 彩花はそう言ってから、棚に並ぶ本へ視線を向けた。


「お祖父さんも本が好きなんですね」


「かなり読む。特に歴史関係」


「じゃあ選ぶの大変そう」


「大体持ってるから、それが一番困る」


「ああ、それは大変」


 彩花は心底納得した。


 本好きへ本を贈るのは、簡単そうで難しい。


 好みが分かっていても、すでに持っている可能性がある。


「何冊くらい候補あるんですか?」


「今は三冊」


「見てもいいですか?」


 悠真が一瞬だけ目を見開いた。


「いいけど」


「私、歴史はそんなに詳しくないから役に立たないかもしれないですけど」


「それでも助かる」


「じゃあ見たいです」


 彩花は自然に悠真の隣へ並んだ。


 悠真はスマートフォンに入力していた候補を見せる。


 三冊。


 一冊は近代日本史。


 一冊は海外の都市史。


 もう一冊は歴史上の手紙を集めた書簡集だった。


「これ面白そう」


 彩花が指したのは三冊目だった。


「書簡集?」


「はい。歴史の解説だけじゃなくて、その人が実際に書いた手紙が載ってるんですよね?」


「そうみたいだな」


「だったら、その時代の人が何を考えてたか分かりそう」


 悠真は彩花を見る。


「水瀬さんはそういうのが好き?」


「好きです。歴史そのものっていうより、人が何考えてたか読むのが好きなのかも」


「小説でも?」


「そうですね」


 彩花は少し考える。


「事件がいっぱい起きる話も面白いけど、私は登場人物が何でそうしたのか分かる話の方が好きです。言葉にしてなくても、ちょっとした行動とかで気持ちが分かるのとか」


「前に話した小説もそうだったな」


「あ、そうです」


 すぐ通じたことが嬉しくて、彩花の声が少し弾んだ。


「あれも、最後まで全部説明してなかったじゃないですか。でも、ちゃんと読んでると分かる感じが好きで」


「だからあの終わり方が好きだったんだ」


「たぶん」


 彩花は笑う。


「九条君は?」


「俺は最初、もう少し説明が欲しいと思った」


「言ってましたね」


「でも水瀬さんと話してから読み返したら、あれくらいでいいと思った」


「本当ですか?」


「ああ」


「何か嬉しい」


「どうして?」


「自分と違う読み方してた人が、話したあとにちょっと見方変わるのって面白くないですか?」


「面白い」


「ですよね」


 彩花は嬉しそうに頷いた。


 図書館と同じだった。


 本の話を始めると、言葉が自然に出てくる。


 相手がきちんと聞いてくれるから、話しやすい。


(やっぱり九条君と本の話するの、楽しいな)


 それは以前より少しはっきりした感覚だった。


 恋愛とは結びつかない。


 ただ、同じ本を読んでも違うところを見ていて、その違いを話せる相手がいることが楽しい。


「じゃあ、この書簡集がいいと思います」


 彩花が言った。


「理由は?」


「九条君のお祖父さんの好み、私知らないから断言できないですけど……すごく本を読む人なら、普通の歴史解説は似た本を持ってそうだから」


「なるほど」


「これはちょっと違うかなって」


「確かに」


 悠真は書簡集を棚から取り出した。


 中身を確認する。


 ページの構成も悪くない。


「これにしようかな」


「私が決めちゃっていいんですか?」


「最後に決めるのは俺だけど、水瀬さんの意見は参考にする」


「それなら」


 彩花は安心したように笑った。


 悠真はその笑顔を見た。


 嬉しい。


 今は、それ以上分析しない。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 二人は歴史書の棚から離れた。


 そこで別れても不自然ではなかった。


 悠真には目的の本が見つかった。


 彩花にも探していた本がある。


 けれど、彩花が歩き出したあと、二歩ほど進んで振り返った。


「九条君」


「ん?」


「そういえば」


 鞄を開ける。


「これ」


 取り出したのは、小さな透明の袋だった。


 中にはマドレーヌが二つ入っている。


 悠真の視線が止まる。


「今日、学校で配った残りなんですけど」


「…………」


「九条君、甘いもの大丈夫でしたよね?」


「ああ」


「よかったら一個いります?」


 悠真は袋を見た。


 次に彩花を見る。


「……いいの?」


「もちろん。二個あるし」


 彩花は何のためらいもなく袋を開け、一つ差し出した。


「田辺君が三個食べたから、これで最後です」


 悠真の手が止まった。


「田辺君?」


「クラスの友達です」


「…………」


「どうしました?」


「いや」


 悠真はマドレーヌを受け取った。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 彩花は残り一つを袋へ戻す。


 悠真の中に、今までとは少し違う引っかかりが生まれていた。


 田辺君。


 三個。


 クラスの友達。


 それだけの情報だ。


 彩花が学校で作った菓子を友人へ配ることは、先週のクッキーでも分かっている。


 だから自分だけが特別にもらっているわけではない。


 それも分かっている。


 分かっているのだが。


(……三個)


 なぜそこだけ気になるのか。


 今回はまだ答えを出さなかった。


 ただ、今までとは違う種類の感情だったので、その存在だけは無視しなかった。


「九条君?」


「何?」


「また考えてる?」


「少し」


「マドレーヌ一個で?」


「マドレーヌのことじゃない」


「じゃあ何ですか?」


「……まだ分からない」


 彩花が目を瞬く。


 それから笑った。


「九条君、最近それ多くないですか?」


「そうか?」


「前より増えた気がします」


「気をつける」


「別に気をつけなくてもいいですけど」


 彩花は楽しそうだった。


 悠真もそれ以上考えるのをやめた。


「水瀬さんは何を探しに来たんだ?」


「あ、そうだった」


 彩花は先ほどの棚へ戻る。


「昨日買った本が面白くて。同じ作家の前の作品も気になったんです」


「どれ?」


「これです」


 一冊を抜き出す。


 悠真は表紙を見る。


 知らない作品だった。


「面白い?」


「まだ読んでないですよ」


「昨日のは?」


「まだ半分くらい」


「それなのに次を探しに来たの?」


「面白いと、先に確保したくなりません?」


「少し分かる」


「ですよね」


 彩花は本を手に取ったまま、値段を見る。


 少し迷う。


「買わないの?」


「図書館にあるかもしれないから」


「ああ」


「新刊じゃないし、たぶんあると思うんですよね」


「じゃあ日曜に探す?」


 悠真は自然に言った。


 彩花も自然に答えかけた。


「はい。たぶ――」


 途中で止まる。


 二人の視線が合った。


「…………」


「…………」


 先に彩花が口を開いた。


「九条君、日曜も行くんですか?」


「行くつもりだけど」


「やっぱり」


「水瀬さんも?」


「たぶん」


 彩花は笑った。


「じゃあ、また会うかもしれないですね」


「ああ」


 そこで終わった。


 待ち合わせではない。


 何時に行くかも聞かない。


 約束もしない。


 けれど、今までの「また会えたら」とは少し違っていた。


 二人とも日曜日に図書館へ行くつもりだと知っている。


 その事実だけが、静かに残った。


 彩花は本を棚へ戻した。


「今日は買わないでおきます」


「日曜まで待つ?」


「はい。なかったらそのとき考えます」


「分かった」


「九条君はそれ買うんですよね?」


「ああ」


「お祖父さん、喜んでくれるといいですね」


「水瀬さんが選んだって言ったら驚くかもな」


「絶対言わないでください」


 彩花がすぐに返した。


「何で?」


「知らない高校生に本選ばれたって言われても困るでしょ」


「確かに」


「九条君が選んだことにしてください」


「嘘にはならない。最終的に選んだのは俺だから」


「そういうところ真面目ですよね」


「よく言われる」


「お姉ちゃんも言ってました」


 悠真が少し反応する。


「水瀬先輩が?」


「はい。昨日、学校で話したって聞きました」


「ああ」


「九条君、学校でも真面目だったって」


「……それは褒められてる?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「お姉ちゃん、九条君のことずっと警戒してたから」


「やっぱり」


「気づいてたんですか?」


「昨日話して分かった」


「ごめんなさい」


「何で水瀬さんが謝るんだ?」


「妹のことで警戒されるの面倒かなって」


「面倒じゃない」


 悠真はすぐに答えた。


「大事にされてるんだなと思った」


 彩花の表情が柔らかくなる。


「お姉ちゃん、優しいんです」


「うん」


「何でもできるし」


 また、その言葉。


 悠真は覚えていた。


 昨日の凛花との会話もある。


 だから今回は、すぐに何かを言おうとはしなかった。


「でも料理はできないんですけどね」


 彩花が続けた。


「そうなの?」


「びっくりするくらい」


「意外だな」


「この前も卵焼き作ろうとして、何でかスクランブルエッグになりました」


「それは……」


「しかも焦げてました」


「…………」


「笑っていいですよ」


「本人の前では?」


「絶対やめた方がいいです」


「分かった」


 二人で笑った。


 彩花が姉について話す声は明るい。


 昨日のような比較の陰りは、今はない。


 悠真はそれを確認しただけで、余計なことは言わなかった。


 レジの列は少し混んでいた。


 悠真が書簡集を持って並び、彩花は買うものがないので少し離れた新刊台を見て待った。


 待つ必要はなかった。


 けれど、何となくそのままいた。


 悠真が会計を終える。


「待たせた」


「全然」


「水瀬さん、何も買わなかったのに待ってたの?」


「一緒に話してたのに、急に帰るのも変かなって」


 彩花にとってはそれだけだった。


 悠真にとって、その一言は十分すぎた。


 しかし今回は表情を止めなかった。


「ありがとう」


「何のお礼ですか?」


「待っててくれたから」


「二分くらいですよ」


「それでも」


「九条君って、ほんと律儀ですね」


 彩花は笑った。


 二人で書店を出る。


 商業ビルの外へ出ると、夕方の空気が少し冷たく感じられた。


 駅前には帰宅する人が増え、バス停には列ができている。


「水瀬さん、電車?」


「いえ、ここから歩きです」


「俺は迎えが来る」


「え」


 彩花が足を止めた。


「迎え?」


「ああ」


「車で?」


「うん」


「……御曹司っぽい」


 ぽつり。


 悠真も止まった。


「何?」


「ごめんなさい。今ちょっと思いました」


「何を?」


「九条君、本当に御曹司なんだなって」


「本当にって」


「だって図書館で話してると普通だから」


「普通だよ」


「でも桜華学園で、九条家で、車がお迎えに来るんですよね?」


「そうだけど」


「すごい」


 彩花は素直に感心していた。


 嫌味も距離を置く感じもない。


 ただ、自分とは違う生活を少し覗いたような顔だった。


 悠真は何と答えればいいか迷う。


「水瀬さんは、そういうの気になる?」


「そういうの?」


「家のこと」


「うーん」


 彩花は少し考えた。


「珍しいとは思います」


「うん」


「でも九条君は九条君ですよね」


 あっさりした答えだった。


「図書館で本読んで、たまに考え込みすぎて止まる人」


「そこが俺の基準なの?」


「あと親切」


「追加された」


「本の話ができる」


「それも」


「真面目」


「それは昨日追加?」


「お姉ちゃん情報です」


 彩花が笑う。


 悠真もつられて笑った。


 九条家という名前を知っていても、彩花の中で自分の見え方が急に変わるわけではない。


 それが少し嬉しかった。


 ちょうどそのとき、道路脇へ黒い車が静かに停まった。


 悠真が確認する。


「迎え来た」


「本当に来た」


「そこまで驚く?」


「ちょっとだけ」


 運転席から降りた男性が、悠真へ軽く頭を下げた。


「悠真様、お待たせいたしました」


「ありがとう」


 彩花の目が僅かに大きくなる。


 悠真様。


 図書館では絶対に聞かない呼ばれ方だった。


(……本物だ)


 何が本物なのか自分でも分からない。


 ただ、九条悠真が自分とはかなり違う環境で暮らしていることを初めて実感した。


 運転手の男性も彩花へ気づいた。


 けれど余計なことは尋ねず、丁寧に会釈するだけだった。


 彩花も慌てて頭を下げる。


「こんばんは」


「こんばんは」


 返事も穏やかだった。


「じゃあ、水瀬さん」


「はい」


「今日はありがとう。本選び」


「私の意見で大丈夫だったか分からないですけど」


「俺もいいと思ったから選んだんだ」


「ならよかったです」


 彩花は笑った。


「お祖父さん、喜んでくれるといいですね」


「ああ」


「あとマドレーヌ、今日中に食べてくださいね」


「分かった」


「クッキーみたいに一時間持ってなくていいですから」


「…………」


「お姉ちゃんから聞きました」


「水瀬先輩」


 悠真が小さく額へ手を当てた。


 彩花が声を立てずに笑う。


「じゃあ、また」


「ああ。また」


 一瞬だけ間が空く。


 彩花が先に付け加えた。


「日曜日、会えたら」


「うん」


 今度は「図書館で」を言わなかった。


 場所は二人とも分かっているからだった。


 車が走り出したあとも、彩花はしばらくその場にいた。


 黒い車が交差点を曲がって見えなくなる。


「……すごいなあ」


 小さく呟く。


 運転手が迎えに来る生活。


 自分には想像できない。


 桜華学園。


 九条家。


 生徒会。


 お祖父さんへの誕生日プレゼントに歴史書を選ぶ。


 図書館で会っているだけでは知らなかった悠真の生活が、ほんの少し見えた。


 けれど、不思議と話しにくくなった感じはしなかった。


(九条君は九条君だもんね)


 それで納得する。


 彩花は家へ向かって歩き出した。


 車内では、悠真が紙袋とマドレーヌを膝の上に置いていた。


「お知り合いでございますか?」


 運転手が前を向いたまま尋ねる。


「ああ。図書館で知り合った」


「そうでしたか」


 それ以上は聞かない。


 長く九条家に勤めている人間なので、その辺りの距離感は心得ている。


 悠真は窓の外を見る。


 彩花はもう見えない。


 今日会う予定はなかった。


 それでも会えた。


 図書館以外で話した。


 本を一緒に選んだ。


 学校のことも少し話した。


 そして、田辺というクラスメイトの名前を知った。


「…………」


 最後だけ、少し引っかかる。


 マドレーヌを見る。


 一つ。


 田辺は三つ。


(だから何なんだ)


 今度は自分で少し笑った。


 数の問題ではない。


 それくらいは分かる。


 では何が気になるのか。


 そこは、まだ分からない。


 ただし以前のように、考えていること自体を否定する気もなかった。


 家へ着くまでには少し時間がある。


 悠真はマドレーヌの袋を丁寧に鞄へ入れた。


 九条家へ到着すると、玄関ホールまでハクが迎えに来た。


 白い大きな体が悠真のところへ寄ってくる。


「ただいま」


 頭を撫でる。


 ハクの鼻が悠真の鞄へ近づいた。


「駄目だぞ」


 鼻がさらに近づく。


「これは駄目」


 ハクが見上げる。


「水瀬さんにもらったんだ」


 言ってから、自分で気づく。


 説明する必要はまったくなかった。


 ハクは当然そんな事情を知らない。


 尻尾だけがゆっくり動いている。


「……何でもない」


「兄様」


 階段の方から声がした。


 悠真が顔を上げる。


 琴葉が立っていた。


「いつからいた?」


「『これは駄目』あたりからです」


「そうか」


「水瀬さん?」


「…………」


「また何かいただいたのですか?」


「学校で配った残りのマドレーヌを一つ」


「なるほど」


 琴葉が階段を下りてくる。


「では兄様だけへの特別な贈り物ではないのですね」


「分かってる」


「そうですか」


「ああ」


「なら結構です」


 琴葉はハクの頭を撫でる。


「ハク、諦めなさい。兄様は一欠片もくださらないでしょうから」


「そもそも犬に人間用の菓子をやるな」


「兄様にも差し上げろとは言っていません」


「……そうだな」


 琴葉は兄の顔を見た。


「今日は機嫌がよろしいですね」


「そうか?」


「ええ」


 悠真は否定しなかった。


「駅前で偶然会った」


「水瀬さんと?」


「ああ」


「図書館ではなく?」


「本屋で」


「それは」


 琴葉が一瞬黙った。


 何かを言いかけ、やめる。


「何だ?」


「いえ。兄様が楽しそうなら何よりです」


「……気持ち悪いって言わないのか?」


「毎回同じことを言うのも芸がありませんので」


「芸だったのか」


「では、お祖父様の本は見つかりました?」


「ああ」


 紙袋を持ち上げる。


「水瀬さんに意見を聞いた」


「…………」


 琴葉が止まった。


「何だ?」


「お祖父様への贈り物を?」


「ああ」


「水瀬さんと選んだのですか?」


「正確には候補三冊を見てもらって、意見を聞いた」


「兄様」


「何だ?」


 琴葉は非常に穏やかな笑顔を作った。


「進行がところどころおかしいです」


「何の?」


「こちらの話です」


 そう言って階段を上がっていく。


 悠真には意味が分からなかった。


 その夜。


 彩花は自室のベッドへ座り、昨日買った本を読んでいた。


 半分ほどだったページは、もう終盤へ入っている。


 机の上には空になったマドレーヌの容器が置いてあった。


 残りの一つは帰宅後に紗月が食べた。


 ページをめくる。


 数行読む。


 ふと、今日書店で悠真と話したことを思い出す。


 お祖父さんへの本。


 書簡集。


 迎えの車。


 運転手から「悠真様」と呼ばれていたこと。


「……悠真様」


 小さく口にしてみる。


 似合わないわけではない。


 むしろ御曹司なら正しいのだろう。


 けれど自分の知っている彼には、「九条君」の方がしっくりくる。


(図書館で本読んでる九条君しか知らなかったからなあ)


 学校では生徒会役員。


 家では迎えの車が来る。


 祖父への誕生日プレゼントを真面目に選ぶ。


 知らなかった面が少し増えた。


 それが何となく面白かった。


 彩花は栞を指で触る。


(九条君と話すの、やっぱり楽しいな)


 今日はそれを、素直に認めた。


 だからといって、その先を考えることはなかった。


 楽しい人と話すのは楽しい。


 友達と話すのと同じだ。


 そこで、昨日自分が考えたことを思い出す。


(……友達、なのかな)


 まだ答えは出ない。


 けれど以前の「図書館で会う人」だけでは、少し足りなくなってきた気がする。


 図書館ではない場所でも会った。


 本を一緒に選んだ。


 自分の姉とも知り合った。


 それでも、連絡先すら知らない。


「変なの」


 彩花は小さく笑い、本へ視線を戻した。


 悠真も同じ頃、自室でマドレーヌを食べていた。


 一口。


 バターの香りが広がる。


 外側は少しだけ香ばしく、中は柔らかい。


「……美味しい」


 今度は誰かへ伝言を頼む必要はない。


 次に会ったら、自分で言う。


 日曜日。


 彩花も図書館へ行くと言っていた。


 何時かは知らない。


 約束もしていない。


 それでも、これまでとは少し違う。


 互いに相手が来る可能性を知ったうえで、同じ場所へ行く。


 それを待ち合わせと呼ぶには足りない。


 偶然だけで片づけるにも、少し足りなくなっていた。


 悠真はマドレーヌをもう一口食べる。


 田辺は三つ食べたらしい。


「…………」


 また浮かんだ。


 悠真は少し眉を寄せたあと、今度は自分で笑った。


「何なんだろうな、これ」


 答えはまだ出なかった。


 翌日の木曜日。


 昼休みの青葉高校では、大地が彩花の机の前へやって来た。


「水瀬」


「何?」


「昨日のマドレーヌ、美味かった」


「ありがとう」


「また作って」


「それ昨日も聞いた」


「大事なことだから二回言った」


「作ったらね」


「約束な」


「約束してないよ」


 彩花が笑う。


 周囲のクラスメイトも、いつものやり取りとして聞き流している。


 大地にとっても、彩花にとっても、それだけだった。


 恋愛の気配など一つもない。


 けれど、その場を知らない悠真の中では、「田辺君」という名前だけが小さく残っている。


 まだ嫉妬と呼ぶには本人の理解が追いついていない。


 そして彩花は、それを知る由もなかった。


 日曜日まで、あと三日。


 今度の再会は、これまでの五回とは少しだけ違うものになる。


 二人とも、相手が来るかもしれないと知っている。


 けれど、約束はしていない。


 連絡先も知らない。


 恋人はもちろん、友達という言葉さえまだ二人の間では確認されていない。


 それでも彩花の中では、「図書館で会う人」という呼び方だけでは少し説明しにくくなり始めていた。


 悠真の中では、もっと前から説明のつかないものが増え続けている。


 その違いを抱えたまま、次の日曜日は少しずつ近づいていた。

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